2014年06月28日

津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる (天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)


津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる

(天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)

南相馬を見守る白狐:津波止めた稲荷神社の神使−二百年の時を超えて
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0URWX0YHQ0X01.html

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 天明と記されている


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湊家とあるのはここに湊があったからだろう

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ここは一家で死んだのでしょうか
夫の名前はでていない
こういう悲惨な被害は津波であった
冥福をお祈りします

死んだ人はやはり60以上が8割くらいいるから多かった



半信半疑で海を見つめていた人は逃げ遅れ波にさらわれた」(5月22日付北萱浜地区の住人作成のメモより)。

北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという。また、南相馬市博物館によると、天保時代に北萱浜に「白狐が棲みついたので村人は『相学稲荷』と呼んで祭祀をした」と「奥相志」に記されている。


かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。


ここで海を見ていたという時、海岸では海だけを見ていると津浪が来るのはわかりにくい、海から離れた所だと何か異様な感じがした時、津浪が襲ってきてそれが見えてそこであわてて逃げて助かったという話しを直接自分は何人から聞いた。
津浪を見てから逃げて助かったというのは津浪はまだ見えてから逃げれば助かることがあった。
ただ好奇心で見ていた人は死んだのである。この変は400年もの間津浪がないのだから
津浪についての伝承も何も予備知識がない人がほとんどだったのである。
津浪はどんなものだろうと海岸に見に行った人はかなりいる。
磯部では津浪を見に行って水があがってきたので逃げたという。
一回目の津浪は低い津浪だったのである。二回目に大きな津浪が押し寄せたのである。


ただ不思議なのは調査では津浪が見えない地域で逃げて助かったというのもある。
それはなぜか?ここの報告のように津浪を見に行って死んだ人も結構いたということもあるのかもしれない。
津浪が見えて助かったのは何キロか離れた所である。かえって海岸地帯は家が密集していれば津浪は見えない、だから警報ですぐ逃げた人は助かったからそういう調査がある。
まず津浪警報がでて津浪を見にゆくかなどとのんびりかまえていたら逃げる時間がないということもある。津浪はいかに早く逃げるかが一番肝要になっていたのである

萱浜(かいはま)であんな海近くに墓地があるとは思わなかった。
それで墓をみたら「天明」と刻まれた碑があったことである。
これは相当に古い墓である。自分が相馬藩で見た限りでは庶民の墓では一番古い
屋形の北原に田中城の城主だった相馬氏の墓は確かに慶長と時代が記されているから古いでも庶民の墓で天明と記されているのはみていない
たいがい碑なら古いものがある。文禄とか元禄とかはあった。
ただ庶民の墓では見たことがないのである。
ではなぜここにこんな古い庶民の墓があのか?
それは明らかに真宗の念仏の墓だから移民して来た人の墓である。
「寛政」の墓も二つ見つかったからこれも庶民の墓としては古い。
萱浜が新しい場所と思っているけど古い地域だったのかなと思った。


 1781 天明 01 
 1788 天明 08 

 1789 寛政 01 
 1800 寛政 12 

 1804 文化 01  
 1817 文化 14 
 1818 文政 01 
 1829 文政 12  
 1830 天保 01  
 1842 天保 13 


北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという

天保というとこのあとである。ただ天明の飢饉が有名であり一番被害があった。
だから天保の大飢饉というのは史実的にはよくわからない。
天明の飢饉があって越中や北陸などから移民がやってきた。
そして萱浜は低い所と高い所があり低い所はあとから開発された場所である。
そこは今回津浪で被害が大きい所である。

ここで問題になったのが慶長津浪の伝承がこの萱浜でも残っていなかったかということである。
ただ慶長津浪から1611年だから150年とか過ぎれば伝えられにくい、特に移民だと元からそこに住んでいないのだから伝えられないということもあったかもしれない。
北原の津神社は慶長津波と関係していたのかと考察したがこれも定かではない
慶長津波の百年後に建てられたとかあり何も伝承も残っていないからだ。

ここでの墓の謎はなぜ移民の人が天明と刻んだ墓を残し得たかということである。
北萱浜は条件の悪いところである。でもその条件の悪い所に入植した人たちがかえって豊かになったという。やはりそれだけ苦労して豊かにしたのだろうか?
人間は条件が悪ければそれだけ努力しなければならなくなる。
だからヨーロッパでも寒い所ドイツで資本主義のプロテスタントの勤勉の思想が生れて繁栄した。
歴史にはそういう逆説がある、南国のように食料に恵まれた所ではかえってなまけものになり勤勉の思想は生れないのである。

つまりあそこに文明と刻まれた墓、次の寛政と刻まれた墓があるのはそこが豊かな地域とすでになっていたからである。
庶民が墓を作ったのは江戸後期である。それが文明という早い時期に墓を作ったということは当時としては豊かだからできた。

もう一つの原因として湊と地名があり湊としての機能があり漁労があったことでも豊かになっていたのかもしれない、海側はそうした湊とか漁労とかが農業以外にあり豊かになる要素がかえってあった。
だから南海老村は北海老村から下海老村から上海老村と別れて発展したのである。
そこでは塩場があり塩をとっていたからそれだけ発展したのである。

萱浜にも江戸時代から松原があったのだがなくなっていた。
明治から戦前にもあり写真が残っている。
萱浜はそれなりに古いということである。右田浜より古い歴史をもっている。
金沢も元禄に開拓されたから明治に開拓された八沢浦より古いのである。
金沢とか古磯部は入江でも小さいから開拓しやすいという条件があったからともいえる。

萱浜での津波の被害者を見ると60歳以上の老人が多い、今回津波の犠牲者になったのは60パーセント以上は60代以上であり高齢者が多かった。
萱浜の犠牲者を見てもそうである。
それで
「かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。」
まさにこれは別に津波被害者だけではない原発事故周辺でも言えることである。
小高などでも若い人は帰らないとか外に流出していることが問題なのである。
老人だけ残ってどうするのかという問題である。

ともかく津波では郷土史的には見えないものが見えてきたということはある。
あそこにあんな古い墓地があることに気づかなかったのである。

萱浜の古さ思いぬ津波跡天明と記す移民の墓かな
posted by 老鶯 at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係