2014年07月26日

野馬追いー北郷の部(南相馬鹿島区) (撮影ポイントで撮った写真)ー草原と馬)


野馬追いー北郷の部(南相馬鹿島区)


(撮影ポイントで撮った写真)ー草原と馬)

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北郷(鹿島)副大将の家

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北海老村で見た旗がここに出ていた


夏菊や馬上凛々しく女武者
草原に藪萱草や馬の行く
馬馳せる兵(つわもの)どもが草いきれ
夏草や人馬奮闘相馬武士

草原に風のそよぎて馬の行くその旗鮮やか夏の日映えぬ
忘れらる馬も家臣や着飾りて練り歩くかないななきひびく
大将の真紅の母衣(ほろ)の夏日さし一段と赤く迫りすぎゆく
真夏日の黄金の兜にさし光り前へ前へと進む行列
家々の旗印映えて夏空に御神旗あがり馬いななきぬ

北郷の副大将の家に宇多郷(相馬市)が合流して明日は雲雀が原に相馬藩の武者が集結するそこからいい写真を撮ろうとして待っていた。あそで知っている人は写真をとるために待っていた。野馬追いは街中を通るのでなかなか絵になりにくい。
田んぼの中を先祖伝来の旗をなびたせて出る時、何か昔がよみがえる。
野馬追いは街中から出るのはごくわずかである。ほとんど農家からでる。
それは相馬藩は郷士であり農民だったからである。
そして500騎出るとすると多いように思えるが相馬藩の人口からすれば一パーセントにも満たないともなる。だから意外と地元でも野馬追いに出る人を知る人が少ないのである。


野馬追いは行列の前に家に旗がたったときからはじまっている。今回は北海老で旗がたったのを見た。その同じ旗印が行列にも出たし明日の雲雀が原の神旗争奪戦の予備演習の旗取りにも二つの同じ旗が出ていた。するとあれは北海老から出たものだということがわかる。馬はどこの村から出るのかわかりにくい、ほとんど旗見ただけではわからない。
今回は北海老で見たからわかった。ただ行列だけに参加したり旗取りには出ない家もあるからどこの村の旗なのかわかりにくいのだ。


撮影ポイントでとったがあそこは田んぼだったが原発事故で田畑を作らないので草原化したのである。何度も書いているようにこの辺は田畑が草原化してしまったのである。
ただその風景が野馬追いとか馬にはあっているのだ。
もともと原っぱで馬は放牧されていたからである。雲雀が原はそういう広大な馬の放牧場だったのである。十倍以上も広い放牧場だったのである。
だからこうした草原が原っぱに馬は放たれていたのである。
だから草原から吹いてくる風が涼しく馬も気持いいとかなる。
モンゴルの草原や平原に馬はあっているのだ。
今年は女武者が多かったみたいだ。夏菊が咲いて絵になっていた。
野馬追いはやはり馬の時代がよみがえるということがある。
馬がいなないたり糞でも汚れたりする。

今は一時的に競馬馬を借りるのが多いがそれでも馬がこの時用があり馬が人間と一体化してあった時代がよみがえる。馬は機械とは違うから人間と同じであり家臣にもなっていたそれは昨今のペントブームと同じである。動物も人間に飼われれば人間化するのでてある
ともかく野馬追いは意外といい写真がとれない、それは動いているし一年で一回したシャッターチャンスがないためだった。いくらいい写真を撮ろうとしてもそのチャンスが瞬時だからいい写真がとれないのである。
今回はねらいをつけてとったからいいのがとれた。
あそこで待っていればいいのがとれる。あういう場所は今はなかなかない。

明日は雲雀が原だけとここになると混んでいるしさらにいい写真をとるのがむずかしくなる。でもプログに出すとなると行かざるをえない、原町になるとどこでどう撮るかがわからなくなる。そして絶えず動いていて一回限りだからいい写真がとれないのである。
今回は撮影ポイントで待っていたらかとれたが原町ではうまくいかない。
デジカメだから数をとればいいのがとれるということはある。
ただやはりいい場所でねらっていることがいい写真をとるには必要である。
ともかく野馬追いの写真撮影は意外とむずかしいのだ。

 
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2014年07月27日

雲雀が原に集結した相馬野馬追いの戦国絵巻? (相馬野馬追いのいろいろな話)


雲雀が原に集結した相馬野馬追いの戦国絵巻?

(相馬野馬追いのいろいろな話)

ノウゼンや祭り男の燃えるかな

本陣をめがけて風に伝来の旗をなびかせ駆け上るかも
りりしくも本陣めがけ駆けのぼる兜の映えて旗印かな

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白鷺が先導しているようで格好いい
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これは鹿島(北郷)だけどこれも白鷺なんだろう(同系統なのか)

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北郷勢の行列

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北海老の旗

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□の旗に注意

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同系統の旗

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イノシシを先頭にした行列

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中村神社の神輿が本陣を目指し登る

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放れ馬 が疾走する

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最初浪江の大堀で相馬焼を露天で売っていた人がいた。その人に聞いたら白河で相馬焼をの窯をはじめているという。三軒ではじめたという。もう帰れないと言っていたから
その三軒は白河でこれから生活するようになる。浪江の大堀辺りは放射線量が高いから
帰らないと決めたし他の人も帰らないとなると浪江の大堀の相馬焼は消える。
あそこは高瀬川渓谷もあり景勝の地だったから残念である。
それでも相馬流山の民謡の踊りをしたのは今年は標葉(しねは)郷の婦人部であり浪江の人たちだった。浪江の人は避難してばらばらになっているのだけど何か一つになり練習して晴れの舞台で勢ぞろいして踊りを疲労した。相馬流山は軍歌である。

弟が甲冑競馬に出てきるという人が今年は危ない落馬するかもしれないと言って見守っていた。というのは馬を借りて今回は出場したからだという。
馬というのはやはり人馬一体となるまではなれるのには相当時間かかる。
馬は生き物でありその生き物と通じ合うにはやはり人間と同じように合わせる必要が出てくるから時間がかかるのである。馬は家臣と同じなのである。

今日出会った人で一番興味深かったのが旗をたてて走る甲冑競馬は旗が風で走りにくいだろうと言ったらそうではないかえって走りやすいのだという。
ええ、そうなのと不思議だったが理由を聞くと風を受けて人間も浮くようになるので馬は軽くなり走れるという。馬にとっては風で騎馬武者も浮き上がるので走るのに楽だというその人は若い時甲冑競馬に出ていたから経験で知っていたのである。
それは自転車でも追い風になると早く軽く走れる。また板をもっていたとき風であおられた経験がある。その時浮き上がるほどの風は力を持つ、それは船の帆の働きとにているのだ。ただみんな走りにくいと見ているだろう。
こういうことも馬のことが良くわからなくなっているからなのだ。
馬に乗るということをもう経験している人はまれだからそうなる。
今回も落馬した人が三人ほどいた。
救急車も三回くらい出動した。馬は結構危険であり乗る人も近寄る人も危険である。
馬はかなり野馬追いでは興奮している。だから放れ馬になり乗り手がいない馬が疾走していた。

今回は帰りに南相馬市博物館によったが北海道の伊達市で見つかった屏風図は興味深い。あれだけのものが今頃発見されたというのも不思議である。伊達市は亘理から北海道に移住したので伊達市になった。その伊達市から野馬追いの屏風絵が発見されるというのも不思議である。北海道に武士の末裔は多く移住した。伊達市はそれだけ一団となって移住したから伊達市になった。もともと相馬藩と伊達藩は争ったといっても戦国時代が終わるとかえって親交が深くなった。地理的にも隣り合っているのだから不思議ではない。
この屏風絵などが残っているのは江戸時代中期に描かれたとありその頃から野馬追いは知られていて伊達藩の人が通って描いたのである。

ボランティアで説明する人がいて野馬追いは軍事訓練とか戦いのためにあるのではなく、野馬をまさに追う神事だったという。それが今回の屏風絵でわかり説明していた。
野馬を追うために戦陣のように陣容をたてて放牧した馬を追いこんでいる。
その馬を転がして焼き印を押して神社に奉納するのである。
それを見ている人がいるが柵の隙間からであり神事だから全部を見せなかったという説明があった。


ただし日本には去勢技術は渡来しなかったため、自然増殖のままではオスウマが増加しすぎ、発情期のオス同士の
闘争が激化して群れが不安定となる。こうした牧の管理上の便宜より、野馬追いで若いオスを
捕獲し、これを軍馬に充てるというシステムが採用されていた(福田 1995:119-120)。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/13038/1/AN00041730_v59_p15-28.pdf

つまり野馬追いは神事であり今のように見せ物として行われていたものではないのだ。
だから旗を見せるなどということもない、戦争の訓練というものでもない、放牧した馬を追い込み焼き印を押して神に献げるのが目的だったのである。
なんか戦国時代の絵巻物として盛んに相馬武士の勇壮な姿を宣伝するがそれも違っていたそれは見せ物となったときそういうふうに特別誇張して宣伝されるようになったのである自分も戦国時代があり戦争のための訓練として野馬追いがあると思ったのである。


京都市登録無形民俗文化財にも登録されている賀茂競馬(かもくらべうま)は、天下泰平と五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する行事。平安時代、宮中武徳殿で5月5日の節会に催されていたものが起源で、その様子は『徒然草』などにも記されている。
 現在では左方右方に分かれた2頭ずつで6番の競馬が行われ、2頭の馬が古式に則り、境内の馬場で速さを競い合う。左方の勝ち数が多い年は豊作とされている。


くらべうまであるというときもこれは馬に乗るにしても流派がありその流派の披露だったという説を言っている。2頭の馬が古式にのっとりとはそういうふうな乗馬の姿を披露していたのかもしれない。
ともかく歴史には本当に誤解が多い。そんなに戦争ばかりなかったけど面白いから戦争に注目する。人間はそんなに殺し合うことなどしたくない。でも歴史でも何でも自分に火の粉がふりかからない限り殺し合いでも面白いとなるのが人間である。
他人の不孝がテレビでドラマのように見ているのもそのためである。
相馬野馬追いとなると戦国絵巻の再現だとしきりに地元でも宣伝しているがそれは現代になると観光化してドラルのように見せるからそうなるのである。
実際は伊達と相馬は大規模な戦争はしていないのである。
自分自身にしても戦国時代の軍事訓練だとばかり洗脳されてきた。
伊達と戦うためだと詩にもしたがそれもそうした現代になりかえって誇張されたものが真実だと思うようになっているからなのだ。

ただ放牧された馬を戦陣を組んで追うこと自体が戦争の訓練にも通じていたのである。
モンゴルなどは別に戦争しなくても遊牧民でありその生活そのものが戦争になっても別に訓練しなくてもそのまま移動すれば戦争することができたのである。
遊牧民は馬でも羊でもそうした動物を集団でかいならし移動させる。それは何かその生活自体が戦争の準備だという側面があり戦争に強い集団が自ずと形成されていたのである。
野馬追いで気になるのはやはり旗印である。今回はどういうわけか鯰の旗印が気になったどうして鯰の旗印があるのだろうとなる。野馬追いには旗印が本当に謎になるのだ。
なぜあんなにいろいろな旗印があるのだろうかとなる。
その解明はほとんど不可能である。由来がわかる旗印自体が極めてまれなのである。


鯰の旗印は二つあり帰り馬で見たがデジカメの電池が切れてとれなかった。
どこの村の旗印なのかわからない、どうして鯰になったのかも不思議だとなる。
いづれにしろやはり野馬追いで雲雀が原に人が集まると地元の人も集まりそこで情報が集まる。あれが弟だとか自分も前は甲冑競馬にでていたとか生々しい話しが直接聞けたりする。そこに祭りの意義がある。なぜ祭りに魅了されるのか?
祭りに血が湧くのが日本人である。祭りには何か歴史でも文化でも何かを血肉化したものがあり理屈ではなくて日本人の血が沸かせるものがある。それでフランス人が日本の祭りを見て歩いたというのは正解だった。祭りに日本人の何かが結実しているのである。
だから祭りで死ぬ人がいてもでる。金がかかってもでる。今日も落馬した人を三人見た。野馬追いも一面危険なのである。救急車が三回くらい出動した。


それでも祭りには何かそういう理屈とか危険を越えても参加したいものが働くのである。
見る方にしても祭りは血が踊るということがある。見るだけでなくプログでも伝えようとして見るのはただ見ているのとは違う。伝えようとする時、明らかに祭りに参加しているのである。野馬追いは写真好きな人が相当来ていた。雲雀が原内に入れる許可を個人でとっていたひと150人とかいたし報道陣をあわせると300人以上いる
この許可証は5月ころにとるものでなかなかとれないという。
それだけ写真をとるのに熱心な人がいるのが野馬追いなのである。

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2014年07月29日

野馬追いの写真の絵画化


野馬追いの写真の絵画化

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野馬追いー俳句十句 (野馬追いの感想ー祭りには日本人の血が騒ぐ)


野馬追いー俳句十句

(野馬追いの感想ー祭りには日本人の血が騒ぐ)

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若衆の家紋鮮やか陣羽織
夏菊や馬上凛々しく女武者
草原に藪萱草や馬の行く
旗指し物二頭そろいて風を切る
大将や真夏日さして赤き母衣(ほろ)
馬馳せる兵(つわもの)どもが草いきれ
夏草や人馬奮闘相馬武士
鬼百合や兜の角に引き締まる
ノウゼンや男祭りに燃えるかな
ノウゼンや後続の絶えぬ旗の列

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この句になった写真や絵を出したからどれかにあてはまる。

野馬追いではやはり伝統を意識する。今は侍など別に特別なものとして扱われないし侍の家の出がどうのこうのも話題にならない。ただ野馬追いの時は話題になる。
家紋つきの陣羽織を若い者が着れば家を意識する。野馬追いは何らかで家を意識する。
旗指物でも侍だった家に受け継がれたものだからである。
だからどこの家に野馬追いの旗がたち行列に参加していまか気になる。
今回は北海老に旗がたったのを見た。その旗をたどってゆくと鹿島区の行列に参加して
予備演習の神旗争奪戦にもでていた。それが今度は雲雀が原の神旗争奪戦にも出ていたのである。あそこでは屋形とか海老の人が集まり訓練していたみたいだ。

今回は写真でも田んぼではない草原をバックにしてとれた。そもそも野馬追いは雲雀が原の十倍の広さで放牧した野馬を追う行事なのだから草原にあっていたのである。
草原を疾走する野馬がいたのである。今はそうした放牧された馬となる北海道の競走馬を育てる所くらいしかないだろう。北海道には草原があるからそれが見れる。
馬が活躍するのはモンゴルのような草原であった。
ただ不思議なのはなぜ中世にはこうした牧が日本でも全国的にあったのかということである。その後、そうした牧の原は田畑に変えられたからである。中世の農家、鎌倉時代ではそうして広い牧に馬を飼っていたのである。それは農耕馬ではない、戦闘用の馬なのである。日本全国にそうした広い原で馬が飼われていた。
それが江戸時代になりほとんど田畑化してなくなった。
おそらく人口が増えてゆくと田畑の方が必要になり戦闘用の馬はいらなくなったのだろう人間は戦争ばかりしていないからである。

戦闘用の馬は農耕馬になっていった。農家には必ず馬を飼っていて農耕馬としてあった。戦闘用の馬は江戸時代は平和な時代から必要ないのである。
ただ相馬野馬追いは中世からの野馬追いの儀式が継続されていたのである。
それは今盛んに戦国絵巻の再現だとか出陣の法螺貝だとか言ってまるで戦争ふるような感覚になるが実際は違っていた。
法螺貝だって馬を追うために鳴らしていたかのかもしれない、野馬追い行列は戦争に出陣する儀式のようになっている。
それは結局観光化した結果、戦国絵巻ということを宣伝して人集めする羅うになったからである。
野馬追いは江戸時代でも神事であり地味なところもあった。
だから一般の人は柵の間からこっそりと見せられていたのである。
そもそも江戸時代は300年戦争がない平和な時代なのだからそんなに対外的に軍隊を見せる必要がないのだ。伊達氏と戦うわけでもない、だから出陣式とも違うのである。
示威行進とも違っていた。戦国時代なら示威行進があった。それも終わったらそんな示威行進をする必要もないのである。

いづれにしろ勇壮な戦国絵巻だというのは明治以降に作られた見せ物と化した結果、ドラマのように見せるようになったのである。
歴史の真実は本当にわからない、ドラマや小説を歴史の真実だと思うようになったのは現代である。映画化すると映画が歴史の事実だと思って見ている。
虚飾が虚構でも歴史の真実はわかりにくいから事実だと思ってしまうのである。
坂本竜馬が有名になったのは司馬遼太郎の小説だったのである。それも真実はわからないのである。

野馬追いに参加したのは城勤めの人が中心であり郷士などは自由に雲雀が原に集まってきたという。中心は殿様がいる中村城下の侍が中心だった。そのことも変わったことである今は中村城下から街から野馬追いに出る人はほとんどいない、城勤めの侍は明治時代になるといなくなったからである。その代わりに農家の郷士だった人たちが主役になっていった。その変化も大きい、なぜなら中心となるべきものがいなくなり周辺に残った郷士の祭りになったということである。
今では殿様自体が地元に住んでいないし野馬追いの時だけ呼んでくるのである。
野馬追い祭りがあるからまだ殿様として残されているともなる。
他はほとんど殿様は消えたからである。

いづれにしろ祭りは何でもそうだが男が燃えるということがある。祭りに命をかけるということも実際に他で起きている。それだけ熱くするものがあるのが日本の祭りなのである野馬追いに出る人は限られていてもなぜ金をかけても出るのかとなると理屈ではない、侍の血が騒ぐとかなる。普通はそんなことを感じなくても祭りには感じるとなる。
祭りの時にだけ感じる特別な感情があるということである。

ただ時代が変わったのでそれも消失してゆくことがある。例えば中村神社の神輿を担いで本陣山に上るのは祭りのハイライトでるある。でもその神輿をかつぐのは氏子でもはないどこかの会社か工場の人たちだったのである。会社の人に頼まない限り神輿をすらかつげないのである。なぜならあれをかついで上るのはそれなりの体力のある若い人が必要になるからであ。そういう人が氏子として集められなくなっているからである。
だから過疎化で祭りが絶えるという時、祭りは若者が受け継ぐものでありその若者がいなくなれば絶えるということになるからだ。
現代はそれだけ地域のつながりも希薄化しているからそうなる。

野馬追いの祭りは真夏にふさわしいのだろう。祭りというとやはり夏なのだろう。
あの大将の赤い母衣が日がさして一段と赤くなっていたのである。
あの母衣は戦闘の時は中心にあり目立つ必要があった。だから赤がふさわしかった。
ただ紫のもある。大将の目印としては赤が目立つから赤にした。
真夏の光にひるがえる旗や映える兜がにあう。今夏は夏の雲入道雲は出なかった。
いつでも入道雲が出る頃に野馬追い祭りがある。梅雨明けを宣言する祭りでもある。
野馬追いは何か写真でも絵になりやすい。生きている絵巻物だとは言える。


 
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2014年07月30日

夕蝉(墓地の俳句二句)


夕蝉(墓地の俳句二句)

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夕蝉や小池の奥の古き墓
深野の墓地広々と夏の暮

仮設住宅があり小池原とあった。そこに墓地があり古い墓があった。これは開拓に入った土地かと思ったが江戸時代の墓だった。まず墓は時代をみる。そこに江戸時代のがあれ歴史的に価値がある。その墓地は古く江戸時代から住んでいたことがわかる。
「文化」「文政」「嘉永」とあったからここが意外と古い場所だった。
何か小池の奥であり開拓に入ったような場所に見えたからだ。

次ぎにその道を高速道路の方にでると深野になる。深野(ふこうの)は台地がありそこが意外と広い。あそこはあとから開拓された土地だろう。
そこに墓地があり広かった。あそこに墓地があるということも意外だった。
「天保」と記された墓があったからこれも古い、ただ小池原よりは新しい。
だから小池原のあの墓地が古いから意外だった。
郷土史で大事なのが村の新旧である。そこがいつ開かれていつ人が住みはじめたかがポイントなのである。それが墓地を見ると具体的になるから墓地をみることが大事なのである
このことは郷土史研究につづきを書いてみよう。資料と合わせる必要があらだ。
ともかく暑いので家にいられない、クーラーないから特にそうである。
それで外を歩いていた方が涼しいから夕方に歩いている。
今回は意外な発見があった。たいがい見ているが墓地は意外隠され所にあるからわかりずらいのである。



 


 

2014年07月31日

文禄二年 総士禄高調の謎 (原町は深野や大原が先に開墾された)



 文禄二年 総士禄高調の謎


(原町は深野や大原が先に開墾された)


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相馬市史6参考

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新地地ある文禄の碑と関係あるのか

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大原が多い

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文化と記されている

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立派な石がここには多いのはなぜ?


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深野(ふこうの)の墓地に天保と記されている

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野馬土手に囲まれていた周辺部に士禄が記されている





原町区

大原 15
かや浜  12
高平 8
牛越 8
太田 7
高倉 7
かうの草 (深野ーふこうの)5
しふさ(渋佐) 2
牛来 1

北郷 5
北郷 かしまに 1
小池
山下



文禄二年といったら1593年でありこの辺では一番古い。こういう時代の記録だから貴重である。文目で計算しているがここではその土地に在住した農民とか侍、郷士など士禄である。原町区と鹿島区(北郷)だけをとりあげたがその地域が非常に限られている。
北郷(鹿島区)だとかしま(村)と小池しかでていない、これはどはういうことなのか?
文禄時代にはそこにまだ士禄を調べる人たちが住んでいなかったのか?
小高やしねは(浪江)もでている。小高はもっと地域がでている。小高は相馬氏の最初の城があったところだからむしろ北郷などより鹿島より古い歴史をもっている。相馬氏関連としてはそうである。
ここで不思議なのは大原が一番士禄にのっている人が多かったことである。今なら大原ははずれている山側にある。そしてかや浜も多い、それはなぜなのか?
これは今の中心地域はもともと原っぱでありあとで野馬追いの馬の放牧場になった。
早くから開拓されたのは雲雀が原から放牧場になった広い範囲がありその周辺地域が先に開発された。だから大原はその牧から相当離れている。
大原に近接するかうの草(深野ーふこうの)もそうである。高倉も山側であり離れている。今の原町の中心部は原っぱでありあとから開発された地域である。
そこは宿場町として発展したのであり田畑にした地域ではない。原っぱの中に宿場町が生れたのである。

ただなぜかや浜が意外と多いのか、あそこは今回津波で壊滅したけど高台の方は残った。それでも被害があった、それでもかや浜は早くから開拓されていた。
だから慶長津波の来る前からかや浜は開拓されていて村を形成していたのである。
ただ津波で壊滅した低地はあとから開拓された。
文禄時代になるとまだ相馬氏がこの地に勢力をもって支配していたとはならない、
小高城があり村上に移り牛越に城を移し中村城に移ったがこれらは慶長年間であり文禄ではないからだ。文禄になれば相馬藩政記でも記録にないことが多いだろう。

だから北郷という名は小高城があったとき、小高から北にある郷として名付けられた。
小高に相馬氏の最初の城があったのだから小高が古いのである。
太田神社も基点となった所である。そこから北だから北郷になった。
その北郷はただ北郷となっていてかしまと小池と山下しか地名がでていないのだ。
他はまだ相馬氏の士禄にはないということは支配するものとしてなかった。
相馬氏の士禄を与えるものが侍が住んでいなかったのかとなる。
小高は地名がでているからだ。
そしてなぜかしまと小池だけがでているのかということなのだ。
屋形とか海老とか横手も浮田もでていないのだ。
小池が意外と先に相馬氏の支配下にあり開拓されたとなる。
その理由の推測として中世の館(たち)が相馬藩内に38もありその館の支配下にあったものはまだ相馬氏に服属していないから士禄が与えられなかった。
特に北郷は小高よりも原町よりも中村よりも相馬氏の支配下に入るのが遅かった。
田中城がある田中領分とあるからそこは文禄時代に相馬氏の領内になったのだろう。

今回なぜこの記録に注目したかというと小池原の墓地を見たら文化、文政とか古い墓があったからだ。あんなところにどうしてあるのだろうと不思議に思った。
そこには家というのもまばらであり今でも原っぱなのである。なぜあんなところに古い墓があるのか?それもそれなりの石を使っているし戒名も明確に刻まれている。
橲原(じさばら)と栃窪とかこうした古い墓地があり今は使われていないものがある。
でも粗末な石でありいつの時代かもわからない、橲原(じさばら)の今は使われない墓地は明治時代であり開墾に入った人たちの無名の人の墓である。だから石も粗末で小さいのである。戒名もはっきりしないのである。戒名も今でもそうだけどつけてもらうにはそれなりの財力がないとできない。
だから小池原の墓地は不思議だと思った。あそこは墓地でも捨てられた墓地であり後がつづいていない、たいがい古い墓地でも必ず今の人の墓が継続して作られているのが多いからである。なんらかでその子孫が絶えたのかとなる。そもそもあそこには家がまばらでありそれだけの墓地を作る村があったとは思えないのである。
だからどういうわけであそこに古い墓地があるのが謎である。
推測としてはむしろ小池より深野(この草)とか大原より開墾に入った人たちかもしれない地理的に連続していて大原と深野は文禄時代から開墾されて士禄が与えられていた人たちが住んでいたからだ。

郷土史研究で大事なのは村の新旧なのである。古いと思っていたところが新しいこともあり新しいと思っていた土地が古くから人が住んで開墾されていたとかある。
今回の小池原の墓地は新しいと思ったが古いということでもわかる。
深野(ふこうの)も大原も原町の中心部より古い、かや浜も古かったのである。
深野の台地に広い墓地があり岡田氏などの墓があった。天保と記された墓もあったが
天保よりも文化文政の小池の墓は古いのである。
そして深野の不思議は野馬追いに21騎が出ていて旗印が出ていたことである。
そんなに深野に野馬追いに出る人がいたのか?侍がいたのかとなる。
何か特別の事情があったのかとなる。
雲雀が原で出会った人も甲冑競馬に出ていたという深野の人だった。
いづれにしろ郷土史が墓地をみる必要があるというとき墓地は具体的だから郷土史を実感しやすいのである。

タグ:文禄
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花の抽象画(flower abstract)(ラベンダー、ノウゼン、立葵)


 
花の抽象画(flower abstract)(ラベンダー、ノウゼン、立葵)


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ラベンダー


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立葵


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のうぜんかずら


万華鏡は花になりやすい、ソフト的にそうなりやすい
ラベンダーは花の匂いがなんともいい
立葵は柱のように真っ直ぐ伸びる
のうぜんかずらの紋様もできた


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