2014年06月11日

原発避難民の求めているものは第一に土地 (金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)


原発避難民の求めているものは第一に土地

(金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)

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土地と家も失い仕事失う、そして金だけが残され頼りとなる



原発避難民のことがいろいろ問題になるけどその本質的な問題は何なのか?
こういうことは故郷を失うとか先祖代々の土地とか家を失うとか経験したことがないことが起きたためにその本質が何か見えないのである。
金はわかりやすいから補償金が問題になる。
何でも金に換算すると現代では余計に具体的になるからそうしているだけである。原発避難民で一番の今の問題は一様に言うことは

家を建てるが土地がねえか


このことである。一億の金があっても土地は簡単に買えない、一億出せば買えるじゃねえかというが必ずしも土地は手に入るとは限らない、今は土地が高くなるから別に生活に困らない人は売らないのである。それは別に原発事故になったから売らないということではない、土地は田舎では簡単に売らない、特に田畑は簡単に売れないようになっている。
田畑を売ると農家全体に影響するから売れないのである。
農家にとって土地は唯一食料を生み出すものであり土地を手放せば農民という立場はなくなり無産者になり仕事も失うのである。

もちろん現代では田舎でも実際は専業農家は少なく土地に全面的には依存していない、
それでもやはり土地は農家の人は簡単に手放せない規制がある。
だからそういう規制をとりはらい自由に会社でも設立して農業をやらせようとする
政策を自民では打ち出しているがどうなるかうまくいかない。
農協改革も打ち出したがスムーズにはいかない。

不思議なのは津波でもう使えない土地が膨大に生れた、土地を失った。そこは空き地となり原野化している。その土地もどう使っていいかわからない。
以前として所有者がいて市でも勝手にできないだろう。
国や市で適当な値段で買ってもらいたいということはあるだろう。
だから特区にして土地の売買を自由にして土地を活かす方法をとるべきだという意見もある。

でもそういう土地が今度はソーラーパネルだらけになったらどう感じるだろうか?
実際に勝手に小高辺りで農家の土地にソーラーパネルが設置されて怒っていた人がいた。景観としてはいいということはない、やはり白砂青松の風景は良かったとなる。
ただ経済になると景観だけからは論じられない。
自分は火力発電所でもない方が景観的には良かったとなるがそれは許されない。
人間は景観だけでは生きていけない、だから京都の古い町家の前に高いビルが立ちのしかかるようになっているのも現実である。
土地利用にすればビルの方がマンションの方がいいのである。


原発避難民がもし故郷に町でも村でも住めなくなったらそれは何を意味しているのか?
そんなことを考えることもなかったろう。当たり前にあったものがいろいろ失った。
土地とか家とかは当たり前にあるものだったし仕事だって農家だったら当たり前にあるものであり仕事がなくなることなど考えたこともないだろう。
でも仕事まで奪われたのである。だから浪江の人が田植えしたとき、農民の顔は輝いていた。仕事はただ金をもらうためにあるのではなく人間の生存の基本としてある。
つまり補償金をたんまりもらっても仕事がないとする毎日ギャンブルになっていたら
その人は博打打ちになってしまったのかとなる。現実にそうなっている人がいる。
仕事がないし金はあるからそうなってしまった。
そんな生活を見ていたら子供はどうみるのか、とを育つのかとなる。

どうしても温泉街の市では何か歓楽街的なものが生れその性格もそういうものが培われる。すべてではないにしろ何か育った環境に人は影響されやすい。

近江出身の人と外国旅行であったとき、外国までいってねぎるのがうまいと思った。
外国なになると簡単にハデ着ないのである。そういう交渉ができるしやはり近江商人の末裔かともなる。東北人はあんなことはできないし自分はまねるべきではなかった。
なぜなら外国は日本との金の差が十倍とかあるのもありねぎるべきではなかったと反省している。
ただ人間はいかに旅でもちょっとのつきあいでもつきあう人に左右されるかということである。だから別に人間の性格とは生まれつき作られたものではない、その土地の影響で作られてゆく側面もある。

大阪に生れれば大阪人気質が作られる。「もうかりまっか」が挨拶になる。
そううい人たちと日々接していれば東北人だってそういう気質になる。
一方で農民とばかり接していればやはり素朴な人となるだろう。
自然を相手にばかりしていたらそううい気質が作られてゆく。
商売には向かないのである。だから東北人は歴史的に農民が多く商人気質が養われなかった。日本人自体が商売がへただというときそういう環境になかったからだろう。
イスラム商人や中国人ば商売がうまいというとき、常に他国と交わる環境にあったからそういう気質が養われた。

仙台は昔から東北では商いが盛んな都市だったから宮城県人は東北人ではないと言われている。伊達政宗は東北人とは思えないスケールの大きさがあったのは農民的気質ではないからだ。会津などの山国気質とも違った性格の人間だった。

結局原発避難民というのは何になったのか?東北人なぜもっと政府とか東電に抗議しないのかと全国から一面言われる。もともと東北人はおとなしいからだろう。
それは言える。でもその気質だってこんな状態になると変わる。

今度は沖縄のような権利を主張して政府や東電から補償金をとる交渉を常にしていかねばならないからその気質も変わってゆく、それはいい面と悪い面がある。

土地も家も奪われてしまったら金だけが頼りになり金の依存することが大きくなる。
するとより金第一の価値観に生きるようにされてゆく、今までなら田畑があり別に金にこだわらなくてもそれなりに生きればいいとかあったがそうはいかなくなる。
土地も家も仕事すら奪われたなればそうはならない。
だから金に汚い、強欲なやつらだとなりユダヤ人ににていると批判される。
それはそういう立場に追い込まれたからそうなっている。
素朴な農民なとではありえない立場に追い込まれた。

ユダヤ人も土地がもていならか国々を放浪して金融で身をたてていたのである。
何億ともらったらそういう考えにもなってゆくだろう。
その金をいかに活かすかが問題になる。投資などもする必要が出てくる。
金だけに依存するとそうなってしまうのである。


ただ原発事故周辺地域にもそういう影響があり前の状態とは大分違っている。
原発事故でもなくても膨大な土地を失っている。すると土地に依存するより
何か別なものに依存する、仕事とするほかなくなってくる。
放射能汚染で土地も利用できないとすると余計にそうである。
だから浜通りの未来は何なのかというときその産業を仕事をどうするのかということも
大きな問題になる。
今まで違ったことが要求されてもそんなことに簡単にできないし老人はもうできない、ただ年金とかで細々と生活するほかないとなる。
だかかかえって若い人はこういう故郷を見捨てて流出する。


いづれにしろ当面は原発避難民は金をもらうだけもらい将来に備えるとう発想しかできないだろう。ただ手に職をもつ人は有利だろう。なぜなら大工でも仕事が山ほどあり仕事ができるからどこに移ってもいいとなる。
農民は土地から切り離されたら仕事がしにくい、ただ土地を借りてしている人もいる。
牛を飼うことをはじめた人もいる。だからすべてではそうではないが土地から離れたら仕事がしにくいのである。


いづれにしろこういう大きな変化には人間はまず翻弄されるだけでどうしていいのかとか簡単にできない、ただ思うに現代社会広域社会であり移動しやすい社会だから土地に縛られていた社会でないから土地を基にした共同体はコミニュティは崩壊しやすかったのかとも思う。
この辺の職業で多いのがトラック運転手であることそのことを証明している。
現代は広域な輸送社会になるからそうなる。
原発事故でも一番困ったのが他から物が一時的に入ってこなかったことなのである。
広域社会で生きているから他から物が入らなくなったら生活できなくなるのである。
広域社会ということは金が物言う社会でもある。
もともとそういう社会になっていたから容易に故郷とかもばらばらになったのかもしれない。
何億もらったらどこでも暮らせるのだから暮らしやすい所に暮らそうともなる。
若い人は特にそうなってしまうだろう。老人でも東京の人は地方都市に移りすみたいとなるとき金があるからそうなる。住みやすい所に金があれは住めるとなればそうなる。

だから大内村から郡山市に避難した人はもう帰らない人が多い。
補償金で便利と所で暮らした方がいいとか他の都市、東京に移り住んだ人たちもそうである。東京の暮らしがいいと言う人たちもいる。
それが幸せがどうかはわからない、そもそも幸福感など計り得ようがないからだ。
だから江戸時代がどうのこうのというとき、現代と比べること自体間違っているのだ。
その時代時代の幸不孝があり計り得ないのである。


現代は借金している人が8人に一人とか本当に実際は多い。それも裏の金融機関から借りているというから借金生活が多い。それだけ金がかかる生活だからそうなっている。
現代の標準の生活するだけで金がかかりすぎるからそうなる。
何で毎日こんなに買うものがあるんだろうとなる。
オカズも何でも買っているからそうなる。
要するにもう食事の用意なんかめんどうだから弁当がいい外食がいいとなればそれもできる。すると手間もはぶかれ自由な時間が生れる。

現代はそういう時代なのである。そのためには金が必要だとなる。
金持ちは介護で高い施設にやれば苦労せずにすむ、たいがいそうしている。
貧乏人はできない、すると負担が大きく時間も奪われるのである。
ただすべてが金では解決しない、その一つ土地の問題だった。
金があっても簡単に土地は手に入らないのである。

posted by 老鶯 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

相馬市史3(民俗編がインターネットで読める) (漁業の部の紹介)


相馬市史3(民俗編がインターネットで読める)

(漁業の部の紹介)

相馬市史3(民俗編の漁業の部)
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/57973.pdf


●帆掛け舟の時代は風を知らないと命にかかわっていた

明治や大正の交丸原釜沖に打瀬船(底曳)か群集し
て帆をひいてあるいた。南風が吹くようになると小名
浜へ四倉、江名、久浜などの帆打瀬が何十鰻と来た
(大正頃三河から持って来たので三河船とも云った)・

原釜、松川では、昭和初年ごろから、漁船の動力化
がはじまっている。シタンポーに機械を入れたのが昭
昭和五、六年である。
現在は機船底曳漁が盛んで、二八、九屯の底曳船が


朝起床して浜へ下りたとき、蓑ず考えるのはその日
の天候である。一片の雲行へ雲の形、星のきらめき、
浪の音、風向などに?漁師は常人では考えられぬ細か
な観察をしてい為。季節風なども一定方向から吹くの
が常だが、それでさえも土地、土地によって細かい変
化がある。

コチは、汚』上で北東の風をさすことが多い。北コチ
とも云う。風のうち一番扱いにくいのはコチとナライ
である。なかんづく悪いのは寒コチである。必ず雪が
つぎものである。ナライのツケはそんなことはない。
コチとナライはつながっていて、コチが吹いてナライ
となってあが為ことが多い。|番恐しいのはコチの
雪シヶであると云う。冬至から寒明けにかけてニチシ
ケが多い。吹雪いてくると一寸先ぎも見えなくなる。
子にも孫にも、コチシヶだけはくわないようにと教え
る。
コチシヶに会ったときは風むきに八金華山の方角
に走れば、山のかげになるから海はよくなると云われ
ているC「寒コチ雪を招く」と云うのは、これらの事
をこったもので、反対に春のコチはおだやか沼ある。


とか、東から雲が出ると雨となるとか云われる。蔵王
山をこのへんでは「おたけさん」とよんでいる。鹿狼
山のかげになっているので、海上一里(約二十尋)位
出ないと見えない。新地では浜を出るとすぐ視野に入
る。十月から六月頃まで雪をかむり、頂きが白く見え
る。百尋タチの境へ行くと蔵王山も山頂を没し、そこ
から先きば和船では行けなかった。
:刺網漁にはこの山が山しめの対象となるばかりでな
く公夫侯の変化の指標ともた》っていた。

漁業というのは海を相手にしているから経験した人でないとわかりにくい、
海からの視点をもつことは神に囲まれていてもなかなかできないのである。
東風(こち)が吹くとそれは浜通りでは確かに海から吹いてくるのを感じる。
そろそろ春だなと感じる。でも実際は3月ころから吹き始めてもその時まだ寒いのである。
だから寒い東風をサムコチといっているのは興味深い。
浜通りでは3月に雪ぶ降りやすいのである。
それで3月11日に東日本大震災がなり津波が起きた。
そしてその時運悪くこのサムコチが飯館村に向かって吹いたのである。
その時は山の方も雪だったのである。
それで放射性物質が浪江の山や飯館村に雪や雨と共にたまってしまったのである
このサムコチに影響されたのが運が悪かったのである。
このサムコチは飯館村から川俣から福島市まで伊達までも峠を越えて吹いたのである。
だから福島市が意外と放射線量が高くなってしまったのである。


●漁業と山の関係


烏崎浜では南はずれのお蔵前(藩の郷倉があった)

そのの近くに、見張りの山があって色見山とよんだ。碧南の
吹くころこ上へつめ五、評(魚群の動きを着視した。主に
年よりの役であっ龍。鰯群が沖合のヒラマ仁か上ると
船を出して網を空いた。

大正三年頃は連日の大漁で、蚕様はあるし、明日ま
でおくと腐るので《女ご衆は夜中まで寝られなかった
と云ってい五?午前十・一時か十二時ころ水楊をし、シ
ロ分けが終ると昼まぎになる。それを運んで、しめど
にかけて処理するまですべて女の役目で、浜育ちでな
い嫁など、忙しい上に臭いので泣かされた。
油砿船の上げ下げに使う賀》木に塗ったりし重すべ
て自家で消費した。〆粕は粉づいて厩肥とまぜて田に
入れたり、《畠の桑の根つぎに使った。多量に田へ入れ
ると、


新造艦を海に下すと、磯部では金比羅神社、烏崎で
は津明神の沖で三回船をまわし、潮水を汲んでオブナ
ダサマとオモテにかける。また不漁がつ望くと清浄な
沖の潮水をオブナダサマにかけ、「サッパリ漁させな
いでわかんねえ、オフナダサマ大漁授けろ」と祈るよ
うなこともする。



烏崎では「津神社」への信仰が生きていた。
ただこれが「津波」と関係していたのか鯨
を祭るものになっていた。
金比羅も明治になってかちら祭られていた。
浜通りの海でも慶長津波などの伝承は残っていない。
松川浦の津神社(つのみや)はあそこに逃げれば津波から助かると逃げて助かった人がいたから何らかの伝承があった。
そこもぎりぎりで津波からまねがれたから信憑性がある。
烏崎の津神社にしろ北原の津神社にしろそれが津波と関係あるのかわからない
そういう伝承がないということが謎としてそれが何故なのだろうと探求してきた。

漁業は農業とも密接に関係していた。蚕様とか漁師にもしていたとすると漁業と農業をかねあわせてやっていた。だから魚なども肥料になって土を肥やしたのである。


●漁民が佐須などの山津見神社を信仰していた


佐須の山神(飯館村)は農耕、安産へ山仕事などの
広汎な信仰対象であるが、また漁一民の帰依が厚い。こ
れは漁場の占定に用いる山シメから、山獄信仰と結び
つきが生じたらしい。
昔は浜から草鮭がけで一夜歩いて参詣したと云う。

古磯部の神社境内には大きな山神碑がたっている。か
つてこ封で山神の御開帳をしたと云っている。佐須の
山神は大山津見神を祭神とするが〈由緒も本社も明確
でないと云う。


このほか相双の沿海村の漁民の信仰を集めたもの
に、小高町の蛯択稲荷、烏崎の大木戸稲荷、松川の川
口稲荷、相馬の笹川稲荷などがある。このうち姥沢稲
荷はかなり広い信仰圏をもって栄えた。

概して云えば西日本では漁業神として恵比寿信仰が

方では漁業神としては稲荷神の方が一般的である。
孔天保、嘉永の頃の例だが、・萱浜村(原町市)で地曳
の船頭が不漁藍歎いて稲荷を祀り、豊漁を祈願して大
漁を得、邑民これを大漁稲荷とよんだと云うことが、
奥相志に記されているが、稲荷瀞漁業神として信仰さ
れる基盤が既にあったものとふられる。


古くから村盈に湯殿行の風習があって、お山をかけ
ると、帰途東北地方に喧伝されている漁業信仰の中心
地大山(山形県)の善宝寺によってお護摩をたいて来
た。今でも此の棺仰は盛んで、沖で網がひつかLると
「大山善宝寺たのむ」と三回唱えると、事なくはづれ
ろと云う。


金華山信仰も昔からさかんで、鰹漁の盛んな時には
南部あたりまで行ったと云うから、金華山参詣も屡堂
行れていたのであろう。今も漁のひまなとき、仲間や
一家の者か漁船に乗って海路参拝に行く。金華山の碑
は農村地帯によくたっているのを見るが、この信仰は
農作にも関係していて玲大てい高いところにたってい
るのは、金華山を遥拝するところにたてるならわしか
ら来ているのであろう。


請戸では最近まで旧七月三十日に夜釣りをしていた。
海上でホトケ(士左衛門)にあうと必ず船上にあげ
てゆく。見すて上通ったため紀ひといシヶにあったと
云う例もきいている。あがりたくて浮いているのだか
ら、揚げねば.ならぬと云う。ホトケをあげるとき「大
漁授けるか」、「かならず大漁させるからあげてくれ
ろ」と問答してから船にあげ石ことも各地できくこと
で、あげるときはワッカタ(右舷)からあげるものと
されて

金華山の碑はこの辺に多い、それが海から船でお参りするというのは理にかなっている
それこそ海の民にふさわしい信仰だとなる。
ただ金華山の信仰は明治以降に盛んになったみたいだ。
古い年号のものはない、江戸時代のものはまだ自分は見ていないからだ。
金比羅なども江戸時代からあっても明治時代にも盛んになっている。
江戸時代から明治時代へ古いものが継続されている。
相馬や双葉であれ宮城県の海とに国境があるわけではないから
魚群を追って名取から亘理から船がやってきた。
そこで海の入会権が問題になっているからそういう所に漁業権の発生があったのだろう。
ただ海というのは別に陸のように明確な境がないから区切ることができないから
海とは誰のものかとなるとむずかしくなる。
それで中国などが勝手に尖閣を所有するとか南沙諸島を領有するとかになる


蔵王は亘理の鳥の海でも真正面に見えるし海からも高い沖に行けば見えるから
漁師たちにとっては目印の山でありその天候を見ていたというのは興味深い
海から見えるものは船に乗って見ることができないから実感できないのである。
ただ蔵王の写真を津波の後に右田浜から写したけどあんなに大きく連峰として見えたことに驚いた。
蔵王は山形、宮城、福島県から見える山なのである。

山津見と松川浦に地名化してまであるのはやはり漁民が山津見神社にお参りしたから
海にまでもってきたのだろう。

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西日本では漁師の信仰は恵比寿だが東日本では稲荷になっている。それはなぜか?
稲荷は別に稲だけの米作だけの神ではない、その起こりは鋳(い)成りだったのである。
鉄を作るものの信仰が稲荷である。そして東日本の海岸線には砂浜には砂鉄がとれた。
それで砂鉄をとるものが技術者が北上してきたのである。

●慶長津波は民衆でも伝えることを政治的に禁止されていたのかもしれない


海というと漁民というとき、今回の津波でなぜ相馬藩では700人溺死としか記されなかったのか?
なぜ津波の伝承が残されなかったのか大きな謎になった。
その記されないことが後の今回の災いになったからである。
老人は「津波なんか来ることきいたことがねえ」こう言い張ってかなり死んだのである。
つまりこの辺では海辺で漁業している人すら慶長津波のことを知らないし
津波に関する伝承がほとんどないということが問題になった。
だから相馬藩内で津波に興味をもっている人はほとんどなかった。
なぜなら岩崎敏夫氏すら津波のことを一言も書いていないことでわかる
津神社が津波と関係しているとも書いていない。
それだけ津波のことが伝えられなかったのである。

南相馬市の博物館に津波を警告しにきたのは飯沼勇義氏であり東北大の地震研究者ではなかった。
警告されても興味をもつ人はなかったろう。

自分は700人溺死したというのは漁労民だとしたがそんなに海辺で漁労していた人が400年前にいたのかという疑問がある。
ただやはり海辺には魚でも貝でもとれるのだからそれなりにいた。
そして漁業は集団力が地引き網などになると必要だからその時相当の人数が浜辺に集まっていたかもしれない、地引き網は400年前にしていないとしても集団で組みで魚をとることをしていたかもしれない,漁師がどれくらいいたとかは陸と違って検地などないからわからない。
でもそなりの人数はいてそれが津波にのまれて死んだ。
そのことが詳しく記されないのはその時相馬藩の政治の最大の課題は中村に城を移転して城を作ることだった。それから大阪の陣の参戦や江戸城の普請が最重要課題だった。
そのために津波の被害があってもそっけなく700に溺死としてしか記されなかった。


だから南海老村の天守造営にたずさわった大工は津波を経験していて六十六部はその津波で死んだ人たちを供養した。葬式の時に海水で洗うと怪異が生じるというのはそのためである。海難者なども当時から存在して修験者や六十六部とかが供養していたのである。
相馬藩で津波のことが詳しく伝えられなかったのは何か相馬藩の政治的事情で伏せられた。内密にされたということもある。
政治にはそういう何か隠したいことが常にある。原発だって放射能は危険でもそのことは秘密にされていたし政府の都合の悪いことは隠されていたのである。
それはどこの国でも政治にたずさわる権力者はしていることである。
ただ政権が代わると明るみにだされる
相馬藩では代変わりしないことはいいことだったが権力の主要部が変わらないから
そこで権力の独占が生れたともいえる。

相馬藩で天守が作らなかったのは相馬の主君が名君だったとかではない、
その時慶長地震津波が起きて天守が作れなくなったのである。
そのことをビスカイノが相馬藩の城を訪れて城が壊れていて工事中だったということからもわかる。
会津の城も三カ月前の地震で石垣が壊れ七層の黒川城は五層になったのである。
あれだけの地震があって天守が作れなくなった。

そうしたことが南海老村の藤金沢で大工が呪われるようにして死んだこととかかわっていた。

慶長津波で死んだ700人は相馬藩では無視したのである。それだけの余裕も戦国末期の政治的課題がありなくてできなかった。
だからその辺の事情が南海老村に怪異な伝説として残った。
民衆でも何か津波を伝えなかったのはむしろ相馬藩の政治的主導があって表沙汰にできないものがあった。
相馬藩が弱体化して伊達藩が責めてくるとか当時の状況は今とは違っている。
戦国時代はまだ終わっていない、だから民衆へも政治的に津波のことを言うことを禁止されたのかもしれない、現代の何でも言える時代とは違う。
だからこそ柳田国男は民衆側にたち口碑を重んじて民俗学を起こしたのである。

posted by 老鶯 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)