2014年06月19日

金より時間が貴重だった (その人の能力は何かについやした時間である)


金より時間が貴重だった

(その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)

●金ではすべては充たされない


現代はほとんどの事件が金にまつわるものである。毎日が金、金,金である。
人間は空気を呼吸しいるように金を呼吸して生きている感じになる。
金があればすべてが充たされるという感覚になる。
こうして不遇なのはすべて金がないから金さえあれば充たされる願いがかなえられる
そう思っている人が大半である。
何かできないのは貧乏だったからであり金持ちの家に生れていればこんなことはなかった金持ちの家に生れれば勉強もできたとか常に言われる。

しかし金があっても勉強などできないし頭が良くなるわけでもない、
ある人は金持ちで二人も家庭教師をつけていても一向に頭か良くならないと言っていた。要するにその人の生まれつきもあるしいくら教えようとしても学ぼうとする意欲がないと勉強はできないだろう。

自分なんかもまず勉強は嫌いだったし興味を覚えなかった。
それは性格的な甘えもあるのと能力がないというより他の何か欠けていたのである。
能力というとき人間は頭脳だけではない体力と性格とか総合的なものが影響してくるのだ体力が充実していれば頭脳だって働くのである。

だから天才的な人は柔道何段で東大で医学部出たとかの人がいる
そういう人は生まれつきに優れているのだと思った。
ただこの人はこれだけ生れつきが恵まれていても45歳くらいで病気で死んだというのも不思議である。
こんなに恵まれても最後は病気に呻吟して死んだのである。
つくづく人間の運命はわからないと感じる

自分の姉も体力的にも性格的にも強く優れていた。
だから自分で優秀だと最後まで言っていたが実際認知症になり痴呆になり死んだから
これも信じられない最後だった。
認知症になることはどんな優秀な人でもなり最後は痴呆になるのだから信じられないことなのだ。
だから人間は最後までみていないとわからないものだとつくづく思った。


人生は、長い長い台本の演劇です。
どんな悪役も、あなたのドラマに必要な配役であり、
とくに家族は、重要な役回りです。


http://yuriel88.exblog.jp/19395620/

これなんかうまい表現である。人間は死ぬまで最後までわからない長い長いドラマなのである。最後にどんでんがえしもある。だから死ぬまで人間のことはわからないとなる。

金持ちになりたいと金がほしい、金さえあればこの世の中どうにでもなる、能力も金しだいだとなる。
能力も生まれつきもあるがやはり能力とは天才でない限り積み重ねであり努力がものを言うのである。
何度も言っているが自分は俳句とか短歌を若い時作っていたけどただ五七五とか子供のように言葉を並べたくらいにすぎなかった。
だから今になると啄木のような感性をあんなに若くしてもちえたのか不思議である。
啄木は相当にいいかげんな遊び人的なところがありそれでも自然への感性を若くしてもっていたことの不思議である。
だから自分にはその辺がどうしても理解できないのである。
天才は普通の人には理解できないものをもっているのだ。


でも人間の使う時間はみんな同じであり限られているのだ。金持ちは確かに金をもっている。ほしいものは買うことができるかもしれない、でも特別時間を長くもつことはできない。時間はみんな限られていて特別長くもちえる人はない。
百年生きても百年で時間は尽きるのである。天才だって時間を長くもてずに早世した人も多い、天才も凡才と時間は同じくしか与え散られていないからなんでもできるとはならないのである。その間にやれることは限られているのである。

●能力より何に時間を費やしたかで人生は決まる


自分が旅できたのは金があったからではない、自由な時間を与えられたからである。
旅するにしても宿泊費はかかったが最低限しか使っていない、だから安宿を探すのに苦労した。それは外国旅行までつづいていたのである。
だから旅行先でうまいものなど食べたことがない、腹を充たせばいいというだけである。泊まった宿では食事しないで安い外食ですましていた。

だから貧乏旅行だったけど時間が与えられたから長い旅ができたのである。
単に観光旅行するならいいが旅人となると一カ月くらいきままに旅する人である

だから現代では観光旅行の保養の旅行になるから食べ物にこだわる。二三日だったら旅にならないからだ。
旅人になるには金よりそうした時間が与えられないとできない
それで鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。
退職して自由な時間を持てたから憧れの自由な旅に出たのである。
ところが意外と退職して自由になったから何でもできるように思えるができない
気力も体力も病気になったりまたは介護になったりと時間が奪われる
現実に自分は家族の介護になってから自分ひとりで全部家事をまかせられて一日たりともそれより一日も自由にでかけられなくなったのである。
つまり完全に自由を奪われたから近くすら自由に行く時間を奪われたのである。
だからつくづくどこにでも自由に行けた時がめぐまれていたなと思った。
それは金に恵まれていたということではない、時間に恵まれていたということである。

他の人は会社勤めになれば自由な時間は会社にささげるからすでに奪われているのだ。
家族をもってもそうである。ただそれはそれなりの時間を費やすからそこに価値を認めて費やしているとなる。
だからすべての人が旅に時間を費やすのがいいとはならない。

ともかく何かするにしても何か学ぶにしてもすぐに時間がすぎてしまうのである。
楽器一つをものにしようとしてもそれも時間がかかるからたちまちすぎてもうできなくなる。いろんなことをものにする時間など人間にはない
どんな才能のない人でも江戸時代になぜ親の職業をつくことができたのか
すべての人が継げないにしても親のやることを身近に見ていて時間を費やせばむき不向きがあっても時間をかけるから会得するものがあったとなる


つまり


成果=xtである。ある人は成果=atとなる。ある人は成果=bt・・・となる。
t=timeである。abcd・・・は様々な分野に時間を費やすということなのである。


●時間についての格言

[三年飛ばず鳴かず]

会社でも事業でも何でも一からはじめるのはむずかしい
会社を事業をはじめた、すぐに成功だなんていかない
いろいろなことを学び試行錯誤して成長してゆくから
そこにも時間がかかる、何かを会得するにはともかく時間がかかる


三年くらいは事業起こしても何ら利益もないし何ら得る所がないかもしれない
ところが自分もそうだったが急いで成功しようとしている
事業をはじめたら成功すると思っているからうまくいかないのだ
現代にはそうした時間の余裕をもてないのである。

 

若者と老人の最大の違いは何か?
若者はこれから何かをするできる時間と体力や気力などがある
老人は金があっても何かをする時間や体力や気力がなくなることである。
でも若い時このように時間の貴重さを意識してい人はまれである。
時間などいくらでもある、暇でしょうがないんだよ、どうしたら暇つぶせるんだ
そういうふうに思っている若者が多い、自分も若い時そうだった
会社勤めもしないと暇で暇でしょうがなかった。
そこからどうしても小人は不善を成すになるのである。
ところが老人になるといかに時間が貴重だったかを知る
何かをすべき何かを学ぶべき時間がなくなってしまうのである。

 
[少年老い易く学成り難し]


これも全くそうだった、勉強などいくらでもできると思った。本などいくらでも読めると思った。そのうち時間が過ぎて読んだ本もわずかであり語学もものにならなかった
つまり勉強する範囲が実は膨大なものでありとても一人が学ぶ範囲は本のわずかなのである。古典にしたって無数にありそれだってわずかしか読んでいないのである。


時間だけは神様が平等に与えて下さった。

これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、
うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

 - 本田宗一郎 -

何かをやって
時間を損するということは絶対にない。
貧乏旅をすれば、
大学を二つ出たようなものだ。
- 永倉万治 -

人間何をしようと時間がすぎる。その費やした時間が人生である。
貧乏旅行でも旅には変わりがない、そこで見聞したものが後の糧になる。
本を読むより実地に旅した方が何かを学べるということで共感する

何かをやって時間を損するということは絶対にない。

これもそうなんだよ、何かを必ず人はする、その費やした時間が人生である。
たとえ雑学でも一分野に時間をかければ独自の学が成ることはある

今になるとつくづく旅でもできないから余計にそう思うようになったのである。
いづれにしろ時間を費やしている時は意外とその意味がわからない
老人になるとこういうことに時間を費やしてこういうことを自分が学んだのだとわかる
例えばカルト宗教団体に入ったことは間違っていてもそれも経験なのである。
そんなこと長くやっていれば別だが人生の一過程として時間を費やしたのが無駄だとは言えない
若い時のやったことアルバイトだろうが馬鹿げたことに見えても無駄にはならない
それは人生の一つの経験だということである。
そして人間は経験できることが極めて限られているからそうなる
出会う人も実際は極めて限られている
馬鹿でも最後にはこれが人生だったのかとわかるしわからさられるのである。


だから労働する時間は貴重である。その労働時間が意義あるものとならないと人生自体無駄だったともなる。俺たちはただ奴隷なんだよなとか金のために働かせられているんだよなとなるとまさにそこに働く意義を見いだしていないのに貴重な時間を費やしていることになる。
時給いくらとか時間を切り売りするような働き方は何か人間を時間的にも部品化しているのである。
それで時給を高くしても今度は人が来ない、労働環境が大事だとなるのは当然である。
そこで働く仲間とか何かの目的に向かって働くとかが大事になる。
ただ時給いくらで使い捨てのようにされるのでは馬鹿らしいとなるのだ。

人生は何が有意義かは個々人でも違っているのだ。

自分が病気で介護で苦しんでいる時、全く助けることもなくパチンコ屋で働きエステが忙しいからと一時間だけいて金をくれとだけ言って東京に去った遠い親戚とか何かおかしいのである。そういう人は強制されてそうなってもいるのだがどっちが今大事なのか?
そういう人は要するに何か苦しい時はその働いている所で人に助けてもらえとならないだろうか?
働くこととはそれだけ貴重な時間を費やすことなのである。
「バチンコ屋がエステでこっちは忙しいんだよ、休むこともできないよ、お前のことなど知らないよ」と吐き捨てるようにして金だけくれと去って行った。
こっちは病気で介護で困っていても何の配慮もないのである。
その人にとってどんなことがあってもパチンコ屋やエステが大事なのであり休むことはできない、自分が死ぬようになってもそうである。
だからそういう人はそれだけしてそこで働くのだからそこが一番大事な場所なのだから何かあったら助けてもらうのもその会社とかになる。
つまり働くことはそれだけ人生の貴重な時間を費やすことなのである。
だからソローは森の生活をした時、そこに人生の貴重な時間を費やすべきものとしてそこで過ごした。労働はみないいものではなく金持ちに働かせられているとか拒否したことでもわかる。