2014年06月18日

抽象画ー花の内部(inside flowers)


抽象画ー花の内部(inside flowers)

centerccc1.jpg


これもインターネットから加工して変化させたものである。
インターネットの抽象画は特にパソコンのソフトで作ったものは
加工しやすいのである。
それは今までの絵画とは違うパソコン特養の色や光を出すからである。

starffff1234444.jpg

starffff1234444555666.jpg

flowerinside.jpg

whitefff111.jpg

chouflower222.jpg

花から蝶へ変化するのが良くある
花と蝶は具象でも結びついている

立葵 (南相馬市でも新しく街をデザインし直すことが要求されている)


立葵

(南相馬市でも新しく街をデザインし直すことが要求されている)

nesstreet123.jpg
クリック拡大

鹿島区も旧街道通りと駅前通り新しい区画整理された道がある
そこで店が散在しているから利用しにくい
美的景観とすると真野川沿いの通りが並木があり花も植えられているので
自分としてはいい感じだなと思って通っている

newssssss111.jpg

newssssss111_FotoSketcher1.jpg

墓地の前に復興住宅の団地ができたが
墓地の前にあういう都市化した団地がでることは予想もできなかった
それでも絵のようにマンションのように外装を良くすると
何か落ち着いたものになる
でも墓地の前にはにつかわしくなかった。
でも土地がないのだからどうにもならなかった

nikinomatuuu11_FotoSketcher.jpg

岩沼の二木の松は歴史も活かされた通りである
車が多くても人の歩く道が整備されていた



街の角曲がりて赤き立葵

街を行き色変わり咲く立葵

人住まぬ家の庭にしツツジ咲き赤きも誰も見ずに虚しき


立葵が街の角を曲がったら咲いていた。今頃が立葵の季節なのか?この花は街の中に咲いてもあっているなと思った。街の中だはあわない花があるだろう。
菖蒲はあわないと思ったが真野川沿いの新しい通りの並木道に咲いていた。
あそこは道の両側が歩くようにできていて並木道になっているから他とは違っている。
鹿島区はもともと浜街道だったところと駅前通りと区画整理でできた
新しい通りがある。福祉関係の建物が集まっているのは新しい所である。
あそこで福祉の湯は便利なので利用している。
温水器などが壊れたし地震で壊れたのを修繕していない、直すことが金もかかるしめんどうになっ。家は古くなるとリホームしたりするのでその金が大きいのである。

家族が住む家にしてもその住む人も変わってくる。
子供が育ったり家族が死んだりして変化すると家も変わる
その変化で無用になってゆくものがかなりある。
空家が全国で700軒もでてその利用に困っているというのはそのためである。
近くの空家の庭を見たらツツジが赤く咲いている、でも見る人がいないとしたら何か虚しいとなる。
要するに利用されないものを放置していることは市全体でも良くないのである。
何事使われていることによって生きてくる。
空家のままだ死んでしまうし邪魔になってしまうのである。


震災から三年すぎて思うことは仮設の時代は終わったということである。
すでに長すぎたとも言える。ぶらぶらただ遊んでばかりいる三年間は長い。
これから警戒区域解除になるまで二年は長いのである。
だからなんか仮設の店や食堂などあるがそれも合わなくなっている。
街というのは変化を好むのだろうか?田畑がある環境が変化を好まない
でもその田畑すら津浪で原発事故で耕作されず原野化している。
津浪の被害地には家は建てられないだろう。
ではそのままにしていいのかとなる

何かもう悲しいというだけではない利用方法を模索すく時期に来ている。

これだけ変化したということは新しいものを一から計画しやすい
そもそも市街地を魅力なくなったのは商店街がさびれたからである。
商店街は買い物が不便なのである。品物がないというだけではない
小さな街でも店もばらばらになっていて買い物しにくいのである。
街には街の魅力作りが本当できないことはない

そのために新しく街をデザインして新しい街を作るほかないだろう。
そのために区画整理して新しい通りが生れた。
真野川沿いの通りは並木があり花なども植えてあった。
あそこを歩けば通りであり魅力がある
スーパーは便利でもそうした自然を取り入れた通りは作れないのである。
ただ旧街道の道と駅前通りと新しい道とばらばらになって店が散在しているから
街自体が活きてこないのである。
街は鉄道全盛時代は駅前がにぎわうしと必ず変わる

だからそれは今にはじまることではない、どこでも古町という地名があり
それも近くにありいかにすぐに町が古くなってしまうかわかる。
それは時代が変わりそれに応じてにぎわう場所が変わってくるからだ。

いづれにしろ3・11の震災以後は変わらないと言っても変わることが要求されている。
街自体のグランドデザインを作り直すことが要求されている。

そんなこと個々人には関係ないというが市役所などでは考えざるをえないだろう。
そして市が衰退してゆきことは個々人にも影響するのだ。
確かに不利な条件が重なっているから困難を究める
そんなことを考える必要もない、自分たちには関係ないということもある。
ただ何かを構想することはイメージすることは一銭もかからないということはある
こういう街になってほしいという願望はもつことができる
そのイメージが実際に現実化するということもある


浜通りは変化に富んだ地形だった。海があり川があり山がある。
だから海ゾーンと平地のゾーン、街のゾーン、山のゾーンに分かて市作りを考える
海のゾーンは津浪の被害地だから何もなくなったのだから
新しいものを一から作り安い
街はできているから頭で構想するようにはいかないからいつまでたっても変わらない

でも鹿島でもばらばらに店があること原町ではシャーター通りの店が駅前通りに多いのは外から来たら相当にイメージが悪くなる
なんかゴーストタウンのように見えるだろう。

そして小高はここはそもそも街を再生できるのかどうか
まず今までとは違う全く違った発想の街作りが要求されている
それより小高では街が存続できのかという厳しい状態になっている
でも塚原に公会堂ができて集まる場所ができたとか復興しつつあるのだろうか?

いつまでも宙ぶらりんではいられない
仮設に長くいることで補償金暮らしがいいとか板についている人たちもいる
金を見せびらかしている人もいるというから反感をかっている
補償金で遊んであとは生活保護がいいとか言うのも虫が良すぎるだろう。
小高は本当に小高に住むのか?嫌なら原町や鹿島でも住むのか
そういう選択が迫られてくる、別に小高に住まなくても原町鹿島に住むなら住むように備える必要があるだろう

それでも今までのように仮設的な暮らしや考え方では受け入れられない。
かといって高齢化社会では新しいものを考え作ることは不向きだというのも問題なのである。

本当は市に住む人がそれぞれの立場で知恵をしぼることなのである。
いろんな人たちいてその人たちもいろいろな経験を積んでいて何かしらできるということはある。
それが活かされていないということがある。
だから総合デザイナーのようなリーダーが必要になることもある。
それは市長がやるのだがそれも頼りないと評判が南相馬市でも相馬市でもそうであった
だからよそから市長に立候補してもらうということも市民が考えたのである。

そもそもこれだけの被害があり変わるとどうしていいのかなかなかリーダーシップをもって市を変えることは至難になる。
ただ観光面などからみると食べ物は放射能汚染だが景観とか自然の美には変化がなかった自然が汚染されて緑が赤茶けたとか花がしぼんだとか水が汚くなったとかなったら
もう住むことはできなくなっていた。放射能汚染にはそういうのが見えないのでわからない不思議があった。
だから観光面では必ずしもマイナスばかりではない、観光なんかまた先の先だというのは言える、でも常磐高速道の開通に期待している人はいる。


いづれにしろこんな災害にあったら宮城県でも福島県でも市民力というのが試される
小高や浪江とかでも町民としてそもそも維持できるのかということがある
現実に住むのをあきらめて若い人は帰らないとなり分散して町の消滅の危機にある。
ただ小高でも住むのをあきらめるなら原町鹿島でもそこにコンパクトシティ化して住むというのも考えられる。
ただすでに小高に帰ることはインフラも整備しているから帰る人は帰る
でもそこで新しく町作りすることは高齢者だけになると苦しくなるだろう。

いづれにしろ市民の知恵とか力の結集とかが要求されている。
そして小高と原町と鹿島ではそもそも前から別々の町であり街作りが望まれていたのである。
それが津浪原発事故で混乱状態になってしまったのである。

相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む (津波については探る資料がない)


相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む

(津波については探る資料がない)

mapebiiii111222.jpg
クリック拡大

慶長16年中村に市坊を置いた。街道の宿駅の整備

同じ頃宇多郡中村城に馬場を開き,騎馬演習を行った。
南北百八十間、東側の濠の土手には桜を植え故に桜の馬場といった。

また慶長年間、行方郡横手村より真野川に堰を作って東流させ
屋形村に引き鹿島、両海老、両右田の五村に分水して田を潤した。

これは慶長年間なのか?二宮仕法で行われたともある。


そもそも慶長年間に鹿島、海老はあった。右田はそのあとに開発されたのではないか?
だから時代的に後であり時代というのも間違って記していることが多々ある。
今回の津浪では田中城まで津浪は来なかった。
屋形とか山沿いから下の田畑は右田の方から比べると一段と高くなっている。
だから屋形や海老の山沿いに大きな溜池を作ればその高いところには田畑が作れる。

ただ津浪のことを考える時、慶長津浪の影響があったことは何も記されていない
記録から読む限り慶長津浪があったということはどこにも見いだせない不思議がある。

なぜなら慶長津浪の後に相馬藩が力を注いだのは津浪の復興などではない
街道の宿駅の整備、そして一番力を注いだのは野馬土手の整備なのである。
それから堰を作り溜池を作り田を作ることが鹿島の屋形村や海老村で行われた。

普通だったら津浪の復興が第一となる。伊達藩ではやはり津浪の被害が大きくそういうことが記録から感じられる。
ただ相馬藩では鹿島区でも津浪の被害にあった所は原野であり田畑化されていなかったのだろう。
だから津浪の被害にあわない屋形の山沿いから田を作りはじめたのかもしれない。


グーグルの写真地図で見ると津浪の浸水地域は海岸の南海老村と右田の方になっている。海岸の方はあとから人がすみはじめた地域である。
屋形村や南海老村でも山沿いの所は一段と高くなっていてそこは溜池から水を引けば
田にできた。その面積もそれなりに広い。だから慶長年間にそこは田にしたのかとなる。

陸前浜街道は慶長津浪があり津浪が来ない所に道が作られたというのも今回の津浪から見ればそうなる。でもまだ相馬藩では田を開拓され作っていない原野が湿地帯が多かった。だから湿地帯をさけて道を作ったともなる。
必ずしも慶長津浪が影響して津浪が来ない所に作ったということではないだろう。


いづれにしろ相馬藩は慶長年間まで戦国時代の延長であり相馬氏が支配を確立していたわけではない、中村城に移転した時支配が一応確立したのである。
野馬土手作りに力を注いだのはやはり軍事を優先したからである。
北朝鮮でも軍事優先であり飢えている子供がいるということは外部の人によって明るみに出されたのである。当時は藩が国だとすると外部に弱みを見せないということで
津浪の被害を隠したのかもしれない、慶長津浪のことは全く探る手がかりもないからだ。外部の人に伝えなければ餓死してるとか悲惨なことはわからない。
ミサイルを打ってくるくらいだからかえって恐れたりしている。
内情は兵士は食べ物もなくやせ衰えていたのである。
今でも対外的には強い所を常に見せておかないと他国に攻められるのは同じなのである。

そして伊達藩でも岩手県の宮古でも牛馬が死んだと記されている。
それは馬が人間と一体化していたから馬が大事だからその数も記された。
相馬藩では死んだのは人間しか記されていない
それも野馬追いがある相馬藩では変だなと思う。
ただ野馬土手などが作られたのは慶長津浪以後であり津浪の被害にあった所で馬をまだ飼っていない地域だったかもしれない、海岸地域は馬を飼いにくいこともあった。
それでも何か解せないものがある
記録にも時代が間違っていたりすべて真実とはならないことも問題なのである。


家屋から家財道具まで流され、先祖伝来の武具、文書、飼い馬も一緒に流されて
誇りや伝統も一緒に流されちまったよ! と言ってたな親戚が‥返す言葉が無かった。


津浪には飼いにし馬も傷つくも負けじといでぬ祭りなるかな


津浪で流された馬もいたし傷ついた馬もいたのである。人間だけじゃない牛馬を津浪の被害者だった。今だったら馬が死んだ数まで記さないだろう。
津浪の被害にあった家が野馬追いに出ることが放送された。
そういうことは慶長津浪ではなかった。それより資料がないから推測もできない。
ただ原町でもそうだが馬を放牧する広い原があったということはそれだけ原野がまだ
相馬藩では多かった。
そうなると海側も原野が広がっていたとなる。

それではな海側に人がどれだけ住んでどんな暮らしをしていたのかとなる。
湊があり湊中心の漁労生活者だったのか?そういう人たちが死んだのか?
まだ田畑の被害は原野だから少なかった。
それにしてもなぜ700人も死んだのだろうとなる。
その死んだ人たちのことを探ることが資料がないから皆目わからないとなる不思議がある歴史にはそうして消失したしまった人たちはいくらでもいるのだろう。

相馬藩でも戦争で死んだ人のことはいろいろ記してありその功績も記されている。
しかし津浪で死んだ人たちのことは何一つ記されていない、700人溺死としか記されていないのである。
被害にあった民衆の間でも語り伝えられてもいいものだがそれもなかった。
そうなると本当に慶長津浪の被害が本当にあったのかとまで疑うことも不思議ではない
歴史的事実として何をもってそれだけの被害があったか探りようがないからだ。
神話でも伝説でも何かしら事実があって語り継がれる。
でも小説では相馬藩が復興に力を注いだと美化しているがそんなことどこからも事実として何もないのである。

posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係