2014年06月25日

津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された (相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)


津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された

(相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)

●全国の津神社

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は、兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社。「津の宮」とも呼ばれている。神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建されたと伝わる。延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社の比定社の一つ。


「角宮」は別称「津の宮」とも言われ、別所池から下流の広大な耕作地域を潤す水源として水神様が祀られています。

また、阿蘇神話の伝説がある穿戸羅漢山の真下に位置し、「角宮」には阿蘇大明神の家来だった鬼八が落とした角が祀られているとも言われています。
鬼の角が落ちたことから、どんなに激しい夫婦喧嘩でもたちまち収まり(角がひっこむ)http://www.town.takamori.kumamoto.jp/kankomap/kanko/post-2.html


名称から、式内社津神社に比定されることもある。
『式内社調査報告』では、国府が近いことから、
式内社・国津神社であると論じられている。

長崎県壱岐市石田町池田西触19
http://www.genbu.net/data/iki/tunomiya_title.htm


広島県福山市津之郷町大字加屋

利根川を臨む津の宮の鳥居

香取神社から徒歩40分。
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kanto/katori2.html


宮津の地名は、当神社の祭神を海辺に祀り、宮の津と称せしにはじまる。現境
内は、宮の津即ち宮祭る港の址なり、海中の巌を今日も遺す。此巌は神の依代
で、万代の巌又は『波越巌(なみこしいわ)』と呼ぶ。


津守(西成区);難波津を守り、住吉大社の神職を務める津守氏(津守連のちに宿祢)が
いた。

ひさかたの 天の探女が 石船の泊てし高津は 淺せにけるかも〔292〕


敦賀郡津守郷

外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという
http://yoshi-bay.com/index.php?id=114

大津皇子の竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとほる)のその事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首 いまだ詳(つばひ)らかならず
大船(おほふね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し

巻二(一○九)



千葉県道253号香取津之宮線香取市香取
http://www.jorudan.co.jp/bus/highway/busstop_%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE.html


かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

第10歌集『青海波』に収録されている歌である


祭神
上筒之男命(うわつつのおのみこと)
中筒之男命(なかつつのおのみこと)
底筒之男命(そこつつのおのみこと)

通称 津明神・楫取津神社
例祭日 四月第一日曜日
鎮座 いわき市岩間字輪山249

寛元四年、領主岩間次郎隆重が領内海産業の興隆を祈願し、摂津国津の宮の分霊を勧請したことに始まるという。古来、「輪山28」の地に鎮座していたが土砂崩れにより崩壊、昭和十三年現社地に遷宮した。
http://iwakinokamigami.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html


津の郷があり津神社(つのみや)ともいう、津の宮は宮津ともなる。津神社とツノミヤ神社は違う。宮は津に湊に祭られた。津が湊となり宮が祭られた。
単純に津神社もあり津とあっても区別がある
ともかく古代では津は湊である。天然の湊である。
だから松川浦の津神社(つのみや)は下に大津とあるからそこが船着き場だった。
その湊を守る神社でありもともとは津浪とは関係ない
ただ津浪の時、そこに上れば助かるというのは別に津浪のために祭られたのではなく
そういうふうに津浪が来た時、そこは坂を上れば助かる場所にあったからそういう言い伝えが生れた。盛んに津浪の故に祭られたというがそういう謂われはない。

磐城市岩間の津明神が、摂津国津の宮の分霊を勧請したとありこれはもともと津神社の基が摂津にあったことを示している。
角とか書かれていてつのみやと呼ぶ場合もある。単に津神社ならそこが湊があったかどうかわからないがツノミヤと呼ぶならそこには湊があった。

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津神社(旧村社)

鎮座地   福島県いわき市勿来町九面九浦九九
祭 神   海津見神 ワタツミノカミDSCF0100.JPG

宵 祭   11月 2日
例 祭   11月 3日

本 殿  春日造
末 社   八坂神社  大塚神社  稲荷神社

由緒沿革   九面湾に面した黒浦山に鎮座し、海の守護神とし  
て奉斎されたものである。 宝暦五年の棟札には「奉造立九面明神」 とあり、
天明八年の棟札には 「奉督改津明神」とあり、九面明神から津明神となったことが伝えられている。


広島県福山市津之郷町大字加屋

この住所も不思議である。津之郷町とあり加屋とあるのは伽耶なのか?
単なる萱なのか?津之郷町とあり加屋があることの謎である。
津守とあるようにもともと津神社は湊の守り神から発していたことはまちがいない
ただツノガノアラシトとかがありツノガが角となり津之郷ともなるのでまぎらわしい。


●鯨と津浪は関係していた

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烏崎の津波に流された津神社にあった「鯨大明神」

「藤沢の地名」(藤沢市発行)によると、「浪合という地名は、かつて大津波が岩屋不動尊のあたりで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさったところという意味があるといわれている。下諏訪神社の前の池(諏訪池)という大きな池には、むかし大津波に乗って川をさかのぼった鯨がこの池に打ち上げられたという伝承があり、この鯨の骨を埋めたという鯨塚があったそうで、そのため、このあたりは鯨骨と呼ばれ小字名にもなっている。赤山は、現在、湘南白百合学園の辺りで、昔、津波が片瀬村を襲ったときに、この山の中へ逃れた村人の一人が赤ん坊を産んだことからこの地名がつけられたという」
http://shonan-fujisawa.jp/newpage4288.html


『利別川の鯨』

この口碑伝説は更科(1955)によって記録された.
「十勝川第一の支流利別川に、フンべポネオマナ
イ(鯨の骨のある川)という川があるが、この川はある
年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき、
鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところである
という。(音更町・細田カタレ姥伝)」
フンべポネオマナイの場所は,明らかに
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf


実は、このクジラの座礁は大地震の予兆として有名だ。昨年2月のニュージーランド大地震前には、同国南島南西沖で107頭のゴンドウクジラが海岸に乗り上 げていたし、日本でも3・11の1週間前に、茨城県鹿嶋市の海岸でカズハゴンドウクジラが約50頭も打ち上げられていた。

琉球大名誉教授の木村政昭氏(地震学)が言う。
「クジラは音に敏感で、超音波を聞いて方向を決めているといわれています。地震の発生前にも音波が出ることから、座礁との因果関係は否定できない。≫


 『新地町史』には次のような話が続けて紹介されている。
 <明地に近いところに小鯨というところがある。これは大津波のとき鯨が寄ったところだという。
 また新地駅の北の作田に八千(はっせん)山という小高い山がある。やはり大津波のときこの山に登って八千人(多勢の意)の人が命を助かったと伝えている。

なお小鯨は、福田小学校から北西に7〜8百メートルの地点。少なくとも舟輪沢まで浸水したとすれば、小鯨まで鯨が流されてきても不思議ではない。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-81.html


泉(原町)の津明神は地名をとって大磯神社とも呼んでいるが昔、大鯨がこの浜に上った時、祭られたという


新地の伝説と原町の泉、鹿島区烏崎の津神社は鯨と関係しているから慶長津浪との関係があるかもしれない、津の宮と津神社は違っている。津の宮となるとき宮が津にあり港を守る神社となり津守と関係している。
だから津の宮となると高台にあるのが多い、高津となると高津の宮となりそこが津を守る神社があった。松川浦には大津があるからそこはやはり船が寄った所なのか
それでその大津を港を守るものとして津の宮神社が建てられた。

烏崎の津神社は鯨を祭り鯨の祭りをしていた
そこに鯨明神という碑と金比羅という碑があった。それは明治時代に建てられた。
鯨と津浪が何か因果関係がある。それでインターネットなどで調べ列挙した。
これくらい集めると鯨と津浪は関係しているとという証拠になる。

烏崎の津神社鯨を祭り鯨の祭りをしていた。
鯨を祭っていた神社だともなる。

烏崎の牛島の津神社は低い場所にあり鯨を祭っているから津浪と関係しているともいえる港ととしてあそこはまだなかった。
烏崎の山際が港だったからである。津浪はめったに来ないので鯨の神となってしまった。
高台にあればもっと古くからあった神社になるからだ。
八竜神社はぎりぎりで津浪からまねがれて残った。
それは別に慶長津浪を体験してあの高さに建てたのではない
古い神社は高台にあり津神社でもツノミヤと読んだりすると湊を守るものとして高台にある。


●津神社は貴船や安波様と合殿になったきが多い


新地町釣師のあんばは、現在津明神と合殿である。もともとあんばさまと呼んでいる所は海の出っ崎の地名あるから安波のお宮はもともとそこにあったらしい。


棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某のこの月この日に海中より出現したという、


豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・


「本邦小祠の研究 岩崎)


津神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内
(北標葉郷)棚塩


今回の津浪で神社のことも話題になった。特に相馬では津神社のことが実は津浪神社のことだと言われてそうなのかと不思議に思った。
でもよくよく調べれば津神社は津浪の神社という証拠は何もない、津浪に由来する神社という言い伝えも文書もないのである。
確かに相馬氏の松川浦の神社はツノミヤとかツノミツ神社と言われる。津神社ではなく
ツノミヤかツノミツ神社と言われる。ツノミツだ津に満つるだから津浪に由来したのもかとなる。ただこれも三代実録に列挙された由緒ある神社とも言われる。
この神社に逃げれば津浪から助かると言う言い伝えがあり実際に逃げて助かった人たちがいた。でもあそこは原釜の低地から高台にありまず低地の原釜は人が住んでいなかったろう。神社は比較的もともと高い所に建てられる傾向がある。
海側は特に高い所に建てられる傾向がありそういう神社は古い。


八竜神社は各地に多くこの辺でも実に多い、それは今回の津浪からまねがれたものが多いそれは古い神社であり慶長津浪の前にも建てられていた。そして数も多い。
それは縄文人の遺跡とも関係しているともあり古いから津浪からまねがれた。
縄文人は縄文海進があり海だった所には住んでいないからだ。

ところが津神社は相馬藩内では多いのだろう。日立の海にもあるが津神社自体は全国的にあったとして散在しているしまれであろう。
なぜ伊達藩内、宮城県には見当たらないのも不思議である。

浪江の棚塩の津神社の謂われはなぜ702年とか大宝の時代なのなのか?
そんなに古い謂われをどうしてもっているのかとなる。
海中から現れたという時津浪と関係しているのか?

津神社は目立たない神社である。貴船神社は結構あり有名であるがそれと合殿になったり安波(あんば)様と一体化したりして津神社の名も消えている。

ただ相馬藩内の海岸に満遍なくあるということはそれなりの意味をもっているのかもしれない。
鹿島の烏崎の牛島をのぞいて比較的高い出鼻にある。原町の北原の津神社は本当に高い所に隠されるようにあった。
この津神社が目立ってあるのは相馬市の松川浦の津神社(ツノミヤ、ツノミツ)である。
それと鹿島の牛島の津神社も隠されるようにはない、港に近くにあった比較的大きな神社だった。

小高の角部内にある津神社は何なのか?これも角宮とあるごとく津神社と関係していたのか?
ここに津神社が祭られて角部となったとしたら慶長津波の時に名付けられたのか
その時地名化していたらここは重要な地域である。
角のように海に出ている所でもあり地形から名付けられたのか
ただ津神社が祭られていることから地名化したとなると慶長津波以後なのか
時代的には特定できない

烏崎の津神社は慶長年間に建てられているから時代的にも慶長津浪を記念したものだろうあとは時代が早かったり遅かったりしているからだ。
慶長年間に建てられ津神社は相馬藩内でも明確にはわからないからだ。

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posted by 老鶯 at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係