2014年06月14日

慶長津波で相馬藩の湊が喪失した (小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


慶長津波で相馬藩の湊が喪失した

(小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


小高ら中村へー戦国武将相馬義胤の転換点
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

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●中世は思ったより船運が盛んであり大きな湊が各地にあった

慶長津波のことがなぜ一行しか記されなかったのかということを探求するには
慶長津波の前後の相馬藩内の政治情勢とかどういう暮らしをしていたのかということを知らねばならない。
その時代は戦国末期であり秀吉や家康と相馬藩はかかわり四苦八苦していた。
相馬藩の領土すら安堵されていないし領地を失う危機も経験している。
相馬氏は相馬藩内を統一支配する状態にはなかった。
だから中世以来在地の館をもった有力氏族が力をもっていた。
その筆頭になるのが岡田氏であり中村城では別個に岡田館をもったことでもわかる。


小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」


その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。
そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

磯部もすでに大きな湊があり船の出入りがあった。八沢浦にも七荷というから七つの種類の荷を運んだのだからすでに中世にそうした湊があり海老村とも関係していた。
八沢村はなく海老村の領域になっていたからだ。

それで善次という大工が津波の被害にあった地域に住んでいて中村の天守造営の時、怪異があったというのは何か津波を示唆しているかもしれない、中村城移転の時、天守造営が行われたからである。
つまり在地の寺社や館をもっていた中世の領主がいてそのおかかえの大工だった。
その領主は中村城への移転に反対していたのである。
相馬氏の支配に入ることを拒否するものがあった。
その天守造営のとき、津波が起きた、ただ津波からしばらくたったにしてもそういう記憶が残っていた。
いづれにしろ海老村の輪蔵館などの寺社勢力があってその配下の大工の善次はその間にあって苦しんで呪われ死んだのである。
そういう権力争いの犠牲者は常に世界でも起きている。
最近ではウクライナであり二つの国に分裂するのは背後の大きな勢力によって分断されるのである。
  
宇多の湊も岩切と同じである。海に通じて川があり川さかのぼってそこに市が開けた。
河原は市になりやすい,また河原宿というとき野宿する場として適地だったのである。
自分も自転車で旅してテントで良く河原に泊まったから河原は泊まるのにいい場所なのである。当時はもっと堤防もなく河原は広かったからだ。

村上城から牛越城から中村城へ移転するときは同時に相馬藩内も激動の時代だった。
その時に慶長地震津波が起きたのである。

牛越城も新田川から舟を利用して河口の古代の泉かんが跡がある所に出るから湊があったもともと桜井に古墳すら川と海が交わる所あり何らかすでに交通の要所としてあった。

古代に泉官衙であった泉廃寺跡に物を運ぶために運河を作っていたことでもわかる。
「大磯の湊」というのもあったということは古代から延長として利用されていた。
それほど川の交通が重視されていた時代なのである。
交通の要所をにぎるものが権力をもつというのは世界的にもそうである。

その湊を管轄して支配していたのが岡田氏であり泉氏などの有力氏族であった。
それらの在地の豪族を牽制するために牛越城が作られた。その位置は確かにそうした背景を物語っている。


●網野史観の忘れられた海民が津波で大勢死んだ


前にも書いたけど海の視点から歴史を見ることが資料などが残らないで見えないのであるそのことが大きな歴史の欠落を生み誤解が生れる。
それを覆したのが網野史学であった。



漁業をやれば必ず魚を売らねばならぬ、これは塩の場合も同様で漁業や塩業をやれば必ず商業と廻船がそれに結びついてくる。


明和7年(1498)の大地震と大津波は伊勢から関東にいたる海辺の湊に大きな被害を与え、一時的に太平洋水運に破壊的な影響を与えたと推定される。


「漁村には資料が少ない」という声をこれまでしばしば見にした。
確かに漁村には火事、津波などの天災が多くそのようなこともあろう。
紀州熊野十八浦の連合によって形成された「岬会合」の二百冊近い貴重な日記類は
1945年の南海大地震の津波のために流出したという
密集した家並みの一軒に火事がおこるとあっというまに燃え広がるのも漁村に大いにありうる。


由利千軒、草戸千軒・・・何々千軒と言われる所はかつて栄えた町があって現在では消え去った時につけられる名称です

由利島は、「由利千軒」の伝承をもち、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地名が残り、矢立明神、儀光寺、毘沙門天などの寺社のあった港町のある島ではなかったかと思われる。こうした「――千軒」の伝承は列島各地に伝わっており、「草戸千軒」の場合のように、発掘によって埋もれた都市の存在が実証されているので、今後、さらにそうした事例は増えると思われるが、(以下略)(網野善彦「残された課題」)


山野河海等は元々“無主”の地としての特性を持ち、そこを生業の場とする非農業民は農地を占有する農業民と利害が対立します



つまり検地すことにより石高がわかりその土地の生産高が決められていたがその範疇に入らない人々がいた。百姓と農人は明確に別れていたのであり百姓とは百の仕事をもつ人たちだったというのもそのことを物語っている。多様な仕事をしていた人たちである。
田畑ばかりを作っているのではない、松川浦の和田の人は牡蠣をとったり鰻をとったり
田畑も作り馬も飼っている。海ではそうした多様なものが成り立つ環境があった。
そして船が出入りするから湊になり物資が運ばれて都市機能をもつようになる。
都市はギリシャでもそうだが海運と関係して貿易によって栄い都市化してそれはポリスとなり国家に成長した。


ただそういう海と関係した歴史は資料が残りにくいから見逃され忘れられ今になるとどんな暮らしをしていたかも海側がわからなくなったのである。
そして津波によってそうした湊が壊滅状態になり丸ごと失われたことがあった。
それが相馬藩内でも起きたのだ。その時そうした湊を支配していた岡田氏とか泉氏は大打撃を受けた。
しかしそのことがかえって相馬氏の支配を強化できて中村城への移転で中央集権体制の相馬藩が作られたのである。中世の相馬藩内の館が38もあった時代から一つの城へとまとまる政治体制が中村城移転で完成したのである。

ここで慶長津波がそうした激動の相馬藩にどう影響したのか?
それは岡田氏とか泉氏とか湊をもち力をもっていた氏族の力がそがれた。
湊は壊滅して喪失した。その後そうした湊は再建されずわすれられていった。

ではなぜ相馬藩では一行700人溺死としか記されなかったのか?
単なる漁労民とかではない、湊機能がありそこは都市機能さへもっていたとなると
その被害は甚大であり何かしらもっと記されてもいいはずである。
岡田氏や泉氏でもまた磯部館もあったのだから何らか伝えるものがあってもいいはずだがなかった。

そのことは当時の政治の情勢と深く関係していたのである。
相馬氏にとって慶長津波はかえって中村城へ移転して支配を完成する好機となった。
村上でも牛越でも何か反抗があり牛越では領地を失う危機にさらされていたのである。
それは岡田氏や泉氏の反抗があった。
その時慶長津波がきてその力をもった湊が壊滅したのだから反抗するところではなかっただから中村城への移転が慶長津波の後に本格的に決行されたのである。


●慶長津波によって戦わずして在地の勢力を統合できて中村城が作られた


結局慶長津波によって相馬藩は各地を在地の勢力を一つに統一できたとまでなる。
だからこそ復興のために支援するとかそんなことを一切記さない
復興などする必要がなかった。湊を復興したらまた岡田氏や泉氏が力をもち相馬氏に統一することがむずかしくなるからだ。
戦国時代そうして敵対するものの権力をそぐことが常に行われていた。
それは現代の感覚ではわからない、それが戦国時代だったのである。

だから岡田氏や泉氏がいくら慶長津波で大被害を受けたことを訴えてもとりあわなかった。ただ一行700人溺死とそっけなく記すだけだったのである。
また津波の被害のことを語るのは禁止されたということもある。
その時の政治の最優先課題は相馬藩の領地を安堵することであり相馬藩を統一することであった。
もし岡田氏や泉市のために復興のために力を注いだら岡田氏や泉氏を利するだけであり
相馬氏にとっては危険になる。

ただそういう権力構造の中で湊で働いていた人たちは犠牲になり忘れられていった。

それで海老村の九九部が津波の犠牲者を供養したのだが善次という大工が中村城へ移転した天守を造営のためにかりだされた。
海老村には輪蔵館という館もあったのだからそれは寺社系統であり海老村も津波の被害にあったから大工はその津波の被害の方で仕事をすることも強いられていたがどうしても主君の命令に従わねばならないと無理をしたが呪われて死んだのである。

慶長津波のことが記されなかったのは相馬藩内での権力闘争があり岡田氏や泉氏の台頭を相馬氏が恐れた。それで津波の犠牲者のことは語られなかった。

それでも今度は逆に漁労民だけではない、湊がっあってそこに働く人が死んだならやはりその数が多いから何かしら伝えられてもいいとなる。
そのことは他でも・・千軒とか多賀城辺りでもそういうことが津波で起こった。
だから相馬藩だけではない゛千軒が一瞬にして消滅して消えて語られなくなってしまうことが歴史にはある。草戸千軒などは最近の発掘調査でわかったのだからポンペイと同じだった。一瞬にしても千軒が消失して記憶か消える。
それは津波の跡を見ればわかる、土台しか残らず一軒の家もなくなる。
そこに村や町があったことも全くわからなくなる。

相馬藩は特殊な事情としてその時内部で権力争いがありそれが津波のために犠牲になったこ人たちのことが無視された。相馬氏は中村城に移転して相馬氏の支配が確立したのである。

もし相馬氏の支配が確立していたら復興事業もありえた。それができなかったのは相馬氏主導の体制がまだできていなかったからである。
だから伊達政宗はすでに強力なリーダーシップをもったのはそれだけ伊達藩をまとめる力をもっていたからなのだ。
第一スペインまで視野に入れて船まで自前で建造した。瑞巌寺は見張り塔もあり武士の城であり寺だった。海に面した城でもあった。
そういう大きな船を作れるということはそれだけの船の海運の進歩がすでにあったのである。

ただ相馬藩内は津波でそうした湊機能が壊滅した。それが語り伝えられなかったのは例えば石碑一つ建てるにしても金がかかる。今より金がかかるからできない、そんなことより大阪の陣への出兵、江戸城普請に力を注ぐことが領地を安堵することだから腐心していたのである。

歴史は権力争いで犠牲になるという時、それは民同士が戦うというより権力者が己が権力を死守ふるために戦う、民衆はどっちについても暮らしは同じだとなる。
だから明治維新後、会津でもヤーヤー一揆が民衆から起きた。会津の城で白虎隊が討ち死にするが民衆にとって城は命かけてまもるものではない、領主が変わるだけであり民衆の暮らしは変わらないからである。

相馬藩では権力争いで津波による犠牲者は無視された。では支配下においていた岡田氏や泉氏などはなぜ記録を残さなかったのか、被害にあった人たちは語り伝えなかったのか?
結局語り伝えるにもそれだけの力が必要でありその力がなかったともなる。
文字として記すにも民衆は文字を知らないとできないし語り伝えるにしても相馬氏が支配するとそれを訴えることになるから禁止されたとかなる。
相馬藩の場合そういう特殊な事情で慶長津波の被害のことが記されて語りつづけることができなかった。
ただ他にも全く何も語られることもなく消失した千軒というのがあるのだから以前として謎は残る。


会津のヤーヤー一揆
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/96.html

posted by 老鶯 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係