2014年06月20日

月見草(人よ、ゆっくりすすめーでんでん虫の詩)


月見草(人よ、ゆっくりすすめーでんでん虫の詩)

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開け放つ窓よりひびく夏雲雀

夏の日や遠くより人来る夕燕


紫と白の菖蒲の咲き前畑にカボチャを作る農家ありしも

自転車のスローに走り草深く月見草咲き夕べ帰る道

千歳なる磐によりにつ乱れざるひとりしずかのここに咲くかな

原町は鹿島と違い活気が違う。かえって車が増えたような気がす。小高方面からの車が多い。そして仮設のプレバブがまた何カ所か作られ増えた。まず一〇〇〇人くらい泊まれるのを見ている。外部から働きに来ている人はどのくらいいるのか?
五〇〇〇人くらいいるのだろうか?
確かに最盛期より半分以下になったとしても以前として仮設のプレハブは増えている。
これだけ外部から来ているとレストランなどは外食する人が多いから繁盛しているように思える。
すき屋で鰻丼を食べた。時給一二〇〇円とかあった。郵便配達の募集のビラも配られたりとこの辺は人手不足が深刻なのである。
て も賠償金をもらったりしている避難民などは働かないだろう。
そもそも時給などでは働きたくないのはわかる。
ただこの辺は働くにしても今までとは事情が違うから他とは一緒にできない事情がある。
そもそも自分は働けというのは矛盾していることはある。

でも介護になったり自分が病気したりして自分自身が心に余裕がなくなっていた。
絶えず何かに追われる生活だった。
料理すること家事でも手間なのである。
一番楽なのは弁当と外食することである。
今日は自分は外食で母は弁当だった。すると何もすることがないから時間ができて余裕が生れる。
自転車で外を出歩いて帰ってから食事の用意をすると何か落ち着かなくなる。
時間的にゆとりがなくなるのだ。


自転車でゆっくり走ってくるのも気持良かった。
人間は今か絶えずなにかにせかされている。現代はどんなことしたって余裕がもてない社会である。車がひっきりなしに走っている状態がどなんことしても余裕がもてない環境なのである。そのスピードとリズムが人間的でないのだ。
もし車で時速30キロくらいにすると事故など起きないかもしれない
それだけ心にみんな余裕がもてるからである。
ただそれにはせかされないことが条件なのである。


ともかくここ6年以上心に余裕がもてなかった。のんびりした気持になれなかった。
今日はゆっくりといつもの道を夕べ帰ってきたが心に余裕が生れていた。
自転車は早く走るのも爽快だがゆっくり走るのも気持がいい
車だとゆっくり走ることすらできない、常に早く走っていなければならない
とまったりすることもできない、その状態がまさに現代人の心なのである。

旅でも早く早くせかされる旅は旅ではない、風の吹くままとかゆっくり行ければ旅なのである。
結局早いから急ぐから欲が出るから事故も起きる争いにもなる。
何事ゆっくりすすめることが現代ではできない。
一刻一秒を争っているんだ、ぼんやえしているんじゃねえ邪魔だとなる
自分はそういうリズムに学校時代からずっとなじめなかった。
ただ大学は遊びの場だったからそういうことを感じなかった。
だから会社勤めなどできない自分だったがそのまま老人になっていた。


人間は自然のリズムからすると全く今やはずれている。すべてがめまぐるしく早すぎるのだ。
常に例にすれけど山であり樹であり石であれ動物であれ牛であれそのリズムは悠長である。とにかく人間だけが忙しすぎるのだ。蟻のようにはいずりまわって休むことがないのである。ただこの辺の事情は違うにしろそういう忙しいせかされる社会になじめなかった。たから今日はゆっくり走って心の余裕が生れたので気持良かったのである。


人よ、ゆっくりすすめ


のろのろと歩む
でんでん虫の急がざる
今日一日でこの道を渡ればいい
時間は決められていない
途中で休むものもいい
疲れたら休む
さてまた行くか
まだまだ道は遠い
夏の日は夕べなお明るい
急がば回れ
田舎の陽はゆっくり落ちてゆく
月見草は草むら深く咲き
また雨がしとしとふってきた
人よ、ゆっくりとすすめ
事を成すも目的地につくも
かえってゆっくりなるがよい
せいては事をしそんじる
早く行こうとすれば到達しない
ゆっくり行けばかえって到達する
その歩む行程に意味があり
道の辺に咲く花々を見るもよし
一歩一歩踏みしめ歩むがよい
汝は動かざる千歳の磐を思へ
その不動の心に習へ
岩のごとくに心乱れざるべし
その磐により可憐な花の咲く
その花の神に見守られてありしかも

 
 

2014年06月21日

時間の哲学 (時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない


時間の哲学

(時間は人間が作り出した様々な概念であるー時間によってすべてが消えることはない)

●機械によって節約された時間


D=MX


Dはdistanceで距離である。Mはmachineで機械である。Xは運ぶ量である。

例えば距離が2D=2MXとはならない、なぜならMが変化するからである。電車だったら普通車から急行へ新幹線となり2D=MXとなりうるのはmachineの能力が倍になっているからである。運ぶ量が二倍三倍となってもMが変われば距離に関係ない

Xが三倍になったとしてもmachineの能力が技術が進めば二分の一三分の一となりるから労力を減らせる。要するに機械の能力の進歩によって距離にかかる負担は距離が伸びてもふえることにはならないのである。

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そういうことはすべての労働にあてはまる。機械によって労働の負担が減ってゆく。
すると能率をよくするためにはさらなる機械の開発が必要でありそこにエネルギーが注がれる

それは技術者や頭脳集団が進めるのであり普通の労働者はできない
だからそういう開発をする技術集団が収入が多くなる
本一冊を流通させるには電子本やインターネットより十倍以上のコストがかかった。
活字を組んだり製本したり一冊一冊書店に並べるのすら手間だった。
そういものが全部はぶかれことはそこに働く人たちも失業するとういことである。

ではその人たちがどこで働くのかとなるとその関連業者にゆくにも
簡単にIT業界にゆくわけにいかないから失業してしまうのである。

農業まで機械化されて労働の負担がへった。今は農家に嫁いでも重労働をしていない、
田の縁(へり)を田植えしていたというのは機械でできないところを人手でしていた。
それは中国でも麦刈りは人力でしていた。ところがコンバインになった時、機械は人手でやるより千倍とかの効率でする。その差はあまりにも大きいとなる。
その時出稼ぎで麦刈りしていた人たちは相当な数が職を失うことになった。

でもコンバインでできない複雑な地形のところを人手でしていた。
つまり田の縁を田植えしていたと同じなのである。
いくら機械化しても人間でしかできないことが残る。
でも機械のおこぼれを人の手でしているというのも主役が機械になり脇役が人間になる。人間様が機械に使われ機械の補助役のようになるのも奇妙である。


機械が主役になるというのも人類の歴史である。機械が時間まで変えた。
江戸時代は時計がないから時間感覚も大雑把であり日の出、日の入りとか太陽の運行に合わせていた。時計ができたとき、時計という機械に時間を合わせるようになった。
機械に合わせた時間が生れて現代の文明社会が生れたのである。
機械の時計により世界共通の時間が生れたのである。
時間はそもそも日本でも江戸時代はその土地の暦があったように違っていた。
ましてや国が違えばもう時間も違ってくる。

時間が労働量で決まった時代もあった。

牛で耕作してどれくらい畑をうなったかなどで時間が決まる。
それは牛の時間になる。牛が機械の代わりをしていたときは牛のリズムなのである。
だから牛のように今からするとゆっくりした時間になるのだ。
その時、牛は重みのある欠かせないものとして人間にあった。

トラックは一台運んでいくらという請け負い勘定になる。一台で一回運べばいくらである。その運んだ回数で金がもらえる。運んだ回数が時間であり量も時間になる。
ところがトラックが大きいとかスピードが出るとかなると一回で倍の量が運ぶことできる。そうなると小さいトラックより時間が短縮できる。そこで時間が短くできたとなのだ。それは人間で決めた時間なのである。


●機械に追われる文明の時間


結局現代人が余裕がなくなったというとき、機械に追われる時間になったからである。
時計という機械に追われる時間なのである。一秒一秒刻まれる時間に追われているのだ。牛には牛の時間があったが車には車の時間がある。
車はまず停止することができない、遅くすることもできない、一定の速さで走ることが要求されている。車という機械の時間に合わせねばならない
ところが自転車は遅く走ることができる。これがなんとも不思議なことである。
遅く走ったとき何か心にゆとりが生れたのである。
時間を遅くすると景色すら違ったものとして見えるだろう。
そこに時間の不思議があった。

時間を早くしたり遅くしたりするのは自然ではない、人間なのである。
自然が時間を早くしたり遅くしたりしない
太陽が一時間で沈んだりはしないのである。

矛盾しているのは機械により時間が奪われたということもあるが機械により時間も作り出されていることである。なぜなら家事も機械化すればそれだけ余裕が時間が生れる。
だから一番時間を節約できるのは外食して弁当食べることなのである。
そしたら皿を並べたり洗ったりする時間も必要なくなる
まず家事の最大の手間は食事の用意と料理になるからだ。
さらに金があればお手伝いさんを家政婦を雇えばまるごと時間を得ることになる
だから文明社会は機械によって労働力がはぶかれたから失業するとかまた金によって奴隷的に働かせられるが一方で金があれば時間を得るということもある
時間に関してもそういう両面の働きをしているのである。


ただ皮肉なことはD=MXなのである。距離を2倍にすることは一見機械の発達によって
労働量が減らないように見えるが実際は数学のようにはなっていない
世界から物を運ぶときの負担は実際は大きいのである。

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現代文明の特徴は運ぶ文明でもある。世界中から物と人を運ぶのが文明である。
その負担が確かに減ったのだがそのコストが大きいのである。
ただ運ぶことが麻痺するとき、現代文明は崩壊の危機にたたされる。
原発事故で外から物が入ってこないとき、ガソリンなくて車が動かなくなったとき、
食料すら入らなくなり危機にひんしたのである。


要するに現代は江戸時代などから比べたら千倍の量を物を運ぶ文明なのである。
その運ばれた物を売り買いするようになるから金が力をもつ、自給自足のような社会ではそもそも買うものがない、納豆まで農家で作っていたら買う必要かない、労働でも村の中で協働していたらそんなに金は必要ない、現代は常に外から運ぶ文明なのだから金が必要になり金が力を持つ用地なったのである。
その金を得るにはとをするかというとこれも常に今度は外に向かって外国までも物を運び売る必要が出てくる。そのためにいくら機械化されても労働力は増加して絶えず時間に追われる文明なのである。


時間はそもそも概念でありだからいろんなこと言うが結局時間のことはわからないし定義できない、一方空間はわかりやすい、距離であり距離は計れる。
時間は考えるとき、常にAからB地点へゆくの物を運ぶのにどれくらいかかるとか何かするための時間なのである。何かを移動したり何かを仕上げるのにいくら時間がかるとか
または距離がありその距離をどのくらいの時間で行けるとかなる。
電車だったら何時間、車だったら何時間とか新幹線で何時間とか飛行機で何時間とか
考える。


●時間とは何かをする仕上げる時間である


だから何もしない時間とか時間を遅くするという志向から時間を考えることはない
時間を遅くすることなどできない、地球の時間を遅くしてやろうとしてもできない
実際は早くすることもできない、時間自体がそんなふうに距離ではないから空間でないからできない、だから時間はもともと計れないのである。
時間は実際は具体的あるものではない、空間でもない、時間はそもそも人間が作り出したものである。空間はもともと神が作り出したものである。
空間は共通認識されやすいが時間はそれぞれの時間であり共通ではないのだ。
時計は共通にしたようでも時間はそれぞれの時間であり共通していないのである。

だから一時間の内に何々をしなさいしあげなさいというとき、その時間とは時計が刻む時間である。でも機械によって仕事を早くできたりもできるし長い距離でも機械で早く到達できる。すると一時間でできる到達できることが30分でもできたとしたら時間が30分ちちぷたことになるのた。
だから時間を伸ばしたり縮めたりすることがそもそもできるのかとなる。
時間というのはそもそもないしただ人間で決めた一つの概念だということでもわかる。


だから何もしない時間とか時間を遅くするということ何なのかとなる。
何かをして何かを達成するのが時間の概念としてある。
でも何もしない、達成しない時間とは何になるのかとなる。
それは何かを仕上げる達成する距離をゆくという時間ではない
何もしない時間などももともとない、常に何かを仕上げる達成する距離をゆくのが時間としたとき人間がそう決めたとき、何もしない時間が生れたのである。
何かする時間があって何もしない時間が生れたのでありそもそも何もしない時間そものもがないのである。時間とは常に何かするための時間であり何もしないための時間はただ何かをするために何もしない時間が生れたのである。

石が何もしないというとき、それは何もしない時間ではない、ただ石が在るということである。だから千歳の岩とかいう表現は本当はないのだろう。

I am waitaing for.....という時、誰かを待っている時間である。目的があって待っている。恋人を待っているかもしれないし、仕事するために人を待っているかもしれない。電車にfor Tokyoとある時、何々行きであり目的地につくための電車でありただ漠然として待っているのではない、明確にその時間は目的化して時間がある。
でも岩にはそんな時間はない、誰かを待っているとか何かを待っているとかいう時間はない、そういうふうに思う時は人間が思っているのである。

岩自体には時間はない、ただ在るだけなのである。

時間は関係なく岩が在るということなのだ。つまり在るということは時間に左右されないのである。
石が何もしていないというとき、人間は絶えず何かをしているから何もしないという時間が石に例えられているだけであり石が長い時間をもっているということでもない、ただ一カ所に石が変わらず存在しているというだけである。
要するに人間は絶えず変化するから無常の世である、石は変化しないいつもそこに在るということで時間の変化からまねがれているのである。
石は変化しないから無常からまねがれている。


老子が何も成さずして成る・・というとき、それは自然界は物質は生まれ時、人間が成してなくても何もしなくても在ったのであり成っていたのである。自然界とか物資界は人間が何かを成したからと言って何かなるわけではないという意味である。
すでに成ったものとして在るのでありそれを手を加える成す必要ないという意味である。

木が成長したり果物が実ったり稲が米になったり野菜が成長する花が咲くには時間がかるというとき、それは時間があるからではない、時間によってそうなるのではない
木が成長するのは成長する力が大地から環境から与えられているからである。
果物が実るのもそうである。時間のせいで実ったりするのではない。
時間があってももし大地とか土の栄養分がなければ実ったりしないだろう。
成長してゆるのは時間があるからではない、実るための環境があるからなのだ。

時間というのはそもそも人間が作り出した概念であり時間は自然界にはないのである。
いくらじかんがあっても成長する環境がなければ成長しないのである。

つまり時間だけがある世界はない、何か作用する世界があって時間がある。
木が成長して野菜や果物が実り稲が実りとなるからそこに時間が生れているのだ。
時間とは常に単独では存在せず何かに付随して時間が生れているのである。
もし人間だっていつまでも体力があり若いようになっていれば時間など感じない
時間などなくなるということもない。

だから天国では時間はない、それはいつまでも若いからだとういう。
病気にも老化にもならない体になっているから時間もなくなっているのだ。
時間によって消耗することもないのである。


●時間がたてばすべて忘れる時間が解決するとはならない


人間は確かに百年前とか四〇〇年前とか千年前とかの時間で計るけどそれも人間が作った時間であり変化したから時間がある。
なぜなら太古の自然の状態のままにあったら何ら千年たっても時間の変化を感じられないのである。それでも時間というのは人間が作り出したものでありもともと自然界には時間はないのである。
だから時間がなくなるということは自然界にはいな、ただあるところ在る物が移動したり砕けたりすることはある。ただ時間はそもそもないのだから時間がなくなるということはないのである。年とったとき時間がないというとき、何かをするための時間がないということである。若い人なら一万回できることが百回しかできない、仕事量のことなのである。時間があるないではなく何々ができるできないことが若者と老人の差なのである。
若者には一万回やれる体力と知力があるが老人には百回しかやる力しかないのである。


四〇〇年前の慶長津浪のことを最近盛んに言われているけどそれがどういものかよくわからない、それは四〇〇年の時間が過ぎたからではない、その津浪がどういうふうに作用したかわからないということである。だから時間がたっても当時のことが詳しく記録されていたり何か証拠があれば今でも生々しくイメージできるのだ。
それは時間と関係ないということもできる。作用した現象が大事であり時間がたっても
そうした作用した事実が痕跡として残り記録されていれば時間によって忘れたり消耗されこともないのである。
だから時間が経っても千年たっても二千年たっても歴史の重要な事件が忘れらず昨日のことのように語られるのはその作用したものが時間で消耗しないからである。
だから時間より人間はその作用したことをどうみるかなのである。

相馬藩では一行七〇〇人溺死としか記されないないから慶長津浪のことは探りようがない。それは四〇〇年という時間が過ぎたからではない、その津浪に関してどう見たかということである。それが語られなかったのはどうしてだったのかその時社会状況が問題になる。

要するに人間の問題でもすべてを時間のせいにすることはできない、もう時間が過ぎたら嫌なことは忘れればよいとなれば人間は忘れる、そういうことは津浪の被害で起きている。いつまでもそういう悲しいことにはこだわりたくないという心情が働く、だからついにそういう事実が自然の作用があったということまで忘れる。
それは時間の問題ではなく人間側の態度であり時間がたったからではない
みんな時間のせいにしたら何があっても嫌なことだったら忘れろとかなり時間が解決してくれるとなってしまうからだ。

もちろん時間の浄化作用があり嫌なことも恨んだこと忘れるのはいいとなる。
そういうことをいつまでも根にもっていたら生きるのも苦しいだけだとなる。

すべてを覚えている必要はない、でも時間のせいにしてみんな忘れていいのかとなるとそうはならない。だから時効制度はただ時間を制限しないと処理できないので事務的に決めただけである。それで殺人が時効になるわけではない、それは来世にすらその罪はもってゆくものだとすると消えないともなる。時間で忘れられるならすべてが時間で消失するならそんな罪のことなど深刻に考える必要もないだろう。
時間がたてば消えるんだから時間しだいだとなる。時間がたったらすべては許されるともなる。時間に効用があっても時間にそんな万能性があるのかとなる。


レイテの水を飲んで忘れ生れ変わるというのもわかる。それは時間で忘れるのではない、忘れる水を飲むからである。何かによって作用したことは時間では消えない、それは忘れる水を飲む、薬を飲むことであり時間がたつからすべてを忘れるということではないのだともかく時間のことはいくら語っても語り尽くせない、それは時間は物ではなく人間が作り出した概念だからいくらでもどんなことでも言えるからそうなっているのだ。



参考になるもの

ブラックホールでは時間は止まっていると言われます。
つまり、変化がなければ時間は生まれないのです

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A2RAEEB_wKVTDCoAHBVoAPR7?page=2&qid=1189635431

時間そのものが多様に解釈される。
ブラックホールには時間がないというとき、時間がない世界あっても不思議ではない
何も変化しないいつまでたっても暗闇しかなければ時間もないとなる
そこにもし光が生れれば時間が生れる、物が現れれば時間が生れる
暗闇一色の世界に変化が生れたからである。

ここはの説明はわかりやすい、物理学と数式になるとわかりにくい
ただ文系でも理系的思考を取り入れることは可能である
そうすると物事を多面的に見れることも確かである
ただそれは自分にはむずかしい、科学的な知識の差が大きすぎるからである。

2014年06月22日

なぜ南相馬市では小高だけが特別批判されるのか? (南相馬市は賠償金で分断され、避難区域も金でコミニュティも解体された)

 

なぜ南相馬市では小高だけが特別批判されるのか?

(南相馬市は賠償金で分断され、避難区域も金でコミニュティも解体された)


南相馬市全体からみると賠償金問題でこれほどもめたのか?
それは小高と原町と鹿島でその額に大きな差があったからである。
小高は避難区域になったからその額が大きい。一年で一千万とかもらっている人もいるだろう。一人十万だけではない、家とと土地ももっていれば賠償対象になる。
一時的に避難区域に帰るだけでも4,5万もらいたいというからいたりつくせりなのである
そしてなぜ小高が他の避難区域より浪江町などより批判されるのか?

それは南相馬市内だけど特別扱いになったからである。
もちろん避難区域になり住めないから特別にそうなったことはわかる。
しかし浪江町や飯館村とは違って住めないというものでもないし
放射線量は鹿島とか原町とかとさほど変わらないし相馬市とも変わらない
むしろ放射線量は福島市などの方が高いのである。
小高区は帰れる状態にあるけど帰らないというのは帰ると賠償金がもらえなくなる。
また働くとその分引かれるから働かないとかなっている。
それもおかしなことである、そうさせられているということもある。

ただ南相馬市の問題は小高、原町、鹿島と合併する前の地域にその特有の問題が生れたのである。

それでも原町と鹿島でどうして賠償金に差があるのかというのも納得いかない人たちはいる。確かに避難区域になって避難した人が多いが鹿島区でも半分は避難したのである。
そのことは同じなのである。でも二年分が賠償の対象になり鹿島区は7カ月分だけである。これも内訳はまた実際に避難した人は高いとか原町区でも地域によって別れている。
だから原町の人がどれだけもちらっているかは実際のところはわからない。
賠償金を聞いてもいくらもらっているか言わないからだ。
自分は二人で140万だったということは嘘ではない、あとはもらえない。


だからおかしなのは最初に市長が鹿島区も避難区域にならない屋内退避地域だから市の財政から一所帯百万を出すことに決めた。そのことについて原町区の人が激しい不満をもった人たちがいた。市の財政から出す必要がないと主張したのである。
これも何か鹿島区の人から見れば納得がかいない、現実に今になると賠償金は東電から政府から原町区の人には一人十万で二年分とか手厚いのである。
この詳細は確かにまちまちでありわからないしにても鹿島区よりは倍以上は手厚い補償金がでている。
だから鹿島区の人からみれば今になるとそんなことを主張していた人たちがいたことが納得がいかない。
その時から南相馬市の一体感はなくなっていたのである。

原町区と鹿島区では別に放射線量でも避難したことでもさほど変わらない被害だった。
それが原町区と鹿島区では差別が生じたのである。

だから南相馬市では鹿島区の人が一番不満をもっている。
その不満が仮設に住んでいる小高区の人に向けられているのだ。
同じ地域に住んでいて賠償金に差がありすぎるからだ。

最初は小高の知っている人が十万で手伝いさんに雇ってくれないかと来た人がいた。
今は小高のが鹿島の人をそれくらいの金で雇っている。
その人は足が悪いとかなっているので頼むようになった。
小高の人はそれだけ金があるということである。
小高の人に雇われるのが鹿島の人だということになる。
ただそのことは悪いことではない、金が鹿島の人にも回っているからだ。
それでも小高の人は働かず働かせられるのは地元でも賠償金がもらえない人たちだとなり不満になる。

そして小高の人たちが特別批判されるのはまず南相馬市だったら同じ南相馬市の市民ではないかと合併後はなっている。それぞれの区域分けができたとしても事情が違っていても同じ南相馬市民ではないかとういことがある。
そこで区域分けして差別することで分断されたのである。

ともかく南相馬市で一体感を保つための方策、政策が必要だったが市長も行政でもできなかったのである。

金というのは必ず欲が生れるからそこでいがみあうことになる。遺産でも兄弟がいがみあいばらばらになる。それと同じことがここでも起きたのである。
相馬市でも避難している飯館村やその他浪江の人たちでも良く思っていない
常に金をもらっているのには相馬市の場合は何にももらっていないから余計にそうなる。ただ小高の人たちが南相馬市内で批判されるのは浪江町とか飯館村のように放射線量が特別高くないのになぜそんなに賠償金がもらえるのかということがあった。
それは警戒区域に指定されたから小高の人がしたのではないから小高の人の責任ではないというのもそうである。

でも実際金がからむとそう見ないのである。

だから南相馬市でも市長でも行政でも何らかの対策を打つ必要があった。
それが全く無策でありそれで分断されたままなってしまったのである。確かに小高はもらいすぎているのだからその分を鹿島に分けるとかが必要であった。
そうはいっても小高には小高の人の言い分があり欲があるからそんなことにはならない。浪江とか飯館村だともう一億円もらっても当然だというのはある程度わかる。
まず浪江とか飯館村は住めるような状態ではないからである。
そしたらこれかからの生活派とをなるのだということで一億円必要だとなる。
実際に飯館村では除染費用に一見5千万をかかるという。
そんな金を使っても山林が全体の70パーセントの飯館村で除染しても無駄だから
一億円配って他で生活させるべきだというのもわかる。

しかし小高の場合は住める条件が整っているのだからそんなに賠償金が必要なのかということになったのである。

いづれにしろ南相馬市はこうして一体感がなくなった。それこれからも尾を引くから困るのである。浪江町ではお前らは金あるんだから仕事しなくてもいいだろうと仕事を与えてくれといっても会社の人は仕事を与えてくれないと言っていたことでもわかる。
これからも小高の人は金をたんまりもらんたから仕事しないで暮らせるだろうとか言われるかもしれない、南相馬市でそういうふうに一体感、助け合うということがなくなったのである。

だからこれからはそういう南相馬市民のしこりをどうするかも問題になる。

こうした問題は現代特有のものとして起きたのかもしれない、広域社会に金の社会になったとき、地域のつながり自体が薄れ金さえあれば別にどこに住んでもいいという感覚になっていたのかもしれない。
そういう人はもともと故郷であれそこに住んでいる場に愛着がない、だからたまたま住んでいても一億円やるから他に住んでくださいというとき、それは好都合と他で暮らした方がいいとなった。姑と一緒に暮らすのが嫌だからかえって離れて暮らせるからとこの際他に移り暮らしたいと言う人もいる。

つまり何かそこに住まないければならない、そこが他にない価値ある場所とはならない、金さえあればこの際移り住んだ方がいいというのは何かそこに愛着あるものがない。
広域社会になったとき、金さえあれば便利なところに移り住みたいとなるのが当然だとなる。

だから現代の人間のつながりはそもそも広域社会になると薄れていて金の方が大事になる。金をもって他に移った方が便利でいいしサービスもいいとなれば移る。
何かそこで暮らさなければならないという価値観がない社会になっている。
「俺はどうしても野馬追いに出たいからここで暮らす」というのも一つのこの辺の価値観になる。そういうものがない人は簡単に故郷でも長く住んでいても愛着なく捨てる。
知っている人は自分は若いとき苦労して土地を買い家を建てたからここを離れたくないというとき、その愛着はまた違っていた。
でも家も土地もない住宅に住むような人はそんな感覚をもたないだろう。
一億円くれるなら他で住んでかまわないともなる

ただ人と人のつながりがあり家族ありとか友達がありとかはある。
だから小高の人は体が悪くなっても息子のところにはゆきたくないという。
過疎地でも子供のところにゆきたくないと仲間と一緒にいたいと限界集落に住んでいるのと同じである。

ただこの辺で変に思うのは若い人でももう金をもらって外に流出することは故郷の人たちでも仲間でも家族すら捨てることになる。
要するにそんな関係でしかなかったのかということもある。
何か困ったら結束して助け合うとかいうことがそもそもなかったからこういう困難な時にかえって簡単に見捨ててしまうことになったのか?

だから子供を苦労して育てても親なんか簡単に捨てるとなると馬鹿らしいとも思うかもしれない。
また故郷にしてもそこで育てられた人も別に故郷に愛着を長く生活したところに愛着をもたないということはそれなりに尽くした人たちを簡単に見捨てるということにならないか何かその辺が変だなと思った。
例えば相馬市の看護学校は地元の人を育てるために優遇している。
それは地元に看護師となって貢献してくれると思いそうしている
医者でも福島県に勤務してくれるなら学生は無料にするのはここで尽くしてもらいたいからそうなる。
それがそうして世話になったのに福島県外の方に簡単に勤めるとしたらそんな人に援助しても何にもならなかったとなってしまうだろう。


いづれにしろこの辺は土地や家族や仲間のつながりや一体感が何であったのか問われる。様々なことが問われる様々なものがテーマとなる場所になったのである。
宗教的哲学的な場所でもある。
なぜ金があれば故郷とか家族でも友達でも簡単に捨て去り他に行ってしまうのか?
何か金以外の価値があった、それは目に見えないものでもあった。
それが何なのかが明確にならないにしてもそういうものは金では計れないにしてもあったその価値あるものが何であったのか問われるから宗教的哲学的に考えさせられる場所になったのである。


だから女川だったか、ボランティアにここで働くならずっとめんどうみる。
でもここで働き骨を埋めるくらいの覚悟で働いてもらわないと困る。
それができるのかと何度も問うていたことでもわかる。
それだけ女川辺りでもう街自体が崩壊してしまっているから真剣になる。
20パーセントとか流出して住めないと判断されるからそうなる。
そういうところで働くのそれだけの覚悟も必要になるし連帯感をもつことにもなる。
まるで城とともに討ち死にするような状態になる。
それだけの一体感、生死をともにするようなつながりが要求される場所になっている。

そんなことに耐えられないと地元の人すら流出しているからそうなる。
そういうこともこの辺では問われているが結局若い人は住まないというとき、
すでにコミニュティは崩壊している。
めればもともとそれだけの人のつながりも故郷に対する愛着もなかったのだとなる。
金さえあればどこでもいい便利な方がいいという価値観が勝った社会だからこういう状態になったとき、簡単に故郷は捨てるし金が唯一の価値となり分断されてまったともなるのだ。

posted by 老鶯 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月23日

津浪の後の葦原から青田への変化する景色の写真と短歌 (右田浜⇒八沢浦⇒相馬市内⇒日立木)


津浪の後の葦原から青田への変化する景色の写真と短歌

(右田浜⇒八沢浦⇒相馬市内⇒日立木)

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右田の松原の残骸である。ここの松は太かった。
だから江戸時代からあったみたいなのである。


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八沢浦

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夏菊に朝日の眩し沖に船
葦原に夏の日眩し石ごろり
浜街道海風涼し陽のまぶし
老鶯や街道細く草深し
街道の細道木陰の深きかな
興亡の鬼越館や夏日没る


(右田浜、海老村)


右田浜松原ありしその松の残れる太しここに集める

海老村に津浪の後や残りたる家の社や草に埋もれぬ
海老村に社の鳥居海向くも跡形もなし何を偲ばむ


(八沢浦)


庭の石残りて一つ目立つかな夏の日まぶしく葦原広がる

葦原に沼の生れてほしいまま鬼ヤンマの飛びにけるかな
葦原に夏の日そそぎ瑞々し海風そよぐ八沢浦かな
八沢浦葦原となり風吹かれ揚羽一羽の舞いわたり消ゆ
八沢浦葦原となり我が望む夏の蔵王の迫りくるかな


(相馬市⇒日立木)


田町通り女子高生の歩むかな柳そよぎし夏の午後かな

城跡に木陰の深き石垣の残りて古りぬ訪ぬ人かな

餌あさる夕べ田の面に鷺の二羽日立木村の古りにけるかな

相馬市田町通り

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日立木村と青田と鷺(夏の夕べ)



海老村から八沢浦に出ると一面の葦原となり沼がすでに三年すぎて古くなっている。
津浪の後の変化は自然が生き生きするということである。
葦原が夏の日ざしを受けてつやつやゆと瑞々しく輝いていた。
八沢浦は相当に広く感じた。あそこは一時海になった。今は葦原である。
葦原は日本の原初の風景だった。これは飯館村でも山でも葦原になった。
日本では葦原瑞穂の国だから本当に葦原に覆われていたのだ。
そういう原初の風景に津浪の後にもどってしまった。


ただ八沢浦の海に一番近いところに30軒も家があるとは思わなかった。
10軒くらいはあると思っていたが30軒は多かった。
その家も根こそぎ流出した。あそこは土台すら残らず沼になってしまった。
こういう変化はいくら無常の世だとしても想像もできないものだった。

八沢浦からは蔵王が見えたが写真ではうまくとれていない、八沢浦からいつも蔵王は見えていたのだ。八沢浦八景があり古歌が残っているからここは名所だったのである。
それが津浪によって一時昔の入江が甦ったから観光としては魅力を増したのである。
八沢浦に注目している人は松川浦とは違いなかった。
でも自分は前からここが入江になっていたらどれほど美しいだろうと何度も書いていた。それが実際にそうなったときほど驚いたことはない、それを言えばここで死んだ人をどう思うんだと批判される。

でも正直まずその死んだ人より八沢浦が本当に入江なっこことに驚嘆したのである。
ごちゃごちゃと瓦礫が流れていたらそうは見なかった。
右田などは瓦礫が流れて泥海になっていたのである。八沢浦は昔の入江のようになっていた。岸辺に瓦礫が流れ着いても入江のようになったのである。


八沢浦を出て相馬市の方にゆき城跡をめぐり田町通りの柳を見る。それはいつもの行程である。あそこは絵になっている。通りがないとやはり街は生きてこないのである。
スーパーにはそれがないのだ。ただ買い物するだけなのである。
相馬の女子高生が歩いているのも絵になっているのだ。
相馬市の市民会館もそうした城下町にふさわしい造りで完成していた。
相馬市は城下町であり原町とは雰囲気が違うのである。

浜街道の道は相当に細くまがりくねっている。でもそれが街道だからこそそうなっている今日気づいたのは木陰が深くなっていて街道は涼しい、もし日ざしがまともに照りつける道を歩いたら苦しい、ところが街道は道が細く木陰が多く涼しくなっていた。もちろん
松並木などもあるから涼しい道だったのである。
六号線とはまるで違ったものとして街道があった。


その街道を通り日立木に出ると鷺が二羽まだ明るく餌漁りしていた。
それがまた何とも不思議に感じるのだ
葦原というのは原初的風景であり青田は何か人間的風景でありほっとする。
葦原はやはり茫々とした感じになる。青田は何かそこに人間の営みがあり
日立木村があり薬師堂があり人間的なものの温かみを感じる
だから津浪の後は南相馬市は原発事故でも田畑をまだわずかしか作っていないから余計に感じるのである。


鬼越館はあそこもまだ相馬氏が統一されないとき、中村に城を移転するとき、敵対した館だった。
そういう歴史を知ればまた見方も違ってくる。中世の館をやはり知っておく必要がある。

 
 

2014年06月24日

なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか? (津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった


なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか?

(津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


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●相馬氏統一の前の中世の館

一国一城になるまえは各地に館があり城となっていた。中村城に移転することによって中央政権体制がでる。そこで相馬藩内で38もの館があったが廃止された。
ここには抵抗があった。特に有力な豪族は海側に港をもち物資を運び財力があった。
小高の村上や塚原がそうであった。
だからこそそこをおさえるために村上に城を築いたが地元勢力の反発がありすぐに中止した。何か不吉だからということではない、在地勢力の抵抗があったためである。


標葉郷 泉田館 両竹館

小高郷 岡田館
中之郷 泉館 泉氏から岡田氏へ
大甕館 岡田氏
北郷
上海老輪蔵館


輪蔵館 反畑にあり 往昔この地に一切経蔵あり。故に輪蔵館と名づく
天文弘治の頃、桑折上野直家この塁に居る。
直家は田中城主桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


●津浪の二年後に役金を課して民を苦しめる


はじめは天守も築かれていたが、寛文10年(1670)に落雷のため焼失する。この時の藩主は相馬貞胤で、領民に負担を懸けるに忍びないと言って天守は再建されなかった
その性格は江戸時代以降の相馬氏の居城中村城がお殿様のお屋敷という雰囲気なのに比べ小高城は実戦的な砦という 感じがします


最近の小高城の発掘で小高城に火事がありそれは戦闘の結果らしいとか報告があった。
中村城は岡田館などがあるように中世の館とも違いそれほど防備に重点をおいていない城だった。


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加

慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない
中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ

慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える
http://musubu2.sblo.jp/article/89007433.html

財政が困窮し給人から役金(えききん)を要求した。これが元で一揆さえ起きるほどになった。給人の身分の返上さえあった。つまり役金がとられるのが死活問題になったのだ。

寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた
それで新田開発を一人十石限りとされた

慶長津波から50年くらいたってこういう状態になった。


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える

慶長18年は慶長津浪から二年後である。その時どうして給人、寺社方、職人まで役金、税金を課してのか?
給人、寺社方、職人とでているが寺社方というのは中世では仏教や修験者の勢力が大きかった。ここで気になるのは寺社方であり職人である。
●南海老村の大工の善次はその役金への不満の象徴だったのか?


南海老村の伝説は善次という大工が中村城の天守閣の造営にかりだされていた。
それが九十九部という仏教の修験者がかかわっていた。
それは確かに南海老村には輪蔵館という寺社の館がすでにあったのである。


輪蔵館 反畑にあり、住昔この地に一切経蔵あり、故に輪蔵塁と名づく、けだし仏閣ありか、天文弘治の頃、上野直家の塁に居る。直家は田中城桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日(寛永2年9月10日)は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は相馬三胤、相馬蜜胤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4


武家天野氏羽衣の来由

天野尾張同筑後正常あり、正常義胤公に仕えますます戦功を積んで加田を賜る。
その後天野備後なる者、勇猛の士なり。利胤公の世、牛越後経営の時に当り公の
慮に違へ采地を没せられて下海老村に蟄居す。
荒川某数々備後の過無きを訴え君公之許す。
天野家塁世功あるをもって采地二十二石賜ふ。爾後下海老村に居り代々天野新兵衛と号す方今新兵衛高祖祖父天野新太郎となる者、村絆官管船官となる。
力量抜群、槍柄二を合わせその先に載せ槍柄を取って是を揚ぐ。
一時米を運船に積む。米包多く積みその中につき一包抜く。又これを入れるること元の如し。その他人目を驚かすこと算・・あらず。以て美談となす。

下海老村の地図
http://musubu.sakura.ne.jp/sblo_files/musubu/image/ebimuramap111111111.jpg


下海老村 倉庫海岸にあり、この郷の税米を収め江戸に運船す

下海老村には湊があり船で江戸まで米が運ばれていた。それはすでに相馬氏が中村城に移転して地域を統一したときである。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日

この時代に慶長地震と津浪が起きているのだ。

そのことは何一つ記されていない謎である。
その時確かに下海老村もあった。そこには湊もあった。
そして重要なことは津波のあったときかもしれない、
そしたら慶長津浪のことはなぜ一言も記されていないのだろうか?

その時生きていた人物の由来も明確に記され慶長津浪のあった利胤の時代にこれだけのことが記されている。それでなぜ甚大な被害のあった津浪のことが記されていないのか?
今回の津浪から見ればその被害はやはり壊滅的だったはずである。
それが何一つ記されていないのはなぜなのだろうか?


ただ一つ南海老村の大工が確かに中村城に移転したとき、天守造営にかかわっていた。
そこで海水で洗うと怪異が起きたというのは津浪で死んだ人たちがいてその死んだ遺骸などを海水で洗ったものなのだろうか?

慶長十八年に財政困窮したというのは慶長十六年で津浪の被害が甚大で影響したのか?
でもそこにさらに役金を課すということはどういうことなのだろうか
そのために南海老村の輪蔵館支配下にあった善次という大工は中村城の天守造営にかりだされたが領主は輪蔵館にありひきとめられたということもあるのか?


●やはり津浪の被害は相馬藩の当時の政治事情で語ることを禁止されたのか?


いづれにしろ慶長津浪のことが一行だけ七百人溺死しか記されていないことの謎は
解明しようがない、ただその前後に何があったかは詳しく記されているのだ。
不思議なのは慶長津浪の後にも下海老村に湊があり船が運行して米が積まれて運ばれていたのである。
もともとそこには塩場があり塩もとっていた地域である。
津浪があっても塩とることには影響されない、むしろ塩をとるのは津浪の後の方がやりやすいということもあった。ただ湊が破壊されることは船が使えないので打撃だった。
でも下海老村の湊は津浪の後も使われていたのである。
その当時の湊はどうなっていたか不明である。
今のような護岸のある港ととは違う、それでも米を積み出すくらいだからそれなりに港の機能はあったのだろう。

不思議なのはすでに慶長津浪のあったときはそこに住んでいた人物の由来もはっきりしているしその子孫も明確だし今日までつづいているのである。
それがなぜ慶長津浪に関して何も伝わらないのかが大きな謎なのである。

慶長津浪の後の二年後に役金を課しているということそれに不満があったことが記されないことに影響しているのか?
つまり相馬氏にとって津浪の被害を訴えられて役金を徴収できなくなるから津浪の被害のことを無視して記さなかった。それはその時の政治情勢でそうなった。
相馬氏のその時の最大の課題は秀吉や家康との関係を良くして領地を安堵してもらうことだったからである。そのために今の時代だったら津浪の被害があったら外部から援助されるがその時はそんなことはない、だから牛越城の時改易される取りつぶしの危機も経験しているからそっちの方が政治の優先課題であり津浪の被害は無視されたのである。

ただそれにしても相馬氏では無視してもそれだけの被害があればその土地のものとか何か記してもいいはずである。現実に伊達藩では津浪の被害にあったその土地の支配者が記している。それすらないということがとをいうことなのか解明しようがないということである。
「津浪の被害は語るな、口外するな、・・」
何かそういうことが相馬氏から強制されていたのかともなる。

だからただ一つ南海老村の天守造営にかりだされた善次の伝説が津浪を語っているのかとなる。
新地の地蔵森や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪のことだったらしい。
慶長津浪のことは何か相馬藩ではほとんどわからない、資料も伝説すら残っていないのである。
柚木の急ぎ坂とか・・・が慶長津浪のことだとすると南海老村に近いし八沢浦の被害からみればありうることである。
地蔵森や諏訪神社より慶長津浪の伝説としてはありうる。
それにしたってもっと何か具体的に伝わるものがあってもいいはずなのである。
それが一切ないということがあまりにも不可解であり謎なのである。


南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://musubu2.sblo.jp/article/99130060.html


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと・・・

葬礼と関係しているから津浪で死んだ人たちがいたことが伝説化していたのか?
ここがなんか伝説にしても津浪の被害を語っているように思える
なぜなら今回も津浪で流された家族の遺品を懸命に探していたからである。



円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


転々として大いなること茶銚のごとし



これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる


これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。

posted by 老鶯 at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

夏の夕べ(この世は常に無常だったー隣も回りも変わって人が住む)


夏の夕べ(この世は常に無常だったー隣も回りも変わって人が住む)


老鶯や日々草の茂り深しも

畑に人働きはじむ夏雲雀
畑に人海風涼し夕べかな
夏の日や我が里めぐり夕燕


分かれ道道標ありて草むしぬ栃窪村へ夏の夕暮

分かれ道道標ありて旅心湧きにけるかな
我が庭の紫陽花の色変わりにつ人も変わりて我とあるかな
住み替わる家にしありや庭残し百合は咲きにき主変わりぬ


浜街道の横手の古墳あるところから栃窪村へと通じる小さな道標がある。
そこには栃窪村へと記してある。ただあれは明治以降のものだから
古いものではない、それでも街道から栃窪へゆくのは相当に遠い。
車だからそうした遠い感覚が失われただけである。

毎日自転車で買い物とか狭い範囲を行ったり来たりしているだけである。

でも何か自分は旅してきたから旅は家にいてもつづいている。
分かれ道はやはり旅心が湧く、ここで道は別れる、それは道は未知なのである。
その未知に誘われるのが旅なのである。
だから分かれ道は印象に残るのである。
昔も分去(わかれさり)が地名化していたように印象的な場所だから地名として残った。
歩いていたからそこで人と人は別な方向に行きあとはなかなか会えない、永久の別れともなるのである。


夏は今は梅雨だけど遠くに旅したい季節である。ただ暑いとバテるからだめである。
昨日はからっとして風も涼しいから自転車で気持ちよかったのである。
自転車はまともに日差しを受けるから暑いと余計にバテる。

人間は本当に無常なのだ。無常とは常ないことなのだ。この辺は全くあまりにも激変して無常そのものだった。
近くに家を建てたのは烏の人だとか隣の人はイワキに移り老人ホームに入ったとか
一人は死んだとか近くでも次々に変わる。
会う人も次々に変わるのである。家族だって死んだしこれも変わるのだ。
家族すら本当に無常であり常ない関係である。

無常こそ現実でありそれをさけることはできない、人生は無常だということを前提にして生きるほかない、それを避けようにもさけられないのである。
いやおうなく無常を生きるほかないのである。

だから旅が人生だったという時、旅だったら一時泊まりまた次の宿へと移るから旅自体が常住ではない無常を生きることになる。

それが原発事故で避難区域ではもう故郷にも住めないはとなる無常が町全体のことになってしまったのである。
津浪の跡が葦原になったのも無常であり原発事故の街が無人化したのも無常である。
こんなことになることなど想像もしなかったから無常を特に感じてしまう。

人間の世は別にこの辺だけではない、こうした無常があり生きてきたのである。
ここだけであるのではないし今だけであるのではない、常にこの世は無常であり
変わる世なのである。


わずかにこの辺でも畑で働きはじめた人が見える。働く人がいないことは何か欠けている。田畑に人がいて働く人がいて土地も生きている。ただ機械がそこにあるだけでも活きてこない、人がいてこそ生きる。
家だって誰も住まないと空家のままでは活きてこない、この空家も膨大に増えているのだ庭残してそこにユリの花が咲いている。そこにまた新たな人が住み始める。


草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉


草の戸とも違っていたがそれとにている。家も無常であり永遠に住むことはできない、
それで家の始末に困る人もでてきているのだ。

2014年06月25日

津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された (相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)


津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された

(相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)

●全国の津神社

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は、兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社。「津の宮」とも呼ばれている。神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建されたと伝わる。延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社の比定社の一つ。


「角宮」は別称「津の宮」とも言われ、別所池から下流の広大な耕作地域を潤す水源として水神様が祀られています。

また、阿蘇神話の伝説がある穿戸羅漢山の真下に位置し、「角宮」には阿蘇大明神の家来だった鬼八が落とした角が祀られているとも言われています。
鬼の角が落ちたことから、どんなに激しい夫婦喧嘩でもたちまち収まり(角がひっこむ)http://www.town.takamori.kumamoto.jp/kankomap/kanko/post-2.html


名称から、式内社津神社に比定されることもある。
『式内社調査報告』では、国府が近いことから、
式内社・国津神社であると論じられている。

長崎県壱岐市石田町池田西触19
http://www.genbu.net/data/iki/tunomiya_title.htm


広島県福山市津之郷町大字加屋

利根川を臨む津の宮の鳥居

香取神社から徒歩40分。
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kanto/katori2.html


宮津の地名は、当神社の祭神を海辺に祀り、宮の津と称せしにはじまる。現境
内は、宮の津即ち宮祭る港の址なり、海中の巌を今日も遺す。此巌は神の依代
で、万代の巌又は『波越巌(なみこしいわ)』と呼ぶ。


津守(西成区);難波津を守り、住吉大社の神職を務める津守氏(津守連のちに宿祢)が
いた。

ひさかたの 天の探女が 石船の泊てし高津は 淺せにけるかも〔292〕


敦賀郡津守郷

外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという
http://yoshi-bay.com/index.php?id=114

大津皇子の竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとほる)のその事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首 いまだ詳(つばひ)らかならず
大船(おほふね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し

巻二(一○九)



千葉県道253号香取津之宮線香取市香取
http://www.jorudan.co.jp/bus/highway/busstop_%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE.html


かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

第10歌集『青海波』に収録されている歌である


祭神
上筒之男命(うわつつのおのみこと)
中筒之男命(なかつつのおのみこと)
底筒之男命(そこつつのおのみこと)

通称 津明神・楫取津神社
例祭日 四月第一日曜日
鎮座 いわき市岩間字輪山249

寛元四年、領主岩間次郎隆重が領内海産業の興隆を祈願し、摂津国津の宮の分霊を勧請したことに始まるという。古来、「輪山28」の地に鎮座していたが土砂崩れにより崩壊、昭和十三年現社地に遷宮した。
http://iwakinokamigami.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html


津の郷があり津神社(つのみや)ともいう、津の宮は宮津ともなる。津神社とツノミヤ神社は違う。宮は津に湊に祭られた。津が湊となり宮が祭られた。
単純に津神社もあり津とあっても区別がある
ともかく古代では津は湊である。天然の湊である。
だから松川浦の津神社(つのみや)は下に大津とあるからそこが船着き場だった。
その湊を守る神社でありもともとは津浪とは関係ない
ただ津浪の時、そこに上れば助かるというのは別に津浪のために祭られたのではなく
そういうふうに津浪が来た時、そこは坂を上れば助かる場所にあったからそういう言い伝えが生れた。盛んに津浪の故に祭られたというがそういう謂われはない。

磐城市岩間の津明神が、摂津国津の宮の分霊を勧請したとありこれはもともと津神社の基が摂津にあったことを示している。
角とか書かれていてつのみやと呼ぶ場合もある。単に津神社ならそこが湊があったかどうかわからないがツノミヤと呼ぶならそこには湊があった。

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津神社(旧村社)

鎮座地   福島県いわき市勿来町九面九浦九九
祭 神   海津見神 ワタツミノカミDSCF0100.JPG

宵 祭   11月 2日
例 祭   11月 3日

本 殿  春日造
末 社   八坂神社  大塚神社  稲荷神社

由緒沿革   九面湾に面した黒浦山に鎮座し、海の守護神とし  
て奉斎されたものである。 宝暦五年の棟札には「奉造立九面明神」 とあり、
天明八年の棟札には 「奉督改津明神」とあり、九面明神から津明神となったことが伝えられている。


広島県福山市津之郷町大字加屋

この住所も不思議である。津之郷町とあり加屋とあるのは伽耶なのか?
単なる萱なのか?津之郷町とあり加屋があることの謎である。
津守とあるようにもともと津神社は湊の守り神から発していたことはまちがいない
ただツノガノアラシトとかがありツノガが角となり津之郷ともなるのでまぎらわしい。


●鯨と津浪は関係していた

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烏崎の津波に流された津神社にあった「鯨大明神」

「藤沢の地名」(藤沢市発行)によると、「浪合という地名は、かつて大津波が岩屋不動尊のあたりで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさったところという意味があるといわれている。下諏訪神社の前の池(諏訪池)という大きな池には、むかし大津波に乗って川をさかのぼった鯨がこの池に打ち上げられたという伝承があり、この鯨の骨を埋めたという鯨塚があったそうで、そのため、このあたりは鯨骨と呼ばれ小字名にもなっている。赤山は、現在、湘南白百合学園の辺りで、昔、津波が片瀬村を襲ったときに、この山の中へ逃れた村人の一人が赤ん坊を産んだことからこの地名がつけられたという」
http://shonan-fujisawa.jp/newpage4288.html


『利別川の鯨』

この口碑伝説は更科(1955)によって記録された.
「十勝川第一の支流利別川に、フンべポネオマナ
イ(鯨の骨のある川)という川があるが、この川はある
年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき、
鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところである
という。(音更町・細田カタレ姥伝)」
フンべポネオマナイの場所は,明らかに
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf


実は、このクジラの座礁は大地震の予兆として有名だ。昨年2月のニュージーランド大地震前には、同国南島南西沖で107頭のゴンドウクジラが海岸に乗り上 げていたし、日本でも3・11の1週間前に、茨城県鹿嶋市の海岸でカズハゴンドウクジラが約50頭も打ち上げられていた。

琉球大名誉教授の木村政昭氏(地震学)が言う。
「クジラは音に敏感で、超音波を聞いて方向を決めているといわれています。地震の発生前にも音波が出ることから、座礁との因果関係は否定できない。≫


 『新地町史』には次のような話が続けて紹介されている。
 <明地に近いところに小鯨というところがある。これは大津波のとき鯨が寄ったところだという。
 また新地駅の北の作田に八千(はっせん)山という小高い山がある。やはり大津波のときこの山に登って八千人(多勢の意)の人が命を助かったと伝えている。

なお小鯨は、福田小学校から北西に7〜8百メートルの地点。少なくとも舟輪沢まで浸水したとすれば、小鯨まで鯨が流されてきても不思議ではない。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-81.html


泉(原町)の津明神は地名をとって大磯神社とも呼んでいるが昔、大鯨がこの浜に上った時、祭られたという


新地の伝説と原町の泉、鹿島区烏崎の津神社は鯨と関係しているから慶長津浪との関係があるかもしれない、津の宮と津神社は違っている。津の宮となるとき宮が津にあり港を守る神社となり津守と関係している。
だから津の宮となると高台にあるのが多い、高津となると高津の宮となりそこが津を守る神社があった。松川浦には大津があるからそこはやはり船が寄った所なのか
それでその大津を港を守るものとして津の宮神社が建てられた。

烏崎の津神社は鯨を祭り鯨の祭りをしていた
そこに鯨明神という碑と金比羅という碑があった。それは明治時代に建てられた。
鯨と津浪が何か因果関係がある。それでインターネットなどで調べ列挙した。
これくらい集めると鯨と津浪は関係しているとという証拠になる。

烏崎の津神社鯨を祭り鯨の祭りをしていた。
鯨を祭っていた神社だともなる。

烏崎の牛島の津神社は低い場所にあり鯨を祭っているから津浪と関係しているともいえる港ととしてあそこはまだなかった。
烏崎の山際が港だったからである。津浪はめったに来ないので鯨の神となってしまった。
高台にあればもっと古くからあった神社になるからだ。
八竜神社はぎりぎりで津浪からまねがれて残った。
それは別に慶長津浪を体験してあの高さに建てたのではない
古い神社は高台にあり津神社でもツノミヤと読んだりすると湊を守るものとして高台にある。


●津神社は貴船や安波様と合殿になったきが多い


新地町釣師のあんばは、現在津明神と合殿である。もともとあんばさまと呼んでいる所は海の出っ崎の地名あるから安波のお宮はもともとそこにあったらしい。


棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某のこの月この日に海中より出現したという、


豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・


「本邦小祠の研究 岩崎)


津神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内
(北標葉郷)棚塩


今回の津浪で神社のことも話題になった。特に相馬では津神社のことが実は津浪神社のことだと言われてそうなのかと不思議に思った。
でもよくよく調べれば津神社は津浪の神社という証拠は何もない、津浪に由来する神社という言い伝えも文書もないのである。
確かに相馬氏の松川浦の神社はツノミヤとかツノミツ神社と言われる。津神社ではなく
ツノミヤかツノミツ神社と言われる。ツノミツだ津に満つるだから津浪に由来したのもかとなる。ただこれも三代実録に列挙された由緒ある神社とも言われる。
この神社に逃げれば津浪から助かると言う言い伝えがあり実際に逃げて助かった人たちがいた。でもあそこは原釜の低地から高台にありまず低地の原釜は人が住んでいなかったろう。神社は比較的もともと高い所に建てられる傾向がある。
海側は特に高い所に建てられる傾向がありそういう神社は古い。


八竜神社は各地に多くこの辺でも実に多い、それは今回の津浪からまねがれたものが多いそれは古い神社であり慶長津浪の前にも建てられていた。そして数も多い。
それは縄文人の遺跡とも関係しているともあり古いから津浪からまねがれた。
縄文人は縄文海進があり海だった所には住んでいないからだ。

ところが津神社は相馬藩内では多いのだろう。日立の海にもあるが津神社自体は全国的にあったとして散在しているしまれであろう。
なぜ伊達藩内、宮城県には見当たらないのも不思議である。

浪江の棚塩の津神社の謂われはなぜ702年とか大宝の時代なのなのか?
そんなに古い謂われをどうしてもっているのかとなる。
海中から現れたという時津浪と関係しているのか?

津神社は目立たない神社である。貴船神社は結構あり有名であるがそれと合殿になったり安波(あんば)様と一体化したりして津神社の名も消えている。

ただ相馬藩内の海岸に満遍なくあるということはそれなりの意味をもっているのかもしれない。
鹿島の烏崎の牛島をのぞいて比較的高い出鼻にある。原町の北原の津神社は本当に高い所に隠されるようにあった。
この津神社が目立ってあるのは相馬市の松川浦の津神社(ツノミヤ、ツノミツ)である。
それと鹿島の牛島の津神社も隠されるようにはない、港に近くにあった比較的大きな神社だった。

小高の角部内にある津神社は何なのか?これも角宮とあるごとく津神社と関係していたのか?
ここに津神社が祭られて角部となったとしたら慶長津波の時に名付けられたのか
その時地名化していたらここは重要な地域である。
角のように海に出ている所でもあり地形から名付けられたのか
ただ津神社が祭られていることから地名化したとなると慶長津波以後なのか
時代的には特定できない

烏崎の津神社は慶長年間に建てられているから時代的にも慶長津浪を記念したものだろうあとは時代が早かったり遅かったりしているからだ。
慶長年間に建てられ津神社は相馬藩内でも明確にはわからないからだ。

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2014年06月26日

老鶯(原野化した世界から青田の世界へー南相馬市(鹿島)⇒相馬市)


老鶯(原野化した世界から青田の世界へー南相馬市(鹿島)⇒相馬市)

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老鶯や夕べ青田に奥の家


夕鷺やなお田を移り餌漁る


八沢浦の奥、柚木の方は青田になっていた。あの辺に境田とあるのは宇多郷と北郷の境があったためだろう。
柚木は鹿島なのか相馬市なのかわかりにくい、あそこに相馬市の仮設住宅がある。

この辺で経験していることは未だに不思議である。その一つがいつも書いているけど
南相馬市の鹿島までは原発事故で田畑が耕作できないから原野化している。
津浪によっても広大な地域が原野化している。確かに一部は田も畑もはじめたがわずかである。
ただ相馬市にの領域に入ると普通の今までの景色と同じになる。
今は一面の青田になる。だから今は二つの世界を行き来することになる。

一つは原野化された自然の世界でありもう一つは前と同じ日本の田畑がある世界である。
そこで何が起きたのか?
普通の田畑のある世界を見直す結果になった。
原野から普通の田畑のある世界に入ると別な世界に感じるのである。
特に一面の青田の景色は原野の景色とは全然違ったものなのである。


老鶯などというとそれは夏の季語である。夏鶯ともいう。そうした季語は実は長年の日本の田畑のある世界で作られたものである。原野に今の時期、鶯が鳴いていても何かしっくりこないからである。つまり老鶯などとなると老いたともなり人間の感じがでてくるからだ。そして実際に二つの世界を行き来してわかたっことは一面の田のある景色は原始の自然とは違う、人間化した自然である。大地すら人間化した景色としていたのである。


だから鶯でもそうだけど鷺だって夏の季語であり鷺は特に田に必ずいるがそれは人間化した自然であった。もし本当の自然だったら津浪の跡の沼のような所で餌を漁る。
アフリカのような所にいる野生動物は田にいる鷺とかは全然違うのである。
鷺は田があって人間に養われているような感じになる。
だから原野の一面の葦原から一面の青田の世界に入ると何か違うなといつも思うのは
その自然が人間的な空間になっていてほっとするからである。


ともかくこの辺の状況は未だに変わっていない、まずこの原野化した風景が元の一面の田になったとき元の状態にもどったことになる。
でも津浪のあとはもう田にもどらないとすると別な景色になる。
そこがソーラーパネルとかになると嫌である。一部はなっている。
それは自然のエネルギーとしても自然の景観を破壊するから嫌なのである。

老鶯が鳴いて青田があり奥にまだ知らない家が隠れるようにあった。田舎ではそういう家が多いのである。だから住居としては贅沢である。


いづれにしろ警戒区域では人は住んでいない、また故郷から離れて住む人はどういう心境になるのか、このことも想像して書いてきた。
故郷とか家は土地でも普通にあるものだがら意識したりしないのである。
それが故郷から先祖代々いた家から離れて例えば東京とか大都会に住んだら相当な違和感がある。ただそこで故郷は何だったのだろうとか家はなんだったのだうかと今まで考えないことを考えることになる。
この辺では今まで普通にあった当たり前のことを考えざるをえなくなったのである。
だから自分のプログもこうして書くことが多くなるのだ。
普通の世界にいたら当たり前でありそこが新鮮の感覚にはならないから書くことも少ないいつもと変わりないとなると新鮮なものがないからである。
だから人は旅したくなるのである。

北海道には原野があるからこれはいながらにして北海道だなと見ていたりする。

鷺でも夕べ青田を移ってきて餌漁っているのは原野ではない、田は人間によって作られた景色である。その田ごとに鷺が飛んできて餌を漁るのは人間に飼われているようにも見えたのである。
鴎だったらそういうふうには全く見えない、その餌は全く変わりない人間化していない自然から得ているからだ。
海というのはもともと人間化できない所だった。ただ入江となると何かほっとする。
その入江が埋め立てられて田になったとき、その風景は八沢浦のようになくなった。
八沢浦は今は一面の葦原になってしまった。茫々たる原野になってしまった。


この辺の変化は津浪だけではない、原発事故からもたらされたのである。津浪の被害地だけが原野化していればそれほどではないが全部が原野化しているから相馬市とは全く違った世界となってしまっているのである。

海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来? (元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)


南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来?


(元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)

●神社でも津浪のことは伝えられている(相馬市の諏訪神社の謎)


いわき市泉町にある諏訪神社は平安時代にその由来を持つ神社である。

天文年中(1532ー1554)に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。現本殿は寛永八年に泉藩の藩主本多忠籌公により建てられ。諏訪跡宮、若木神社、秋葉神社、判官社、金刀比羅神社、足尾神社も境内末社として祀っている。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍


諏訪神社もたいがいは古い神社である。この神社も多い。相馬市の諏訪神社は樹齢500年の姥杉とかあるからいかにも木立に囲まれて古い感じがする。


大津波があったとき、このイチョウのてっぺんさ、舟をつないだんだと> (岩本氏が幼少の頃、祖父の義妹から聞いた話)
また、次のような郷土史研究もある。
<大昔大津浪があつた時、その(境内の杉の大木)いただきに舟をつないだ


あんなに海から離れた所にそんな伝説があるのか謎である。あそこだけは離れすぎているからだ。岩沼の千貫松は津浪が来るとリアルにイメージできる距離である。
相馬市の諏訪神社は想像もできない、ただ神社は遷座することがあるから海近くにあっても遷座すれば磐城の諏訪神社のように不思議ではない。
新地の地蔵森の伝説にしても離れすぎているのが謎なのである。


太東崎先に運気が立ち上り、漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。

漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。
漁師は驚きあわて、奇像を抱いて住職に届けたところ、住職は一目見てそれが飯縄不動尊だと悟りました。

つまり飯縄寺の前身・万蔵寺と無動院飯縄寺は別の場所にありました。これが一つの敷地で同居するようになったのは元禄の大津波だという話があります。
『岬町文化史年表』によれば、―――飯縄寺は往古、大東岬の上にあったが、この津浪の害を受けて、現在地に移築した。―――
http://pub.ne.jp/kayusou/?entry_id=3981694


●残された津浪の俳句と南海老村の伝説の共通性


まがきまで津浪の水にくづれ行  荷兮

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり (芭蕉)


爰は津浪に一郷一群の荒たるさまを附て、前句の米を禁裡よりの御救ひ米と執なしたるなり

http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2008/03/index.html


荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまった」。その芭蕉の短句(ウ十)の句意は、「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」というのである。荷兮の津波の句も面白いが、芭蕉の付句はその荷兮の句以上に何ともいえない味わいを有している。それは、後の川柳の原型の一つともいえる、「俳諧武玉川」(初篇)の「津波の町の揃う命日」をも彷彿させる。これらの芭蕉の句に接すると、芭蕉が名古屋連衆に驚きを持って接した

山本荷兮(慶安元年(一六四八)〜享保元年(一七一六))
http://yahantei.blogspot.jp/

この津浪を俳句にしたのは貴重である。これも一つの記録である。古くなるとそれは文学的価値より歴史的価値が高くなる。末の松山でもそうである。まさに「波こさじ」という距離にあったことが証明されたから全国から注目された。
津浪は四百年五百年に一回とかなるとなかなか経験しない人は理解できないものとなる。でもこれだけの被害なのだから何かしら人々の心に残り伝えられてゆくのが普通である。
だから南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説は津浪を語っているのではないかと考察した。


藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


青い光を発す・・とか垣の如きもの路に横たわる・・荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまったとあるのと同じである。
これは津浪を見ているからこの表現があったとも見れるのである。

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり

「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」
これもまた不思議なの句である。スマトラ津浪でも地元の人は魚が人を食ったので当分魚を食わなかったというのもわかる。それだけの人間が死んだからである。
その死んだ人間を食った魚を食えないというのも心情的にわかる。
魚はいつも人間に食われていたが津浪では魚に食われるはめになったのである。
仏像が海中から青い光を放ち現れたのを祭った由来を語るものが結構多い。津浪ではそういうことがある。
貴重な仏像でも石碑でも神社の神体も鳥居もみんな流されてしまったからだ。


●八沢浦近くの柚木に残された津浪の伝承

八沢浦の柚木(ゆぬき)には津浪の伝承が残っている。

ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>ということからこう呼ばれるという

これは南海老村に近いし民間に伝承されたということで貴重である。そこは八沢浦から少し上った所でも近い、慶長津浪の時は八沢浦は今回の津浪でわかったように柚木の蓬田まで来ていた。だからすでに今回の津浪でわかったようにそこまでが八沢浦だとしたら
もっと奥まで津浪は来たはずである。
八沢浦は今回の津浪の来た所まで八沢浦で海になっていたからだ。
だから近すぎると思った。
地蔵森とか諏訪神社とかは遠いのである。そういう近い所に津浪の伝承が残っている。
小伝承が相馬藩では一番なにか慶長津浪の切迫感を残している。

あとは相馬藩政記では一行七百人溺死としか記されていないのである。

この伝承の謎は当時の八沢浦からしたら近い、すぐ近くである。
普通津浪の伝承は遠い地点に津浪の達した地点に残りやすい。
なぜこんな近くに津浪の伝承が残ったのかというのも問題になる。

ただ八沢浦は海のすぐ近くでも前に山があって意外と被害が少なかった場所があった。
そこでは裏山がありすぐ近くで津浪が来たのを見て必死に逃げて助かった人がいた。
だから「急ぎ坂」という伝承が残ることは納得できるのだ。
津浪の恐怖の余り「津浪がおさまってくれ」と念仏を唱えるのも理解できる。
だからこの伝承には信憑性がある。

相馬藩では他にこうした民間の人が伝えるものがほとんどないのでそれは何故なのかと探求してきた。

磐城の神社でも津浪の被害があり移ったとかの伝承がある。神社にもそういう津浪に関する伝承も残っていない。そういうなかでこれだけが残っていることも不思議である。

まだまだ津浪のことは民俗学でも伝説でも探求されなかった。岩崎氏の「本邦小祠の研究」でも一言も津浪のことを記されていないし今回の口碑でも知っていた人が相馬藩でどれくらいいたのかともなる。他にもあったが伝えられず忘れ去られたのかもしれない。
だからそもそもこの伝承が良く伝えられていたとなる。
でも相馬では四百年も津浪が来ないのだから注目している人はいなかった。

ただ科学者が貞観津浪の砂を松川浦からずっと奥でボーリング調査で発掘したということがあって報告された。それからフクシマの原発でもそのことを報告して危険を訴えたがとりあわなかった。
自分も科学的実証があったのだから注目したのであり津浪のことについては無関心だったのである。

ともかくインターネットはキーワードから調べられるから家にいてもある程度できる。
ただもっと深く調べるにはインターネットだけでは無理だろう。
図書館はまず調べるのがめんどうであり時間がかかりすぎるのである。
だから自分は介護やらで五年間くらい行っていない、コピーするもの手間だし時間が何でもかかりすぎるのである。

posted by 老鶯 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月27日

南相馬市の介護医療の限界ー待機者500人 (建物を作っても人手が集まらない、もう他の地域やボランティアを頼るのも無理)


 南相馬市の介護医療の限界ー待機者500人

(建物を作っても人手が集まらない、もう他の地域やボランティアを頼るのも無理)

●他の地域に応援を頼んでも限界がある


南相馬福祉会が運営する特別養護老人ホーム福寿園(南相馬市原町区)。待機者数は、同市小高区の同ホーム「梅の香」が再開の見通しが立っていないことなどを背景に、震災前の2倍の約500人にまで膨らんでいる。
  県老人福祉施設協議会が相双地方にある9つの特別養護老人ホームの入所待機者数を調査したところ、今月5日現在、合計2208人に上っている。介護職員の不足で需要に対応しきれていないのが現状だという。

南相馬市原町区の介護老人保健施設ヨッシーランドは、大震災の津波被害で入所者や職員合わせ36人が犠牲になり、1人が行方不明になった。
  施設を運営する慈誠会は、津波による被害で2度と犠牲者を出さないため、新たに8キロほど内陸の山林に施設を造る計画を進めている。だが、開発申請の許可などに時間がかかり、事業再開予定は当初の平成27年度から、28年度にずれ込む見通しとなっている。
  担当者は「28年度再開という目標でさえ、一番肝心な職員の確保に見通しが立てばの話だが」と付け加えた

福島民報社

6月24日 2:07 ・
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=785883351442461&id=187705544593581


南相馬市の鹿島区に三階建ての厚寿園ができたけどそこで働いている介護士は地元の人ではない、福島県内でも会津とか塙とかいろんな地域から来ている。岩手県からも来ているという。立派な建物を建てても中で働く人がいないのである。
この辺は人手不足が深刻である。どこでも人手不足で募集しても人が来ないのである。
だからもう介護とかは特にもう建物や制度や国に頼っても限界に来ている。
介護を国で制度化して介護保険制度をもうけたけどもう高齢化社会で介護者が増えてゆくし限界に来ている。もうそうした立派な建物を作っても中で働く肝心の人がいないのだから致命的である。
ショートスティで利用したが中はホテルのようになっていて個室だっからトイレもあるしこれは病院と違っていいなと思った。

その建物は厚寿園は立派でも働く人がいないのだから建物も活きてこないのである。
介護の人手不足は全国で深刻でありもう介護自体人手不足で成り立たないしまた人手が集まらなくて会社自体が倒産するところもでてくる。
それは建築関係だけではない、どこでも専門的なスキルを要するところは人手が集まらないのである。

介護士は専門的だというが医者や看護師とは違い別に家でもできる。もともとは家族で介護はしていた。介護施設などなかったのである。だから介護士という職業は専門的なものとしてスキルあるものとてし見られないから社会的地位も低く給料も安いのである。
介護は家族労働の延長としてやっていたのでありそんな看護師とかの専門性は必要ないものだった。それが制度化して施設を作りして入れるとなるとコストがかかりすぎる。
だからもう施設でまかなえきれないとなり在宅介護にシフトしてきた。
しかし今の家族は大家族でないし家族で見れないということで施設が頼りになるようになった。しかしそれもできないからまた在宅でしてくれとなった。

その在宅で介護できる余力のある家庭はまれなのである。
介護の負担は認知症でもしてきたし大変な負担になる。もうつききりになり外出すらままにならないことが負担なのである。
楽な方でも完全に束縛状態になるから辛いのである。

それで様々なことが孫まで介護させられて犠牲にされるとか仕事している人がやめて犠牲になるとか介護地獄で家庭が崩壊さえしてゆく。
老人の介護で家庭や社会が負担に耐えきれずそのために衰亡してゆくというのも異常なことである。
老人過剰、病人過剰、介護者過剰で社会自体が衰亡してゆくなどありえなかったろう。
老人や病人や障害者や介護者のためにある社会、福祉社会というのも異常な社会である。もちろん強者だけが生きていける社会も進歩した社会ではなかった。
戦争に負ければみな殺しにされたのが奴隷として生かされることは進歩だった。
ただ弱者のための社会など存在しなかったろう。
そんなことをしていたら国も滅びるし社会自体が成り立たないからである。


●国や行政頼みはもう限界


南相馬市とか津浪や原発事故周辺で変なのはボランティアが働いてボランティアにやらせて地元の人は遊んでいる、パチンコだ競馬とか補償金をもらって遊んでいる。
それで地元の人と外部の人が喧嘩したということもあった。
それも当然だろう、ボランティアにやらせて被災者様は遊んでいるというのも変だった。今でも建築工事関係者で働いているのはほとんど外部の人たちである。
地元でそれだけまかなう人手はないからだ。
最近ボランティアが泊まる所がない、閉鎖されたからもうボランティアは来ないという。それももうそういう時期に入ってきている。
ボランティアはもう必要ない、地元の人が働くべきなのである。
それも小高とか仮設に入っている人は金があるから働かない、それは今もつづいている。でもそういう時期は過ぎている。
ぶらぶらしているのも健康に悪いとか言われるから介護で働かせるようにするのもいいとか意見があった。それもそうである、介護は医者とか看護師とは違うからできる。

そもそももう介護自体が介護者が増えて限界にきている。だから年金制度と同じく介護制度自体が破綻しつつあるのだ。そういうものはもともと無理だったということもあった。


この病人と何のかかわりもない地方公共団体が医療制度というものをこしらえて病人とその家族に幻想をもたせるのはおせっかいである。
この病人と面識あるものは国や地方公共団体にまかせて援助の手を引いてしまう。
これは人間のつきあいを薄れさせる。

介護保険制度はもう限界でしょうね。
 
ばっくれる事業所があったり、途中で投げ出された利用者は大迷惑!
第三者評価とか情報開示なんかで質は計れない。当てにならんわ!
おかげで、この忙しいのにヘルパーで入ることに。
介護保険は廃止してしまえば。


情報開示なんて全くの無意味。
単なる天下りの就職先確保のための制度。
しかも、強制なのに超高額。
しかも、超高額なのに資料はほとんどこちらで揃える。
もうわけがわかりませんね。
われわれは食い扶持をなくすことにはなりますが、本当に一度廃止になったほうが長い目で見たらみんなのためなのかも知れません。


時論公論  「揺らぐ介護保険制度」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/67283.html


こうした介護の制度化などは国でする、官僚が管理する、そこに膨大な金が蓄積される。年金でもそうであり莫大な金が役所で管理する、その金を管理することで官僚に金が回ってくる。得するのは官僚だけだともなる。
事務処理だけでも膨大な手間であり金がかかるということである。
役所はすべて事務処理のためにありそのための手間賃をもらうのが公務員だとなる。

すべて役所頼り制度に頼っていてあらゆる問題が解決できるのかとなる。
年金問題でも介護でも医療でもすべて役所まかせになったとき、その巨額の金が役人に回り勝手に使われ破綻するということもある。
国で保証するといってもすべて国でできるものではない、だから国ではどう考えるかと言えば税金をあげる、消費税をあげる、何も役人の腹を議員の腹は痛まないのである。
税金の膨大な無駄は直接自分が腹を痛めないからである。
他人の金は人は無関心である。相手が億の金を盗まれようが無関心である。
あそこにはあんなに金があったのかとくらいしかない、しかし人間は自分の金だったら百円でも盗まれたり失うと痛みを感じるのである。
百億円の金でも他人の金だとどこかに消えても無関心になる。


●「金で解決しろ」「福祉に頼め」では解決できない


これは自分も嫌というほど経験した。
自分が苦しんでいる時、今は隣近所は関係ない
必ず「福祉に頼みなさい」というだけである。行政に頼みなさいというだけである。
しかし逆にその人がそういうならその人が困った時もやはり「福祉に頼みなさい」と名だけである。
さらに現代は極端化するとどうなるのか、それを自分は嫌というほど介護や自分が病気になって経験した。
母が倒れた時、遠い親戚だけど
「おばちゃんは金があるんだから金でみてもらいなさい」
血相変えてどなりちらして去って行った。これも異常なことだ自分には何かこの七年間は一身上でも異常なことの連続だったのである。犯罪にもあいこの世の非情を一身に受けた。それは外部的にも津浪やら原発事故と異常だった。異常な世界を地獄の世界を生きてきたのである。

でもこのことは実際は現代を極端化したのもとして自分の身にふりかかってきたのである
ではこれが自分だけのことかというと社会全体がそういう社会になっているということはみんな気づいていたし金しか頼ることができないということはすでに小さい時からそう親からも言われてきたし親もそうして生きてきたのである。
だから結局この辺で原発事故が起きたのも地元の人たちにも責任がある。
金の社会になった時金をもらえれば原発でもなんでも積極的に誘致すべきだとなってしまっていたからである。
それぞさが地元でもいかに欲深いものとなっていたか、ここだけではない、全国でもサラ金などから借りている人が八人に一人もいるということでもわかる。
借金している人が実に多い社会なのである。
ある人は会社経営して成功を装っていたがやはりかなりの金を裏の金融から借りていたのである。
その人に今度は病気なのに金の要求されたからひどかった。
そういう苦しみの連続だったけどそれは今の社会が実はそうでありみんなそうした社会で苦しんでいるのが実情だったのである。


この辺では小高などが補償金をたんまりもらっているからと鹿島の人から非難される。
これも今の社会を象徴している問題である。原発作る時も金であり事故後も金でもめている。絆など実際はなくなっていたのである。
だから浪江でも小高よりもらっているから会社経営している人が仕事をくれと頼んでも
「あんたちはたんまり金もらっているだろう」と言われて相手にされないとかなる。
つまり自分が「おばちゃんは金をもっているんだから金でめんどうみてもらへ」と言われたのと同じである。極端にしろ一身上でも回りでも極端な現象としてこの辺では現代の問題が露骨に現れる場所となっているのだ。

だから小高の人が補償金をたんまりもらっているというとき
「あんたたちは補償金をたんまりもらっているんだから、金にめんどうみてもらい、金で解決しろ」となってしまう。

それが極端にしろ現代の社会がここでは自分の一身上でも起きたのでありそれは自分だけではない、みんなに起きてくる社会的要因があったのである。

つまり「福祉に頼め」「金でめんどうみてもらい」が現代の社会である。
何か頼んでもその本人はそういうだけでありみんなそうなってしまうのである。
だからいくら立派な建物でも制度を作っても仏作って魂入らずのように社会の問題は解決しない、巨大な仏像が救ってくれるわけでもいない、建物が救ってくれるわけでもない、そこにいる人が救わないとしたら助けないとしたら根本的に助けられない。
金でめんどうみてもらへと言っても金があっても人手が集まらないとかなっていることでもわかる。

すべては金では解決できない、こんな社会になったから津浪でも原発事故でも起きたのだと最近は思っている。
こんな社会がつづけば最後は人類の滅亡でありその日は近いのかもしれない
そのことが自分の一身上にも起こり回りにも起こったのである。

つまり社会そのものの転換点にきている。それがこの辺は津浪や原発事故で極端なものとして現れたのである。
それは大きな社会の変革を要求されている。でも部分的には介護が限界にきているということなら現実そうだしわかりやすい例として現実化しているのである。
国とか自治体とかでいくら介護制度や介護士でやろうとしてもできない、限界がきているそれは年金制度もそうだけど破綻しつつある。制度そのものが破綻しているのである。
そうなると個々人で自営手段をとるほかないし助け合えるものは助け合って生きろとなる制度とか自治体ですべてまかなえきれないからである。