2014年06月01日

「慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む (慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)


「慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む

(慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)

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北屋形村 釜前 東釜前


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

南海老村


常願壇


この地を常願壇という、往時常願なるも者八沢塩場を開く、故に常願明神と崇め塩釜7社の内に加えこれを祭る


北海老村


地勢小山多し東方平地北方瀬浦塩場多し


塩入 釜舟戸


下海老村 高屋釜


塩崎村

北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、鳥屋前より海を隔てる一里ただし上古のことなり


相馬中村藩における塩田開発


慶長津波から程なくして製塩事業が開始されたという話しがあります
松川浦の辺りの和田村に村社塩釜神社があります

江戸時代に記された塩釜神社の縁起によれば元和元年に諸国を徘徊している堀内玄番という老人が訪れました。
この人は千葉県の行徳の出身で和田村にとどまっているうちこの村が故郷の行徳ににているのでよい塩場になるだろうと見込んで村の人に製塩法を伝えました
これにより和田村には相馬藩領内でも最上級の塩場が完成しこの場所を玄番壇という地名がつけられました。


塩害の土地で塩の生産


塩害で農業が困難になった地域に塩の生産をはじめる
川村孫兵衛が製塩事業を伝えた場所はその地名に(釜)の字が用いられていた

仙台藩が安永年間に作成した地誌「安永風土記」の中の「代数有之御百姓書出」に亘理郡高屋村鳥屋崎浜の塩田の歴史が記されています

伊藤三郎左衛門という孫兵衛と同じく長州からやってきた浪人でした。
伊藤三郎左衛門元和6年(1620)8月に仙台藩の重臣である佐々若狭と川村孫兵衛に呼び出され塩田に適する場所を見立てるように命じられました


この本は慶長津波のあとに水田として利用できなくなった土地を塩田にして復興したという趣旨である。
そういえば塩田として活用すれば一番適していたことになる
つまり塩作り塩田の歴史から慶長津波のことを解明してゆくことに焦点をあてた
塩田の歴史も失われたものが多くわかりにくい、わずかに地名などに痕跡を残している

この本を読んで塩田で塩作りで津波からの復興をしたというとき、相馬藩でも塩田作りに着手した。和田村は松川浦の奥まった所であり波静かであり塩田には最適だったのである。

そして相馬中村藩でも塩田作りが伊達藩よりは遅れていても和田村ではじめられた。
のちに塩は相馬藩では原釜で作られ重要な産業となり飯館村まで塩の道が形成された。
飯樋には塩の役所があり60人が住んでいたとか塩は相馬藩にとって大きな役割を果たした。
当時の産業は木材とか塩とかでありそのために争いが起きたことでもわかる。
入会権の争いであった。当時では木材は石油に匹敵しているし塩の価値も高かった。
アフリカの砂漠では塩と黄金がとりひきされていたとかそれだけ貴重なものだったのである。

不思議なのは伊達藩の塩田開発したところの地名と
北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、(塩崎村)

亘理郡高屋村鳥屋崎浜とあるのもなぜだろうか?
それから高屋村とあり高屋釜と下海老村にある。

相馬藩と伊達藩は戦国時代は争ったけど戦国時代が終わると平和な時代になり交流が深まった。
だから相馬藩内には伊達藩から来た神が多い、小牛田神は山神でありこれが一番多い。
その他に信仰に類するものも多い。館腰という地名があったがこれも信仰として相馬藩内にも伝わっていたのである。
例えば相馬中村城の大手門の門の瓦は滴水瓦であり朝鮮系統の技術の伝播であり伊達政宗が朝鮮出兵で伝えたものらしい。
伊達藩から入ってくる技術があり伊達藩との関係が相馬藩では深いのである。
伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達に」というのはまさにそうである。

だから慶長津波の後に塩田開発が相馬藩でも行われたという時、それは伊達藩が先であり伊達藩の人が技術を伝えた。
それで同じような地名がつけられた。


慶長津波のすぐあとに相馬藩士が伊達藩に移住したのか?
中野村でありその時城もできていた。
それなのになぜわざわざ伊達藩に津波の跡に移住する必要があったのか?
これも塩田開発の技術習得のために移住させたのかもしれない、その後相馬藩でも松川浦の和田をはじめとして塩田開発が行われた。
ただ藻塩焼くとか原始的な状態であったことは推測できるが塩田となるとこれはかなり
高度な技術だからどのくらいの規模で行われたかはわからない。
北屋形、海老村にあり塩崎村にもあったかもしれない、なぜなら塩崎村まで津波が来ていて塩害に苦しんでいた。
すると塩田にしたのかということもありうる。
ただその資料はないのでわからないのである。
塩田の歴史もなかなかわかりにくいのだ。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

八沢浦というのも謎である。ここは漁業だけではなく塩を焼いていた。ただ塩を焼くとなると藻塩焼くであり原始的な製法になる。
ただ塩場となると塩田のような小規模のものがあったのかもしれない。
自分が一番気にかかっているのは七荷運舟があったということである。
これは明らかに外洋に出るそれなりの大型の船だったのか?
七つの種類の荷物を運ぶとなるとその七荷は何だったのか?
塩が運ばれたのか?何を積み出したのかも謎である。
たた船は出入りしていたことは確かであり八沢浦は深い入江であり港に適していたのである。

古歌として八沢浦八景が残っているけど都の人たちは八沢浦に船で入ってきたのかということである。
もしそうだとすると歌の解釈もかなり違ってくる。
その歌もいつの時代かわからないけど八沢浦は明らかに港であり船の出入りがあり
現実に大型の船も出入りしていた。
また松川浦には名取の船乗りが難破したという名前を記した碑が貝殻地蔵にあった。
海の交流はなかなかわかりにくいが今回の津波は相馬から伊達藩内から岩手県まで海を意識させられたのである。


もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩釜の浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら


藻塩焼くとなれば原始的な塩を焼く風景である。ただ塩場があったとなると塩田の小規模なものがあった。

高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ

この歌は船旅として八沢浦によったとしたらこういう感覚になるだろう。
波にゆられるて波の浮寝ということは船で寝ていたからそうなった。
船で八沢浦に来たということはこの歌の読み方が違ってくるのだ。
だから八沢浦が元の美しい入江にもどったというときただ想像ではなく現実としての
八沢浦が再現されたから驚きだったのである。



参考年号表ー元号の最後の年を明記

1591 大正
1595 文禄
1614 慶長 1611 慶長津波
1623 元和
1643 寛永
1647 正保
1651 慶安
1654 承応
1657 明暦
1659 万治
1672 寛文
1680 延宝
1683 天和
1687 貞享
1703 元禄
1710 宝永
1715 正徳
1735 享保
1740 元文
1743 寛保
1747 延享
1750 寛延
1763 宝暦
1771 明和
1780 安永
1787 天明
1800 寛政
1803 享和
1817 文化
1829 文政
1843 天保
1847 弘化
1853 嘉永
1859 安政
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2014年06月02日

相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎? (結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)



相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎?

(結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)

相馬藩世紀、第一御年譜(利胤)の慶長16年10月28日条には、「海辺生波にて相馬領の者700人溺死」

正式な文書としてはこの一行が唯一だと言ってもいい、浪江の同慶寺に「同年一〇月廿八日、奥州筋生波(津波)上波」と記されています。津波記したものだとするは文書で残っているのは他にないだろう。津波が一般化するのは慶長津波以後になるがこの表記はまだ一般化されるまえだからこの表現になった。津波にはいろいろな表現がありまだ一定していなかった。慶長津波以後一定したのである。
同慶寺は南北朝時代の記録もあり古いから残ってていも不思議ではない。

そしてこの津波が襲って溺死した人が700人とあるがその内容も全くわからないのである。
その後に津波にどう対処したのかもわからない、ほとんど津波に関することが浮かんでこないのである。
例えば700人溺死とあれば当時にすれば今回の津波被害に匹敵する大被害だったのである。
他ではそうした資料が残っているが相馬藩内には残っていないのである。
だからなぜこうした歴史の空白が生じたのかということがかえって疑問になり知りたいとなるのも不思議である。

つまりそもそも700人溺死とあるがその人たちはどういう暮らしをしていたのか、
漁業を主にしていた人たちなのか、田畑を作っていた人たちだったのかそうした死んだ人がどういう人たちだったのかも皆目見当もつかないのである。
ただ海辺に住んでいた人たちだということは見当はつく、でも海辺といっても
その時漁民だけではない農耕していた人達がいたかもしれないし生業が何かも全くわからなのである
結局だから伊達藩の資料を基にして相馬藩内の津波でも想像するほか手がないのである。
物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の村だったと
次の資料にあるごとく純粋に漁村が成り立っていた。ここで鰻(うなぎ)百貫というのが興味深い、
なぜなら屋形の老人から父親が明治のとき、川俣町まで天秤棒かついで鰻を売りに行っていたというのだた。
そんなところまで天秤棒かついで行けたのかということが信じられないのである。
ただ鰻が結構貴重な食料であった。海辺では鰻がとれる。天然の牡蠣もとれる。
和田村の老人は松川浦では鰻でも貝でも浦でとれくものを食べていたという。
放射能など関係ないと言っていた。85にもなっていたらそうなる。鰻は自分の父親が田んぼの畦で
ミミスを餌にして穴にさしこんでとっていた。その待つ時間が長いのである。
当時にすれば鰻は栄養価も高いし売れるということもあった。
当時の生活というのも様々な観点からイメージしてゆく作業は必要である。

(家蔵)によると寛永九年(1632)に開発がはじまり、
寛文三年(1663)二木村から分離する。正保二〜三年(1645〜6)頃
の「正保郷帳」に田五貫五十五文・畑壱貫七百三十文とあり、水損と注される。
「名取郡地誌(=皇国地誌)」によると明治
十年(1878)頃の戸数は五十三、男二百六・女百八十五、馬三十一で、舟
が五十七艘あった。物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の
村だった。 (平凡社「宮城県の地名」参照)
(六郷の歴史)

ここの六郷では相馬藩の侍の家臣団が移住して中野村まで形成していた。
伊達藩では津波の後にも大規模な開拓が行われたし塩田作りも行われた。
それだけのことができたのは伊達政宗など家臣団が陣頭指揮で復興事業の開拓でも塩作りでもかかわっていた。
そういう藩全体が津波の復興事業にかかわりかえって前より豊かになっていった。
でも実際の津波の被害状況は今回の津波のように凄惨なものだったのであり
そのために村を捨てた人もかなりいた。
今回の津波でももう住めないとか復興自体あきらめた人もいた。
最も被害の大きかった村が壊滅して消失した所には伝説が残らないという時、みんな死んでしまい語る人がいないということだった。
現実に津波で壊滅して村ごとなくなったこの辺では磯部や海老や烏崎村の状態がそうだった。
なんにもない、なんにもなくなってしまう、村があったということすら信じられなくなる。そのように全く消えてしまった町や村も過去にあったのだ。
草戸千軒とかそうであり最近発掘してここに町があったということが実証された。
多賀城辺りにも津波でそういう市場を成していた町が消失して不明になっていた。
相馬藩でも記録がないということはそういうふうに村ごと消失してしまって語るものものもなくなっていたからかもしれない、
つまりそれほど津波の被害は恐ろしいものだったということである。その様相は三年たっても何ら変わりないのである。

慶長津波の後の復興のために中村に城を移転したというのはビスカイノの報告が残っているのでありえない。
ビスカイノが城を訪ねた時、城が破壊されて工事中だったと報告されていた。
つまり城はすでに津波が来る前から建設されていた。
慶長地震でその工事中の城が破壊されていたのである。
南海老村に中村天守造営にたずさわった大工がいたと鹿島町誌に記されている。
その怪異の伝説は何を示しているのか?津波のことも関係しているのか
なぜならその時南海老村にも津波が襲っているからである。
この記述からは津波の被害のことより中村城の天守造営が優先されていた。
津波のことに関しても鹿島町誌には何の記述もないのである。

何か相馬藩は家臣団でも積極的に津波の復興のための開拓などにかかわった記録もない、
そして不思議なのは中野村に居住していた藩士の家臣団が六郷に移住して津波の後の開拓に携わっていたのである。
普通だったら相馬の侍の家臣団が率先して津波の後の復興のために開拓に入っていてもいいはずである。
伊達藩ではそうしなければとても復興の開拓ができる状態ではなかった。
相馬藩内でも同じなのに伊達藩へ移住してそこで開拓に従事したことが解せないのである。
このことが何か津波の後の相馬藩の特殊な事情があった。
だから相馬藩内の津波に関しては知る資料がない、伊達藩内から相馬藩のことを推測するほかないのである。
塩田の開発でも伊達藩が先でありそのあとに相馬藩内で行われた。

ただ不思議なのは津波の跡は所有者がいなくなり誰の土地だか不明になり新規に参入しやすい状態になっていた。
それで寛永九年(1632)に開発がはじまり、寛文三年(1663)二木村から分離する。
その頃は田畑なくしては生活が成り立たないから常に土地を求めていた。
分家するにも土地を与えないとできなかった。すると誰の土地でもなくなった津波の跡は格好の開拓地になったということもある。
だから現代の考え方とは全然違っている。今だったら誰もすでに農業などやりたくない、
津波の前からも農業は金にならないと跡継ぎがいないとか問題だった。
その当時は農業中心だから土地が最も大事なものだったのである。
だから津波の跡の誰の所有地でない土地は貴重だったとなる。
今はとても農地としして利用するなど考えないだろう。

津波からの復興というとき慶長津波のことは現代では時代が違いすぎて同じようにはできない、
観光などというとまた反発されるが漁業とか農業とかの側面ではなく
現代的な復興となるとそれも一つの手であり他にも現代的価値観に基づかないと
復興はむずかしくなるだろう。ただこれだけの変化があるとき、被害でうちのめされたにしても
新しいものを作り安いということはありうる。
何にもなくなったのだから全く新しい発想のものが作り安いことなのである。
それが何なのかはそれぞれの立場によって違ってくる。
ソーラパネルがはやっているが何か自然景観を壊すので自分では嫌なのである。
お花畑にしたらいいとかなるとこれまたお前の頭はもともとお花畑なんだよとなる。
でも何か新しい発想で新しいもの作り出さなければ復興がないことは確かなのである。
伊達藩で津波の跡が無所有の土地となって新規の人が参入しやすくなったという時、
漁業でも農業でも既得権で外部から参入しにくくなっているがそういう古いものが津波で問われる、
なぜなら何もなくなったとき、新しいものが入り安いからそうなる
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2014年06月03日

ギブ・ミー・チョコレートの世代 (戦後の日本人の精神形成、原点がここにあった)


ギブ・ミー・チョコレートの世代

(戦後の日本人の精神形成、原点がここにあった)

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マッカーサー連合国最高司令官の来日、連合国総司令部(GHQ)の設置で、連合国軍による占領が始まった。日本側は連合国軍を「進駐軍」と呼び「占領軍」という呼称は使わなかった。ジープでさっそうと走る米軍兵士の姿は岡晴夫の歌にもなった。子どもたちは、進駐軍のジープを取り巻き、「ギブ・ミー・チョコレート」「ギブ・ミー・チューインガム」と兵士にねだった。

終戦記念日まで1ケ月弱。この頃になると何時も焼け跡、輪タク、進駐軍、パンパン等を思い出します。
今の新神戸駅前の道路で遊んでいると、進駐軍兵士とパンパンを乗せた輪タクがやってくる。私達子供は忽ち内に彼らを取り囲んで、ハロー、 ハローと連呼する。早くS*Xをしたい兵士は子供達に付きまとわれるのを嫌って、進行方向とは逆に出来るだけ遠くにチューインガムやチョコレートを投げるって訳ですね。


巷間この様な時には ギブミーチョコレート と叫ぶ様に言われてますが、我々の所では ハロー 一本槍でした。

町には第7艦隊の進駐軍兵士の休日のお相手をするパンパンが沢山いましたね。真っ赤な口紅とマニキュアそれにブラジャーこれが彼女達の三種の神器でした。当時マニキュアなんて普通の女性はしませんからね。
日本一の闇市でパンパン相手に一儲けしてのし上がったのがワコールの塚本氏だと言うのは有名な話ですよ。

大阪駅で良くチョコレートを貰いました。
「ハロー進駐軍」って言ってました。

中学の頃に分校の裏の料亭の窓から撒かれた硬貨を拾った為に、
全校集会で校長から大目玉を喰らいました

私は田舎育ちでしたので、思い出すのは、家族が畑で芋掘りをしているところへ、ジープに乗った進駐軍の兵がきて、掘っていたお芋と、チョコレートを交換していきました。

芋とチョコレートとの交換ですか。立派ですねギブミーチョコレトの様な物乞いじゃないですからね
http://smcb.jp/ques/50000


外国旅行してあった人は自分より五歳年上だった。その人はギブミーチョコレートの体験を話ししていた。九州の人だから東京とかの大都会とは違う。それでも日本がアメリカ軍に占領された時進駐軍が日本全国でみかけたからこの言葉が一時代の流行語として残った
人間は五年の世代の差でも相当に違う。戦後爆発的に人口が増えたのは団塊の世代となった。それは終戦になってからでありその時進駐軍のことはまだ生れたばかりだから知らないとなるのだ。ただ小学校でもアメリカから援助されたまずい脱脂粉乳のミルクとかが支給されていた時代でその延長があった。給食でもコッペパンとか粗末なものだった。

その時子供は良く働かせられていたのである。農家でもそうだが街でもそうであり
自分は店屋をやっていたからしょっちゅう配達とか農家に卵買いさせられた。
その卵をヌカに入れて買ってくるのだが必ず一つくらい壊れるのである。
というのはその頃の道は舗装されていないから道が悪かったからなのである。

真野川にかかっていた橋も木の橋でありヤハなものだっから洪水になると流される。
江戸時代から橋は流されるのが多かった。だから流された橋の絵が日本には多い。
野馬追いでも新田川の橋が流されていてそこを通る絵が残されている。

自転車にしても今のとは違う。だからそういう時代を子供の時経験しているし団塊の世代はそこでも今の豊かな世代とは違っている。
だから三年くらいしか年が違わない女性とは話しがあう。やはり同じ経験をしていたということで話しがあうのである。

五年の年の差が意識される時は時代が急速に変わると五年でも違った意識をもつようになる。江戸時代だったらそんなに世代が変わっても意識の差はない、代々職業でも親から受け継がれるからそこで何か精神的にも安定したものとなる。
仕事でも第一次産業だから土地に根ざしているから土着的でありそこで精神的には安定している。木を利用していたがその木が育つには五〇年かかるとすると気長に待つ時間の感覚が育つ、そんなとき時間給で働かせるという感覚は生れない、代々に今の会社のような大きな農家で働くということがあった。それも搾取されていたとかともなるがまたその社会なりの働き方でもあった。
その時代の見方はいろいろあっていちがいに極端な貧乏だったということだけではかたずけられないものがあった。
なぜならそうしした貧乏でもなぜ明治時代に来た外国人が見た日本人はみんな幸福そうな顔していたというのはなぜなのか?
それはやはり貧乏でも何か精神的に安定したものがあったからである。
それはその社会が時代が作り出していたものなのである。


明治維新後は全く変わってしまった。社会もモラルも激変して江戸時代の人間と明治以降の人間は別の国の人間のようになってしまったのである。つまり時代が変わると同じ国でも別の国になったように変わるということである。むしろ外国人の方が親近感をもつようにさえなる。それでも日本は戦前は天皇を中心としたあ忠君愛国であり国中心の社会であり国のためには個々の欲望は抑えるモラルがあった。それは国のために犠牲になるということで批判もされるが今のように個人の欲望のためには人を犠牲にしてもいい、自分が得するためには相手を犠牲にしてもいいいとは違うものがあった。

戦前と戦後もまた人間はまるで違ったように変わってしまったのである。

その象徴がギブミーチョコレートだったのである。もちろんアメリカ兵につきまとうパンパンとかもいたから戦後の荒廃は大きかった。つまり戦後の日本がどうして作られていったかの原点がギブミーチョコレートにあったのである。
「勝つまではほしがりません・・・」から全く逆になった。チョコレートを得るためには女性なら体も売る、子供は恥も外聞もなくアメリカ兵につきまとうねだる。
そういうことが日本人の心を作っていったのである。
戦後はただ貧乏からの脱出、物質的欲望を充たすことしかない、そのためには他者を蹴落としてもいいからのしあがれしかない、それで受験戦争がありいい大学に入ればいい暮らしができるしかない、そういうことに反発して団塊の世代が大学改革を求めて全共闘が生れたという経緯もあった。


ともかく五年の世代の差が戦前と戦後では激変したから大きいものとなった。
ではさらに五年違うととをなるかとなるとまた違っている。
今の七五歳くらいになるとまた違ったものとなる。戦争が終わった時は一〇歳でありやはりギブミーチョコレートをしていたのか?そうなるとそういう世代の仲間に入るのか?
それよりまた五年違うと今度はそれなりに大人になっているから戦前のモラル的なものが残っている世代となるから違っている。
現代の指導者はすでにそうした戦後生れの人たちとなった。戦前生まれ出もギブミーチョコレートの世代なのである。その精神形成はギブミーチョコレートからはじまっているから追求するのは物質的欲望の達成でありそのためには他者を蹴落としてでも達成するということしかない、それが社会の腐敗を産んだのである。

確かにアメリカの豊かさに追いついたがそこで欠落したのが日本人が江戸時代からもっていたモラルの喪失だった。今や義理人情すらほとんどないだろう。
そんなもの古いとなるがそういうモラルさえなくなることが金一辺倒の社会となり荒廃したのである。
日本人は何も尊ばない、何を尊ぶものかもわからない、ただ金のみうが唯一の価値となったのである。金を持っている人のみが一番偉いのである。

それはアメリカ的価値観に戦後のギブミーチョコレートから子供の時から形成されていたからである。
戦争に負けた時、日本人のモラルが根本的に壊滅してしまった。焼け野原となっただけでなく日本人の心も喪失してしまったのである。

世代の差というとき大きく時代が変わる時その差が大きくなる。今回の津波でも津波の前の世代と後の世代では相当に違ったものとなる。現実に今になって慶長津波と前と後で時代を区切りことが強いられた。津波が時代の転換点として意識された。
相馬藩では天明の飢饉がありその前と後では大きな差が生れた。
津波や原発事故はまだ日本全国を変化させるようなものになはなっていないが津波や原発事故周辺では時代がまるで変わってしまったのである。
だからどう対処していいかわからないという混乱期に入ってしまった。
漁業とか農業とか木材業でも放射能汚染で成り立たなくなるとすると一体この辺はどうすればいいのだろとなる。
補償金だけもちらって暮らせばいいやとかなるとこれまた精神的には荒廃してくるだろう。現実に今避難して仮設に暮らしている人はそういう精神的状態になっている。
ともかく津波や原発事故周辺は戦後六〇年の弊害が極端な形で現れた地域となった。
高度成長経済の発展が原発事後となり事故前も多額の金で漁業権を東電に売りわたしていたとか
この辺はまさに戦後日本の負の部分が現実化されたのである。
人さえ住めなくなったという極端なものとして現れた。
だから「福島の再生なくして日本の再生がない」と言われる時、戦後日本の象徴がフクシマになったからである。
ただその再生がどういうものになるのか暗中模索であり明確なものとして見えないのである。
それだけ大きな戦前と戦後のような時代の激変を経験しているからそうなる。

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2014年06月04日

嫌な予感ほどよくあたる (原発のような不安なもの不吉なものは置くな!)


嫌な予感ほどよくあたる

(原発のような不安なもの不吉なものは置くな!)


危険察知という生物に備わった機能のおかげで事前に知らされているのに無視しているだけなのですから。
無視とまではいかなくても社会生活では避けて通れない事も多々ありますね。
そんな時も否応なく嫌な予感が当たってしまう事が多々あるかと思います。

やっぱり解雇されるかなと思った会社は、解雇された。


その後塾へ行き、塾の帰りにパトカーがある場所を取り囲んでいて、警察が
そのおばあさんの遺体に毛布を掛けていました。自殺だったそう。

二回目は社会人になってすぐ。友人とあるシティーホテルに泊まりに行った時。

チェックインをするためにフロントで待っていて、他の女性のお客さんを見て
すぐに「この人自殺する」とまた感じました。


慶長2年(1597)、義胤は居城を牛越城に移した。小高の地に築いた村上城が移転直前に火災で焼失し、
そのため不吉として牛越城を修築して入城したためである。

これも単なる不吉だけではかたづけられない理由があった。
もしあそこに城下町が形成されていたらどうなったか
慶長津波(1611)が来て全滅になっていた。

不吉な予感には何か全く漠然としたものではなく合理的な背景、原因があってなるのも多い、
だからこそ嫌な予感ほどよくあたる・・・というときそれなりの理由があってそうなる。

自分の経験でも交通事故で実の兄弟ではないにしろ死んだ時、その保険金でもめた。
雇主までかかわってきてその保険金を奪おうとした。
静岡とか離れていたのでそこに行くだけで大変であった。
ただ死んだのだから行かざるをえなかったが金でもめたので嫌なので自分はすぐに帰って家族と親戚にまかせた。
その時金のことでもめたので嫌だなと予感した、それは先のことになるが何か自分にも災いが後に起きてくるのではないかと不安だった。
それにかかわった人は死んで自分がその後任者になった。

でもすでに20数年前のことだから法律的には保険金のことは関係ないが以前として金のことをひきづっていたのである。
だからその子供が裁判にかけるとか法律を知らないから責めてきた。
自分は何かそういうことをあとで嫌なことになるからかかわりたくないと予感したのである。それが現実化したのである。
その悪い予感はその時は何もないかもしれない、10年後20年後に実際に現実化して害を及ぼすことが多々ある
この予感は的中していてその通りになった。


もう一つはプログに書いてきたけど自分の家族のことだった。
これも複雑であったけど自分にとっては恵まれたものとなっていた。
でもいづれは何か自分にとって辛いことが起きてくる予感はしていた。
そんなにいつまでも恵まれていることがありえないと思っていた。
ただ恵まれていれば楽だと楽な方に人間は流されるのである。
そこに人間の弱さがある。
親が援助していてもいづれはいなくなる。
そのことはみんな目に見えているしわかるからこそ不安になるのだ。
あんまり幸せな人もこんな幸せな日がつづくのだろうかという不安があり
それが現実化して突然の不孝に見舞われることがある


この物は落ちそうだと余会する時、それはただ何の根拠もなくてそう見るのではない
何か不安定であり何かの調子に落ちるような所に置いてあるからそう感じるのである。
もちろん全く不吉な予感を感じないこともある
こんな人と接すると害が及ばされるなとか感じないで受け入れて大損害になった。
その人に対してそういう予感がしなかったのである。
悪い予感がするとき、それは何か理由があり後ろめたいものがあったりするとなる
こんなに金が入っていて強盗でも入ってくるんじゃないかと思った時
本当に入ってきて殺されたりすることもある
お手伝いさん二人も雇っていて不動産屋なのか金持ちが東京で強盗に殺された
お手伝いさん二人は別に何の被害もなかったのである。


悪い予感がするとき、病気でもそうである。
何か兆候があり悪い病気になるんじゃないかと思うとなったりする
そもそも悪い予感が全く根拠のないものではないから当たりやすいのである。
人間は必ず病気になるし病気になる不安がありやっぱり病気になる
金をもっている人もこんなに金をもっていると金をねらわれるという不安になる
それが極端な形で現実化するのが強盗とかに入られて殺されるとまでなる
まず金のない人はそんな不安をもたないだろう。
不安にはそれなりの理由があり何の理由もない所に不安は起こらない
大金持ちもいるけどそういう人も不安をもっている
大不況が来て金も紙切れになるんじゃないかという不安がある
そういうことが過去にもあったからいくら金をもっていても不安になる


だから不思議なのはなぜ海岸沿いに住んでいる人たちが津波に対して予感をもたなかったのか?
海に面していても3キロとか離れていればまた違っている、それでも津波来て被害があった
絶えず福島県の浜通りとかなると荒い波が打ちつけていてその波音を毎日聞いているだけでも怖いと感じないかと思っていた。
つまりなぜ津波に対する不安がなかったのか予感がなかったのか解せないのである。
それは別に海岸沿いに住んでいる人たちだけではない、危険な場所に住んでいる人たちは今は文明が発達して膨大になっている

例えば東京のような高層ビルが倒れないと保証できるのか?
何かこのビルはいくら倒れないと設計され作られているとしても
どんなことが起きるかわからない、すると倒れるということもありうる
高層ビルにはそういう不安がつきまとっている
だからそういうところに良く住めるなと他からは見るのである
だからSF映画でなくても高層ビルが倒れることがありうる
そういう予感が現実化することがありうる
するとなぜそんな危険な所に住んでいたのかとまた問われるのである。


そして原発は一番実際は不吉なものだった
そういう悪い予感をもたらすものだった
安全、安全としつこく安全神話を形成したのはかえってその不安を打ち消すために
政府も東電もマスコミも必死だったのである。
ただ地元に住んでいれば近いのだから近ければ近いほどやはり不安があり不吉なものがあり嫌な予感をしていた人たちはいたろう
ただ金をもらえるから黙認していた。


嫌な予感がするもの不吉なものは置くな!


原発はトロイの木馬でもあった、なにかわからないものだったが不吉なものだった
だからそんなものを城内に引き入れるべきではなかった
田舎でも会津での凶悪な強盗殺人事件があったけどこれも何か不吉な人が来たと予感すべきだった
田舎でも今はそういう人が入り安くなっているからだ
誰かわからない人は簡単に家でも村でも危険なことになることがある


ともかく原発はそもそも不吉な嫌な予感がするものでありその根拠もあった
核の廃棄物でもそうでありそういうものが将来どうなるのか不安になる
そしてその不安が的中して大被害を将来に及ぼすことになる
それが千年後一万年後にすら現実化する

もちろん原発だって科学が発達して核の廃棄物処理ができる技術が生れれば
合理的に見ても安全だとなることはありうる。
それができなければ以前として不安があり不吉なものとしてある


不安となるもの不吉なものは引き入れるな、置くな!

だから日本という地震国に50数基も原発があること自体日本の不安になる
世界でもそうである、核自体が原発でも不安な未来を不吉なものをもたらすものである
そういうものは作らず置かない方がいいとなる
それが必ず災いをもたらすからそうなる


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マスコミの報道の違和感 (避難民はそんなに暮らしに困っているの、その逆じゃないの)


マスコミの報道の違和感

(避難民はそんなに暮らしに困っているの、その逆じゃないの)


 
一家の大黒柱として、避難先での暮らしを守らなければならない。生活費をどうやりくりするか、悩ましかった。看護師の栄子さんは避難に伴い、浪江町のクリニックを4月末で退職扱いになった。毎月の収入がなくなり、預金を切り崩すしかなかった。住宅ローンも800万円近く残っていて、金利は増えるが返済を5年延期してもらった。喜一さんはため息をついて元の暮らしをうらやんだ。「浪江に帰りてぇな」
http://blogs.yahoo.co.jp/sasaootako/62979544.html
2014年6月4日 (水) 福島民報


この記事なんかも本当なのとなる。浪江町では一人十万からさらに五万追加されとか交渉でなるようだ。
どうしてこの人がこんなに困るのだろうか?
ローンさえ払えて得した人もかなりいるのではないか?
一人十万もらえればそれで五人いれば50万とかなる。
そんな収入をこの辺では得られない

だからNHKでも福島県のメデアでも何か本当のことは放送されない

ただ浪江の有名な人が仕事を斡旋してもらえいたけど
「あんたたちは多額の補償金もらっているから仕事しなくてもいいだろう」
そう言われたというのはなるほどそれは真実だと思った。
工場経営した人となると億の金は入ってくるから別に仕事探しに汲々する必要ないのだ。

小高でも一軒はじめている理髪店のことを放送したけど
もう一人の人が言っていたけど
なんか自分の家が一時泊まる宿のようになってしまっているんだよ
だから仮設のホテルが自分の本来の棲家のようになってもいる
人間も三年間も家を離れるとそんなふうになるかものなのだろうか?
自分のように旅ばかりしていたら家すら一時の仮の宿のようになっ
遊牧民だったらそういう感覚になる


つまり避難民は三年も他所で過ごしていると遊牧民的感覚になっているのかもしれない
仮設とは仮の宿でありまた自分が長年住んだ家も仮に泊まる宿のようになっている
そしてその人がかえって仮設の仮の宿の方がなんかいいような気分になっているとまで
言っていた。
それはなぜなのか?
つまり補償金で遊んで暮らしていいけるということがそんな気分にさせているのだろう。
もし家にも住めなくなり暮らしもままにならないとしたらそんな気分にはなれないだろう
だから仮設暮らしがいいという人まででてきているのだ

一方で孤独死とか負の側面も報道されている

だから新聞であれテレビであれメデアの放送にはなかなか本音が言われない
ただすべてがそうではなく、ちょっとした独り言のようにもらした言葉を深く考えると
そういうことなのかと地元で納得することがある
だからこの辺のことを全国に放送して見ているのと
地元で見ているのとはかなり違っているのだ


「失業補償金」や「田んぼや畑の補償金」 「家と土地の補償金」は別に東電使って税金から支払われていて、 さらに「家賃タダ!」「税金タダ!」「医療費タダ!」 服や靴・なんでも「支援物資でタダ!」ですからね〜。 さらに浪江町の連中は、おこづかいである精神的補償金を「1人毎月@35万円に増やせ!!」と言ってブチ切れてますから 1人600万円じゃ足りなくて、 さらに「1人1500万円」 4人家族ならもう「6000万円のこづかいよこせ!!」と言ってます。


一人十万だけじゃない、例えば小高でもただ一時宿泊に行くだけでも何らかの支援金が支払われたりしているとか
何かというと補償金がでているのである。

ではなぜ福島民報とかNHKでもそういう問題点を放送しないのか?

それは取材される人が注文している、困っているように報道してくれるなら
実名でも報道していいとなるからその報道する人のいいように報道することで取材できているのだ。
それは誰でも自分に不利になることは報道されたくないなのである
それは個々人でもそうであり町自体でもそうである
イメージを悪くすることは報道するなとなるから実情がわからなくなるのだ


ただ国民はただそうした原発の補償金にたかる人たちをいい目では見ていない
するとそういう方面の放送や報道もしていいのだがまずテレビではしない
事前に了解をとるものしかしていないのである

自分が原町区の石神の人に何度もいくらもらったのかと聞いても教えない
それは鹿島区などより多額の金をもらっているからそうなる
特に石神地域は原町区でも放射線量が高いからもらっているはずなのだ


結局報道というのは何か一面だけをきりとり取り上げるから誤解が多いのである
それは全国放送でもそうでありその土地の事情がわからないからそんなものかと
放送された画面から頭にすりこまれてしまうのである。
そしてテレビは映像中心でありなんてひどいことをとか感情的にする

飯館村の人が相馬市の農家にあんたちは雇わない、津波被災者の方を優先すると
不満を言っていたがこれも地元から見たら当然なのである。
飯館村の人も事情は違っていても補償金はかなりもらっているからだ。
一方相馬市では南相馬市に比べたら原発の補償金は全然もらっていない
だからそうした避難民が贅沢していると不満が多いのである


「浪江に帰りてえな」気持としてはわかるが本音はもっと一億でも補償金をもらって
新しい生活を別なところではじめたい、そうすればローンも簡単に返せるしとかということもあるかもしれない、
そもそも浪江に帰ること小高に帰ることすら何か大きな壁ができている。町自体が前とは違っていて崩壊している
そんなところで金をもらっても金を有効に活用できないのである。
だから飯館村の人が除染などに金を使わないでその金を補償金でもらって
別なの所で牛を飼いたいという人がいて反発されたみたいだ。

飯館村でもあんなに草茫々になったらもう住めないとあきらめる人が出るのも当然だと思ったからだ。

こんなことを震災のすぐあとに一カ月後くらいに盛んにネットで原発乞食だとか言っていた人たちがかなりいた
でもそれは一カ月後では混乱しているのだかその時はそんなに言うのもどうかと思った。
しかしもう三年も過ぎたらかわいそうな人たちとはもうならないだろう。
かえって補償金で恵まれていると見る人も国民には増えるし地元でも増えているのだ
だからこうした記事には何か違和感を感じたのである。

posted by 老鶯 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月05日

津波被災地や原発事故周辺の復興はむずかしい理由 (高齢化と豊かな広域社会で復興する意気込みがない)


津波被災地や原発事故周辺の復興はむずかしい理由


(高齢化と豊かな広域社会で復興する意気込みがない)

そもそも日本の山奥や田舎には遊んでる土地がいっぱい有るし
使ってないのに持つだけで税金ばかり取られて損する土地が有るから
地主も税額に相当するだけの激安にて喜んで貸してくれるわ


そして健康で若いのから送り込んで開墾からやらせてやればよいのさ
人間てのはイザとなりゃ野垂れ死ぬよりはマシと必死で頑張るからな


人間の本性はやはり楽な方に流れる、あえて苦労などしたくない、それがまたのちの災いにもなる。楽しすぎることも人間を堕落させる。
ローマ帝国崩壊ももともと農民出身の質実な人たちが貴族となり富裕になり堕落した結果だった。
平家でも貴族化して質実な農民育ちの関東武士に敗れた。それはゲルマン人に滅ぼされたローマとにもにている。
人間はやはりその根底に質実なものを失うと堕落してついには社会は衰亡して終わる。

それは歴史の教訓だけど原発事故周辺もそういう状態になりつつあるのだろうか?

仮設暮らしは前は同情されていたけどそんなに悪いものじゃないと思う人も三年すぎてでてきている。
補償金で遊び暮らしていればいいんだというふうに思う人も増えてくる。
小高の人はおそらく年金生活者であり自宅に友達を集めてカラオケなどをしていて楽しんでいた人だから余計にそう思えた。
それなら原発補償金の方が格段にもらえるのだからその方がいいと考える人もいる。
自分があった70歳の人は東京の方までギャンブルだとか風俗だとか遊びに行っていた。
もうどうせあとは生活保護でいいんだと言っていた。
ある人は一日で400万もうけたよとかも言っていた。
70歳でも若く見えたのでわからなかったが避難民にはやることがなくそういう人も多い。

一つの今回の津波震災原発事故で浮き彫りにされたのが高齢化の問題だったのである。
三陸のような街自体が壊滅したような所でも漁村でも跡継ぎがいないとか高齢化が問題だった。
それが津波と原発事故でよりその問題点が露骨に現れたのである。


そして健康で若いのから送り込んで開墾からやらせてやればよいのさ
人間てのはイザとなりゃ野垂れ死ぬよりはマシと必死で頑張るからな


老人にはこんな気持になれないしできない、楽をしたいというだけになる。
畑をやるにしても75歳の人はもうやれないとか言うし楽ではないからつづかない。
その人は病気をもっているから余計にそうなる。

相馬藩で天明の飢饉の時に越中などからの移民を受け入れて復興した。
三分の一に人口は減っていた。だから荒地が増えていた。
そこに越中の移民が入り開墾して復興した。
その移民は禁制を犯して別な藩に逃れたのだから命懸けでありもう帰ることができないというせっぱつまった状態にあった。
だから相馬藩内で必死に働いた。ここで生きていかなければ死ぬほかなかったからである。
それでかえって越中などの移民の方が豊かになっていったというのも皮肉である。


結局人間を動かすのは必ずしも富ではなく意気込みというか何かそうしたものが作用する。
かえってそうした不利な所に苦しい場所に金を与えて住めと言ってもうまくいかない、
意気込みが全然違うことだった。だから女川だったかボランティアが来てここで住むと言った時、
最後までここでやってくれるならめんどうみるとか若い人が集まり言っていた。
あんなところで働くとなるともう越中の移民のような覚悟が必要になる。
でも現代は広域社会であり金があればどこにでも住める、
それでかえって地元の若い人たちは流出しているところに困難な地域に人は移住しないのである。

つまりあまりにも江戸時代とは時代が違いすぎているのだ。

この辺はそういうことで復興はむずかしい、復興する主役である若い人が流出していることでもわかる。
あとは楽をしたい生活保護でもいいという老人だけになる。
だから生活保護者だけや老人だけやそうした無気力な頽廃的な所になっているかもしれない。
それは三陸など零細な漁村でも事情は同じである。
だから国自体でも人手不足で移民を入れるということになるが貧乏な国の移民はかえって
越中の移民のように働くとなる。それでも外国人だからいろいろ問題がでてくる。
越中などの移民の場合、農業中心の社会では土地が荒廃地でも自分のものになるということが大きな働く動機になっていた。
それは伊達藩でも津波の跡に開墾に入ったのももだれの土地か不明になりその開墾すれば自分の土地になるということで入って来たと同じである。


資本主義でももともとのエトスというか働く信条というのが宗教的だったというとき、それが逆に富を築いてきたのは皮肉である。
最初は修道院で勤勉に浪費しないで神のために働くということであり欲望の資本主義とはまるで違っていた。
つまり欲望を抑えることが資本主義の発生でありそのあとは欲望の無限の拡大になってしまったのである。

いづれにしろこの辺は生活保護と老人社会になると頽廃的な活気のない所になる。
今は外部から建築土木関係でも除染でもかなりの人が入ってきて活気がある。
そういう人たちが去ると火の消えたような場所になる恐怖である。

低放射能など気にしない人たちが何か追い詰められたような人々が必死に働くような場所にならないと復興はない、
だから老人で補償金で暮らせばいいやとかなると衰退するだけの場所になる。
そのことはこの辺でもみんな言っているから近い将来にそうなることは見えている。
それで東京から大内村に住んだ人は去って行った。
補償金に頼るだけの人たちを見て嫌気がさしたのである。
それは豊かな社会がそうさせたのであり皮肉な現象なのである。

いい庭をもっている人は津波の後、年齢的にも病気もありその庭を荒廃させた。
自力では自分の庭すら手入れできないとなるとその立派な庭がもったない
誰か活用してくれる人にゆずった方がいいとまでなる
そういうことが全国的に起きている人口減少化では全国で起きている。
津波の被災地や原発事故周辺では荒廃地は膨大に増えたのである。
低放射能など気にしないという人が入ってくればそれは活かされる
そうでないとただ荒廃するだけで復興などありえないのである。

posted by 老鶯 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

抽象画(水中人間の影)


抽象画(水中人間の影)

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水中人間

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水中遊泳

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水中花


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水の波紋

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これも全く偶然だった
こんなものが現れると思っていなかった
想像もつかないものがでてくるのがパソコンの抽象画である
ただすべて人間であるというとき水の中に人間がいる
海の中にも人間がいる
その時自然はヒューマンなもの人間化するのである
万物は人間の表象、シンボルだとなるのが芸術でもある

2014年06月06日

GREEN IITATE(飯館村の抽象画) (人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)


GREEN IITATE(飯館村の抽象画)

(人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)

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飯館村の紋章

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森の都

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飯館村に行ったらグリーンイイタテとか書いてあった。前にそんな詩も書いた。
飯館村は70パーセントが森であるからそうなる

飯館村は地形的にも山の村はして個性がありそれで南相馬市と合併しなかった。
それで飯館村の独自性を保つことができた。
だから飯館村がなくなるなどということをイメージすらできなかった。
飯館村には会社とか工場が結構あって働き場もあったらしい。
農業だけの村でもなかった。
ただ所得としては一番低かった。
飯館村にも外部から入ってきている若い人もいた。

飯館村は何か特徴がないのだが広々としていい気分になるところだった

家が一軒一軒離れていて森につつまれるようにありそれがぜいたくだと見ていた。
だから福島市でも団地のような所に住むようになったり
京都に移住した人も鬱になったというのもわかる
そこは全然環境が違っているからそうなる
田舎も人間関係は嫌なのだけど東京や大都会の混雑した所は嫌なのである
自分は大学時代で性格的に静かな所を好み人間関係も得意でないので田舎に帰った
そもそも人間嫌いでありあんなに人間が混雑している場所にはいたくない
田舎はそうした環境では相当にぜいたくである
東京などには何もない空間が一番贅沢なのである
実際はあれだけ混雑していればそういう空間こそが一番価値あるものになる。


相馬藩内は海があり山があり自然的には恵まれた所だった。
会津の方だと山家あっても海がないからものたりないものを感じる
そこに住むとなるとどこがいいとなるといろいろな条件がある
そこの気候も問題になる。
浜通りは海があり涼しいということがあった
最近の温暖化で35度に普通になるとそんなところに住みたくないとなる
寒さでも極端な寒い所は嫌だし雪のふる会津とかも嫌だとなる
すると暑からず寒からずの浜通りがいいとなる

だから避難者も気候的な問題で浜通りに帰りたいとなり実際帰ってきている人もいる
気候の問題は体にかなり影響するから深刻なのである

浜通りとかでも芸術的感性を磨くにはいい場所だったとなる
芸術的感性だって一朝一夕に作れないのである
長い間住んでいると自ずとその風土と一体化して文化が生れる
それはその人の個性というよりはその土地が作り出してゆくのである。
そんなもの飯の種にならないというのもそうだが
やはり現代ではかえってまた田舎が見直されるという価値観が変わる時代にもなっている
経済的には恵まれていなくてもそれに代わりうる価値が田舎に見いだす人もでてきている

ただ放射能汚染で飯館村が被害が大きかった時、これかどうなるのか?

人間はそんな簡単に江戸時代からも長く住んでいた村そのものがなくなるということが
できるものだろうかという疑問である。
それだけ長い間住んでいたらそこに残りつづけようとする力が働くのではないか?
例えば樹にしても石にしてもそれは人間化したものであり
単に樹や石があるということは自然のものではない人間化した樹や石が残りつづけて生きようとしている
それは津波の跡に今も残っている樹の不思議さを何度も書いた。
何か家の跡に残っている樹は普通の樹ではない不思議なのである
それは何か人間化していた樹だからそうなった
家を長年囲んでその樹は立っていたからそうなった。
だからその家と離れがたく樹も立ち続けていたのである。

近くの人は何度も言う、俺は若い時から裸一貫でこの家を建てた
この庭も作った、だからこの家に愛着がある
そういえば自分は家があってもそれは親からゆずられたものであり
何ら苦労して手に入れたものではないから
家でも住んでいる人の気持が違うものだと思った。
その庭は山のように何トンも石で組まれている
その石のようにその土地に家に愛着をもっていて動こうとしない
性格も堅い人であり何かその石にふさわしいと思った。
飯館村の人だってそういうふうに思っている人もいるだろう


だからそんなに簡単に村時代が消えるということが考えにくいのだ
人間の意志が生き続ける意志が樹や石となりそこに残る
それは人間の意志であり自然そのものである樹や石とは違っている
芸術にしてもその村が消失してしまいばありえない
土があって樹が成長して花が咲く
土はその土地に生産するものがあって花が咲く
花は芸術でありそこに土から実るものがないなら花も咲かない
だから芸術だけ存在することはありえないのである

ただ不思議なのは放射能は花には影響しなかった
花の栽培しても食べるわけではないから花の栽培をしている農家がいる
放射能汚染の土地をひまわり畑にした所もあった
ただみんながお花畑になったらそこでどうして食べていけるのかとなる

ともかく飯館村は一体どうなるのか?
避難地域となったところの問題は一家庭とかを復興させることではない
全体の町とか村を復興させることだからむずかしいものとなる
それには町とか村全体の一丸とならないとできないだろう
ところが実際は補償金をもらって他で牛を飼いたいとか
もう他で新しい生活をしたいという若い人や様々に分裂しているのである
つまり現代はかさえあればどこでも暮らせる
だから歴史的にあった長年住んだ村でもこだわりがなく捨てるということがあるのか?
この辺は以前として様々なもことが問われる場所になっているのだ。

posted by 老鶯 at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

抽象画(blue mountains)


抽象画(blue mountains)


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色の立体


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奥の山々

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blue mountains


パソコンの抽象画でまず感じるのがきれいな色だなということである
こんなふうに色を出せるのはパソコンだけである
だから新しい芸術になっている

抽象画の原画になるのはインターネット上にいくらでもある
それを変化させてゆくといくらでもできるとなる
ただもう原画は何かわからないのだから著作権違反にはならない


これは山といえば確かに山である
抽象画もやはり具象なくしてありえない
山がどんなものを知っていなければ抽象画も理解できない
この抽象画も山を感じる必要がある
そのためにはまず具象画としての山を知っている必要があるのだ


具象画⇒抽象画であり抽象画⇒具象画になるとしても具象画が万物のベースになる

山を感じるには立体性がなく重厚さもないがやはり山の感じるがある
山の感覚はやはり会津などに住んでいる身についてくる
この辺の山は低山であり山の感覚が身につかないのである

巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい (相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)



巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい


(相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)

●巨大津波は神話にもなり伝説にもなり謎となる

関東南部の遺跡分布を観てみよう。海抜20m以下の地域に、BC1世紀以前の遺跡が何一つない。東京湾東部には、100を超える貝塚があるが、住居跡などの遺跡は皆無。その原因は大津波だろう。古事記上巻は、この事実を書き記している。東日本大震災も、この歴史的教訓を学んでいれば軽減できた…。

BC1世紀、関東地域を大津波が襲った。古事記は、その歴史的事実を「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」と記す。栄えていた上代日本の文明は一夜にして壊滅。その復興に立ち上がったのが、宇摩志阿斯訶備比古遲と天之常立だった。数代後、伊耶那岐と伊耶那美が国土の「修理固成」を決断する。
http://www.geocities.jp/waikoku/twittera046.html

これなどは津波が日本の国造りの起源にしている。古事記に残された記述は津波の証拠だったとなる。
なぜこういうことが今語られるのか?それは津波があまりにも想像を絶するものだったからである。
こうした津波が400年に一回とか起きないとするとそれは経験した人は死んでいるのだからもう語り継ぐ人すらいなくなる。
この辺で老人は「ここに津波が来た話しは聞いていねえ」と早く逃げろと息子が言っても聞かずに死んだ人が結構いる。
400年前に起きた津波など誰も生々しく語り得ようがない。
そして相馬藩内では伝説すらわずかに残るだけでありそれに注目したのは
今回の津波があったからであれそれまではなんら注目していない。
「津波なんかこの辺ではこねえ」と老人が頑固になり死んだことでもわかる。


相馬藩内で700人溺死と相馬藩政記に記されているのが唯一の公式な記録である。
それすらその700人がどういう人たちなのかどんな暮らしをしていたのかも皆目わからない。
ではそもそもどうして700人と割り出したのだろうか?
700人死んだと記すだけでもそれなりの根拠があったはずである。
だいだいの人数にしてもどうして700人となったのだろうかとなる
それで津波原発を調査している人が


700人死んだというのは信用できない、慶長津波の襲った所には人は住んでいなかった


その記述まで否定する仮設を出してきた、それだけ津波のことが皆目資料がないからそうまでなる
でも烏崎には遠藤氏という人が津波の前に南北朝の時から住んでいた。
真野中館は霊山落城の時逃れた武士がたどりついた場所だった。その時から住む人があり烏崎に住んだの
その流れをくむものであり遠藤氏の名前がある。
そして八竜神社は川子にもあり小島田にもあり慶長津波の前からあった。
小島田の方が古いというのも不思議である。
だから烏崎のぎりぎりで残った八竜神社は慶長津波の前からあった。
あそこに物見丘とかあり相馬藩の番所もあり海を見張る場所だった。


●慶長津波の前にも縄文時代以来の生活の継続があった


調査員の報告では岩崎氏の本で八竜神社はもともと縄文人の遺跡のある上にあるのが多いというのを統計的に割り出している。
つまり八竜神社は多くその由来も古く縄文時代までもさかのぼるのかともなる。
八竜神社が今回の津波で被害がまねがれたのはそうして古い神社だから津波の来ない高台とか海岸より奥に祭られていた。
小島田にしても津波の被害があったが全壊とかの被害がまねがれている。
だから小島田は津波からまねがれるぎりぎりの地点にあったと今は見る。
そうでなければもっと海側だったら全滅していたからである。
南右田も北右田も江戸時代からあってもほとんど全滅して人は住めなくなったからだ。
ということは小島田も江戸時代より前より人は住んでいたとなる。


だから調査員が言っている700人溺死はなかったという説が生れた根拠は
そういうことではなく津波の被害にあった地域はまだ田としては開拓されていない
原野だったということは言える。
原野に津波が来ても別に被害がないから報告されることもないのである。

その証拠が慶長前からあった「田中城」である。
その回りは湿地帯であったと記録にある。
あそこが湿地帯の中にあったということはその前の広大な地域はまだ干拓されていない、田とはなっていない今のような原野になっていた。


貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。その後桑折治部少輔忠家の時に田中城に移り以後代々桑折氏の居城となった。


天文11年(1542年)伊達稙宗と伊達晴宗による天文の乱で、稙宗方にあった黒木城主黒木弾正が田中城を攻めた時、城主桑折久家は相馬顕胤に従って掛田の陣中にいたが、顕胤の命で急ぎ田中城に戻り防戦に努めた。一度は退けたものの再び大軍を率いて攻めてきた黒木弾正は城下で戦い策を持って退いたが、これを追った桑折父子は伏兵にあって討死した。(七橋の戦い)

天正年間(1573年〜1592年)頃、相馬義胤の弟相馬郷胤が田中城代となり、田中忠次郎郷胤と称したが、慶長7年(1602年)廃城となった。

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田中城のすぐ近くまで津波は来ていた

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大
淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。

此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

天正18(1590)年2月、父・相馬義胤は関白豊臣秀吉から小田原へ参陣するよう命じられたものの、5月下旬に小田原へ着陣という失態を演じてしまった。このとき、石田三成の周旋によって特に咎めはなく済み、かえって秀吉の御前に招かれて、懇ろな上意を賜った。こののち、相馬義胤と石田三成と入魂になる。12月7日、秀吉から行方・宇多・標葉三郡四万八千七百石の朱印状を拝領した。


 天正19(1591)年、義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し、上洛時の賄料として近江国大森村五百石が宛がわれた

ただし隠居・義胤は中村には移らずに、慶長17(1612)年4月、標葉郡泉田村に移り住み、隠居料として泉田・高瀬・棚塩・室原村から三千石が給された。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/hanshu1.htm#tositane


これは正式に記録されたものだから信頼できる。そこに棚塩とありここは津波で被害があった。
海に接していて危険な場所だった。その棚塩をふくめた地域から隠居料が支払われた。
しかし棚塩は慶長津波の被害があった。慶長16(16111)が慶長津波だった。
なぜその棚塩からまで隠居料として払わされたものがあったのか?
相馬藩の武士は慶長津波に関しては何ら記していないからわからないのだ。
慶長津波の前は四万八千七百石でり六万石になるのはそのあとであり足りない石高はほとんど慶長津波の後の開拓によるものだった。
だから慶長津波でもその時は今回のように田んぼが津波の被害にあったということは少なかった。
それは伊達藩とは違っていた大きな相違かもしれない。
では700人死んだというのは何故なのだろうか?
その人たちはどういう人たちなのか、確かに人は死んだのである。


●田畑をもっていない漁労民が死んだ?


その記述を疑う根拠は何なのか、自分の考えでは700人は確かに死んだ
その人たちは田畑をもっている農民ではない、純粋な漁労民だった。
百姓の意味は百の仕事を持つ人の意であり米を作る人の意ではない
農民の前進は必ずしも米を作っるだけの人ではない
暮らしは海にもあり海では魚も貝もとれていたから縄文時代から暮らしがあったのである弥生時代から稲作がはじめられたにしても延々と以前として縄文時代の漁労生活は海岸沿いにあったのである。
だから人は住んでいた。そうでなければ津波の一年後に棚塩が隠居料を支払う土地にはなりえないのである。
津波の被害があった後にもすでに人が住んでいたのである。


これも一つの謎だけど田んぼや畑だったら津波の被害にあったらその後長い間十年以上も使い物にならなくなる。しかし海が別である。一年後でも別に粗末な小屋を建てても魚もとれるし貝だって多少はとれるようになっていたかもしれない、だからこそそこには人が住み始めていたのである。
三陸の津波でも早い時期からあれだけの被害でも人は海近くに住居を構えたのはそこが便利であり海の幸をとりやすい場所だからもどってきたのである。
今の水道が使えない、電気が使えない、道が使えない・・・などインフラなど必要ない
もともと漁師など掘っ立て小屋に住んでいたのである。
だから津波の後でも簡単にそういう家は建てられるのである。
津波の被害にあっても放射能汚染とは違うしまず魚や貝を食べないとその当時は生きていけない、補償金などもらえない物資も入ってこないからである。


おそらく700人死んだとあるがその人たちは農民ではない、漁労民だったのである。
その漁労民は年貢を収める農民と違って軽く扱われていた。
つまりすでに慶長津波の前に四万八千七百石あったからそこから年貢が収められていて藩の財政は成り立っていた。
漁労民はその時そうした藩の財政に寄与するものがなかったのである。
だから相馬藩にとって700人溺死でもさして財政的には打撃ではなかった。
伊達藩では広大な田が津波で大損害を受けたから立ち直るために開拓しなければならなかった。相馬藩ではもともと原野でありそうした田の被害はなかったのである。
ただ700人の貧しい漁労民が死んだのでありそれで無視されたのである。


義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し


この北野とあるが相馬市の松川浦近くの梅田川そいの程田村に北野神社がありその時その北野からもたらされた神社かもしれない。
そして新田村まで津波の被害があり北野神社までは津波は来ていない
でもその時もその前はまだ開拓されず原野だった。
つまり神社古ければ古いほど原野のある所には建てないから津波をまねがれたとなる。

津波というのは何かここまで海だったのだと意識するようになった。
海はこの辺では遠いと思っていたが吹いて来る風にしても今まではあまり感じなかった
でも町近くでもこの風は海から吹いてくると感じる
実際に海が見えるから当然そうなるし海の水が押し寄せてきたのだから当然だとなる
それで3キロ離れて被害にあった家の人は夜に海の方を怖がっているのもわかる。


涼し津波の後に海見える


その海の風は3キロ4キロ離れても海から直接吹いてくる風と感じるのである。


●人間の営みは海辺でも延々と細々でも続いていた


会田綱雄氏の名作「伝説」が想起されます。


   湖から

   蟹が這いあがってくると
   わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
   山をこえて
   市場の
   石ころだらけの道に立つ
   蟹を食うひともあるのだ
    (略)
   蟹は銭になり
   わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
   山をこえて
   湖のほとりにかえる
   ここは
   草も枯れ
   風はつめたく
   わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
    (略)
   わたくしたちのちちははも
   わたくしたちのように
   この湖の蟹をとらえ
   あの山をこえ
   ひとにぎりの米と塩をもちかえり
   わたくしたちのために
   熱いお粥をたいてくれたのだった

   わたくしたちはやがてまた
   わたくしたちのちちははのように
   痩せほそったちいさなからだを
   かるく
   かるく
   湖にすてにゆくだろう
   そしてわたくしたちのぬけがらを
   蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
   むかし
   わたくしたちのちちははのぬけがらを
   あとかたもなく食いつくしたように
   それはわたくしたちのねがいである

これは山の方からの視点だけど海側からもこういうことがあったのではないか?
つまり津波の跡に漁師の生活も魚を売り米や味噌とかを買っていたのかもしれない
その人たちは米を作っていないからそうなった。
ただ味噌には塩が必要だから塩を作って売っていた。
米を作っていない漁労民がいてその人たちは津波にのまれ記録も残されなかった
ただそういう人たちがどれこだけいたのか?700人死んだというのは多すぎるということもある。その辺は謎にしても海辺だけで暮らす人々がいたことはいたのである。
おそらくその数は大雑把なものでありそんなに死んでいないかもしれない
ただおよそものとして記したのかもしれない、300人程度かもしれない
その実体は全く資料がないからわからないのである


その人たちは津波にのまれあとは海から這い上がってきた蟹によってその死体が食われたかもしれない
それもまた無情、無常なのだけどそれは自然の中への大きな流転の現象かもしれない
人間は一時神から糧を与えられてやがてまた死んで自然に還るということを考えれば
それまた自然な死だったともなる
人間の営みにしてもそんなに永続するものはない、自然から見ればはかなく自然の力には及ばないから抵抗しても無駄であり自然の流転に従い津波が来たあとにも同じような漁労民の営みがあったともなる。
三陸では明治でも二万人とか死んでいても同じように便利な海近くに住むようになっていたのである。
そこで魚をとり貝をとりしなければ生きていけないからそうなった。
補償金ももらえないし何か援助してくれるものもないし他に食べていける手段がないからそうなった。

今はいろいろあるから贅沢になりもう住んでいられないと都会に住み簡単に離れてゆく

中世とかの死生観も今とは全然違っている。
生きている地獄であり死ぬのが一番いい、極楽だという苦しいものだった。
だから念仏でも唱えて死ぬの往生するのがいいとなった。死体は路上に転がり橋のようにつながっていたとか悲惨だったのである。
医者にかかることもできないから念仏唱えて死ぬ他なかったのである。
その死生観もまた時代にあったものでありそれまた生けるものの無常だったのである。
これからも津波に絶対に負けない防波堤を作るとか自然に逆らう人間の技(わざ)はかえって災いをもたらす、むしろ自然の力にまかす、自然の流転のままに生きることもまた
人間にとっては必要とも言える。

posted by 老鶯 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月07日

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説 (これは唯一津波の伝説なのだろうか?)



南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説

(これは唯一津波の伝説なのだろうか?)

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。



南海老に伝わる鹿島町誌に記された伝説は何なのか?
何か皆目見当もつかないような内容である。
ここで大事なのは 、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり
こう記されていてこれは中村に城が移転された時天守造営にたずさわった大工だったということである
。中村の城には相馬藩の城は殿様が倹約のために民を困らせるから作らなかったとか伝えられるが天守は作られてあった。
のちの話として相馬の殿様が名君であったとか美化されて話しが作られたのである。
こういうことはよくあることである。
権力者は常にそういうことをしている。
だから歴史書も当時の支配者となった勝者となった権力者が記しているのだから
公平なものとしては記されていない、何かそこに今回の津波のことが記されていないように肝心なものが欠落している。
それは原発の安全神話が作られて政府や東電やマスコミが一体となり情報操作したのとにている。


それよりここで問題なのはこの伝説が慶長津波と関係しているのがどうかである。
南海老なら確実に津波の被害が慶長津波でもあった。
そして中村に城を移転したとき天守造営にかかわり毎日通っていたのである。


寛永18年(1641)将軍家光公は上覧に供すべしと命ぜられ、
その頃、相馬の家譜、官禄、勲功・・・・の文書はつまびらかでなく
探したが見つからなかった。

天守の梁に結びつけて置いた包物を発見して、筆史がこれをおろしてみると金の輪に九曜の紋がついた菱皮の籠があり、
中には八幡大菩薩の文字の旗、証文、雑文などが百余通が入っていた。


天守の梁と奥相馬秘鑑にでている。天守閣はあったのである。


円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


これは茶碗のようなものがそれも大きなものが転々としたという、それは津波で流された日用品を意味しているのか?
垣とは垣根であり壁の意もあり路をかなり大きなものがさえぎっていた。
何度もそのことがしったということは長い間津波の後に残された瓦礫のうよなものであったのか?
南海老なら津波の時、そういうことはありうる。


その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る


死んだ善次の棺が持ち運ばれてしまった。これもなぜなのかわからない、大原村と関係あることは確かである。
それよりも


葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと


ここで海水で洗うととありそれも葬礼とありこれはもともと津波で死んだ人たちのことにまつわる話しかもしれない、津波で死んだ人たちの遺品は海水で今回の津波でも洗われていた。
六十六部回国上元なる者の塚ということはこの人は仏教の修行者であり
もしかしたら津波の被害者を弔ったのかもしれない、その時、津波の被害者の遺品などを海水で洗ったことからこんな伝説が生れたのか?

こじつけになるかもしれないがこれは一つの津波の被害があったがそのことを訴えたが
相馬藩では戦国時代の最後の仕上げの時代でありそんなことにかまっていられなかった。つまり南海老村なら津波の被害がありそれを訴えてもいいはずである。
それができないことがこんな伝説に残ったとも推測される。

その犠牲者になったのが善次という大工だったのである。

「善次よ、中村城の天守造りに励んでいる時か、津波の被害の惨状を見ろ
こっちの方で働くべきなことはいわなくてもわかるだろう」
「そんなことを言っても殿様の命令には逆らえないんだよ、首が飛ぶよ」


南海老に住んでいた善次は慶長津波の被害をまのあたり南海老だから見ていた。
その時、中村城への天守の造営にかり出されたのだがうしろめたいものを感じていた。
それで夢にうなされていたりして怪異なことが起きた。
垣が路をさえぎるということは中村城に行くなということの例え暗示かもしれない。
中村城の天守造営をひきとめるものが何かあった。

ただ「おいか」というのがわかればいい、これもどう考えても「おいか」とは「おまえ」の意味だろう。
なぜ死んで入った棺桶が大原の方から来た黒雲にもちあげられたのか?
これもなぞだけど何かの祟りだったのか、善次という中村城天守造営にたずさわったものは何か呪われたのである。
そうではないか?中村城の天守造営にたずさわることは名誉なことであり
こんな怪異なことが起こり得ようがないのである。

これは民間で伝えたものであり相馬藩政記などには記されなかった。
六十六部の墓とは津波で死んだ人かもしれない、ともかくこの伝説を津波で解くと
それなりに辻褄があう、いや合わせているのかともなる
津波に関する伝承が全く記されていないからこれが唯一そうなのかと思った。

この伝説も何なのか本当は皆目わからない、ただ中村城の天守造営に日々たずさわっていた大工が南海老村にいたということは大事である。
その時、慶長津波が起きているからである。



垣はkakinojoii1.jpgの字である
 
 
posted by 老鶯 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月08日

夏あざみ (一人暮らしの高齢者のサービスの仕事が増えるー小高の人はやっぱり金をもっている)


夏あざみ

(一人暮らしの高齢者のサービスの仕事が増えるー小高の人はやっぱり金をもっている)


雨ぬれて買い物行くや夏あざみ

プレハブの宿泊所多し夏あざみ
老鶯や住宅街静か曇るかな


買い物は原町だと得だ、イオンはキクチより新鮮で安い。
現代はつくづく一万くらいの人口の所はかえって物価も高くなる
標準の生活ができない、車がないから余計にそうなる
だから一旦便利な暮らしを覚えたら不便な所には帰りたくないだろう。
そういう現象が起きているのが原発避難者などである

小高の人でやはり60代の人が一週間二回の食事の用意で二万払うというのは高いなと思った。
やはり小高の人は金もっているなと思った。
前は自分の家に知り合いの人が十万で知人を雇ってくれと頼みに来た。
その時は補償金のことは言われないしわからない時だった
自分は十万では高いと断った
今になると雇うのは鹿島区や原町区の人ではない小高の人に雇われるのである

これも変な話しなのである。シリアの避難民だったらテント暮らしだから
こんな生活からぬけだしたい元の街にもどりたいと言っていた。
そこだって戦禍で荒れ果てているのだ。
それでもテント生活よりはいいと帰りたいとなる
原発避難者などはもう補償金でこの暮らしでもいいとさえなっている

ただその補償金もあと二年とかでうちきられる。
そこからがかなり問題になる。
小高という不利な所で住まざるを得ない、でも小高なら住める
それでも財産価値が下がったしそういう街自体に住むことが嫌になる
街を復興させようとする気概のある人は少ない
だから若者は流出しているし老人は補償金暮らしの方がいいとなるものもいる

人間はなにかにや言っても楽な方に流されるのである。
苦しむのはいやだけで追われてやむなくそうしているのである
あえで人は苦しみたくないのである

ともかく高齢化で老人の一人暮らしが増えてくるから家事手伝いの需要が増えてくる
時代によって所によって増えてくる需要がある
そこは何であれ仕事になる。高齢者が増えてくるのだからその関連の仕事が増える
その一つが健康で一人暮らしの高齢者のサービスなのである。
この仕事は別に重労働でないし60代でもできる仕事である
だから60代で金のない人はまたそういう場所が働き安い

ただ家事労働というのは何か介護とにていてその人や家と深く接するから
そのマッチングが非常にむずかしい、みんなうまくいくとはいかない
みんな信用できるとは限らない,家の中を荒されることがあり本当に怖い
何かもめごとが起こると殺人までなるかもしれない
自分はその被害者であり財産まで全部もっていかれるところだった
だからよほど用心しないと家の中に入れることは最も危険なことである
外国人の家事手伝いを入れるというがこれはかえって単純労働よりうまくいかない様々な問題が生じてくる


原町にはとこどころ閑静な住宅街がある、そこに老鶯が鳴いている
今は梅雨でありそういう静かな所に住むのはいい
原町とか相馬市だったら別に現代の標準の生活ができる

あざみは四季を通じて咲いている、この辺はともかくプレハブの仮設であれ宿泊所が多い。
あざみはたくましさがあり野太いという感じがする
知り合った女性はあざみがふさわしい。
ただいろんな苦難を背負わされて10年老けてしまったのである。

 

2014年06月09日

抽象画(秋の色)


抽象画(秋の色)

autumncolours.jpg

earthcolours.jpg


autumnmountains.jpg

autuflowers.jpg


抽象画は同じプロセスを踏んでできふすい
万華鏡は必ず使っている
次に極座標も使っている
ゆらぎも使っている
この辺で抽象画になりやすい
ただ何が生れるかは全く偶然である
こういうことは今までなかった
画家だってイメージとして浮かぶから描ける
全くイメージに浮かばないの描けない
具象を見てもそうである

これはただパソコンの操作の過程で偶然に生れる
だから人間の脳に頼っていない

人間はただこれは秋の色だなというとき
秋の山だなと見るだけである
こういう価値判断はパソコンにはできない
人間の感性である

だから一句もパソコンでは俳句も作れない
短いから一見できそうでもできない
そこに人間とパソコンの違いがある

コンピューターは決して人間を越えられない

例えは医療でもいくら高価な機械でも
見るのは人間であり人間の眼である
そして人間を見る時は総合的に見る眼が必要になる
だから医者は患部だけをみていてもいい゛医者にはなれない
人間を診るということが大事になる
ただそういう医者はまれである。

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なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか? (歴史は勝者と権力者によって記されたから無視された)


なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか?


(歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=99130060


歴史というのは例えば大和王権に対して蝦夷が抵抗したことはわかっている。
では蝦夷が何者かというとほとんどわからない
ただ蝦夷は強大な大和王権に抵抗する勢力だった
それはアイヌの一部が交じっていたかもしれないし
最近では大阪辺りでナガスネヒコや物部などが政権争いに敗れ
東北に逃れて在地の勢力を従い反抗した
その中にさまさまな勢力がありカヤ(伽耶)族も交じっていたかもしれない
伽耶というとそれだけ古い渡来人であり日本に土着化していたのである


歴史が勝者の歴史としたとき、勝者の側にたって歴史は記される。
だから蝦夷は賊とされ征伐されなければならないものとして記される
それは鬼ともされるが実際はそうではない、むしろ鬼としたのは征服側である
だから蝦夷のことをいくらわかろうしとしても資料がないからわからないままである
大和王権のことはいろいろと記されても蝦夷のことは記されない


それで柳田国男はそういう権力者側、支配者側ではない民間の人たちの側にたって歴史を見る作業をしたことに功績があった
文字で記されない民間人が伝える口碑を解きあかして民間人側からの歴史を見させるようにした。
そういうことが今回の津波にもあった。

これだけ巨大な慶長津波のことが記されなかったのか?
それはやはりその時、戦国時代の終わりであり津波の被害のことなどに
復興などに財源を使えなかった、大阪の陣の出費やら江戸城の普請などに
かりだされた時期でありそういう余裕がなかった。
そして相馬藩ではまだ開拓されない原野が津波にあい被害が少なかった
とはいえ700人溺死と記されていたのだからそれだけの被害があった

ではそれは誰が死んだのかというと謎なのだけどやはり漁労民などが主に死んだのだろうただその内訳は不明である、その手がかりとして南海老村に残された伝説を引用した。

南海老という場所や中村の天守造営にたづさわった大工の伝説である。
それが何か慶長津波を示唆しているのだ。
茶銚が大きくなり転々としたというのは津波に流された様子であり垣が路をさえぎったというのは津波で流されたものかもしれない
六十六部の墓から青い光を発したというのも海の色を思わせる。
この六十六部は仏教の修行者であり津波の被害者をとむらったのかもしれない
海水で洗うとこの怪異があるというのはそのことを示唆している。
海水で遺品や死体を洗ったかもしれないからだ


そして中村の天守造営は大工にとって名誉なことなのに引き止めるものがあった。
その理由は何なのか?
それが何か自分などが探求した慶長津波のことが記されなかった無視されたことに通じている
この大工は何か呪われたようにして死んだのである。
普通だったら天守造営にたずさわったものなら代々の名誉として記される
それが南海老村の伝承では呪われたものとなっている
これは相馬藩政記に記されたのとは違い民間人側から記されたのである。

歴史に記されないくても何かそのことで民間人の間で伝説が残される
蝦夷にても大和王権側には記されないがアラハバキ神社などが残された
何かは痕跡は残される、だからこの南海老村の伝説は何か記されなかったことの
象徴的なものであり謎がここにあるかもしれない。


「天守造営より津波の被害の復興のために善次は大工は働け」

そういうことがまわりからあったが主君の命令でできなかった。
それで津波の供養をした六十六部の墓から青い光となり茶銚が転々としたとか
垣が路をさえぎったとか津波のことを生々しく思い出させるものを示した
ただ藤金沢は高い場所だから津波は来ていない
でもすぐ近くには津波が来ていて被害があった


相馬藩の主君は

「善次よ、津波より天守の造営に勤めよ、津波の被害のことは忘れよ」
「そのことはわかりますが津波の被害も甚大でありこちらでも働かねばならないのですが・・・」
「主君に逆らうのか」
「滅相もございません、ただあまりにも津波の被害が大きく仲間も死んでおりますので・・」
「それよりも天守造営こそ大事だ」
「わかりました、わかりました」
その時、相馬藩の歴史を記す筆吏が
「津波の被害のことはいかがいたしましょうか」
「まあ、人的被害は大きかったが原野が主に津波の被害にあったから米は例年のようにとれるようだ、だから700人溺死とかしるしておけ」
「700人では多くないでしょうか」
「だいたいの数でいいよ、これだけの津波だからそのくらいは記しておかないと・・」
「かしこまりました、おおせの通りにいたします」


こんな調子だったのかもしれない、ただその津波で死んだ人たちは善次にその無念がふりかかって善次は呪い殺されたともなる。
つまり700人溺死した怨念がここに残っていたのかもしれない、
あとで相馬藩で民のことを思い天守は財政的に苦しいから民のために使うため作らなかったなどと言っているが実際は天守造営を中止した。
それはその時津波の被害があり何か天守を建てるのをためらった
津波の被害者のことを恐れて天守を作らなかったのかもしれない
それがあとで相馬藩の主君は名君で民のことを思い天守は作らず民のために作ったとなったのかもしれない・・・・


いづれにしろ当時の慶長津波のことを解きあかす資料はほとんどないから
これが唯一の資料かもしれないとしたら貴重である。
ただ伝説の解釈はいろいろあるが中村城の天守を造営していた大工が南海老村にいたということは大事である。
時期的にも場所でも津波の被害と深く関連していたからである。

posted by 老鶯 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月10日

抽象画は色の科学的分解作用なのか (秋日暮という一つの具象画から抽象画への例)


抽象画は色の科学的分解作用なのか

(秋日暮という一つの具象画から抽象画への例)

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fukuzatunaimennn11.jpg
岩間に沈む太陽

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 密集する山々

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秋日暮http://www.motokawa.com/kaiga/kaiga-20-2.html


ここから分解すると確かにこれは秋の色になっている
この具象画は抽象画の側面もあったから抽象画に分解されやすかったのである。
パソコンの抽象画とはまだ謎である。

バソコンの抽象画で感じたこと (霊は光源や色彩のような形で存在する)


バソコンの抽象画で感じたこと

(霊は光源や色彩のような形で存在する)

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flowerrrrrrrrr111.jpg

自分には絵の能力が全くない、何一つ具象画を稚拙なものでも描けない
でも不思議なのはパソコンの抽象画でまず感じたことは今までにない色の美しさである
この色は今までの絵の具では出せない色である。
ただ単に色の配列だけで美を感じる
だからこれは何なのだろうと思った


そもそも人間にとって色彩とは何か?
そのテーマが絵画の中にある
絵画の現す美は主に色なのである。
立体性を追求すればそこに意志が生れそれは建築になる
絵画も立体性を追求しているが主なものは色である
その色は無限なのである。
同じ赤でも千種類くらいの赤があるのだ
だからすでに色は無限だとなる


その色とは何なのか?
それは人間が神に与えた魂の様相なのである
青かか黄色から感じるもの
光を受けてその色は映える
その色の世界は神が作り出した無限の魂の反映なのである
花々の美しさはまさにこの色にある
本質的には色によって個性が作り出されている


霊体といった身体的表現を必要とせず、光源や色彩のような形で存在するようになるのです。
その形態で、さらなる霊的進化の道をたどっていくことになります(シルバーバーチ)


まさにこれは色が霊性の表現としてあることなのだ。
もしこの世に色がなかったら暗黒であり地獄になってしまう。
毎日人間は色を感じている生きている
四季の花は色によって変わる
緑は何か癒しであり青は澄んだ心を反映して白は純白を示している
それは心の純白でもあり清らかさである。

その無数の色を光線が太陽がさらに美しくする

天国の花園というとき、そこは彩り豊かな花園というとき色の世界なのである。
天国とは何かというときすでにこの世にその模造として現存する
人間はそれを心の眼で見ていないだけである。
それは例えあったとしても心の眼で見なければ見えない世界なのである。

人間の心はこの世で様々なものによって曇らされる
様々な欲望が限りなくありそれによって曇らされる
それは実際は老人になっても消えるわけではない
死ぬまでそうした欲は消えないのである


東京に空がないというときそれは本当の色がないということである
北海道のような所だったら広々として色が映える
田舎でも映える、この辺では放射能に汚染されたが
この放射能の不思議は全く自然の色には影響していない
水は澄んでいるし空も澄んでいるし花には影響がなかった
それを何度も書いているけどだからどこが汚れているかもわからないのである。
だから中国のように黄砂とか煤煙だとはっきり目立って汚れを意識するが
放射能はそうした汚れを意識できないのである。
それが怖いと言えば怖いとなる
ただ美の世界は見た限りでは破壊されていないのだ
奇形化した花とか動物が生れたら目に見えて影響があることを知る
まだそこまではわからないから美の世界は破壊されていないと見るのだ


人間は常に肉的存在ではなく霊的存在だと何度も言われるけど
なかなかそれは理解しにくいのだ
霊的存在だというというときこの色の世界を例にするとわかる
この無数の色の世界を作り出したのは神である
その色を見るのは人間の心であり肉体ではない
要するに認識の喜びは色の中に見いだされる
肉体の性の渇望はそれゆえに否定される
人間の本来の認識をゆがめてしまうのが性だからである。


コンピューターから作り出された色の世界は自然の色とは違う
でも自然の色を反映しているものであるから自然から離れては芸術はない
バソコンの抽象画はパソコンから生れた芸術である。
だからインターネットの世界と切り離せない
その原画となるものがインターネット内にあり
それを直接加工することでできるからだ。
これは本の世界ではできないものである。
インターネット内にあればダイレクトに加工しやすく本からはできない
そして抽象画から抽象画に無限に変化しやすいのである
その原画は何かはわからなくなるのが抽象画である


ともかく色とは無限である
最近プリンセスダイアという花を知った
これは鉄線の類だとは思えなかった
最近は新種の改良した花が増えている
その色がなんともいえないものがある
青いガーベラなどもそうだった
プリンセスダイアナというとイギリスの有名なプリンセスを思い出す
確かにその赤はそれはふさわしいので自分の庭に置いた



プリンセス ダイアナ

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プリンセスダイアナよ
その赤よ
そは徒には散らじ
赤き誠を示し散りぬ
その赤さよ
そが心に残らむ
その熾烈なる赤さよ
後の世にも残らむ

dyana111.jpg

写真のとり方で同じ花でも違って見える
これは比べるために引用した。
花の写真はインターネット上に無数にある
ただちょっと角度を変えたりするだけでも違って見える
でも実際はなかなかこのような写真のように見ていない
そこに他人の写真から新しい発見をする
その人の独自の視点から写せば著作権は生まれる



プリンセスダイアナは不埒な女性ともされた。
ただ情熱的な赤の女性だった
その一生は不運に閉じた。
この詩はまたその女性をシンボル化したものとは違う
花はそれぞれ花言葉があるように精神の象徴でもある
赤はやはり情熱であり日本でも赤き心というように
至誠を示しているのである

花はやはり女性にふさわしい、女性にも様々の人がいて
そのふさわしい花がありそういう人がいる
花はやはり女性的なものであり女性的感覚なものである。



花の心は・・・

花は静かに開く
花は内に花びらを重ね赤みを帯びる
少女のような恥じらいを秘めて
花は横暴な手に触れられるのを拒む
そっとやさしく触れられること望む
花は静かに開き静かに閉じる
花はやはり女性の心に通じている
その体も心も微妙にセンセティブであり
花は女性の微笑みのように咲き
花は微妙にして繊細にふるえる

autuflowers.jpg



花も無数の花がありそれを知ることは一生を要する
花の名前だけ覚えるのにそれだけかかる
花は新種の改良した花も増えているから無限なのである。

梅雨 (相馬市の道の駅でまた老人が集まっていたー避難民の補償金がやはり話題になる)


梅雨

(相馬市の道の駅でまた老人が集まっていたー避難民の補償金がやはり話題になる)

swallowwwwshop.jpg

小雨ふり朝の草原夏雲雀
6号線燕の雛やはや育つ
梅雨の日や老人集う道の駅


ローソンの屋根の下に燕の巣があった。すでに巣立ちするように大きくなっていた。
いつのまにここに巣を作っていたのだろうと思った。
あそこは意外と安全である。
人がしょっちゅう来るから烏とか雀にねらわれない
燕が巣を作る場所に一黒苦労する
あそこはいいところを見つけたと思う
家の軒先でも猫でも烏ずもねらわれすい
雀はこの辺は別に減ったように見えない
原野化しても餌はあるのだろう。

自分はいつもあそこでコーヒー飲んだりして息抜きしている。
やはり外で飲むのが気持いいのだ。気分転換になる。
喫茶店あればいいが喫茶店だと今は400円とかたかくなるしなかなかない
人間はなんか気分転換が必要なのだ
今の梅雨の時期は特にそうである
なかなかでかけられないから憂鬱になる
これまでは仙台からフェリーで必ず梅雨の時期には旅に一カ月とかでかけていた
今になればつくづく恵まれていたなと思う

道の駅では車で北海道に行くとか例のごとく老人が集まっていて話ししていた。
その人は車で寝泊まりするから宿泊代はかからなかったと言っていた。
車もっていると泊まることでは楽である

そこで話ししていたのは郡山市から仕事で来ていた人だった。
補償金の話をしたら


「津島の・・か知っているけどこの前あったら一億もらったとか言っていたよ」
「この辺では小高はもらっているな、一時帰宅でもガソリン代とか何万とかもらえるんだよな、何かと金がもらえるようになんているんだよ」
「5億もらった人もいたよ」
「津島だともう帰れないだろうな」
「土地ねえかとそいつは言っていたよ」
「そんだけ金があるんだから豪邸は建てられるな」
「でも土地は簡単に手に入らねえし億の金もなくなるかもな」

常に話題になるのは補償金のことである。浪江町ではまず一億をもらうのはめずらしくないだろう。ただ一億にしても家を建てるとなると土地代だけで高くなっているし
簡単に買うこともできない状態である。
だから金があってすべていいとはならない
浪江の工場経営している人はお前らは補償金で働くことねえだろうとか言われると
何か不満を言っていたのもわかる
金があるからといい方向にみんな働かない
金があることでいろいろ言われるし危険にもなってくる
原発避難民はどこでも金があっても回りからいい顔されないだろう。
あいつらがっぽり補償金もらっているからいいよな、俺たちはこうして毎日安月給で働かなきゃならむとか必ず回りからねたまれるし特に原発避難民は特権階級となり

郡山市では車が実際に傷つけられたこともわかる

原町の人福島市で傷つけられとかあり福島市の人も線量が高いから不満がある
やはり原発の避難地域はもらいすぎということがあるだろう。
ただそこに住んでいる人にすればすでに先祖代々の土地であり家を失ったのだから
その埋め合わせでは当たり前だと思っているだろう。
それもわかる、でも回りではそうは見ていない
避難民だけが何であんなに優遇されているのだと回りでは見る

そして働いている人にすれば安月給で働かなきゃならんのは馬鹿らしいともなるだろう。補償金をめぐってこの辺では南相馬市では特にそうだけど
他の避難した人たちにも回りではそういう眼で見られている
結局避難区域はもう金をもらったから浪江で帰りたくない
億の金があってもそこはその金に値するサービスを受けられないのだから金の価値がないのである

だから果たしてそんな大金が幸せに結びつくかどうかはわからない
人間の幸福は今はわからない、その最後になりようやくわかるとかなることも多い
だから何十年後にどうなっているか見ないとわからない

何億もらってもその金も使ってしまい結局何にも残らなかったとかなるかもしれない
村の人も町の人もばらばらになって浪江町は結局なくなった
金をもらっても回りからいい顔はされないしいいことなかったとかなるかもしれない
金はみんないい方向には働かないのである。
そうはいっても今のうち金だけでもいくらでももらっていた方がいいとなるのが
そんな状況だから余計になり避難民はただ強欲だとか言われるだけになる


六号線はやはり東京と通じている時、その役割を果たしていた。
でもこの辺は工事関係者などまだ多く来ている。
だから外食店などはそういう人たちが常に来るからいい
五本松のレストランは夫婦でやっていてうまいとか言っていたので入った
イカの天ぷら定食は1000円では野菜も入っていたので安い方だろう。
奈良のナンバーがあったから除染であれ今はとにかく遠くから来ている
だからレストラン関係などは前より繁盛しているのだろう

ただ一部は仮設では繁盛していたが減ったのでめっきり来なくなった所もある
ただ以前としてプレバブの仮設の宿泊所はあちらこちらに建った
だから外部から来ている人は相当数いる

六号線はやはり東京と通じた時、その役割を果たす
途中で切れているから道の役目を果たしていない
それでも車は全然減っていない、まだ工事のためのトラックが頻繁に通っている
あと何年間はこうした状態がまだつづく
ただ5年くらいしたら工事も一通り終わったりしたらそのさびれ度合いは半端じゃないかもしれん
それがこの辺に住むものの怖さである。
夕張のようになる恐怖がこの辺にはあるのだ

いくら補償金をもらったからといってそれだけで今度は豊かになれないだろう。
東電に代わるような産業がないと衰退する
火力はまだあるからそれはこの辺の経済を以前として支えるだろう。
常磐高速道路ができればまた復興の力にはなる
やはり工事が一段落したら相当にさびれる
老人ばかりのしょぼい所になっているかもしれない
そういうところでは金をもっていてもいいサービスが受けられないのである。

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今日は母のショートスティでありなんとか行ってくれたから良かった。
風呂に二カ月も入っていなかったからだ
「厚寿苑」は近いから利用しやいのである。
つくづく高齢化社会は何で近くが大事になる
買い物だってそうだし助けてもらうにも近くにいないとできない
原町でも相馬市に娘がいる人もやはり遠いのである
隣にいるような人だと助けられるのである。

介護とか病気は物を買うのではないのだから近くの人がしてくれるのだからそうなる
でも厚寿苑では地元の人はほとんど働いていない
介護士は南相馬市以外から来た人たちである。岩手県の人もいるとかいろいろである
あそこは三階までありホテルのようになっていて収容人数も多いからいい
それが近くで利用できるからいいのである
必ず一日一回はすぐに様子見に行けるからいいのである
それで安心するしなんか用事があるから出かけることもできない

いづれにしろ自分はもう一日たりともやはり出かけいるの用意ではない
猫を飼ったことでも出かけられない
猫は飼うことはめんどうだった、自分のようなものには猫を飼うことは向いていなかったでも大きな家に一人いるのも淋しいから飼った
だから何か一日たりとも出かけられないというのには変わりないしこれからそうかもしれない

とにかく梅雨の時は気がめいるからやはり小雨くらいでも自転車で走るのがいい
人間はやはり気分転換が必ず必要なのである

2014年06月11日

相馬市史3(民俗編がインターネットで読める) (漁業の部の紹介)


相馬市史3(民俗編がインターネットで読める)

(漁業の部の紹介)

相馬市史3(民俗編の漁業の部)
http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/57973.pdf


●帆掛け舟の時代は風を知らないと命にかかわっていた

明治や大正の交丸原釜沖に打瀬船(底曳)か群集し
て帆をひいてあるいた。南風が吹くようになると小名
浜へ四倉、江名、久浜などの帆打瀬が何十鰻と来た
(大正頃三河から持って来たので三河船とも云った)・

原釜、松川では、昭和初年ごろから、漁船の動力化
がはじまっている。シタンポーに機械を入れたのが昭
昭和五、六年である。
現在は機船底曳漁が盛んで、二八、九屯の底曳船が


朝起床して浜へ下りたとき、蓑ず考えるのはその日
の天候である。一片の雲行へ雲の形、星のきらめき、
浪の音、風向などに?漁師は常人では考えられぬ細か
な観察をしてい為。季節風なども一定方向から吹くの
が常だが、それでさえも土地、土地によって細かい変
化がある。

コチは、汚』上で北東の風をさすことが多い。北コチ
とも云う。風のうち一番扱いにくいのはコチとナライ
である。なかんづく悪いのは寒コチである。必ず雪が
つぎものである。ナライのツケはそんなことはない。
コチとナライはつながっていて、コチが吹いてナライ
となってあが為ことが多い。|番恐しいのはコチの
雪シヶであると云う。冬至から寒明けにかけてニチシ
ケが多い。吹雪いてくると一寸先ぎも見えなくなる。
子にも孫にも、コチシヶだけはくわないようにと教え
る。
コチシヶに会ったときは風むきに八金華山の方角
に走れば、山のかげになるから海はよくなると云われ
ているC「寒コチ雪を招く」と云うのは、これらの事
をこったもので、反対に春のコチはおだやか沼ある。


とか、東から雲が出ると雨となるとか云われる。蔵王
山をこのへんでは「おたけさん」とよんでいる。鹿狼
山のかげになっているので、海上一里(約二十尋)位
出ないと見えない。新地では浜を出るとすぐ視野に入
る。十月から六月頃まで雪をかむり、頂きが白く見え
る。百尋タチの境へ行くと蔵王山も山頂を没し、そこ
から先きば和船では行けなかった。
:刺網漁にはこの山が山しめの対象となるばかりでな
く公夫侯の変化の指標ともた》っていた。

漁業というのは海を相手にしているから経験した人でないとわかりにくい、
海からの視点をもつことは神に囲まれていてもなかなかできないのである。
東風(こち)が吹くとそれは浜通りでは確かに海から吹いてくるのを感じる。
そろそろ春だなと感じる。でも実際は3月ころから吹き始めてもその時まだ寒いのである。
だから寒い東風をサムコチといっているのは興味深い。
浜通りでは3月に雪ぶ降りやすいのである。
それで3月11日に東日本大震災がなり津波が起きた。
そしてその時運悪くこのサムコチが飯館村に向かって吹いたのである。
その時は山の方も雪だったのである。
それで放射性物質が浪江の山や飯館村に雪や雨と共にたまってしまったのである
このサムコチに影響されたのが運が悪かったのである。
このサムコチは飯館村から川俣から福島市まで伊達までも峠を越えて吹いたのである。
だから福島市が意外と放射線量が高くなってしまったのである。


●漁業と山の関係


烏崎浜では南はずれのお蔵前(藩の郷倉があった)

そのの近くに、見張りの山があって色見山とよんだ。碧南の
吹くころこ上へつめ五、評(魚群の動きを着視した。主に
年よりの役であっ龍。鰯群が沖合のヒラマ仁か上ると
船を出して網を空いた。

大正三年頃は連日の大漁で、蚕様はあるし、明日ま
でおくと腐るので《女ご衆は夜中まで寝られなかった
と云ってい五?午前十・一時か十二時ころ水楊をし、シ
ロ分けが終ると昼まぎになる。それを運んで、しめど
にかけて処理するまですべて女の役目で、浜育ちでな
い嫁など、忙しい上に臭いので泣かされた。
油砿船の上げ下げに使う賀》木に塗ったりし重すべ
て自家で消費した。〆粕は粉づいて厩肥とまぜて田に
入れたり、《畠の桑の根つぎに使った。多量に田へ入れ
ると、


新造艦を海に下すと、磯部では金比羅神社、烏崎で
は津明神の沖で三回船をまわし、潮水を汲んでオブナ
ダサマとオモテにかける。また不漁がつ望くと清浄な
沖の潮水をオブナダサマにかけ、「サッパリ漁させな
いでわかんねえ、オフナダサマ大漁授けろ」と祈るよ
うなこともする。



烏崎では「津神社」への信仰が生きていた。
ただこれが「津波」と関係していたのか鯨
を祭るものになっていた。
金比羅も明治になってかちら祭られていた。
浜通りの海でも慶長津波などの伝承は残っていない。
松川浦の津神社(つのみや)はあそこに逃げれば津波から助かると逃げて助かった人がいたから何らかの伝承があった。
そこもぎりぎりで津波からまねがれたから信憑性がある。
烏崎の津神社にしろ北原の津神社にしろそれが津波と関係あるのかわからない
そういう伝承がないということが謎としてそれが何故なのだろうと探求してきた。

漁業は農業とも密接に関係していた。蚕様とか漁師にもしていたとすると漁業と農業をかねあわせてやっていた。だから魚なども肥料になって土を肥やしたのである。


●漁民が佐須などの山津見神社を信仰していた


佐須の山神(飯館村)は農耕、安産へ山仕事などの
広汎な信仰対象であるが、また漁一民の帰依が厚い。こ
れは漁場の占定に用いる山シメから、山獄信仰と結び
つきが生じたらしい。
昔は浜から草鮭がけで一夜歩いて参詣したと云う。

古磯部の神社境内には大きな山神碑がたっている。か
つてこ封で山神の御開帳をしたと云っている。佐須の
山神は大山津見神を祭神とするが〈由緒も本社も明確
でないと云う。


このほか相双の沿海村の漁民の信仰を集めたもの
に、小高町の蛯択稲荷、烏崎の大木戸稲荷、松川の川
口稲荷、相馬の笹川稲荷などがある。このうち姥沢稲
荷はかなり広い信仰圏をもって栄えた。

概して云えば西日本では漁業神として恵比寿信仰が

方では漁業神としては稲荷神の方が一般的である。
孔天保、嘉永の頃の例だが、・萱浜村(原町市)で地曳
の船頭が不漁藍歎いて稲荷を祀り、豊漁を祈願して大
漁を得、邑民これを大漁稲荷とよんだと云うことが、
奥相志に記されているが、稲荷瀞漁業神として信仰さ
れる基盤が既にあったものとふられる。


古くから村盈に湯殿行の風習があって、お山をかけ
ると、帰途東北地方に喧伝されている漁業信仰の中心
地大山(山形県)の善宝寺によってお護摩をたいて来
た。今でも此の棺仰は盛んで、沖で網がひつかLると
「大山善宝寺たのむ」と三回唱えると、事なくはづれ
ろと云う。


金華山信仰も昔からさかんで、鰹漁の盛んな時には
南部あたりまで行ったと云うから、金華山参詣も屡堂
行れていたのであろう。今も漁のひまなとき、仲間や
一家の者か漁船に乗って海路参拝に行く。金華山の碑
は農村地帯によくたっているのを見るが、この信仰は
農作にも関係していて玲大てい高いところにたってい
るのは、金華山を遥拝するところにたてるならわしか
ら来ているのであろう。


請戸では最近まで旧七月三十日に夜釣りをしていた。
海上でホトケ(士左衛門)にあうと必ず船上にあげ
てゆく。見すて上通ったため紀ひといシヶにあったと
云う例もきいている。あがりたくて浮いているのだか
ら、揚げねば.ならぬと云う。ホトケをあげるとき「大
漁授けるか」、「かならず大漁させるからあげてくれ
ろ」と問答してから船にあげ石ことも各地できくこと
で、あげるときはワッカタ(右舷)からあげるものと
されて

金華山の碑はこの辺に多い、それが海から船でお参りするというのは理にかなっている
それこそ海の民にふさわしい信仰だとなる。
ただ金華山の信仰は明治以降に盛んになったみたいだ。
古い年号のものはない、江戸時代のものはまだ自分は見ていないからだ。
金比羅なども江戸時代からあっても明治時代にも盛んになっている。
江戸時代から明治時代へ古いものが継続されている。
相馬や双葉であれ宮城県の海とに国境があるわけではないから
魚群を追って名取から亘理から船がやってきた。
そこで海の入会権が問題になっているからそういう所に漁業権の発生があったのだろう。
ただ海というのは別に陸のように明確な境がないから区切ることができないから
海とは誰のものかとなるとむずかしくなる。
それで中国などが勝手に尖閣を所有するとか南沙諸島を領有するとかになる


蔵王は亘理の鳥の海でも真正面に見えるし海からも高い沖に行けば見えるから
漁師たちにとっては目印の山でありその天候を見ていたというのは興味深い
海から見えるものは船に乗って見ることができないから実感できないのである。
ただ蔵王の写真を津波の後に右田浜から写したけどあんなに大きく連峰として見えたことに驚いた。
蔵王は山形、宮城、福島県から見える山なのである。

山津見と松川浦に地名化してまであるのはやはり漁民が山津見神社にお参りしたから
海にまでもってきたのだろう。

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西日本では漁師の信仰は恵比寿だが東日本では稲荷になっている。それはなぜか?
稲荷は別に稲だけの米作だけの神ではない、その起こりは鋳(い)成りだったのである。
鉄を作るものの信仰が稲荷である。そして東日本の海岸線には砂浜には砂鉄がとれた。
それで砂鉄をとるものが技術者が北上してきたのである。

●慶長津波は民衆でも伝えることを政治的に禁止されていたのかもしれない


海というと漁民というとき、今回の津波でなぜ相馬藩では700人溺死としか記されなかったのか?
なぜ津波の伝承が残されなかったのか大きな謎になった。
その記されないことが後の今回の災いになったからである。
老人は「津波なんか来ることきいたことがねえ」こう言い張ってかなり死んだのである。
つまりこの辺では海辺で漁業している人すら慶長津波のことを知らないし
津波に関する伝承がほとんどないということが問題になった。
だから相馬藩内で津波に興味をもっている人はほとんどなかった。
なぜなら岩崎敏夫氏すら津波のことを一言も書いていないことでわかる
津神社が津波と関係しているとも書いていない。
それだけ津波のことが伝えられなかったのである。

南相馬市の博物館に津波を警告しにきたのは飯沼勇義氏であり東北大の地震研究者ではなかった。
警告されても興味をもつ人はなかったろう。

自分は700人溺死したというのは漁労民だとしたがそんなに海辺で漁労していた人が400年前にいたのかという疑問がある。
ただやはり海辺には魚でも貝でもとれるのだからそれなりにいた。
そして漁業は集団力が地引き網などになると必要だからその時相当の人数が浜辺に集まっていたかもしれない、地引き網は400年前にしていないとしても集団で組みで魚をとることをしていたかもしれない,漁師がどれくらいいたとかは陸と違って検地などないからわからない。
でもそなりの人数はいてそれが津波にのまれて死んだ。
そのことが詳しく記されないのはその時相馬藩の政治の最大の課題は中村に城を移転して城を作ることだった。それから大阪の陣の参戦や江戸城の普請が最重要課題だった。
そのために津波の被害があってもそっけなく700に溺死としてしか記されなかった。


だから南海老村の天守造営にたずさわった大工は津波を経験していて六十六部はその津波で死んだ人たちを供養した。葬式の時に海水で洗うと怪異が生じるというのはそのためである。海難者なども当時から存在して修験者や六十六部とかが供養していたのである。
相馬藩で津波のことが詳しく伝えられなかったのは何か相馬藩の政治的事情で伏せられた。内密にされたということもある。
政治にはそういう何か隠したいことが常にある。原発だって放射能は危険でもそのことは秘密にされていたし政府の都合の悪いことは隠されていたのである。
それはどこの国でも政治にたずさわる権力者はしていることである。
ただ政権が代わると明るみにだされる
相馬藩では代変わりしないことはいいことだったが権力の主要部が変わらないから
そこで権力の独占が生れたともいえる。

相馬藩で天守が作らなかったのは相馬の主君が名君だったとかではない、
その時慶長地震津波が起きて天守が作れなくなったのである。
そのことをビスカイノが相馬藩の城を訪れて城が壊れていて工事中だったということからもわかる。
会津の城も三カ月前の地震で石垣が壊れ七層の黒川城は五層になったのである。
あれだけの地震があって天守が作れなくなった。

そうしたことが南海老村の藤金沢で大工が呪われるようにして死んだこととかかわっていた。

慶長津波で死んだ700人は相馬藩では無視したのである。それだけの余裕も戦国末期の政治的課題がありなくてできなかった。
だからその辺の事情が南海老村に怪異な伝説として残った。
民衆でも何か津波を伝えなかったのはむしろ相馬藩の政治的主導があって表沙汰にできないものがあった。
相馬藩が弱体化して伊達藩が責めてくるとか当時の状況は今とは違っている。
戦国時代はまだ終わっていない、だから民衆へも政治的に津波のことを言うことを禁止されたのかもしれない、現代の何でも言える時代とは違う。
だからこそ柳田国男は民衆側にたち口碑を重んじて民俗学を起こしたのである。

posted by 老鶯 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

原発避難民の求めているものは第一に土地 (金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)


原発避難民の求めているものは第一に土地

(金だけに依存を強いられた原発避難民の将来はどうなるの?)

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土地と家も失い仕事失う、そして金だけが残され頼りとなる



原発避難民のことがいろいろ問題になるけどその本質的な問題は何なのか?
こういうことは故郷を失うとか先祖代々の土地とか家を失うとか経験したことがないことが起きたためにその本質が何か見えないのである。
金はわかりやすいから補償金が問題になる。
何でも金に換算すると現代では余計に具体的になるからそうしているだけである。原発避難民で一番の今の問題は一様に言うことは

家を建てるが土地がねえか


このことである。一億の金があっても土地は簡単に買えない、一億出せば買えるじゃねえかというが必ずしも土地は手に入るとは限らない、今は土地が高くなるから別に生活に困らない人は売らないのである。それは別に原発事故になったから売らないということではない、土地は田舎では簡単に売らない、特に田畑は簡単に売れないようになっている。
田畑を売ると農家全体に影響するから売れないのである。
農家にとって土地は唯一食料を生み出すものであり土地を手放せば農民という立場はなくなり無産者になり仕事も失うのである。

もちろん現代では田舎でも実際は専業農家は少なく土地に全面的には依存していない、
それでもやはり土地は農家の人は簡単に手放せない規制がある。
だからそういう規制をとりはらい自由に会社でも設立して農業をやらせようとする
政策を自民では打ち出しているがどうなるかうまくいかない。
農協改革も打ち出したがスムーズにはいかない。

不思議なのは津波でもう使えない土地が膨大に生れた、土地を失った。そこは空き地となり原野化している。その土地もどう使っていいかわからない。
以前として所有者がいて市でも勝手にできないだろう。
国や市で適当な値段で買ってもらいたいということはあるだろう。
だから特区にして土地の売買を自由にして土地を活かす方法をとるべきだという意見もある。

でもそういう土地が今度はソーラーパネルだらけになったらどう感じるだろうか?
実際に勝手に小高辺りで農家の土地にソーラーパネルが設置されて怒っていた人がいた。景観としてはいいということはない、やはり白砂青松の風景は良かったとなる。
ただ経済になると景観だけからは論じられない。
自分は火力発電所でもない方が景観的には良かったとなるがそれは許されない。
人間は景観だけでは生きていけない、だから京都の古い町家の前に高いビルが立ちのしかかるようになっているのも現実である。
土地利用にすればビルの方がマンションの方がいいのである。


原発避難民がもし故郷に町でも村でも住めなくなったらそれは何を意味しているのか?
そんなことを考えることもなかったろう。当たり前にあったものがいろいろ失った。
土地とか家とかは当たり前にあるものだったし仕事だって農家だったら当たり前にあるものであり仕事がなくなることなど考えたこともないだろう。
でも仕事まで奪われたのである。だから浪江の人が田植えしたとき、農民の顔は輝いていた。仕事はただ金をもらうためにあるのではなく人間の生存の基本としてある。
つまり補償金をたんまりもらっても仕事がないとする毎日ギャンブルになっていたら
その人は博打打ちになってしまったのかとなる。現実にそうなっている人がいる。
仕事がないし金はあるからそうなってしまった。
そんな生活を見ていたら子供はどうみるのか、とを育つのかとなる。

どうしても温泉街の市では何か歓楽街的なものが生れその性格もそういうものが培われる。すべてではないにしろ何か育った環境に人は影響されやすい。

近江出身の人と外国旅行であったとき、外国までいってねぎるのがうまいと思った。
外国なになると簡単にハデ着ないのである。そういう交渉ができるしやはり近江商人の末裔かともなる。東北人はあんなことはできないし自分はまねるべきではなかった。
なぜなら外国は日本との金の差が十倍とかあるのもありねぎるべきではなかったと反省している。
ただ人間はいかに旅でもちょっとのつきあいでもつきあう人に左右されるかということである。だから別に人間の性格とは生まれつき作られたものではない、その土地の影響で作られてゆく側面もある。

大阪に生れれば大阪人気質が作られる。「もうかりまっか」が挨拶になる。
そううい人たちと日々接していれば東北人だってそういう気質になる。
一方で農民とばかり接していればやはり素朴な人となるだろう。
自然を相手にばかりしていたらそううい気質が作られてゆく。
商売には向かないのである。だから東北人は歴史的に農民が多く商人気質が養われなかった。日本人自体が商売がへただというときそういう環境になかったからだろう。
イスラム商人や中国人ば商売がうまいというとき、常に他国と交わる環境にあったからそういう気質が養われた。

仙台は昔から東北では商いが盛んな都市だったから宮城県人は東北人ではないと言われている。伊達政宗は東北人とは思えないスケールの大きさがあったのは農民的気質ではないからだ。会津などの山国気質とも違った性格の人間だった。

結局原発避難民というのは何になったのか?東北人なぜもっと政府とか東電に抗議しないのかと全国から一面言われる。もともと東北人はおとなしいからだろう。
それは言える。でもその気質だってこんな状態になると変わる。

今度は沖縄のような権利を主張して政府や東電から補償金をとる交渉を常にしていかねばならないからその気質も変わってゆく、それはいい面と悪い面がある。

土地も家も奪われてしまったら金だけが頼りになり金の依存することが大きくなる。
するとより金第一の価値観に生きるようにされてゆく、今までなら田畑があり別に金にこだわらなくてもそれなりに生きればいいとかあったがそうはいかなくなる。
土地も家も仕事すら奪われたなればそうはならない。
だから金に汚い、強欲なやつらだとなりユダヤ人ににていると批判される。
それはそういう立場に追い込まれたからそうなっている。
素朴な農民なとではありえない立場に追い込まれた。

ユダヤ人も土地がもていならか国々を放浪して金融で身をたてていたのである。
何億ともらったらそういう考えにもなってゆくだろう。
その金をいかに活かすかが問題になる。投資などもする必要が出てくる。
金だけに依存するとそうなってしまうのである。


ただ原発事故周辺地域にもそういう影響があり前の状態とは大分違っている。
原発事故でもなくても膨大な土地を失っている。すると土地に依存するより
何か別なものに依存する、仕事とするほかなくなってくる。
放射能汚染で土地も利用できないとすると余計にそうである。
だから浜通りの未来は何なのかというときその産業を仕事をどうするのかということも
大きな問題になる。
今まで違ったことが要求されてもそんなことに簡単にできないし老人はもうできない、ただ年金とかで細々と生活するほかないとなる。
だかかかえって若い人はこういう故郷を見捨てて流出する。


いづれにしろ当面は原発避難民は金をもらうだけもらい将来に備えるとう発想しかできないだろう。ただ手に職をもつ人は有利だろう。なぜなら大工でも仕事が山ほどあり仕事ができるからどこに移ってもいいとなる。
農民は土地から切り離されたら仕事がしにくい、ただ土地を借りてしている人もいる。
牛を飼うことをはじめた人もいる。だからすべてではそうではないが土地から離れたら仕事がしにくいのである。


いづれにしろこういう大きな変化には人間はまず翻弄されるだけでどうしていいのかとか簡単にできない、ただ思うに現代社会広域社会であり移動しやすい社会だから土地に縛られていた社会でないから土地を基にした共同体はコミニュティは崩壊しやすかったのかとも思う。
この辺の職業で多いのがトラック運転手であることそのことを証明している。
現代は広域な輸送社会になるからそうなる。
原発事故でも一番困ったのが他から物が一時的に入ってこなかったことなのである。
広域社会で生きているから他から物が入らなくなったら生活できなくなるのである。
広域社会ということは金が物言う社会でもある。
もともとそういう社会になっていたから容易に故郷とかもばらばらになったのかもしれない。
何億もらったらどこでも暮らせるのだから暮らしやすい所に暮らそうともなる。
若い人は特にそうなってしまうだろう。老人でも東京の人は地方都市に移りすみたいとなるとき金があるからそうなる。住みやすい所に金があれは住めるとなればそうなる。

だから大内村から郡山市に避難した人はもう帰らない人が多い。
補償金で便利と所で暮らした方がいいとか他の都市、東京に移り住んだ人たちもそうである。東京の暮らしがいいと言う人たちもいる。
それが幸せがどうかはわからない、そもそも幸福感など計り得ようがないからだ。
だから江戸時代がどうのこうのというとき、現代と比べること自体間違っているのだ。
その時代時代の幸不孝があり計り得ないのである。


現代は借金している人が8人に一人とか本当に実際は多い。それも裏の金融機関から借りているというから借金生活が多い。それだけ金がかかる生活だからそうなっている。
現代の標準の生活するだけで金がかかりすぎるからそうなる。
何で毎日こんなに買うものがあるんだろうとなる。
オカズも何でも買っているからそうなる。
要するにもう食事の用意なんかめんどうだから弁当がいい外食がいいとなればそれもできる。すると手間もはぶかれ自由な時間が生れる。

現代はそういう時代なのである。そのためには金が必要だとなる。
金持ちは介護で高い施設にやれば苦労せずにすむ、たいがいそうしている。
貧乏人はできない、すると負担が大きく時間も奪われるのである。
ただすべてが金では解決しない、その一つ土地の問題だった。
金があっても簡単に土地は手に入らないのである。

posted by 老鶯 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年06月12日

津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た (人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)


津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た

(人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)

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子供のときから今に至るまで繰り返し見ているのが、大きな波に呑み込まれる夢だ。
パターンは色々だ。
海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる。

ガラス張りの旅館のロビーの、そのガラス戸いっぱいに津波が打ち寄せ、窓を破って押し入ってくる。

それでもいったん呑み込まれると、体は波に囚われたままいつまでも浮かびあがらず、もう少し、もう
少しで顔が出ると、我慢しているうちにどんどん息苦しくなってくる……。

http://blog.livedoor.jp/taeko_asano/archives/361351.html


溺れる(溺れそうになる、誰かが溺れている)夢は、精神的に追い詰められたときによく見る夢であると言います

 


人間は水に溺れる夢を見るのは誰でもある。一面が海になっていて取り残されてもうだめだ、死ぬんだなんて夢を見る。
水にのまれて必死になって泳いだりして浮き上がろうとするがもう助からないという夢を見る、たいだいもうだめだというとき目が覚める。


海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる


ここまで大津波として夢を見る人はまれだろう。
津波は普通は経験できないし見ることもできないものである。
海の水が押し寄せてきたとしてもそれは津波とは普通は自覚できないだろう。

自分は地震とか火事とか炎につつまれて苦しんでいて脱出するような夢は見ない
ただ水にのまれる夢は何度も見ている
一面が海になってもうどうにもならないという夢も見る
それは何か津波とにているが津波という意識はこれまでもなかった
普通に他の人も見ているだろう
一面が水に囲まれ海に囲まれ絶体絶命になっている
そういう夢は津波とにている
ただ海側に住んでいて津波を今まで考えたこともないし意識したこともない

相馬では400年もこんな巨大津波などなかったのだから誰も津波など来ないと思っていた

ただ自分は今回津波が来た小学校の前で何度も海の水がおしよせてその水に飲まれる夢を見た。
それが今回ちょうど鹿島小学校の前で津波が止まったのである。
その鹿島小学校の前で海の水がおしよせて海の水にのまれ溺れもうだめだという夢を何度も見た。
それは小学校の前だというときその前が家がまれであり田んぼになっていて海に出る
もしかえってそこに家が多く建っていたらそうしたし夢は見ないだろう。
海が近くても住宅地化していたり工場地帯とかなっていたら海がさえぎられるから
海の水がおしよせるような夢は見ない


水におぼれる夢などは何かに追われているから追い詰められているから見ると言われる
もう脱出できないというのはそういう心理状態にあるから見ると言われる
でも何かそうでもない、別にそういう心理状態の時でなくても見ている
だから鹿島小学校前でそういう夢を何度も見たこととが津波が来てから不思議になった。
海から離れて街に住んでいてもそういう夢を見る、そしたら海に接して荒い波の音を聞いてくらしていた人は怖くないのかといつも思っていた。
海を身近に毎日見ていたら何かその海にのまれる夢は日常的になる
海から4キロとか離れてもそういう夢を見ているからだ。

一面が海になるのと違ってその夢が場所が特定されていたことが不思議なのである。
ただ漠然と水にのまれ溺れる夢ではない
鹿島小学校のじき前でそういう海の水にのまれる夢を見たのである。
その鹿島小学校の校舎のある前で津波は止まったのである。

鹿島小学校の近くが住宅が何十軒かあり津波の被害にあった。
あんなところでも床上になり被害が大きかった。
津波の後でもたいして家が破壊されていないからたいしたことないと見ていたのである。しかし津波の被害にあった人は今も津波の来た海の方向が怖いと言っている。


不思議なのは仙台辺りでも石巻でも直接太平洋に接して住宅地になっていた。
石巻などは日和山の前など過密に家が密集していてこんなに家が密集していいのかと通りすぎたことがある。
その密集した家が根こそぎ津波で流された。
そこは入江でもない太平洋に直接面していたのである。

なぜあんな危険な所に人は住んだのかと津波の後に盛んに言われるようになった

そもそも弥生時代になると稲作がはじまり江戸時代辺りから開拓事業が拡大した。
伊達藩でも相馬藩でも海側に原野を開拓したのである。
でも慶長津波では相馬藩内は原野の所が多かった。
でも津波が来ていて危険な場所だという認識はあったはずである。
でも日本では土地がないから米を作るために海側を開拓してきた。
有明海でついに開拓する場がなくなったとき、農民は満州に移住した。
そこでも米作りしていたのである。
日本の宿命は土地が狭く耕作地がないから農業には限界があった。
その限界を突破するために海側を開拓して土地を広げた。
そういうことを可能にしたのは文明の力だった。
それだけの技術力が生れてできたのである。


縄文人が海を埋め立てるのを見たら驚き神罰があたるよとか言ったかもしれない
それは自然を恐れないものであり自然とともに生きていたからそう言った。
自然への畏れが常にあった。弥生時代になるとそういうことなくなった。
ただ米をそうして拡大して作ることによって急速に人口が増加したのである。
人口が増加したのは文明の力だったのである。
縄文時代だったら人口は増加できないのである。

弥生時代になり稲作文明になったとき、すでに自然への恐れは弱められた。

今回の津波ほど自然の恐れを感じさせたことはなかった。
自然の力はとても人間の想定できない力をもっていると驚いた。

古代では人間の夢を尊んだ


 西郷信綱の『古代人と夢』は、昔の人は夢をこんなふうに考えていたのかという新鮮な驚きに満ちている。王位継承者を夢で決めたり、夢の中に現れた観音様のお告げを信じたり、夢の売り買いまでする人々がいた。西郷は夢を主題化することによって「人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい」という。それにしても、夢を信じる、言い換えれば、夢ももう一つの現実であるという認識は、どのように生じるのだろうか。

 西郷がくりかえし強調するのは、夢の他者性である。夢は自分のものではなく、「人間が神々と交わる回路」であり、「神や仏という他者が人間に見させるもの」だという。

「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」(藤原敏行朝臣)
http://d.hatena.ne.jp/hyakkenn09/20140427/1398575416


これは興味深い、夢は神の御告げのような役割を果たしていたのだ。
それだけ人間の夢は不思議でありその夢を解くことが要求された。


人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい


津波は400年に一度となるとみんな忘れてしまい相馬藩では伝承などほとんど残っていなかった。
しかし津波のことを忘れていても海にじかに接して住んでいれば何か海への恐怖感が日常的にあるのが普通である。それが海に接してすむ人たちになかったのも理解できないということはある。

 
例えば
 
海に接して住んでいる人にこんなことを言った。
 

「わたしは何度も鹿島小学校の前で夢を見たんです
海からの水がおしよせてその水にのまれて溺れそうになる夢です
目が覚めると夢がさめてそ助かったなと何度見ていたのです」
「それは何なんだろう、あんなところに海の水が押し寄せるということはない
かなり離れていて海も見えないんだけどな」
「いや、小学校の前は家は少なく田が広がり海に通じている、だから海が近くに感じることもあるんだよ、前に住宅地があって海がさえぎられていると見えない
だから海を意識しないこともある」
「でもそんなところで海の水にのまれるとはなんなのだろう、
俺たちのように海に接して住んでいればわかるけど遠いからな」
「だからこの夢はなんなのか不思議だろう、この夢を買ってくれ」
「そんな夢を買えるか、海を見て俺たちは毎日暮らしている
海を恐れていてはここに住むことすらできなくなるべえ」
「それならいいですが、何か災いが起きなければいいんですが・・」
「俺を脅すつもりか」
「いいえ、その夢を何度も見たから言ったまでです」

ともかくあの地点ということが自分の夢では明確だった。漠然としたものではなかったのである。


住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ


これだけど恋人が波がよるのにも寄ってくるのが見えるというのはこの辺ではありえないいつも荒々しい波が防波堤に打ちつけていて荒寥としていた。
西の海とは違い穏やかな海ではない。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、波ばかり。


曇った北海の空の下、

浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるともしれない呪。


中原中也

この辺ではこういう海だった。人魚は沖縄だったらふさわしいだろう、実際にジュゴンがいるのだから空想でもなかった。
その海とはあまりにも違っていたのである。

いづれにしろ文明が発達するとそうした人間の夢でもそんなもの意味ないよとかなる
でも鹿島小学校前で自分が何度も海の水がおしよせてきて溺れる夢を見たことの不思議である。それは明らかに今になると津波だったのである。

posted by 老鶯 at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係