2014年06月07日

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説 (これは唯一津波の伝説なのだろうか?)



南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説

(これは唯一津波の伝説なのだろうか?)

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。



南海老に伝わる鹿島町誌に記された伝説は何なのか?
何か皆目見当もつかないような内容である。
ここで大事なのは 、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり
こう記されていてこれは中村に城が移転された時天守造営にたずさわった大工だったということである
。中村の城には相馬藩の城は殿様が倹約のために民を困らせるから作らなかったとか伝えられるが天守は作られてあった。
のちの話として相馬の殿様が名君であったとか美化されて話しが作られたのである。
こういうことはよくあることである。
権力者は常にそういうことをしている。
だから歴史書も当時の支配者となった勝者となった権力者が記しているのだから
公平なものとしては記されていない、何かそこに今回の津波のことが記されていないように肝心なものが欠落している。
それは原発の安全神話が作られて政府や東電やマスコミが一体となり情報操作したのとにている。


それよりここで問題なのはこの伝説が慶長津波と関係しているのがどうかである。
南海老なら確実に津波の被害が慶長津波でもあった。
そして中村に城を移転したとき天守造営にかかわり毎日通っていたのである。


寛永18年(1641)将軍家光公は上覧に供すべしと命ぜられ、
その頃、相馬の家譜、官禄、勲功・・・・の文書はつまびらかでなく
探したが見つからなかった。

天守の梁に結びつけて置いた包物を発見して、筆史がこれをおろしてみると金の輪に九曜の紋がついた菱皮の籠があり、
中には八幡大菩薩の文字の旗、証文、雑文などが百余通が入っていた。


天守の梁と奥相馬秘鑑にでている。天守閣はあったのである。


円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


これは茶碗のようなものがそれも大きなものが転々としたという、それは津波で流された日用品を意味しているのか?
垣とは垣根であり壁の意もあり路をかなり大きなものがさえぎっていた。
何度もそのことがしったということは長い間津波の後に残された瓦礫のうよなものであったのか?
南海老なら津波の時、そういうことはありうる。


その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る


死んだ善次の棺が持ち運ばれてしまった。これもなぜなのかわからない、大原村と関係あることは確かである。
それよりも


葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと


ここで海水で洗うととありそれも葬礼とありこれはもともと津波で死んだ人たちのことにまつわる話しかもしれない、津波で死んだ人たちの遺品は海水で今回の津波でも洗われていた。
六十六部回国上元なる者の塚ということはこの人は仏教の修行者であり
もしかしたら津波の被害者を弔ったのかもしれない、その時、津波の被害者の遺品などを海水で洗ったことからこんな伝説が生れたのか?

こじつけになるかもしれないがこれは一つの津波の被害があったがそのことを訴えたが
相馬藩では戦国時代の最後の仕上げの時代でありそんなことにかまっていられなかった。つまり南海老村なら津波の被害がありそれを訴えてもいいはずである。
それができないことがこんな伝説に残ったとも推測される。

その犠牲者になったのが善次という大工だったのである。

「善次よ、中村城の天守造りに励んでいる時か、津波の被害の惨状を見ろ
こっちの方で働くべきなことはいわなくてもわかるだろう」
「そんなことを言っても殿様の命令には逆らえないんだよ、首が飛ぶよ」


南海老に住んでいた善次は慶長津波の被害をまのあたり南海老だから見ていた。
その時、中村城への天守の造営にかり出されたのだがうしろめたいものを感じていた。
それで夢にうなされていたりして怪異なことが起きた。
垣が路をさえぎるということは中村城に行くなということの例え暗示かもしれない。
中村城の天守造営をひきとめるものが何かあった。

ただ「おいか」というのがわかればいい、これもどう考えても「おいか」とは「おまえ」の意味だろう。
なぜ死んで入った棺桶が大原の方から来た黒雲にもちあげられたのか?
これもなぞだけど何かの祟りだったのか、善次という中村城天守造営にたずさわったものは何か呪われたのである。
そうではないか?中村城の天守造営にたずさわることは名誉なことであり
こんな怪異なことが起こり得ようがないのである。

これは民間で伝えたものであり相馬藩政記などには記されなかった。
六十六部の墓とは津波で死んだ人かもしれない、ともかくこの伝説を津波で解くと
それなりに辻褄があう、いや合わせているのかともなる
津波に関する伝承が全く記されていないからこれが唯一そうなのかと思った。

この伝説も何なのか本当は皆目わからない、ただ中村城の天守造営に日々たずさわっていた大工が南海老村にいたということは大事である。
その時、慶長津波が起きているからである。



垣はkakinojoii1.jpgの字である
 
 
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2014年06月08日

夏あざみ (一人暮らしの高齢者のサービスの仕事が増えるー小高の人はやっぱり金をもっている)


夏あざみ

(一人暮らしの高齢者のサービスの仕事が増えるー小高の人はやっぱり金をもっている)


雨ぬれて買い物行くや夏あざみ

プレハブの宿泊所多し夏あざみ
老鶯や住宅街静か曇るかな


買い物は原町だと得だ、イオンはキクチより新鮮で安い。
現代はつくづく一万くらいの人口の所はかえって物価も高くなる
標準の生活ができない、車がないから余計にそうなる
だから一旦便利な暮らしを覚えたら不便な所には帰りたくないだろう。
そういう現象が起きているのが原発避難者などである

小高の人でやはり60代の人が一週間二回の食事の用意で二万払うというのは高いなと思った。
やはり小高の人は金もっているなと思った。
前は自分の家に知り合いの人が十万で知人を雇ってくれと頼みに来た。
その時は補償金のことは言われないしわからない時だった
自分は十万では高いと断った
今になると雇うのは鹿島区や原町区の人ではない小高の人に雇われるのである

これも変な話しなのである。シリアの避難民だったらテント暮らしだから
こんな生活からぬけだしたい元の街にもどりたいと言っていた。
そこだって戦禍で荒れ果てているのだ。
それでもテント生活よりはいいと帰りたいとなる
原発避難者などはもう補償金でこの暮らしでもいいとさえなっている

ただその補償金もあと二年とかでうちきられる。
そこからがかなり問題になる。
小高という不利な所で住まざるを得ない、でも小高なら住める
それでも財産価値が下がったしそういう街自体に住むことが嫌になる
街を復興させようとする気概のある人は少ない
だから若者は流出しているし老人は補償金暮らしの方がいいとなるものもいる

人間はなにかにや言っても楽な方に流されるのである。
苦しむのはいやだけで追われてやむなくそうしているのである
あえで人は苦しみたくないのである

ともかく高齢化で老人の一人暮らしが増えてくるから家事手伝いの需要が増えてくる
時代によって所によって増えてくる需要がある
そこは何であれ仕事になる。高齢者が増えてくるのだからその関連の仕事が増える
その一つが健康で一人暮らしの高齢者のサービスなのである。
この仕事は別に重労働でないし60代でもできる仕事である
だから60代で金のない人はまたそういう場所が働き安い

ただ家事労働というのは何か介護とにていてその人や家と深く接するから
そのマッチングが非常にむずかしい、みんなうまくいくとはいかない
みんな信用できるとは限らない,家の中を荒されることがあり本当に怖い
何かもめごとが起こると殺人までなるかもしれない
自分はその被害者であり財産まで全部もっていかれるところだった
だからよほど用心しないと家の中に入れることは最も危険なことである
外国人の家事手伝いを入れるというがこれはかえって単純労働よりうまくいかない様々な問題が生じてくる


原町にはとこどころ閑静な住宅街がある、そこに老鶯が鳴いている
今は梅雨でありそういう静かな所に住むのはいい
原町とか相馬市だったら別に現代の標準の生活ができる

あざみは四季を通じて咲いている、この辺はともかくプレハブの仮設であれ宿泊所が多い。
あざみはたくましさがあり野太いという感じがする
知り合った女性はあざみがふさわしい。
ただいろんな苦難を背負わされて10年老けてしまったのである。

 

2014年06月09日

抽象画(秋の色)


抽象画(秋の色)

autumncolours.jpg

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autuflowers.jpg


抽象画は同じプロセスを踏んでできふすい
万華鏡は必ず使っている
次に極座標も使っている
ゆらぎも使っている
この辺で抽象画になりやすい
ただ何が生れるかは全く偶然である
こういうことは今までなかった
画家だってイメージとして浮かぶから描ける
全くイメージに浮かばないの描けない
具象を見てもそうである

これはただパソコンの操作の過程で偶然に生れる
だから人間の脳に頼っていない

人間はただこれは秋の色だなというとき
秋の山だなと見るだけである
こういう価値判断はパソコンにはできない
人間の感性である

だから一句もパソコンでは俳句も作れない
短いから一見できそうでもできない
そこに人間とパソコンの違いがある

コンピューターは決して人間を越えられない

例えは医療でもいくら高価な機械でも
見るのは人間であり人間の眼である
そして人間を見る時は総合的に見る眼が必要になる
だから医者は患部だけをみていてもいい゛医者にはなれない
人間を診るということが大事になる
ただそういう医者はまれである。

タグ:抽象画

なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか? (歴史は勝者と権力者によって記されたから無視された)


なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか?


(歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=99130060


歴史というのは例えば大和王権に対して蝦夷が抵抗したことはわかっている。
では蝦夷が何者かというとほとんどわからない
ただ蝦夷は強大な大和王権に抵抗する勢力だった
それはアイヌの一部が交じっていたかもしれないし
最近では大阪辺りでナガスネヒコや物部などが政権争いに敗れ
東北に逃れて在地の勢力を従い反抗した
その中にさまさまな勢力がありカヤ(伽耶)族も交じっていたかもしれない
伽耶というとそれだけ古い渡来人であり日本に土着化していたのである


歴史が勝者の歴史としたとき、勝者の側にたって歴史は記される。
だから蝦夷は賊とされ征伐されなければならないものとして記される
それは鬼ともされるが実際はそうではない、むしろ鬼としたのは征服側である
だから蝦夷のことをいくらわかろうしとしても資料がないからわからないままである
大和王権のことはいろいろと記されても蝦夷のことは記されない


それで柳田国男はそういう権力者側、支配者側ではない民間の人たちの側にたって歴史を見る作業をしたことに功績があった
文字で記されない民間人が伝える口碑を解きあかして民間人側からの歴史を見させるようにした。
そういうことが今回の津波にもあった。

これだけ巨大な慶長津波のことが記されなかったのか?
それはやはりその時、戦国時代の終わりであり津波の被害のことなどに
復興などに財源を使えなかった、大阪の陣の出費やら江戸城の普請などに
かりだされた時期でありそういう余裕がなかった。
そして相馬藩ではまだ開拓されない原野が津波にあい被害が少なかった
とはいえ700人溺死と記されていたのだからそれだけの被害があった

ではそれは誰が死んだのかというと謎なのだけどやはり漁労民などが主に死んだのだろうただその内訳は不明である、その手がかりとして南海老村に残された伝説を引用した。

南海老という場所や中村の天守造営にたづさわった大工の伝説である。
それが何か慶長津波を示唆しているのだ。
茶銚が大きくなり転々としたというのは津波に流された様子であり垣が路をさえぎったというのは津波で流されたものかもしれない
六十六部の墓から青い光を発したというのも海の色を思わせる。
この六十六部は仏教の修行者であり津波の被害者をとむらったのかもしれない
海水で洗うとこの怪異があるというのはそのことを示唆している。
海水で遺品や死体を洗ったかもしれないからだ


そして中村の天守造営は大工にとって名誉なことなのに引き止めるものがあった。
その理由は何なのか?
それが何か自分などが探求した慶長津波のことが記されなかった無視されたことに通じている
この大工は何か呪われたようにして死んだのである。
普通だったら天守造営にたずさわったものなら代々の名誉として記される
それが南海老村の伝承では呪われたものとなっている
これは相馬藩政記に記されたのとは違い民間人側から記されたのである。

歴史に記されないくても何かそのことで民間人の間で伝説が残される
蝦夷にても大和王権側には記されないがアラハバキ神社などが残された
何かは痕跡は残される、だからこの南海老村の伝説は何か記されなかったことの
象徴的なものであり謎がここにあるかもしれない。


「天守造営より津波の被害の復興のために善次は大工は働け」

そういうことがまわりからあったが主君の命令でできなかった。
それで津波の供養をした六十六部の墓から青い光となり茶銚が転々としたとか
垣が路をさえぎったとか津波のことを生々しく思い出させるものを示した
ただ藤金沢は高い場所だから津波は来ていない
でもすぐ近くには津波が来ていて被害があった


相馬藩の主君は

「善次よ、津波より天守の造営に勤めよ、津波の被害のことは忘れよ」
「そのことはわかりますが津波の被害も甚大でありこちらでも働かねばならないのですが・・・」
「主君に逆らうのか」
「滅相もございません、ただあまりにも津波の被害が大きく仲間も死んでおりますので・・」
「それよりも天守造営こそ大事だ」
「わかりました、わかりました」
その時、相馬藩の歴史を記す筆吏が
「津波の被害のことはいかがいたしましょうか」
「まあ、人的被害は大きかったが原野が主に津波の被害にあったから米は例年のようにとれるようだ、だから700人溺死とかしるしておけ」
「700人では多くないでしょうか」
「だいたいの数でいいよ、これだけの津波だからそのくらいは記しておかないと・・」
「かしこまりました、おおせの通りにいたします」


こんな調子だったのかもしれない、ただその津波で死んだ人たちは善次にその無念がふりかかって善次は呪い殺されたともなる。
つまり700人溺死した怨念がここに残っていたのかもしれない、
あとで相馬藩で民のことを思い天守は財政的に苦しいから民のために使うため作らなかったなどと言っているが実際は天守造営を中止した。
それはその時津波の被害があり何か天守を建てるのをためらった
津波の被害者のことを恐れて天守を作らなかったのかもしれない
それがあとで相馬藩の主君は名君で民のことを思い天守は作らず民のために作ったとなったのかもしれない・・・・


いづれにしろ当時の慶長津波のことを解きあかす資料はほとんどないから
これが唯一の資料かもしれないとしたら貴重である。
ただ伝説の解釈はいろいろあるが中村城の天守を造営していた大工が南海老村にいたということは大事である。
時期的にも場所でも津波の被害と深く関連していたからである。

posted by 老鶯 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月10日

抽象画は色の科学的分解作用なのか (秋日暮という一つの具象画から抽象画への例)


抽象画は色の科学的分解作用なのか

(秋日暮という一つの具象画から抽象画への例)

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岩間に沈む太陽

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 密集する山々

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秋日暮http://www.motokawa.com/kaiga/kaiga-20-2.html


ここから分解すると確かにこれは秋の色になっている
この具象画は抽象画の側面もあったから抽象画に分解されやすかったのである。
パソコンの抽象画とはまだ謎である。

バソコンの抽象画で感じたこと (霊は光源や色彩のような形で存在する)


バソコンの抽象画で感じたこと

(霊は光源や色彩のような形で存在する)

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自分には絵の能力が全くない、何一つ具象画を稚拙なものでも描けない
でも不思議なのはパソコンの抽象画でまず感じたことは今までにない色の美しさである
この色は今までの絵の具では出せない色である。
ただ単に色の配列だけで美を感じる
だからこれは何なのだろうと思った


そもそも人間にとって色彩とは何か?
そのテーマが絵画の中にある
絵画の現す美は主に色なのである。
立体性を追求すればそこに意志が生れそれは建築になる
絵画も立体性を追求しているが主なものは色である
その色は無限なのである。
同じ赤でも千種類くらいの赤があるのだ
だからすでに色は無限だとなる


その色とは何なのか?
それは人間が神に与えた魂の様相なのである
青かか黄色から感じるもの
光を受けてその色は映える
その色の世界は神が作り出した無限の魂の反映なのである
花々の美しさはまさにこの色にある
本質的には色によって個性が作り出されている


霊体といった身体的表現を必要とせず、光源や色彩のような形で存在するようになるのです。
その形態で、さらなる霊的進化の道をたどっていくことになります(シルバーバーチ)


まさにこれは色が霊性の表現としてあることなのだ。
もしこの世に色がなかったら暗黒であり地獄になってしまう。
毎日人間は色を感じている生きている
四季の花は色によって変わる
緑は何か癒しであり青は澄んだ心を反映して白は純白を示している
それは心の純白でもあり清らかさである。

その無数の色を光線が太陽がさらに美しくする

天国の花園というとき、そこは彩り豊かな花園というとき色の世界なのである。
天国とは何かというときすでにこの世にその模造として現存する
人間はそれを心の眼で見ていないだけである。
それは例えあったとしても心の眼で見なければ見えない世界なのである。

人間の心はこの世で様々なものによって曇らされる
様々な欲望が限りなくありそれによって曇らされる
それは実際は老人になっても消えるわけではない
死ぬまでそうした欲は消えないのである


東京に空がないというときそれは本当の色がないということである
北海道のような所だったら広々として色が映える
田舎でも映える、この辺では放射能に汚染されたが
この放射能の不思議は全く自然の色には影響していない
水は澄んでいるし空も澄んでいるし花には影響がなかった
それを何度も書いているけどだからどこが汚れているかもわからないのである。
だから中国のように黄砂とか煤煙だとはっきり目立って汚れを意識するが
放射能はそうした汚れを意識できないのである。
それが怖いと言えば怖いとなる
ただ美の世界は見た限りでは破壊されていないのだ
奇形化した花とか動物が生れたら目に見えて影響があることを知る
まだそこまではわからないから美の世界は破壊されていないと見るのだ


人間は常に肉的存在ではなく霊的存在だと何度も言われるけど
なかなかそれは理解しにくいのだ
霊的存在だというというときこの色の世界を例にするとわかる
この無数の色の世界を作り出したのは神である
その色を見るのは人間の心であり肉体ではない
要するに認識の喜びは色の中に見いだされる
肉体の性の渇望はそれゆえに否定される
人間の本来の認識をゆがめてしまうのが性だからである。


コンピューターから作り出された色の世界は自然の色とは違う
でも自然の色を反映しているものであるから自然から離れては芸術はない
バソコンの抽象画はパソコンから生れた芸術である。
だからインターネットの世界と切り離せない
その原画となるものがインターネット内にあり
それを直接加工することでできるからだ。
これは本の世界ではできないものである。
インターネット内にあればダイレクトに加工しやすく本からはできない
そして抽象画から抽象画に無限に変化しやすいのである
その原画は何かはわからなくなるのが抽象画である


ともかく色とは無限である
最近プリンセスダイアという花を知った
これは鉄線の類だとは思えなかった
最近は新種の改良した花が増えている
その色がなんともいえないものがある
青いガーベラなどもそうだった
プリンセスダイアナというとイギリスの有名なプリンセスを思い出す
確かにその赤はそれはふさわしいので自分の庭に置いた



プリンセス ダイアナ

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プリンセスダイアナよ
その赤よ
そは徒には散らじ
赤き誠を示し散りぬ
その赤さよ
そが心に残らむ
その熾烈なる赤さよ
後の世にも残らむ

dyana111.jpg

写真のとり方で同じ花でも違って見える
これは比べるために引用した。
花の写真はインターネット上に無数にある
ただちょっと角度を変えたりするだけでも違って見える
でも実際はなかなかこのような写真のように見ていない
そこに他人の写真から新しい発見をする
その人の独自の視点から写せば著作権は生まれる



プリンセスダイアナは不埒な女性ともされた。
ただ情熱的な赤の女性だった
その一生は不運に閉じた。
この詩はまたその女性をシンボル化したものとは違う
花はそれぞれ花言葉があるように精神の象徴でもある
赤はやはり情熱であり日本でも赤き心というように
至誠を示しているのである

花はやはり女性にふさわしい、女性にも様々の人がいて
そのふさわしい花がありそういう人がいる
花はやはり女性的なものであり女性的感覚なものである。



花の心は・・・

花は静かに開く
花は内に花びらを重ね赤みを帯びる
少女のような恥じらいを秘めて
花は横暴な手に触れられるのを拒む
そっとやさしく触れられること望む
花は静かに開き静かに閉じる
花はやはり女性の心に通じている
その体も心も微妙にセンセティブであり
花は女性の微笑みのように咲き
花は微妙にして繊細にふるえる

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花も無数の花がありそれを知ることは一生を要する
花の名前だけ覚えるのにそれだけかかる
花は新種の改良した花も増えているから無限なのである。

梅雨 (相馬市の道の駅でまた老人が集まっていたー避難民の補償金がやはり話題になる)


梅雨

(相馬市の道の駅でまた老人が集まっていたー避難民の補償金がやはり話題になる)

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小雨ふり朝の草原夏雲雀
6号線燕の雛やはや育つ
梅雨の日や老人集う道の駅


ローソンの屋根の下に燕の巣があった。すでに巣立ちするように大きくなっていた。
いつのまにここに巣を作っていたのだろうと思った。
あそこは意外と安全である。
人がしょっちゅう来るから烏とか雀にねらわれない
燕が巣を作る場所に一黒苦労する
あそこはいいところを見つけたと思う
家の軒先でも猫でも烏ずもねらわれすい
雀はこの辺は別に減ったように見えない
原野化しても餌はあるのだろう。

自分はいつもあそこでコーヒー飲んだりして息抜きしている。
やはり外で飲むのが気持いいのだ。気分転換になる。
喫茶店あればいいが喫茶店だと今は400円とかたかくなるしなかなかない
人間はなんか気分転換が必要なのだ
今の梅雨の時期は特にそうである
なかなかでかけられないから憂鬱になる
これまでは仙台からフェリーで必ず梅雨の時期には旅に一カ月とかでかけていた
今になればつくづく恵まれていたなと思う

道の駅では車で北海道に行くとか例のごとく老人が集まっていて話ししていた。
その人は車で寝泊まりするから宿泊代はかからなかったと言っていた。
車もっていると泊まることでは楽である

そこで話ししていたのは郡山市から仕事で来ていた人だった。
補償金の話をしたら


「津島の・・か知っているけどこの前あったら一億もらったとか言っていたよ」
「この辺では小高はもらっているな、一時帰宅でもガソリン代とか何万とかもらえるんだよな、何かと金がもらえるようになんているんだよ」
「5億もらった人もいたよ」
「津島だともう帰れないだろうな」
「土地ねえかとそいつは言っていたよ」
「そんだけ金があるんだから豪邸は建てられるな」
「でも土地は簡単に手に入らねえし億の金もなくなるかもな」

常に話題になるのは補償金のことである。浪江町ではまず一億をもらうのはめずらしくないだろう。ただ一億にしても家を建てるとなると土地代だけで高くなっているし
簡単に買うこともできない状態である。
だから金があってすべていいとはならない
浪江の工場経営している人はお前らは補償金で働くことねえだろうとか言われると
何か不満を言っていたのもわかる
金があるからといい方向にみんな働かない
金があることでいろいろ言われるし危険にもなってくる
原発避難民はどこでも金があっても回りからいい顔されないだろう。
あいつらがっぽり補償金もらっているからいいよな、俺たちはこうして毎日安月給で働かなきゃならむとか必ず回りからねたまれるし特に原発避難民は特権階級となり

郡山市では車が実際に傷つけられたこともわかる

原町の人福島市で傷つけられとかあり福島市の人も線量が高いから不満がある
やはり原発の避難地域はもらいすぎということがあるだろう。
ただそこに住んでいる人にすればすでに先祖代々の土地であり家を失ったのだから
その埋め合わせでは当たり前だと思っているだろう。
それもわかる、でも回りではそうは見ていない
避難民だけが何であんなに優遇されているのだと回りでは見る

そして働いている人にすれば安月給で働かなきゃならんのは馬鹿らしいともなるだろう。補償金をめぐってこの辺では南相馬市では特にそうだけど
他の避難した人たちにも回りではそういう眼で見られている
結局避難区域はもう金をもらったから浪江で帰りたくない
億の金があってもそこはその金に値するサービスを受けられないのだから金の価値がないのである

だから果たしてそんな大金が幸せに結びつくかどうかはわからない
人間の幸福は今はわからない、その最後になりようやくわかるとかなることも多い
だから何十年後にどうなっているか見ないとわからない

何億もらってもその金も使ってしまい結局何にも残らなかったとかなるかもしれない
村の人も町の人もばらばらになって浪江町は結局なくなった
金をもらっても回りからいい顔はされないしいいことなかったとかなるかもしれない
金はみんないい方向には働かないのである。
そうはいっても今のうち金だけでもいくらでももらっていた方がいいとなるのが
そんな状況だから余計になり避難民はただ強欲だとか言われるだけになる


六号線はやはり東京と通じている時、その役割を果たしていた。
でもこの辺は工事関係者などまだ多く来ている。
だから外食店などはそういう人たちが常に来るからいい
五本松のレストランは夫婦でやっていてうまいとか言っていたので入った
イカの天ぷら定食は1000円では野菜も入っていたので安い方だろう。
奈良のナンバーがあったから除染であれ今はとにかく遠くから来ている
だからレストラン関係などは前より繁盛しているのだろう

ただ一部は仮設では繁盛していたが減ったのでめっきり来なくなった所もある
ただ以前としてプレバブの仮設の宿泊所はあちらこちらに建った
だから外部から来ている人は相当数いる

六号線はやはり東京と通じた時、その役割を果たす
途中で切れているから道の役目を果たしていない
それでも車は全然減っていない、まだ工事のためのトラックが頻繁に通っている
あと何年間はこうした状態がまだつづく
ただ5年くらいしたら工事も一通り終わったりしたらそのさびれ度合いは半端じゃないかもしれん
それがこの辺に住むものの怖さである。
夕張のようになる恐怖がこの辺にはあるのだ

いくら補償金をもらったからといってそれだけで今度は豊かになれないだろう。
東電に代わるような産業がないと衰退する
火力はまだあるからそれはこの辺の経済を以前として支えるだろう。
常磐高速道路ができればまた復興の力にはなる
やはり工事が一段落したら相当にさびれる
老人ばかりのしょぼい所になっているかもしれない
そういうところでは金をもっていてもいいサービスが受けられないのである。

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今日は母のショートスティでありなんとか行ってくれたから良かった。
風呂に二カ月も入っていなかったからだ
「厚寿苑」は近いから利用しやいのである。
つくづく高齢化社会は何で近くが大事になる
買い物だってそうだし助けてもらうにも近くにいないとできない
原町でも相馬市に娘がいる人もやはり遠いのである
隣にいるような人だと助けられるのである。

介護とか病気は物を買うのではないのだから近くの人がしてくれるのだからそうなる
でも厚寿苑では地元の人はほとんど働いていない
介護士は南相馬市以外から来た人たちである。岩手県の人もいるとかいろいろである
あそこは三階までありホテルのようになっていて収容人数も多いからいい
それが近くで利用できるからいいのである
必ず一日一回はすぐに様子見に行けるからいいのである
それで安心するしなんか用事があるから出かけることもできない

いづれにしろ自分はもう一日たりともやはり出かけいるの用意ではない
猫を飼ったことでも出かけられない
猫は飼うことはめんどうだった、自分のようなものには猫を飼うことは向いていなかったでも大きな家に一人いるのも淋しいから飼った
だから何か一日たりとも出かけられないというのには変わりないしこれからそうかもしれない

とにかく梅雨の時は気がめいるからやはり小雨くらいでも自転車で走るのがいい
人間はやはり気分転換が必ず必要なのである

2014年06月11日

相馬市史3(民俗編がインターネットで読める) (漁業の部の紹介)


相馬市史3(民俗編がインターネットで読める)

(漁業の部の紹介)

相馬市史3(民俗編の漁業の部)
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/57973.pdf


●帆掛け舟の時代は風を知らないと命にかかわっていた

明治や大正の交丸原釜沖に打瀬船(底曳)か群集し
て帆をひいてあるいた。南風が吹くようになると小名
浜へ四倉、江名、久浜などの帆打瀬が何十鰻と来た
(大正頃三河から持って来たので三河船とも云った)・

原釜、松川では、昭和初年ごろから、漁船の動力化
がはじまっている。シタンポーに機械を入れたのが昭
昭和五、六年である。
現在は機船底曳漁が盛んで、二八、九屯の底曳船が


朝起床して浜へ下りたとき、蓑ず考えるのはその日
の天候である。一片の雲行へ雲の形、星のきらめき、
浪の音、風向などに?漁師は常人では考えられぬ細か
な観察をしてい為。季節風なども一定方向から吹くの
が常だが、それでさえも土地、土地によって細かい変
化がある。

コチは、汚』上で北東の風をさすことが多い。北コチ
とも云う。風のうち一番扱いにくいのはコチとナライ
である。なかんづく悪いのは寒コチである。必ず雪が
つぎものである。ナライのツケはそんなことはない。
コチとナライはつながっていて、コチが吹いてナライ
となってあが為ことが多い。|番恐しいのはコチの
雪シヶであると云う。冬至から寒明けにかけてニチシ
ケが多い。吹雪いてくると一寸先ぎも見えなくなる。
子にも孫にも、コチシヶだけはくわないようにと教え
る。
コチシヶに会ったときは風むきに八金華山の方角
に走れば、山のかげになるから海はよくなると云われ
ているC「寒コチ雪を招く」と云うのは、これらの事
をこったもので、反対に春のコチはおだやか沼ある。


とか、東から雲が出ると雨となるとか云われる。蔵王
山をこのへんでは「おたけさん」とよんでいる。鹿狼
山のかげになっているので、海上一里(約二十尋)位
出ないと見えない。新地では浜を出るとすぐ視野に入
る。十月から六月頃まで雪をかむり、頂きが白く見え
る。百尋タチの境へ行くと蔵王山も山頂を没し、そこ
から先きば和船では行けなかった。
:刺網漁にはこの山が山しめの対象となるばかりでな
く公夫侯の変化の指標ともた》っていた。

漁業というのは海を相手にしているから経験した人でないとわかりにくい、
海からの視点をもつことは神に囲まれていてもなかなかできないのである。
東風(こち)が吹くとそれは浜通りでは確かに海から吹いてくるのを感じる。
そろそろ春だなと感じる。でも実際は3月ころから吹き始めてもその時まだ寒いのである。
だから寒い東風をサムコチといっているのは興味深い。
浜通りでは3月に雪ぶ降りやすいのである。
それで3月11日に東日本大震災がなり津波が起きた。
そしてその時運悪くこのサムコチが飯館村に向かって吹いたのである。
その時は山の方も雪だったのである。
それで放射性物質が浪江の山や飯館村に雪や雨と共にたまってしまったのである
このサムコチに影響されたのが運が悪かったのである。
このサムコチは飯館村から川俣から福島市まで伊達までも峠を越えて吹いたのである。
だから福島市が意外と放射線量が高くなってしまったのである。


●漁業と山の関係


烏崎浜では南はずれのお蔵前(藩の郷倉があった)

そのの近くに、見張りの山があって色見山とよんだ。碧南の
吹くころこ上へつめ五、評(魚群の動きを着視した。主に
年よりの役であっ龍。鰯群が沖合のヒラマ仁か上ると
船を出して網を空いた。

大正三年頃は連日の大漁で、蚕様はあるし、明日ま
でおくと腐るので《女ご衆は夜中まで寝られなかった
と云ってい五?午前十・一時か十二時ころ水楊をし、シ
ロ分けが終ると昼まぎになる。それを運んで、しめど
にかけて処理するまですべて女の役目で、浜育ちでな
い嫁など、忙しい上に臭いので泣かされた。
油砿船の上げ下げに使う賀》木に塗ったりし重すべ
て自家で消費した。〆粕は粉づいて厩肥とまぜて田に
入れたり、《畠の桑の根つぎに使った。多量に田へ入れ
ると、


新造艦を海に下すと、磯部では金比羅神社、烏崎で
は津明神の沖で三回船をまわし、潮水を汲んでオブナ
ダサマとオモテにかける。また不漁がつ望くと清浄な
沖の潮水をオブナダサマにかけ、「サッパリ漁させな
いでわかんねえ、オフナダサマ大漁授けろ」と祈るよ
うなこともする。



烏崎では「津神社」への信仰が生きていた。
ただこれが「津波」と関係していたのか鯨
を祭るものになっていた。
金比羅も明治になってかちら祭られていた。
浜通りの海でも慶長津波などの伝承は残っていない。
松川浦の津神社(つのみや)はあそこに逃げれば津波から助かると逃げて助かった人がいたから何らかの伝承があった。
そこもぎりぎりで津波からまねがれたから信憑性がある。
烏崎の津神社にしろ北原の津神社にしろそれが津波と関係あるのかわからない
そういう伝承がないということが謎としてそれが何故なのだろうと探求してきた。

漁業は農業とも密接に関係していた。蚕様とか漁師にもしていたとすると漁業と農業をかねあわせてやっていた。だから魚なども肥料になって土を肥やしたのである。


●漁民が佐須などの山津見神社を信仰していた


佐須の山神(飯館村)は農耕、安産へ山仕事などの
広汎な信仰対象であるが、また漁一民の帰依が厚い。こ
れは漁場の占定に用いる山シメから、山獄信仰と結び
つきが生じたらしい。
昔は浜から草鮭がけで一夜歩いて参詣したと云う。

古磯部の神社境内には大きな山神碑がたっている。か
つてこ封で山神の御開帳をしたと云っている。佐須の
山神は大山津見神を祭神とするが〈由緒も本社も明確
でないと云う。


このほか相双の沿海村の漁民の信仰を集めたもの
に、小高町の蛯択稲荷、烏崎の大木戸稲荷、松川の川
口稲荷、相馬の笹川稲荷などがある。このうち姥沢稲
荷はかなり広い信仰圏をもって栄えた。

概して云えば西日本では漁業神として恵比寿信仰が

方では漁業神としては稲荷神の方が一般的である。
孔天保、嘉永の頃の例だが、・萱浜村(原町市)で地曳
の船頭が不漁藍歎いて稲荷を祀り、豊漁を祈願して大
漁を得、邑民これを大漁稲荷とよんだと云うことが、
奥相志に記されているが、稲荷瀞漁業神として信仰さ
れる基盤が既にあったものとふられる。


古くから村盈に湯殿行の風習があって、お山をかけ
ると、帰途東北地方に喧伝されている漁業信仰の中心
地大山(山形県)の善宝寺によってお護摩をたいて来
た。今でも此の棺仰は盛んで、沖で網がひつかLると
「大山善宝寺たのむ」と三回唱えると、事なくはづれ
ろと云う。


金華山信仰も昔からさかんで、鰹漁の盛んな時には
南部あたりまで行ったと云うから、金華山参詣も屡堂
行れていたのであろう。今も漁のひまなとき、仲間や
一家の者か漁船に乗って海路参拝に行く。金華山の碑
は農村地帯によくたっているのを見るが、この信仰は
農作にも関係していて玲大てい高いところにたってい
るのは、金華山を遥拝するところにたてるならわしか
ら来ているのであろう。


請戸では最近まで旧七月三十日に夜釣りをしていた。
海上でホトケ(士左衛門)にあうと必ず船上にあげ
てゆく。見すて上通ったため紀ひといシヶにあったと
云う例もきいている。あがりたくて浮いているのだか
ら、揚げねば.ならぬと云う。ホトケをあげるとき「大
漁授けるか」、「かならず大漁させるからあげてくれ
ろ」と問答してから船にあげ石ことも各地できくこと
で、あげるときはワッカタ(右舷)からあげるものと
されて

金華山の碑はこの辺に多い、それが海から船でお参りするというのは理にかなっている
それこそ海の民にふさわしい信仰だとなる。
ただ金華山の信仰は明治以降に盛んになったみたいだ。
古い年号のものはない、江戸時代のものはまだ自分は見ていないからだ。
金比羅なども江戸時代からあっても明治時代にも盛んになっている。
江戸時代から明治時代へ古いものが継続されている。
相馬や双葉であれ宮城県の海とに国境があるわけではないから
魚群を追って名取から亘理から船がやってきた。
そこで海の入会権が問題になっているからそういう所に漁業権の発生があったのだろう。
ただ海というのは別に陸のように明確な境がないから区切ることができないから
海とは誰のものかとなるとむずかしくなる。
それで中国などが勝手に尖閣を所有するとか南沙諸島を領有するとかになる


蔵王は亘理の鳥の海でも真正面に見えるし海からも高い沖に行けば見えるから
漁師たちにとっては目印の山でありその天候を見ていたというのは興味深い
海から見えるものは船に乗って見ることができないから実感できないのである。
ただ蔵王の写真を津波の後に右田浜から写したけどあんなに大きく連峰として見えたことに驚いた。
蔵王は山形、宮城、福島県から見える山なのである。

山津見と松川浦に地名化してまであるのはやはり漁民が山津見神社にお参りしたから
海にまでもってきたのだろう。

yatumimap1.jpg


西日本では漁師の信仰は恵比寿だが東日本では稲荷になっている。それはなぜか?
稲荷は別に稲だけの米作だけの神ではない、その起こりは鋳(い)成りだったのである。
鉄を作るものの信仰が稲荷である。そして東日本の海岸線には砂浜には砂鉄がとれた。
それで砂鉄をとるものが技術者が北上してきたのである。

●慶長津波は民衆でも伝えることを政治的に禁止されていたのかもしれない


海というと漁民というとき、今回の津波でなぜ相馬藩では700人溺死としか記されなかったのか?
なぜ津波の伝承が残されなかったのか大きな謎になった。
その記されないことが後の今回の災いになったからである。
老人は「津波なんか来ることきいたことがねえ」こう言い張ってかなり死んだのである。
つまりこの辺では海辺で漁業している人すら慶長津波のことを知らないし
津波に関する伝承がほとんどないということが問題になった。
だから相馬藩内で津波に興味をもっている人はほとんどなかった。
なぜなら岩崎敏夫氏すら津波のことを一言も書いていないことでわかる
津神社が津波と関係しているとも書いていない。
それだけ津波のことが伝えられなかったのである。

南相馬市の博物館に津波を警告しにきたのは飯沼勇義氏であり東北大の地震研究者ではなかった。
警告されても興味をもつ人はなかったろう。

自分は700人溺死したというのは漁労民だとしたがそんなに海辺で漁労していた人が400年前にいたのかという疑問がある。
ただやはり海辺には魚でも貝でもとれるのだからそれなりにいた。
そして漁業は集団力が地引き網などになると必要だからその時相当の人数が浜辺に集まっていたかもしれない、地引き網は400年前にしていないとしても集団で組みで魚をとることをしていたかもしれない,漁師がどれくらいいたとかは陸と違って検地などないからわからない。
でもそなりの人数はいてそれが津波にのまれて死んだ。
そのことが詳しく記されないのはその時相馬藩の政治の最大の課題は中村に城を移転して城を作ることだった。それから大阪の陣の参戦や江戸城の普請が最重要課題だった。
そのために津波の被害があってもそっけなく700に溺死としてしか記されなかった。


だから南海老村の天守造営にたずさわった大工は津波を経験していて六十六部はその津波で死んだ人たちを供養した。葬式の時に海水で洗うと怪異が生じるというのはそのためである。海難者なども当時から存在して修験者や六十六部とかが供養していたのである。
相馬藩で津波のことが詳しく伝えられなかったのは何か相馬藩の政治的事情で伏せられた。内密にされたということもある。
政治にはそういう何か隠したいことが常にある。原発だって放射能は危険でもそのことは秘密にされていたし政府の都合の悪いことは隠されていたのである。
それはどこの国でも政治にたずさわる権力者はしていることである。
ただ政権が代わると明るみにだされる
相馬藩では代変わりしないことはいいことだったが権力の主要部が変わらないから
そこで権力の独占が生れたともいえる。

相馬藩で天守が作らなかったのは相馬の主君が名君だったとかではない、
その時慶長地震津波が起きて天守が作れなくなったのである。
そのことをビスカイノが相馬藩の城を訪れて城が壊れていて工事中だったということからもわかる。
会津の城も三カ月前の地震で石垣が壊れ七層の黒川城は五層になったのである。
あれだけの地震があって天守が作れなくなった。

そうしたことが南海老村の藤金沢で大工が呪われるようにして死んだこととかかわっていた。

慶長津波で死んだ700人は相馬藩では無視したのである。それだけの余裕も戦国末期の政治的課題がありなくてできなかった。
だからその辺の事情が南海老村に怪異な伝説として残った。
民衆でも何か津波を伝えなかったのはむしろ相馬藩の政治的主導があって表沙汰にできないものがあった。
相馬藩が弱体化して伊達藩が責めてくるとか当時の状況は今とは違っている。
戦国時代はまだ終わっていない、だから民衆へも政治的に津波のことを言うことを禁止されたのかもしれない、現代の何でも言える時代とは違う。
だからこそ柳田国男は民衆側にたち口碑を重んじて民俗学を起こしたのである。

posted by 老鶯 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

原発避難民の求めているものは第一に土地 (金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)


原発避難民の求めているものは第一に土地

(金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)

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土地と家も失い仕事失う、そして金だけが残され頼りとなる



原発避難民のことがいろいろ問題になるけどその本質的な問題は何なのか?
こういうことは故郷を失うとか先祖代々の土地とか家を失うとか経験したことがないことが起きたためにその本質が何か見えないのである。
金はわかりやすいから補償金が問題になる。
何でも金に換算すると現代では余計に具体的になるからそうしているだけである。原発避難民で一番の今の問題は一様に言うことは

家を建てるが土地がねえか


このことである。一億の金があっても土地は簡単に買えない、一億出せば買えるじゃねえかというが必ずしも土地は手に入るとは限らない、今は土地が高くなるから別に生活に困らない人は売らないのである。それは別に原発事故になったから売らないということではない、土地は田舎では簡単に売らない、特に田畑は簡単に売れないようになっている。
田畑を売ると農家全体に影響するから売れないのである。
農家にとって土地は唯一食料を生み出すものであり土地を手放せば農民という立場はなくなり無産者になり仕事も失うのである。

もちろん現代では田舎でも実際は専業農家は少なく土地に全面的には依存していない、
それでもやはり土地は農家の人は簡単に手放せない規制がある。
だからそういう規制をとりはらい自由に会社でも設立して農業をやらせようとする
政策を自民では打ち出しているがどうなるかうまくいかない。
農協改革も打ち出したがスムーズにはいかない。

不思議なのは津波でもう使えない土地が膨大に生れた、土地を失った。そこは空き地となり原野化している。その土地もどう使っていいかわからない。
以前として所有者がいて市でも勝手にできないだろう。
国や市で適当な値段で買ってもらいたいということはあるだろう。
だから特区にして土地の売買を自由にして土地を活かす方法をとるべきだという意見もある。

でもそういう土地が今度はソーラーパネルだらけになったらどう感じるだろうか?
実際に勝手に小高辺りで農家の土地にソーラーパネルが設置されて怒っていた人がいた。景観としてはいいということはない、やはり白砂青松の風景は良かったとなる。
ただ経済になると景観だけからは論じられない。
自分は火力発電所でもない方が景観的には良かったとなるがそれは許されない。
人間は景観だけでは生きていけない、だから京都の古い町家の前に高いビルが立ちのしかかるようになっているのも現実である。
土地利用にすればビルの方がマンションの方がいいのである。


原発避難民がもし故郷に町でも村でも住めなくなったらそれは何を意味しているのか?
そんなことを考えることもなかったろう。当たり前にあったものがいろいろ失った。
土地とか家とかは当たり前にあるものだったし仕事だって農家だったら当たり前にあるものであり仕事がなくなることなど考えたこともないだろう。
でも仕事まで奪われたのである。だから浪江の人が田植えしたとき、農民の顔は輝いていた。仕事はただ金をもらうためにあるのではなく人間の生存の基本としてある。
つまり補償金をたんまりもらっても仕事がないとする毎日ギャンブルになっていたら
その人は博打打ちになってしまったのかとなる。現実にそうなっている人がいる。
仕事がないし金はあるからそうなってしまった。
そんな生活を見ていたら子供はどうみるのか、とを育つのかとなる。

どうしても温泉街の市では何か歓楽街的なものが生れその性格もそういうものが培われる。すべてではないにしろ何か育った環境に人は影響されやすい。

近江出身の人と外国旅行であったとき、外国までいってねぎるのがうまいと思った。
外国なになると簡単にハデ着ないのである。そういう交渉ができるしやはり近江商人の末裔かともなる。東北人はあんなことはできないし自分はまねるべきではなかった。
なぜなら外国は日本との金の差が十倍とかあるのもありねぎるべきではなかったと反省している。
ただ人間はいかに旅でもちょっとのつきあいでもつきあう人に左右されるかということである。だから別に人間の性格とは生まれつき作られたものではない、その土地の影響で作られてゆく側面もある。

大阪に生れれば大阪人気質が作られる。「もうかりまっか」が挨拶になる。
そううい人たちと日々接していれば東北人だってそういう気質になる。
一方で農民とばかり接していればやはり素朴な人となるだろう。
自然を相手にばかりしていたらそううい気質が作られてゆく。
商売には向かないのである。だから東北人は歴史的に農民が多く商人気質が養われなかった。日本人自体が商売がへただというときそういう環境になかったからだろう。
イスラム商人や中国人ば商売がうまいというとき、常に他国と交わる環境にあったからそういう気質が養われた。

仙台は昔から東北では商いが盛んな都市だったから宮城県人は東北人ではないと言われている。伊達政宗は東北人とは思えないスケールの大きさがあったのは農民的気質ではないからだ。会津などの山国気質とも違った性格の人間だった。

結局原発避難民というのは何になったのか?東北人なぜもっと政府とか東電に抗議しないのかと全国から一面言われる。もともと東北人はおとなしいからだろう。
それは言える。でもその気質だってこんな状態になると変わる。

今度は沖縄のような権利を主張して政府や東電から補償金をとる交渉を常にしていかねばならないからその気質も変わってゆく、それはいい面と悪い面がある。

土地も家も奪われてしまったら金だけが頼りになり金の依存することが大きくなる。
するとより金第一の価値観に生きるようにされてゆく、今までなら田畑があり別に金にこだわらなくてもそれなりに生きればいいとかあったがそうはいかなくなる。
土地も家も仕事すら奪われたなればそうはならない。
だから金に汚い、強欲なやつらだとなりユダヤ人ににていると批判される。
それはそういう立場に追い込まれたからそうなっている。
素朴な農民なとではありえない立場に追い込まれた。

ユダヤ人も土地がもていならか国々を放浪して金融で身をたてていたのである。
何億ともらったらそういう考えにもなってゆくだろう。
その金をいかに活かすかが問題になる。投資などもする必要が出てくる。
金だけに依存するとそうなってしまうのである。


ただ原発事故周辺地域にもそういう影響があり前の状態とは大分違っている。
原発事故でもなくても膨大な土地を失っている。すると土地に依存するより
何か別なものに依存する、仕事とするほかなくなってくる。
放射能汚染で土地も利用できないとすると余計にそうである。
だから浜通りの未来は何なのかというときその産業を仕事をどうするのかということも
大きな問題になる。
今まで違ったことが要求されてもそんなことに簡単にできないし老人はもうできない、ただ年金とかで細々と生活するほかないとなる。
だかかかえって若い人はこういう故郷を見捨てて流出する。


いづれにしろ当面は原発避難民は金をもらうだけもらい将来に備えるとう発想しかできないだろう。ただ手に職をもつ人は有利だろう。なぜなら大工でも仕事が山ほどあり仕事ができるからどこに移ってもいいとなる。
農民は土地から切り離されたら仕事がしにくい、ただ土地を借りてしている人もいる。
牛を飼うことをはじめた人もいる。だからすべてではそうではないが土地から離れたら仕事がしにくいのである。


いづれにしろこういう大きな変化には人間はまず翻弄されるだけでどうしていいのかとか簡単にできない、ただ思うに現代社会広域社会であり移動しやすい社会だから土地に縛られていた社会でないから土地を基にした共同体はコミニュティは崩壊しやすかったのかとも思う。
この辺の職業で多いのがトラック運転手であることそのことを証明している。
現代は広域な輸送社会になるからそうなる。
原発事故でも一番困ったのが他から物が一時的に入ってこなかったことなのである。
広域社会で生きているから他から物が入らなくなったら生活できなくなるのである。
広域社会ということは金が物言う社会でもある。
もともとそういう社会になっていたから容易に故郷とかもばらばらになったのかもしれない。
何億もらったらどこでも暮らせるのだから暮らしやすい所に暮らそうともなる。
若い人は特にそうなってしまうだろう。老人でも東京の人は地方都市に移りすみたいとなるとき金があるからそうなる。住みやすい所に金があれは住めるとなればそうなる。

だから大内村から郡山市に避難した人はもう帰らない人が多い。
補償金で便利と所で暮らした方がいいとか他の都市、東京に移り住んだ人たちもそうである。東京の暮らしがいいと言う人たちもいる。
それが幸せがどうかはわからない、そもそも幸福感など計り得ようがないからだ。
だから江戸時代がどうのこうのというとき、現代と比べること自体間違っているのだ。
その時代時代の幸不孝があり計り得ないのである。


現代は借金している人が8人に一人とか本当に実際は多い。それも裏の金融機関から借りているというから借金生活が多い。それだけ金がかかる生活だからそうなっている。
現代の標準の生活するだけで金がかかりすぎるからそうなる。
何で毎日こんなに買うものがあるんだろうとなる。
オカズも何でも買っているからそうなる。
要するにもう食事の用意なんかめんどうだから弁当がいい外食がいいとなればそれもできる。すると手間もはぶかれ自由な時間が生れる。

現代はそういう時代なのである。そのためには金が必要だとなる。
金持ちは介護で高い施設にやれば苦労せずにすむ、たいがいそうしている。
貧乏人はできない、すると負担が大きく時間も奪われるのである。
ただすべてが金では解決しない、その一つ土地の問題だった。
金があっても簡単に土地は手に入らないのである。

posted by 老鶯 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月12日

津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た (人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)


津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た

(人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)

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子供のときから今に至るまで繰り返し見ているのが、大きな波に呑み込まれる夢だ。
パターンは色々だ。
海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる。

ガラス張りの旅館のロビーの、そのガラス戸いっぱいに津波が打ち寄せ、窓を破って押し入ってくる。

それでもいったん呑み込まれると、体は波に囚われたままいつまでも浮かびあがらず、もう少し、もう
少しで顔が出ると、我慢しているうちにどんどん息苦しくなってくる……。

http://blog.livedoor.jp/taeko_asano/archives/361351.html


溺れる(溺れそうになる、誰かが溺れている)夢は、精神的に追い詰められたときによく見る夢であると言います

 


人間は水に溺れる夢を見るのは誰でもある。一面が海になっていて取り残されてもうだめだ、死ぬんだなんて夢を見る。
水にのまれて必死になって泳いだりして浮き上がろうとするがもう助からないという夢を見る、たいだいもうだめだというとき目が覚める。


海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる


ここまで大津波として夢を見る人はまれだろう。
津波は普通は経験できないし見ることもできないものである。
海の水が押し寄せてきたとしてもそれは津波とは普通は自覚できないだろう。

自分は地震とか火事とか炎につつまれて苦しんでいて脱出するような夢は見ない
ただ水にのまれる夢は何度も見ている
一面が海になってもうどうにもならないという夢も見る
それは何か津波とにているが津波という意識はこれまでもなかった
普通に他の人も見ているだろう
一面が水に囲まれ海に囲まれ絶体絶命になっている
そういう夢は津波とにている
ただ海側に住んでいて津波を今まで考えたこともないし意識したこともない

相馬では400年もこんな巨大津波などなかったのだから誰も津波など来ないと思っていた

ただ自分は今回津波が来た小学校の前で何度も海の水がおしよせてその水に飲まれる夢を見た。
それが今回ちょうど鹿島小学校の前で津波が止まったのである。
その鹿島小学校の前で海の水がおしよせて海の水にのまれ溺れもうだめだという夢を何度も見た。
それは小学校の前だというときその前が家がまれであり田んぼになっていて海に出る
もしかえってそこに家が多く建っていたらそうしたし夢は見ないだろう。
海が近くても住宅地化していたり工場地帯とかなっていたら海がさえぎられるから
海の水がおしよせるような夢は見ない


水におぼれる夢などは何かに追われているから追い詰められているから見ると言われる
もう脱出できないというのはそういう心理状態にあるから見ると言われる
でも何かそうでもない、別にそういう心理状態の時でなくても見ている
だから鹿島小学校前でそういう夢を何度も見たこととが津波が来てから不思議になった。
海から離れて街に住んでいてもそういう夢を見る、そしたら海に接して荒い波の音を聞いてくらしていた人は怖くないのかといつも思っていた。
海を身近に毎日見ていたら何かその海にのまれる夢は日常的になる
海から4キロとか離れてもそういう夢を見ているからだ。

一面が海になるのと違ってその夢が場所が特定されていたことが不思議なのである。
ただ漠然と水にのまれ溺れる夢ではない
鹿島小学校のじき前でそういう海の水にのまれる夢を見たのである。
その鹿島小学校の校舎のある前で津波は止まったのである。

鹿島小学校の近くが住宅が何十軒かあり津波の被害にあった。
あんなところでも床上になり被害が大きかった。
津波の後でもたいして家が破壊されていないからたいしたことないと見ていたのである。しかし津波の被害にあった人は今も津波の来た海の方向が怖いと言っている。


不思議なのは仙台辺りでも石巻でも直接太平洋に接して住宅地になっていた。
石巻などは日和山の前など過密に家が密集していてこんなに家が密集していいのかと通りすぎたことがある。
その密集した家が根こそぎ津波で流された。
そこは入江でもない太平洋に直接面していたのである。

なぜあんな危険な所に人は住んだのかと津波の後に盛んに言われるようになった

そもそも弥生時代になると稲作がはじまり江戸時代辺りから開拓事業が拡大した。
伊達藩でも相馬藩でも海側に原野を開拓したのである。
でも慶長津波では相馬藩内は原野の所が多かった。
でも津波が来ていて危険な場所だという認識はあったはずである。
でも日本では土地がないから米を作るために海側を開拓してきた。
有明海でついに開拓する場がなくなったとき、農民は満州に移住した。
そこでも米作りしていたのである。
日本の宿命は土地が狭く耕作地がないから農業には限界があった。
その限界を突破するために海側を開拓して土地を広げた。
そういうことを可能にしたのは文明の力だった。
それだけの技術力が生れてできたのである。


縄文人が海を埋め立てるのを見たら驚き神罰があたるよとか言ったかもしれない
それは自然を恐れないものであり自然とともに生きていたからそう言った。
自然への畏れが常にあった。弥生時代になるとそういうことなくなった。
ただ米をそうして拡大して作ることによって急速に人口が増加したのである。
人口が増加したのは文明の力だったのである。
縄文時代だったら人口は増加できないのである。

弥生時代になり稲作文明になったとき、すでに自然への恐れは弱められた。

今回の津波ほど自然の恐れを感じさせたことはなかった。
自然の力はとても人間の想定できない力をもっていると驚いた。

古代では人間の夢を尊んだ


 西郷信綱の『古代人と夢』は、昔の人は夢をこんなふうに考えていたのかという新鮮な驚きに満ちている。王位継承者を夢で決めたり、夢の中に現れた観音様のお告げを信じたり、夢の売り買いまでする人々がいた。西郷は夢を主題化することによって「人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい」という。それにしても、夢を信じる、言い換えれば、夢ももう一つの現実であるという認識は、どのように生じるのだろうか。

 西郷がくりかえし強調するのは、夢の他者性である。夢は自分のものではなく、「人間が神々と交わる回路」であり、「神や仏という他者が人間に見させるもの」だという。

「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」(藤原敏行朝臣)
http://d.hatena.ne.jp/hyakkenn09/20140427/1398575416


これは興味深い、夢は神の御告げのような役割を果たしていたのだ。
それだけ人間の夢は不思議でありその夢を解くことが要求された。


人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい


津波は400年に一度となるとみんな忘れてしまい相馬藩では伝承などほとんど残っていなかった。
しかし津波のことを忘れていても海にじかに接して住んでいれば何か海への恐怖感が日常的にあるのが普通である。それが海に接してすむ人たちになかったのも理解できないということはある。

 
例えば
 
海に接して住んでいる人にこんなことを言った。
 

「わたしは何度も鹿島小学校の前で夢を見たんです
海からの水がおしよせてその水にのまれて溺れそうになる夢です
目が覚めると夢がさめてそ助かったなと何度見ていたのです」
「それは何なんだろう、あんなところに海の水が押し寄せるということはない
かなり離れていて海も見えないんだけどな」
「いや、小学校の前は家は少なく田が広がり海に通じている、だから海が近くに感じることもあるんだよ、前に住宅地があって海がさえぎられていると見えない
だから海を意識しないこともある」
「でもそんなところで海の水にのまれるとはなんなのだろう、
俺たちのように海に接して住んでいればわかるけど遠いからな」
「だからこの夢はなんなのか不思議だろう、この夢を買ってくれ」
「そんな夢を買えるか、海を見て俺たちは毎日暮らしている
海を恐れていてはここに住むことすらできなくなるべえ」
「それならいいですが、何か災いが起きなければいいんですが・・」
「俺を脅すつもりか」
「いいえ、その夢を何度も見たから言ったまでです」

ともかくあの地点ということが自分の夢では明確だった。漠然としたものではなかったのである。


住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ


これだけど恋人が波がよるのにも寄ってくるのが見えるというのはこの辺ではありえないいつも荒々しい波が防波堤に打ちつけていて荒寥としていた。
西の海とは違い穏やかな海ではない。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、波ばかり。


曇った北海の空の下、

浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるともしれない呪。


中原中也

この辺ではこういう海だった。人魚は沖縄だったらふさわしいだろう、実際にジュゴンがいるのだから空想でもなかった。
その海とはあまりにも違っていたのである。

いづれにしろ文明が発達するとそうした人間の夢でもそんなもの意味ないよとかなる
でも鹿島小学校前で自分が何度も海の水がおしよせてきて溺れる夢を見たことの不思議である。それは明らかに今になると津波だったのである。

posted by 老鶯 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係