2014年07月01日

抽象画(紫陽花を分解した色)



抽象画(紫陽花を分解した色)

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紫陽花は七色に変化するから分解しやすいものだった。
抽象画に向いていたのだ。
抽象画まず色に感動する、それはパソコン特有の発する色なのである。
これは絵の具では現せない色である。
だからパソコンの技術と共に生れたアート(技術)なのである。

これはいろいろに変化できる。

まず2000円のペイントグラフィクを使いこなすだけで大変である。
今やパソコンのハードではな]ソフトを使いこなすこと
ソフトをどう利用するかが問題になる。
それでソフトの使い方を教えることが商売になる
なかなかソフトの使い方はわかりにくいのである。
いろいろな機能があっても使いこなせないのである。


抽象画まず全く機械的な作業でありその機械的な作業から創造が生れている
そこが具象画とは違う。だから才能は余り関係ない
ただ紫陽花というものを知らないとやはり抽象画も芸術として見れないだろう
抽象画も具象画と離れてありえないのである。


わかったことは抽象画は具象画の色の分解からはじまっている。
その材料はインターネットにいくらでもある。
具象画として紫陽花を描いているものがいくらでもあるし写真もある
それをソフトで加工するのである。
それは著作権違反にならない
なぜなら全く元の絵のことなどわからなくっているからだ
二次創作とも違っているし新たな創造になっている

具象画に劣るにしてもやはり創作なのである。

これだけはパソコンなくしてはできないものだった。
コンピュターからは様々な新しいものが生れたことは確かなのである。

2014年07月02日

富岡製糸工場の世界遺産の意義 (大正生まれの10年糸取りで働いた母ー富国強兵の国造りの基に養蚕あり)


富岡製糸工場の世界遺産の意義

(大正生まれの10年糸取りで働いた母ー富国強兵の国造りの基に養蚕あり)

10年を原町紡績に糸取りに働く母の歴史の重み

とる糸のけふのさかえをはじめにて引き出すらし国の富岡

原町紡績は有名である。この辺では原紡と言っていた。そこには鉄道の引き込み線まであったから大きな工場だったのである。
製糸工場というと例えば今なら工場とかなると農業とは関係ないように見える。

電子部品とか車の部品を作ることは農業とは関係ない、でもこの繭から糸をとりだし
生糸を作ることは農業と深く関係していた。
そのことがわかるのは今でもその繭を飼っていた家が結構残っていることなのだ。
繭を飼うのには二階であり蚕は湿気に弱いので風通しを良くするために二階でした。
その蚕を飼う兜造りの家が今でも残っている。
阿武隈山地とかでも相当に残っている。
蚕を飼うには大量の桑の葉が必要でありいたるところが桑畑だった。

だから自分の子供の頃も後ろは桑畑であり麦畑でもあった。麦畑も普通にあり麦飯だった。そういう風景が全くなくなったことを今ふりかえると大きな変化だっ。

農業は土地に根ざすものだから変わらないと思っているが変わる。
津波で田んぼが原野に変わってしまった。これも驚きだった。
ただ日本中が繭を飼う農家だったとき、それが消失したことも実は大きな社会の変化だったのである。

明治維新からの国造りは欧米列強に対抗するための富国強兵が第一になった。
だから国家主導の国造りになった。それを支えたのが蚕による生糸を作り外国に輸出することだったのである。
日本では輸出するものが生糸くらいであり富国強兵にするためにそこに力を注がれた。
日清、日露戦争も明治時代にあったから対外的に富国強兵が要求されたのである。
その国の礎ともなったのが蚕を飼って繭から生糸を生産することだったのである。


徳川家康の籏布に新田義貞(徳川家の祖先といわれる)の旗揚げの由来で縁起の良い桐生絹が使われました。その数は2,410疋、これを1日で織ったというので、2,410台の織機があったという証になるという説もあります。ご存知のとおり徳川家康が大勝を果たし、江戸時代になると、その吉例から桐生の機屋は幕府に請願する文書に必ず「東照神君御在世之砌、御籏絹献上之御吉例御由緒之地」と前書きしたそうです。
http://www.kiryuorimono.or.jp/htm/gaiyou2.htm


日本の歴史でもこういうことがあったから富国は日本になったが地域を豊かにするのに絹織物があった。


製糸工場女工の労働から働く価値観の変化を歴史的考察
http://musubu.jp/jijimondai40.html#seishi

さてこの度国の為にその方を富岡製糸場へ遣わすについては、よく身を慎み、国の名家の名を落さぬように心を用うるよう・・・・・・
(富岡日記・・)


明治維新から太平洋戦争までは国家主義の時代だった。個人より国家が優先された。それは欧米列強に追いつくことが最大の課題だったからである。それが太平洋戦争で集結した戦前までの価値観は国家が優先され国家のために生きることが義務づけられていたのだ。ただ別に当時の紡績工場で農業で繭を飼っていた人たちは国家というものを意識しなくてもそれが金になる新しい産業だからみんな繭を飼ったといこともある。
日本には新しい産業が明治維新になってなくどうしても起こす必要があった。
絹織物はもともと日本でも作っていたし繭を飼うことは個々の農家でしていた。
それが富岡製糸工場のように工場生産になったことが近代化の象徴となったのである。

左からはそれは戦争のための資金源とされその労働は犠牲とされたという批判もある。
ただそれだけではないそもそもそれは新しい産業であり国だけではなく民衆も豊かにするものだった。まずその時女性の働く場所がないから新しい働く場所を女性に提供したのである。だから母も給料もらって米を何俵を買って親に喜ばれたとかあったし女中のときも金をもらえたから良かったと言っている。現金収入になるものがあったことが女性としてはいい時代だったのである。
その時代で価値観は変わってくる。奴隷さえ戦争でみな殺しになるより進歩したものだということもあった。
国家優先の価値観もそれは近代化する日本の一過程として必然的に要求された価値観だったのである。
戦後の価値観は国家を極力前面に出さない価値観に黒から白のように変わってしまったのである。

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この図のように国意識や藩意識とか村意識が優先されていたがそうした意識はまるでなくなり家族意識は残ってもその他は個の意識に変わった。家族意識すら核家族単位になり分解された。そこでのモラルは金を得るということが最優先されることになった。
だから今の時代、国のために働くという戦前の価値観は全くない。
だからこういう歴史をふりかえると国家意識にもどすようなことはできないだろう。
国家のために戦争で死ぬということはできないだろう。

もはや戦前の価値観にもどることはありえない、庶民レベルでもそうでありいくら中国が脅威だからといって戦争して死ぬということは簡単にはできない
もちろん中国に蹂躙されたら自衛しなければならないことは必要である。
国意識から会社意識に変わった時、個々の利益追求が最優先する時代を生きている時、
国のために自己を犠牲にするということはありえないだろう。

ただ昨今の阿部首相の集団的自衛権のように右傾化する日本があることは確かである。
そういうあまりにも国家を無視した個々の利益追求社会に対して国家をもちだすのは反動として起きてくる。

グローバル社会になったとき、どこの国でも国家意識は衰退している。自分の利益の方だ大事だとなり自分の利益の延長に会社があり国家がある。その逆戻りはありえない。
それはグローバル社会になったとき庶民レベルでもそうなっている。
国家とか天皇でも戦前とはまるで違ったものとして見ているからだ。
自衛隊はただお前らは税金で雇っているんだから自衛隊員は国家のために死ぬことも戦争することも義務であるかというが国民が国家のために死ぬ犠牲になるとかありえないだろう。そういう思想も起こり得ない、ネットウヨといっても口だけでありいざ自分が戦争にかり出された死ぬのは嫌だとかなる。


もちろん国家の危機では日本は変わる、大和心もまた変わったものとして起きてくる。
だから危機になったらどう働くかはわからない、でも日頃の生活を見ていれば若者でもそんな戦争とか簡単にできる体質にはない、ただ戦後60年たって明らかに津波や原発事故や対外的にも国際情勢も中国の脅威とか変わってきたから集団的自衛権が問題になる。
確かに局地的ないざこざもめごとはあってもそれが世界大戦になるようなことはできない時代になっている。互いに牽制あうし独走も許されない世界になっている。
核兵器でもただ脅しであり使えない、使ったら自分の国すら滅亡するからである。
だから国家主義は時代にあわない、戦後はすべてこの国家優先の国家主義の否定の上に成り立ってきたのである。それを上からでも国家主義にもどすことはできないのである。

グローバル社会では経済活動が制限されるし相互のかかわりが密接になっているから
戦争してもたがいに損する方が大きいのである。

「心に青雲」でそもそも富岡製糸工場なと過去のものであり世界遺産にも残すことはないというのも納得いかないのである。なぜなら日本兵のことを賛美しているけどその日本兵のロジステックを兵糧を供給していたのは明治から兵隊を養えたのは若い女性だったのである。それを無視して日本兵の強さばかり賛美していることは納得いかないのである。

ただ世界遺産というとき、それがどういう価値づけでしているかわかりにくい、日本の歴史遺産ならわかるが世界遺産となるとその世界的価値を認めることになるからむずかしくなる。科学的発見などは世界に貢献するからノーベル賞などがありわかりやすいのである。
いづれにしろ明治とか大正でも戦争経験者でも日本の歴史の重みを背負っていたことは確かである。団塊の世代が高度成長を作った、歴史を作ったといってもそれは幸運に恵まれた結果であり団塊の世代の功績ではないし何か特別苦労したこともないから次代のものから認められないのである。

明治生れも消えたけどもう大正生れも消えていなくなる。
戦前生まれはまだまだ残るが戦争経験者は死んでいなくなる
すると戦争というものがわからなくなり戦争を安易に格好いいとか見る若者をもでてくるただ今の若者であれ日本人はとても太平洋戦争のような犠牲を払うようなことをできないだろう。ネットウヨは言葉だけである、ただ「心の青雲」の主催者は空手をしているからそうではないことはわかる。


ともかく戦後60年は変わり目だった。これから暗黒時代に突入するからもしれないし津波原発事故はその変わり目に起きたのである。だから高度成長時代は日本の黄金時代だったのでありもうそうした時代は来ない、暗黒時代にもなるからニートであれ若者は厳しい時代になる。戦後60年は自分の一身上でもそうだが対外的にも特別恵まれた時代だったのである。それが津波原発事故を境に変わってしまったのである。

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2014年07月03日

山帽子(大雪で枝が折れても咲いた山帽子)


山帽子(大雪で枝が折れても咲いた山帽子)

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赤まるのところの枝が折れた


大雪に枝の折れにし山帽子今年も庭にさわに咲くかな

山帽子さわに咲きにき涼しくも風の通れる昼間なるかな
真っ赤なるハイビスカスの二輪咲き夏の日さして我が前にあり


今年は大雪でこの山帽子の木の枝も三カ所折れた。
その跡が残っている。赤く囲んだところがそうである。
他にも山では木が倒れたり枝も折れた。
今年は?梅も寒くて雪で咲かなかった


それでも今年も山帽子は多(さわ)に咲いた。
この花は一杯咲くし長く咲いているからいい
風にそよぐのも夏らしい


ともかく自然は厳しい
この辺は津波でもそうだし大雪の被害もあった。
それでも今年もこれだけ山帽子の花が咲いたことは感動である


この辺の状況もこれと同じである
ずたずたに津波であれ原発事故であれ傷ついてしまった
それでも放射能汚染でも花に影響なかった
だからこうして花が咲いたことに感動する


津波の被害も大きいしうちのめされた
原発事故もそうである、でも花は咲いたし
花は咲かせねばならない
自分は花を追求してきたから
傷ついて花を見て花を咲かせる


自分の一身上も書いてきたようにここ六年間は
介護であゃ自分自身の病気であり他者からの攻撃であり
同情されることはなかった
かえって弱ったところを攻撃されてきた
犯罪にも合い、病気をいいことに弱みにつけんこんで
借金は要求されるわ、ただ攻撃されるだけだった


だからそういう人たちを今度は攻撃できるが自分はしない
その人たちはそれなりの報いを得る
復讐するのは神であり人間ではない
弱者をいためつけるものを神は絶対に許さない
その報いは必ずある
それは大国だからといってもそうである
弱いもの小さいものをいためつけるのを神は許さないのだ


ともかくこの山帽子はこの辺の状況や自分を象徴していた
三カ所の枝が折れてその傷も生々しい
それは自分のことでもあり回りのことでもある
ずたずたに傷ついたが花は咲いた
花はこういう状態でも咲かせねばならないのだ

 

原町の相馬農業学校は養蚕学校だった (その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)



原町の相馬農業学校は養蚕学校だった

(その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)

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鹿島区の養蚕農家


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相馬市の旧街道

屋根の上の小さな屋根は換気するためのものだった

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日立木の稲荷神社


大正十五年生まれ、八十一歳
私は一九二六(大正十五)年二月十一日、原町区馬場のこの家で生まれ、今年八十一
歳になります
石神第二高等尋常小学校を昭和十四年三月に卒業し、相馬農蚕学校(現在の相馬農業)などに進学したかったのですが、当時家が貧しくて進学もできず、押釜の砂工場やあ
ちこちで働きました。私は草履を履いているのに、友人の農蚕学校生は、足に格好よ
くゲートルを巻いて立派そうでうらやましく思ったりしたものです。
http://www.haramachi9jo.net/kaihou/pdf/043_haramachi9jyo.pdf



1903年 - 原町他2ヶ村組合立原町実業補修学校として創立。
1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。
1948年 - 学制改革に伴い、福島県立相馬農業高等学校となる

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明治6年には、二本松市、喜多方市に相次いで器械製糸工場が操業を開始し、明治21年の繭生産量は4,753トンとなり、明治43年には8,865トンの繭を生産するほどになりました。
 この間、明治32年には日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業における決済等の必要性からと言われています。

http://www.pref.fukushima.jp/yasai/kennai-engeinousakumotu/yousan/yousan-genjyou.html


相馬農業高校は1921年(大正11年)に「相馬養蚕学校」に変わった。はじめは農業学校だっのに養蚕専門学校になったというのはそれだけ養蚕が農業の主流となったからだろう。
その頃ピークになっていた。何かしら養蚕と関係していた時代である。。
この辺では女性はたいがい福装でで働いている人が多い、あそこはかなり大きく今でも女性の働き場となっている。でも今はその他にも女性の働く場所はある。

一般的には戦前はまだ草履をはいていた。なぜなら若山牧水も草履はいて旅していたからであ。靴がまだ普及していなかったのである。、ネパールでは素足で歩いていたから草鞋を履くということもそれから比べれば文明人となるのか、88歳でありこれは間違っている

この話で興味深かったのは私の姉がやはり大正生れであり年齢的には変なのだけど姉は姉である。その姉が常に言っていたことは相馬女学校に行きたいけど貧乏で行けなかったと言っていたことであり家が貧しくて進学できないということだった。
その頃どん底の貧しさでありそれはみんなそうであり相馬女学校に行けるのは相当な金持ちだけだった。相馬女学校を出たというだけでその当時は一目置かれるものだった。
それで飯館村の大倉の女性が「俺は相馬女学校出たんだよ、親戚の家から鹿島の横手から通ったんだよ・・」とか言っていた。その女性はなぜ裕福だったのか?
それは当時は山をもっていると材木が売れるから金持ちなれていた山持ちはその当時は大きな財産であった。


私の姉は学校も一番だった。運動も体も機敏だったからできた。男勝りで何でもできたのである。それで赤十字の看護婦になった。当時は看護婦になるものみんながなれない、東京で資格をとるために学んだ。その後赤十字から招集命令が来てシンガポールに四年間、従軍看護婦として勤めて辛酸なめた。そのことが忘れられず死ぬ直前までそのシンガボールのことを語っていた。


そして私の母も大正生まれで尋常小学校だった。その頃はみんな尋常小学校だった。
私の母は原町の夜ノ森のすぐ近くが実家だった。地図を見ると相馬農業高校が近くにあった。そのことで母が戦争のことを話ししたことを思い出した。
相馬農業高校が戦争の時空襲されて燃えた。相馬農業高校は大きい建物だからねらわれたのだ。
防空壕に逃げたのだか父親は怖くないと逃げなかったが最後は防空壕に逃げた。
その蓋が飛行機がすれすれに飛んで持ち上がって怖かったとか言っていた。
そこは相馬農業高校があるから危険だったのである。


父親は警察署長だったがやめて機織工場を経営したが失敗したことが実家の悲惨な一家離散になった。その頃機織工場をやれば成功するという風潮があったのだろう。
ただ私の祖父にあたるがその人は全く経営の才能もなかったのである。
ただ警察所長だからできるという奢りがあったのだろう。
母はただいばるだけの人だったと言っている。結果的にはその祖父の事業の失敗が一家離散とか子供に過酷な運命を強いたのである。
ただその当時はみんな貧乏だから誰でも苦労していたし母が特別ではなかった。
今は実家はなく墓だけが残っているのもそうした祖父の事業の失敗などで一家離散になったことが原因している。


大正四年生まれの母はすでに実際は百才である。大正からすでに百年の歳月がすぎる。
原町の無線塔が大正時代に建てられた。


1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によって世界中に打電した。関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B6%E3%83%BB%E5%8E%9F%E7%94%BA%E7%84%A1%E7%B7%9A%E5%A1%94


母もその時子供でも地震を感じたのを覚えていた。無線塔は旧原町市のシンボルとして長い間建っていた。やはりそれだけの役割があったために世界からも注目されたのだ。
原町市は相馬市と違いいち早く近代化した街として発展したのである。
その象徴がまた原町機関区としてあったことである。その時森林鉄道が日本全国を縦横に走っていた時である。意外な所に森林鉄道が走っていた。
その跡を丹念に探査している鉄道マニアがいるから調べられる。
森林鉄道で木材とか石材を東京の方に運んでいたのである。
平機関区も大きく小名浜から石炭を船で運んでいたのが鉄道で運ぶようになった。
鉄道全盛の時代は戦後もずっとつづいたのである。鉄道の民営化してから衰退したのである。


私が原町市と相馬市は感じが違ってる。相馬市は中村城があった城下町であり今も城跡がありそこがち中心になっている。原町はいち早く近代化された街であり駅前通りが発展した。それが今はシャッター通りになりその街並みが長いから何か一段とさびれてしまった。駅前の図書館だけが立派なのも何かそぐわない、今は原発事故でスーパーヒタチが止まったままで原発事故後相馬市と原町を行き来する二両の電車だげである。


時代とは常に変わってゆくものである。特に津波原発事故以後の変わり方はあまりにも激しかった。今もその混乱はつづいている。百年も生きれば一世紀生きたのだからそこに庶民でも歴史を刻み歴史の重みをもつようになる。
親はやはりその家や市町村の歴史をになっている。そして祖父母もいろいろあってもやはり歴史を語り歴史をになっている。最後は人は死んでみんな物語り(ストリーーヒストリー)になるのである。


最後はみんな語り部になる。自分もまた家では自分しか残らず一人で供養することになった。それも自分の生れた宿命だと思った。
ともかく人間はその時代時代を生きる、そしてみんな死んで歴史となって次代に伝えられる。ただ親のことで祖父母のことでもなかなかわかないことがある。
それでも死んでから回想するとそういう人だったとか自分にとってどういう影響をしたかなどがわかってくる。生きている時はなかなかわからないのである。


養蚕については兜造りの家がそちこちにまだまだ残っているから偲ぶことができる。
二階が兜のようになっていてそこで換気していた。
ともかくこの兜造りの家は本当に多い、農家の40パーセント近くが養蚕をしていたのだから多いのが当然であった。それだけ養蚕が盛んだったのである。
農村は養蚕社会だったともなる。それが今や十数軒くらいしか残っていないというのも時代の変わりようの激しさを物語っているのだ。
天皇陛下も今も養蚕していて美智子皇后が蚕を手にしていることでもわかる。
国を支えたのがまさに蚕だったのである。


秋蚕(あきこ) 美智子様のお歌

眞夜(まよ)こめて秋蚕(あきご)は繭(まゆ)をつくるらしただかすかなる音のきこゆる
時折(ときおり)に糸(は)吐かずをり薄き繭の中なる蚕(かひこ)疲れしならむ
音(おと)ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ
夏の日に音たて桑を食(は)みゐし蚕(こ)ら繭ごもり季節しづかに移る


明治5年(1872)、富岡製糸場の初代工場長であった尾高惇忠(渋沢栄一の従兄弟)は、生糸の原料である繭の生産量を高めるため秋蚕の開発に努めた。しかし、その頃は秋蚕は公認されておらず、惇忠は明治政府と見解を異にすることを理由に、明治9年(1876)職を辞した。
その後、埼玉県令白根多助などの尽力で秋蚕が公認されるに及んで、繭の生産量は倍増し、生糸の輸出量も増加して、新政府の財政に大きく貢献した。
清心寺には、秋蚕を発見した五明紋十郎の功績を記念した「秋蚕の碑」が建てられている

秋蚕というのは増産するために作られたものだった。品種改良がどこでも成されているように自然のままでは農業でも停滞する。そうした品種改良の結果として農業も発展する。

この歌は女性的な感覚の歌なのだろう。音に耳をすましている。そこに女性らしい気遣いがある。美智子様は詩も作っているからそういう文学的才能もあるから評判もいい。
ただ雅子様は比べるとあまりにも見劣りする結果となった。
昭和天皇もいろいろ言われるが短歌は上手であった。
歴代の天皇でもいろいろいてその評価もいろいろである。
美智子様となると結婚式とかから見ているから時代的には団塊の世代には親しいものとなる。
美智子様は平民から選ばれたことで注目された時代の象徴でもあった。
ただ皇位継承問題があり雅子様と美智子様では差がありすぎることである。

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2014年07月04日

集団的自衛権の私的な見解 (アメリカの命令で戦場へかりだされる)


集団的自衛権の私的な見解

(アメリカの命令で戦場へかりだされる)

●創価公明党は平和の党でもない宗教とも何の関係もない


公明党がアメリカからSGIの活動をカルトととして認定するぞと自民党が脅した。
フランスでは創価公明党をカルトとして認定している。
ではなぜ日本ではカルト宗教団体なのに放置されているのか、それは自民党にもアメリカにも利用する価値があるからである。自民党にとって一定の票田でありそもそも創価は
反共産主義の団体として活動をアメリカから許可された団体だったのである。
一方で創価公明党は中国と密接な関係にあり中国との幹部との交流を欠かさなかった。
それで太田建設大臣は中国に秘密情報をもらしていると問題になった。
結局公明党は自民党とアメリカの軍門に下った。
そもそも創価公明党は仏教などと何の関係もない、どこまでも政治的利権ご利益を追求する団体であり利益にならないことはしない、だから大きな権力に従い利益を得た方がいいとなる。


創価には政治的野望をもっている、また権力志向の強い人が入って活動する。宗教とは何の関係もないこの世の欲にまみれたどろどろした場所である。だからあらゆる欲望が許されるしかえって増進させられる。題目を唱えると元気になるというとき、ぎらぎらした欲望を充たす元気がでてくるということである。
政権をとったら権力奪取したら底辺にあえでいる人も議員にもなれる社長にもなれる高い地位につける毎日あおり選挙活動している団体である。
だから平和なんかどうでもいい、武装して権力奪取するんだとまで幹部は言っていた。
ただそうした往時の勢力は今はないだろう。もう下降一方であり権力を奪取するより
大きな権力に付随して利得を得るしかない弱小団体になりつつあるのだろう。
池田大作の病気入院などもそうした凋落傾向に拍車をかけている。


●中国の台頭に備えるため


集団的自衛権がなぜ阿部政権の下で決められるのか?
それは国際情勢の変化なのだろう。中国の台頭があり尖閣諸島など南西諸島などでも中国が進出することに脅威を感じるから防衛のために牽制のために集団的自衛権が必要になるただこの集団的自衛権は日本で決めるわけではなくアメリカの命令に従い他国との戦争にも参加する義務を強いられる。アメリカとの同盟国なのだから当然だとなる。
アメリカだけでは守れ切れなくなったアメリカの弱体がありアメリカから強いられたのである。日本はアメリカの力には逆らえない、これから日本はアメリカと中国との板挟みになってゆく。どっちかにつかざるえない苦しい立場になる。


集団的自衛権はわかりにくい、ただそのねらいは徴兵制とかにエスカレートして戦争体制を作ってゆくことである。アメリカが衰退すると自国防衛に進まざるをえない。冷戦体制が終わり今度は中国の脅威が増してきたからである。それは太平洋戦争で日本が独自で世界で張り合う時に多大の犠牲が生じたと同じである。強大なアメリカまで敵に回す暴挙に出たからである。ただ日本が自国防衛するとき、そういう孤立状態に追い込まれると太平洋戦争と同じ結果になりカルマとなる。
太平洋戦争はアメリカも中国もロシアも敵にまわした結果悲惨なのとなった。
その力の過信が悲劇を生んだのである。
日本はアメリカに中国にも敵対して独自の道をゆくことはできないジレンマの国である。ただ韓国などと違いそれに伍する力があると錯覚させるものがあることがまた危険なのである。だから日本は技術でも優秀なんだという奢りがありそれが原発事故につながっていたのである。


ただ戦後をみればどうみても日本が戦争できるような国とは思えない、個々人でも戦争で死ぬような思想も決意も根性もないだろう。右翼が日本兵の強さを賛美するとき、確かに日本兵は今の日本人とは違っていた。今の日本人は飽食であり豊かさの中で育っているからかつての日本人とは違う。団塊の世代からは経済一辺倒であり国を思うより会社の利益追求の企業戦士になったのである。
今の若者にしても経済的豊かさの中で育ったのだからとてもかつての日本人のような根性がない,だから戦争で犠牲になるようなことはできないだろう。
自衛隊にしたって本当の戦争を経験していないのだからどこまでやれるのか不安だろう。戦争は人を殺すことだし殺されることでもあるから人間の極限状況を生きることになる。「心に青雲」の主催者のうよな根性をもつことは普通はできないだろう。


ただ日本という国は歴史がありその蓄積した歴史的力が危機の際には働く、だからいくら中国が襲いかかっても一億玉砕でも抵抗する力をもっている。それが日本という国でありそれを恐れることもある。最後は原爆まで落としてまでアメリカが日本人を殲滅しようとしのはそうした恐れをもったからである。中国は巨大でもそこまでまとまる力はない、
犠牲がでれば損だと戦争さえやめるだろう。


●自衛権は私的経験からも許される


集団的自衛権は私的な自分の経験からするとこの世界が弱肉強食である。
それを自分が病気とか弱った時責められてきたのでそのことを今でも強い憤りをもっている。病気で抵抗できないものを責めてきたのである。
その時、人間とは動物と同じで弱くなったら餌食にされるものだと強い憤りをもった。
病気になり火事場泥棒も経験した。病院でも看護師にいじめられたとか誰にも同情されなかった。それは身寄りがないとこの世界はまさに非情の世界となることを知った。


その経験から人間観も変わってしまった。
「人間は弱いとどこまでも責められて財産も命も奪われる」という恐怖感である。
それに対抗するためにこっちも命懸けで戦わねばならないと思うようになった。
この世はきれいだことではない、食うかく食われるかの世界であると理屈ではない体験から知ったのである。この世はなまぬるい世界ではない、相手が弱いと思いば襲いかかってくる弱肉強食の世界なことは変わっていないのである。
だから自衛する権利はあるし戦わねばすべてを奪われる。
ただその自衛権がどこまで許されるかである。


正当防衛が認められるのは、危機が迫っているとき、生命や身体を守るためにやむをえず応戦したときだけ。また自分の攻撃が相手の攻撃と同程度であることも重要で、攻撃しすぎれば過剰防衛に。基本的に素手には素手で、ナイフにはナイフで応じれば正当防衛になりますが、ナイフに対して銃を持ち出せば過剰防衛になります。
http://president.jp/articles/-/9080


正当防衛でも過剰防衛になることがあり日本では他国に集団的自衛権を行使することは過剰防衛になる。その辺のかねあいがむずかしいのである。
本当に弱者として中国であれふみにじられたら日本は怖い国になる。チベットとか・・
日本が中国にふみにじられたら太平洋戦争のように総力戦になり抵抗するから日本は簡単は中国でも征服はできない。


敷島の 大和心の ををしさは  事ある時ぞ あらはれにける 明治天皇


こういうふうに危機に際して日本人は大和心が起きてくる国である。


ともかく津波原発事故から日本は激動の厳しい世界の転換期に入ったゆく予感がする。
だから今の若者はかなり厳しい時代を生きることになるかもしれない。
団塊の世代は恵まれた時代であり平和を謳歌した世代だった。
戦争で死んだ人たちは不孝な時代を生きた。ただこれから時代的に厳しい世界を生きることになるかもしれない、ニートとか若者がいるけどそういう人たちも今までとは違い厳しい立場にたたされる。徴兵制もありうる。
常に時代は変わっている。世界情勢も同じままではない、だから一身上でも団塊の世代は恵まれていたし自分も恵まれていた。
それが60年すぎて自分の一身上でも回りも激変してしまったのである。
 

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2014年07月05日

民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった (その最大の弱点は時代が特定できないこと)


民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった

(その最大の弱点は時代が特定できないこと)

 

文書の記録より口碑を重んじたのが民俗学を創始した柳田国男である。歴史というと文書が中心だかけど考古学などが発達して地中に埋もれたモノからも歴史を探るようになった考古学は年代を測定できるので証拠が確実にあることで信用されやすい。
文書にはそれがすべて正確とは言えないしその時の権力者の恣意によって左右される。
権力者に都合の悪いことは記されない、今回の原発事故でも権力側によって情報が操作されたことでもわかる。
マスコミも真実は報道しない、NHKもしない、権力によって権力側の圧力によって情報が操作される。NHKは中国や韓国寄りだということが常に今でもネットから批判される。
在日の人が牛耳っているからそうなるとか言われる。NHKもかたよって情報操作をしている。


だから歴史というのは力の弱いものから見る視点が常に欠けているし消されてしまう。
蝦夷というものが大和王権に滅ぼされたがその実体は不明になる。
蝦夷側から何か記して残すことができなかったとなる。敗者は勝者によってその記録も残されないし消される。
権力者のことは事こまかく記されるが一庶民のことは記されない
だから記録として残っているのは戦国時代なら戦争のことでありそれで家臣が死んでどうだこうだと事こまかに記されている。相馬藩でも慶長津波があった時期も戦国時代の末期であり秀吉、家康の時代だからそのことは事こまかに記されているのだ。
慶長津波のことは溺死者700名した記されないない、だからその時の庶民の暮らしがどうだったのかというのもほとんどわからない。
一庶民は何かその頃、日記に記すようなこともなかった。何かを記すには紙も高価だし字も書ける必要があるし簡単にできない、墓すら高価で庶民は残せなかった。
江戸末期に庶民豊かになりわずかだが墓を残すようになった。


だからそうした庶民の歴史は伝えられないので戦争ばかりが歴史ではないと柳田国男が口碑を重んじる民俗学を創始した。文書に残らない学問の追求だった。
そのことはやはり今回の津波で歴史研究では大事なことが判明した。
慶長津波のことを文書に残っていないから知る術もないということである。
相馬藩でも関心は戦争のことであり跡継ぎ問題であり慶長津波については700に溺死としか記されていない。
だから本当にそんな津波があったのかとまでなる。
そんなに被害があったならなにかしらもっとその被害状況などが記されていいはずだからである。それが全くないということが大きな歴史の空白を生みこの辺には津波が来ないんだという信念にまでなっていた。
それは慶長津波についての記録がないことがその原因だったのである。


そもそもその前に海辺で暮らしていた人の暮らしもよくわからないのである。
どんな人が住んでいてどんな暮らしをしていたかもわからない
庶民が日記を残したりしていないからである。
記録を残すにしても400年前となるとそれを残し維持するだけでむずかしくなる。
相馬藩政記が残されたのは相馬藩の政治として権力があって残されたのである。
庶民は権力がないのだから残せないのである。
つまり庶民の暮らしより戦争に勝ったか負けたとかが大事になる。
そこで死んだ家臣のことは詳しく語られるのである。


だから津波に関しても柳田国男の追求した口碑とか伝説とか民俗学はやはり歴史をどうとらえるかで重要な新しい学問だったのである。
郷土史というとき、それは広範囲な知識が必要であり一人だけではできない
地質学となると科学的知識も必要だし生物学的知識も必要である。
そういう総合的なものとして郷土史がある。


原発でもそうした津波を考えるのにも伝説とか郷土史などは無視された。
ただ最近科学的調査でポーリング調査で津波の痕跡が発見されて忠告したが東電ではきかなかった。
この辺にはこんな伝説がありますよと言っても科学者は耳を傾けないだろう。


『双葉町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <(双葉町細谷は)伝説細谷千軒といって、海岸まで大変に栄えたという。
 古老の話では、昔、海津波で被害を受けてから、人家も移動したとのことである。
 現在は、海岸もかなり浸食されているが、昔はかなりの集落で、出土品も耕地整理の折に発見されている。『双葉町の人と伝説』より>(『双葉町史』第5巻 民俗編)

『大熊町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <野上向山に「魚畑(いよばたけ)からかい森」がある。大昔、大津波が起きてこの地一帯は海水に侵され、その水が引いたあと魚介類が残ったので名付けられたという。『双葉郷土誌』>


こういうことを調べて忠告しても聞くことはなかったろう。
からかい森とあるようにからかっているのかとさえなる。
郷土史はそれだけ科学の時代には重要視されない


ただ口碑とか伝説とか庶民が伝えたものの最大の弱点はそれがいつ起こったのか、ただ昔々にあったとさでは信用できない、文書に記されたものもすべて信用できないのだがそこに時代を書いてあることが一番大事なのである。
時代が特定できることが歴史にとっては一番大事なことであった。
口碑や伝説は時代がわからないことが最大の弱点である。
なぜなら「てんとう念仏」という言い伝えが柚木に残っているとしてもそれが慶長津波なのかどうかわからないということである。
むしろ自分が発見した海老村の大工の伝説は中村の天守造営の時と時代が特定できるから資料として信頼できるとなる。


自分が郷土史に興味をもったのは墓を見たり石碑を見てからである。そこには必ず時代が特定できる。萱浜の墓地にも天明と記された墓があったからここは古い場所なのだと知ったのである。他にも新地の神社に文禄という碑があったときもこれは古いと見た。
おそらく文禄時代に検地がはじまっていて文禄と記された。検地を記念して石碑が残された。葛尾(かつろう)村にも明暦と元禄の碑があったのでここも古いなと思った。
時代が特定できないと津波のことでも一体それが貞観津波のことなのか慶長津波のことなのかそれとも別な津波のことなのか時代を特定できないから困るのである。
だから文書中心の歴史の解釈になってしまうのである。

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新地町の神社にあった

posted by 老鶯 at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

南相馬市が賠償金で分断されたのはなぜか? (南相馬市民としての一体感を計る政治的配慮が必要だった)


南相馬市が賠償金で分断されたのはなぜか?

(南相馬市民としての一体感を計る政治的配慮が必要だった)

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なぜ南相馬市は賠償金で分断されたのか?
それは合併前の小高町、原町市、鹿島町の三つの区域に東電で賠償金の額が決められた。鹿島区は30キロ圏外であり一番安くされた。
小高と原町は賠償金に不満はない、鹿島区だけが割りを食ったのである。
小高は警戒区域になって住めなくなったのだからそれなりの賠償金をもらえることは当然だとなる。
原町にすればここも一時避難命令が出たから避難した人も多いから鹿島区より多くもらってもいいとなる。
鹿島区は30キロ圏外であり屋内退避地域だから一番少なくなった。


そして南相馬市では小高と原町では賠償金について不満はない
原町でも二年分とかで一人十万もらっているとかこれはわからないにしても多いと思った鹿島区は一人十万で七カ月分である。原町と鹿島は相当に差があるのだ。
だから小高と原町は不満はなく鹿島だけが無視された結果になった。
最初は市の調整金から鹿島区に一所帯百万を出すというとき、原町の人がかなり厳しく反対したのである。
その時はまだ東電からの賠償金がどういうふうにもらえるのか未定であった。
その金は一時的に市の調整金から出したのであり仮払い補償金だった。
あとで本賠償で東電から支払われたのである。
だから市の財政の負担になったことはないだろう。


何がここで問題になったかというと南相馬市が合併する前のそれぞれの事情で元の市町村に分断されてしまったのである。
南相馬市に合併したなら南相馬市として一致して市政にあたらねばならない。
それが賠償金の額で分断されたのである。
ただ小高と原町は多数になったから少数派の鹿島区は無視され犠牲にされた。
民主主義は多数決の原理だから少数派は無視されというのもしかたないともなるのか?


でも南相馬市として共同性を保つには何か政治的配慮が必要だった。
鹿島区選出の議員もこのことで何か市議会で訴えるのも聞かない
これは南相馬市の政治的問題だったのである。


この賠償金問題は他ではどこも原発事故の被害を受けた町でも村でも分断されていない。大熊町でも双葉町でも浪江町でも飯館村でも一つになって賠償金を東電や政府に要求している。その町や村で差別はないのであてる。
南相馬市だけが賠償金で分断された。特に鹿島区だけか割りを食ったのである。
小高にしても本当は小高町となって一つとなって賠償を要求した方がわかりやすかった。そうすればもっと賠償金も交渉はしやすかったのである。


ところが南相馬市になったとき、小高町としては要求できない、南相馬市の一部としてあるのだから要求できない、すると南相馬市として要求するのだがそれも東電や政府によって決められたことに問題があった。
政府や東電は南相馬市のこうした事情を考慮しないで賠償金を分断して決めた。
そのことについて国会議員も動いていない、福島県選出の議員が東北の復興担当になっているのにこうした南相馬市の事情を考慮していない


南相馬市はまず南相馬市として一致して東電に賠償を請求するべきだった。
南相馬市に賠償金を払うのであり小高とか原町とか鹿島とかに分けるべきではなかった。確かに放射線量とか被害の大小があったが放射線量は山側をのぞいてそんなに変わらなかったからである。
政府も東電も南相馬市と交渉して南相馬市と一括して賠償金を払うべきだった。
なぜなら南相馬市は一体であり別々に払ったら南相馬市ではないとなる
南相馬市の市民として一体としてこの問題にあたるべきであり
そうでなければ南相馬市として合併した意義もなにもないのである。


南相馬市に合併したのは日が浅いから一体感もないし南相馬市民という感覚も育っていない、
でもこういう危機の際には一体感を作るチャンスでもあった。
日本には市民という感覚はないし相馬藩という歴史はあっても市民という感覚は薄い、
だからどこの市に属していてもその市と一体化する歴史感覚がない
ヨーロッパでは市が国であり市に市壁を巡らして生死を共にしてきた歴史がある。
だから市で一番立派なのは市庁舎でありそれも古いのである。
それは三百年とか五百年の歴史がある。市と市が戦争していたのがヨーロッパだった。
日本では市にあたるものがなく藩が市の代わりになっていたのであり
藩より村が一体感をもつものとしてあった。
そういう歴史の違いがあり日本では市民意識が薄いのである。
パスポートでもどこのcitizen(市民)なのかと書かねばならない、どこの市民に所属するのが大事なのかとなる。ヨーロッパは市が一つの国のような役割を果たしていたから
そうなる。


つくづく今回の津波や原発事故は様々なことがテーマとなった。だからいろいろなことを考えるようになった。そもそも故郷はなにかなど当たり前にあるものだし考える必要もなかったのである。それが故郷を離れ故郷に住めなくなり故郷失う流民のようになることなど想像もできなかったろう。
明らかに避難区域などは流民化したのである。流民という現象は世界では国と国が争い起きていることである。日本国内で流民化するということは考えられなかったのである。
だから双葉町なら双葉町、浪江町なら浪江町、飯館村なら飯館村とその町や村の一員であることを否応なく強く意識させられる結果になったのである。


ただ南相馬市はそういう一体意識がなく分断された。特に鹿島区は除外されたようになってしまった。
南相馬市の一体感を作るには保つには政治的配慮が必要だった。
南相馬市として政府や東電に議員を通じて政治的にはたらきかけ運動する必要もあった。一方的に政府や東電から決められことが南相馬市の場合はよくなかったのである。


この原発事故問題は福島県民としての問題でもあった。会津などは遠いから関係ないと思ったがそれなり放射性物質もとんで山菜などに影響したし観光にも影響した、そして浜通りから避難民が仮設に住んでいる。だから福島県全体を意識させられる問題でもあった。ところが浜通りと会津は風土も違っていて一体感がないのである。
だから浜通りに原発が建っても関心がなかったろう。中通りさえそうだった。
それが福島市や郡山市の方が実際は放射線量が南相馬市の海側より高かったのである。
だからそこは賠償金をもらえないから避難した人たちに不満をもっている。
原町の人が福島市で車を傷つけられたというときそんなことあるのかと思ったがやはり福島市は放射線量が南相馬市より高いのに賠償金がもらえいな不満があってそうした。
福島県内も分断されたのである。福島県知事選挙など関心がなかった。
でも原発事故は福島県全体に影響していたから福島県の政治もこうなると直接影響するのだと現実の問題として自覚したのである。


ところが原発はどうして建てられるかというとその建てる地権者と漁業権とあとは県知事の許可で決まっていたのである。そんな狭い範囲で決められるものではなかった。
その影響は福島県全土に及びさらに東京までも及ぶものだった。
だからすでに原発は一国家の問題でもあり地球環境破壊するから世界の問題でもあった。そういう認識はなくその狭い地権者とか漁業権者と知事の許可で決められていたのである

ともかく津波や原発事故は様々な問題を浮き彫りにした。そこに様々なテーマが生れた。それは人間社会全般に及ぶものであり単に科学だけの問題ではないのである。
フクシマの再生なくして日本の再生がないというときここがそれだけ現代の様々な問題の象徴的場所になってしまったからである。





citizen(市民)の歴史的意義
「市民」は、城壁と秩序の「内」にあり、それ(≒社会)を支える資格*1と気概*2をもつ人のことを言う。それをとくに「公民」と訳す場合がある。なので、「市民」とは「〜であるもの」ではなく、基本的に「〜になるもの」だ。つまり、自覚的・能動的存在であり、この点で「民衆、庶民(people)」とは異なる。

そして、とくに civil の用法に注目して分類すると、少し面白いことが分かる。

•(外政に対して)内政の; 国内の,国家の
•(聖職者に対して)俗(人)の.
•(軍人・国家に対して)一般(市民)の、民間の


古代(ほかの都市≒国家)中世(聖職界)近代(官僚機構・常備軍)といった、各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる

http://daruyanagi.jp/entry/2012/12/15/142304


ここの説明は興味深い、


各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる

市民は外政に対して内政だから自治市民としの自由を行使するものである。
だから原発は国家権力で強制された面があったからこれを阻止するのは権力に対抗する
市民である。


聖職者に対して俗人というとき、ヨーロッパではカトリックが政治支配したからそれに対する抵抗として市民があった・・つまり権力に対抗するものとして市民があったということは大事である。
なぜなら原発はそうした権力に対抗する市民がいないかぎり阻止できないものだったからである。
国家権力によっておしつけられてまうのである。
そういう市民意識でも県民意識でも発達していれば原発は権力側の思うままにはならなかったのである。


権力に対抗するものとしての市民の歴史的意義を見直すことが必要である。

集団的自衛権問題でも創価公明党という政治と化した権力と国家権力が一体化して進められる
それに対抗できるものは何なのか?
自由なる真の市民の力の養成が必要なのである。
ヨーロッパには歴史的にあったが日本にはないからこれから作る必要があるのだ。
日本の歴史はそういう点でまだまだヨーロッパに技術では追いついていてもその他の全体的社会構成においては追いついていないのである。


posted by 老鶯 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年07月06日

山の抽象画


山の抽象画

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にぎやかな山々

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朝の山々
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夕べの山々

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隠された山

これは抽象画というより具象である。見れば誰でも山とわかる。
パソコン画といえる。
この作り方がソフトのプロセスがわかったのでできた。だいだい三つくらいの過程へて
この山になる順序があった。
だからこれもまた機械的手順がわかったからできたのである。


抽象画でもパソコン画でも具象と結びつかないことはない
必ず抽象画でも具象と結びついている
抽象画はただ量を作っているとその一連のものとして表現すると訴えるものができてくる

山をテーマにしたり海でもそうだし花でも抽象画を作ってゆくとテーマごとに作品になるから見る方もわかりやすくなる

山という時、山は阿武隈山地があってもこの辺には山はない、会津には1000メートル級の山がひしめくらうにしてある。
だから山を知りたいなら福島県では会津に行かないとわからない
そしてあのように無数の山を見ているとどうなるのかということもわからない
この辺では毎日海を見ているから山を見ている感覚がわからないのである。

ただ山というと会津の山々をイメージするのである。
福島県はだから山の文化があり海の文化がありその範囲が広いのである。
本当は会津は風土的にも文化的にも別な世界である。

福島県は浜通りは今回の地震津波でわかったように
宮城県の沿岸地帯の方とつながりが深い、歴史的にも伊達藩とつながりが深かった
だから相馬藩というのは福島県という感覚が風土的にも地理的にも一体感がないのである
ともかく山の文化は会津にあり海の文化は今回の地震津波の被害地帯にあったのである。文化的地理的風土的一体感があることを認識させられたのである。

2014年07月07日

福島県の郡山市や福島市も避難民に不満 (原町の人が福島市で車を傷つけられたのは本当なのだろう)


福島県の郡山市や福島市も避難民に不満

(原町の人が福島市で車を傷つけられたのは本当なのだろう)


福島県の中部に住んでる者です。


現在、震災から時がたちましたが、福島県では今別の問題が生まれています。
それは、避難民との経済格差。
裕福なのは、避難民の方です。

まず、避難民が現在まで貰った金額の内訳です。
アパート代は無料(良いアパートはすべて避難民が占領)
医療費無料
衣料費無料
消耗品無料
税金無料
光熱費無料
消耗品や衣料費はレシート送れば全額でます(何万でも)
1人毎月10万の小遣い(赤ちゃんから)
学費無料
第一次賠償で1世帯300〜600万。
第二次賠償で1世帯3000〜6000万。
避難民だから安くしろ、と怒鳴る。
働かなくても金が入るため、今福島県のパチ屋は避難民でいっぱいです。
避難民が実際に出しているのは食費のみ。
なのに金がない、金がないと叫んでいます。
何かにつけて「私たちは故郷をおわれたの。可愛そうだと思わないの?」と言います。


故郷がなくなった悲しみは計り知れないのはわかります。
ですが、あからさまに裕福な暮らしをして、働かずもっと金を寄越せという暮らしぶりに、福島県の中部や西部に住んでいる人たちは怒り浸透です。


避難民は「働かなくても金が入るから帰りたくない」と、アンケートに大多数が答えています


(避難民との格差)
http://mikle.jp/threadres/1888746/



福島市で原町の人が車を傷つけられたというのはやはり本当なのだろう。
南相馬市でも賠償金もらっているということがあるからそうなる
福島市とか二本松市とか郡山市はもらえない
そういう都市に浜通りからの避難民が多い。


このことがあまり話題にならないけど福島県内も賠償金問題で分断されている
南相馬市内でも避難した小高区の人に不満が多い。
小高区の人は家に帰るだけで何万とか手厚い補償がある。何から何まで賠償金が出るのである。


結局福島市でも実際は放射線量は浜通りより高い所があり何でそっちばかり補償金が出るのかとなる。ただ福島市とか郡山市とかは人口が多いのだからとても補償しきれないだろう。だから原発は大都会の近くに建てて事故が起きたら補償できなくなる
小さな六ヶ所村だったらすでに東電とか政府で買い取る規模だったのである。
双葉町や大熊町も実際は政府と東電に買い取られていたのである。
だから原発事故後は放射能に汚染された廃棄物の処理場にされる。


福島市や郡山市で不満なのは放射能の実害が同じようにあったからである。
もし浜通りだけに限定されていたらこんな文句も出なかったろう。
なぜ浜通りだけが優遇され賠償金がもらえのだとなる。

ところが原発を建てる時は中通りでも会津でも関心がなかった。事故が起きて福島県全体に実害があったから今になると騒いでいる。
もし中通り福島市でも郡山市でも最初からこんな被害があるなら原発に反対するから建てられなかった。そこが大きな誤算だったのである。
自分の住んでいるところも遠いと思っていたから関心がなかった。
30キロ圏外であり実際にそうだった。
ただ中通りだったらまず原発事故であんなに被害があるとは誰が予想していただろうか?
原発自体に関心があった人がとれくらいいただろうか?
そこが原発の最大の盲点だったのである。


イワキでは原発避難民に対して不満が多く実際に落書きなどされたり車を傷つけられたりしている。ところが中通り郡山市とか二本松市とか福島市ではそういうことをあまり聞かない、会津でも避難民がいるから不満かある。しかしそういう不満があることを知らないと問題が起きる。


不思議なのはこの辺でも避難民で仮設に住んでいる人たち2000人以上いるかもしれない、そういう人たちが働かなくても食べていける、贅沢できるということである。
部屋は狭いけどそれだけの人間が働かなくても食べていけるということがやはり現代が豊かな時代であり広域社会だから食料はいくらでも入ってくるから困らない。
もし避難民がこれだけ入ってきて働かないで遊んでいるとなると労働者だって不足して世話しきれないということが起きてくるはずである。
確かにスーパーでもどこでも人手不足で募集している。介護士も地元では働く人がいないのでよそから来た人で今はまかなっている。
いろんなところで人手不足だけど食べるに困る人はいないのである。
むしろ食べ物は贅沢しているのである。


広域社会になるとやはりモノは金さえあれば入ってくる。モノが入ってくればこれだけの人間が増えても食べる分には困ることがないのである。
もし昔だったら食料を地元まかなうとなると2000人も増えたらまかなえきれなくなるだろう。米だってたりなくなるだろう。それが全く困らないのである。
2000人以上が増えても遊んで暮らしていても食べる分は別に全く困らず供給されているのである。
農村地帯で米も全くとれなくなっても米はやはりいくらでも外から入ってくるから困ることはないのである。
もう江戸時代あたりだったら地元で米がとれなくなったら飢え死にしている。
他から入ってこないからである。


やはり人間は食べ物はあるというとき危機感を感じない、誰もだから飢饉のことなど理解できない、人間の最も苦しいことは食べ物がないことだからである。
確かに狭い部屋にしろ避難民の表情は苦しいようには見えない、追い詰められてもいない゛今日もパチンコ屋だというのも不思議なの光景である。
だから避難民がかわいそうだなどということはないのである。
もちろん避難民にすれば故郷を土地や家を失ったことは金には替えられないということはある。
でも人間は食べ物があるということで危機感をもたないのである。
ただそうはいっても精神的苦痛はかなり大きいだろう。
なれ親しんだところから離れて暮らすことは容易ではないからだ。


要するにいくら補償金もらって金があるからと言って避難民は大きな顔をしていられないのである。それが何もしないで遊んで暮らしているとなると何なのだとなる。
確かに金があれば消費すれば地元でもうるおうじゃないかということはある。
でもその金だって福島市でも郡山市でも会津だって賠償されてもらいたいものなのであるなぜ避難民だけに特別手厚いのかなって不満が起きている。
それは南相馬市でも小高の人に鹿島区の人は不満がでるのと同じなのである。


いづれにしろあまり中通りのこと福島市でも郡山市でも会津でも避難民についての感情的なものが表にでてこない、報道もされない。だから原町の人が福島市で車を傷つけられたというのが理解できなかった。だからこれも南相馬市になると気をつけた方がいいとなる全国でも南相馬市とか福島市となれば何か税金泥棒だとか原発乞食だとか感情的に悪くなっているからこれも気をつけねばならい、東京辺りでギャンブルなど遊ぶべきではないが現実にそういう人はいる。ただ出身県は隠しているだろう。
車はナンバーなどで隠せないから傷つけられたのである。

posted by 老鶯 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年07月08日

抽象画(山の百態) abstract( the shifting scene of mountains)


抽象画(山の百態)

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バソコンは一つの絵でも加工して変化させて楽しむことができる。
この山の絵を作るのは一つのパソコンの機械的作業の順序でできる。
それは企業秘密になる。
パソコンはまずソフトを使いこなすことがむずかしい
今やハードの面ではなくソフトの面で使いこなすことがむずかしい。
でもソフトを教える人は最近出てきたそうだが少ない
絵を加工するにしても自分で試して発見するほかない
何回もやっている内にこの山の百態を作る手法を発見した
それは想像ではなくまずソフトの使い方を知ることだった。

ソフトは2000円のでも使いこなすことがむずかしい
必ず使っていない機能がありそれを発見するのも何度もためしているうちわかる
だからこれは科学の実験作業とにているなと思った。

これはだから新しい絵の楽しみ方なのである。
想像というよりは絵の楽しみ方の発見なのである。
これがこんなふうに変化したとか楽しめる
山の絵でも百にも変化して楽しむことができる。

こういう楽しみ方は今までなかったのである。
なんでも楽しみながらやれれば人間はそこにエネルギーを費やす
例え金にならなくても利益にならなくてもやりつづける

それは何かを創造しているという充実感をともなうからである。
それが第三芸術でもそうなるのである。
ただ見ているだけではつまらない
芸術は鑑賞して楽しむということもあるがもう一つやはりそれに自分も参加できる
なにかしら創造作業に加わるということがないとつまらなくなるのだ

木陰(相馬市の諏訪神社を訪ねる)


木陰(相馬市の諏訪神社を訪ねる)


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これは天明ではなく天保なのだろう 保の古い字なのだろう
わかりにくいがもう一度確かめる必要がある。

諏訪神社大杉古りて木陰かな

樹々古りて諏訪神社の木下闇
夏鶯夕月いでで草青し
夕雲の紅さ残りて夏野かな
夕蝉や帰りを急ぐ介護かな


宇多川の川べり映えぬ紫陽花や城下町ゆく色も染みなむ

古りにける諏訪の社の大杉に欅や影なし夏の日さしぬ

大野村畑耕すや天保の供養の碑あり夏の日さしぬ

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宇多の尾浜


相馬市
 

 相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)


  ○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松  古歌


  宇多の尾浜を詠んだ古歌。


  ○陸奥の宇多の小浜のかたせ貝、あはせても見む。伊勢のつまじろ



諏訪神社の由来も不思議である。ここに船が流れ来て木にとまったという伝説が伝えられているという、その伝説はもともと尾浜にこの社があってそこで伝えられた伝説なのだろう。あそこまで津波が来るとは考えられないからだ。
そもそも神社の由来がはっきりしないものが多い、ここには由来は記されている。


ここでは短歌をとりあげる。
諏訪神社はやはり五百年くらい寿命があるという欅とか杉の木がいい、姥杉は別なところにあり見なかった。道沿いの木を見ても確かに古い。
この道は細く丸森につづいている。丸森から自転車で帰る時、この道を通り諏訪神社を記録していた。
道が細いことは何か通って見るものを記憶に残す、奥の細道は細い道を歩むから見るものが記憶に残ったのである。昔の街道は細いから道沿いのものも親しく記憶に残る。
六号線とかになると広いしただ車が行き過ぎるだけになってしまう。
それでも生きている道だからやはり現代の道なのである。
だから浜街道と六号線は対象的な道である。
この二つの道をいつも行き来しているのだ。


今日は大野村の方に行って多分天保の碑だろう。字がわかりにくい。念仏供養の碑だからあれは明らかに飢饉で死んだ人たちの供養である。そこの畑で耕している女の人にここはどこの村かと聞いたら大野村だと言っていた。
こういう古い碑が何を意味しているのか?
そこで天保にも飢饉がありその供養のために建てられた。そういう歴史がここにあるということを知る。そしてそこに生き続ける人たちがいる。
だからその碑が大事なのである。それがなくなると昔を偲ぶことがむずかしくなる。
浪江町などでも歴史があったがあそこは古い碑を見ていない、そういう歴史の継続が失われると人間の生も先人の苦労など知らないものとなってしまう。


相馬市でも松川浦でもその歴史が自分にはわかっていない、この歌を見ればこれはいつの時代なのか?奈良なのか平安なのか古いのである。
すると松川浦も奈良や平安から知られていた古い地なのかとなる。


今回は短歌のことであり歴史的なことはまた調べて次に書いてみよう
岩崎氏の短歌の碑があったが時雨の歌だったがあまりいいとは思えない
ただあそこの位置と古い樹が印象に残る場所なのである。
あそこの道が丸森に通じているというのも何回も丸森に自転車で行き来していたからそう見るのである。
あの辺は黒木であり黒木氏は伊達藩について鹿島の田中城で相馬氏と戦った。
黒木といえば黒木氏なのである。
でも黒木というと広いから旧大野村ということを聞いてあの天明の碑があったのは大野村である。
実際は自分は相馬市や原町についてはなかなかわからない、特に松川浦はやはりもっと調べて知る必要がある。それは津波のことをもっと知りたいからである。
それが最近は郷土史を調べる動機になっているのだ。


ともかく介護になってからはせいぜい原町ー相馬市までくらいしか行けない、なぜなら食事の用意をしなければならないからゆっくりしていらなれないのである。
今は日が長いからいい、介護になるとまず拘束されて自由が奪われてしまうのである。

 



 

2014年07月10日

合歓の花、月見草(変化した七月の相馬の風景)


合歓の花、月見草(変化した七月の相馬の風景)

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復興の田んぼに鳴きぬ夏蛙

甲高く喜び鳴くやここに田の復興しつつ夏の夕べに
月見草草むら深く咲きにつつ日影蝶舞い雨しととふる
大きなるでで虫一つ道よぎり遅き歩みや夏の夕暮
合歓の花月見草咲くこの道の草むら深く鶯鳴きぬ
蓬田の名こそありにし八沢浦津波の跡や夏の夕暮

津波と原発事故で相馬の風景は変わってしまった。
特に南相馬市は原発事故で田畑が原野となったから変わったことを報告してきた。
その原野の風景が不思議なのである。
田んぼが草原化した風景がなんとも不思議なのである。
その風景は北海道でありモンゴルのようにもなっている。
クローバーの野が広がるのは夏野である。

でも日本ではたいがい田んぼが広がっているのだ。
ただ草原化したとき、夏野らしくなる、夏雲雀などもあっている
そもそも田んぼは本当は原初の自然ではない、作られた自然だった。
もともとは草原であり森であったのだ
だから田んぼがなくなると元の森や草地に還る
いづれにしろ草はほうっておくとすぐにぼうぼうになる
だから絶えず草刈りが農家の仕事になる。

ともかく六号線でも道の脇が草が深く繁っている。
一匹大きなでんでん虫がよぎって歩む
小さいのは見ているが大きなものはなかなか見ない
今は合歓の花も盛りになっている。

南相馬市でも一部だが田んぼが再開している。甲高く蛙が鳴いた。
すると前の風景にもどりこれが復興なのかと思った。
ただまだほとんど原野の風景であることには変わりない。
蓬田は柚木なのか、八沢浦だと思っていた。
そもそも柚木は鹿島だと思っていたが相馬市になっている。
蓬田というのはあそこに津波の伝説が残っていたので注目された。
今回はこの津波で注目されたところがかなりある。
美しい八沢浦がもどった・・とかの自分のプログのページには相当アクセスがあった。
あれは衝撃的な写真だったしあまり津波で美しいなどと書いた人はいなかったろう。
八沢浦は古歌が残っているように美しい浦だったのである。

夏でも七月になると合歓の花や月見草や昼顔などがさきはじめる。
それから八月の盛夏になる。この季節は梅雨だからあまりぱっとしない季節である。
でもやはり花が季節の変化を告げているのである。

2014年07月11日

津波被害者と原発被害者が一緒になる混乱 (一番かわいそうな津波被害者は隠される)


津波被害者と原発被害者が一緒になる混乱

(一番かわいそうな津波被害者は隠される)

今回の津波から原発事故の被害では津波被害と原発被害者が同時に起こり混乱した。
今でもその混乱状態はつづいている。
仮設でも津波被害者と原発被害者が一緒に住んでいる
それで補償金などで反目しあっている
宮城県とか相馬市などだと津波被害であり原発事故の被害者にはならない
その代わり補償金ももらっていないので不満がある
南相馬市を例にすると

津波被害者と原発被害で避難生活(小高)

小高の人にも津波被害者はかなりいる。それと同時に避難区域になったので避難生活をしている。
ところが津波被害者と原発事故の被害者は別なものなのだが一緒になってしまった。
小高でも津波被害者がそれなりにいるが一万二千くらいの人口があり津波被害者は一割くらいかもしれない、あとの人は家もあるし家族も普通にある。
一方津波被害者は家を流されたり半壊になったり家族を失った人たちもいる。

自分が「小高の人は帰れ」と言ったとき、津波被害者と原発被害者を一緒にしていたのである。津波被害者は家も流されたりしている人がいるのだから帰れないということがある一方で原発被害者は家も土地もあるのだから警戒区域は解除されたのだから帰れと言ったなぜならただ補償金をもらうために仮設で遊んでいるかだけだからである。
そして南相馬市全体で考える時、南相馬市で土地を供給して住まわせることに限度がある土地不足が深刻なのである。だから小高区の土地を活かしたいということがある。
必ず仮設の人が土地がないかとたずねるからである。
一部復興住宅も小高に建てているのはそのためである。
南相馬市全体で考えれば小高を無人化できないのである。

津波被害者と原発被害者は一緒になった結果、混乱している。
原発被害者は別に家族を失ったりしていない、警戒区域では家には住めなくなったが
小高では住めるようになっている。
原発事故では避難するに当たって関連死があったから家族が死なないというわけではないただ津波の被害者は死んだのとはまたそれとは違っている。
かわいそうだというときどうしても津波の被害者には言える。
でもそれが原発事故の被害者になると全部がそうとはならない
土地も家もあり家族も死なない、仮設で狭い暮らしが不便だけど補償金がたんまり入ってくるからかえっいいという状態の人もいるのだ。
だからそういう人を全部かわいそうだとするのには問題がある。
何か何でもみんなかわいそうだとなって外の人も応援した。
実際はその被害が二十三重になりこの辺は複雑なのである。

津波の被害者でも船主とか漁業組合員は今度は東電から多額の補償金をもらいつづけられる。でも同じ海岸にそって住んでいても漁業にたずさわらない人はもらえないのである。これまた不公平があり不満がある。ただ津波の被害には同情される。
結局津波被害者が多数の原発被害者のために少数者のようになってしまっている
仮設でも原発被害者が多いから外から来ても津波被害者との区別はできないのである。
かわいそめうだというとき津波被害者が優先されるべきだった。
その人たちは家も土地も家族も失っているからである。
ただいっしょくたくに津波被害者も原発被害者もされてしまったのである。

イワキでは双葉とか大熊とか原発事故の避難者が多額の補償金もらっているのに俺たちはもらえないと不満になっているのもわかる。
津波の被害者の方がかわいそうなの人たちなのである。
それが原発事故の被害者や避難者があまりに多いのでその声がかき消されてしまったのである。
鹿島区でも津波の被害者が同じ仮設に入っているが小高の人は原発事故で補償金をたんまりもらっているが俺たちはもらえいないという不満があるのもわかる。
かわいそうだというとき津波の被害者の方だからである。
南相馬市はそうういことでも何か混乱状態がつづいているのである。

南相馬市の行政ではこうした全体を視野に入れて補償金問題にあたらねばならなかった。でも何もできなかった。だから互いに反目しあいばらばらになっている。
ただ住民も小高は小高、原町は原町、鹿島は鹿島と共同性がない。
結局合併したのはいいものの前の合併前の状態にもどってしまったのである。
ただ南相馬市となったのだから今こそ南相馬市としての全体の構成と統一を計らねばならない。それは行政でも市民でもそうした意志をもたねばならない。
でも個々人の欲望が先でありそんな南相馬市の全体のために犠牲になれと言ったり指示に違うこともないだろう。
だからこそ若い人はこんな都市は嫌だと流失しているだけなのである。

前にも書いたようにそもそも日本ではそんな市民意識が育っていないだろう。
ただ村意識が基盤になり市民意識となるとない
ただ南相馬市となった以上、合併したのは市民としての南相馬市を作ってゆくということにあった。ただ一緒になるのではない、そういう意義もあった。
だから南相馬市全体を視野に入れるということが必要となる。
だから小高の人は損したようでも南相馬市の一員なのだからイワキのように双葉や大熊の人たちが露骨に責められることはないのである。
そうならやはり自分たちは補償金をもらえばいい、南相馬市のことなどどうでもいいとはならない、現実に小高は住みにくくなってもやはり南相馬市であり行政でも予算をそこにつぎこむし南相馬市として活かさねばならないからである。
こういう緊急事態に南相馬市民とてし協力しあえればそれなりに南相馬市が合併した意義があり将来の市のアイディティティもつくられてゆく、ただ現実はかえってばらばらになってしまっていることが問題なのである。

 

夏の草原の夕べ(津波の跡が草原化した風景の不思議)


夏の草原の夕べ(津波の跡が草原化した風景の不思議)

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広々と草青々と月涼し
草原に昇る満月夏の夕
草青し夕べ湿地に夏の月
夏鶯夕月いでで草青し
夕雲の紅さ残りて夏野かな

津波跡湿地生れて草青し夕べ水面に風の涼しも
津波跡葦の覆いてヨシキリのしきりに鳴きつ雲夕焼けぬ
一本松残りて夕べ風涼し草原広し海も広しも

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この辺では二重に原野化している。一つは津波の跡が原野化、草原化、湿地化している。
津波の跡はより元の自然にもどっている。
放射能汚染で原野化したところはまだ田の区切りなどが残っている。
でもウマゴヤシ、クローバーが生えて北海道のような風景になっている。
この風景は何といっていいのか不思議である。
これもしかられるが正直これまた風景の変化であり気持いいとなる。
北海道に行かなくても北海道に来ているのかと思う。

もう一つはモンゴルのような草原とにているのだ。
モンゴルでもこうした草原がどこまでもつづいている。
そして小さな湖がありそこに菖蒲などの花が咲く
ここでも雨がふったから湿地化して水がたまり沼地化する。
その水面をトンボが飛んでいる。トンボは繁殖のために水のあるところによってくる。
日本では雨が多いからすぐ湿地になりやすいのである。
こういう景色は何か今までとは違って田んぼのある風景とはかなり違う。
草原には夏雲雀とか燕とか葦にはヨシキリがもともと巣を作る、それが河原などと違い草原になっているから広いから気持ちいいのである。
結局人間が住まなくなると自然が生き生きして甦るというのは一面確かである。
これは飯館のような山の村と海岸地帯は違っている。
モンゴルでも北海道でもそうだがこの広々とした感覚がいい。
何かおおらかな気分になる。

これは前の田んぼや実りの稲穂の平野や松原の景色とはあまりにも違っているのである。それは明らかに心にも影響する。おおらかな気分になる。
ヨシキリでも広い原野にほしいままに鳴いて夕ぐれる。
つまり人間のいない世界は自然の生き物にとっては住みやすいとなる。
ともかくこうした変化した風景になじむのには時間がかかるだろう。
だから俳句にするにも何かマッチしないものを感じる。
北海道で俳句があわなかったようにこの草原化、湿地化した風景は俳句にはあわないのである。

今日は暑かったけと海の方は涼しい、いかにも夏らしく涼しい、前よりも涼しく感じる。浜通りがいいのは海からの風が吹いて涼しいことである。
中通りになると蒸し風呂のように暑くなる。
だから浜通りの人は会津とか福島市とか中通りも住みたくないのである。
自分もここは気候だけはすごしやすい所だと思っている。
寒からず暑からずなのである。だから体が弱い人にはいい場所である。
保養にはいい場所である。だからこの気候の良さを活かす街造りもありうるのである。
老人ホームなどは確かに適している。ただ老人の街というのはどうなるのか
それはいいのか悪いのかわからない、ただ渡辺氏がそういう政策を出したことは面白いと思ったのである。

2014年07月12日

相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない (古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)



相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない


(古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)


(つのみや、つのみつ、つの)神社はツヌガノアラシトから来ている

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日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある。かの国で都怒我阿羅斯等が牛に農具を背負わせて田舎を歩いて・・・
となると、天日槍は個人と考えるよりは、新羅からの渡来した集団を指していると考えた方がよさそうだ。そう考えた時に、天日槍や都怒我阿羅斯等がたどった道というのは、秦氏が分布する地域であることから、新羅から来た秦氏という同一系統の氏族の居住地を結ぶための伝承だという人もいる。

 角刺神社は、飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗った、と記されています

「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき故、宇惠々山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」

旧村社「角刺(つのさし)神社」 <近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分>

祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、
ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で
「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されるが、

『先代旧事本紀』中の「国造本紀」では、7世紀前半までこの地方は浮田国造の支配下にあったとされている。大化の改新後に陸奥国が設置されると浮田国造の領土は分割され、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡になった。黒木田遺跡(相馬市中野)が宇多郡の郡衙と推定されている。

『和名類聚抄』には「宇太郡」とあり、飯豊・仲村・長伴・高階の4郷が載せられている
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日)



まず神社や地名を解読する時は大きな歴史の流れを知っている必要がある。
東北は蝦夷が住んでいた。その蝦夷が大和王権に抗して争った歴史がある。
その蝦夷とは何かというと歴史的に明確ではない、ただ蝦夷の字は当て字でありエミシがもともとの名である。蝦(えび)の字をあてている。
南相馬市の鹿島区の海老村は蝦でありエミシの住んで領域である。
海老が当て字だからわかりにくくなっているのだ。

松川浦の津神社の津も当て字である。もともとの呼び名はツノミツ神社である。
ここで誤解したのは津神社となっているから津という漢字にとらわれてしまったことである。津はあくまでも当て字でありもともとはツノミツ、ツノミヤであり漢字にすれば角なのである。津之郷とかあるがこれは必ずしも湊ととは関係ない、ツノは漢字にあてれば角なのである。この起源はツノガノアラシトにある。渡来人に由来しているのだ。
津守(つもり)とあればこれは湊を守る神である。だから津は湊だがツノとなったときはみんな違っている。そして津神社というのは単に一字でツ神社とは言わない、つの神社なのである。

だから小高の角部(つのべ)とあるがここにも津神社があるがこれはツノガノアラシトの角であり渡来人の一団が住んだ場所でありだから部となっている。
その渡来人は製鉄集団であり浜砂鉄をとり鉄製品を作るために奈良や近江からやってきた技術者集団である。

新地町武井地区製鉄遺跡群

南相馬市金沢地区製鉄遺跡群

この二つが大きな製鉄遺跡である。ここが多賀城の前進基地であり多賀城の木簡から宇太宇多という字が発見された。製鉄にたずさわる工人が移動していたのである。
金沢遺跡から今とか渡来人をさす木簡の字が発見されている。
それから白人とかの人名をは発見されているから濃密に渡来人が関与したのが相馬地方だった。
だから松川浦の津神社は三大実録にのる古い神社だというとき奈良の葛城から移された神である。飯豊青というのも天皇の名であり宇多天皇もでているからそうした地名でも神でも移動してくる。

松川浦の津神社(つのみつ)神社は津波とは何の関係もなかった。
ただなぜかツノミヤ、ツノ神社に津が当て字にされたのである。
それは浜砂鉄をとるために海岸線を移動した渡来系の技術者集団が移した神だからそうなった。
何か明確ではないのだが相馬地域までは津神社(つのみや)神社があるが宮城県になるとない感じがする。それは渡来系の氏族が関係していて宮城県までは神社を移せなかったのかもしれない。津神社(つのみや)神社は茨城でも磐城でもあり全国にある。

広島県福山市津之郷町大字加屋

とあるのも津之は角なのである。ここが当て字で誤解しやすいのである。
加屋と伽耶なのである。

津神社はもともと津波とは何の関係もなかった。ただたまたま高台に神社があったので津波と結びつけられたのである。
それでも津神社でも単にツ神社と呼んでいれば津波と関係しているかもれない。
ツノと呼んでいれば角でありツヌガノアラシトにつながる神社なのである。
浪江の棚塩の津神社も七百年とか古いからこうした古代のツノミヤはツノガノアラシトを起源としているのである。

鹿島区の烏崎の津神社は鯨を祭っているから津波と関係しているかもしれない。
慶長年間に祭られたということで時代的に慶長津波があったときだからである。

いづれにしろ津波神社とか津波のために祭られたという神社はない。
浪分神社は津波の浪を分けたというので津波神社だがその他はほとんど津波と関係していない、今回のような巨大津波があって神社に関係させているのでありもともとは古代の奈良から移された神社であり地名なのである。


2014年07月13日

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった (神社の位置が歴史を語る)




南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった

(神社の位置が歴史を語る)

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〈毛人谷〉人なき丘陵に蝦夷の影

 しかし毛人谷の歴史は相当古い。鎌倉時代末期、原野だったこのあたりに戦国武将の楠木正成が出城を設けていた。その名の由来は時代をさらにさかのぼり、蝦夷(えみし)がこの地に住んでいたという説がある。「毛人」とは「蝦夷」の別の表記でありエビスとも読む
 「景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの(中略)を諸国に分かち居らしめしことあらば、或はこの地にも、上古蝦夷の居住せしことありて
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120927/wlf12092712010011-n4.htm

大和朝廷に 征伐された
     クモ(土蜘蛛) と エビ(蝦夷)A

すなわち、大陸系の 『 藤原朝 』 が、列島の原住民(北方系、南洋系)を 土蜘蛛(クモ)・蝦夷(エビ)と称して、多民族国家の 支配を 進めました。

クモ と エビ = 原住民 の歴史です。^
http://utukusinom.exblog.jp/12890768/

アイヌ語で「人間」という意味の「enju」「emchiu」が「えぞ」「えみし」の語源です。「蝦夷」という漢字は、アイヌ民族がエビ(蝦)のようにヒゲが長く、夷(未開の異民族)だったことからあてられました。
北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
江戸末期の北方探検家松浦武四郎の『天塩日記』には、「北蝦夷(樺太)にてアイノをカイナーと呼(び)しが、此山中(天塩)に来り見るに同じくカイナと呼(び)けり」とある。
また、1786年(天明6)に佐藤玄六郎が書いた「蝦夷拾遺」(大友喜作編『北門叢書』第一冊)には、「今夷人(アイヌの人々)皆自らカイと称す」とある
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html

エビシのエビが「えび(海老・蝦)」と同音であり、ヒゲの長いエミシの姿とえび(海老・蝦)の姿が似ていることから、カイのカの表記に「蝦」の字が使用されたのであろう。
http://ryuchan56.269g.net/article/17905483.html


もしこの海老村の海老が蝦夷に由来するとなるとこれは歴史の解明にとって重要である。海老は海に近いから海老だと思っていた。海とは関係ないのである。
もともとこの辺一帯が広い地域が海老であり蝦夷(エミシ)が住んでいた地域かもしれない
そこで注目すべきは今回津波から奇跡的に無傷で残った鶏足神社のある場所である。
海老村は壊滅したがあそこは前に坂があり津波がさえぎられて助かった。
その坂のあることでその下の御刀神社のある家も浪が弱められて家は残った。
そして御刀神社の杉林に漂流物がとめられて家は残った。でも損傷は激しかった。
ここで大事なのはその鶏足神社の位置なのである。なぜあそこに鶏足神社がありその前が海老村なのかというこである。その謎が海老が蝦夷となるとわかりやすくなるのだ。

@大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたこと。
A物部氏の力を借りて大王家は、大和に政権を確立出来たこと。
B大王家の后は、物部氏(含 磯城県主の娘)の女がなり大王家は、大和の地に融合して いったらしいこと。
C大王家は、大和の神、即ち物部氏の神を祀らなければならなかったこと。
D物部氏と出雲は、繋がっているらしいいこと。 

出雲、物部、葛城、蘇我、加羅、新羅系ーー鬼の流れ
        藤原、天皇家、百済系  と区別される。

この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
さてさて、百済は太陽信仰のメッカ、加羅諸国の本家である上伽耶(ウカヤ)を吸収します

冠嶺神社

冠嶺神社は冠小坂でで鳥取越のことで産鉄族の鳥取部と関係していた。「白鳥伝説」谷川健一にこうしたことが詳しく書かれている。猿田彦を祀る勝子神社はカジコで鍛冶ともなる。物部氏とすべて浮田国造は密接な因果関係があるのだ。原町の信田沢はシダ沢であり常陸の信太郡からの地名の移動でありそこは物部氏の領する地域だった。ここにも冠嶺神社があった。物部氏の移動がここでも語られている。唐神は韓神であり帰化人がここに来たのかもしれない。物部氏は武器製造の氏族でありもののふというごとくモノは武器のことでもあった。この一族が桙衝神社(長沼)押雄神社(原町)御刀(ミハカセ)神社を祀った。

磯上物部神、物部阿志賀野神、物部田中神
-------------------------
上氏より物部氏が出、物部氏より阿志賀野・田中氏が出た
長崎県壱岐郡郷ノ浦大字物部田中触

田中とは田と関係なく氏族名と関係していた。中世に田中城があったから古い地名なことは確かなのだ。


 剣岳の西側には鞍手郡鞍手町の新北(にぎた)という地名がある。これは和名抄にいう鞍手郡新分(にいきた)郷で「旧事本紀」のニギハヤヒの降臨に供奉した天物部二五部人のなかの「筑紫贄田物部」に比定されている。そこに剣神社がある。(白鳥伝説)谷川健一


この国造は大和政権とは別の地方の独立した国々であった。右田という地名も 筑紫贄田(にえた)物部とか新分(にいきた)郷がありこれがなまったものでニギタが右田となり右という字があてられたのであり右にある田の意味ではない。新田川も(にいだ)はニエタであり贄田物部とか二田物部から名づけられた


「弥生時代の上毛野には樽式土器を持つ先住民がいたが彼らはしだいに淘汰され、石田川式土器という東海系の移住者たちが毛野の王者にのしあがった。」(古代東国物語)永岡治
http://www.musubu.jp/manoireukita.htm


鶏足神社は冠嶺神社であり海老村の海岸に接して金砂神社がありこれは津波に流されたけどこれも冠嶺神社であり栃窪村のも冠嶺神社であり原町の信田沢の冠嶺神社である。
これは物部系統の神社であり地名も物部氏由来なのである。
だから地名そのものが相当に古いとなる。

だから海老村で何が起きたかとなると海老村は蝦夷だとすると物部氏がその蝦夷と戦ったということがある。物部氏は大和王権の前に物部王国を築くほどの大氏族である。
だから田中物部や贄田(ニギタ⇒右田)物部となり地名化した。
田中城があるところがそうだった。もともとそこは田の中にあった城ではなく湿地帯に囲まれていた。だから田中城となるのは地形的にもあっていないのである。
物部氏は原町の桜井古墳を作ったともされる。この辺は物部の支配下に最初はあった。
物部吉名という人がいたが小高の吉名郷というのはまさに物部氏の郷だったとなる。
物部氏は鶏足神社のあるところで蝦夷と戦った。その蝦夷がいたから海老村となった。
それを如実に物語るのが御刀神社なのである。その神社が刀なのだから明らかにここで蝦夷と戦った記念として祭られたのである。
その神社の位置が如実に歴史を物語っているのだ。神社と位置はだからきりはなせず一体化してあるのが日本である。
物部氏は渡来系でありツノガノアラシトや伽耶国とも関係していた。
だから製鉄にかかわる技術者が来てその関係の地名や神社を残したのである。
角部(つのべ)とはツノガノアラシト関係の製鉄にたずさわる一族が住んだ地域である。
唐紙とは唐は韓(から)の意味である。それも渡来人によってもたらされたのである。
その後大和王権になると物部氏とか渡来系のツノガノアラシトとか伽耶系とか新羅とかは隠されるようになった。それで地名も伽耶ではなく草や萱や加屋とか変わってしまってわかりにくくなったのである。

日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある
大加羅(おおかや)というときこれに大草とあてた。だからわかりにくくなった。そもそも大草という言うこと自体不自然だからである。
ともかく海老村が蝦夷に由来しているとなるとそれは重要な発見かもしれない。
蝦夷というのがそこに明らかに住んでいた。
その蝦夷の正体は不明になった。北海道に残ったアイヌ民族のことであるというのも不明となった。それでもアイヌ語にその名残りがあるからアイヌ民族が蝦夷だという説が根強くある。

北加伊道」は、アイヌ民族が自分たちの住んでいる土地を「kay」と呼んでいて、そして北に位置することから名付けられました。
北海道というときこれカイに海をあてたからわかりにくくなった。カイとはアイヌ民族のことであった。だから甲斐国とあるときそれはアイヌが住んだ場所のことである。
原町の萱浜はカイハマでありカヤではない、この甲斐はなぜか甲斐かち来ている。
泉長者の伝説に娘の別荘に樋をもって酒を流すときに甲斐椀をもって密かにくみとって飲んだ地を甲斐浜となり樋より酒のもれた地を雫(しどけ)となづけた。

ここにも甲斐がでてくる。この甲斐の起源がやはりアイヌをカイと呼んでいたことにある。地名をアイヌ語で説明した時代があったが今は一部しか信用されていない、青森県辺りは確かにアイヌ語地名がかなりある地域でも証明されていないのも不思議である。
ともかく中央での奈良での興亡が辺境の地の蝦夷にももたらされたのである。
そこには渡来人も深くかかわっているからそこでまぎらわしくなっているのだ。
地名がこうした古代からあるとき、いかに古い歴史の痕跡かわかる。
だから真野の草原はカヤハラは伽耶と関係している地名だとしたのである。
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2014年07月14日

ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)


ノウゼン(仕事をしていると人も街も活きるー小高の人は遊び人になっている)


ノウゼンに蜂の来たりぬ街の家

ノウゼンの朝に散りにき一輪や玄関を入る仕事の女かな
ノウゼンの今年我が家に咲き満ちぬ盛運の時の再び来たらむ


 「凌霄花」は漢名からで、
 「凌」は”しのぐ”、
 「霄」は”そら”の意味で、
 つるが木にまといつき
 天空を凌ぐほど高く登る
 ところから、この名がついた。


確かにこんな感じの花である。


ノウゼンが今年は家に一杯に咲いた。これは数多く咲くから見物である。
ノウゼンは夏らしい花である。これは盛夏にふさわしい。鬼百合などもそうである。
これからが暑くなるからだ。
この七年間は自分の家は災難つづきだった。
この災難の時、弱さにつけ込んで責められたことは忘れられない
人間は恩は忘れけどこうしたひどい目にあったことは忘れられないのだ。
そのことが常に怒りとなってくる
だから人が弱っているとき、苦しいとき自分の利益だけを考えてこの際、相手の弱みにつけこんで得してやろうなどとするならかかわらない方がいい
あとでかえって恨まれるからだ。
だから苦しい人とかかわることは本当は簡単にできないしむずかしいのだ。
その時は何にも得られず犠牲を強いられることになる。
ただ傍観して見ているだけならかかわらない方がいい
つまりただ相手が困っているのを親身にならないで冷たく見ているだけの人が多いからだその人は相手が苦しんでいるのを喜んでいる。
これはチャンスだとその弱さにつけいってくる、こういうことをする人はあとあとまで恨まれる。
ただそうしている本人は何も気づかない、結構助けているのにと思っているのである。

ともかく自分の困難のときは過ぎた、どの家でも困難のときはある。
何もない家族などないだろう。なぜなら必ず病気だとか死だとか事故もあるし
今回のような大きな自然災害もあるし必ず苦難が強いられるのが人間だからである。
自分の家でも中学のとき、父が癌で死んだり不孝はあった。
でもその時は自分は何ら苦難を強いられなかった。
今回だけは全部自分がその苦難を一人で背負ったのである。
自分には一切助けはなかった、ただ弱さにつけ込まれただけだったのである。
保険金殺人のような状態に追い込まれていた。
ただその危機は脱した。
今度はまた我が家は盛運に向かってゆくのだろう。
病気が直ったことが一番心強く思った。
人間病気になったら巨万の富があってもどうにもならなくなる。
そして最後は死があるのみとなる。

ノウゼンが散って朝に仕事の女性が入ってくる。
ともかく人間は仕事しているとき活きている。
街でも仕事しているから活きているのである。
だから小高の人は仮設に入り遊んでいるだけだから活きていない
フィリッピン人の女性を仮設に呼んでいる老人がいる
金があるからそんなことができる
小高の人は補償金の額が大きいからそれで遊んでいるのが多いのである。
だから津波の被害者とかいろいろ別れているけど一番多いのは原発事故の避難者である
その人たちはただ遊んでいるだけなのである。
特に老人はあとがないということで女であれ最後の欲望を果たそうとする
だから老人は復興には向いていない、そんなことよりもうあとがないのだから
欲望であれ果たして死にたいとなる。
老人になったからいって欲望がなくなるわけではない、かえってもう人生も終わりだと思うとき欲望が強くなることもあるのだ。

はっきり言って小高の人たちは同情される人たちではない、
お前たちは金をたんまりもらっているのだからあとは自分たちでなんとかしろとなる
南相馬市民でも原町の人でも協力しないかもしれない
そんなふうにして遊んでいるのに外部の人だって協力するのはいやになるだろう。
もうそういう時はすぎている。
この辺はそうして会社でも帰ってこないというからあと何年かしたら相当にさびれてしまう。
小高の人は同情されないから苦しくなる。若い人は流出しているし町の再建は困難になるでも金があるんだから金でめんどうみてもらいとなってしまう。
かえって金があると人は助けてくれないのである。
お前は金があるのだからと仕事さえ与えてもらえないと浪江の会社経営の人がなげいていたことでもわかる。


 

原発事故の避難区域などは復興できない (高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)




原発事故の避難区域などは復興できない

(高齢化やこれまでの社会構造がコミニュティを破壊)

小さなる畑にとれし不揃い(ふぞろい)のキュウリをくれし土地の女(ヒト)かな

都路でも避難した人が自分で自給自足しているのがいいと言っていた。
つりま田舎では農家なら米でも野菜でも基本的な食料になるのは自給自足だった。
それが買うだけの生活になると違和感を感じるようになった。
田舎では食料は単なる消費者ではなく生産者としてあった。
生産の喜びがあった。その土地からとれるものを食べる
それはいくら金があって買えるからといって生活の充実感はそこにはない
「消費者は王様」だとなってしまったが王様には収穫の喜びが得られないのである。
そしてその土地から何も得るものがなけれも人間は豊かになりえようがないのだ。
その土地でとれるものがあってこそ豊かになれる。
それは肉体だけでなく精神的な面でもそうである。

ただ現実問題としてはその小さな畑でとれるのはかえって何倍もの労力と金がかかる
そして収穫はわずかだから誰も農業をやりたくないというのがわかる
労力や肥料でも何でも小さな畑でもつぎこむエネルギーにしても収穫が少ないのである。でも土地からとれる、土地のものが食べられるということは替えがたいものがある。
なぜなら遠くから外からばかり食料を買っていたら何の豊かさも作り出せないのだ。
その土地からとれるものがあって豊かになれるのである。

だから今原発事故周辺はもう復興はできないように思う。
多額の補償金で働く気がないのと高齢化で将来をどうしようとかならない、
残りのわずかの時間の人生を楽しみたい、欲望でも果たしたいとかしかならない、
老人はかえってその欲望が最後に強くなることがある。
もう人生も終わりだからやりたいことをやって死んだ方がいいと思う。
これが最後の恋だと老人の道連れにされた若い女性がドラマでいたけど
それは現実に起きている。
タケシが百億円で離婚しても結婚したい若い女性ができたというのもわかる。
かえって老人はあきらめでなくあきらめきれないのである。
若い人なら子供がいて将来どうしようかと住んでいて考える
老人はこの先どうしようかというよりもう終わりだとなり自分のしたいことを欲望でも果たしたいとなる。
だから先の長いことは考えたくないししないのである。

フィリピン人の女性が仮設に来るとかやはりそれはイワキでも飲み屋で札びらを切っていた双葉や大熊や浪江でも避難者はそうなりやすいのである。
億の金が入るとなるとそれを将来にどういかすかより老人なら使ってみたいとなる。
欲望があれば今使ってみたいとなる。現実に東京の方まで行って遊んでいる人が仮設にはいた。
小人ではない、「老人蟄居して不善をなす」の時代である。これはここだけの問題ではなく高齢化で増えてくるのだ。みんな老人は優れた人ではない、そういう普通の人が大量に生きる時代が高齢化社会なのである。
津波の被害地などでも復興がすすまないというとき、こうした高齢化の影響も大きいのである。老人は十年先二十年先を見込んで努力できないのである。

そして現代社会はグローバル化だとか広域社会になると金がものいう社会になっていた。金さえあれば何でも手に入るという社会になっていた。
だからそもそも一億円もらったらどこでも暮らせるとなるとこれ幸いと若い人は流出したのである。そういうふうにコミニティ自体が崩壊しやすいものになっていたのである。
自給自足の社会だったらその土地でなんとか暮らすほかない、簡単にはよそに移れないのである。
だから今田舎に住んでいる人に
「一億円もらうとしたらここに住んでいますか」
そう問うとそこが住む価値がある所どうかわかる。これ幸いと住んでいる土地でも離れてよそに住む人はその土地に住む価値を見いだしていなかったのである。
一般的にはそういう人が多くなっているからコミニティは崩壊してゆく。
チェルブエリでも二十くらいの村がなくなった。
その墓標が立っている村の墓地があることも不思議なの光景である。
川内村でも避難区域解除に反対しているのも避難していて補償金をうちきられたくない
郡山市などでの便利な生活をしたら特別の人でないと川内村には住まない
老人は住みたいと言っていたが若い人はそうはならない。

ただ飯館村のような所に住むメリットはあった。
一軒一軒が離れていて森の中にあり広々として住める
それが都会の団地のような所に住むのはいやだというのもわかる。
だからすべてがその場所に住むメリットがないのかというとそういうわけでもない。
その人の主観とか価値観も関係しているから全部はそうはならない。
自分なども医者では困ったけど別に食べるものなど十分だしそれほど不満はない
それなりにそこに住むメリットを感じている人はいる。
特に濃密な人間関係をもっている人は都会では住みにくいだろう。
この世の中で何でもみたされる所などないのである。

ともかく原発事故周辺でも津波の被災地域でも高齢化の問題や現代特有のグローバル化とか広域社会化でコミニュティは崩壊しやすかったのである。
そして誰もあえて苦労はしたくない、老人は余計にしたくないから金が入ればあとは遊んでいた方がいいとなる。最後の欲望を果たした方がいいとなる。
それは自分勝手なことでもそれが現代の生活だったのである。
欲望資本主義でりそれがこの辺では極端な形で現実化したのである。

いづれにしろ絆とか助け合いとか同情だと言われたことももうない、
一時は絆だといって助け合いの気運があった。
それは単にモノを運ぶというだけでも助けることだった。
その時この辺では放射能汚染でモノが入ってこないしくる人もいなかったから
モノを運んでくれ人は人助けになっていたのである。
それが普通の社会にもどったらまた元の社会になった。
今度は逆に補償金をたんまりもらって遊んでいるいるやつらだとしかならない。
そんなやつらを助けどうなるのだとなる。
だから小高の仮設の人を鹿島区の人は良く思っていない。
それはイワキでも二万人くら移住したらここよりひどいことがわかる。
あいつらは金にものいわせて働きもしないで家も建てている
何でも優遇されているとか不満になる。
だから補償金もらっているだけでも反発されているのである。

かえって鹿島区などは一人十万で七カ月分だからもらっていてもそれほどないから他から見ればそんな金ならしかたがないとなるだろう。
でも避難区域の人はそうならないのである。
今は全国からも良くは見られていないのである。

posted by 老鶯 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年07月16日

贅沢を覚えた猫(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)



贅沢を覚えた猫

(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)

●猫も人間と同じだった

猫を飼うということも一つの経験であり猫というものが自分にはわからなかった。
実際に飼ってみて猫というものを新たに理解した。猫にはほとんど関心がなかった。
犬は子供の時飼っていた。猫についてはそもそもわからなかった。
猫も犬と同じく人間が飼うと人間と一緒に生活すると人間化してゆくものだと思った。
その猫はたまたま餌をやったらいつくようになった。もともとは飼われた猫だったのだろう。だから甘えるよに鳴いてよってきた。ただ半年以上すぎるけどまだ時々襲いかかるように吠えるように化け猫のよように口をあけてなる

おそらくこの猫は捨てられて野良猫となり相当に人間に虐待されたのだろう。
だから人間になつかなくなった。その傷が深く忘れられない、人間に恨みをもっている。でも最近は自分のところによってきて眠るからなれてきている。
でもまだ時々口を空けて化け猫のようになる。
ただこの猫はしょっちゅう餌を要求するからよく野良猫として生きていられたと思う。
野良猫として生きるのは相当に厳しいと思うからだ。
猫の胃袋は小さいから食い溜めをできない、だからしょっちゅう餌が必要になるというが野良猫だったらそんなに餌がない、だから相当に窮乏した生活をしていた。
その窮乏感とはその日食えるか食えないかというぎりぎりの生活からくる窮乏感だったろう

野良猫は家猫に餌をやるからその餌をねらってやってくる。野良猫は結構多いものだと思った。最近近くの空家に三匹の子猫が出入りしていたのを見た。
空家だと猫の住まいにはいい場所である。その三匹も野良猫になる。
だから野良猫は増えるから餌をやるなと言う人もいる。
野良猫は結局もう野生の猫のように自分で餌をとれないのだから人間の問題化している。犬のように登録制にしろとか地域猫として飼いとかいろいろ法律まで整備しろとまでなるそれは一個人で勝手に飼ったりするとまた増えたりするから去勢して飼いとかなるからだ猫というのは人間化すると人間の問題になるのである。
だから猫はもう介護までされたり猫の墓まで普通にある時代になったのである。

猫は自分が食事している時、猫が自分の食事しているのを見ている。その時、サシミでも一切れとか与えていたらその味がわかって必ずご飯のとき見ていて分けてくれと鳴くのである。他にも魚類や肉類なども一切れとか分けてやっていた。するとその味を覚えて食べたいとちょこんと座って鳴いて要求するのである。
この猫は自分の家で飼われるようになってから贅沢猫になったのである。
野良猫の時は満足に食えなかった、窮乏していてうろついていたのである。
その生活は相当に厳しいものだったろう。家に入ってきてはぶたれたり追われて生活していたのである。野良猫は飼い猫の三分の一の年くらいしか生きられないという。
それだけ野良猫として生きるのは厳しいのである。

それが一旦こうして贅沢を覚えると自分が食事して何も与えないとすごく不満そうにしている。それがやはり表情でわかるのだ。とにかく食事の時迫ってきて鳴いて「俺にもくれ」と要求するのがわかるからだ。
だから与えないと「なんでくれないんだ」と口に言わなくてもひどくがっかりしたようにして離れるのである。
だから猫もぜいたくを覚えるとその味を覚えるといいものを与えないと不満になるのである。野良猫のようにともかく腹をみたせればいいというのではない、うまいものを食べない日は不満になるのである。贅沢を覚えてその贅沢ができない窮乏感をもつようになったのである。


●モノがない時代の貧困


この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにているなと思った。
自分の子供のころはモノがない何もない社会だった。どこの家でも飯台一つくらいしかない貧乏だった。電気製品は何一つない裸電球一つあるだけだったのである。
食べるものは麦飯でありオカズはコロッケとかサケとか決まっていた。今日ももコロッケ明日もコロッケなどの歌がはやったのもそのためだろう。その頃まだ卵も農家では食べられても一般の家では食べられなかった。だから自分の家では店をやっていたので農家に卵を買いにやらされたのである。卵はずっと贅沢品だったのである。
病人しか食べられないとかの贅沢品だった。

その時代は乞食というのも普通にいた。乞食は戦前も田舎にもいて悲惨だった。
それは野良猫とにていたのである。
ただ回りを見ればみんなそんな何もない貧乏暮らしなのだからその貧乏を嘆くというよりはあきらめて生活していたのだろう。
大正生れの母は今でも梅干しとご飯があると満足するくらいである。
もちろん介護されているのだから食欲がないからそうなっているがもともとそういう暮らしだったのである。粗食で生きてきたのである。ただその後はやはり食べ物は贅沢している、だからエチゴなどやケーキは食べるのである。

現代の貧困は何かというとボロを子供などいないから貧乏に気づかない、野良猫がいるのが普通気づかない、でも猫を飼っていると必ず野良猫もよってくるのである。
この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにている。自分の子供の頃はなにもない、飯台が一つあるくらいの生活だった。電気製品も一つもない、裸電球が一つくらいしかない生活でありそれは共通していた。
食べるものでもオカズは決まっていた。麦飯とかでありコロッケでありサケとかは良く食べていた。肉は食べず卵は農家では食べていたが一般の家庭では食べられない贅沢品だった。親が病人で卵を食べていたのをうらやましがっていたことを話す人がいた。
だから店をやっていたときその卵を農家から買わせられたのである。その時は農家の方が家で納豆まで作っていたのだから豊かだったのである。そもそもモノがない時代はモノを作り出す米でも野菜でも卵でも作り出せる農家の方が豊かになる。
戦争中でも戦後でも着物を食料と代えたということでもわかる。そして農家は汚いとか都会の人に言われた。今でも農家は農家の人が汚いというからそういうことは今でもある。


その頃は乞食も普通にいた。乞食は一軒一軒物乞いして歩いていた。それは普通の光景だったのである。戦前になると山頭火のような物乞いして旅できたというのもそういうことが普通にできた時代だったからである。戦前から戦後十年くらいは普通に乞食がいたのである。今は乞食がいないから貧乏人がいるように見えないのである。
だから貧乏自体がないように見える社会なのである。
現代がいろいろ貧乏のことが言われるようになった時、それがモノがない貧乏ではない、モノがありふれてそのモノが買えないという貧乏なのである。
それは野良猫から飼い猫になり贅沢を覚えた猫と同じである。
うまいものを食わせないと不満になった猫である。その窮乏感は渇望はかえって強くなり不満になる。

●モノがあふれているのに買えない貧乏の時代

例えは新車が絶えずでるけど車を運転できる人なら買いたいと思っても買えない、するといいものがあるのに買えないという不満が渇望感がましてくるのである。
ではその渇望感を充たすにはどうするかというと借金してまで買うということになる。
それでサラ金とか闇の金融から借りている人が八人に一人もいるのが現代社会の実相なのである。充たされない欲望を借金で充たしている異常さなのである。
まず昔だったらローンで家を建てたりはしない、家を建てるのも借金なのである。
だからあとで借金は大きな負担となってまた苦しむことになるのだ。
「消費者は王様」だという社会になったとしても消費する金がない人、貧乏が増えたのである。そんなにモノを作っても売れないとなるとそんなに作ることもないとなる。
少子高齢化でますますモノは売れなくなる。だから実際は作る方も売る方ももう限界にきているとなる。それでもグローバル化社会になるとあらゆる食べ物でも入ってくるからほしいとなり欲望は無限に拡大してゆく。

現代の矛盾はそうしていくらでもモノを作り出しても今度はそれだけのもの買える経済力がない人たちが増加した。フリーターとか派遣とかニートとか正社員でいな人たち増えた。その人たちは賃金が安いのだからモノを買えといっても買えないのである。
これも欲望資本主義社会の矛盾なのである。何か過度な無際限の欲望資本主義が限界にきているのだ。作る方にしても売る方にしても買う方にしてもそれが限りないものではなくどこかでとまる、制限される、それが無限に増えてゆくということはありえないのであるそういう無限に増えるということを追求してゆく社会自体が過ちだとなる。
そのことは社会自体に個々人に返ってくる。


これが今回の原発事故と関係ないように見えても関係していた。つまり身の丈にあった生活ではなく、無限に拡大した欲望を充たす社会だからこそ原発事故も起きた。
豊かになるには原発が魔法のようなものであった。でもそれは危険であったがその危険も無視して豊のためにはどうしても原発が必要であるとなり作られた。
これは石油もそうである、豊かになるためにはどうしても石油が必要であり危険でも石油を得る必要があるとなり戦争してまでも石油がほしいとなる。
原発事故でもそういう無際限の欲望追求の社会にもあった。
人間はどこかで欲をとめない限り危険なものになってゆく。戦前や戦後十年の貧しい時代にもどるのかというのではなく何らかこれだけ豊かになったら欲望の制限が必要になっているのだ。第一みんなそんな欲望を充たされる社会などないから一部の金持ちが豊かな暮らしができても今度は多数の貧乏人が生れる。高度成長時代のようにみんなが豊かにはなれない社会になっていたのである。
売る方にしても作って買う人がいない、こうなれば作る方もまた貧乏になってゆくという矛盾が生れたのである。
posted by 老鶯 at 02:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2014年07月17日

飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか? (放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)


 
飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか?


(放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



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飯館村は佐須の牧草地で5マイクロも二カ月前頃計ってあった。
だからあそこが警戒区域解除地域になれるものかと思う。
今では5マイクロだとずいぶん高いなと思う。
草野地域では7マイクロあった。ただその辺は半分に減った。
ただ佐須の牧草地で5マイクロあったのだから高いと思った。
佐須は最初ホットスポットがあり25くらいになったのには驚いた
田んぼの畦の道の泥がたまったところだった。

確かに牧草地ではない道の方だと半分以下にはなっている。
でも牧草地がそれだけ高いとなると牛は飼えないだろう。
そもそも飯館村はいくら除染したって回りが70パーセントが森林なのだから
放射線量が下がらないと言われる
その森も一部だけ除染したがほんの一部しかできないから結果的には効果がない
つまり飯館村は除染しても住めるような放射線量にできるのだろうかという疑問である。なぜそのことを考えたかというと住めるとしているのが
南相馬市では一マイクロシーベルトでもむずかしいとか子供がいる家庭では住めないとか流出しているからである。

石神では一マイクロだったがそれでも除染していて高いんだよと言っていた。
一マイクロで高いとするとそれと比べると飯館村は実際は3倍とか5倍とかになる。
そもそも飯館村は放射線量を見ると住めるように思えないのである。
専門家はいろいろ言うけど自分は素人でわからないにしても
ただなぜ南相馬市では一マイクロでも住めないとか騒いでいることからすると
飯館村はとても住めるような放射線量ではないと思うのである。
一部分除染したところで放射線量は一部で減っても全体では減らない
だから飯館村の人自体が除染が無駄だから村外で暮らす補償金をくれと言っている。
それは一億円とか言っている
その人は村外で牛を飼いたいと言っているからだ。

この点小高などは一マイクロにもならない、0・2と0・3とかだろう。
南相馬市でも山側をのぞいて0・2くらいである。
ただ放射線量というのは変わらないものがある。
自分の家の室内でもまだ0・2だったりする。
前からも0・2くらいだったがそれ以後は減っていないのも不思議である。
つまりそういうレベルで放射線量を考えているとき、なぜ飯館村では
佐須などは牧草地で5マイクロもあるのに警戒区域解除指示地域とかなっているのが理解できない

そもそも飯館村でもそうだが村全体を町全体を放射線量で分けてここは住めるとか住めないとか東電や政府から指示されるのか納得いかないだろう。
だって地面はつながっているし水だって流れてくるし地面が区切られない
放射線量だって虫食いのように区切ってここはいくらだから住める住めないという議論が納得いかないのである。
それは補償金でもそうだった。東電で放射線量で計り地域を分断した。
隣が補償金をもらって道へだてた隣がもらえないというので怒るのも当然である。
村全体、町全体、市全体を維持されなければ住めないなのである。
市町村でここは住めるここは住めないここは立ち入り禁止だとなったから市町村に住む気になれないだろう。そもそも地面がつながっているのたから放射線の影響が受ける。
空だって区切ることはできないのである。
補償金を与える方ではどこかで区切らなければ無際限に出すわけにいかないからという。でも市町村が行政でも何でも生活するとしたらそんなふうに虫食いのような状態では行政もままならないし住民だってそんな所に住めないのである。

例えば飯館村が南相馬市と関係ないかというと関係ある。地面がつながっていて水が流れてくる、その水は飯館村の山林から流れてくるのだからなんらか放射性物質も流れてくるだから飯館村を放射性廃棄物の処理場にして補償金を一億円くれという個人としての意見もわかるがそうして飯館村の土地が政府やその他の団体に勝手に売られたらどうなるのか?放射性物質の廃棄物処理場にされて南相馬市もそこから流れてくる水で汚染されことにもなる。
だから一地域だけのエゴや一個人のエゴだけでこの問題は解決しない。

そもそも原発事故はあまりにも狭い範囲しか考慮しないで作ったことに問題があったのだ地元の地権者とか漁業権者とかあとは回りの村や町に金をばらまいて作れるとかなっていた。それが飯館村や福島市や郡山市などまで事故の影響があったのだ。
それは南相馬市などより放射線量が高いが国では補償しないので不満がある。
南相馬市の問題も南相馬市が一つになり合併したのに三つの区域に分かて補償されたことが問題だった。それなら南相馬市として合併した意義もなにもないことになる。
いくら放射線量の影響があってもそこに住むとなれば虫食いのような状態の中で住めるわけがないのだ。そこは塀をめぐらした一区画に強制的にとじこめられる牢獄みたいなものになる。そんなところに誰も住みたくないだろう。

ともかく放射線量にふりまわされて市町村が分断さればらばらにされた。
飯館村は本当に住める状態にそもそもあるのだろうか?
不思議なのは菊地製作所や一部工場が飯館村ではつづけられている。
そこでは若い人も通い働いている。福島市などから通っているのだ
今回の原発事故では第一次産業は影響が大きかったが工場などは放射能汚染とはあまり関係なかった。

そして飯館村は意外と工場が多い地域だったというのも外からわかりにくかった。
田舎に農村地帯に住んでいるといくら今は第一次産業のしめる割合が一割にみたないと言ってもその土地利用はやはり広いからそうは見ないのである。
田畑のある田園風景が心をなごませて魅力あるものにしてきたのである。
ただ現代は工場の方が会社の方が重要でありそこが復興の要になっている。
復興というとき、農業や林業や漁業はなかなかむずかしい、工業の方が放射能汚染からの復興はしやすいとなる。

でもそういう世界は何か田舎のように見えなくなるのかもしれない
浜通りでは大地に米の実りがあり松原があり海では漁船が出て魚がとれる海の幸が得られるそういう風景になじんできたからソーラバネルとか風力発電の風景にはなじめないのである。小高の人は自分の土地が許可なくソーラパネルにされていたと怒っていたのもわかる。農地はソーラパネルの風景になったらそこは田舎なのだろうかとなる。

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飯館村は田畑の面積が意外と広い地域だった

この松は前らか切られてなくなっていた。

ここも今は草ぼうぼうである。
posted by 老鶯 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連