2014年06月27日

抽象画(翁草ー隠された花)


抽象画(翁草ー隠された花)


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地下の鉱脈

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翁草

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隠された山

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これもインターネットのなにかあったのを加工した。

最初のは見れば加工したのがわかる、ただ次のはわからない。
これだって全く予想しないで生まれた抽象画である。

ただ抽象画も結局は具象画を離れてはありえない
抽象画でもこれはなんだろうとなると具象的なものと関係づけるからだ

翁草というのは本当に不思議な花である。
だからその花をイメージしたのである。
これも全く偶然に生まれたのである。
抽象画の常に予想もしないのが生まれることである。


南相馬市の介護医療の限界ー待機者500人 (建物を作っても人手が集まらない、もう他の地域やボランティアを頼るのも無理)


 南相馬市の介護医療の限界ー待機者500人

(建物を作っても人手が集まらない、もう他の地域やボランティアを頼るのも無理)

●他の地域に応援を頼んでも限界がある


南相馬福祉会が運営する特別養護老人ホーム福寿園(南相馬市原町区)。待機者数は、同市小高区の同ホーム「梅の香」が再開の見通しが立っていないことなどを背景に、震災前の2倍の約500人にまで膨らんでいる。
  県老人福祉施設協議会が相双地方にある9つの特別養護老人ホームの入所待機者数を調査したところ、今月5日現在、合計2208人に上っている。介護職員の不足で需要に対応しきれていないのが現状だという。

南相馬市原町区の介護老人保健施設ヨッシーランドは、大震災の津波被害で入所者や職員合わせ36人が犠牲になり、1人が行方不明になった。
  施設を運営する慈誠会は、津波による被害で2度と犠牲者を出さないため、新たに8キロほど内陸の山林に施設を造る計画を進めている。だが、開発申請の許可などに時間がかかり、事業再開予定は当初の平成27年度から、28年度にずれ込む見通しとなっている。
  担当者は「28年度再開という目標でさえ、一番肝心な職員の確保に見通しが立てばの話だが」と付け加えた

福島民報社

6月24日 2:07 ・
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=785883351442461&id=187705544593581


南相馬市の鹿島区に三階建ての厚寿園ができたけどそこで働いている介護士は地元の人ではない、福島県内でも会津とか塙とかいろんな地域から来ている。岩手県からも来ているという。立派な建物を建てても中で働く人がいないのである。
この辺は人手不足が深刻である。どこでも人手不足で募集しても人が来ないのである。
だからもう介護とかは特にもう建物や制度や国に頼っても限界に来ている。
介護を国で制度化して介護保険制度をもうけたけどもう高齢化社会で介護者が増えてゆくし限界に来ている。もうそうした立派な建物を作っても中で働く肝心の人がいないのだから致命的である。
ショートスティで利用したが中はホテルのようになっていて個室だっからトイレもあるしこれは病院と違っていいなと思った。

その建物は厚寿園は立派でも働く人がいないのだから建物も活きてこないのである。
介護の人手不足は全国で深刻でありもう介護自体人手不足で成り立たないしまた人手が集まらなくて会社自体が倒産するところもでてくる。
それは建築関係だけではない、どこでも専門的なスキルを要するところは人手が集まらないのである。

介護士は専門的だというが医者や看護師とは違い別に家でもできる。もともとは家族で介護はしていた。介護施設などなかったのである。だから介護士という職業は専門的なものとしてスキルあるものとてし見られないから社会的地位も低く給料も安いのである。
介護は家族労働の延長としてやっていたのでありそんな看護師とかの専門性は必要ないものだった。それが制度化して施設を作りして入れるとなるとコストがかかりすぎる。
だからもう施設でまかなえきれないとなり在宅介護にシフトしてきた。
しかし今の家族は大家族でないし家族で見れないということで施設が頼りになるようになった。しかしそれもできないからまた在宅でしてくれとなった。

その在宅で介護できる余力のある家庭はまれなのである。
介護の負担は認知症でもしてきたし大変な負担になる。もうつききりになり外出すらままにならないことが負担なのである。
楽な方でも完全に束縛状態になるから辛いのである。

それで様々なことが孫まで介護させられて犠牲にされるとか仕事している人がやめて犠牲になるとか介護地獄で家庭が崩壊さえしてゆく。
老人の介護で家庭や社会が負担に耐えきれずそのために衰亡してゆくというのも異常なことである。
老人過剰、病人過剰、介護者過剰で社会自体が衰亡してゆくなどありえなかったろう。
老人や病人や障害者や介護者のためにある社会、福祉社会というのも異常な社会である。もちろん強者だけが生きていける社会も進歩した社会ではなかった。
戦争に負ければみな殺しにされたのが奴隷として生かされることは進歩だった。
ただ弱者のための社会など存在しなかったろう。
そんなことをしていたら国も滅びるし社会自体が成り立たないからである。


●国や行政頼みはもう限界


南相馬市とか津浪や原発事故周辺で変なのはボランティアが働いてボランティアにやらせて地元の人は遊んでいる、パチンコだ競馬とか補償金をもらって遊んでいる。
それで地元の人と外部の人が喧嘩したということもあった。
それも当然だろう、ボランティアにやらせて被災者様は遊んでいるというのも変だった。今でも建築工事関係者で働いているのはほとんど外部の人たちである。
地元でそれだけまかなう人手はないからだ。
最近ボランティアが泊まる所がない、閉鎖されたからもうボランティアは来ないという。それももうそういう時期に入ってきている。
ボランティアはもう必要ない、地元の人が働くべきなのである。
それも小高とか仮設に入っている人は金があるから働かない、それは今もつづいている。でもそういう時期は過ぎている。
ぶらぶらしているのも健康に悪いとか言われるから介護で働かせるようにするのもいいとか意見があった。それもそうである、介護は医者とか看護師とは違うからできる。

そもそももう介護自体が介護者が増えて限界にきている。だから年金制度と同じく介護制度自体が破綻しつつあるのだ。そういうものはもともと無理だったということもあった。


この病人と何のかかわりもない地方公共団体が医療制度というものをこしらえて病人とその家族に幻想をもたせるのはおせっかいである。
この病人と面識あるものは国や地方公共団体にまかせて援助の手を引いてしまう。
これは人間のつきあいを薄れさせる。

介護保険制度はもう限界でしょうね。
 
ばっくれる事業所があったり、途中で投げ出された利用者は大迷惑!
第三者評価とか情報開示なんかで質は計れない。当てにならんわ!
おかげで、この忙しいのにヘルパーで入ることに。
介護保険は廃止してしまえば。


情報開示なんて全くの無意味。
単なる天下りの就職先確保のための制度。
しかも、強制なのに超高額。
しかも、超高額なのに資料はほとんどこちらで揃える。
もうわけがわかりませんね。
われわれは食い扶持をなくすことにはなりますが、本当に一度廃止になったほうが長い目で見たらみんなのためなのかも知れません。


時論公論  「揺らぐ介護保険制度」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/67283.html


こうした介護の制度化などは国でする、官僚が管理する、そこに膨大な金が蓄積される。年金でもそうであり莫大な金が役所で管理する、その金を管理することで官僚に金が回ってくる。得するのは官僚だけだともなる。
事務処理だけでも膨大な手間であり金がかかるということである。
役所はすべて事務処理のためにありそのための手間賃をもらうのが公務員だとなる。

すべて役所頼り制度に頼っていてあらゆる問題が解決できるのかとなる。
年金問題でも介護でも医療でもすべて役所まかせになったとき、その巨額の金が役人に回り勝手に使われ破綻するということもある。
国で保証するといってもすべて国でできるものではない、だから国ではどう考えるかと言えば税金をあげる、消費税をあげる、何も役人の腹を議員の腹は痛まないのである。
税金の膨大な無駄は直接自分が腹を痛めないからである。
他人の金は人は無関心である。相手が億の金を盗まれようが無関心である。
あそこにはあんなに金があったのかとくらいしかない、しかし人間は自分の金だったら百円でも盗まれたり失うと痛みを感じるのである。
百億円の金でも他人の金だとどこかに消えても無関心になる。


●「金で解決しろ」「福祉に頼め」では解決できない


これは自分も嫌というほど経験した。
自分が苦しんでいる時、今は隣近所は関係ない
必ず「福祉に頼みなさい」というだけである。行政に頼みなさいというだけである。
しかし逆にその人がそういうならその人が困った時もやはり「福祉に頼みなさい」と名だけである。
さらに現代は極端化するとどうなるのか、それを自分は嫌というほど介護や自分が病気になって経験した。
母が倒れた時、遠い親戚だけど
「おばちゃんは金があるんだから金でみてもらいなさい」
血相変えてどなりちらして去って行った。これも異常なことだ自分には何かこの七年間は一身上でも異常なことの連続だったのである。犯罪にもあいこの世の非情を一身に受けた。それは外部的にも津浪やら原発事故と異常だった。異常な世界を地獄の世界を生きてきたのである。

でもこのことは実際は現代を極端化したのもとして自分の身にふりかかってきたのである
ではこれが自分だけのことかというと社会全体がそういう社会になっているということはみんな気づいていたし金しか頼ることができないということはすでに小さい時からそう親からも言われてきたし親もそうして生きてきたのである。
だから結局この辺で原発事故が起きたのも地元の人たちにも責任がある。
金の社会になった時金をもらえれば原発でもなんでも積極的に誘致すべきだとなってしまっていたからである。
それぞさが地元でもいかに欲深いものとなっていたか、ここだけではない、全国でもサラ金などから借りている人が八人に一人もいるということでもわかる。
借金している人が実に多い社会なのである。
ある人は会社経営して成功を装っていたがやはりかなりの金を裏の金融から借りていたのである。
その人に今度は病気なのに金の要求されたからひどかった。
そういう苦しみの連続だったけどそれは今の社会が実はそうでありみんなそうした社会で苦しんでいるのが実情だったのである。


この辺では小高などが補償金をたんまりもらっているからと鹿島の人から非難される。
これも今の社会を象徴している問題である。原発作る時も金であり事故後も金でもめている。絆など実際はなくなっていたのである。
だから浪江でも小高よりもらっているから会社経営している人が仕事をくれと頼んでも
「あんたちはたんまり金もらっているだろう」と言われて相手にされないとかなる。
つまり自分が「おばちゃんは金をもっているんだから金でめんどうみてもらへ」と言われたのと同じである。極端にしろ一身上でも回りでも極端な現象としてこの辺では現代の問題が露骨に現れる場所となっているのだ。

だから小高の人が補償金をたんまりもらっているというとき
「あんたたちは補償金をたんまりもらっているんだから、金にめんどうみてもらい、金で解決しろ」となってしまう。

それが極端にしろ現代の社会がここでは自分の一身上でも起きたのでありそれは自分だけではない、みんなに起きてくる社会的要因があったのである。

つまり「福祉に頼め」「金でめんどうみてもらい」が現代の社会である。
何か頼んでもその本人はそういうだけでありみんなそうなってしまうのである。
だからいくら立派な建物でも制度を作っても仏作って魂入らずのように社会の問題は解決しない、巨大な仏像が救ってくれるわけでもいない、建物が救ってくれるわけでもない、そこにいる人が救わないとしたら助けないとしたら根本的に助けられない。
金でめんどうみてもらへと言っても金があっても人手が集まらないとかなっていることでもわかる。

すべては金では解決できない、こんな社会になったから津浪でも原発事故でも起きたのだと最近は思っている。
こんな社会がつづけば最後は人類の滅亡でありその日は近いのかもしれない
そのことが自分の一身上にも起こり回りにも起こったのである。

つまり社会そのものの転換点にきている。それがこの辺は津浪や原発事故で極端なものとして現れたのである。
それは大きな社会の変革を要求されている。でも部分的には介護が限界にきているということなら現実そうだしわかりやすい例として現実化しているのである。
国とか自治体とかでいくら介護制度や介護士でやろうとしてもできない、限界がきているそれは年金制度もそうだけど破綻しつつある。制度そのものが破綻しているのである。
そうなると個々人で自営手段をとるほかないし助け合えるものは助け合って生きろとなる制度とか自治体ですべてまかなえきれないからである。