2014年07月18日

十津川村の教訓ー移住する意志と覚悟と決意があった (原発事故周辺は補償金だけをもらうことしかないので復興はできない)



十津川村の教訓ー移住する意志と覚悟と決意があった

(原発事故周辺は補償金だけをもらうことしかないので復興はできない)

●少子高齢化で復興はできない


全国知事会が「少子化非常事態宣言」、止まらぬ都市への流出…小さな市町村の自助努力も限界、「日本破滅」と強い危機感

人口1万人割った夕張だって都から行った若い市長ががんばって老人説得して集合住宅に集約してる。
それでも一苦労だ。もっと大きい自治体じゃ話まとまらないよ

自治体は住民のためにあるべきで
自治体存続のために住民を集めるのは本末転倒である
http://peace.2ch.net/newsplus/#10

原発事故周辺ではこれが極端なものとして起きてきている。すでに65歳以上がほぼ30パーセントとかなっている。自治体が維持できなくなる。
そもそも自治体とは何かというとそれも普通は関心がない
故郷と同じく自治体も市町村はあるものだったのである。
それが原発事故や津波の被災で市町村自体が消失するということが現実化したのである。津波や原発事故周辺ではもともとあった問題が極端なものとして先取りして現実化したのである。

老人にしても65歳が30パーセントにもなるとその世話することが人材でも足りなくなる。この辺では厚寿苑という立派な老人施設を作ったけれど介護士が集まらず外から来た人で補っている。ほとんど外から来た人たちである。建築関係でもほとんど外から来た人でまかなっている。外からの人の助けがなくては成り立たないのである。
老人を集合住宅に入れようとするのはそこでまとめると世話するのが楽になるからだ。
車で一軒一軒回ると手間になるからである。
この辺では津波の被害や原発事故で期せずして街に人が集まったのである。

だから住宅地に新しい家が建ちそこが新しい街のようになっている。
海の方の村は三つくらいは完全に消失した。
それで街内の自分の墓地のある隣に復興住宅の団地ができた。これも想像もつかないことだった。なぜなら墓地あるところは街内でも淋しい場所だったからである。
でも田舎では広い庭付きの家に住んでいたのだからあういう団地にはなじめないかもしれない。でも老人なら世話するのにはまとまった方が楽なのである。
自分も団地とか集団生活になる施設に入るのはいやである。
でも一人になるとそうはいかなくなるかもしれない、やはり一人は家を維持することだけでも苦労になるからだ。

●住民主導でない市町村は維持できない
自治体がそもそも誰のためにあるのかとなれば住民のためである。でもなんかこれまでは自治体は公務員のためにあると批判があった。そのことが隠されていたのだがこうして自治体が維持できなくなるような状態になり隠すことができず表面化したのである。
原発で人が住まなくなった町村では浪江町でも飯館村でも何かそこで維持しようとしているのは自治体に勤めている公務員であり住民はそれほど自治体の維持に熱心ではないかもしれない、もちろん故郷に還りたいという人は老人には多い。
でも住民主導で街作りする意欲は減退している。公務員は自治体がつぶれれば働く場所も奪われるのだから必死だとなる。
つまり公務員のために自治体があるのかとなる。

飯館村でもあれだけ放射線量が高いのだから住みたくないという人が多いのもわかる。
若い人は流出してゆくのもわかる。でも自治体を維持しようとするのは公務員であり
その人たちが率先して村に住民を住まわせることを指導しているのも住民主体にはなっていない。
それは飯館村では特に言われてきた。なぜあれだけ放射線量が高いのに村長などが避難させなかったのかと強い批判があった。それは村長をはじめとした公務員が自治体を村を維持させるために避難させなかったというのもそのためである。
住民のための村ではなく公務員のための自治体維持が優先されたとなる。

自治体は住民のためにあるべきで
自治体存続のために住民を集めるのは本末転倒である

まさに自治体存続のために少子高齢化で村が消滅しようとしているとき、何とか人を集めねばならないとするのは自治体に勤める公務員を維持させるためだとなる。
なぜなら人が住まなくなったら自治体も町も村も消滅するからである。
そういうことが原発事故周辺や津波被害地では起きている。
もはや市町村を存続できないという危機である。
つまり原発事故で避難して人が住まなくなった町や村の再建は自治体を維持しようとする公務員の発想では復興できないのである。
自治体を維持するのではなく住民かそこに住み復興させる意志や意欲がないかぎり復興はできないのである。
その復興の主体となる若い世代が流出しているから復興できないと言った。

●十津川村集団移住の覚悟とはあまりにも違う原発避難民


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十津川村集団移住後に移住民が誓い合った「七箇条の誓約書」


移住住民は、故郷を去り、親や兄弟と別れ、絶海の地に移住してきて、移住者同士しか頼れるものはいないのだから、これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。
http://shumpeishimada.hatenablog.com/entry/20110507/1304739266


これを読めばひしひしとその時の危機感が伝わってくる。その困難に際して人々がいかに一致団結したかわかる。その覚悟と決意の強さが復興の原動力だったのである。
人間はこういう危機のときでも困難のときでもこうした覚悟と決意があれば力を発揮するものだと思った。
だから避難民はここはかなり参考になると思う。

しかし原発避難民や津波の被災者でもこれだけの危機に直面しても全くこの正反対であり何の覚悟も決意も団結もないのである。ただあるのは補償金をできるだけ多くもらって
楽することしか考えていない、何か困難があっても窮乏があってもそれを耐えて団結しようとすることもない、補償金もらってギャンブルだとか毎日バチンコに明け暮れているのはなんなのだろうとなる。東京や仙台に行ってまで遊んでいる。そのことは外部からも批判される。

なぜなら

古来年貢赦免地とされ、勤王の誉れ高く、その武勇で大藩からも一目おかれる存在であった十津川郷士の誇りと、開拓事業を成功させ北海道に新しい十津川郷をりっぱに築きあげ、旧郷に残った仲間と多大な支援をくれた政府の期待に応えなければという決意と覚悟が伝わってきました。

仲間と多大な支援をくれた政府の期待に応えなければという決意と覚悟が伝わってきました。ここでは外部のボランティアなどではない、仲間だから同郷の人が助け合った。
今原発事故周辺では外部の助けがあってもそれは当然でありもっと補償金をよこせとごほねるだけだと外から見られる。
それがイワキ辺りで二万人も避難民が流れ込んだとき、その人たちは補償金で潤い飲み屋で札びらを切っているというからあまりにも十津川村の危機とは違いすぎるのだ。
これは当時の社会情勢とは違うからは参考にならないとも言われるかもしれないが
こういう覚悟と決意が根底にない限り復興などないだろう。

ただ公務員を維持するための自治体主導では復興などできないのである。
結局十津川村では村人が一体となり困難に対処して立ち向かうことができたから移住できたのである。
それが原発事故の避難民は補償金の取り合いでありいかに補償金を多くもらかで団結しているだけなのである。
だからすでに復興はできない、町村はコミニュティは解体しているのである。
一億円もらって広域社会だからどこに住んでもいいのである。放射能汚染した故郷にこだわるより一億円もらって新しい土地で出直した方がいいとなってしまっているのである。十津川村ではその時代は一つの村として自給自足で団結がありそれができた。
今は時代が変わり村としての団結はない、みんな会社員であり会社員として生きてきた。だから町とか村とかの団結はないからコミニュティは簡単に崩壊したのである。

「もう町には帰れねえよ、村にもな、それより補償金をできるだけ多くもらうことだよ
その金で他の土地でやり直すことだよ、もう若い人は帰らねえんだから村も町もやっていけねえよ、だから金で割り切るほかないんだよ」
「それもそうかもな、先祖の墓がどうだこうだとか言ってももう帰れねえよ、帰ってもジジババだけでどうするんだよ、家の跡継ぎも墓の跡継ぎもいなくなるんだよ、今だって空家が多いだろう、全国でも800万軒というから凄いよ」
「復興なんでできねえよ、補償金もらってあとは町や村でも故郷でも関係ねえよ、
それまでは町や村の一員だけどあとはどこでも住みたい所に住めばいいんだよ」
「イワキでも二本松でもそこに町や村の人を集めて新しい街を作ろうとしているけど
それも無理だよ、何のためにそこに集まるんだ、会社員だったら会社に勤めるけど会社があるから集まれる、みんな集まって農業するわけでもない、そこで一体何のために集まるんだよ、補償金もらったらそれぞれの好きな所に住めばいいんだよ」

こういうふうになってしまうだろう。もともと広域社会になったとき、金が力をもつようになったとき、人々の連帯は村でもなくなっていたのである。農家だって専業農家は少ないしあとは会社員だった。生活するには会社の方が大事になっていた。
だから故郷にこだわる必要もなくなっていた。農業だったら土地にこだわるけど会社員はこだわらない。会社のあるところに勤めればいいだけになる。
そういう社会の変化がコミニュティを簡単に破壊してしまったのである。

広域社会はすべてが悪いというわけではない、ただ人間が村でまとまり生活していた自給自足社会とはあまりにも違っている。外国からでもモノは入ってくる。
そのモノは金さえあれば買える、嫁さえ金で外国からも買うことにもなる。
広域社会では外からモノが入るから小さな村のような共同体にこだわる必要はないのである。その代償として人間のつながりはなくなっていたのである。
十津川村のように一致団結して困難に対処することはできなくなっていた。
それを象徴するのが一億円やるからどこにでも住んで下さいと言われるとみんな外に出て行ってしまうことでもわかる。

過疎化した村が不便だから若い人が流出しているのに人を自治体で呼び込もうとしてもできない、広域社会は便利なところに住めれば住むという社会なのである。
広域にグローバルにでも自由に住んでいい、その時、金が大きな力をもつようになる。
金さえあればどこでも豊かな生活ができるという社会だからである。
もともとそういう社会になっていたから危機のさいにコミニュティでも簡単に崩壊したのである。

posted by 老鶯 at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年07月19日

抽象画abstract(flowers)


抽象画(花)

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これもなんかわからないけど抽象画である。
紋様の芸術なのか
その元になったのはインターネットにいくらでもある
ただその原画は何かはもうわからないのである。

2014年07月20日

ラベンダーの香りは一番神秘的(詩) (田舎はその地形や自然の多様性があって田舎)



ラベンダーの香りは一番神秘的(詩)

(田舎はその地形や自然の多様性があって田舎)

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ひぐらしや屋形の方にひびくかな

ラベンダーの香りのよしもこの道に夕べ我がまた来たりて去りぬ

 この香りは、殺菌、消炎、
 鎮静効果のある「酢酸リナリル」
 などを含んでいる。
 線香の香りつけにも使われる。

花言葉は「繊細、優美」

ここの三行詩は面白い、短歌にするとめんどうになるけど
簡単に日常の口語で気楽に書くのも現代的である。
インターネットの面白さは簡単に何でも発表できることである
詩は簡単に出せないし読まれないからそうした才能も埋もれていたのである
まず賞でもとらないかぎり誰も注目しないからである。
ここでもラベンダーは夕暮れを詩にしている
詩でも何か一つくらいはいい詩が書いているのも不思議である。
そういう詩は今までは見つけられなかったのである。
ここには女性的な感性があり岩の詩がありこれも一つの女性側からの見方だった


ラベンダーの香り

ラベンダーのその薄紫色
それは夏の夕暮れの色
そのほのかな匂いは
そこはかとなく流れる
ここを知りそれゆえにまた来る
田舎にとりだてて見るものはいない
その花は道の辺の畑に植えられた花
かぼちゃの花にラベンダーの花
それも田舎では調和している
ラベンダーは夕暮れの色
ラベンダーは憂愁の貴婦人の花や
何かひかえめに奥にすまい
古い調度品のようにある



鎮静効果のある「酢酸リナリル」などを含んでいる。

ラベンダーの香りは一番花では不思議である。香りのある花だったら確かに他にも沈丁花とかある。でもこの花の香りは何か神秘的である。その薄紫の色にもにあい夕暮れにあう花である。花はたいがい見て楽しむものである。香りで印象に残るのはまれである。
薔薇にはいろいろな香りがあるから香水がヨーロッバでは発達した。
ただ花の世界も今はグローバルになったから全部を知ることはできない。
鎮静効果があるというのは本当である。香りが体や心にも影響する
香りに日本人は鈍感である。ラベンダーは何かの病に使えるとかいことである。

確かにラベンダーは富良野とか美瑛で有名である。一面に咲いているから観光客がおしよせる。でもラベンダーは別にどこにでもあり楽しむことができるものである。
詩とか芸術は遠くに行けばあるというものではない、近くに田舎だったらどこにでもあるただ結局その人が発見していないだけなのである。
相馬藩内だけでもいかに地形が複雑であり多様な自然があったかを今ふりかえる。
海から山へと複雑な地形の中に暮らしがあった。
だからこうした多様な中で生きることは実際はあきることがない
田舎などつまらない、東京がいいとか言うのがわからない。
もちろん田舎の悪い点をあげればきりがないしそうした田園風景があっても姑息な人間関係で苦しんでいるのが田舎である。

ただ限界集落のことが問題になっているけど現代だとそうした集落を維持するにはイフンラでも街の中心部より180倍ものコストがかかるとかそういうために限界集落はいらないとなったのである。別に自給自足している昔の村だったらそんなことは言われないのである。そしてそうした多様な自然の中に溶け込んで暮らしていた村がなくなるとき、また多様な人間の営みも消える。
その時コンパクトシティだとか言っても一様に画一化した都会の生活になるだろう。
そうなると田舎の個性は失われる。
インターネットでは田舎からの発信が容易になった。だから郷土史関係が面白い。
そこには発見されない田舎の多様な暮らしが語れるようになった。
インターネットで田舎の魅力が再発見される時代にもなっているのだ。

ただどうしても田舎が田畑がなくなりソーラバネルとか風力発電とか会社や工場だけになったらそこが田舎なのかという疑問がでてくる。そういうものが必要でも基本的にはそのべースとなるものは田畑であり自然と密接に関係している生活があって田舎なのである。
ともかく田舎を近くでも語ればきりがなくなる。そういうことをプログで発信してきた。インターネットでいいのは「ラベンダー」というキーワードからその世界が広がってゆくことである。普通だったら富良野とか美瑛で終わっている。
でもラベンダーの世界は別にそこだけにあるのではないのだ。
屋形の方にひぐらしがかなり多くなきはじめた。屋形の辺りは丘があり森がありそれが街からも近い、それで北海老のニコニコ堂という納屋を改造した喫茶店は不思議だと感じた。隠された秘密の喫茶店のようになっていたのである。

相馬でも原町市とか鹿島と相馬市でもそれぞれ違った個性があり飯館村だと山の村になり一つの別な世界になっていた。丸森もまた阿武隈川があるから違った自然の中に個性があった。その住む場所が個性を作りだしていたのである。
だから栃窪に住む人、屋形に住む人、街内に住む人と鹿島区内ですら何か違った感覚をもつようになる。だから田舎はどこでも多様になる。都会だったら一様化画一化するのは
ただビルだけで土地の個性がないからである。
だから都会はかえってつまらない、なぜなら自然の中に美の鑑賞を深め思想を深めてゆくのが人間だからである。
東京では毎日ビルをながめて暮らすほかない、毎日がビジネスだとなる。
だからなぜ東京にあれだけ人が集中するのかわからない、仙台とか地方都市ならわかる。そこにはまだ自然はある。東京からまず文化など生れない、そのベースとなる自然がないからだ。もちろん文化など関係ないという人もあるからそうなっているのだろう。

だからこれもしかられるのだが津波の跡でも原発事故で原野化してもそこが自然でありやはり自然だから美がある。草原化した風景も気持いいなと正直思ってしまったのである。草原はモンゴルの風景であり燕とか夏雲雀とか鳴いているのに広々としてあっていたのである。そしてここは北海道になったのかと原野化した自然を日々ながめてプログに出したのである。
ただ飯館村のように避難区域になったところはまた別である。そこは草茫々になっているからそこが自然に還っていいなどとはならない。荒廃してしまった感じだった。

ともかく季節は日々変化している。花も次々に咲くから夏は初夏から盛夏と花を楽しむには一番いい、自分は花を追求してきたことは確かである。だから相当に花の詩を書いたがプログでも三つをやるのは介護とか家事でできない、だから詩集の部は更新していないのである。
タグ:ラベンダー

2014年07月21日

松川浦の地名の謎 (松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(2)



松川浦の地名の謎

(松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(2)

●松川浦は松ケ江村が基の地名

麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

1908年(明治41年)1月 - 松ヶ江村、飯豊村、磯部村の三ヶ村組合により河口の掘削を開始。
1910年(明治43年) - 掘削が終了し、河口に板橋を架橋する。
1913年(大正2年)8月 - 台風で板橋が流失し、渡船にて河口を横断し始める。
1951年(昭和26年)3月27日 - 松川浦県立自然公園が指定される。
岩子小学校は、松ヶ江小学校に合併され、岩子分教場となった

「松」がつく地名は、マツ族の根拠地だったのかマツラ 2 で紹介した松浦は、苗字でこそ「マツウラ」と読むが、地名の場合は、地元では「マツラ」といっている。 ... があって、それが松浦をはじめとする《マツ》系の地マッパラマッハラマツザキ名を西から東へと移動させたのではないかということである

地名・苗字の起源99の謎: あなたの祖先はどこから来たか
http://urx.nu/ajqO

松は松ではない、当て字である。松川浦の地名はまず松ヶ江村から発していた。
このマツは何を意味しているのか、末羅国のマツラがもとになっていのであり松ではない、ただすべてにあてはまるわけではない、古代郷名としては飯豊郷があったのだからこの地名が古いのだからその辺から歴史的になぜ命名されたかを探る。
ここで注目したのは松川浦ではなく松ケ江となっていることなのだ。この江とは何かなのかとなるとわかりにくい、入江ともあり江はよく使われる。江の島となると江の中にある島となる。江とは海でありその中に島があって江の島となった。これは地形的にわかりやすい。江とは広く背後に海とつながっている時に江となるのだろうか?

「浜、浦、潟、港」が現在の地形になったのは比較的新しい時代で、大半がこの千年位の間に形成されている

浦が新しい地形の地名だというのはなぜなのか?では江は古いのかとなるとそういう感じもない。エには江をあてたがこれは中国の漢字が入ってあてたのである。エでなくエィとか何か違った発音だったかもしれない,エミシのエもエである。エは縄文時代からあった言葉でありそれは何かわからなくなっている。ウミはミが水であることがわかるがエだけだったら何か語源がわからない、だからどうしてエに江をあてたかわからないのである。ここで問題にしているのは松ケ浦が浦になっているけどもともとは浦ではない、江であった。江として認識されたから松ケ江村となっていた。

ここが万葉集の松ケ浦なのか、それがどうして証明されたのかまだ研究していないのでわからない。ただ東歌だということは方言が使われているからまちがいない、東歌だということが貴重になっている。それは地元の人が残した歌だからである。
つまり短歌を作ることは結構万葉集時代にはむずかしいと思う。それだけの素養がなければ歌いないだろう。方言を使って短歌にしたことはそれだけの知的発展があってできたのである。なぜなら縄文時代とか弥生時代とかには詩は残されていないからである。
もちろん文字もないからではあるがやはりそれだけの知的進歩がなかったためだとなる。

●江と浦は違ってている

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そもそも松川浦の歴史はいつからはじまっているのか?津宮(つのみつ)神社については考察したけどそれは渡来系のツノガノアラシトのツノであった。それは産鉄族の一団が吉備や近江から移動したことは考古学的にも証明されつつある。その中核となったのが渡来系だからその関係の神社が祭られることになった。角部(つのべ)とはまさにそうした一団が住んだらか名付けられた。三代実録にもあるというときそれは古い神社になる。
しかしその時、松が浦という地名は存在したのか?飯豊郷は存在した。飯豊郷がありその中に松ケ江村が生れたのである。だからわけもなくマツと名付けたのではない、やはりそれなりの謂われがあるとなる。松ケ江とつけたときもそうである。浦でなくて江だったということは松川浦の地形を見ると浦というより江の地形なのだろう。
浦となると地形が陸地により深く入り込んでいる感じになるし何か一段と人間臭くなり生活の匂いが濃くなってくる。霞が浦というのもやはりその回りには相当人が住んでいた。
では松川浦にどれくらいこの歌が謳われた時、住んでいたのかとなる。むしろ新地の手長明神のあるところが縄文時代から貝をとって暮らす人たちがいた。松川浦にはそういう伝説がない。
江とはもともと中国の漢字が入ってきてあてた。中国の江は河であっても湖であっても広大であり海を思わせるのである。琵琶湖も広いが太湖になるとその三倍はあるとかスケールが違ってくる。中国では河も海の感覚になるのだ。だから江は浦と違って海を思わせる広い感覚なのである。江の島はまさに広い海の中にある島なのである。松江にしても広大な江であり海である。松川浦とにた地形でもある。
現在の大阪市内に相当する草香江などもそうでありそれは広い湾であり海なのである。

今回の津波で松川浦はまさに磯部が壊滅して広い海に江になったことに驚いた。
日下石(ニッケシ)まで海になったことに驚嘆した、松川浦は浦という感覚より江の感覚だった。八沢浦は江の感覚ではなく浦である。だから江と浦の感覚は違っている。
近江と言った時も江であり琵琶湖を海のように見ていた。江州が近江だった。
ただ霞ヶ浦というとここも広いのにどうして浦なのかとなる。
陸地に深く入りこんでいたから浦だったのか?その区別もなかなかむずかしい。
浦というのが新しいという時,西は古い地名が残っていることになる。
江という地名が多いとなるのかもしれない、ともかく感覚的に浦となったとき、松が浦となったとき、人間臭いものが感じるのはやはり地名に何かそうした理屈ではない長年の日本人の生活が地名にしみこんでいるからそう感じる。それだけもう地名は理屈だけでは語られないものとなっている。

●田舎の人間関係は万葉集時代と同じ見張られている

麻都我宇良爾佐和恵宇良 太知麻比等其等於毛抱須 奈母呂和賀母抱乃須毛/ 万葉集巻十四東歌

 松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ 我がもほのすも

ただこの歌の意味はわかる。近くに住んでいる人は街内から一キロも離れていないが田んぼの中にあり回りは農家なのである。親戚もいて監視されていると憔悴したように言う。もう一人の女性も絶えず見られていて何かと言われるので嫌だという。
田舎は見ていないようで見ている。何かそうなりやすいのだ。だから小さな町でも町内と農村地帯になると違ってくる。農村地帯だと四六時中監視状態になる。
今でもそうなのだがら万葉時代になれば余計にそうなりこうした人の噂に悩まされて恋愛もできないようになっていた。人の目が絶えず注がれていたからそうなる。
それは今でも変わらなかったのである。田舎では「部落中の家々のことはかまどの灰の下までおたがいにわかっているとういうふうであった」こんなふうになる。
万葉時代はもっとひどいから人ごとしげみ・・・・でありこれから逃れることはできない、閉塞された時代だった。それは江戸時代もそうだった。現代は田舎は同じなのだがやはりこれだけ時代が違うといくらそうでも万葉時代や江戸時代とは違うのである。
世界の情報が入ってくるしそうした外からの働きかけを拒否できる時代ではないからだ。


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この漢詩は中国らしく雄大である。その隔つ感覚のスケールが違うのである。江を挟んで向こう岸は別な国の人になる。河は海なのである。だから中国人的な発想と日本人の狭い田舎の発想とは古代から違っている。万葉集でも非常に狭い範囲で生きていたが故の悲哀がにじみでている。それも日本では今も継続されている。
田舎になるとそうした狭い人間関係から出られず閉ざされて最近でも山奥の村で仲間外れにされた老人が殺人事件になった。そこは谷間であり出口がない、小さな部落だったのである。日本人は田舎だけではない、その風土から大陸的発想はできない国である。
海に閉ざされ山に閉ざされた国である。大陸だったらモンゴルのように果てしない大陸に民族移動が行われる。戦争とは民族移動の面があったのだ。国境と言ってもあれだけ広ければ国境は作れないからこそ万里長城を国境の壁として作ったのてある。

岳陽樓に登る   <杜 甫>

昔聞く 洞庭の水
今上る 岳陽樓
呉楚 東南にけ
乾坤 日夜浮かぶ
親朋 一字無く
老病 孤舟有り
戎馬 關山の北
軒に憑って 涕泗流る

湖にが広がり国を二つに分かれさせてしまった。自然の変動で国が二つに割れたとなる。ここでも自然のスケールの大きさがあった。自然の変化で国が二つになるというのも中国である。今回の津波はそうしたスケールの自然の変動が日本にもあることを経験したのである。その後遺症はかなり長くつづく、村が壊滅して何もないというのは以前として変わりないからだ。

国風と東歌に見る人言

(松がうらにさわゑうら立 ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも)の考察(1)

posted by 老鶯 at 16:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集

2014年07月22日

2014年7月22日 南相馬市鹿島区の状況(写真) (野馬追いの準備ー仮設ー除染のホテループレバブーソーラバネルなど)


 
2014年7月22日 南相馬市鹿島区の状況(写真)


(野馬追いの準備ー仮設ー除染のホテループレバブーソーラバネルなど)

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この家に野馬追いの旗立ちにけるかな駒も勇みて出陣まちぬ
旗立ちて風にはためく北郷の宇多郷迎え出陣するかも
若竹の伸びにけるかな水無川今日勢いよく朝に流れぬ
朝の川流れ轟き藪萱草ここに咲きなむ鳥の音ひびく
合歓の花朝日のさしてこの道の奥にしひそか家のありしも
今日一日ひまわり畑に陽のさしてその色明るく映えて充たさむ
立葵ダリヤの花や朝に映え燕飛びかう農家の前かな

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ここまでクリック拡大


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野馬追いは26日にはじまる。それで屋形の方に旗がたった。この家からは野馬追いに出るのだなとわかる。野馬追いはすでにこの時からはじまっている。野馬追いに出る家は限られているからわかりにくい。野馬追いは外から見ると一番誤解しているのはみんなが出る祭りだと思っている。でも相馬藩内で500騎出たとしても全体から見れば10万人の人口から見たらわずかなのである。だから意外と野馬追いに出る家も人も知らないのである。
みんな出れるように見えても出れない、侍だった家しか出れない、街の方からほとんど出ない、郷士だったから農業していたから農家から出る。
野馬追いの祭りは他の祭りとは何か違っている。町民全部とか市民全部が祭りにでるわけではないから見るだけになるから違っている。

ただ野馬追いでは意外といい写真がとれない、動いているし行列でもすぐ終わるからシャッタッチャンスだと思ってもすぐすぎてゆくからとれないのである。
そこが意外と盲点だったのである。野馬追いは写真をとるにはいい。
特に旗祭りというように旗がいろいろあってそれが写真になりやすいのである。
それから野馬追いは馬祭りでもある。馬は今や競馬のようなものでしか生きていない
野馬追いでは馬が生き返る、馬が活躍した時代がよみがえるのである。
一年間馬を飼っている人もいるが今は競馬馬などを借りるのが多い。
それでも結構金がかかるのが野馬追いなのである。それでも出たいというのはやはり祭りだということである。

水無川が雨がふって勢いよく流れていた。若竹が伸びていた。仮設住宅が見える。
この仮設はやはり仮の宿だから早く引き上げるべきである。でもあと二年くらいはいる。そもそも田舎に住んで思うことは農家が田舎ではやはり中心のように見えるのだ。
古い大きな木がある庭があるということはそれだけの歳月を積み重ねて農家がある。
街内はそうした家が少ない、代々つづいているのは農家なのである。
だから小高でも浪江でも飯館でもそうして長い歳月で作られてきた農家が結構まだ多い。するとそこを離れてまた一から土地を買い家の歴史を作ってゆくことは大変になるのだ。もちろん現代は農家でも農業中心ではないからそういう時代は終わったとしてもやはり農家には重みを感じるのである。

仮設は仮の宿でありそんろふうに暮らすのは風流人のうよなアウトサイダーならいいが
これだけの人が仮設暮らしというのも異様である。
仮設で感じたことはどのくらいの人かいるのか?もし2000人でもいるとするとその数がすごい、人口は1000人でも2000人でも増えることは市町村にとって大きな影響力があると思った。購買力もましてくることはある。でも広域社会になった時、別に一つの町で2000人増えようが食料などを手に入れることに困ることが全然ないのである。
だからかえって食料はぜいたくしているのである。
広域社会になると外からいくらでも食料が入ってくるから困ることはない、ということは何か困るから助け合うということもなくなる。小高の人が2000人いても鹿島の人と協力すくということはなかった。協力しなくても困らないからそうなる。
それで鹿島の人が小高の人の車をパンクさせたということを聞いた。補償金で鹿島の人は不満だからである。

水無川の上流は何か落ち着く場所である。あそこにはいつも合歓の花が一杯咲く、あの道を行けば家がひっそりとある。ただ最近何か騒がしいのである。
小池に作られたホテルは全国の人が集まっている。除染であれまだまだ仕事がある。
大型クレーンが通りプレハブの宿泊所はそちこち増えた。そして農家の畑にソーラーパネルが作られていた。これも何か景観を乱すので嫌なのである。
これも国から補助金をもらいるから作っている面がありその補助金詐欺もあった。
とにかくまだまだ復興で国から金がでるからこの辺は外部の人が集まっている。
それでにぎわっているといえばにぎわっているか何か前のように落ち着きがないともなる農村的田舎の風景が乱されている。風紀的にも乱れるということがある。
やはり仮設とかプレハブとかでは人間は落ち着かないだろう。

ともかく何かこの辺は以前として変化が激しい、何か落ち着かない、二年後に小高の人がされば落ち着いてくるだろうが今度は淋しいともなるかもしれない。
ただやはり人間はそれぞれの市町村で根付いて生活するのが落ち着くのである。
変則的な生活は精神的にも乱れるのである。
小高は小高での町作りをするのがいいのである。それが放射能汚染でできない、それと浪江が警戒区域で住めないことは小高に影響するから困るのである。
だ。から小高は還りたくない人が多く原町や鹿島に家を建てている人もいる。
そこが南相馬市の一番の問題なのである。
小高をどうするのかそれが一番の問題でありその住人がどうするのかも問われる。
ただ老人が多く補償金で遊んでいればいいとなると外部からも南相馬市内でも小高なんかどうでもいいとなるだろう。
金あるんだから金でめんどうみてもらとなってしまうのである。

2014年07月23日

原発事故で失われたもの(飯館村を例にして) (補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)


 
原発事故で失われたもの(飯館村を例にして)


(補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)

●働くと帰還すると損だということの矛盾


たとえば震災前に月収30万円だった夫が妻と子供2人と暮らす場合、30万円プラス40万円で70万円が支給されている。新たな要求に基づけば月収分の30万円プラス慰謝料35万円×4人分で140万円、計170万円が毎月支払われる計算だ。ここには財物損害、いわゆる失われた資産などの補償は一切含まれない。(避難区域)
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31912093.html

夫婦二人と子供三人の家庭でN市の仮設住宅に避難している個別事例。月額で70万円。この主人は半分を生活費として奥さんに渡し、残り半分を自分が使う由。自分の使う分でレクサスをローンで購入し、残りはパチンコに使う(といっている)。(飯館村)
http://blogos.com/article/74517/

原発事故で起きてきたことは何なのか?津波でもそうだが当たり前にあった生活が失われたことである。そもそも故郷に住んでいることこそ当たり前であり故郷が何かなど普通の人は考えたこともないだろう。その当たり前のことが当たり前の生活が失われたことなのである。
津波もあるが原発事故の結果故郷全体が失われたことなのである。
津波だったら被害が大きくても海岸地帯だけの被害ですんだのである。
避難区域になった所は住めなくなったし未だに田畑は原野になっている。
そして不孝なのは実は故郷を失って苦しんでいるのではない、かえって多額の補償金で楽になり仕事を失っても補償金で遊んで暮らしているその人間の堕落にあったのである。
人間の悪い面が多額の補償金をもらって露骨に現れたのである。
もともと田舎に住んでいる人たちが素朴だとかない、今はどこでも金が第一になっているそういう広域社会に住んでいる。だから金さえあればいい暮らしができる。
それが避難民に露骨に現れたのである。
レクサスを買いギャンブルに毎日興じている。東京まで行ってギャンブル風俗に行っている人までいるし仙台にも遊びにゆく、仮設にフィリッピンの女性が来ているとか、何か補償金の額が大きいから遊び人間になってしまったのである。


では避難民が働こうとするとその分が補償金からひかれるとか働くと損になるというのもそうした遊び人にさせる。それが避難民にとっては馬鹿らしいから遊んでいた方がいいとなる。相馬市でトマトを作る農家に雇ってくれと言ったら飯館村の人が断られた。
これは冷たいなと外から見る人にはなる。でも実際は多額の補償金をもらっているのだからお前たちは働く必要はない、それより相馬市では原発の補償金はもらっていないから津波の被害者が優先だというのもわかる。浪江でも工場経営者が元の仲間に仕事をくれと言ったらお前らは補償金をたんまりもらっているのだから仕事しなくてもいいだろうと言われた。確かに工場経営者だったら軽く億の金がもらえる。牧場経営者で5億円もらった人がいるとかその額が大きいのである。
「お前らは仕事しなくてもいい、補償金で遊んでいろ」となるのも変なのだけど現実にそうなっている。


一方で外からでも避難民を受け入れたところではそういう人たちに対して不満になる。
イワキでも福島市でも全然補償金をもらっていないからである。なんだあいつらは補償金でぜいたくして毎日パチンコにゆき遊んで暮らしている。俺たちは何ももらえず働いている、あいつらのために働かせられているとまでなる。やはり避難した人たちは何らか避難した先では周りの人はが働いているから生活できる。でも避難民は補償金で働かないからそう言われる。
その補償金の額では内部でももめているのだ。双葉とか大熊とかイワキに補償金で新しい立派な家を建てた住宅地が出現した。しかし道を挟んでまだ仮設に住んでいる人たちがいる。それは広野町とか補償金が少ない人たちなのである。
都路村でも道をはさんで補償された者とされないものでもめた。南相馬市でも鹿島区は30キロ圏外で補償金が少ないから不満である。それで小高区の人たちが仮設が大勢住んでいるのでその人たちをうらやみ車をパンクさせたと聞いた。
それがもっと激しく起きているのがイワキである。2万人も移動したらその軋轢は激しくなる。

●ギャンブラーになった避難民


原発事故周辺では何が起きたとかというと補償金が多額な故に内部でももめているし外部からは遊び人だと批判される、では補償金をもらっている人たちにしても言い分はある。なにしていいかわからないし金があれば遊んでいる方がいいとなる。帰還する意欲をなくさせているのである。仕事するにしたって農民だったら簡単にできないし仕事しない方がいいと普通はなる。だからギャンブルになった。
田舎に住んでいたからといって普通はその人たちが今は素朴だとかいい人だとかない。
つまり人間の醜い本性があからさまに現れてしまったのである。
金があるんだから遊んでいればいい、何しようと勝手だとなる。
だから避難民は浪江だったら一人35万にしろとか補償金を要求するだけの人たちになったそういう人たちをみている時、いろいろ理由はあっても今は嫌になるだろう。
それで大内村に住んでいた外部の人は嫌で去ってしまった。


つまり当たり前にあった生活が失われた、その当たり前の生活とは何だったのか?
それは実は人間の本性たる悪が隠されていた生活だったのである。
田舎の人が素朴だとかいい人だとかはない、ただ今までだったら貧しい人は貧しい人なりに生活していた。飯館村は県民では一番所得が低くかった。飯館村が原発補償金もらっていたろうと言う人がいたけどないと思う。何か目立った施設もなかったからである。
そこは一軒一軒森につつまれて隠されるようにあった。
その時人間の生活は隠されていてそうした人間の悪い本性が露骨に出てきていなかったのである。
確かに場外馬券場とかはあったからギャンブルはあった。でもそれは全体ではない、一部である。ただ場外馬券場は鹿島区にもあり田舎に住む人がギャンブルをしないということはなかったのである。それが原発事故で露骨になり全体に波及してしまったのである。
だから避難民はギャンブラーとなり遊び人となってしまったのである。

そのことの影響の方が今になると大きい、教育上もよくないしそんなことばかりしていたら人間がどうなってしまうのか?
毎日家でも博打の話しばっかりになったらどうなるのか?
そのことの影響が今は大きいのである。それは別に避難民でもない回りの人にも影響するなんだあいつら補償金で遊んで暮らせる、俺たちは働くのが馬鹿らしいよなとなる。
生活保護者の方が俺たちより金をもらっているから馬鹿らしいよなというのともにている

ともかく自分にしてもこういう人たちばっかりになったら嫌になるしそういう話題ばかりしかないとしたら嫌になる。現実になっている。確かに外部から人が入ってにぎわうのだがそれも何か普通ではない、プレハブとか労働者でも大勢きていると何か治安が悪くなるとか心配するのもそのためである。やはり田舎だと一軒一軒土地があり広い敷地に住んでいるのがあっている。ただそれを今までは当たり前としてみていたのである。
だからそれを特別なものとしては見なかったのである。でも仮設に住んでいる人たちと広い敷地の農家に住んでいる人たちはあまりにも違っているから意識するようになったのである。


●神は人間の生活を隠したー飯館村がその例だった


だが,不死の神々は,優れて善きことの前に汗をお据えなられた、
それに達する道は遠く,かつ急な坂で,
始めはことに凹凸がはなはだしいが,頂上に到れば
後は歩きやすくなる――始めこそ歩きがたい道ではあるが.
(『農耕と暦日』289 - 292 行)

この引用箇所における「優れて善きことの前に据えられた汗」というのは,
ゼウスの「正義」(ディケー)を実現するための「仕事」(エルガ)に他ならない
「怠惰な生を送る者に対しては,神も人もともに憤る」
(『農耕と暦日』303 行)とあることからも,
今の世の人間たちと神々との関係は,決してよいものとは言えない.
神々との関係を修復するために,ゼウスが人間たちに唯一残した道―
それこそが「仕事」(エルガ)なのである.

【主要参考文献】
廣川洋一『ヘシオドス研究序説』(未来社,1975)

http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/jinbun/web/img/pdf/research25/002.pdf


仕事とは単に金を得ることだけでない、他にもいろいろ仕事には意味と意義があった。
そんなこと普通は意識していない、深く考えて仕事している人はいないからだ。
ただ金になればいいとかは常に意識させられる。でもでは多額の補償金が入ってきた時
金があれば働かなくてもいいとなる。その時人はギャンブラーとなり生きる価値すら失ったとなる。そんなやつらは目障りだから追放されることにもなる。
もちろん仕事がすべて肯定されるわけでもない、仕事にもいろいろあるからだ。
ただ今回の原発事故では仕事が奪われた当たり前にあった故郷がなくなったとか当たり前にあったことの意義が問われたのである。


もう一つはヘシオドスが「神は人間の生活を隠した」というとき人間の生活が自然の中に隠されてあったとき良きものであったのだ。人間の本性は本来悪であり田舎の人間もやはり悪であり欲望も深い、ただそういうもの欲望でもおさえられてその本性が隠されて暮らしていたときそういう悪は隠されて見えない、だからそもそも日本の神道でも罪はつつむであり自然の中につつみかくされたとき覆われてみえなくなると意識したと同じである。日本の自然はその自然が神道の基なったごとく美しかったのである。
それが文明化して都会化したとき人間の生活がむきだしになり日本がもっていた本来の美は真直なる美は失われたのである。



隠された村


深い森につつまれて飯館村はありぬ
花はのどかに咲き日は静かに過ぎてゆく
人々の生活は山間に森に隠されてありぬ
その醜い人間は森の中に山の中に隠されありぬ
小鳥は本然の歌をここで歌い
その声は森にひびきわたり暮れぬ
自然に飾られて何も飾らぬ村よ
石はそこに寄り合い誠実の日がある
人々の欲はそこにおさえられて
森が深く息づき本然の生を養ふ



こんなふうになっていたのが飯館村だった。飯館村は何か違っていた。それは他より森とかに隠されていて本然の自然が深く息づいていたからそう感じたのである。
自然の神秘性がありそう感じたのである。
それが失われたとき、人間の悪が本性が露骨に現れだけとなってしまったのである。
そのことが最大の悲劇であったのだ。金では買えないものが飯館村全体にあったが失われたのである。
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2014年07月24日

松川浦の「松け江村」の謎 (松が浦の浦はあとからできたものなのか)


 松川浦の「松け江村」の謎

(松が浦の浦はあとからできたものなのか)
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地図を見ていくと面白い、インターネットだと本のようではなく海岸線をたどってゆく、どういうわけ三浦半島は浦とつくごとく浦が多い、ここは浦が多いし現実に人々が浦で古くから生活していた。何か江とつく地名は少ない、面白いのは江の浦という地名があったなぜ江の浦なのかとなる。江が先にあり江の中に浦がある。
それは地形的にそうである。江川とあるとき、川が江になっている。江はもともと中国では川であるから不思議ではない、でも江川と二つつくと何なのだろうとなる。
海岸線に川はあるところが江となりやすい、江が広い範囲のものであり川がその中にある江の浦も江が広いからその中に浦がありうる。
浜野浦とか浜浦も浜という広い地域があって浦があった。
ただ浜とつけられた地帯は非常に多い、日本には浜清み・・・という万葉集にあるごとく浜の多い国だった。その浜は白砂の浜であり美しかった。そこには防波堤などなかったのである。

だから「松け江村」もそういう地形の中にあった。松川浦はもともと江でありその中に川が二つ流れ込んでいてそこに松ケ江村がある。浦と認識していたのではなく最初は江と見ていたから松ケ江村となった。
松川浦とはあとから名付けられた名前である。川をつけているのはやはり二つ川が流れ込んでいるからだろう。
それで万葉集の松が浦の歌が松川浦を歌われたのかどうか疑問になる。

浜というのは海岸線をたどるとわかるがそこは砂浜のつづく人が住んでいないような地帯である。だから浜というのは新しい地名だというのがわかる。九十九里浜などが典型的な浜である。どこまでも砂浜がつづいて人気がないのである。
ハマというのは端(はし)であり間(ま)である。だから人が住んでいないよう地帯だった。かえって人が住んでいないと浜市とか浜町とか市がそこに開かれたかもしれない、河原も中世では人が住んでいないので市になっていたからだ。

日本の地名が多様なのは地形が複雑だからである。大陸のようにどこまでも平坦な地が山もない何もない平坦な地がつづく風景はない、変化に富んでいるのである。海あり山あり川ありと変化に富んでいる。こういう風土は世界的に少ない。満州に行ったらどこまでもトウモロコシ畑でありこんなにトウモロコシを作ってどうするんだと思った。
平坦な地帯が延々とつづきその中を馬車一台ゆく、そして小さな村があり川は泥川である何か見ていて変化でなくあきてしまった。ただ広いというだけなのである。
あういうところに住んでいたらあきる。地形に変化ないからだ。
日本は狭くても地形に変化があるから自転車で行ってもあきないのである。
相馬藩内だけでも相当に変化に富んでいるのだ。だからまだ未発見の土地がある。

いづれにしろ松川浦を歌われた東歌も謎でありそれが松川浦だとは確定されない。
万葉集自体が謎が多いし東歌自体もどうしてできたのか謎であり解明されていない。
方言があるといってもそれが松川浦地帯の方言かというと「なも」は東歌全体にあるのだから東は浜名湖辺りも東になる。名古屋もそうであり広い範囲なのである。
そこで「なも」が使われたとしてその広い東の共通的方言だったら方言なのかとなる。
そもそも方言はほとんど青森でも沖縄でもそうだが大和言葉を変化させたものであり
だからこそ大和言葉の古いものが辺境に残っていたのである。
すると万葉集時代に方言があったということはすでに全国的に大和言葉が普及して方言化していたとなる。そしてそこから方言になるのは時間がかかる。
東歌ができたのはそれだけすでに東でも大和言葉が普及した結果だとなる。
それもさらに辺境の蝦夷のみちのおくの地域で使われたというのはどういうことなのだろうとなる。
つまり松川浦まで東の方言があることはそんなに広く使われているものだろうかとなる。

 
タグ:松が浦
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原発避難民の風当たりはますます強くなる (介護など地元の負担が増えてきているのに遊んでいる)


原発避難民の風当たりはますます強くなる

(介護など地元の負担が増えてきているのに遊んでいる)

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鹿島区に仮設が集中している

避難住民の皆さんを対象に、公的負担でヘルパーなどの介護スキルを身に付ける職業訓練を行う。そして、医療や福祉の現場に就職してもらう。その収入は義捐金減額の対象としない。もちろん、除染作業や瓦礫処理作業による収入も減額対象から外す。
http://blogos.com/article/74517/


これは一つの避難民の具体的な仕事を与える工夫だろう。
どこでも今は介護で苦しんでいる家庭が多いからである。
介護自体が無駄だという議論があっても現実問題として苦しんでいるから放っておくわけにはいかな。
自分の問題にしてもこうした原発事故の避難区域でその矛盾をかかえた
介護していて親戚の人がパチンコ屋に借金返すために勤めていて何もしてくれない
それも借金だし深い関係があまわげでないからその人にとやかくは言えない
でもパチンコ屋がにぎわいそこに勤めて借金を返そうとする
その労働自体が有意義なものとなっていない
有意義も何も金になればいいではないかというのが現代だから仕方がないと言えるのか?
「地元でも他でも困っている人がいる、そんなことかまわず補償金があるしそんなこと知らねえよ、めんどうなことにはかかわらねえ、もともと知り合いでも何でもないからな」
介護問題では自分より困っている人は他でもいくらでもいる。何かそうしたこの辺の矛盾のしわ寄せが自分にはあった。
パチンコ屋通いしている人はそんなことを考えないだろうがいくら金があるからは言って遊びたいものは遊べばいいとはならない。それはこの辺の特殊な事情でそうなっているのだ。

「俺はもう年だし東京の方に行って遊んであとは生活保護だよ、今さえよければいいんだよ」

こういうい人がいたけどこれも無責任な話しだなと今になると思った。
生活保護をいちがいに批判はできないけど生活保護となれば市の世話になるしみんなの世話になることになる。
今は遊んであとは生活保護だという時、市のみんなの世話になるということではないか?
それは結果的に回りのものの負担になるということなのだ。
それほど負担をかけないで死んでくれたらいいがまた介護となると負担がかかる。
補償金がうちきられ生活保護になった時点で回りの負担になるのである。
そんな人を回りで市でかかえるとなると負担が増えるだけなのである。
こういうことは原発事故周辺ではかえって厳しい目が向けられる
人手不足が深刻であり介護でも外からの人でまかなっている
地元の人は避難民でも遊んで暮らしているというのも外からの目が厳しくなる
それでボランティアと遊んで暮らしている避難民が喧嘩になったというのもわかる。
もう避難民はかわいそうな人ではない、医療費はただ介護でも優先的であり
何でも優遇される時代は終わっているのだ。
なぜならその結果として回りの負担が増えているからだ。
介護にしても施設に優先的に入られるとしたら他のもっと困っている人は入れないから
負担が回りにくるのである。

この辺はいろいろなことが問われる場所になった。補償金があり金があるんだから別に遊んでいてもいいではないか?それか十人くらいの変わり者の単位だったらそういうことは問題にならない。それが多数なった時、問題になったのである。
そのことが市町村全体に影響するらヴになったからである。
それはイワキでも二万人も移住した結果、補償金で遊び暮らす人が問題になったのと同じである。数が少なければならなかった。
それが南相馬市ではなぜ鹿島区が大きな問題になっているかというと原町区は仮設住宅がすくない、鹿島区に仮設が集中して小高の人たちが移ってきたからである。
そして鹿島区では補償金が少ないことで小高の人に対して不満が大きくなったのである。原町の人があまり不満ではないのは原町に仮設が少なくて目立たないし関係しないし
鹿島区より補償金をそれなりにもらっているかららしいことがわかった。
原町区と小高区の人はもめていないのである。
鹿島区の人と小高の人が仮設が多いことで目立つからもめることになる。
それはイワキと同じだったのである。
金さえあればいいというのが現代社会だけどではその労働にしても金がもらえてもその労働自体に意味がないとなるととをなるのか?
それは回りにその影響がでる。介護の例がその良い例である。

「お前たちは毎日パチンコ通いで遊んでいるけと介護で苦しんでいる人たちがいる
働く人もみんな外から来ているんだぞ、お前らはよく遊んでいられるな」

三年も過ぎると風当たりが強くなってくる。だから小高の人が小高に帰れというのは別に自分が思っていることではない、鹿島の人はみんな思っているのだ。
それで車がパンクさせられたというのは本当かもしれない、イワキのように鹿島区では
そういう排斥が具体的なものとして起きてくるかもしれない
三年過ぎたということも影響している。これからまた二年もそうして遊んで補償金をためていることも批判される。
確かに具体的にはどうすればいいのかとなるとできないという面はある。
でも小高の人たちもこのまま遊んで暮らしていればいいんだとなると反発はますます大きくなりいやがらせも具体的にでてくるかもしれない。
だから小高の人と鹿島の人は何ら協力していない、それでも金があれば何も困らないからいいじゃないかともなる。でも実際はそうはいかないのである。
現実に回りに負担がかかっているのでありそれが金では解決していない
その金でもフィリッピン女性に使われたり東京だ仙台に費やされるとなると地元には回らないことなる。

ともかく行政でもなんらか手をうつべきであるが小高の人たちもこういう状況を考えないとこれからますます反発は強くなる、それが何か険悪になり事件が起きてくるかもしれない。イワキで起きたことと同じことが起きるかもしれないということである。

タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年07月25日

夏の南相馬市鹿島区の喫茶店ニコニコ堂 (そこは山陰になり穴場だった)



夏の南相馬市鹿島区の喫茶店ニコニコ堂


(そこは山陰になり穴場だった)

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いつのまにアーティチョークの育ちしや久々に来ぬニコニコ堂かな
山陰に喫茶店あり風涼し街より離れてしばし休みぬ
窓の外に羽を休めぬ蝶を見ゆ喫茶店あり夏の日暮れぬ
喫茶店街より近し山陰に燕の飛びて夏の日よりぬ
山陰に喫茶店あり影なして風の涼しもしばし憩いぬ
山陰に烏の二羽や北海老の喫茶店かな夏の日暮れぬ



標準和名はチョウセンアザミだが、日本には朝鮮半島経由で入ってきたわけではなく、地中海地域からオランダ経由で入ってきたと考えられている。江戸時代に既に日本に入ってきていたというのは驚きだが、定着しなかったのは周知のとおりだ。
そんな不遇のアーティーチョークであるが、世界では万能植物として重宝されているらしい。中世フランスでは媚薬として王侯貴族がこぞって買い求めたというが、亜鉛が多く含まれていることを考慮すると


こんな大きなアザミには驚いた。春に行った時からすでに3ケ月からニコニコ堂には行っていなかった。自分がゆくのは今は決まっている。スーパーでありあとはローソンでアイスコーヒーをあそこは五十円高いが見晴らしがいいので気分転換に飲んでいる。
意外とその場の雰囲気が人間の心に作用する。人間はただ飲み食いすればいいというものではない。腹を充たせばいいというものではない、常に人間は飲み食いするにしても五感で感じているのである。その場の雰囲気に左右される。
景色がいいところで飲み食いするのと大都会の雑踏で飲み食いするのでは違うのである。胃袋をみたすだけになるとそれはもう人間ではないだろう。

だから鹿島の北海老の山陰にあるニコニコ堂が近くに住んでいて穴場であり意外な所にできたなと思った。今は介護など忙しいから用事があるからたいがい六号線沿いで用をすます。六号線そいでは景色を見ていいということはない。
あそこは街から離れているというのでもない、六号線から意外と近い場所にある。
だから車だったら不便を全く感じないだろう。
最初は海の方をながめられる喫茶店がいいと思っていた。そういう喫茶店があったがあそこは津波に流される前にやめていた。景色がいい場所だったが客が入らずやめたのだろうそのオーナーは外部の人だった。それでその家を売り出していたが流れてゼロになってしまったのである。

アーティチョークというのは結構ロ-マ時代から品種改良としてあんな大きなものになった。品種改良はロ-マ時代から行われていた。それから朝鮮経由で入ったとあり朝鮮アザミとされた。日本には朝鮮経由で入るものがあるからそういんう名がつきやすいのか?
これは食べる野菜としてもあった。これを花として鑑賞するのは向いていな感じだった。野菜だったらこれだけ大きいのだから食べるのにはいい。
中世でも媚薬として使われたとか歴史を紐解くと興味深い。
インターネットの時代は知識の時代だということは確かである。
必ずアーティチョークとあればそれに詳しい人がいるし食用にしている人もいる。
現代では素人でもインターネット時代になると知識の時代だということがわかる。
知識が食べ物でも付加価値を生む、食べ物でも花でも植物でも単に食べるだけではない飲むだけではない、知識があって飲み食いすることが現代的なのである。

そして大事なのが雰囲気が付加価値を生む、六号線沿いが用事だけになるがここは憩いの場所になる。そういう雰囲気があり穴場だったのである。街から近いのに山陰に隠されるようにありクーラーもしていないで窓をあけていて涼しい風は入ってきていた。
街中は暑いがあそこは涼しい、でも今は暑いことは暑い、家にクーラーがないので家にいられない。涼を求めてあそこに行ってみた。
近くにはラベンダーを植えている家がありそれが匂うのもいい。

ともかく自分の行動範囲は本当に狭くなった。毎日買い物であり近辺にしか行かない。
自分は旅行していたときは喫茶店が好きだったというよりは休んでそこで一句ひねるとかしていたのだ。だから喫茶店が必要だったが今ではめっきりへった。
今はほとん飲み食いだけの場所だがそこは何か騒々しいから嫌なのである。
立地的には飯館村でもアグリなどの喫茶店はパンもうまかったしよかった。あの雰囲気でパンを食べると余計にうまいのである。
喫茶店は雰囲気が大事である。でもやはり六号線のような人が往き来するところに入りやすい。みんな暇人じゃないからである。
仕事とか用事をもったらなかなかゆっくりしていられないのである。
あそこも夕方五時で終わるから昼間ならそれりのメニューで食べ物を楽しめる
ただ食べることよりあそこではあの雰囲気を味わい休むのが憩うのが向いているのだ。

あそこは隠された穴場である。ただちょっと不便だからどのくらい入っているかはわからない。でもかえって雰囲気とか付加価値がある所だから意外性がありそういうところが
こういう忙しい時代にははやるとかもあるかもしれない、ただ飲み食いだけならどうしても六号線沿いになるのである。


タグ:喫茶店

八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗 (行列の前からはじまっている野馬追い)


 
八沢浦に面した北海老に立った野馬追いの旗

(行列の前からはじまっている野馬追い)

 
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この旗は□だけの模様のが二つあった。旗帳で調べたが北海老にはない、カラーではないので正確ではないが北屋形に斜めの線が二つ入ったのが出ていた。
海老村が南海老から北海老から上海老、下海老と別れたのは海に面して湊や塩場ができて人口が増えても養えたからである。
ただ八沢浦の方に伸びているから八沢浦だと勘違いしてしまう。
八沢浦は明治になって干拓されたのである。
だから屋形からの山のつつぎはその裏でも八沢浦ではない、海に面した所は昔は湊であり八沢浦のような干拓した田はなかった。
北海老にはニコニコ堂の喫茶店のある所も海老だった。屋形村と接しているからあそこが海老村の内だということでわかりにくくなる。

なぜ斜めの線が二つ描かれた旗が海老村にないなのか?
北屋形にあるとなるともともと北屋形が本家としてその旗主であり海老村にあとで分家した人がいたのかもしれない、ただあそこは北海老村でも何かあそこに野馬追いに出る人が集まる。上の方にもいくつか旗が立っている。
だから北屋形の人も集まるからあの旗がたった。
黄色に黒地の日の丸は出ていない、カラーの旗帳でないから判別できない、
ともかくあそこの旗は北屋形の人も集まっている
だから北屋形の旗が出ているのである。
北屋形も八沢浦に面している。
北屋形も海老でも海とかかわっていたのである。

この旗のたった所は前に山があって津波がさえぎられてさほど被害がなかったみたいだ。津波は地形に左右される、八沢浦は地形が入江になって入り組んでいて複雑なのである。だから海の近くでも前の山にさえぎられて助かった部落もあった。
南海老村が壊滅したのは前にさえぎる山がなかったから直接津波を受けた所は村自体が壊滅したのである。烏崎村でもそうだし磯部村でもそうである。
つまり津波から逃れる助かるには高台も必要だが前に山のあるような地形に家が立っていれば死んだり壊滅したりはしなかったのである。
そういう村にはなっていなかった。
津波のことなど全く考えて家も村も作っていなかった。
いづれにしろ野馬追いは野馬追いの行列だけではない、その前から野馬追いに出る家に旗がたつ時からはじまっている。その野馬追いに出る家がなかなかわからないのである。
相馬藩内でも広いからどこの家から出てその家の旗印がどういうものか知ることができないのである。
ただ今回は北海老村の家に旗が立ったのを見た。あの家は古い家だなとわかった。


タグ:野馬追い
posted by 老鶯 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)