2014年06月17日

相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発で火を放つ (津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)


相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つ

(津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)

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野馬土手で囲む前はもっと広い原があって馬が放牧されていた。
原町は原という地名が多く広大な原があった


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桜井古墳の前まで津波がきていた


●牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。


村上城から牛越城へさらにまた小高城へとなぜ転々と城を移転せねばならなかったのか?
村上城で火事があり不吉だとしてとりやめたのは岡田氏や館がありこれも泉氏と同じ理由で火をつけられた。各地にまだ相馬氏に反抗する勢力があり統一されていなかった。
この動乱の時に慶長津浪が起きた。
慶長津浪のことはただ700人溺死としか記されていないが海老村の大工の善次も輪蔵館から人夫として中村城の天守造営に出されていた。
そのことが泉氏と同様不満があり善次はとめられたが無理して行こうとして怪異があり
不慮の死を遂げた。
それは明らかに牛越城築城に泉氏が反対したと同じ理由があった。
牛越城の時はまだ慶長津浪は来ていない、しかし海老村の伝説は明らかに中村城の天守造営と記してあるのだから慶長津浪がありその後のことにしても何らか慶長津浪の記憶がある時だったのである。

慶長津浪の後の数十年、30年から40年くらいは原野のままに放置されていた。
そこは湿地帯にもなっていたから人は入りこみにくい状態だった。

ただ萱浜に「巣掛場」とか地名があるから狩りの場になっていた。

その後大規模な野馬土手が作られた。これは今の原町の市街をつつみこむように作られ周りに木戸がいくつも作られた。それが大木戸として地名化している。
これほど大規模な馬の放牧地を作り馬を重んじたのは戦国時代の延長として相馬藩が伊達に対抗するための軍事訓練の場として作った。
これは軍馬であり戦争するための馬なのである。
戦国時代は馬が最大の武器となるのだから馬の飼育には力を入れた。
鎌倉武士が平家に勝ったのは騎馬軍団をもったからである。
だから鎌倉時代とかその後南北朝時代、戦国時代は馬の時代だったのである。
放牧地が広大な牧が各地にあったのだ。
だから江戸時代は何か田んぼが広がる景色のように見えるがその前は牧が広がっていたのある。

だから相馬藩の野馬土手は実際に広大なものだった。
そこで気になったのが桜井古墳から上渋佐まで野馬土手が広がっているのだが
上渋佐で微妙な線を描いてとまっている。
あそこまで津浪が来ていたのである。
津浪が来た線でとまっているのはそこは原野になり湿地帯になっていた。

慶長津浪の後にまだまだ開拓されていないから田畑は少なかった。
ただ萱浜の巣掛場木戸というのがあったとするとずいぶん海岸近くまで広がったいたとなる。
巣掛場辺りは今回の津浪をもろに受けた被害の大きい所だった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。

これをよく読むと野馬土手を作ったのは馬を囲いこむためでありそれまではもっと広い原野がありそこを馬が駆けていた。野馬土手がないから馬が田畑まで入りこんだのである。それだけ広い馬がいる原があった。モンゴルの草原ではないにしろそれは日本にしては広大な広さである。
田畑より牧の方が中世には広いということがあった。
その牧に放した馬を家に連れて帰る絵を見たがその家に帰る道も長く農家が一軒ある。


●人馬三千余名死すー人馬一体となり死す


今回の津浪では野馬追いに出る家も津浪の被害があり野馬追いのことが語られた。
海老村では妻をなくした人が弔いの野馬追いに出るのが放送された。
浪江からも野馬追いに出て復興の野馬追いになった。相馬藩の祭りとして相馬藩が一体になるものとして復興の野馬追いになったのである。


相馬藩御経済略記:同年10月海辺津波御領分ノ者700人溺死

相馬藩政紀第一(御年譜利胤):10月28日、海辺生波にて相馬領の者700人溺死

相馬市「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

青森県沿岸「南部・津軽の海辺の人屋溺失して人馬三千余死す」(『駿府記』)
宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」(『宮古由来記』)

仙台藩の歴史が記されている「伊達氏治家記録」にも仙台藩の領内で津波で1783人が死亡し、牛馬85頭が死んだという記録が残っている。

相馬藩の記録では牛馬の死は記されていない、伊達藩では85頭まで記されている。
青森県沿岸で人馬三千余死すとある。野馬追いの地で馬のことが記されていない。
牛馬の数をそこまで詳細に記したことはやはり牛馬を重んじていたのだろう。
牛馬も死んだと記しているだけでも津浪には相馬藩より関心があり記した。

宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」

宮古市では騒動まで起きたというから生々しいものとして残っている。
騒動が起きても不思議がないほどの大被害だった。
何か物騒な状態になっていることが記録されたということは
食うや食わずで家も失った人たちが津浪の後に彷徨っていたはもなる

相馬藩では700人溺死だけでその他何かてがかりになるものが残されないないのが
慶長津浪のことを解きあかそうにもできないのである。
ビスカイノの報告が唯一の資料ともなる。これにしても城が破損したということは記されている。その他のことは不明である。


海辺津波御領分ノ者700人溺死


ここに津浪と記してあるのはなぜだろうか?相馬藩で津浪ということを知っていたのか?
これは当時記したものではなく後から津浪が一般的になり記したものなのか
生波と記したのはこれはその時津浪ということを知らないから記した。
だからこれはその当時に記しことになる。

いづれにしろ津浪に関しては相馬藩では何ら資料がない、だからいくら探るにも限界がある。相馬藩ではその歴史はいろいろい記されている。
でも津浪に関しては何一つ記されていない、700人溺死しか記されていない
ただこの数は伊達藩の死者と比べてみると死者数の数は今回の津浪より数が多い感じがする。それほどの被害だったのである。
在地の豪族が相馬氏の政治に不満をもつことは語られている。
実際に事件もありそのことを記されている。
ただ慶長16年に起きた津浪に関しては記されていない。

伊達藩でも詳しく記したのはたまたま伊達藩内に来ていた人たちだった。
それで津浪のことが全国に伝えられこの時から津浪という言葉が一般化した。
外から来たものは津浪を伝えるのにはばかるものがなかったが伊達藩でも伊達政宗が一言も津浪について言及していないように津浪の被害を隠していた。

誤解しやすいのは貞観津浪と慶長津浪が混同していることである。
貞観津浪の伝説が慶長津浪の伝説だとしている。
岩沼の千貫松の伝説も貞観津浪のことだろうというのもそのためである。
相馬藩の新地の地蔵森でも諏訪神社でもとても津浪の来るような所にはなく
奥の方になっているからだ。


●慶長津浪の明確な年代は本当はわからない?


慶長三陸津波を起こした地震は古い地震で謎が多い。発生したとされる時期も一般に採
用されている1611(慶長16)年の他に、1614(慶長19)年、1616(元和2)年など

慶長16年と記されていても慶長年間と記されているのもある。だから年代も明確ではない慶長年間なのがまちがいないというだけである。


慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

慶長年間というのはこれだけの地震の被害もあった。大地震が連続して起きていたのである。文禄からはじまり慶長年間は地震で象徴されていた時代である。
この時は戦国時代だったのである。動乱の時代でありそれに地震や大津波でまさに末世の様相を示していたことは今回の津浪は日本の動乱の時代のはじまりなのかもしれない。

算命学 2011


国家を揺るがすような強烈な出来事が起こってもおかしくは無いのです。
貯蓄・防災・危機管理の徹底など、いざという時の為に備えは万全にしておきましょう


これは2011年1月に占いの人のプログに書かれていたのである。
プログの特徴は日付が記されているからそこから個人であれ歴史を読むことができる。
だから20011月の3月11日の津浪の前と後では時代が明確に区別されるのである。

1611ー2011とかアメリカのビルが破壊された9・11とか何か11は不気味である。
1ははじまりであり開始でありだからその前に大規模な破壊が起きることはありうる。
ただ占いも不安をあおり金儲けにしているものもいる。
それでも2011ー3・11という数字が並んだことは不気味だった。
となると2111が最高に危険な年になる、人類滅亡の年になるのか、その時は自分は死んでいるからどうでもいいともなるが・・・

posted by 老鶯 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係