2014年06月26日

海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来? (元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)


南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来?


(元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)

●神社でも津浪のことは伝えられている(相馬市の諏訪神社の謎)


いわき市泉町にある諏訪神社は平安時代にその由来を持つ神社である。

天文年中(1532ー1554)に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。現本殿は寛永八年に泉藩の藩主本多忠籌公により建てられ。諏訪跡宮、若木神社、秋葉神社、判官社、金刀比羅神社、足尾神社も境内末社として祀っている。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍


諏訪神社もたいがいは古い神社である。この神社も多い。相馬市の諏訪神社は樹齢500年の姥杉とかあるからいかにも木立に囲まれて古い感じがする。


大津波があったとき、このイチョウのてっぺんさ、舟をつないだんだと> (岩本氏が幼少の頃、祖父の義妹から聞いた話)
また、次のような郷土史研究もある。
<大昔大津浪があつた時、その(境内の杉の大木)いただきに舟をつないだ


あんなに海から離れた所にそんな伝説があるのか謎である。あそこだけは離れすぎているからだ。岩沼の千貫松は津浪が来るとリアルにイメージできる距離である。
相馬市の諏訪神社は想像もできない、ただ神社は遷座することがあるから海近くにあっても遷座すれば磐城の諏訪神社のように不思議ではない。
新地の地蔵森の伝説にしても離れすぎているのが謎なのである。


太東崎先に運気が立ち上り、漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。

漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。
漁師は驚きあわて、奇像を抱いて住職に届けたところ、住職は一目見てそれが飯縄不動尊だと悟りました。

つまり飯縄寺の前身・万蔵寺と無動院飯縄寺は別の場所にありました。これが一つの敷地で同居するようになったのは元禄の大津波だという話があります。
『岬町文化史年表』によれば、―――飯縄寺は往古、大東岬の上にあったが、この津浪の害を受けて、現在地に移築した。―――
http://pub.ne.jp/kayusou/?entry_id=3981694


●残された津浪の俳句と南海老村の伝説の共通性


まがきまで津浪の水にくづれ行  荷兮

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり (芭蕉)


爰は津浪に一郷一群の荒たるさまを附て、前句の米を禁裡よりの御救ひ米と執なしたるなり

http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2008/03/index.html


荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまった」。その芭蕉の短句(ウ十)の句意は、「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」というのである。荷兮の津波の句も面白いが、芭蕉の付句はその荷兮の句以上に何ともいえない味わいを有している。それは、後の川柳の原型の一つともいえる、「俳諧武玉川」(初篇)の「津波の町の揃う命日」をも彷彿させる。これらの芭蕉の句に接すると、芭蕉が名古屋連衆に驚きを持って接した

山本荷兮(慶安元年(一六四八)〜享保元年(一七一六))
http://yahantei.blogspot.jp/

この津浪を俳句にしたのは貴重である。これも一つの記録である。古くなるとそれは文学的価値より歴史的価値が高くなる。末の松山でもそうである。まさに「波こさじ」という距離にあったことが証明されたから全国から注目された。
津浪は四百年五百年に一回とかなるとなかなか経験しない人は理解できないものとなる。でもこれだけの被害なのだから何かしら人々の心に残り伝えられてゆくのが普通である。
だから南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説は津浪を語っているのではないかと考察した。


藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


青い光を発す・・とか垣の如きもの路に横たわる・・荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまったとあるのと同じである。
これは津浪を見ているからこの表現があったとも見れるのである。

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり

「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」
これもまた不思議なの句である。スマトラ津浪でも地元の人は魚が人を食ったので当分魚を食わなかったというのもわかる。それだけの人間が死んだからである。
その死んだ人間を食った魚を食えないというのも心情的にわかる。
魚はいつも人間に食われていたが津浪では魚に食われるはめになったのである。
仏像が海中から青い光を放ち現れたのを祭った由来を語るものが結構多い。津浪ではそういうことがある。
貴重な仏像でも石碑でも神社の神体も鳥居もみんな流されてしまったからだ。


●八沢浦近くの柚木に残された津浪の伝承

八沢浦の柚木(ゆぬき)には津浪の伝承が残っている。

ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>ということからこう呼ばれるという

これは南海老村に近いし民間に伝承されたということで貴重である。そこは八沢浦から少し上った所でも近い、慶長津浪の時は八沢浦は今回の津浪でわかったように柚木の蓬田まで来ていた。だからすでに今回の津浪でわかったようにそこまでが八沢浦だとしたら
もっと奥まで津浪は来たはずである。
八沢浦は今回の津浪の来た所まで八沢浦で海になっていたからだ。
だから近すぎると思った。
地蔵森とか諏訪神社とかは遠いのである。そういう近い所に津浪の伝承が残っている。
小伝承が相馬藩では一番なにか慶長津浪の切迫感を残している。

あとは相馬藩政記では一行七百人溺死としか記されていないのである。

この伝承の謎は当時の八沢浦からしたら近い、すぐ近くである。
普通津浪の伝承は遠い地点に津浪の達した地点に残りやすい。
なぜこんな近くに津浪の伝承が残ったのかというのも問題になる。

ただ八沢浦は海のすぐ近くでも前に山があって意外と被害が少なかった場所があった。
そこでは裏山がありすぐ近くで津浪が来たのを見て必死に逃げて助かった人がいた。
だから「急ぎ坂」という伝承が残ることは納得できるのだ。
津浪の恐怖の余り「津浪がおさまってくれ」と念仏を唱えるのも理解できる。
だからこの伝承には信憑性がある。

相馬藩では他にこうした民間の人が伝えるものがほとんどないのでそれは何故なのかと探求してきた。

磐城の神社でも津浪の被害があり移ったとかの伝承がある。神社にもそういう津浪に関する伝承も残っていない。そういうなかでこれだけが残っていることも不思議である。

まだまだ津浪のことは民俗学でも伝説でも探求されなかった。岩崎氏の「本邦小祠の研究」でも一言も津浪のことを記されていないし今回の口碑でも知っていた人が相馬藩でどれくらいいたのかともなる。他にもあったが伝えられず忘れ去られたのかもしれない。
だからそもそもこの伝承が良く伝えられていたとなる。
でも相馬では四百年も津浪が来ないのだから注目している人はいなかった。

ただ科学者が貞観津浪の砂を松川浦からずっと奥でボーリング調査で発掘したということがあって報告された。それからフクシマの原発でもそのことを報告して危険を訴えたがとりあわなかった。
自分も科学的実証があったのだから注目したのであり津浪のことについては無関心だったのである。

ともかくインターネットはキーワードから調べられるから家にいてもある程度できる。
ただもっと深く調べるにはインターネットだけでは無理だろう。
図書館はまず調べるのがめんどうであり時間がかかりすぎるのである。
だから自分は介護やらで五年間くらい行っていない、コピーするもの手間だし時間が何でもかかりすぎるのである。

posted by 老鶯 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

老鶯(原野化した世界から青田の世界へー南相馬市(鹿島)⇒相馬市)


老鶯(原野化した世界から青田の世界へー南相馬市(鹿島)⇒相馬市)

aotaaaaa1.jpg

老鶯や夕べ青田に奥の家


夕鷺やなお田を移り餌漁る


八沢浦の奥、柚木の方は青田になっていた。あの辺に境田とあるのは宇多郷と北郷の境があったためだろう。
柚木は鹿島なのか相馬市なのかわかりにくい、あそこに相馬市の仮設住宅がある。

この辺で経験していることは未だに不思議である。その一つがいつも書いているけど
南相馬市の鹿島までは原発事故で田畑が耕作できないから原野化している。
津浪によっても広大な地域が原野化している。確かに一部は田も畑もはじめたがわずかである。
ただ相馬市にの領域に入ると普通の今までの景色と同じになる。
今は一面の青田になる。だから今は二つの世界を行き来することになる。

一つは原野化された自然の世界でありもう一つは前と同じ日本の田畑がある世界である。
そこで何が起きたのか?
普通の田畑のある世界を見直す結果になった。
原野から普通の田畑のある世界に入ると別な世界に感じるのである。
特に一面の青田の景色は原野の景色とは全然違ったものなのである。


老鶯などというとそれは夏の季語である。夏鶯ともいう。そうした季語は実は長年の日本の田畑のある世界で作られたものである。原野に今の時期、鶯が鳴いていても何かしっくりこないからである。つまり老鶯などとなると老いたともなり人間の感じがでてくるからだ。そして実際に二つの世界を行き来してわかたっことは一面の田のある景色は原始の自然とは違う、人間化した自然である。大地すら人間化した景色としていたのである。


だから鶯でもそうだけど鷺だって夏の季語であり鷺は特に田に必ずいるがそれは人間化した自然であった。もし本当の自然だったら津浪の跡の沼のような所で餌を漁る。
アフリカのような所にいる野生動物は田にいる鷺とかは全然違うのである。
鷺は田があって人間に養われているような感じになる。
だから原野の一面の葦原から一面の青田の世界に入ると何か違うなといつも思うのは
その自然が人間的な空間になっていてほっとするからである。


ともかくこの辺の状況は未だに変わっていない、まずこの原野化した風景が元の一面の田になったとき元の状態にもどったことになる。
でも津浪のあとはもう田にもどらないとすると別な景色になる。
そこがソーラーパネルとかになると嫌である。一部はなっている。
それは自然のエネルギーとしても自然の景観を破壊するから嫌なのである。

老鶯が鳴いて青田があり奥にまだ知らない家が隠れるようにあった。田舎ではそういう家が多いのである。だから住居としては贅沢である。


いづれにしろ警戒区域では人は住んでいない、また故郷から離れて住む人はどういう心境になるのか、このことも想像して書いてきた。
故郷とか家は土地でも普通にあるものだがら意識したりしないのである。
それが故郷から先祖代々いた家から離れて例えば東京とか大都会に住んだら相当な違和感がある。ただそこで故郷は何だったのだろうとか家はなんだったのだうかと今まで考えないことを考えることになる。
この辺では今まで普通にあった当たり前のことを考えざるをえなくなったのである。
だから自分のプログもこうして書くことが多くなるのだ。
普通の世界にいたら当たり前でありそこが新鮮の感覚にはならないから書くことも少ないいつもと変わりないとなると新鮮なものがないからである。
だから人は旅したくなるのである。

北海道には原野があるからこれはいながらにして北海道だなと見ていたりする。

鷺でも夕べ青田を移ってきて餌漁っているのは原野ではない、田は人間によって作られた景色である。その田ごとに鷺が飛んできて餌を漁るのは人間に飼われているようにも見えたのである。
鴎だったらそういうふうには全く見えない、その餌は全く変わりない人間化していない自然から得ているからだ。
海というのはもともと人間化できない所だった。ただ入江となると何かほっとする。
その入江が埋め立てられて田になったとき、その風景は八沢浦のようになくなった。
八沢浦は今は一面の葦原になってしまった。茫々たる原野になってしまった。


この辺の変化は津浪だけではない、原発事故からもたらされたのである。津浪の被害地だけが原野化していればそれほどではないが全部が原野化しているから相馬市とは全く違った世界となってしまっているのである。