2014年06月06日

巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい (相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)



巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい


(相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)

●巨大津波は神話にもなり伝説にもなり謎となる

関東南部の遺跡分布を観てみよう。海抜20m以下の地域に、BC1世紀以前の遺跡が何一つない。東京湾東部には、100を超える貝塚があるが、住居跡などの遺跡は皆無。その原因は大津波だろう。古事記上巻は、この事実を書き記している。東日本大震災も、この歴史的教訓を学んでいれば軽減できた…。

BC1世紀、関東地域を大津波が襲った。古事記は、その歴史的事実を「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」と記す。栄えていた上代日本の文明は一夜にして壊滅。その復興に立ち上がったのが、宇摩志阿斯訶備比古遲と天之常立だった。数代後、伊耶那岐と伊耶那美が国土の「修理固成」を決断する。
http://www.geocities.jp/waikoku/twittera046.html

これなどは津波が日本の国造りの起源にしている。古事記に残された記述は津波の証拠だったとなる。
なぜこういうことが今語られるのか?それは津波があまりにも想像を絶するものだったからである。
こうした津波が400年に一回とか起きないとするとそれは経験した人は死んでいるのだからもう語り継ぐ人すらいなくなる。
この辺で老人は「ここに津波が来た話しは聞いていねえ」と早く逃げろと息子が言っても聞かずに死んだ人が結構いる。
400年前に起きた津波など誰も生々しく語り得ようがない。
そして相馬藩内では伝説すらわずかに残るだけでありそれに注目したのは
今回の津波があったからであれそれまではなんら注目していない。
「津波なんかこの辺ではこねえ」と老人が頑固になり死んだことでもわかる。


相馬藩内で700人溺死と相馬藩政記に記されているのが唯一の公式な記録である。
それすらその700人がどういう人たちなのかどんな暮らしをしていたのかも皆目わからない。
ではそもそもどうして700人と割り出したのだろうか?
700人死んだと記すだけでもそれなりの根拠があったはずである。
だいだいの人数にしてもどうして700人となったのだろうかとなる
それで津波原発を調査している人が


700人死んだというのは信用できない、慶長津波の襲った所には人は住んでいなかった


その記述まで否定する仮設を出してきた、それだけ津波のことが皆目資料がないからそうまでなる
でも烏崎には遠藤氏という人が津波の前に南北朝の時から住んでいた。
真野中館は霊山落城の時逃れた武士がたどりついた場所だった。その時から住む人があり烏崎に住んだの
その流れをくむものであり遠藤氏の名前がある。
そして八竜神社は川子にもあり小島田にもあり慶長津波の前からあった。
小島田の方が古いというのも不思議である。
だから烏崎のぎりぎりで残った八竜神社は慶長津波の前からあった。
あそこに物見丘とかあり相馬藩の番所もあり海を見張る場所だった。


●慶長津波の前にも縄文時代以来の生活の継続があった


調査員の報告では岩崎氏の本で八竜神社はもともと縄文人の遺跡のある上にあるのが多いというのを統計的に割り出している。
つまり八竜神社は多くその由来も古く縄文時代までもさかのぼるのかともなる。
八竜神社が今回の津波で被害がまねがれたのはそうして古い神社だから津波の来ない高台とか海岸より奥に祭られていた。
小島田にしても津波の被害があったが全壊とかの被害がまねがれている。
だから小島田は津波からまねがれるぎりぎりの地点にあったと今は見る。
そうでなければもっと海側だったら全滅していたからである。
南右田も北右田も江戸時代からあってもほとんど全滅して人は住めなくなったからだ。
ということは小島田も江戸時代より前より人は住んでいたとなる。


だから調査員が言っている700人溺死はなかったという説が生れた根拠は
そういうことではなく津波の被害にあった地域はまだ田としては開拓されていない
原野だったということは言える。
原野に津波が来ても別に被害がないから報告されることもないのである。

その証拠が慶長前からあった「田中城」である。
その回りは湿地帯であったと記録にある。
あそこが湿地帯の中にあったということはその前の広大な地域はまだ干拓されていない、田とはなっていない今のような原野になっていた。


貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。その後桑折治部少輔忠家の時に田中城に移り以後代々桑折氏の居城となった。


天文11年(1542年)伊達稙宗と伊達晴宗による天文の乱で、稙宗方にあった黒木城主黒木弾正が田中城を攻めた時、城主桑折久家は相馬顕胤に従って掛田の陣中にいたが、顕胤の命で急ぎ田中城に戻り防戦に努めた。一度は退けたものの再び大軍を率いて攻めてきた黒木弾正は城下で戦い策を持って退いたが、これを追った桑折父子は伏兵にあって討死した。(七橋の戦い)

天正年間(1573年〜1592年)頃、相馬義胤の弟相馬郷胤が田中城代となり、田中忠次郎郷胤と称したが、慶長7年(1602年)廃城となった。

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田中城のすぐ近くまで津波は来ていた

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大
淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。

此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

天正18(1590)年2月、父・相馬義胤は関白豊臣秀吉から小田原へ参陣するよう命じられたものの、5月下旬に小田原へ着陣という失態を演じてしまった。このとき、石田三成の周旋によって特に咎めはなく済み、かえって秀吉の御前に招かれて、懇ろな上意を賜った。こののち、相馬義胤と石田三成と入魂になる。12月7日、秀吉から行方・宇多・標葉三郡四万八千七百石の朱印状を拝領した。


 天正19(1591)年、義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し、上洛時の賄料として近江国大森村五百石が宛がわれた

ただし隠居・義胤は中村には移らずに、慶長17(1612)年4月、標葉郡泉田村に移り住み、隠居料として泉田・高瀬・棚塩・室原村から三千石が給された。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/hanshu1.htm#tositane


これは正式に記録されたものだから信頼できる。そこに棚塩とありここは津波で被害があった。
海に接していて危険な場所だった。その棚塩をふくめた地域から隠居料が支払われた。
しかし棚塩は慶長津波の被害があった。慶長16(16111)が慶長津波だった。
なぜその棚塩からまで隠居料として払わされたものがあったのか?
相馬藩の武士は慶長津波に関しては何ら記していないからわからないのだ。
慶長津波の前は四万八千七百石でり六万石になるのはそのあとであり足りない石高はほとんど慶長津波の後の開拓によるものだった。
だから慶長津波でもその時は今回のように田んぼが津波の被害にあったということは少なかった。
それは伊達藩とは違っていた大きな相違かもしれない。
では700人死んだというのは何故なのだろうか?
その人たちはどういう人たちなのか、確かに人は死んだのである。


●田畑をもっていない漁労民が死んだ?


その記述を疑う根拠は何なのか、自分の考えでは700人は確かに死んだ
その人たちは田畑をもっている農民ではない、純粋な漁労民だった。
百姓の意味は百の仕事を持つ人の意であり米を作る人の意ではない
農民の前進は必ずしも米を作っるだけの人ではない
暮らしは海にもあり海では魚も貝もとれていたから縄文時代から暮らしがあったのである弥生時代から稲作がはじめられたにしても延々と以前として縄文時代の漁労生活は海岸沿いにあったのである。
だから人は住んでいた。そうでなければ津波の一年後に棚塩が隠居料を支払う土地にはなりえないのである。
津波の被害があった後にもすでに人が住んでいたのである。


これも一つの謎だけど田んぼや畑だったら津波の被害にあったらその後長い間十年以上も使い物にならなくなる。しかし海が別である。一年後でも別に粗末な小屋を建てても魚もとれるし貝だって多少はとれるようになっていたかもしれない、だからこそそこには人が住み始めていたのである。
三陸の津波でも早い時期からあれだけの被害でも人は海近くに住居を構えたのはそこが便利であり海の幸をとりやすい場所だからもどってきたのである。
今の水道が使えない、電気が使えない、道が使えない・・・などインフラなど必要ない
もともと漁師など掘っ立て小屋に住んでいたのである。
だから津波の後でも簡単にそういう家は建てられるのである。
津波の被害にあっても放射能汚染とは違うしまず魚や貝を食べないとその当時は生きていけない、補償金などもらえない物資も入ってこないからである。


おそらく700人死んだとあるがその人たちは農民ではない、漁労民だったのである。
その漁労民は年貢を収める農民と違って軽く扱われていた。
つまりすでに慶長津波の前に四万八千七百石あったからそこから年貢が収められていて藩の財政は成り立っていた。
漁労民はその時そうした藩の財政に寄与するものがなかったのである。
だから相馬藩にとって700人溺死でもさして財政的には打撃ではなかった。
伊達藩では広大な田が津波で大損害を受けたから立ち直るために開拓しなければならなかった。相馬藩ではもともと原野でありそうした田の被害はなかったのである。
ただ700人の貧しい漁労民が死んだのでありそれで無視されたのである。


義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し


この北野とあるが相馬市の松川浦近くの梅田川そいの程田村に北野神社がありその時その北野からもたらされた神社かもしれない。
そして新田村まで津波の被害があり北野神社までは津波は来ていない
でもその時もその前はまだ開拓されず原野だった。
つまり神社古ければ古いほど原野のある所には建てないから津波をまねがれたとなる。

津波というのは何かここまで海だったのだと意識するようになった。
海はこの辺では遠いと思っていたが吹いて来る風にしても今まではあまり感じなかった
でも町近くでもこの風は海から吹いてくると感じる
実際に海が見えるから当然そうなるし海の水が押し寄せてきたのだから当然だとなる
それで3キロ離れて被害にあった家の人は夜に海の方を怖がっているのもわかる。


涼し津波の後に海見える


その海の風は3キロ4キロ離れても海から直接吹いてくる風と感じるのである。


●人間の営みは海辺でも延々と細々でも続いていた


会田綱雄氏の名作「伝説」が想起されます。


   湖から

   蟹が這いあがってくると
   わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
   山をこえて
   市場の
   石ころだらけの道に立つ
   蟹を食うひともあるのだ
    (略)
   蟹は銭になり
   わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
   山をこえて
   湖のほとりにかえる
   ここは
   草も枯れ
   風はつめたく
   わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
    (略)
   わたくしたちのちちははも
   わたくしたちのように
   この湖の蟹をとらえ
   あの山をこえ
   ひとにぎりの米と塩をもちかえり
   わたくしたちのために
   熱いお粥をたいてくれたのだった

   わたくしたちはやがてまた
   わたくしたちのちちははのように
   痩せほそったちいさなからだを
   かるく
   かるく
   湖にすてにゆくだろう
   そしてわたくしたちのぬけがらを
   蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
   むかし
   わたくしたちのちちははのぬけがらを
   あとかたもなく食いつくしたように
   それはわたくしたちのねがいである

これは山の方からの視点だけど海側からもこういうことがあったのではないか?
つまり津波の跡に漁師の生活も魚を売り米や味噌とかを買っていたのかもしれない
その人たちは米を作っていないからそうなった。
ただ味噌には塩が必要だから塩を作って売っていた。
米を作っていない漁労民がいてその人たちは津波にのまれ記録も残されなかった
ただそういう人たちがどれこだけいたのか?700人死んだというのは多すぎるということもある。その辺は謎にしても海辺だけで暮らす人々がいたことはいたのである。
おそらくその数は大雑把なものでありそんなに死んでいないかもしれない
ただおよそものとして記したのかもしれない、300人程度かもしれない
その実体は全く資料がないからわからないのである


その人たちは津波にのまれあとは海から這い上がってきた蟹によってその死体が食われたかもしれない
それもまた無情、無常なのだけどそれは自然の中への大きな流転の現象かもしれない
人間は一時神から糧を与えられてやがてまた死んで自然に還るということを考えれば
それまた自然な死だったともなる
人間の営みにしてもそんなに永続するものはない、自然から見ればはかなく自然の力には及ばないから抵抗しても無駄であり自然の流転に従い津波が来たあとにも同じような漁労民の営みがあったともなる。
三陸では明治でも二万人とか死んでいても同じように便利な海近くに住むようになっていたのである。
そこで魚をとり貝をとりしなければ生きていけないからそうなった。
補償金ももらえないし何か援助してくれるものもないし他に食べていける手段がないからそうなった。

今はいろいろあるから贅沢になりもう住んでいられないと都会に住み簡単に離れてゆく

中世とかの死生観も今とは全然違っている。
生きている地獄であり死ぬのが一番いい、極楽だという苦しいものだった。
だから念仏でも唱えて死ぬの往生するのがいいとなった。死体は路上に転がり橋のようにつながっていたとか悲惨だったのである。
医者にかかることもできないから念仏唱えて死ぬ他なかったのである。
その死生観もまた時代にあったものでありそれまた生けるものの無常だったのである。
これからも津波に絶対に負けない防波堤を作るとか自然に逆らう人間の技(わざ)はかえって災いをもたらす、むしろ自然の力にまかす、自然の流転のままに生きることもまた
人間にとっては必要とも言える。

posted by 老鶯 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

抽象画(blue mountains)


抽象画(blue mountains)


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色の立体


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奥の山々

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blue mountains


パソコンの抽象画でまず感じるのがきれいな色だなということである
こんなふうに色を出せるのはパソコンだけである
だから新しい芸術になっている

抽象画の原画になるのはインターネット上にいくらでもある
それを変化させてゆくといくらでもできるとなる
ただもう原画は何かわからないのだから著作権違反にはならない


これは山といえば確かに山である
抽象画もやはり具象なくしてありえない
山がどんなものを知っていなければ抽象画も理解できない
この抽象画も山を感じる必要がある
そのためにはまず具象画としての山を知っている必要があるのだ


具象画⇒抽象画であり抽象画⇒具象画になるとしても具象画が万物のベースになる

山を感じるには立体性がなく重厚さもないがやはり山の感じるがある
山の感覚はやはり会津などに住んでいる身についてくる
この辺の山は低山であり山の感覚が身につかないのである

GREEN IITATE(飯館村の抽象画) (人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)


GREEN IITATE(飯館村の抽象画)

(人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)

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飯館村の紋章

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森の都

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飯館村に行ったらグリーンイイタテとか書いてあった。前にそんな詩も書いた。
飯館村は70パーセントが森であるからそうなる

飯館村は地形的にも山の村はして個性がありそれで南相馬市と合併しなかった。
それで飯館村の独自性を保つことができた。
だから飯館村がなくなるなどということをイメージすらできなかった。
飯館村には会社とか工場が結構あって働き場もあったらしい。
農業だけの村でもなかった。
ただ所得としては一番低かった。
飯館村にも外部から入ってきている若い人もいた。

飯館村は何か特徴がないのだが広々としていい気分になるところだった

家が一軒一軒離れていて森につつまれるようにありそれがぜいたくだと見ていた。
だから福島市でも団地のような所に住むようになったり
京都に移住した人も鬱になったというのもわかる
そこは全然環境が違っているからそうなる
田舎も人間関係は嫌なのだけど東京や大都会の混雑した所は嫌なのである
自分は大学時代で性格的に静かな所を好み人間関係も得意でないので田舎に帰った
そもそも人間嫌いでありあんなに人間が混雑している場所にはいたくない
田舎はそうした環境では相当にぜいたくである
東京などには何もない空間が一番贅沢なのである
実際はあれだけ混雑していればそういう空間こそが一番価値あるものになる。


相馬藩内は海があり山があり自然的には恵まれた所だった。
会津の方だと山家あっても海がないからものたりないものを感じる
そこに住むとなるとどこがいいとなるといろいろな条件がある
そこの気候も問題になる。
浜通りは海があり涼しいということがあった
最近の温暖化で35度に普通になるとそんなところに住みたくないとなる
寒さでも極端な寒い所は嫌だし雪のふる会津とかも嫌だとなる
すると暑からず寒からずの浜通りがいいとなる

だから避難者も気候的な問題で浜通りに帰りたいとなり実際帰ってきている人もいる
気候の問題は体にかなり影響するから深刻なのである

浜通りとかでも芸術的感性を磨くにはいい場所だったとなる
芸術的感性だって一朝一夕に作れないのである
長い間住んでいると自ずとその風土と一体化して文化が生れる
それはその人の個性というよりはその土地が作り出してゆくのである。
そんなもの飯の種にならないというのもそうだが
やはり現代ではかえってまた田舎が見直されるという価値観が変わる時代にもなっている
経済的には恵まれていなくてもそれに代わりうる価値が田舎に見いだす人もでてきている

ただ放射能汚染で飯館村が被害が大きかった時、これかどうなるのか?

人間はそんな簡単に江戸時代からも長く住んでいた村そのものがなくなるということが
できるものだろうかという疑問である。
それだけ長い間住んでいたらそこに残りつづけようとする力が働くのではないか?
例えば樹にしても石にしてもそれは人間化したものであり
単に樹や石があるということは自然のものではない人間化した樹や石が残りつづけて生きようとしている
それは津波の跡に今も残っている樹の不思議さを何度も書いた。
何か家の跡に残っている樹は普通の樹ではない不思議なのである
それは何か人間化していた樹だからそうなった
家を長年囲んでその樹は立っていたからそうなった。
だからその家と離れがたく樹も立ち続けていたのである。

近くの人は何度も言う、俺は若い時から裸一貫でこの家を建てた
この庭も作った、だからこの家に愛着がある
そういえば自分は家があってもそれは親からゆずられたものであり
何ら苦労して手に入れたものではないから
家でも住んでいる人の気持が違うものだと思った。
その庭は山のように何トンも石で組まれている
その石のようにその土地に家に愛着をもっていて動こうとしない
性格も堅い人であり何かその石にふさわしいと思った。
飯館村の人だってそういうふうに思っている人もいるだろう


だからそんなに簡単に村時代が消えるということが考えにくいのだ
人間の意志が生き続ける意志が樹や石となりそこに残る
それは人間の意志であり自然そのものである樹や石とは違っている
芸術にしてもその村が消失してしまいばありえない
土があって樹が成長して花が咲く
土はその土地に生産するものがあって花が咲く
花は芸術でありそこに土から実るものがないなら花も咲かない
だから芸術だけ存在することはありえないのである

ただ不思議なのは放射能は花には影響しなかった
花の栽培しても食べるわけではないから花の栽培をしている農家がいる
放射能汚染の土地をひまわり畑にした所もあった
ただみんながお花畑になったらそこでどうして食べていけるのかとなる

ともかく飯館村は一体どうなるのか?
避難地域となったところの問題は一家庭とかを復興させることではない
全体の町とか村を復興させることだからむずかしいものとなる
それには町とか村全体の一丸とならないとできないだろう
ところが実際は補償金をもらって他で牛を飼いたいとか
もう他で新しい生活をしたいという若い人や様々に分裂しているのである
つまり現代はかさえあればどこでも暮らせる
だから歴史的にあった長年住んだ村でもこだわりがなく捨てるということがあるのか?
この辺は以前として様々なもことが問われる場所になっているのだ。

posted by 老鶯 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村