2014年07月08日

木陰(相馬市の諏訪神社を訪ねる)


木陰(相馬市の諏訪神社を訪ねる)


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これは天明ではなく天保なのだろう 保の古い字なのだろう
わかりにくいがもう一度確かめる必要がある。

諏訪神社大杉古りて木陰かな

樹々古りて諏訪神社の木下闇
夏鶯夕月いでで草青し
夕雲の紅さ残りて夏野かな
夕蝉や帰りを急ぐ介護かな


宇多川の川べり映えぬ紫陽花や城下町ゆく色も染みなむ

古りにける諏訪の社の大杉に欅や影なし夏の日さしぬ

大野村畑耕すや天保の供養の碑あり夏の日さしぬ

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宇多の尾浜


相馬市
 

 相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)


  ○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松  古歌


  宇多の尾浜を詠んだ古歌。


  ○陸奥の宇多の小浜のかたせ貝、あはせても見む。伊勢のつまじろ



諏訪神社の由来も不思議である。ここに船が流れ来て木にとまったという伝説が伝えられているという、その伝説はもともと尾浜にこの社があってそこで伝えられた伝説なのだろう。あそこまで津波が来るとは考えられないからだ。
そもそも神社の由来がはっきりしないものが多い、ここには由来は記されている。


ここでは短歌をとりあげる。
諏訪神社はやはり五百年くらい寿命があるという欅とか杉の木がいい、姥杉は別なところにあり見なかった。道沿いの木を見ても確かに古い。
この道は細く丸森につづいている。丸森から自転車で帰る時、この道を通り諏訪神社を記録していた。
道が細いことは何か通って見るものを記憶に残す、奥の細道は細い道を歩むから見るものが記憶に残ったのである。昔の街道は細いから道沿いのものも親しく記憶に残る。
六号線とかになると広いしただ車が行き過ぎるだけになってしまう。
それでも生きている道だからやはり現代の道なのである。
だから浜街道と六号線は対象的な道である。
この二つの道をいつも行き来しているのだ。


今日は大野村の方に行って多分天保の碑だろう。字がわかりにくい。念仏供養の碑だからあれは明らかに飢饉で死んだ人たちの供養である。そこの畑で耕している女の人にここはどこの村かと聞いたら大野村だと言っていた。
こういう古い碑が何を意味しているのか?
そこで天保にも飢饉がありその供養のために建てられた。そういう歴史がここにあるということを知る。そしてそこに生き続ける人たちがいる。
だからその碑が大事なのである。それがなくなると昔を偲ぶことがむずかしくなる。
浪江町などでも歴史があったがあそこは古い碑を見ていない、そういう歴史の継続が失われると人間の生も先人の苦労など知らないものとなってしまう。


相馬市でも松川浦でもその歴史が自分にはわかっていない、この歌を見ればこれはいつの時代なのか?奈良なのか平安なのか古いのである。
すると松川浦も奈良や平安から知られていた古い地なのかとなる。


今回は短歌のことであり歴史的なことはまた調べて次に書いてみよう
岩崎氏の短歌の碑があったが時雨の歌だったがあまりいいとは思えない
ただあそこの位置と古い樹が印象に残る場所なのである。
あそこの道が丸森に通じているというのも何回も丸森に自転車で行き来していたからそう見るのである。
あの辺は黒木であり黒木氏は伊達藩について鹿島の田中城で相馬氏と戦った。
黒木といえば黒木氏なのである。
でも黒木というと広いから旧大野村ということを聞いてあの天明の碑があったのは大野村である。
実際は自分は相馬市や原町についてはなかなかわからない、特に松川浦はやはりもっと調べて知る必要がある。それは津波のことをもっと知りたいからである。
それが最近は郷土史を調べる動機になっているのだ。


ともかく介護になってからはせいぜい原町ー相馬市までくらいしか行けない、なぜなら食事の用意をしなければならないからゆっくりしていらなれないのである。
今は日が長いからいい、介護になるとまず拘束されて自由が奪われてしまうのである。

 



 

2014年07月10日

合歓の花、月見草(変化した七月の相馬の風景)


合歓の花、月見草(変化した七月の相馬の風景)

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復興の田んぼに鳴きぬ夏蛙

甲高く喜び鳴くやここに田の復興しつつ夏の夕べに
月見草草むら深く咲きにつつ日影蝶舞い雨しととふる
大きなるでで虫一つ道よぎり遅き歩みや夏の夕暮
合歓の花月見草咲くこの道の草むら深く鶯鳴きぬ
蓬田の名こそありにし八沢浦津波の跡や夏の夕暮

津波と原発事故で相馬の風景は変わってしまった。
特に南相馬市は原発事故で田畑が原野となったから変わったことを報告してきた。
その原野の風景が不思議なのである。
田んぼが草原化した風景がなんとも不思議なのである。
その風景は北海道でありモンゴルのようにもなっている。
クローバーの野が広がるのは夏野である。

でも日本ではたいがい田んぼが広がっているのだ。
ただ草原化したとき、夏野らしくなる、夏雲雀などもあっている
そもそも田んぼは本当は原初の自然ではない、作られた自然だった。
もともとは草原であり森であったのだ
だから田んぼがなくなると元の森や草地に還る
いづれにしろ草はほうっておくとすぐにぼうぼうになる
だから絶えず草刈りが農家の仕事になる。

ともかく六号線でも道の脇が草が深く繁っている。
一匹大きなでんでん虫がよぎって歩む
小さいのは見ているが大きなものはなかなか見ない
今は合歓の花も盛りになっている。

南相馬市でも一部だが田んぼが再開している。甲高く蛙が鳴いた。
すると前の風景にもどりこれが復興なのかと思った。
ただまだほとんど原野の風景であることには変わりない。
蓬田は柚木なのか、八沢浦だと思っていた。
そもそも柚木は鹿島だと思っていたが相馬市になっている。
蓬田というのはあそこに津波の伝説が残っていたので注目された。
今回はこの津波で注目されたところがかなりある。
美しい八沢浦がもどった・・とかの自分のプログのページには相当アクセスがあった。
あれは衝撃的な写真だったしあまり津波で美しいなどと書いた人はいなかったろう。
八沢浦は古歌が残っているように美しい浦だったのである。

夏でも七月になると合歓の花や月見草や昼顔などがさきはじめる。
それから八月の盛夏になる。この季節は梅雨だからあまりぱっとしない季節である。
でもやはり花が季節の変化を告げているのである。

2014年07月11日

津波被害者と原発被害者が一緒になる混乱 (一番かわいそうな津波被害者は隠される)


津波被害者と原発被害者が一緒になる混乱

(一番かわいそうな津波被害者は隠される)

今回の津波から原発事故の被害では津波被害と原発被害者が同時に起こり混乱した。
今でもその混乱状態はつづいている。
仮設でも津波被害者と原発被害者が一緒に住んでいる
それで補償金などで反目しあっている
宮城県とか相馬市などだと津波被害であり原発事故の被害者にはならない
その代わり補償金ももらっていないので不満がある
南相馬市を例にすると

津波被害者と原発被害で避難生活(小高)

小高の人にも津波被害者はかなりいる。それと同時に避難区域になったので避難生活をしている。
ところが津波被害者と原発事故の被害者は別なものなのだが一緒になってしまった。
小高でも津波被害者がそれなりにいるが一万二千くらいの人口があり津波被害者は一割くらいかもしれない、あとの人は家もあるし家族も普通にある。
一方津波被害者は家を流されたり半壊になったり家族を失った人たちもいる。

自分が「小高の人は帰れ」と言ったとき、津波被害者と原発被害者を一緒にしていたのである。津波被害者は家も流されたりしている人がいるのだから帰れないということがある一方で原発被害者は家も土地もあるのだから警戒区域は解除されたのだから帰れと言ったなぜならただ補償金をもらうために仮設で遊んでいるかだけだからである。
そして南相馬市全体で考える時、南相馬市で土地を供給して住まわせることに限度がある土地不足が深刻なのである。だから小高区の土地を活かしたいということがある。
必ず仮設の人が土地がないかとたずねるからである。
一部復興住宅も小高に建てているのはそのためである。
南相馬市全体で考えれば小高を無人化できないのである。

津波被害者と原発被害者は一緒になった結果、混乱している。
原発被害者は別に家族を失ったりしていない、警戒区域では家には住めなくなったが
小高では住めるようになっている。
原発事故では避難するに当たって関連死があったから家族が死なないというわけではないただ津波の被害者は死んだのとはまたそれとは違っている。
かわいそうだというときどうしても津波の被害者には言える。
でもそれが原発事故の被害者になると全部がそうとはならない
土地も家もあり家族も死なない、仮設で狭い暮らしが不便だけど補償金がたんまり入ってくるからかえっいいという状態の人もいるのだ。
だからそういう人を全部かわいそうだとするのには問題がある。
何か何でもみんなかわいそうだとなって外の人も応援した。
実際はその被害が二十三重になりこの辺は複雑なのである。

津波の被害者でも船主とか漁業組合員は今度は東電から多額の補償金をもらいつづけられる。でも同じ海岸にそって住んでいても漁業にたずさわらない人はもらえないのである。これまた不公平があり不満がある。ただ津波の被害には同情される。
結局津波被害者が多数の原発被害者のために少数者のようになってしまっている
仮設でも原発被害者が多いから外から来ても津波被害者との区別はできないのである。
かわいそめうだというとき津波被害者が優先されるべきだった。
その人たちは家も土地も家族も失っているからである。
ただいっしょくたくに津波被害者も原発被害者もされてしまったのである。

イワキでは双葉とか大熊とか原発事故の避難者が多額の補償金もらっているのに俺たちはもらえないと不満になっているのもわかる。
津波の被害者の方がかわいそうなの人たちなのである。
それが原発事故の被害者や避難者があまりに多いのでその声がかき消されてしまったのである。
鹿島区でも津波の被害者が同じ仮設に入っているが小高の人は原発事故で補償金をたんまりもらっているが俺たちはもらえいないという不満があるのもわかる。
かわいそうだというとき津波の被害者の方だからである。
南相馬市はそうういことでも何か混乱状態がつづいているのである。

南相馬市の行政ではこうした全体を視野に入れて補償金問題にあたらねばならなかった。でも何もできなかった。だから互いに反目しあいばらばらになっている。
ただ住民も小高は小高、原町は原町、鹿島は鹿島と共同性がない。
結局合併したのはいいものの前の合併前の状態にもどってしまったのである。
ただ南相馬市となったのだから今こそ南相馬市としての全体の構成と統一を計らねばならない。それは行政でも市民でもそうした意志をもたねばならない。
でも個々人の欲望が先でありそんな南相馬市の全体のために犠牲になれと言ったり指示に違うこともないだろう。
だからこそ若い人はこんな都市は嫌だと流失しているだけなのである。

前にも書いたようにそもそも日本ではそんな市民意識が育っていないだろう。
ただ村意識が基盤になり市民意識となるとない
ただ南相馬市となった以上、合併したのは市民としての南相馬市を作ってゆくということにあった。ただ一緒になるのではない、そういう意義もあった。
だから南相馬市全体を視野に入れるということが必要となる。
だから小高の人は損したようでも南相馬市の一員なのだからイワキのように双葉や大熊の人たちが露骨に責められることはないのである。
そうならやはり自分たちは補償金をもらえばいい、南相馬市のことなどどうでもいいとはならない、現実に小高は住みにくくなってもやはり南相馬市であり行政でも予算をそこにつぎこむし南相馬市として活かさねばならないからである。
こういう緊急事態に南相馬市民とてし協力しあえればそれなりに南相馬市が合併した意義があり将来の市のアイディティティもつくられてゆく、ただ現実はかえってばらばらになってしまっていることが問題なのである。

 

夏の草原の夕べ(津波の跡が草原化した風景の不思議)


夏の草原の夕べ(津波の跡が草原化した風景の不思議)

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広々と草青々と月涼し
草原に昇る満月夏の夕
草青し夕べ湿地に夏の月
夏鶯夕月いでで草青し
夕雲の紅さ残りて夏野かな

津波跡湿地生れて草青し夕べ水面に風の涼しも
津波跡葦の覆いてヨシキリのしきりに鳴きつ雲夕焼けぬ
一本松残りて夕べ風涼し草原広し海も広しも

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この辺では二重に原野化している。一つは津波の跡が原野化、草原化、湿地化している。
津波の跡はより元の自然にもどっている。
放射能汚染で原野化したところはまだ田の区切りなどが残っている。
でもウマゴヤシ、クローバーが生えて北海道のような風景になっている。
この風景は何といっていいのか不思議である。
これもしかられるが正直これまた風景の変化であり気持いいとなる。
北海道に行かなくても北海道に来ているのかと思う。

もう一つはモンゴルのような草原とにているのだ。
モンゴルでもこうした草原がどこまでもつづいている。
そして小さな湖がありそこに菖蒲などの花が咲く
ここでも雨がふったから湿地化して水がたまり沼地化する。
その水面をトンボが飛んでいる。トンボは繁殖のために水のあるところによってくる。
日本では雨が多いからすぐ湿地になりやすいのである。
こういう景色は何か今までとは違って田んぼのある風景とはかなり違う。
草原には夏雲雀とか燕とか葦にはヨシキリがもともと巣を作る、それが河原などと違い草原になっているから広いから気持ちいいのである。
結局人間が住まなくなると自然が生き生きして甦るというのは一面確かである。
これは飯館のような山の村と海岸地帯は違っている。
モンゴルでも北海道でもそうだがこの広々とした感覚がいい。
何かおおらかな気分になる。

これは前の田んぼや実りの稲穂の平野や松原の景色とはあまりにも違っているのである。それは明らかに心にも影響する。おおらかな気分になる。
ヨシキリでも広い原野にほしいままに鳴いて夕ぐれる。
つまり人間のいない世界は自然の生き物にとっては住みやすいとなる。
ともかくこうした変化した風景になじむのには時間がかかるだろう。
だから俳句にするにも何かマッチしないものを感じる。
北海道で俳句があわなかったようにこの草原化、湿地化した風景は俳句にはあわないのである。

今日は暑かったけと海の方は涼しい、いかにも夏らしく涼しい、前よりも涼しく感じる。浜通りがいいのは海からの風が吹いて涼しいことである。
中通りになると蒸し風呂のように暑くなる。
だから浜通りの人は会津とか福島市とか中通りも住みたくないのである。
自分もここは気候だけはすごしやすい所だと思っている。
寒からず暑からずなのである。だから体が弱い人にはいい場所である。
保養にはいい場所である。だからこの気候の良さを活かす街造りもありうるのである。
老人ホームなどは確かに適している。ただ老人の街というのはどうなるのか
それはいいのか悪いのかわからない、ただ渡辺氏がそういう政策を出したことは面白いと思ったのである。

2014年07月12日

相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない (古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)



相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない


(古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)


(つのみや、つのみつ、つの)神社はツヌガノアラシトから来ている

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日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある。かの国で都怒我阿羅斯等が牛に農具を背負わせて田舎を歩いて・・・
となると、天日槍は個人と考えるよりは、新羅からの渡来した集団を指していると考えた方がよさそうだ。そう考えた時に、天日槍や都怒我阿羅斯等がたどった道というのは、秦氏が分布する地域であることから、新羅から来た秦氏という同一系統の氏族の居住地を結ぶための伝承だという人もいる。

 角刺神社は、飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗った、と記されています

「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき故、宇惠々山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」

旧村社「角刺(つのさし)神社」 <近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分>

祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、
ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で
「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されるが、

『先代旧事本紀』中の「国造本紀」では、7世紀前半までこの地方は浮田国造の支配下にあったとされている。大化の改新後に陸奥国が設置されると浮田国造の領土は分割され、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡になった。黒木田遺跡(相馬市中野)が宇多郡の郡衙と推定されている。

『和名類聚抄』には「宇太郡」とあり、飯豊・仲村・長伴・高階の4郷が載せられている
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日)



まず神社や地名を解読する時は大きな歴史の流れを知っている必要がある。
東北は蝦夷が住んでいた。その蝦夷が大和王権に抗して争った歴史がある。
その蝦夷とは何かというと歴史的に明確ではない、ただ蝦夷の字は当て字でありエミシがもともとの名である。蝦(えび)の字をあてている。
南相馬市の鹿島区の海老村は蝦でありエミシの住んで領域である。
海老が当て字だからわかりにくくなっているのだ。

松川浦の津神社の津も当て字である。もともとの呼び名はツノミツ神社である。
ここで誤解したのは津神社となっているから津という漢字にとらわれてしまったことである。津はあくまでも当て字でありもともとはツノミツ、ツノミヤであり漢字にすれば角なのである。津之郷とかあるがこれは必ずしも湊ととは関係ない、ツノは漢字にあてれば角なのである。この起源はツノガノアラシトにある。渡来人に由来しているのだ。
津守(つもり)とあればこれは湊を守る神である。だから津は湊だがツノとなったときはみんな違っている。そして津神社というのは単に一字でツ神社とは言わない、つの神社なのである。

だから小高の角部(つのべ)とあるがここにも津神社があるがこれはツノガノアラシトの角であり渡来人の一団が住んだ場所でありだから部となっている。
その渡来人は製鉄集団であり浜砂鉄をとり鉄製品を作るために奈良や近江からやってきた技術者集団である。

新地町武井地区製鉄遺跡群

南相馬市金沢地区製鉄遺跡群

この二つが大きな製鉄遺跡である。ここが多賀城の前進基地であり多賀城の木簡から宇太宇多という字が発見された。製鉄にたずさわる工人が移動していたのである。
金沢遺跡から今とか渡来人をさす木簡の字が発見されている。
それから白人とかの人名をは発見されているから濃密に渡来人が関与したのが相馬地方だった。
だから松川浦の津神社は三大実録にのる古い神社だというとき奈良の葛城から移された神である。飯豊青というのも天皇の名であり宇多天皇もでているからそうした地名でも神でも移動してくる。

松川浦の津神社(つのみつ)神社は津波とは何の関係もなかった。
ただなぜかツノミヤ、ツノ神社に津が当て字にされたのである。
それは浜砂鉄をとるために海岸線を移動した渡来系の技術者集団が移した神だからそうなった。
何か明確ではないのだが相馬地域までは津神社(つのみや)神社があるが宮城県になるとない感じがする。それは渡来系の氏族が関係していて宮城県までは神社を移せなかったのかもしれない。津神社(つのみや)神社は茨城でも磐城でもあり全国にある。

広島県福山市津之郷町大字加屋

とあるのも津之は角なのである。ここが当て字で誤解しやすいのである。
加屋と伽耶なのである。

津神社はもともと津波とは何の関係もなかった。ただたまたま高台に神社があったので津波と結びつけられたのである。
それでも津神社でも単にツ神社と呼んでいれば津波と関係しているかもれない。
ツノと呼んでいれば角でありツヌガノアラシトにつながる神社なのである。
浪江の棚塩の津神社も七百年とか古いからこうした古代のツノミヤはツノガノアラシトを起源としているのである。

鹿島区の烏崎の津神社は鯨を祭っているから津波と関係しているかもしれない。
慶長年間に祭られたということで時代的に慶長津波があったときだからである。

いづれにしろ津波神社とか津波のために祭られたという神社はない。
浪分神社は津波の浪を分けたというので津波神社だがその他はほとんど津波と関係していない、今回のような巨大津波があって神社に関係させているのでありもともとは古代の奈良から移された神社であり地名なのである。


2014年07月13日

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった (神社の位置が歴史を語る)




南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった

(神社の位置が歴史を語る)

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〈毛人谷〉人なき丘陵に蝦夷の影

 しかし毛人谷の歴史は相当古い。鎌倉時代末期、原野だったこのあたりに戦国武将の楠木正成が出城を設けていた。その名の由来は時代をさらにさかのぼり、蝦夷(えみし)がこの地に住んでいたという説がある。「毛人」とは「蝦夷」の別の表記でありエビスとも読む
 「景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの(中略)を諸国に分かち居らしめしことあらば、或はこの地にも、上古蝦夷の居住せしことありて
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120927/wlf12092712010011-n4.htm

大和朝廷に 征伐された
     クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)A

すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。

クモ と エビ = 原住民 の歴史です。^
http://utukusinom.exblog.jp/12890768/

アイヌ語で「人間」という意味の「enju」「emchiu」が「えぞ」「えみし」の語源です。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。
北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
江戸末期の北方探検家松浦武四郎の『天塩日記』には、「北蝦夷(樺太)にてアイノをカイナーと呼(び)しが、此山中(天塩)に来り見るに同じくカイナと呼(び)けり」とある。
また、1786年(天明6)に佐藤玄六郎が書いた「蝦夷拾遺」(大友喜作編『北門叢書』第一冊)には、「今夷人(アイヌの人々)皆自らカイと称す」とある
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html

エビシのエビが「えび(海老・蝦)」と同音であり、ヒゲの長いエミシの姿とえび(海老・蝦)の姿が似ていることから、カイのカの表記に「蝦」の字が使用されたのであろう。
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html


もしこの海老村の海老が蝦夷に由来するとなるとこれは歴史の解明にとって重要である。海老は海に近いから海老だと思っていた。海とは関係ないのである。
もともとこの辺一帯が広い地域が海老であり蝦夷(エミシ)が住んでいた地域かもしれない
そこで注目すべきは今回津波から奇跡的に無傷で残った鶏足神社のある場所である。
海老村は壊滅したがあそこは前に坂があり津波がさえぎられて助かった。
その坂のあることでその下の御刀神社のある家も浪が弱められて家は残った。
そして御刀神社の杉林に漂流物がとめられて家は残った。でも損傷は激しかった。
ここで大事なのはその鶏足神社の位置なのである。なぜあそこに鶏足神社がありその前が海老村なのかというこである。その謎が海老が蝦夷となるとわかりやすくなるのだ。

@大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたこと。
A物部氏の力を借りて大王家は、大和に政権を確立出来たこと。
B大王家の后は、物部氏(含 磯城県主の娘)の女がなり大王家は、大和の地に融合して いったらしいこと。
C大王家は、大和の神、即ち物部氏の神を祀らなければならなかったこと。
D物部氏と出雲は、繋がっているらしいいこと。 

出雲、物部、葛城、蘇我、加羅、新羅系ーー鬼の流れ
        藤原、天皇家、百済系  と区別される。

この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
さてさて、百済は太陽信仰のメッカ、加羅諸国の本家である上伽耶(ウカヤ)を吸収します

冠嶺神社

冠嶺神社は冠小坂でで鳥取越のことで産鉄族の鳥取部と関係していた。「白鳥伝説」谷川健一にこうしたことが詳しく書かれている。猿田彦を祀る勝子神社はカジコで鍛冶ともなる。物部氏とすべて浮田国造は密接な因果関係があるのだ。原町の信田沢はシダ沢であり常陸の信太郡からの地名の移動でありそこは物部氏の領する地域だった。ここにも冠嶺神社があった。物部氏の移動がここでも語られている。唐神は韓神であり帰化人がここに来たのかもしれない。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。

磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
-------------------------
上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触

田中とは田と関係なく氏族名と関係していた。中世に田中城があったから古い地名なことは確かなのだ。


 剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北(にぎた)という地名がある。これは和名抄にいう鞍手郡新分(にいきた)郷で「旧事本紀」のニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二五部人のなかの「筑紫贄田物部」に比定されている。そこに剣神社がある。(白鳥伝説)谷川健一


この国造は大和政権とは別の地方の独立した国々であった。右田という地名も 筑紫贄田(にえた)物部とか新分(にいきた)郷がありこれがなまったものでニギタが右田となり右という字があてられたのであり右にある田の意味ではない。新田川も(にいだ)はニエタであり贄田物部とか二田物部から名づけられた


「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
http://www.musubu.jp/manoireukita.htm


鶏足神社は冠嶺神社であり海老村の海岸に接して金砂神社がありこれは津波に流されたけどこれも冠嶺神社であり栃窪村のも冠嶺神社であり原町の信田沢の冠嶺神社である。
これは物部系統の神社であり地名も物部氏由来なのである。
だから地名そのものが相当に古いとなる。

だから海老村で何が起きたかとなると海老村は蝦夷だとすると物部氏がその蝦夷と戦ったということがある。物部氏は大和王権の前に物部王国を築くほどの大氏族である。
だから田中物部や贄田(ニギタ⇒右田)物部となり地名化した。
田中城があるところがそうだった。もともとそこは田の中にあった城ではなく湿地帯に囲まれていた。だから田中城となるのは地形的にもあっていないのである。
物部氏は原町の桜井古墳を作ったともされる。この辺は物部の支配下に最初はあった。
物部吉名という人がいたが小高の吉名郷というのはまさに物部氏の郷だったとなる。
物部氏は鶏足神社のあるところで蝦夷と戦った。その蝦夷がいたから海老村となった。
それを如実に物語るのが御刀神社なのである。その神社が刀なのだから明らかにここで蝦夷と戦った記念として祭られたのである。
その神社の位置が如実に歴史を物語っているのだ。神社と位置はだからきりはなせず一体化してあるのが日本である。
物部氏は渡来系でありツノガノアラシトや伽耶国とも関係していた。
だから製鉄にかかわる技術者が来てその関係の地名や神社を残したのである。
角部(つのべ)とはツノガノアラシト関係の製鉄にたずさわる一族が住んだ地域である。
唐紙とは唐は韓(から)の意味である。それも渡来人によってもたらされたのである。
その後大和王権になると物部氏とか渡来系のツノガノアラシトとか伽耶系とか新羅とかは隠されるようになった。それで地名も伽耶ではなく草や萱や加屋とか変わってしまってわかりにくくなったのである。

日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある
大加羅(おおかや)というときこれに大草とあてた。だからわかりにくくなった。そもそも大草という言うこと自体不自然だからである。
ともかく海老村が蝦夷に由来しているとなるとそれは重要な発見かもしれない。
蝦夷というのがそこに明らかに住んでいた。
その蝦夷の正体は不明になった。北海道に残ったアイヌ民族のことであるというのも不明となった。それでもアイヌ語にその名残りがあるからアイヌ民族が蝦夷だという説が根強くある。

北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
北海道というときこれカイに海をあてたからわかりにくくなった。カイとはアイヌ民族のことであった。だから甲斐国とあるときそれはアイヌが住んだ場所のことである。
原町の萱浜はカイハマでありカヤではない、この甲斐はなぜか甲斐かち来ている。
泉長者の伝説に娘の別荘に樋をもって酒を流すときに甲斐椀をもって密かにくみとって飲んだ地を甲斐浜となり樋より酒のもれた地を雫(しどけ)となづけた。

ここにも甲斐がでてくる。この甲斐の起源がやはりアイヌをカイと呼んでいたことにある。地名をアイヌ語で説明した時代があったが今は一部しか信用されていない、青森県辺りは確かにアイヌ語地名がかなりある地域でも証明されていないのも不思議である。
ともかく中央での奈良での興亡が辺境の地の蝦夷にももたらされたのである。
そこには渡来人も深くかかわっているからそこでまぎらわしくなっているのだ。
地名がこうした古代からあるとき、いかに古い歴史の痕跡かわかる。
だから真野の草原はカヤハラは伽耶と関係している地名だとしたのである。
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2014年07月14日

ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)


ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)


ノウゼンに蜂の来たりぬ街の家

ノウゼンの朝に散りにき一輪や玄関を入る仕事の女かな
ノウゼンの今年我が家に咲き満ちぬ盛運の時の再び来たらむ


 「凌霄花」は漢名からで、
 「凌」は”しのぐ”、
 「霄」は”そら”の意味で、
 つるが木にまといつき
 天空を凌ぐほど高く登る
 ところから、この名がついた。


確かにこんな感じの花である。


ノウゼンが今年は家に一杯に咲いた。これは数多く咲くから見物である。
ノウゼンは夏らしい花である。これは盛夏にふさわしい。鬼百合などもそうである。
これからが暑くなるからだ。
この七年間は自分の家は災難つづきだった。
この災難の時、弱さにつけ込んで責められたことは忘れられない
人間は恩は忘れけどこうしたひどい目にあったことは忘れられないのだ。
そのことが常に怒りとなってくる
だから人が弱っているとき、苦しいとき自分の利益だけを考えてこの際、相手の弱みにつけこんで得してやろうなどとするならかかわらない方がいい
あとでかえって恨まれるからだ。
だから苦しい人とかかわることは本当は簡単にできないしむずかしいのだ。
その時は何にも得られず犠牲を強いられることになる。
ただ傍観して見ているだけならかかわらない方がいい
つまりただ相手が困っているのを親身にならないで冷たく見ているだけの人が多いからだその人は相手が苦しんでいるのを喜んでいる。
これはチャンスだとその弱さにつけいってくる、こういうことをする人はあとあとまで恨まれる。
ただそうしている本人は何も気づかない、結構助けているのにと思っているのである。

ともかく自分の困難のときは過ぎた、どの家でも困難のときはある。
何もない家族などないだろう。なぜなら必ず病気だとか死だとか事故もあるし
今回のような大きな自然災害もあるし必ず苦難が強いられるのが人間だからである。
自分の家でも中学のとき、父が癌で死んだり不孝はあった。
でもその時は自分は何ら苦難を強いられなかった。
今回だけは全部自分がその苦難を一人で背負ったのである。
自分には一切助けはなかった、ただ弱さにつけ込まれただけだったのである。
保険金殺人のような状態に追い込まれていた。
ただその危機は脱した。
今度はまた我が家は盛運に向かってゆくのだろう。
病気が直ったことが一番心強く思った。
人間病気になったら巨万の富があってもどうにもならなくなる。
そして最後は死があるのみとなる。

ノウゼンが散って朝に仕事の女性が入ってくる。
ともかく人間は仕事しているとき活きている。
街でも仕事しているから活きているのである。
だから小高の人は仮設に入り遊んでいるだけだから活きていない
フィリッピン人の女性を仮設に呼んでいる老人がいる
金があるからそんなことができる
小高の人は補償金の額が大きいからそれで遊んでいるのが多いのである。
だから津波の被害者とかいろいろ別れているけど一番多いのは原発事故の避難者である
その人たちはただ遊んでいるだけなのである。
特に老人はあとがないということで女であれ最後の欲望を果たそうとする
だから老人は復興には向いていない、そんなことよりもうあとがないのだから
欲望であれ果たして死にたいとなる。
老人になったからいって欲望がなくなるわけではない、かえってもう人生も終わりだと思うとき欲望が強くなることもあるのだ。

はっきり言って小高の人たちは同情される人たちではない、
お前たちは金をたんまりもらっているのだからあとは自分たちでなんとかしろとなる
南相馬市民でも原町の人でも協力しないかもしれない
そんなふうにして遊んでいるのに外部の人だって協力するのはいやになるだろう。
もうそういう時はすぎている。
この辺はそうして会社でも帰ってこないというからあと何年かしたら相当にさびれてしまう。
小高の人は同情されないから苦しくなる。若い人は流出しているし町の再建は困難になるでも金があるんだから金でめんどうみてもらいとなってしまう。
かえって金があると人は助けてくれないのである。
お前は金があるのだからと仕事さえ与えてもらえないと浪江の会社経営の人がなげいていたことでもわかる。


 

原発事故の避難区域などは復興できない (高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)




原発事故の避難区域などは復興できない

(高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)

小さなる畑にとれし不揃い(ふぞろい)のキュウリをくれし土地の女(ヒト)かな

都路でも避難した人が自分で自給自足しているのがいいと言っていた。
つりま田舎では農家なら米でも野菜でも基本的な食料になるのは自給自足だった。
それが買うだけの生活になると違和感を感じるようになった。
田舎では食料は単なる消費者ではなく生産者としてあった。
生産の喜びがあった。その土地からとれるものを食べる
それはいくら金があって買えるからといって生活の充実感はそこにはない
「消費者は王様」だとなってしまったが王様には収穫の喜びが得られないのである。
そしてその土地から何も得るものがなけれも人間は豊かになりえようがないのだ。
その土地でとれるものがあってこそ豊かになれる。
それは肉体だけでなく精神的な面でもそうである。

ただ現実問題としてはその小さな畑でとれるのはかえって何倍もの労力と金がかかる
そして収穫はわずかだから誰も農業をやりたくないというのがわかる
労力や肥料でも何でも小さな畑でもつぎこむエネルギーにしても収穫が少ないのである。でも土地からとれる、土地のものが食べられるということは替えがたいものがある。
なぜなら遠くから外からばかり食料を買っていたら何の豊かさも作り出せないのだ。
その土地からとれるものがあって豊かになれるのである。

だから今原発事故周辺はもう復興はできないように思う。
多額の補償金で働く気がないのと高齢化で将来をどうしようとかならない、
残りのわずかの時間の人生を楽しみたい、欲望でも果たしたいとかしかならない、
老人はかえってその欲望が最後に強くなることがある。
もう人生も終わりだからやりたいことをやって死んだ方がいいと思う。
これが最後の恋だと老人の道連れにされた若い女性がドラマでいたけど
それは現実に起きている。
タケシが百億円で離婚しても結婚したい若い女性ができたというのもわかる。
かえって老人はあきらめでなくあきらめきれないのである。
若い人なら子供がいて将来どうしようかと住んでいて考える
老人はこの先どうしようかというよりもう終わりだとなり自分のしたいことを欲望でも果たしたいとなる。
だから先の長いことは考えたくないししないのである。

フィリピン人の女性が仮設に来るとかやはりそれはイワキでも飲み屋で札びらを切っていた双葉や大熊や浪江でも避難者はそうなりやすいのである。
億の金が入るとなるとそれを将来にどういかすかより老人なら使ってみたいとなる。
欲望があれば今使ってみたいとなる。現実に東京の方まで行って遊んでいる人が仮設にはいた。
小人ではない、「老人蟄居して不善をなす」の時代である。これはここだけの問題ではなく高齢化で増えてくるのだ。みんな老人は優れた人ではない、そういう普通の人が大量に生きる時代が高齢化社会なのである。
津波の被害地などでも復興がすすまないというとき、こうした高齢化の影響も大きいのである。老人は十年先二十年先を見込んで努力できないのである。

そして現代社会はグローバル化だとか広域社会になると金がものいう社会になっていた。金さえあれば何でも手に入るという社会になっていた。
だからそもそも一億円もらったらどこでも暮らせるとなるとこれ幸いと若い人は流出したのである。そういうふうにコミニティ自体が崩壊しやすいものになっていたのである。
自給自足の社会だったらその土地でなんとか暮らすほかない、簡単にはよそに移れないのである。
だから今田舎に住んでいる人に
「一億円もらうとしたらここに住んでいますか」
そう問うとそこが住む価値がある所どうかわかる。これ幸いと住んでいる土地でも離れてよそに住む人はその土地に住む価値を見いだしていなかったのである。
一般的にはそういう人が多くなっているからコミニティは崩壊してゆく。
チェルブエリでも二十くらいの村がなくなった。
その墓標が立っている村の墓地があることも不思議なの光景である。
川内村でも避難区域解除に反対しているのも避難していて補償金をうちきられたくない
郡山市などでの便利な生活をしたら特別の人でないと川内村には住まない
老人は住みたいと言っていたが若い人はそうはならない。

ただ飯館村のような所に住むメリットはあった。
一軒一軒が離れていて森の中にあり広々として住める
それが都会の団地のような所に住むのはいやだというのもわかる。
だからすべてがその場所に住むメリットがないのかというとそういうわけでもない。
その人の主観とか価値観も関係しているから全部はそうはならない。
自分なども医者では困ったけど別に食べるものなど十分だしそれほど不満はない
それなりにそこに住むメリットを感じている人はいる。
特に濃密な人間関係をもっている人は都会では住みにくいだろう。
この世の中で何でもみたされる所などないのである。

ともかく原発事故周辺でも津波の被災地域でも高齢化の問題や現代特有のグローバル化とか広域社会化でコミニュティは崩壊しやすかったのである。
そして誰もあえて苦労はしたくない、老人は余計にしたくないから金が入ればあとは遊んでいた方がいいとなる。最後の欲望を果たした方がいいとなる。
それは自分勝手なことでもそれが現代の生活だったのである。
欲望資本主義でりそれがこの辺では極端な形で現実化したのである。

いづれにしろ絆とか助け合いとか同情だと言われたことももうない、
一時は絆だといって助け合いの気運があった。
それは単にモノを運ぶというだけでも助けることだった。
その時この辺では放射能汚染でモノが入ってこないしくる人もいなかったから
モノを運んでくれ人は人助けになっていたのである。
それが普通の社会にもどったらまた元の社会になった。
今度は逆に補償金をたんまりもらって遊んでいるいるやつらだとしかならない。
そんなやつらを助けどうなるのだとなる。
だから小高の仮設の人を鹿島区の人は良く思っていない。
それはイワキでも二万人くら移住したらここよりひどいことがわかる。
あいつらは金にものいわせて働きもしないで家も建てている
何でも優遇されているとか不満になる。
だから補償金もらっているだけでも反発されているのである。

かえって鹿島区などは一人十万で七カ月分だからもらっていてもそれほどないから他から見ればそんな金ならしかたがないとなるだろう。
でも避難区域の人はそうならないのである。
今は全国からも良くは見られていないのである。

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2014年07月16日

贅沢を覚えた猫(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)



贅沢を覚えた猫

(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)

●猫も人間と同じだった

猫を飼うということも一つの経験であり猫というものが自分にはわからなかった。
実際に飼ってみて猫というものを新たに理解した。猫にはほとんど関心がなかった。
犬は子供の時飼っていた。猫についてはそもそもわからなかった。
猫も犬と同じく人間が飼うと人間と一緒に生活すると人間化してゆくものだと思った。
その猫はたまたま餌をやったらいつくようになった。もともとは飼われた猫だったのだろう。だから甘えるよに鳴いてよってきた。ただ半年以上すぎるけどまだ時々襲いかかるように吠えるように化け猫のよように口をあけてなる

おそらくこの猫は捨てられて野良猫となり相当に人間に虐待されたのだろう。
だから人間になつかなくなった。その傷が深く忘れられない、人間に恨みをもっている。でも最近は自分のところによってきて眠るからなれてきている。
でもまだ時々口を空けて化け猫のようになる。
ただこの猫はしょっちゅう餌を要求するからよく野良猫として生きていられたと思う。
野良猫として生きるのは相当に厳しいと思うからだ。
猫の胃袋は小さいから食い溜めをできない、だからしょっちゅう餌が必要になるというが野良猫だったらそんなに餌がない、だから相当に窮乏した生活をしていた。
その窮乏感とはその日食えるか食えないかというぎりぎりの生活からくる窮乏感だったろう

野良猫は家猫に餌をやるからその餌をねらってやってくる。野良猫は結構多いものだと思った。最近近くの空家に三匹の子猫が出入りしていたのを見た。
空家だと猫の住まいにはいい場所である。その三匹も野良猫になる。
だから野良猫は増えるから餌をやるなと言う人もいる。
野良猫は結局もう野生の猫のように自分で餌をとれないのだから人間の問題化している。犬のように登録制にしろとか地域猫として飼いとかいろいろ法律まで整備しろとまでなるそれは一個人で勝手に飼ったりするとまた増えたりするから去勢して飼いとかなるからだ猫というのは人間化すると人間の問題になるのである。
だから猫はもう介護までされたり猫の墓まで普通にある時代になったのである。

猫は自分が食事している時、猫が自分の食事しているのを見ている。その時、サシミでも一切れとか与えていたらその味がわかって必ずご飯のとき見ていて分けてくれと鳴くのである。他にも魚類や肉類なども一切れとか分けてやっていた。するとその味を覚えて食べたいとちょこんと座って鳴いて要求するのである。
この猫は自分の家で飼われるようになってから贅沢猫になったのである。
野良猫の時は満足に食えなかった、窮乏していてうろついていたのである。
その生活は相当に厳しいものだったろう。家に入ってきてはぶたれたり追われて生活していたのである。野良猫は飼い猫の三分の一の年くらいしか生きられないという。
それだけ野良猫として生きるのは厳しいのである。

それが一旦こうして贅沢を覚えると自分が食事して何も与えないとすごく不満そうにしている。それがやはり表情でわかるのだ。とにかく食事の時迫ってきて鳴いて「俺にもくれ」と要求するのがわかるからだ。
だから与えないと「なんでくれないんだ」と口に言わなくてもひどくがっかりしたようにして離れるのである。
だから猫もぜいたくを覚えるとその味を覚えるといいものを与えないと不満になるのである。野良猫のようにともかく腹をみたせればいいというのではない、うまいものを食べない日は不満になるのである。贅沢を覚えてその贅沢ができない窮乏感をもつようになったのである。


●モノがない時代の貧困


この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにているなと思った。
自分の子供のころはモノがない何もない社会だった。どこの家でも飯台一つくらいしかない貧乏だった。電気製品は何一つない裸電球一つあるだけだったのである。
食べるものは麦飯でありオカズはコロッケとかサケとか決まっていた。今日ももコロッケ明日もコロッケなどの歌がはやったのもそのためだろう。その頃まだ卵も農家では食べられても一般の家では食べられなかった。だから自分の家では店をやっていたので農家に卵を買いにやらされたのである。卵はずっと贅沢品だったのである。
病人しか食べられないとかの贅沢品だった。

その時代は乞食というのも普通にいた。乞食は戦前も田舎にもいて悲惨だった。
それは野良猫とにていたのである。
ただ回りを見ればみんなそんな何もない貧乏暮らしなのだからその貧乏を嘆くというよりはあきらめて生活していたのだろう。
大正生れの母は今でも梅干しとご飯があると満足するくらいである。
もちろん介護されているのだから食欲がないからそうなっているがもともとそういう暮らしだったのである。粗食で生きてきたのである。ただその後はやはり食べ物は贅沢している、だからエチゴなどやケーキは食べるのである。

現代の貧困は何かというとボロを子供などいないから貧乏に気づかない、野良猫がいるのが普通気づかない、でも猫を飼っていると必ず野良猫もよってくるのである。
この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにている。自分の子供の頃はなにもない、飯台が一つあるくらいの生活だった。電気製品も一つもない、裸電球が一つくらいしかない生活でありそれは共通していた。
食べるものでもオカズは決まっていた。麦飯とかでありコロッケでありサケとかは良く食べていた。肉は食べず卵は農家では食べていたが一般の家庭では食べられない贅沢品だった。親が病人で卵を食べていたのをうらやましがっていたことを話す人がいた。
だから店をやっていたときその卵を農家から買わせられたのである。その時は農家の方が家で納豆まで作っていたのだから豊かだったのである。そもそもモノがない時代はモノを作り出す米でも野菜でも卵でも作り出せる農家の方が豊かになる。
戦争中でも戦後でも着物を食料と代えたということでもわかる。そして農家は汚いとか都会の人に言われた。今でも農家は農家の人が汚いというからそういうことは今でもある。


その頃は乞食も普通にいた。乞食は一軒一軒物乞いして歩いていた。それは普通の光景だったのである。戦前になると山頭火のような物乞いして旅できたというのもそういうことが普通にできた時代だったからである。戦前から戦後十年くらいは普通に乞食がいたのである。今は乞食がいないから貧乏人がいるように見えないのである。
だから貧乏自体がないように見える社会なのである。
現代がいろいろ貧乏のことが言われるようになった時、それがモノがない貧乏ではない、モノがありふれてそのモノが買えないという貧乏なのである。
それは野良猫から飼い猫になり贅沢を覚えた猫と同じである。
うまいものを食わせないと不満になった猫である。その窮乏感は渇望はかえって強くなり不満になる。

●モノがあふれているのに買えない貧乏の時代

例えは新車が絶えずでるけど車を運転できる人なら買いたいと思っても買えない、するといいものがあるのに買えないという不満が渇望感がましてくるのである。
ではその渇望感を充たすにはどうするかというと借金してまで買うということになる。
それでサラ金とか闇の金融から借りている人が八人に一人もいるのが現代社会の実相なのである。充たされない欲望を借金で充たしている異常さなのである。
まず昔だったらローンで家を建てたりはしない、家を建てるのも借金なのである。
だからあとで借金は大きな負担となってまた苦しむことになるのだ。
「消費者は王様」だという社会になったとしても消費する金がない人、貧乏が増えたのである。そんなにモノを作っても売れないとなるとそんなに作ることもないとなる。
少子高齢化でますますモノは売れなくなる。だから実際は作る方も売る方ももう限界にきているとなる。それでもグローバル化社会になるとあらゆる食べ物でも入ってくるからほしいとなり欲望は無限に拡大してゆく。

現代の矛盾はそうしていくらでもモノを作り出しても今度はそれだけのもの買える経済力がない人たちが増加した。フリーターとか派遣とかニートとか正社員でいな人たち増えた。その人たちは賃金が安いのだからモノを買えといっても買えないのである。
これも欲望資本主義社会の矛盾なのである。何か過度な無際限の欲望資本主義が限界にきているのだ。作る方にしても売る方にしても買う方にしてもそれが限りないものではなくどこかでとまる、制限される、それが無限に増えてゆくということはありえないのであるそういう無限に増えるということを追求してゆく社会自体が過ちだとなる。
そのことは社会自体に個々人に返ってくる。


これが今回の原発事故と関係ないように見えても関係していた。つまり身の丈にあった生活ではなく、無限に拡大した欲望を充たす社会だからこそ原発事故も起きた。
豊かになるには原発が魔法のようなものであった。でもそれは危険であったがその危険も無視して豊のためにはどうしても原発が必要であるとなり作られた。
これは石油もそうである、豊かになるためにはどうしても石油が必要であり危険でも石油を得る必要があるとなり戦争してまでも石油がほしいとなる。
原発事故でもそういう無際限の欲望追求の社会にもあった。
人間はどこかで欲をとめない限り危険なものになってゆく。戦前や戦後十年の貧しい時代にもどるのかというのではなく何らかこれだけ豊かになったら欲望の制限が必要になっているのだ。第一みんなそんな欲望を充たされる社会などないから一部の金持ちが豊かな暮らしができても今度は多数の貧乏人が生れる。高度成長時代のようにみんなが豊かにはなれない社会になっていたのである。
売る方にしても作って買う人がいない、こうなれば作る方もまた貧乏になってゆくという矛盾が生れたのである。
posted by 老鶯 at 02:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2014年07月17日

飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか? (放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)


 
飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか?


(放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



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飯館村は佐須の牧草地で5マイクロも二カ月前頃計ってあった。
だからあそこが警戒区域解除地域になれるものかと思う。
今では5マイクロだとずいぶん高いなと思う。
草野地域では7マイクロあった。ただその辺は半分に減った。
ただ佐須の牧草地で5マイクロあったのだから高いと思った。
佐須は最初ホットスポットがあり25くらいになったのには驚いた
田んぼの畦の道の泥がたまったところだった。

確かに牧草地ではない道の方だと半分以下にはなっている。
でも牧草地がそれだけ高いとなると牛は飼えないだろう。
そもそも飯館村はいくら除染したって回りが70パーセントが森林なのだから
放射線量が下がらないと言われる
その森も一部だけ除染したがほんの一部しかできないから結果的には効果がない
つまり飯館村は除染しても住めるような放射線量にできるのだろうかという疑問である。なぜそのことを考えたかというと住めるとしているのが
南相馬市では一マイクロシーベルトでもむずかしいとか子供がいる家庭では住めないとか流出しているからである。

石神では一マイクロだったがそれでも除染していて高いんだよと言っていた。
一マイクロで高いとするとそれと比べると飯館村は実際は3倍とか5倍とかになる。
そもそも飯館村は放射線量を見ると住めるように思えないのである。
専門家はいろいろ言うけど自分は素人でわからないにしても
ただなぜ南相馬市では一マイクロでも住めないとか騒いでいることからすると
飯館村はとても住めるような放射線量ではないと思うのである。
一部分除染したところで放射線量は一部で減っても全体では減らない
だから飯館村の人自体が除染が無駄だから村外で暮らす補償金をくれと言っている。
それは一億円とか言っている
その人は村外で牛を飼いたいと言っているからだ。

この点小高などは一マイクロにもならない、0・2と0・3とかだろう。
南相馬市でも山側をのぞいて0・2くらいである。
ただ放射線量というのは変わらないものがある。
自分の家の室内でもまだ0・2だったりする。
前からも0・2くらいだったがそれ以後は減っていないのも不思議である。
つまりそういうレベルで放射線量を考えているとき、なぜ飯館村では
佐須などは牧草地で5マイクロもあるのに警戒区域解除指示地域とかなっているのが理解できない

そもそも飯館村でもそうだが村全体を町全体を放射線量で分けてここは住めるとか住めないとか東電や政府から指示されるのか納得いかないだろう。
だって地面はつながっているし水だって流れてくるし地面が区切られない
放射線量だって虫食いのように区切ってここはいくらだから住める住めないという議論が納得いかないのである。
それは補償金でもそうだった。東電で放射線量で計り地域を分断した。
隣が補償金をもらって道へだてた隣がもらえないというので怒るのも当然である。
村全体、町全体、市全体を維持されなければ住めないなのである。
市町村でここは住めるここは住めないここは立ち入り禁止だとなったから市町村に住む気になれないだろう。そもそも地面がつながっているのたから放射線の影響が受ける。
空だって区切ることはできないのである。
補償金を与える方ではどこかで区切らなければ無際限に出すわけにいかないからという。でも市町村が行政でも何でも生活するとしたらそんなふうに虫食いのような状態では行政もままならないし住民だってそんな所に住めないのである。

例えば飯館村が南相馬市と関係ないかというと関係ある。地面がつながっていて水が流れてくる、その水は飯館村の山林から流れてくるのだからなんらか放射性物質も流れてくるだから飯館村を放射性廃棄物の処理場にして補償金を一億円くれという個人としての意見もわかるがそうして飯館村の土地が政府やその他の団体に勝手に売られたらどうなるのか?放射性物質の廃棄物処理場にされて南相馬市もそこから流れてくる水で汚染されことにもなる。
だから一地域だけのエゴや一個人のエゴだけでこの問題は解決しない。

そもそも原発事故はあまりにも狭い範囲しか考慮しないで作ったことに問題があったのだ地元の地権者とか漁業権者とかあとは回りの村や町に金をばらまいて作れるとかなっていた。それが飯館村や福島市や郡山市などまで事故の影響があったのだ。
それは南相馬市などより放射線量が高いが国では補償しないので不満がある。
南相馬市の問題も南相馬市が一つになり合併したのに三つの区域に分かて補償されたことが問題だった。それなら南相馬市として合併した意義もなにもないことになる。
いくら放射線量の影響があってもそこに住むとなれば虫食いのような状態の中で住めるわけがないのだ。そこは塀をめぐらした一区画に強制的にとじこめられる牢獄みたいなものになる。そんなところに誰も住みたくないだろう。

ともかく放射線量にふりまわされて市町村が分断さればらばらにされた。
飯館村は本当に住める状態にそもそもあるのだろうか?
不思議なのは菊地製作所や一部工場が飯館村ではつづけられている。
そこでは若い人も通い働いている。福島市などから通っているのだ
今回の原発事故では第一次産業は影響が大きかったが工場などは放射能汚染とはあまり関係なかった。

そして飯館村は意外と工場が多い地域だったというのも外からわかりにくかった。
田舎に農村地帯に住んでいるといくら今は第一次産業のしめる割合が一割にみたないと言ってもその土地利用はやはり広いからそうは見ないのである。
田畑のある田園風景が心をなごませて魅力あるものにしてきたのである。
ただ現代は工場の方が会社の方が重要でありそこが復興の要になっている。
復興というとき、農業や林業や漁業はなかなかむずかしい、工業の方が放射能汚染からの復興はしやすいとなる。

でもそういう世界は何か田舎のように見えなくなるのかもしれない
浜通りでは大地に米の実りがあり松原があり海では漁船が出て魚がとれる海の幸が得られるそういう風景になじんできたからソーラバネルとか風力発電の風景にはなじめないのである。小高の人は自分の土地が許可なくソーラパネルにされていたと怒っていたのもわかる。農地はソーラパネルの風景になったらそこは田舎なのだろうかとなる。

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飯館村は田畑の面積が意外と広い地域だった

この松は前らか切られてなくなっていた。

ここも今は草ぼうぼうである。
posted by 老鶯 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連