2014年06月21日

時間の哲学 (時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない


時間の哲学

(時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)

●機械によって節約された時間


D=MX


Dはdistanceで距離である。Mはmachineで機械である。Xは運ぶ量である。

例えば距離が2D=2MXとはならない、なぜならMが変化するからである。電車だったら普通車から急行へ新幹線となり2D=MXとなりうるのはmachineの能力が倍になっているからである。運ぶ量が二倍三倍となってもMが変われば距離に関係ない

Xが三倍になったとしてもmachineの能力が技術が進めば二分の一三分の一となりるから労力を減らせる。要するに機械の能力の進歩によって距離にかかる負担は距離が伸びてもふえることにはならないのである。

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そういうことはすべての労働にあてはまる。機械によって労働の負担が減ってゆく。
すると能率をよくするためにはさらなる機械の開発が必要でありそこにエネルギーが注がれる

それは技術者や頭脳集団が進めるのであり普通の労働者はできない
だからそういう開発をする技術集団が収入が多くなる
本一冊を流通させるには電子本やインターネットより十倍以上のコストがかかった。
活字を組んだり製本したり一冊一冊書店に並べるのすら手間だった。
そういものが全部はぶかれことはそこに働く人たちも失業するとういことである。

ではその人たちがどこで働くのかとなるとその関連業者にゆくにも
簡単にIT業界にゆくわけにいかないから失業してしまうのである。

農業まで機械化されて労働の負担がへった。今は農家に嫁いでも重労働をしていない、
田の縁(へり)を田植えしていたというのは機械でできないところを人手でしていた。
それは中国でも麦刈りは人力でしていた。ところがコンバインになった時、機械は人手でやるより千倍とかの効率でする。その差はあまりにも大きいとなる。
その時出稼ぎで麦刈りしていた人たちは相当な数が職を失うことになった。

でもコンバインでできない複雑な地形のところを人手でしていた。
つまり田の縁を田植えしていたと同じなのである。
いくら機械化しても人間でしかできないことが残る。
でも機械のおこぼれを人の手でしているというのも主役が機械になり脇役が人間になる。人間様が機械に使われ機械の補助役のようになるのも奇妙である。


機械が主役になるというのも人類の歴史である。機械が時間まで変えた。
江戸時代は時計がないから時間感覚も大雑把であり日の出、日の入りとか太陽の運行に合わせていた。時計ができたとき、時計という機械に時間を合わせるようになった。
機械に合わせた時間が生れて現代の文明社会が生れたのである。
機械の時計により世界共通の時間が生れたのである。
時間はそもそも日本でも江戸時代はその土地の暦があったように違っていた。
ましてや国が違えばもう時間も違ってくる。

時間が労働量で決まった時代もあった。

牛で耕作してどれくらい畑をうなったかなどで時間が決まる。
それは牛の時間になる。牛が機械の代わりをしていたときは牛のリズムなのである。
だから牛のように今からするとゆっくりした時間になるのだ。
その時、牛は重みのある欠かせないものとして人間にあった。

トラックは一台運んでいくらという請け負い勘定になる。一台で一回運べばいくらである。その運んだ回数で金がもらえる。運んだ回数が時間であり量も時間になる。
ところがトラックが大きいとかスピードが出るとかなると一回で倍の量が運ぶことできる。そうなると小さいトラックより時間が短縮できる。そこで時間が短くできたとなのだ。それは人間で決めた時間なのである。


●機械に追われる文明の時間


結局現代人が余裕がなくなったというとき、機械に追われる時間になったからである。
時計という機械に追われる時間なのである。一秒一秒刻まれる時間に追われているのだ。牛には牛の時間があったが車には車の時間がある。
車はまず停止することができない、遅くすることもできない、一定の速さで走ることが要求されている。車という機械の時間に合わせねばならない
ところが自転車は遅く走ることができる。これがなんとも不思議なことである。
遅く走ったとき何か心にゆとりが生れたのである。
時間を遅くすると景色すら違ったものとして見えるだろう。
そこに時間の不思議があった。

時間を早くしたり遅くしたりするのは自然ではない、人間なのである。
自然が時間を早くしたり遅くしたりしない
太陽が一時間で沈んだりはしないのである。

矛盾しているのは機械により時間が奪われたということもあるが機械により時間も作り出されていることである。なぜなら家事も機械化すればそれだけ余裕が時間が生れる。
だから一番時間を節約できるのは外食して弁当食べることなのである。
そしたら皿を並べたり洗ったりする時間も必要なくなる
まず家事の最大の手間は食事の用意と料理になるからだ。
さらに金があればお手伝いさんを家政婦を雇えばまるごと時間を得ることになる
だから文明社会は機械によって労働力がはぶかれたから失業するとかまた金によって奴隷的に働かせられるが一方で金があれば時間を得るということもある
時間に関してもそういう両面の働きをしているのである。


ただ皮肉なことはD=MXなのである。距離を2倍にすることは一見機械の発達によって
労働量が減らないように見えるが実際は数学のようにはなっていない
世界から物を運ぶときの負担は実際は大きいのである。

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現代文明の特徴は運ぶ文明でもある。世界中から物と人を運ぶのが文明である。
その負担が確かに減ったのだがそのコストが大きいのである。
ただ運ぶことが麻痺するとき、現代文明は崩壊の危機にたたされる。
原発事故で外から物が入ってこないとき、ガソリンなくて車が動かなくなったとき、
食料すら入らなくなり危機にひんしたのである。


要するに現代は江戸時代などから比べたら千倍の量を物を運ぶ文明なのである。
その運ばれた物を売り買いするようになるから金が力をもつ、自給自足のような社会ではそもそも買うものがない、納豆まで農家で作っていたら買う必要かない、労働でも村の中で協働していたらそんなに金は必要ない、現代は常に外から運ぶ文明なのだから金が必要になり金が力を持つ用地なったのである。
その金を得るにはとをするかというとこれも常に今度は外に向かって外国までも物を運び売る必要が出てくる。そのためにいくら機械化されても労働力は増加して絶えず時間に追われる文明なのである。


時間はそもそも概念でありだからいろんなこと言うが結局時間のことはわからないし定義できない、一方空間はわかりやすい、距離であり距離は計れる。
時間は考えるとき、常にAからB地点へゆくの物を運ぶのにどれくらいかかるとか何かするための時間なのである。何かを移動したり何かを仕上げるのにいくら時間がかるとか
または距離がありその距離をどのくらいの時間で行けるとかなる。
電車だったら何時間、車だったら何時間とか新幹線で何時間とか飛行機で何時間とか
考える。


●時間とは何かをする仕上げる時間である


だから何もしない時間とか時間を遅くするという志向から時間を考えることはない
時間を遅くすることなどできない、地球の時間を遅くしてやろうとしてもできない
実際は早くすることもできない、時間自体がそんなふうに距離ではないから空間でないからできない、だから時間はもともと計れないのである。
時間は実際は具体的あるものではない、空間でもない、時間はそもそも人間が作り出したものである。空間はもともと神が作り出したものである。
空間は共通認識されやすいが時間はそれぞれの時間であり共通ではないのだ。
時計は共通にしたようでも時間はそれぞれの時間であり共通していないのである。

だから一時間の内に何々をしなさいしあげなさいというとき、その時間とは時計が刻む時間である。でも機械によって仕事を早くできたりもできるし長い距離でも機械で早く到達できる。すると一時間でできる到達できることが30分でもできたとしたら時間が30分ちちぷたことになるのた。
だから時間を伸ばしたり縮めたりすることがそもそもできるのかとなる。
時間というのはそもそもないしただ人間で決めた一つの概念だということでもわかる。


だから何もしない時間とか時間を遅くするということ何なのかとなる。
何かをして何かを達成するのが時間の概念としてある。
でも何もしない、達成しない時間とは何になるのかとなる。
それは何かを仕上げる達成する距離をゆくという時間ではない
何もしない時間などももともとない、常に何かを仕上げる達成する距離をゆくのが時間としたとき人間がそう決めたとき、何もしない時間が生れたのである。
何かする時間があって何もしない時間が生れたのでありそもそも何もしない時間そものもがないのである。時間とは常に何かするための時間であり何もしないための時間はただ何かをするために何もしない時間が生れたのである。

石が何もしないというとき、それは何もしない時間ではない、ただ石が在るということである。だから千歳の岩とかいう表現は本当はないのだろう。

I am waitaing for.....という時、誰かを待っている時間である。目的があって待っている。恋人を待っているかもしれないし、仕事するために人を待っているかもしれない。電車にfor Tokyoとある時、何々行きであり目的地につくための電車でありただ漠然として待っているのではない、明確にその時間は目的化して時間がある。
でも岩にはそんな時間はない、誰かを待っているとか何かを待っているとかいう時間はない、そういうふうに思う時は人間が思っているのである。

岩自体には時間はない、ただ在るだけなのである。

時間は関係なく岩が在るということなのだ。つまり在るということは時間に左右されないのである。
石が何もしていないというとき、人間は絶えず何かをしているから何もしないという時間が石に例えられているだけであり石が長い時間をもっているということでもない、ただ一カ所に石が変わらず存在しているというだけである。
要するに人間は絶えず変化するから無常の世である、石は変化しないいつもそこに在るということで時間の変化からまねがれているのである。
石は変化しないから無常からまねがれている。


老子が何も成さずして成る・・というとき、それは自然界は物質は生まれ時、人間が成してなくても何もしなくても在ったのであり成っていたのである。自然界とか物資界は人間が何かを成したからと言って何かなるわけではないという意味である。
すでに成ったものとして在るのでありそれを手を加える成す必要ないという意味である。

木が成長したり果物が実ったり稲が米になったり野菜が成長する花が咲くには時間がかるというとき、それは時間があるからではない、時間によってそうなるのではない
木が成長するのは成長する力が大地から環境から与えられているからである。
果物が実るのもそうである。時間のせいで実ったりするのではない。
時間があってももし大地とか土の栄養分がなければ実ったりしないだろう。
成長してゆるのは時間があるからではない、実るための環境があるからなのだ。

時間というのはそもそも人間が作り出した概念であり時間は自然界にはないのである。
いくらじかんがあっても成長する環境がなければ成長しないのである。

つまり時間だけがある世界はない、何か作用する世界があって時間がある。
木が成長して野菜や果物が実り稲が実りとなるからそこに時間が生れているのだ。
時間とは常に単独では存在せず何かに付随して時間が生れているのである。
もし人間だっていつまでも体力があり若いようになっていれば時間など感じない
時間などなくなるということもない。

だから天国では時間はない、それはいつまでも若いからだとういう。
病気にも老化にもならない体になっているから時間もなくなっているのだ。
時間によって消耗することもないのである。


●時間がたてばすべて忘れる時間が解決するとはならない


人間は確かに百年前とか四〇〇年前とか千年前とかの時間で計るけどそれも人間が作った時間であり変化したから時間がある。
なぜなら太古の自然の状態のままにあったら何ら千年たっても時間の変化を感じられないのである。それでも時間というのは人間が作り出したものでありもともと自然界には時間はないのである。
だから時間がなくなるということは自然界にはいな、ただあるところ在る物が移動したり砕けたりすることはある。ただ時間はそもそもないのだから時間がなくなるということはないのである。年とったとき時間がないというとき、何かをするための時間がないということである。若い人なら一万回できることが百回しかできない、仕事量のことなのである。時間があるないではなく何々ができるできないことが若者と老人の差なのである。
若者には一万回やれる体力と知力があるが老人には百回しかやる力しかないのである。


四〇〇年前の慶長津浪のことを最近盛んに言われているけどそれがどういものかよくわからない、それは四〇〇年の時間が過ぎたからではない、その津浪がどういうふうに作用したかわからないということである。だから時間がたっても当時のことが詳しく記録されていたり何か証拠があれば今でも生々しくイメージできるのだ。
それは時間と関係ないということもできる。作用した現象が大事であり時間がたっても
そうした作用した事実が痕跡として残り記録されていれば時間によって忘れたり消耗されこともないのである。
だから時間が経っても千年たっても二千年たっても歴史の重要な事件が忘れらず昨日のことのように語られるのはその作用したものが時間で消耗しないからである。
だから時間より人間はその作用したことをどうみるかなのである。

相馬藩では一行七〇〇人溺死としか記されないないから慶長津浪のことは探りようがない。それは四〇〇年という時間が過ぎたからではない、その津浪に関してどう見たかということである。それが語られなかったのはどうしてだったのかその時社会状況が問題になる。

要するに人間の問題でもすべてを時間のせいにすることはできない、もう時間が過ぎたら嫌なことは忘れればよいとなれば人間は忘れる、そういうことは津浪の被害で起きている。いつまでもそういう悲しいことにはこだわりたくないという心情が働く、だからついにそういう事実が自然の作用があったということまで忘れる。
それは時間の問題ではなく人間側の態度であり時間がたったからではない
みんな時間のせいにしたら何があっても嫌なことだったら忘れろとかなり時間が解決してくれるとなってしまうからだ。

もちろん時間の浄化作用があり嫌なことも恨んだこと忘れるのはいいとなる。
そういうことをいつまでも根にもっていたら生きるのも苦しいだけだとなる。

すべてを覚えている必要はない、でも時間のせいにしてみんな忘れていいのかとなるとそうはならない。だから時効制度はただ時間を制限しないと処理できないので事務的に決めただけである。それで殺人が時効になるわけではない、それは来世にすらその罪はもってゆくものだとすると消えないともなる。時間で忘れられるならすべてが時間で消失するならそんな罪のことなど深刻に考える必要もないだろう。
時間がたてば消えるんだから時間しだいだとなる。時間がたったらすべては許されるともなる。時間に効用があっても時間にそんな万能性があるのかとなる。


レイテの水を飲んで忘れ生れ変わるというのもわかる。それは時間で忘れるのではない、忘れる水を飲むからである。何かによって作用したことは時間では消えない、それは忘れる水を飲む、薬を飲むことであり時間がたつからすべてを忘れるということではないのだともかく時間のことはいくら語っても語り尽くせない、それは時間は物ではなく人間が作り出した概念だからいくらでもどんなことでも言えるからそうなっているのだ。



参考になるもの

ブラックホールでは時間は止まっていると言われます。
つまり、変化がなければ時間は生まれないのです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAEEB_wKVTDCoAHBVoAPR7?page=2&qid=1189635431

時間そのものが多様に解釈される。
ブラックホールには時間がないというとき、時間がない世界あっても不思議ではない
何も変化しないいつまでたっても暗闇しかなければ時間もないとなる
そこにもし光が生れれば時間が生れる、物が現れれば時間が生れる
暗闇一色の世界に変化が生れたからである。

ここはの説明はわかりやすい、物理学と数式になるとわかりにくい
ただ文系でも理系的思考を取り入れることは可能である
そうすると物事を多面的に見れることも確かである
ただそれは自分にはむずかしい、科学的な知識の差が大きすぎるからである。