2014年06月24日

夏の夕べ(この世は常に無常だったー隣も回りも変わって人が住む)


夏の夕べ(この世は常に無常だったー隣も回りも変わって人が住む)


老鶯や日々草の茂り深しも

畑に人働きはじむ夏雲雀
畑に人海風涼し夕べかな
夏の日や我が里めぐり夕燕


分かれ道道標ありて草むしぬ栃窪村へ夏の夕暮

分かれ道道標ありて旅心湧きにけるかな
我が庭の紫陽花の色変わりにつ人も変わりて我とあるかな
住み替わる家にしありや庭残し百合は咲きにき主変わりぬ


浜街道の横手の古墳あるところから栃窪村へと通じる小さな道標がある。
そこには栃窪村へと記してある。ただあれは明治以降のものだから
古いものではない、それでも街道から栃窪へゆくのは相当に遠い。
車だからそうした遠い感覚が失われただけである。

毎日自転車で買い物とか狭い範囲を行ったり来たりしているだけである。

でも何か自分は旅してきたから旅は家にいてもつづいている。
分かれ道はやはり旅心が湧く、ここで道は別れる、それは道は未知なのである。
その未知に誘われるのが旅なのである。
だから分かれ道は印象に残るのである。
昔も分去(わかれさり)が地名化していたように印象的な場所だから地名として残った。
歩いていたからそこで人と人は別な方向に行きあとはなかなか会えない、永久の別れともなるのである。


夏は今は梅雨だけど遠くに旅したい季節である。ただ暑いとバテるからだめである。
昨日はからっとして風も涼しいから自転車で気持ちよかったのである。
自転車はまともに日差しを受けるから暑いと余計にバテる。

人間は本当に無常なのだ。無常とは常ないことなのだ。この辺は全くあまりにも激変して無常そのものだった。
近くに家を建てたのは烏の人だとか隣の人はイワキに移り老人ホームに入ったとか
一人は死んだとか近くでも次々に変わる。
会う人も次々に変わるのである。家族だって死んだしこれも変わるのだ。
家族すら本当に無常であり常ない関係である。

無常こそ現実でありそれをさけることはできない、人生は無常だということを前提にして生きるほかない、それを避けようにもさけられないのである。
いやおうなく無常を生きるほかないのである。

だから旅が人生だったという時、旅だったら一時泊まりまた次の宿へと移るから旅自体が常住ではない無常を生きることになる。

それが原発事故で避難区域ではもう故郷にも住めないはとなる無常が町全体のことになってしまったのである。
津浪の跡が葦原になったのも無常であり原発事故の街が無人化したのも無常である。
こんなことになることなど想像もしなかったから無常を特に感じてしまう。

人間の世は別にこの辺だけではない、こうした無常があり生きてきたのである。
ここだけであるのではないし今だけであるのではない、常にこの世は無常であり
変わる世なのである。


わずかにこの辺でも畑で働きはじめた人が見える。働く人がいないことは何か欠けている。田畑に人がいて働く人がいて土地も生きている。ただ機械がそこにあるだけでも活きてこない、人がいてこそ生きる。
家だって誰も住まないと空家のままでは活きてこない、この空家も膨大に増えているのだ庭残してそこにユリの花が咲いている。そこにまた新たな人が住み始める。


草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉


草の戸とも違っていたがそれとにている。家も無常であり永遠に住むことはできない、
それで家の始末に困る人もでてきているのだ。

なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか? (津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった


なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか?

(津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


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●相馬氏統一の前の中世の館

一国一城になるまえは各地に館があり城となっていた。中村城に移転することによって中央政権体制がでる。そこで相馬藩内で38もの館があったが廃止された。
ここには抵抗があった。特に有力な豪族は海側に港をもち物資を運び財力があった。
小高の村上や塚原がそうであった。
だからこそそこをおさえるために村上に城を築いたが地元勢力の反発がありすぐに中止した。何か不吉だからということではない、在地勢力の抵抗があったためである。


標葉郷 泉田館 両竹館

小高郷 岡田館
中之郷 泉館 泉氏から岡田氏へ
大甕館 岡田氏
北郷
上海老輪蔵館


輪蔵館 反畑にあり 往昔この地に一切経蔵あり。故に輪蔵館と名づく
天文弘治の頃、桑折上野直家この塁に居る。
直家は田中城主桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


●津浪の二年後に役金を課して民を苦しめる


はじめは天守も築かれていたが、寛文10年(1670)に落雷のため焼失する。この時の藩主は相馬貞胤で、領民に負担を懸けるに忍びないと言って天守は再建されなかった
その性格は江戸時代以降の相馬氏の居城中村城がお殿様のお屋敷という雰囲気なのに比べ小高城は実戦的な砦という 感じがします


最近の小高城の発掘で小高城に火事がありそれは戦闘の結果らしいとか報告があった。
中村城は岡田館などがあるように中世の館とも違いそれほど防備に重点をおいていない城だった。


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加

慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない
中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ

慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える
http://musubu2.sblo.jp/article/89007433.html

財政が困窮し給人から役金(えききん)を要求した。これが元で一揆さえ起きるほどになった。給人の身分の返上さえあった。つまり役金がとられるのが死活問題になったのだ。

寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた
それで新田開発を一人十石限りとされた

慶長津波から50年くらいたってこういう状態になった。


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える

慶長18年は慶長津浪から二年後である。その時どうして給人、寺社方、職人まで役金、税金を課してのか?
給人、寺社方、職人とでているが寺社方というのは中世では仏教や修験者の勢力が大きかった。ここで気になるのは寺社方であり職人である。
●南海老村の大工の善次はその役金への不満の象徴だったのか?


南海老村の伝説は善次という大工が中村城の天守閣の造営にかりだされていた。
それが九十九部という仏教の修験者がかかわっていた。
それは確かに南海老村には輪蔵館という寺社の館がすでにあったのである。


輪蔵館 反畑にあり、住昔この地に一切経蔵あり、故に輪蔵塁と名づく、けだし仏閣ありか、天文弘治の頃、上野直家の塁に居る。直家は田中城桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日(寛永2年9月10日)は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は相馬三胤、相馬蜜胤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4


武家天野氏羽衣の来由

天野尾張同筑後正常あり、正常義胤公に仕えますます戦功を積んで加田を賜る。
その後天野備後なる者、勇猛の士なり。利胤公の世、牛越後経営の時に当り公の
慮に違へ采地を没せられて下海老村に蟄居す。
荒川某数々備後の過無きを訴え君公之許す。
天野家塁世功あるをもって采地二十二石賜ふ。爾後下海老村に居り代々天野新兵衛と号す方今新兵衛高祖祖父天野新太郎となる者、村絆官管船官となる。
力量抜群、槍柄二を合わせその先に載せ槍柄を取って是を揚ぐ。
一時米を運船に積む。米包多く積みその中につき一包抜く。又これを入れるること元の如し。その他人目を驚かすこと算・・あらず。以て美談となす。

下海老村の地図
http://musubu.sakura.ne.jp/sblo_files/musubu/image/ebimuramap111111111.jpg


下海老村 倉庫海岸にあり、この郷の税米を収め江戸に運船す

下海老村には湊があり船で江戸まで米が運ばれていた。それはすでに相馬氏が中村城に移転して地域を統一したときである。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日

この時代に慶長地震と津浪が起きているのだ。

そのことは何一つ記されていない謎である。
その時確かに下海老村もあった。そこには湊もあった。
そして重要なことは津波のあったときかもしれない、
そしたら慶長津浪のことはなぜ一言も記されていないのだろうか?

その時生きていた人物の由来も明確に記され慶長津浪のあった利胤の時代にこれだけのことが記されている。それでなぜ甚大な被害のあった津浪のことが記されていないのか?
今回の津浪から見ればその被害はやはり壊滅的だったはずである。
それが何一つ記されていないのはなぜなのだろうか?


ただ一つ南海老村の大工が確かに中村城に移転したとき、天守造営にかかわっていた。
そこで海水で洗うと怪異が起きたというのは津浪で死んだ人たちがいてその死んだ遺骸などを海水で洗ったものなのだろうか?

慶長十八年に財政困窮したというのは慶長十六年で津浪の被害が甚大で影響したのか?
でもそこにさらに役金を課すということはどういうことなのだろうか
そのために南海老村の輪蔵館支配下にあった善次という大工は中村城の天守造営にかりだされたが領主は輪蔵館にありひきとめられたということもあるのか?


●やはり津浪の被害は相馬藩の当時の政治事情で語ることを禁止されたのか?


いづれにしろ慶長津浪のことが一行だけ七百人溺死しか記されていないことの謎は
解明しようがない、ただその前後に何があったかは詳しく記されているのだ。
不思議なのは慶長津浪の後にも下海老村に湊があり船が運行して米が積まれて運ばれていたのである。
もともとそこには塩場があり塩もとっていた地域である。
津浪があっても塩とることには影響されない、むしろ塩をとるのは津浪の後の方がやりやすいということもあった。ただ湊が破壊されることは船が使えないので打撃だった。
でも下海老村の湊は津浪の後も使われていたのである。
その当時の湊はどうなっていたか不明である。
今のような護岸のある港ととは違う、それでも米を積み出すくらいだからそれなりに港の機能はあったのだろう。

不思議なのはすでに慶長津浪のあったときはそこに住んでいた人物の由来もはっきりしているしその子孫も明確だし今日までつづいているのである。
それがなぜ慶長津浪に関して何も伝わらないのかが大きな謎なのである。

慶長津浪の後の二年後に役金を課しているということそれに不満があったことが記されないことに影響しているのか?
つまり相馬氏にとって津浪の被害を訴えられて役金を徴収できなくなるから津浪の被害のことを無視して記さなかった。それはその時の政治情勢でそうなった。
相馬氏のその時の最大の課題は秀吉や家康との関係を良くして領地を安堵してもらうことだったからである。そのために今の時代だったら津浪の被害があったら外部から援助されるがその時はそんなことはない、だから牛越城の時改易される取りつぶしの危機も経験しているからそっちの方が政治の優先課題であり津浪の被害は無視されたのである。

ただそれにしても相馬氏では無視してもそれだけの被害があればその土地のものとか何か記してもいいはずである。現実に伊達藩では津浪の被害にあったその土地の支配者が記している。それすらないということがとをいうことなのか解明しようがないということである。
「津浪の被害は語るな、口外するな、・・」
何かそういうことが相馬氏から強制されていたのかともなる。

だからただ一つ南海老村の天守造営にかりだされた善次の伝説が津浪を語っているのかとなる。
新地の地蔵森や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪のことだったらしい。
慶長津浪のことは何か相馬藩ではほとんどわからない、資料も伝説すら残っていないのである。
柚木の急ぎ坂とか・・・が慶長津浪のことだとすると南海老村に近いし八沢浦の被害からみればありうることである。
地蔵森や諏訪神社より慶長津浪の伝説としてはありうる。
それにしたってもっと何か具体的に伝わるものがあってもいいはずなのである。
それが一切ないということがあまりにも不可解であり謎なのである。


南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://musubu2.sblo.jp/article/99130060.html


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと・・・

葬礼と関係しているから津浪で死んだ人たちがいたことが伝説化していたのか?
ここがなんか伝説にしても津浪の被害を語っているように思える
なぜなら今回も津浪で流された家族の遺品を懸命に探していたからである。



円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


転々として大いなること茶銚のごとし



これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる


これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。

posted by 老鶯 at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係