2014年06月13日

原発避難者は老人だけ帰っても住めない (茨城県の息子の所に行くという人)

 

原発避難者は老人だけ帰っても住めない

(茨城県の息子の所に行くという人)

仮設に住む小高の人はまだ64くらいだけど脳梗塞をして足が不自由とかで手伝いさんを頼んだ。車の運転はできるという。何もできない状態ではない。
だから週二回くらい簡単な家事をしてもらいばいいとなる。
息子は茨城県にいておくさんも息子の所にいる。
将来は息子の所に行くという。
おくさんもいるし体もそういう状態ではそうなる。

これは一つの例だけど原発避難民は結局小高すら帰れる状態にインフラも回復しても帰らない人が多くなるのではないか?
なぜなら体が弱るとどうしても支える人が必要でありその息子や娘に頼らざるを得なくなる
近くの人も一人で暮らしていたが買い物などを頼んでいたができなくなり
息子のいるイワキの施設に入った。
施設でもどこでもいいとはならない、やはり息子や娘のいる近くがいいのであ。


その人は家も小高にあっても住まない、その家は空家になる。
小高でも警戒区域が解除しても帰る人は少ないだろう。
農業だって老人ばかりになってやりたくない人が50パーセント近くになっているのだ。
高齢化というのが津波や原発事故被害地域に大きな影響がある。
もともと跡継ぎがいなくて困っていたのである。
その跡継ぎの子供が避難区域や津波の被害地域から去ってゆくと
残されるのはこうした病気もちの老人だけになってしまう。
そういう人たちがどうして町を維持できるのだろうかとなる
ただ世話されるだけの人がいて世話する人がいなくなるからだ
そんなところに老人すら帰らないだろう。

だから小高でも帰るのに帰らない、ましてや浪江とか双葉とか飯館はは余計もあきらめている
将来をになうものがいないということはそれだけ深刻だった

要するにもっと補償金をもらって他で生活することに傾き計画する
避難区域にはもう帰らないが補償金だけは多くもらいたいという考えになってゆく
老人はいくら帰りたい、先祖代々住んでいた場所に住みたいと思っても
老人だけでは病気もちなどが多い老人だけの町など成り立たないだろう。
やはり最後は子供が頼りで出て行ってしまうだろう。


津波被害地域でも原発事故被害地域でも


ここでどんなことがあっても生きてゆくんだ


何かそうした強い動機が働かないのである。

不思議なのは相馬藩内に飢饉の時に越中から移民してきた人たちは強い意志があった
それはここで生きなければ死ぬ他なかったからそうなったのである。

今回はそんなことはない、別にどこでも生きていけるし他に移った方が楽である
するとそんな強い意志は働かないから故郷といっても帰らない

例えは浪江の津島辺りでも貧しくても開墾して開いた村だから団結が強いと報道があった。それは貧しくても苦労をともにしたという経験があり村人の結びつきが強かった。
でも一旦原発事故でばらばらになればもうそんな強い意志とか団結はない
一億円の補償金をもらって他に移り住んだが方がいいとなる

だから人間は金があると裕福になるとかえって団結がなくなる
ともに苦労したという時団結が生れる。
困窮した時団結が生れる、危機の時も団結しないと乗り越えられない
家族でもそうであり必ず病気なったり困窮するときがあり
その時、協力するから家族なのである
それがない家族は例え血縁でも弱く崩壊しやすい


要するに現代が広域社会であり金があればどこでも生活できるとなると
故郷がどうだこうだというまえにそのつながりも希薄であり
こういう危機の時は容易に解体しやすい要素をもっていたともなる
大内村でも郡山市の方が便利で帰りたくないとなっている
補償金をもらって暮らしたいとまでなる
何か故郷でも留めるものが希薄である
家族いればまた別だけど家族すらばらばらになってしまったからである
そうしたら故郷に留めるものは何かとなる。


自分の場合はそもそも都会が不向きだからいる。
混雑したところもいやだしそういう性格的な面がある
田舎は人間はいやでも自分は都会向きではない
この辺の自然環境は気候的にもいいし
地形にしてもかなり海あり山あり変化に富んでいる。
だから詩のテーマにしてきた。
芸術はそもそも田舎でしか生れない
自然が芸術の基としたら大都会にはないからである。
ただそれだけでは引き留める動機とはならない
家族がばらばらになったのが致命的だったかもしれない。


いづれにしろ広域社会であり金の社会になったとき
そもそもその土地に土着するというのが希薄になっていた。
田舎でもほとんど会社につとめているのあり専業農家はまれである。
そういうところではもう土地自体が生活の糧ではない
会社が移動すれば家族も移動する
そういう社会状況の変化が津波や原発事故で最後のとどめをさしたとまでなる
つまりもう津波の被害地域や原発事故の避難区域は元にはもどらない
老人だけ帰るといっても誰も世話する人がいなければ帰れない
そこではうば捨て山になり死ぬ覚悟が必要になる
それより息子娘のいる所に行くとなり町は復興しないだろう。
「絆」と盛んに言われたけどその絆がもともと希薄になっていたから
津波や原発事故で容易に解体してしまったともなる

 
 
posted by 老鶯 at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月14日

慶長津波で相馬藩の湊が喪失した (小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


慶長津波で相馬藩の湊が喪失した

(小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


小高ら中村へー戦国武将相馬義胤の転換点
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

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●中世は思ったより船運が盛んであり大きな湊が各地にあった

慶長津波のことがなぜ一行しか記されなかったのかということを探求するには
慶長津波の前後の相馬藩内の政治情勢とかどういう暮らしをしていたのかということを知らねばならない。
その時代は戦国末期であり秀吉や家康と相馬藩はかかわり四苦八苦していた。
相馬藩の領土すら安堵されていないし領地を失う危機も経験している。
相馬氏は相馬藩内を統一支配する状態にはなかった。
だから中世以来在地の館をもった有力氏族が力をもっていた。
その筆頭になるのが岡田氏であり中村城では別個に岡田館をもったことでもわかる。


小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」


その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。
そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

磯部もすでに大きな湊があり船の出入りがあった。八沢浦にも七荷というから七つの種類の荷を運んだのだからすでに中世にそうした湊があり海老村とも関係していた。
八沢村はなく海老村の領域になっていたからだ。

それで善次という大工が津波の被害にあった地域に住んでいて中村の天守造営の時、怪異があったというのは何か津波を示唆しているかもしれない、中村城移転の時、天守造営が行われたからである。
つまり在地の寺社や館をもっていた中世の領主がいてそのおかかえの大工だった。
その領主は中村城への移転に反対していたのである。
相馬氏の支配に入ることを拒否するものがあった。
その天守造営のとき、津波が起きた、ただ津波からしばらくたったにしてもそういう記憶が残っていた。
いづれにしろ海老村の輪蔵館などの寺社勢力があってその配下の大工の善次はその間にあって苦しんで呪われ死んだのである。
そういう権力争いの犠牲者は常に世界でも起きている。
最近ではウクライナであり二つの国に分裂するのは背後の大きな勢力によって分断されるのである。
  
宇多の湊も岩切と同じである。海に通じて川があり川さかのぼってそこに市が開けた。
河原は市になりやすい,また河原宿というとき野宿する場として適地だったのである。
自分も自転車で旅してテントで良く河原に泊まったから河原は泊まるのにいい場所なのである。当時はもっと堤防もなく河原は広かったからだ。

村上城から牛越城から中村城へ移転するときは同時に相馬藩内も激動の時代だった。
その時に慶長地震津波が起きたのである。

牛越城も新田川から舟を利用して河口の古代の泉かんが跡がある所に出るから湊があったもともと桜井に古墳すら川と海が交わる所あり何らかすでに交通の要所としてあった。

古代に泉官衙であった泉廃寺跡に物を運ぶために運河を作っていたことでもわかる。
「大磯の湊」というのもあったということは古代から延長として利用されていた。
それほど川の交通が重視されていた時代なのである。
交通の要所をにぎるものが権力をもつというのは世界的にもそうである。

その湊を管轄して支配していたのが岡田氏であり泉氏などの有力氏族であった。
それらの在地の豪族を牽制するために牛越城が作られた。その位置は確かにそうした背景を物語っている。


●網野史観の忘れられた海民が津波で大勢死んだ


前にも書いたけど海の視点から歴史を見ることが資料などが残らないで見えないのであるそのことが大きな歴史の欠落を生み誤解が生れる。
それを覆したのが網野史学であった。



漁業をやれば必ず魚を売らねばならぬ、これは塩の場合も同様で漁業や塩業をやれば必ず商業と廻船がそれに結びついてくる。


明和7年(1498)の大地震と大津波は伊勢から関東にいたる海辺の湊に大きな被害を与え、一時的に太平洋水運に破壊的な影響を与えたと推定される。


「漁村には資料が少ない」という声をこれまでしばしば見にした。
確かに漁村には火事、津波などの天災が多くそのようなこともあろう。
紀州熊野十八浦の連合によって形成された「岬会合」の二百冊近い貴重な日記類は
1945年の南海大地震の津波のために流出したという
密集した家並みの一軒に火事がおこるとあっというまに燃え広がるのも漁村に大いにありうる。


由利千軒、草戸千軒・・・何々千軒と言われる所はかつて栄えた町があって現在では消え去った時につけられる名称です

由利島は、「由利千軒」の伝承をもち、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地名が残り、矢立明神、儀光寺、毘沙門天などの寺社のあった港町のある島ではなかったかと思われる。こうした「――千軒」の伝承は列島各地に伝わっており、「草戸千軒」の場合のように、発掘によって埋もれた都市の存在が実証されているので、今後、さらにそうした事例は増えると思われるが、(以下略)(網野善彦「残された課題」)


山野河海等は元々“無主”の地としての特性を持ち、そこを生業の場とする非農業民は農地を占有する農業民と利害が対立します



つまり検地すことにより石高がわかりその土地の生産高が決められていたがその範疇に入らない人々がいた。百姓と農人は明確に別れていたのであり百姓とは百の仕事をもつ人たちだったというのもそのことを物語っている。多様な仕事をしていた人たちである。
田畑ばかりを作っているのではない、松川浦の和田の人は牡蠣をとったり鰻をとったり
田畑も作り馬も飼っている。海ではそうした多様なものが成り立つ環境があった。
そして船が出入りするから湊になり物資が運ばれて都市機能をもつようになる。
都市はギリシャでもそうだが海運と関係して貿易によって栄い都市化してそれはポリスとなり国家に成長した。


ただそういう海と関係した歴史は資料が残りにくいから見逃され忘れられ今になるとどんな暮らしをしていたかも海側がわからなくなったのである。
そして津波によってそうした湊が壊滅状態になり丸ごと失われたことがあった。
それが相馬藩内でも起きたのだ。その時そうした湊を支配していた岡田氏とか泉氏は大打撃を受けた。
しかしそのことがかえって相馬氏の支配を強化できて中村城への移転で中央集権体制の相馬藩が作られたのである。中世の相馬藩内の館が38もあった時代から一つの城へとまとまる政治体制が中村城移転で完成したのである。

ここで慶長津波がそうした激動の相馬藩にどう影響したのか?
それは岡田氏とか泉氏とか湊をもち力をもっていた氏族の力がそがれた。
湊は壊滅して喪失した。その後そうした湊は再建されずわすれられていった。

ではなぜ相馬藩では一行700人溺死としか記されなかったのか?
単なる漁労民とかではない、湊機能がありそこは都市機能さへもっていたとなると
その被害は甚大であり何かしらもっと記されてもいいはずである。
岡田氏や泉氏でもまた磯部館もあったのだから何らか伝えるものがあってもいいはずだがなかった。

そのことは当時の政治の情勢と深く関係していたのである。
相馬氏にとって慶長津波はかえって中村城へ移転して支配を完成する好機となった。
村上でも牛越でも何か反抗があり牛越では領地を失う危機にさらされていたのである。
それは岡田氏や泉氏の反抗があった。
その時慶長津波がきてその力をもった湊が壊滅したのだから反抗するところではなかっただから中村城への移転が慶長津波の後に本格的に決行されたのである。


●慶長津波によって戦わずして在地の勢力を統合できて中村城が作られた


結局慶長津波によって相馬藩は各地を在地の勢力を一つに統一できたとまでなる。
だからこそ復興のために支援するとかそんなことを一切記さない
復興などする必要がなかった。湊を復興したらまた岡田氏や泉氏が力をもち相馬氏に統一することがむずかしくなるからだ。
戦国時代そうして敵対するものの権力をそぐことが常に行われていた。
それは現代の感覚ではわからない、それが戦国時代だったのである。

だから岡田氏や泉氏がいくら慶長津波で大被害を受けたことを訴えてもとりあわなかった。ただ一行700人溺死とそっけなく記すだけだったのである。
また津波の被害のことを語るのは禁止されたということもある。
その時の政治の最優先課題は相馬藩の領地を安堵することであり相馬藩を統一することであった。
もし岡田氏や泉市のために復興のために力を注いだら岡田氏や泉氏を利するだけであり
相馬氏にとっては危険になる。

ただそういう権力構造の中で湊で働いていた人たちは犠牲になり忘れられていった。

それで海老村の九九部が津波の犠牲者を供養したのだが善次という大工が中村城へ移転した天守を造営のためにかりだされた。
海老村には輪蔵館という館もあったのだからそれは寺社系統であり海老村も津波の被害にあったから大工はその津波の被害の方で仕事をすることも強いられていたがどうしても主君の命令に従わねばならないと無理をしたが呪われて死んだのである。

慶長津波のことが記されなかったのは相馬藩内での権力闘争があり岡田氏や泉氏の台頭を相馬氏が恐れた。それで津波の犠牲者のことは語られなかった。

それでも今度は逆に漁労民だけではない、湊がっあってそこに働く人が死んだならやはりその数が多いから何かしら伝えられてもいいとなる。
そのことは他でも・・千軒とか多賀城辺りでもそういうことが津波で起こった。
だから相馬藩だけではない゛千軒が一瞬にして消滅して消えて語られなくなってしまうことが歴史にはある。草戸千軒などは最近の発掘調査でわかったのだからポンペイと同じだった。一瞬にしても千軒が消失して記憶か消える。
それは津波の跡を見ればわかる、土台しか残らず一軒の家もなくなる。
そこに村や町があったことも全くわからなくなる。

相馬藩は特殊な事情としてその時内部で権力争いがありそれが津波のために犠牲になったこ人たちのことが無視された。相馬氏は中村城に移転して相馬氏の支配が確立したのである。

もし相馬氏の支配が確立していたら復興事業もありえた。それができなかったのは相馬氏主導の体制がまだできていなかったからである。
だから伊達政宗はすでに強力なリーダーシップをもったのはそれだけ伊達藩をまとめる力をもっていたからなのだ。
第一スペインまで視野に入れて船まで自前で建造した。瑞巌寺は見張り塔もあり武士の城であり寺だった。海に面した城でもあった。
そういう大きな船を作れるということはそれだけの船の海運の進歩がすでにあったのである。

ただ相馬藩内は津波でそうした湊機能が壊滅した。それが語り伝えられなかったのは例えば石碑一つ建てるにしても金がかかる。今より金がかかるからできない、そんなことより大阪の陣への出兵、江戸城普請に力を注ぐことが領地を安堵することだから腐心していたのである。

歴史は権力争いで犠牲になるという時、それは民同士が戦うというより権力者が己が権力を死守ふるために戦う、民衆はどっちについても暮らしは同じだとなる。
だから明治維新後、会津でもヤーヤー一揆が民衆から起きた。会津の城で白虎隊が討ち死にするが民衆にとって城は命かけてまもるものではない、領主が変わるだけであり民衆の暮らしは変わらないからである。

相馬藩では権力争いで津波による犠牲者は無視された。では支配下においていた岡田氏や泉氏などはなぜ記録を残さなかったのか、被害にあった人たちは語り伝えなかったのか?
結局語り伝えるにもそれだけの力が必要でありその力がなかったともなる。
文字として記すにも民衆は文字を知らないとできないし語り伝えるにしても相馬氏が支配するとそれを訴えることになるから禁止されたとかなる。
相馬藩の場合そういう特殊な事情で慶長津波の被害のことが記されて語りつづけることができなかった。
ただ他にも全く何も語られることもなく消失した千軒というのがあるのだから以前として謎は残る。


会津のヤーヤー一揆
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/96.html

posted by 老鶯 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月15日

一九七〇年代からふりかえる (高度成長時代から日本は物質欲が減退して文化の時代に)


一九七〇年代からふりかえる

(高度成長時代から日本は物質欲が減退して文化の時代に)

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●団塊の世代の大学生活

案外忘れられてるけど卓上電卓がオフィスに普及したのも最近なんだよね。
70年代からじゃない? つまり団塊が社会人デビューしたころは算盤上等なわけで
電卓はあっても値が張るわけで、まだまだ算盤やら手計算がメジャーなわけだ。
いわんや簿記なんか分厚い帳簿を引っ張り出さなきゃいけない。
 経理だろうと人件費計算だろうと大量に人間がいたわけだ。

書類がコンピューターでデジタル化した。だから相当書類が減った。書類の整理だけで大変な労力がこれまではあった。そういう所が省力化すると人手がいらなくなる。
本や情報もデジタル化すると効率がいい、ただ本なんかはやはり本としての良さがあり
なくならないだろう。ただコストがかかるということで衰退してゆく。

今や自分は忙しくて図書館などで調べられない、図書館は何か調べ物するには効率が悪いし時間がかかりすぎるのである。
町とかに図書館があっても小さすぎて役にたたないのである。
インターネット化すると郷土史の研究が全国的ネットで結ばれるメリットがあった。
郷土史研究はマイナーであり本で調べるのがむずかしい分野である。
大学で論文を出していたのでそれを読んで参考にした。
一般の人が大学と結ばれるのもインターネットではできる。
今までは情報にアクセスするには壁があった。
大学には一般の人は入ることはできなかった。
ただまだまだ情報や論文を公開している大学は少ない。


それにしてもずいぶん時間がすぎてしまった。遠い昔になってしまった。
団塊の世代も歴史的に語られる存在になっているのだ。
高度成長時代を作ったのが団塊の世代である。
大学時代に車に乗っている人がいたがあの時車は贅沢であり車もっている男性は格好いいと女性から見られていたのかもしれない。
車はそんなにみんながまだもてるものではなかったろう。
ただその頃から急速に普及し始めていたのだろう。


自動車の普及が急速に進むなか、1968年日本の自動車生産台数が世界第2位に躍り出ました


日本の技術の開発のスピードは意外と早かったなと思う。その時すでに世界二位というのは驚きである。集団就職の時代であり人手がたりな金の卵として田舎から大量の労働者が東京などに送られた時代だった。
この日本車もすでに世界で通用していたのである。

●団塊の世代でもすでに大学は大衆化していた

クラスで田舎では大学に入れたのは4,5人だった。
集団就職が三分の一くらいいたようだ。
それでも大学だと私立はマンモス大学であり凄い数が集まっていた。
この時大学は特別なものではなく大学の大衆化がはじまっていたのである。
3000人とか入る大講堂で講義しているのも異様な風景だった。
高校からするとあまりにも違っていたからとまどい勉学の意欲を失う人もいて
全学連など学生運動に身を費やす人もいた。


大学はレジャーランドとか言われた時代であり毎日マージャンをしている人もいた。
大学で授業にゆくやつは遊ばないやつだとうとまていたのも不思議である。
大学とは高校と違って遊ぶ場所だったのである。
マージャン大学、パチンコ大学にもなっていた。
パチンコはその当時本当にヤハなものだっ。
誰でも手作りできるようなもので板の箱でただ釘を打っているだけのものだったのである。
その釘の調節で出るのと出ないのを調節していた。
そのころからみるとぶいぶん変わったなと思う。


高校では考えられない落差がありとまどう人も多かった。
高校は毎日通い遅刻も許されない、大学は授業に出るのも出ないのも自由だというのはあまりにもその差が大きかった。
かといって自主的に勉強している人はまれだったのである。
文系は特にそうでありそれでも卒業できたのだからでたらめな大学が多いとういこともあった。
それでも社会に出ると学歴で判断されることが多い。最終学歴はあとあとまでついてくる理系ならともかく文系なら学歴などほとんど関係ないものだったかもしれない

そういう大学で自由に過ごしたのに卒業したら企業戦士として会社人間となったのも不思議である。全共闘の闘士は今度は企業戦士に変身したのである。

●高度成長時代から労働欲減退の衰退の時代へ

その時丁度高度成長期で経済は鰻登りで波にのっていた。
給料は毎年確実に上がっていた。だからメーデーなどの賃上げのパレードは祭りとなっていた。
労働組合もその時最盛期であったのはそれだけの賃上げが確実に要求すればあったからである。
それは日本経済が家電分野でも自動車でも世界の最高レベルにありプランドとなっていたからである。
今になると高度成長期は日本の黄金時代だったともなる。

現代の経済状態はアベノミックスとか金融で経済を活性化しようとできない、
なぜなら世界で売れるものが作れていないからだ。
家電でも中国韓国においつかれているしこれは日本製でないとだめだというものがないのである。そうしたらいくら金融で経済を活性化しようとしても無理だろう。


紙幣をすって紙をすって景気よくなるなら苦労しないよな


これ本当だと思った。日銀で一兆円でも紙幣をすっても景気良くなるとは思えない。
日本はどうみても衰退社会に向かっている。高度成長の黄金時代から少子高齢化とか非正規雇用が一千万とかまともに働く場所すらなくなっている。
その一つが引用したパソコンなど機械化により労働力をはぶいている。
2001年にwindows xpがでたとき急速に普及した
農家でも田植え稲刈りも機械であり片手間に農業をしている人が多いしそれでもできる。あとは専業農家に田んぼでも頼んでいる。

高度成長時代は会社人間であれみんな働く意欲があった。
それは物質欲が強い時代だったからだろう。
ギブミーチョコレートからはじまった戦後があり物質欲が異常に高い時代だった。
戦後の何もない焼け野原からはじまっていたからである。
その物質欲、欲望に高度成長が火をつけた。
その時、若年人口が多く人手はいくらでもあったがそれでも人手不足の時代だったのである。


●機械化がすすみ底辺化した労働者

現代は非正規の人が多いという時、機械化により労働力がはぶかれ会社の正社員にもなれず、底辺労働化した時代である。
高度成長時代はどんな大学出ても会社に就職できていた。正社員になれたのである。

今後何十年も新卒は6割しか就職出来ず、その多くは非正規の仕事か数年以内の早期退職になって、 

 毎年数十万人以上の若者がニートやフリーターになるんだぞw
 氷河期やニートを含めたらやがて1000万人を越えるぞ。 
大卒や弁護士や会計士の資格の有る人ですら就職難なのです、
それ未満の学歴の人には更に就職先は有りません。


大学などは今やこれだけ数が多くなれば価値がない。大学でて当り前とまでなっている。そうした非正規労働とかブラックな企業で働くとかが問題になるとき、高度成長期のような労働意欲が衰退しているのだ。
そして別にテレビでも車でもなんでも一応もてるしそれが特別ほしいという物欲も衰退している。そんなもの安く誰でも手に入るという感覚になった。
つまり団塊の世代のような物質欲も今は衰退している働く意欲もない
そして働く場所がそうした底辺労働しかなくなっていることもある。

つまり現代は物質欲の減退した時代になっているのだ。テレビがほしい、車がほしい、マイホームがほしいという欲望が希薄化した時代である。
そういうものはすでにあり充たされている人が多い。
だから経済を活性化させようとするとき高度成長のような物質欲を刺激してもすでに充たされているとなるとそれはできない。
日本ではすでにそうした物質欲を刺激して経済成長を計る時代は終わっている。
そしたら何をもって経済成長するのかとなる。

だんだんモノではなく心を豊かにするものを求めてゆく時代になる。
中国でも経済成長とする世界旅行がプームになったことでもわかる。
物を買いにもくるがやがて日本文化というものに興味をもつようになる。
つまり文化の問題がクローズアップされるようになる。
その日本文化というのが明治維新以来の欧米化で衰退してしまった。
だから日本人自体が日本の文化を見直す時代が来る。
こういうことは奈良時代や平安時代にも起こったことである。
インターネットは事業化してもうけようというビジネスに利用するという風に騒いだが
本来インターネットはそういうツールではない
情報の共有とか格安で自力で発信できるとかビジネスの金儲けとは違ったコンセプトで作られた。
だからインターネットを金儲けしようとすることにあわないのである
それは何か知的なものとかハードからソフトへと移行するツールでもあった
それはハードの物作りよりソフトなものが要求されている


ともかく人間は働くという自主性が労働にあるときはいい,でもたいがい非正規でも働かせられているという受け身にさせられている。だから働くことに生きがいを感じない。
また働く場所でも人間はただ部品のように付け替えさせられているだけであり機械と代わりないとなる。時給いくらというときそれは人生の貴重な時間を切り売りしている。
労働がworkというとき、作品になるのだから働くことが自分の人生の作品を作るような働き方でないと自ら働くとはならないだろう。
ただ強いられて働かせられているというのは人間本来の労働ではない、
そんな贅沢がいえるかというのもあるが豊かになればやはり労働の質も変わってゆくのである。


ともかく現代の問題は過去から考えないと見えないのである。
すでに団塊の世代は過去になり歴史となりふりかえる時代になっているのだ。
60まで生きれば個々人も一つの歴史を生きたとなりふりかえる。
そしてその時自分はどう生きたのかどういう時代を生きたのか自ずと理解できる。
その人の人生が個々人でもどういうものだったか否応でも解答が出る。
だからでたらめに生きた人は過去をふりかえるのも苦しくなるだろう。
ただ人間は過ちを犯さない罪を犯さない人間はありえない
でも最後は後悔が多くなるというのが人間の繰り返しだったのである。

posted by 老鶯 at 12:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

文化の時代は方言が見直される (ちゃっこいはなぜこんなに東北で使われているのか)


文化の時代は方言が見直される

(ちゃっこいはなぜこんなに東北で使われているのか)


ちゃっこいは宮城県の方言
http://musubu.sblo.jp/article/91044080.html

地元でもわからなくなった方言
http://musubu2.sblo.jp/article/91010809.html

 

●ちっちゃこいーちゃっこいは広い範囲で使われている

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ちっちゃこいは関東から茨城県から福島県の中通りまで広がり
福島市を境として宮城県からはちゃっこいに変化した。

ということは福島県は茨城県とか関東の影響が大きかったのか
中通りは特にむしろ古代は茨城県の影響が大きかった
ただ方言はいつそんなに広範囲に広がったのか

どうしてちっちゃこいが北海道まで広がったのか?
それは明治以降なのかそれとも最近広がったのか
北海道だと明治以降だろう
ただ方言がみんなしゃべるようになるまでは相当な時間が必要である

北前船が京言葉をもたらしたというときそれだけ交流があり
時間的にもあったからそうなった。

ただ物が入ればどうしても他の土地の言葉が入り安いのは確かである。
その物を言う入ってきた土地にない時があるからだ
それで漆(うるし)がJAPANになったことでもわかる


ちゃっこい

石巻ちゃっこいバッグ展
ちゃっこいけどアツい。
好きなんです、川崎が

 「いずれ古里に戻りたいんです。好きなんですよ。川崎が」。一関市川崎町出身。現在は岩手大学農学部に在籍し、盛岡市に住む菅原花さ
ん。ストレートに古里への愛を語る一方、


ちゃっこい村のでっかい花火大会
岩手県・東磐井郡川崎村


ちゃっこい店

岩手県盛岡市南大通1丁目10−31

宮城県牡鹿郡女川町にオープンした『女川ちゃっこい絵本館』


『ちゃっこい仙台駄がし chacco(¥500

ちっちぇ、ちっちぇけ とも言います。
小さい という意味です。


「あんやぁ〜、このびっきちゃっこくてめんけごど」
(あら〜、このカエル小さくて可愛いこと〜)
http://www.hougen-love.com/dialect_akita/akita_chakkoi.php


みちのくちゃっこいギャザリング***知って話してネットワークづくり♪♪♪

秋田県

浅虫温泉にあるちゃっこい温泉宿、宿屋つばき - 温泉

おらんどのちゃっこい博物館「向山駅ミニミュージアム」がオープン

ちゃっこい。

先日、北海道から上京してた義父がこう言って、
パートナーも普通に「そうかぁ、ちゃっこいのか〜」と。
ちゃっこい??茶色っぽい??

どうやら「小さい」と言う意味らしいです。
ちゃっこい・・・かわいい。



ちっちゃこい


今日の福島弁(中通り)「ちっちゃこい」


小さい」を横手゛弁で
"ちっちゃこい "って言うんだ
チッチャ に わざわざ "こい"って付けるんだな

"ちっちゃこい わらし "
"ちっちゃこい 車 " (軽自動車)
こんな 感じだな


あんなちっちゃこい子が、こんなに成長するんだな....えっ??

北海道の陸別町


日曜日モリタさんと青梅のちっちゃこい山をハイキング

ちっちゃこい字めっか 訳) 「あの小さい字見えるか(山形県)


●宮城県の影響が大きい相馬地域

ちゃっこい、ちゃっこいとよく言う相馬生れの女性がいる。
でも相馬生れの同年代で「ちゃっこい」と聞いたことがない
そんな方言あったのかといぶかった

それでわかったんだけどその女性は宮城県の松島の男性と結婚していた。
それでその方面の方言をしゃべるようになった。
その男性は相馬に来てからも宮城県の方言をしゃべっていたのである。
そういうことは相馬出身でも名取の方に長く暮らした人がだっちゃ、だっちゃと語尾につけるので目立った。それは明らかに仙台弁なのである。
この辺ではだっちゃなど言わない、んだ、んだとしか言わない

ちゃっこいという方言は広い範囲に広がっている、インターネットで調べたら宮城県から岩手県から秋田県から青森県には確実に広がって使っている。
それからちっちゃこいとなると東京とか茨城県でも使われている
北海道でもちゃょこいとちっちゃこいが使われている。


小さい⇒ちっちゃい⇒ちっちゃこい⇒ちゃっこい

と変化した。福島弁で福島市や中通りでもちっちゃこいを使っている
相馬では使わない、「ちんちぃ」という言葉を使っていたような気がする

ちっちゃいという方言はちっちゃこいとなり関東から中通りを通り宮城に入り岩手県から秋田県から青森県に広がった。
ちっちゃこいとちゃっこいはもともと同じ意味である。

方言は狭い一地域のもののように思えるが実は関東から福島県の中通りを通って仙台から青森まで広がっていた。それは昔から中通りは奥の細道の通路であり人と物が入る道だった。相馬の方は浜通りは関東の方とは通じるのは遅い。

それにしても方言はそんなに広く広がるものなのか?
それはいつごろからそんなに広がったのだろうか
江戸時代からなのか明治とか戦前なのか、交通が発達したら方言も広がるのか?

相馬生れの女性は毎日顔をあわせていてちゃっこいという言葉を聞いていたからいつのまにか無意識にしゃべるようになった。
普通方言はその土地に生れていなと簡単にはしゃべらないだろう。
だから方言はそんなに広がると方言ではないようにもなる
関東から東北から北海道までちっちゃこい、ちゃっこいを使っていたら方言なのかともなる。
方言の研究はそもそもむずかしい、調査するにしても直接聞くとなるとむずかしい。


●方言は文化であり文化の時代は地域性を追求する時代


ただなぜ方言に興味をもつかというとそれがその土地独特のものだからである。
方言は文化であり標準語は文化ではない、国々の言葉みんな違っていて文化である。
人間社会は地域性があった方がなんでも面白い。みんなどこに行っても同じじゃないかとなるとつまらなくなる。
海外旅行したってどこでもグローバル化で一様化したら面白くない。
ベルギー人が「自分はベルギー人」だというときベルギーという国にこだわっている。
ベルギーってなんなのだというと他からわかりにくいからだ。

文化の時代というとき地域性を出すことが魅力を作る。だから言葉だってもてなすのにも標準語ではなく方言があたたかみがでてくる。東北は全国になるとずーずー弁はしゃべりたくないということはある。
でも方言がないと何かその土地の特徴が出せないのである。
これからの時代は何でも地域的なものにこだわる文化の時代になる。
自分は自分の生れた土地にこだわり自然を基に詩などを書いてきた。
必ず自然にはその土地独特の景観とか地勢とか石でもある。
そういう土地土地の自然と一体化してゆくアイディンティティ化してゆくことが文化なのである。

一時は東京化してどこに行っても同じだとなり旅もつまらないとなった。
それは地域性が消失してしまったからである。
その土地の個性を作り出すのは自然である。
その自然は樹や石でも山でも長い眼でみないと会得できない
旅では一時的に滞在するだけだから深く見れないのである。

いづれにしろ東京一極集中になったら面白くない社会である。
経済効率はいいにしろ地方は衰退するから文化も衰退する。
自分は東京の大学に四年間いたけどその後は故郷に帰った
それからは地元志向であり主に自然との一体化を計ってきた。
それは文化面だけではあるがそうだった。

もちろん全国を旅していたが基点となるのは故郷の自然だった。
いづれにしろ経済効率性を追求すると多様な生活は失われる。
山には山の暮らしがあり海には海の暮らしがありということで
文化の多様性が保たれていたのである。

こうして地域性を追求するとき、津波や原発事故は相当に打撃だった。
地域の衰退に拍車をかけて村も町すら消滅する危機になった。
土地のものを食べさせようにも放射能汚染でできないとか
苦しい立場にたたされたのである。
だから津波原発事故地域はその将来像を描くことは本当にむずかしい。
町自体村自体が消滅するとなるとゼロからまた作り直すのは容易ではないから
町から人が流出してゆくだけである。

2014年06月16日

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

 

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか?

(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

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鬼越館の近くまで津浪が来ていた。
浪の浸食により移動したと記されているが何かしら慶長津浪も関係していたかもしれない
なぜなら鬼越館はいつ建てたか不明となっているからだ


●佐藤氏が磯部館から鬼越城へ


築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。

好信の子佐藤宮内為信は永禄9年(1566年)伊倶郡小斎城代となり移ったが、天正9年(1581年)謀叛を起こして伊達氏に仕えた。これは父好信が郡左馬助の諫言により三ヶ村の所領を没収され、天正7年(1579年)無念のうちにに病没したことを恨みに思い、郡左馬助を討って亘理元宗を介して伊達氏に属したもので、伊達氏においては家格を一族に列せられた。
 鬼越館を築いたのは、相馬氏の家臣であった佐藤伊勢守好信である。佐藤氏は磯辺・日下石等6ヶ村を領し、もともとは海岸近くの磯辺館を居館としていた。しかしそこは波浪による浸食が激しくなってしまったため、永禄6年(1563)、鬼越館を築いて移り住んだ。『相馬氏家譜』には「伊勢好信、磯辺の館より立谷東山館を築いて住居」とある。この立谷東山館というのが、この城館のことであると思われる。
  天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm

立谷家の「鬼越館」の近く立谷邑中屋敷に1335年頃に立谷の館を構えました、今も館の後が残っています(道の駅そうま)の西側500メートル当りで外堀も残っています、

佐藤好信は源義経の家来であった佐藤忠信・佐藤継信の子孫を名乗る。今の福島県浜通り地方を中心に活躍し、その名に恥じぬ勇名を馳せた。

もとは富岡城(楢葉郡)にいた岩城氏の重臣であったが、相馬氏の武勇を慕い富岡右京進・富岡美濃らと共に相馬領へ来て相馬顕胤・盛胤の二代に仕えた。草野直清・青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、それを妬んだ別の家臣の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。これを恨みながら、まもなく死去したという。


佐藤為信 

 佐藤 為信(さとう ためのぶ、天文 (元号) 天文11年(1542年) - 天正19年(1591年))は相馬氏の家臣。佐藤好信の嫡男。
 小斎城代として重用されたが、父・好信が讒言により減封され、果ては憤死に追い込まれたことを恨みに思い、讒言した家臣を討って相馬氏から伊達氏に寝返った。その際伊達氏の一族に迎え入れられている。佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、兜の八幡座を鉄砲にて射抜かれ討死。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。その他には、松ヶ江辺に夜討ちして敵を脅かす事、両三度に及んだと言う。この様に海(水)上とかの活躍は、奥州相馬氏の南北朝時代(北朝方としての相馬文書)とか、戦国時代の史書を探せば、未だ有るかも知れません。尚、相馬氏には「奥相秘鑑」と呼ぶ史書が有って興味深いが、これ等は近世期の編纂資料で有って、果たして天文年間の正確な資料でしょうか。小高城からの出騎の項に「神岡館」と有るのだが、これは「福の隷書体」を「神と誤って」表したものでしょう。正しくは「小高町の福岡字有山」に有った「福岡館」でしょう


相馬氏と水運ー4(東奥中村記)半杭正幸
http://red.ap.teacup.com/hangui/2915.html

半杭氏も海運に注目して残された文書の記録に間違いあることを指摘しているのだから
磯部館が山側の鬼越館に移ったのはいつかは確定できないのである。
津浪だったのを浪の浸食としたとういのはありうるのである。

●在地勢力を支配下に置くことに相馬氏は四苦八苦

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この記録の中に何か慶長津波のことが隠されている。相馬氏は小高に本拠地の城を置いていたが村上に城を移転したが火事があって縁起が悪いと原町の牛越城に移転した。
それはもしかしたら塚原や村上などで湊を支配していた岡田氏などの抵抗にあったのかもしれない。ここは自分たちの領地だとかなり火をつけられたということもある。
相馬氏は領地がまだ安堵されていないから秀吉にとりいることや後に家康にとりいることに必死だった。牛越城では実際に領地を没収される危機に直面していたのである。

慶長津波を考える場合、こうした当時の戦国時代の相馬藩内は中世以来の豪族が館をもち支配していた。だからこうした有力な豪族を支配下に置くことに腐心していた。

特に古代の宇多郷、今の相馬市地域はまだ伊達氏の影響力が大きかった。
もともと今の相馬市地域は伊達氏が一時支配していた地域でもあり相馬氏が進出することには抵抗があった。
小高を中心とてして北に向かい相馬氏の支配を確立しようと腐心していた。
だから今の鹿島区は北郷であり小高から見て北になるから北郷になった。
一連の城の移転は小高では湊を所有していた岡田氏をおさえようとする動きであり
牛越城は今の泉かんが跡にやはり湊をもっていた泉氏をおさえるために作られた。

そして中村城移転はこうした在地の中世以来の豪族を相馬氏が支配することだった。

今の相馬市地域は伊達氏がまだ勢力をもっていた。伊達氏をおさえるためにはどうしても中村に城を移転せねばならなかったのである。
佐藤氏の息子が丸森の金山城の城主となって伊達氏に寝返ったとかでもわかる。


天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。


これなども小高に湊がありその小高ら磯部の湊へと船にのって夜討ちしたということはそれができる船の運行があり湊があったということである。
小高でも磯部でも今のような砂浜ではなく入江のようになっていたのだろう。
だから湊にしやすい船が入りやすいものとなっていた。

ただこうした記録もどこまで史実なのか半杭氏も書いているようにわからないのだ。
鬼越館でもいつ作られたかも実際は不明なのである。だから年代通りでもないことがある。鬼越館の名は鬼は鬼門であり北を意味しているから北風が吹きつけて通りすぎる所となるから位置的にはそういう場所である。
ただ慶長津波の前の数十年間は戦国時代の激動の時代であり相馬氏の支配は確立していない、伊達氏に一時黒木氏が加担して鹿島の田中城で戦いがあったように伊達氏と相馬氏の争いは鹿島から中村地域移動したのである。
相馬氏はまだ相馬藩として支配を確立していない有力な豪族のおさえるために四苦八苦していたのである。


●相馬藩は財政難で慶長津波のすぐ後にも高い役金を課していた


時代的にはずれているから慶長津波とは関係ないとなるがそれでも慶長津波の近くに
波の浸食が起きたというが時代がずれて記されているかもしれない
文書に残っているからとすべてが正しいとはならない、そこには粉飾があり年代もずれている場合があるからだ。実際に記述の間違いを半谷氏は指摘している。

なぜ慶長津波のことが記されなかったかというとそれは伊達氏でも伊達政宗は一言も津波のことに言及していないのは相馬氏と同じだった。
当時の藩主と津波の被害を公にできない事情があった。
ただ伊達藩では慶長津波のことを他の氏が記している。

記録したり宣伝したり何か伝えるにも権力が必要になる。権力あるものは集団は大宣伝ができるから真実は曲げられる。
マスコミもまた一つの大きな権力である。メデアは権力だというときそうである。
常に権力によって情報は操作されるのである。原発でも批判は封じ込められていた。
本を出すにも確かに出ていたが隅の方に冗談のようにSF小説のように置かれていたのである。
本を出版するにも権力が必要なのである。
それだけの被害にあったのだから本来は被害にあったものが直接訴えればいい伝えればいいのだが
権力かないとできないということもあったのである。 


三本塚周辺の開発


慶長年中、比屋
海上より潮押揚海辺村々之者人馬多潮水におぼれ横死、田畑殊之所外荒所罷成候所、元和之頃、御上より荒所開発望令族開発可仕由御触、右ニ順て家友、当初へ取移三今之屋敷(二ツ屋敷)ヨを構へ住し、熟地見合、田畑十五町余り開発,子孫へ伝え候(佐藤家家譜)

この津波の後、相馬地方の相沢、大友、柴崎氏が当地の荒地開発にあたっと言われます


佐藤家とは相馬氏の磯部の伊達氏寝返った佐藤氏一族のものなのか?
ここに相馬氏の武士が移り開拓したとなるのか?
相沢氏は伊豆の相沢郷が出自であり柴崎氏は千葉の我孫子に柴崎城があり相馬柴崎とあり相馬氏系統である。
佐藤氏も磯部館の伊達氏に寝返った佐藤氏なのか、何か相馬氏とつながりある所に開拓に入った。
不思議なのは相馬藩内でも伊達藩と同じような慶長津波の被害にあったのにこうした開拓に入ったという記録は一切ないのである。

中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。

寛永八年(1668)百姓の騒動があった。
切腹させられ給人が6人ほどいた。

百姓どもが訴訟申し上げたのは給人衆の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草を刈る所、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなっていて]困ったからである。
(奥相馬秘鑑ー森鎮雄)



慶長津波の後に起こったことを知るてががりにこの記録はなるだろう。
相馬藩ではまず慶長津波の後でも財政難で役金が給人からとらねばならなかった。
そもそもこんな財政状態で津波の被害の復興などありえないだろう。
相馬藩では寛永八年(1668)頃まで50年後まで津波の跡は開拓もされず放置されていたのである。給人がこういう状態のとき、相馬藩を出てよそに出る武士もいたというとき、それが相馬氏一族の相沢氏とか柴崎氏だったのである。
ただ慶長津波から50年たつと盛んに郷士の開発が行われて在地の土地の住民に迷惑にさえなって切腹させられた武士まででてきたのである。
約50年すぎて相馬藩では活発に津波の跡でも開発が盛んに行われるようになった。
それまでは放置されていたのである。

つまり伊達藩と相馬藩は慶長津波の対処が違っていたのは事情が違っていたからである。こういう財政難でも津波の被害を訴えたりそれを取り上げたりまた津波の被害のことを
外に言うこともはばかられた。
当時は戦国時代でありなるべく藩が力あるものとして外部に見せねばならなかった。
それで伊達政宗がハデな演出して伊達者と全国で知られるようになったのは実際は藩は貧しい農民が主なのだがハデに装うことによって隠していたのだと言う人がいた。
陸奥には西のような豪商もいない農民が主体の社会だったからである。


●慶長津浪の被害者の忘れられていたが思い出さされたこれもカルマ


慶長津波のことが文書に記されなくてもやはり慶長津浪に由来するものがその時あった。新地の地蔵森の伝説や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪の時のだという。
慶長津浪に関しては本当に記録も伝説もほとんどないのである。
それは相馬藩の戦国時代の特殊な事情がそうさせたのである。
伊達藩は伊達政宗の支配が完成していていた。ただそれにしても伊達政宗も慶長津浪には言及していないのである。
それも外にそうした困窮状態を口外することが戦国時代では不利になるという意図があった。でも内部では津浪の跡を開拓する作業すでにはじめていたのである。
そこはすでにもともと田畑となり開発されていた場所である。

相馬には荒地の方がもともと多かったのだろう。
だからこそ相馬氏の相沢とか柴崎氏とかが伊達藩の開拓に入ったのである。
相馬藩ではそもそも相馬氏が在地の豪族をまだ完全に支配していない、統一していなかった。そこで津浪の後にも役金を徴収していたのである。
だから給人が反乱を起こすような所では伊達藩でも外に出て領地を得て開拓した方かいいとなって移住したのである。
なんらかそういう不利な所に移住するには事情がある。
越中などの移民にしても飢饉の後の荒地に来るのは来る方に事情があったのである。

相馬氏にとって慶長津浪はやはり財政難に拍車をかけたしいいものではなかった。

ただそれで在地の勢力がそがれたので津浪の後に中村城へ移転を結構できて統一できたというプラスの面もあったのである。
そして津浪から50年後は盛んに郷士の開拓が行われて在地の農民や漁民や山民が迷惑になり訴えるようになった。
50年という津浪の跡の原野でも塩分はなくなり開拓して田にもできたのである。

慶長津浪の被害者は不運に不運が重なったのは戦国時代という中で起きたことである。
まず津浪が起きた2年後に役金を課しているということ自体、相馬藩で津浪の被害者を
援助するとか復興するとかありえない状態だった。
津浪がさらなる財政逼迫を生み幕府で助けるわけでもないしかえって江戸城普請とか参勤交代とかで出費がかさむ。給人にしてもまるで暴力団への上納金のように役金が払えないと暴動まで起きることが実際に画策される。

何か海老村の善次の伝説はこうした当時の事情があり天守造営にかりだされたのだがその土地の支配者が輪蔵館などが出したのだがその館の支配者にとってはしたくないことだった。でも一方で行かざるを得ないという事態に追い込まれていた。
そういう板挟みの中で津浪の被害の後に天守造営にまつわる伝説が生れた。
支配者同士の争いで戦争で民衆が犠牲になることは世界でもあった。
権力をもっているものがさらなる権力をえるために戦うがそのために民衆が犠牲になるということがある。


原発事故でも権力をもつものが政府指導ではじめてその土地の民衆が利したとしても
やはり犠牲になったということはいえる。
結局この世の中今だって弱肉強食の世界は変わっていない。
相手が弱った時攻められる。そういう経験を自分もしてきたから人間は怖いと思う。
相手が弱ったから同情するということはない、戦国時代は特にそうだったのである。
常にその地位が脅かされていたのである。相馬藩も牛越城の時、改易になるのを辛うじて逃れた。その領地も地位も安泰ではなかった。
そういう時慶長津浪が起きたのであり犠牲になった民衆は犠牲にされ忘れられたのであるその数は多かったが例えは太平洋戦争で三百万人死んだと一手も四〇〇年もたてばその一人一人のことなど忘れてしまうだろう。
いつまでも戦没者供養などしていないだろう。三百万人死んでも忘れられてしまう。

今回はすぐに犠牲になった人たちの供養碑が建った。それは四〇〇年後にも残るだろう。ただ四〇〇年後がこの辺がどうなっているかなど想像もできないのである。

慶長津浪と同じ規模の津浪が襲ったからこそ四〇〇年前のことを考える。
もしまた日本が戦争があって何百万人死んだとなればまた太平洋戦争のことでも真剣に考える。
歴史もカルマであり繰り返しなのである。カルマは本当に個々人でも厳しいものがあり
逃れることができない、何か先祖のカルマを津浪の被害で意識されたということがあるのだ。
人間は常にカルマを負った存在だということを津浪が意識させたということはある。
津浪でも四〇〇年でも定期的に起きるものでありそれは科学的にそうでありそうた災害に人間は備えることができなかった。
個々人でも何代も前の先祖が戦争で人を殺していたからその償いのために看護師になっているとか言う人もいた。長い眼で見れば歴史でもありねその地域地域にもある。
地域の独特のカルマがありその中で生きている。相馬藩は津浪が起きた時、こうした特殊で戦国時代の事情があって津波の被害者は忘れられてしまったのである。


参考にした本


「仙台平野の歴史津浪」ー飯沼勇義

飯沼氏は実際に津浪のことを警告して仙台市にも訴えてしいたし南相馬氏の博物館にも来て津浪を警告していた。でもとりあわなかった。

郷土史というと好事家が暇で研究しているという感覚になる。
でも実際今回の津浪で郷土史というのは郷土全体を視野にした長い歴史を探求するものでありそこには重大な使命が隠されていたのである。
盛んに地名まで津浪と関係あるのではないかとか神社は津浪をまねがれたとか様々なことが津浪で浮き彫りにされた。
日本では災害が大きな歴史の中に組み込まれていたのである。
ただ災害は百年に一回とか四〇〇年に一回とかなると忘れる。
それが忘れたことが災いにつながっていた。

カルマは個々人でも意識されない、でも今回のように同じことが起きればカルマを意識させられるのである。
例えはアメリカが日本に原爆を落としたことはアメリカのカルマである。
でもアメリカ人はそのカルマを意識しない
それがそのままでありえない、アメリカにも原爆が落とされた時深刻にヒロシマに原爆を落としたことを真剣に考えるようになる。
9・11のビルの崩壊もそうしたカルマが現実化したということはある。

 
 
posted by 老鶯 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月17日

相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発で火を放つ (津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)


相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つ

(津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)

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野馬土手で囲む前はもっと広い原があって馬が放牧されていた。
原町は原という地名が多く広大な原があった


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桜井古墳の前まで津波がきていた


●牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。


村上城から牛越城へさらにまた小高城へとなぜ転々と城を移転せねばならなかったのか?
村上城で火事があり不吉だとしてとりやめたのは岡田氏や館がありこれも泉氏と同じ理由で火をつけられた。各地にまだ相馬氏に反抗する勢力があり統一されていなかった。
この動乱の時に慶長津浪が起きた。
慶長津浪のことはただ700人溺死としか記されていないが海老村の大工の善次も輪蔵館から人夫として中村城の天守造営に出されていた。
そのことが泉氏と同様不満があり善次はとめられたが無理して行こうとして怪異があり
不慮の死を遂げた。
それは明らかに牛越城築城に泉氏が反対したと同じ理由があった。
牛越城の時はまだ慶長津浪は来ていない、しかし海老村の伝説は明らかに中村城の天守造営と記してあるのだから慶長津浪がありその後のことにしても何らか慶長津浪の記憶がある時だったのである。

慶長津浪の後の数十年、30年から40年くらいは原野のままに放置されていた。
そこは湿地帯にもなっていたから人は入りこみにくい状態だった。

ただ萱浜に「巣掛場」とか地名があるから狩りの場になっていた。

その後大規模な野馬土手が作られた。これは今の原町の市街をつつみこむように作られ周りに木戸がいくつも作られた。それが大木戸として地名化している。
これほど大規模な馬の放牧地を作り馬を重んじたのは戦国時代の延長として相馬藩が伊達に対抗するための軍事訓練の場として作った。
これは軍馬であり戦争するための馬なのである。
戦国時代は馬が最大の武器となるのだから馬の飼育には力を入れた。
鎌倉武士が平家に勝ったのは騎馬軍団をもったからである。
だから鎌倉時代とかその後南北朝時代、戦国時代は馬の時代だったのである。
放牧地が広大な牧が各地にあったのだ。
だから江戸時代は何か田んぼが広がる景色のように見えるがその前は牧が広がっていたのある。

だから相馬藩の野馬土手は実際に広大なものだった。
そこで気になったのが桜井古墳から上渋佐まで野馬土手が広がっているのだが
上渋佐で微妙な線を描いてとまっている。
あそこまで津浪が来ていたのである。
津浪が来た線でとまっているのはそこは原野になり湿地帯になっていた。

慶長津浪の後にまだまだ開拓されていないから田畑は少なかった。
ただ萱浜の巣掛場木戸というのがあったとするとずいぶん海岸近くまで広がったいたとなる。
巣掛場辺りは今回の津浪をもろに受けた被害の大きい所だった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。

これをよく読むと野馬土手を作ったのは馬を囲いこむためでありそれまではもっと広い原野がありそこを馬が駆けていた。野馬土手がないから馬が田畑まで入りこんだのである。それだけ広い馬がいる原があった。モンゴルの草原ではないにしろそれは日本にしては広大な広さである。
田畑より牧の方が中世には広いということがあった。
その牧に放した馬を家に連れて帰る絵を見たがその家に帰る道も長く農家が一軒ある。


●人馬三千余名死すー人馬一体となり死す


今回の津浪では野馬追いに出る家も津浪の被害があり野馬追いのことが語られた。
海老村では妻をなくした人が弔いの野馬追いに出るのが放送された。
浪江からも野馬追いに出て復興の野馬追いになった。相馬藩の祭りとして相馬藩が一体になるものとして復興の野馬追いになったのである。


相馬藩御経済略記:同年10月海辺津波御領分ノ者700人溺死

相馬藩政紀第一(御年譜利胤):10月28日、海辺生波にて相馬領の者700人溺死

相馬市「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

青森県沿岸「南部・津軽の海辺の人屋溺失して人馬三千余死す」(『駿府記』)
宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」(『宮古由来記』)

仙台藩の歴史が記されている「伊達氏治家記録」にも仙台藩の領内で津波で1783人が死亡し、牛馬85頭が死んだという記録が残っている。

相馬藩の記録では牛馬の死は記されていない、伊達藩では85頭まで記されている。
青森県沿岸で人馬三千余死すとある。野馬追いの地で馬のことが記されていない。
牛馬の数をそこまで詳細に記したことはやはり牛馬を重んじていたのだろう。
牛馬も死んだと記しているだけでも津浪には相馬藩より関心があり記した。

宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」

宮古市では騒動まで起きたというから生々しいものとして残っている。
騒動が起きても不思議がないほどの大被害だった。
何か物騒な状態になっていることが記録されたということは
食うや食わずで家も失った人たちが津浪の後に彷徨っていたはもなる

相馬藩では700人溺死だけでその他何かてがかりになるものが残されないないのが
慶長津浪のことを解きあかそうにもできないのである。
ビスカイノの報告が唯一の資料ともなる。これにしても城が破損したということは記されている。その他のことは不明である。


海辺津波御領分ノ者700人溺死


ここに津浪と記してあるのはなぜだろうか?相馬藩で津浪ということを知っていたのか?
これは当時記したものではなく後から津浪が一般的になり記したものなのか
生波と記したのはこれはその時津浪ということを知らないから記した。
だからこれはその当時に記しことになる。

いづれにしろ津浪に関しては相馬藩では何ら資料がない、だからいくら探るにも限界がある。相馬藩ではその歴史はいろいろい記されている。
でも津浪に関しては何一つ記されていない、700人溺死しか記されていない
ただこの数は伊達藩の死者と比べてみると死者数の数は今回の津浪より数が多い感じがする。それほどの被害だったのである。
在地の豪族が相馬氏の政治に不満をもつことは語られている。
実際に事件もありそのことを記されている。
ただ慶長16年に起きた津浪に関しては記されていない。

伊達藩でも詳しく記したのはたまたま伊達藩内に来ていた人たちだった。
それで津浪のことが全国に伝えられこの時から津浪という言葉が一般化した。
外から来たものは津浪を伝えるのにはばかるものがなかったが伊達藩でも伊達政宗が一言も津浪について言及していないように津浪の被害を隠していた。

誤解しやすいのは貞観津浪と慶長津浪が混同していることである。
貞観津浪の伝説が慶長津浪の伝説だとしている。
岩沼の千貫松の伝説も貞観津浪のことだろうというのもそのためである。
相馬藩の新地の地蔵森でも諏訪神社でもとても津浪の来るような所にはなく
奥の方になっているからだ。


●慶長津浪の明確な年代は本当はわからない?


慶長三陸津波を起こした地震は古い地震で謎が多い。発生したとされる時期も一般に採
用されている1611(慶長16)年の他に、1614(慶長19)年、1616(元和2)年など

慶長16年と記されていても慶長年間と記されているのもある。だから年代も明確ではない慶長年間なのがまちがいないというだけである。


慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

慶長年間というのはこれだけの地震の被害もあった。大地震が連続して起きていたのである。文禄からはじまり慶長年間は地震で象徴されていた時代である。
この時は戦国時代だったのである。動乱の時代でありそれに地震や大津波でまさに末世の様相を示していたことは今回の津浪は日本の動乱の時代のはじまりなのかもしれない。

算命学 2011


国家を揺るがすような強烈な出来事が起こってもおかしくは無いのです。
貯蓄・防災・危機管理の徹底など、いざという時の為に備えは万全にしておきましょう


これは2011年1月に占いの人のプログに書かれていたのである。
プログの特徴は日付が記されているからそこから個人であれ歴史を読むことができる。
だから20011月の3月11日の津浪の前と後では時代が明確に区別されるのである。

1611ー2011とかアメリカのビルが破壊された9・11とか何か11は不気味である。
1ははじまりであり開始でありだからその前に大規模な破壊が起きることはありうる。
ただ占いも不安をあおり金儲けにしているものもいる。
それでも2011ー3・11という数字が並んだことは不気味だった。
となると2111が最高に危険な年になる、人類滅亡の年になるのか、その時は自分は死んでいるからどうでもいいともなるが・・・

posted by 老鶯 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月18日

相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む (津波については探る資料がない)


相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む

(津波については探る資料がない)

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慶長16年中村に市坊を置いた。街道の宿駅の整備

同じ頃宇多郡中村城に馬場を開き,騎馬演習を行った。
南北百八十間、東側の濠の土手には桜を植え故に桜の馬場といった。

また慶長年間、行方郡横手村より真野川に堰を作って東流させ
屋形村に引き鹿島、両海老、両右田の五村に分水して田を潤した。

これは慶長年間なのか?二宮仕法で行われたともある。


そもそも慶長年間に鹿島、海老はあった。右田はそのあとに開発されたのではないか?
だから時代的に後であり時代というのも間違って記していることが多々ある。
今回の津浪では田中城まで津浪は来なかった。
屋形とか山沿いから下の田畑は右田の方から比べると一段と高くなっている。
だから屋形や海老の山沿いに大きな溜池を作ればその高いところには田畑が作れる。

ただ津浪のことを考える時、慶長津浪の影響があったことは何も記されていない
記録から読む限り慶長津浪があったということはどこにも見いだせない不思議がある。

なぜなら慶長津浪の後に相馬藩が力を注いだのは津浪の復興などではない
街道の宿駅の整備、そして一番力を注いだのは野馬土手の整備なのである。
それから堰を作り溜池を作り田を作ることが鹿島の屋形村や海老村で行われた。

普通だったら津浪の復興が第一となる。伊達藩ではやはり津浪の被害が大きくそういうことが記録から感じられる。
ただ相馬藩では鹿島区でも津浪の被害にあった所は原野であり田畑化されていなかったのだろう。
だから津浪の被害にあわない屋形の山沿いから田を作りはじめたのかもしれない。


グーグルの写真地図で見ると津浪の浸水地域は海岸の南海老村と右田の方になっている。海岸の方はあとから人がすみはじめた地域である。
屋形村や南海老村でも山沿いの所は一段と高くなっていてそこは溜池から水を引けば
田にできた。その面積もそれなりに広い。だから慶長年間にそこは田にしたのかとなる。

陸前浜街道は慶長津浪があり津浪が来ない所に道が作られたというのも今回の津浪から見ればそうなる。でもまだ相馬藩では田を開拓され作っていない原野が湿地帯が多かった。だから湿地帯をさけて道を作ったともなる。
必ずしも慶長津浪が影響して津浪が来ない所に作ったということではないだろう。


いづれにしろ相馬藩は慶長年間まで戦国時代の延長であり相馬氏が支配を確立していたわけではない、中村城に移転した時支配が一応確立したのである。
野馬土手作りに力を注いだのはやはり軍事を優先したからである。
北朝鮮でも軍事優先であり飢えている子供がいるということは外部の人によって明るみに出されたのである。当時は藩が国だとすると外部に弱みを見せないということで
津浪の被害を隠したのかもしれない、慶長津浪のことは全く探る手がかりもないからだ。外部の人に伝えなければ餓死してるとか悲惨なことはわからない。
ミサイルを打ってくるくらいだからかえって恐れたりしている。
内情は兵士は食べ物もなくやせ衰えていたのである。
今でも対外的には強い所を常に見せておかないと他国に攻められるのは同じなのである。

そして伊達藩でも岩手県の宮古でも牛馬が死んだと記されている。
それは馬が人間と一体化していたから馬が大事だからその数も記された。
相馬藩では死んだのは人間しか記されていない
それも野馬追いがある相馬藩では変だなと思う。
ただ野馬土手などが作られたのは慶長津浪以後であり津浪の被害にあった所で馬をまだ飼っていない地域だったかもしれない、海岸地域は馬を飼いにくいこともあった。
それでも何か解せないものがある
記録にも時代が間違っていたりすべて真実とはならないことも問題なのである。


家屋から家財道具まで流され、先祖伝来の武具、文書、飼い馬も一緒に流されて
誇りや伝統も一緒に流されちまったよ! と言ってたな親戚が‥返す言葉が無かった。


津浪には飼いにし馬も傷つくも負けじといでぬ祭りなるかな


津浪で流された馬もいたし傷ついた馬もいたのである。人間だけじゃない牛馬を津浪の被害者だった。今だったら馬が死んだ数まで記さないだろう。
津浪の被害にあった家が野馬追いに出ることが放送された。
そういうことは慶長津浪ではなかった。それより資料がないから推測もできない。
ただ原町でもそうだが馬を放牧する広い原があったということはそれだけ原野がまだ
相馬藩では多かった。
そうなると海側も原野が広がっていたとなる。

それではな海側に人がどれだけ住んでどんな暮らしをしていたのかとなる。
湊があり湊中心の漁労生活者だったのか?そういう人たちが死んだのか?
まだ田畑の被害は原野だから少なかった。
それにしてもなぜ700人も死んだのだろうとなる。
その死んだ人たちのことを探ることが資料がないから皆目わからないとなる不思議がある歴史にはそうして消失したしまった人たちはいくらでもいるのだろう。

相馬藩でも戦争で死んだ人のことはいろいろ記してありその功績も記されている。
しかし津浪で死んだ人たちのことは何一つ記されていない、700人溺死としか記されていないのである。
被害にあった民衆の間でも語り伝えられてもいいものだがそれもなかった。
そうなると本当に慶長津浪の被害が本当にあったのかとまで疑うことも不思議ではない
歴史的事実として何をもってそれだけの被害があったか探りようがないからだ。
神話でも伝説でも何かしら事実があって語り継がれる。
でも小説では相馬藩が復興に力を注いだと美化しているがそんなことどこからも事実として何もないのである。

posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

立葵 (南相馬市でも新しく街をデザインし直すことが要求されている)


立葵

(南相馬市でも新しく街をデザインし直すことが要求されている)

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鹿島区も旧街道通りと駅前通り新しい区画整理された道がある
そこで店が散在しているから利用しにくい
美的景観とすると真野川沿いの通りが並木があり花も植えられているので
自分としてはいい感じだなと思って通っている

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墓地の前に復興住宅の団地ができたが
墓地の前にあういう都市化した団地がでることは予想もできなかった
それでも絵のようにマンションのように外装を良くすると
何か落ち着いたものになる
でも墓地の前にはにつかわしくなかった。
でも土地がないのだからどうにもならなかった

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岩沼の二木の松は歴史も活かされた通りである
車が多くても人の歩く道が整備されていた



街の角曲がりて赤き立葵

街を行き色変わり咲く立葵

人住まぬ家の庭にしツツジ咲き赤きも誰も見ずに虚しき


立葵が街の角を曲がったら咲いていた。今頃が立葵の季節なのか?この花は街の中に咲いてもあっているなと思った。街の中だはあわない花があるだろう。
菖蒲はあわないと思ったが真野川沿いの新しい通りの並木道に咲いていた。
あそこは道の両側が歩くようにできていて並木道になっているから他とは違っている。
鹿島区はもともと浜街道だったところと駅前通りと区画整理でできた
新しい通りがある。福祉関係の建物が集まっているのは新しい所である。
あそこで福祉の湯は便利なので利用している。
温水器などが壊れたし地震で壊れたのを修繕していない、直すことが金もかかるしめんどうになっ。家は古くなるとリホームしたりするのでその金が大きいのである。

家族が住む家にしてもその住む人も変わってくる。
子供が育ったり家族が死んだりして変化すると家も変わる
その変化で無用になってゆくものがかなりある。
空家が全国で700軒もでてその利用に困っているというのはそのためである。
近くの空家の庭を見たらツツジが赤く咲いている、でも見る人がいないとしたら何か虚しいとなる。
要するに利用されないものを放置していることは市全体でも良くないのである。
何事使われていることによって生きてくる。
空家のままだ死んでしまうし邪魔になってしまうのである。


震災から三年すぎて思うことは仮設の時代は終わったということである。
すでに長すぎたとも言える。ぶらぶらただ遊んでばかりいる三年間は長い。
これから警戒区域解除になるまで二年は長いのである。
だからなんか仮設の店や食堂などあるがそれも合わなくなっている。
街というのは変化を好むのだろうか?田畑がある環境が変化を好まない
でもその田畑すら津浪で原発事故で耕作されず原野化している。
津浪の被害地には家は建てられないだろう。
ではそのままにしていいのかとなる

何かもう悲しいというだけではない利用方法を模索すく時期に来ている。

これだけ変化したということは新しいものを一から計画しやすい
そもそも市街地を魅力なくなったのは商店街がさびれたからである。
商店街は買い物が不便なのである。品物がないというだけではない
小さな街でも店もばらばらになっていて買い物しにくいのである。
街には街の魅力作りが本当できないことはない

そのために新しく街をデザインして新しい街を作るほかないだろう。
そのために区画整理して新しい通りが生れた。
真野川沿いの通りは並木があり花なども植えてあった。
あそこを歩けば通りであり魅力がある
スーパーは便利でもそうした自然を取り入れた通りは作れないのである。
ただ旧街道の道と駅前通りと新しい道とばらばらになって店が散在しているから
街自体が活きてこないのである。
街は鉄道全盛時代は駅前がにぎわうしと必ず変わる

だからそれは今にはじまることではない、どこでも古町という地名があり
それも近くにありいかにすぐに町が古くなってしまうかわかる。
それは時代が変わりそれに応じてにぎわう場所が変わってくるからだ。

いづれにしろ3・11の震災以後は変わらないと言っても変わることが要求されている。
街自体のグランドデザインを作り直すことが要求されている。

そんなこと個々人には関係ないというが市役所などでは考えざるをえないだろう。
そして市が衰退してゆきことは個々人にも影響するのだ。
確かに不利な条件が重なっているから困難を究める
そんなことを考える必要もない、自分たちには関係ないということもある。
ただ何かを構想することはイメージすることは一銭もかからないということはある
こういう街になってほしいという願望はもつことができる
そのイメージが実際に現実化するということもある


浜通りは変化に富んだ地形だった。海があり川があり山がある。
だから海ゾーンと平地のゾーン、街のゾーン、山のゾーンに分かて市作りを考える
海のゾーンは津浪の被害地だから何もなくなったのだから
新しいものを一から作り安い
街はできているから頭で構想するようにはいかないからいつまでたっても変わらない

でも鹿島でもばらばらに店があること原町ではシャーター通りの店が駅前通りに多いのは外から来たら相当にイメージが悪くなる
なんかゴーストタウンのように見えるだろう。

そして小高はここはそもそも街を再生できるのかどうか
まず今までとは違う全く違った発想の街作りが要求されている
それより小高では街が存続できのかという厳しい状態になっている
でも塚原に公会堂ができて集まる場所ができたとか復興しつつあるのだろうか?

いつまでも宙ぶらりんではいられない
仮設に長くいることで補償金暮らしがいいとか板についている人たちもいる
金を見せびらかしている人もいるというから反感をかっている
補償金で遊んであとは生活保護がいいとか言うのも虫が良すぎるだろう。
小高は本当に小高に住むのか?嫌なら原町や鹿島でも住むのか
そういう選択が迫られてくる、別に小高に住まなくても原町鹿島に住むなら住むように備える必要があるだろう

それでも今までのように仮設的な暮らしや考え方では受け入れられない。
かといって高齢化社会では新しいものを考え作ることは不向きだというのも問題なのである。

本当は市に住む人がそれぞれの立場で知恵をしぼることなのである。
いろんな人たちいてその人たちもいろいろな経験を積んでいて何かしらできるということはある。
それが活かされていないということがある。
だから総合デザイナーのようなリーダーが必要になることもある。
それは市長がやるのだがそれも頼りないと評判が南相馬市でも相馬市でもそうであった
だからよそから市長に立候補してもらうということも市民が考えたのである。

そもそもこれだけの被害があり変わるとどうしていいのかなかなかリーダーシップをもって市を変えることは至難になる。
ただ観光面などからみると食べ物は放射能汚染だが景観とか自然の美には変化がなかった自然が汚染されて緑が赤茶けたとか花がしぼんだとか水が汚くなったとかなったら
もう住むことはできなくなっていた。放射能汚染にはそういうのが見えないのでわからない不思議があった。
だから観光面では必ずしもマイナスばかりではない、観光なんかまた先の先だというのは言える、でも常磐高速道の開通に期待している人はいる。


いづれにしろこんな災害にあったら宮城県でも福島県でも市民力というのが試される
小高や浪江とかでも町民としてそもそも維持できるのかということがある
現実に住むのをあきらめて若い人は帰らないとなり分散して町の消滅の危機にある。
ただ小高でも住むのをあきらめるなら原町鹿島でもそこにコンパクトシティ化して住むというのも考えられる。
ただすでに小高に帰ることはインフラも整備しているから帰る人は帰る
でもそこで新しく町作りすることは高齢者だけになると苦しくなるだろう。

いづれにしろ市民の知恵とか力の結集とかが要求されている。
そして小高と原町と鹿島ではそもそも前から別々の町であり街作りが望まれていたのである。
それが津浪原発事故で混乱状態になってしまったのである。

抽象画ー花の内部(inside flowers)


抽象画ー花の内部(inside flowers)

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これもインターネットから加工して変化させたものである。
インターネットの抽象画は特にパソコンのソフトで作ったものは
加工しやすいのである。
それは今までの絵画とは違うパソコン特養の色や光を出すからである。

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花から蝶へ変化するのが良くある
花と蝶は具象でも結びついている

2014年06月19日

金より時間が貴重だった (その人の能力は何かについやした時間である)


金より時間が貴重だった

(その人の能力は人生は何かについやした時間で決まる)

●金ではすべては充たされない


現代はほとんどの事件が金にまつわるものである。毎日が金、金,金である。
人間は空気を呼吸しいるように金を呼吸して生きている感じになる。
金があればすべてが充たされるという感覚になる。
こうして不遇なのはすべて金がないから金さえあれば充たされる願いがかなえられる
そう思っている人が大半である。
何かできないのは貧乏だったからであり金持ちの家に生れていればこんなことはなかった金持ちの家に生れれば勉強もできたとか常に言われる。

しかし金があっても勉強などできないし頭が良くなるわけでもない、
ある人は金持ちで二人も家庭教師をつけていても一向に頭か良くならないと言っていた。要するにその人の生まれつきもあるしいくら教えようとしても学ぼうとする意欲がないと勉強はできないだろう。

自分なんかもまず勉強は嫌いだったし興味を覚えなかった。
それは性格的な甘えもあるのと能力がないというより他の何か欠けていたのである。
能力というとき人間は頭脳だけではない体力と性格とか総合的なものが影響してくるのだ体力が充実していれば頭脳だって働くのである。

だから天才的な人は柔道何段で東大で医学部出たとかの人がいる
そういう人は生まれつきに優れているのだと思った。
ただこの人はこれだけ生れつきが恵まれていても45歳くらいで病気で死んだというのも不思議である。
こんなに恵まれても最後は病気に呻吟して死んだのである。
つくづく人間の運命はわからないと感じる

自分の姉も体力的にも性格的にも強く優れていた。
だから自分で優秀だと最後まで言っていたが実際認知症になり痴呆になり死んだから
これも信じられない最後だった。
認知症になることはどんな優秀な人でもなり最後は痴呆になるのだから信じられないことなのだ。
だから人間は最後までみていないとわからないものだとつくづく思った。


人生は、長い長い台本の演劇です。
どんな悪役も、あなたのドラマに必要な配役であり、
とくに家族は、重要な役回りです。


http://yuriel88.exblog.jp/19395620/

これなんかうまい表現である。人間は死ぬまで最後までわからない長い長いドラマなのである。最後にどんでんがえしもある。だから死ぬまで人間のことはわからないとなる。

金持ちになりたいと金がほしい、金さえあればこの世の中どうにでもなる、能力も金しだいだとなる。
能力も生まれつきもあるがやはり能力とは天才でない限り積み重ねであり努力がものを言うのである。
何度も言っているが自分は俳句とか短歌を若い時作っていたけどただ五七五とか子供のように言葉を並べたくらいにすぎなかった。
だから今になると啄木のような感性をあんなに若くしてもちえたのか不思議である。
啄木は相当にいいかげんな遊び人的なところがありそれでも自然への感性を若くしてもっていたことの不思議である。
だから自分にはその辺がどうしても理解できないのである。
天才は普通の人には理解できないものをもっているのだ。


でも人間の使う時間はみんな同じであり限られているのだ。金持ちは確かに金をもっている。ほしいものは買うことができるかもしれない、でも特別時間を長くもつことはできない。時間はみんな限られていて特別長くもちえる人はない。
百年生きても百年で時間は尽きるのである。天才だって時間を長くもてずに早世した人も多い、天才も凡才と時間は同じくしか与え散られていないからなんでもできるとはならないのである。その間にやれることは限られているのである。

●能力より何に時間を費やしたかで人生は決まる


自分が旅できたのは金があったからではない、自由な時間を与えられたからである。
旅するにしても宿泊費はかかったが最低限しか使っていない、だから安宿を探すのに苦労した。それは外国旅行までつづいていたのである。
だから旅行先でうまいものなど食べたことがない、腹を充たせばいいというだけである。泊まった宿では食事しないで安い外食ですましていた。

だから貧乏旅行だったけど時間が与えられたから長い旅ができたのである。
単に観光旅行するならいいが旅人となると一カ月くらいきままに旅する人である

だから現代では観光旅行の保養の旅行になるから食べ物にこだわる。二三日だったら旅にならないからだ。
旅人になるには金よりそうした時間が与えられないとできない
それで鹿児島から青森まで歩いて旅していた人には驚いた。
退職して自由な時間を持てたから憧れの自由な旅に出たのである。
ところが意外と退職して自由になったから何でもできるように思えるができない
気力も体力も病気になったりまたは介護になったりと時間が奪われる
現実に自分は家族の介護になってから自分ひとりで全部家事をまかせられて一日たりともそれより一日も自由にでかけられなくなったのである。
つまり完全に自由を奪われたから近くすら自由に行く時間を奪われたのである。
だからつくづくどこにでも自由に行けた時がめぐまれていたなと思った。
それは金に恵まれていたということではない、時間に恵まれていたということである。

他の人は会社勤めになれば自由な時間は会社にささげるからすでに奪われているのだ。
家族をもってもそうである。ただそれはそれなりの時間を費やすからそこに価値を認めて費やしているとなる。
だからすべての人が旅に時間を費やすのがいいとはならない。

ともかく何かするにしても何か学ぶにしてもすぐに時間がすぎてしまうのである。
楽器一つをものにしようとしてもそれも時間がかかるからたちまちすぎてもうできなくなる。いろんなことをものにする時間など人間にはない
どんな才能のない人でも江戸時代になぜ親の職業をつくことができたのか
すべての人が継げないにしても親のやることを身近に見ていて時間を費やせばむき不向きがあっても時間をかけるから会得するものがあったとなる


つまり


成果=xtである。ある人は成果=atとなる。ある人は成果=bt・・・となる。
t=timeである。abcd・・・は様々な分野に時間を費やすということなのである。


●時間についての格言

[三年飛ばず鳴かず]

会社でも事業でも何でも一からはじめるのはむずかしい
会社を事業をはじめた、すぐに成功だなんていかない
いろいろなことを学び試行錯誤して成長してゆくから
そこにも時間がかかる、何かを会得するにはともかく時間がかかる


三年くらいは事業起こしても何ら利益もないし何ら得る所がないかもしれない
ところが自分もそうだったが急いで成功しようとしている
事業をはじめたら成功すると思っているからうまくいかないのだ
現代にはそうした時間の余裕をもてないのである。

 

若者と老人の最大の違いは何か?
若者はこれから何かをするできる時間と体力や気力などがある
老人は金があっても何かをする時間や体力や気力がなくなることである。
でも若い時このように時間の貴重さを意識してい人はまれである。
時間などいくらでもある、暇でしょうがないんだよ、どうしたら暇つぶせるんだ
そういうふうに思っている若者が多い、自分も若い時そうだった
会社勤めもしないと暇で暇でしょうがなかった。
そこからどうしても小人は不善を成すになるのである。
ところが老人になるといかに時間が貴重だったかを知る
何かをすべき何かを学ぶべき時間がなくなってしまうのである。

 
[少年老い易く学成り難し]


これも全くそうだった、勉強などいくらでもできると思った。本などいくらでも読めると思った。そのうち時間が過ぎて読んだ本もわずかであり語学もものにならなかった
つまり勉強する範囲が実は膨大なものでありとても一人が学ぶ範囲は本のわずかなのである。古典にしたって無数にありそれだってわずかしか読んでいないのである。


時間だけは神様が平等に与えて下さった。

これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、
うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。

 - 本田宗一郎 -

何かをやって
時間を損するということは絶対にない。
貧乏旅をすれば、
大学を二つ出たようなものだ。
- 永倉万治 -

人間何をしようと時間がすぎる。その費やした時間が人生である。
貧乏旅行でも旅には変わりがない、そこで見聞したものが後の糧になる。
本を読むより実地に旅した方が何かを学べるということで共感する

何かをやって時間を損するということは絶対にない。

これもそうなんだよ、何かを必ず人はする、その費やした時間が人生である。
たとえ雑学でも一分野に時間をかければ独自の学が成ることはある

今になるとつくづく旅でもできないから余計にそう思うようになったのである。
いづれにしろ時間を費やしている時は意外とその意味がわからない
老人になるとこういうことに時間を費やしてこういうことを自分が学んだのだとわかる
例えばカルト宗教団体に入ったことは間違っていてもそれも経験なのである。
そんなこと長くやっていれば別だが人生の一過程として時間を費やしたのが無駄だとは言えない
若い時のやったことアルバイトだろうが馬鹿げたことに見えても無駄にはならない
それは人生の一つの経験だということである。
そして人間は経験できることが極めて限られているからそうなる
出会う人も実際は極めて限られている
馬鹿でも最後にはこれが人生だったのかとわかるしわからさられるのである。


だから労働する時間は貴重である。その労働時間が意義あるものとならないと人生自体無駄だったともなる。俺たちはただ奴隷なんだよなとか金のために働かせられているんだよなとなるとまさにそこに働く意義を見いだしていないのに貴重な時間を費やしていることになる。
時給いくらとか時間を切り売りするような働き方は何か人間を時間的にも部品化しているのである。
それで時給を高くしても今度は人が来ない、労働環境が大事だとなるのは当然である。
そこで働く仲間とか何かの目的に向かって働くとかが大事になる。
ただ時給いくらで使い捨てのようにされるのでは馬鹿らしいとなるのだ。

人生は何が有意義かは個々人でも違っているのだ。

自分が病気で介護で苦しんでいる時、全く助けることもなくパチンコ屋で働きエステが忙しいからと一時間だけいて金をくれとだけ言って東京に去った遠い親戚とか何かおかしいのである。そういう人は強制されてそうなってもいるのだがどっちが今大事なのか?
そういう人は要するに何か苦しい時はその働いている所で人に助けてもらえとならないだろうか?
働くこととはそれだけ貴重な時間を費やすことなのである。
「バチンコ屋がエステでこっちは忙しいんだよ、休むこともできないよ、お前のことなど知らないよ」と吐き捨てるようにして金だけくれと去って行った。
こっちは病気で介護で困っていても何の配慮もないのである。
その人にとってどんなことがあってもパチンコ屋やエステが大事なのであり休むことはできない、自分が死ぬようになってもそうである。
だからそういう人はそれだけしてそこで働くのだからそこが一番大事な場所なのだから何かあったら助けてもらうのもその会社とかになる。
つまり働くことはそれだけ人生の貴重な時間を費やすことなのである。
だからソローは森の生活をした時、そこに人生の貴重な時間を費やすべきものとしてそこで過ごした。労働はみないいものではなく金持ちに働かせられているとか拒否したことでもわかる。