2014年05月30日

地元に根ざした土着的メデアの必要性 (南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)

 

 地元に根ざした土着的メデアの必要性

(南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)

すでに10カ月もいる地元の津波のことを主に調査研究している人が
南相馬市の博物館にも津波のことを最新の研究から警告しにきていたという。
でもとりあわなかったという。

自分も前に時事問題の深層で松川浦からかなり奥まで津波が来ていて
その砂が発見されたということを書いた。
ボーリング調査でそのことがわかってきていたのである。
それは宮城県でもそうであり実際は科学的調査は進んでいた。
その実績をふまえ東電にも貞観津波のことを警告していたのである。
それを東電では全くとりあわなかった
南相馬市の博物館に来て警告してもとりあわなかった。
ただ一応南相馬市では津波に備えよと広報で出してはいた


ではなぜ南相馬市博物館でとりあなかったのか?
それは津波は郷土史と関係ないと思っていたのかもしれない
野馬追いのことなどが主要なテーマであり
貞観津波のことを言われてもなんのこととなったのだろう。
南相馬市は原発に実際に勤めていた人は思った以上に多かった
そうならば原発にもっと関心があっても良かったはずである。
でも意外と関心がなかった
ただ小高にできるとなると関心がでてきたろう。
それも実際に小高にすでに東北電力で原発が建てられることが決まり
工事がはじまるところだったのである。
それも原町や鹿島では知らない人も多かった。
自分も知らなかったし原発の話しは聞いても関心がなかった
30キロ離れているということで関心がもてなかった


でも相馬藩となると原発が建った双葉地域も相馬藩内だった。
郷土史という観点からすると郷土史的に関心をもつべきだった
郷土史というと狭い範囲のものだと思っているが
実際は郷土史は自然史の段階からはじまるからまず広範囲な知識が要求される
だから郷土史といっても一人の手に負えるものではない広範囲な研究分野なのである
郷土史など狭い範囲だから調べ尽くされて新しいものはないだろうと思っている
ところが実際は灯台下暗しでわからないのである。

最近すぐ近くの神社に「天明」と刻まれた碑があった
そこは子供の頃遊んだ神社である。
そこに天明の碑があることを知らなかった
天明というと大飢饉があり相馬藩が疲弊してどん底に陥った時だったのである。
するとこの辺もその被害がありその碑が建てられて天明と刻まれたのかとなる
町内だから新しい地域だと思っていたのである。

このように人間は最も身近な所が意外と知らないのである。
鹿島御子神社のある脇の墓地にも天保の碑があったが
天明はそれより古いという驚きなのである。

郷土史というときそれはトータルな学問でありそれは別に過去だけではない
過去から現代に通じるものであり歴史から今を考察するのである。
人間は過去を知らなければ現在をしりえないのである。
ある人の一生でも過去がどうだったのか知らなければしりえようがないだろう。
だから津波のことがこの辺では記録もほとんどなく忘れられてしまっていた。
そのことが今回のような大被害になった
磯部や海老や烏崎など見れはわかる、壊滅して土台しか残っていない
そしてなぜあんな危険なところに密集して住んでいたのかと盛んに言われるようになった
それは原初の自然の状態から歴史を還りみないとわからないのである。


もし東北大の学者が東電でも警告してそして南相馬市の博物館にもきて津波のことを警告していた。
そういうことがあったのかと真面目に答えて郷土史をふりかえれば津波の対策もでてきたし
原発をかかえているのから余計に関心をもつべきだったのである
そういう歴史がほとんど相馬藩では記されていないし語り継ぐこともないから
今回の大被害になったともいえる
ただ比較的記録が残っていた宮城県でもそうだったからいちがいには言えない

科学者が言うには千年前のことを言ったりすると笑われるという。
予言者のようになり誰も信じないという。
仙台の海側に住宅地として広がった所は不動産屋に津波があったと警告しただけで
学者に土地が安くなるからそんな警告するなと脅されたということでもわかる

宮城県では伊達藩では慶長津波の被害のことは比較的記されて語り継がれていてもそうだった
ただ女川原発はやはり百年前にも三陸で大被害があったから危機感が違っていて高くしてぎりぎりで助かったのである。
相馬藩では津波のことはほとんど記されず伝えられなかった
それで双葉の原発にしても危機感が地元の人でもなかったのである。

要するに地元の人の危機感のなさが危険な原発を容認した
女川のように原発を建てるにしても安全性を見ていない
金さえもらえればいい、安全だとあれほど言っているのだから安全だ
それより金なんだよとなっていた

そういうのを警告するのはメデアの役目である
でも福島県のメデアは新聞でも雑誌でも原発から金をもらっているからしない
地元だからもっと地元メデアとしての使命があったが成されなかった
なぜそうなるかというと新聞でも雑誌でも金がかかりすぎるのである
新聞は毎日だけど雑誌なんか一カ月に一回しか出していない
するとどうして給料が支払われるのだろうとなる
それは企業とかからの宣伝費とかになる

すると東電の宣伝費だったらそれだけ経営が成り立つとなり
原発の危険性などどうでもいい金が先だ、経営が先だとなってしまうのである。
それで福島民報でも聖教新聞を刷って経営が成り立つような状態である
つまりメデアも経営的には弱い立場だから権力の笠下につくだけである。
それが象徴的だったのは東電で朝日新聞でもなんでもマスコミの幹部を
中国に招待していたとき原発事故が起きたのである。
何かこれも象徴的なことだったと思う。


マスコミでもそうだがメデアは自立していない、その経営は宣伝費でありそれは大会社のいいなりになるということになる。
すると地元のことでも何か企業のことでも批判できないのである。
だからメデアはメデウムであり中間というとき片寄らない報道が大事なのである。
それがマスコミにも地元メデアでもできないのである。
それは例えば地元でも漁業組合を批判することはできなかった

今になると漁業組合は事故前も事故後も破格の補償金を東電からもらっていたことがわかった。
でも地元のメデアで漁業組合のことを批判できたかというとできない
今でもできない、民友では汚染水問題で漁業組合で「苦渋の決断」をしたと
社説で書いている。これにしてもおかしいのである。
一旦どんなものでもそれが団体化して組織化するとタブー化して誰も批判できなくなる。
必ず抗議が団体から来るからできなくなる
そうなると批判されないからそうした組織団体は増長してゆき
今回のようにな大災害とか事故で明るみに出されるのである。
それは韓国のフェーリー沈没事故でも同じだったのである。
カルト宗教団体というのもいかに危険なものになっているからわかる
必ずそうしたものは増長してとめるものがなくなりついには巨悪となり
それを暴いたのは人間ではない津波であり神の力だったともなる


いづれにしろ民主主義ではメデアの報道のもつ役割は大きい。
知らされなければわかりえようがないし危険なものでもそれを暴くこともできない
政府ー東電ーマスコミが結託したとき、その隠された真実を暴くことはできなくなる
地元のメデアはマスコミとも違って地元密着型にならねばならない
郷土史でもやはり自然史から古代史から災害史から様々な角度から郷土のことを検討するべきなのである。
インターネットで発信することが無料なのだから自分のプログもそうしたメデアの一つとして多少の力を発揮するようになる。
そういうことはこれからのメデアでは必要である

福島県でも広いから福島県のメデアだけではないさらにその土地に根ざしたメデアが必要なのである。
それは企業の宣伝費とかで成り立つようでは地元全体のためにはならない

だから「標葉郷」が浪江のもともとの名でありそれは禁断の地だったのである。
こういうことも何か不吉だとして原発を建てないとするものも必ずしも非科学的だともならない、
わずかに残っていた伝説もそうだった
郷土史とは好事家のものではなく総合的なものとして現代に通じたものであり
そういうメデアは相馬藩を基にしてもつべきだったのである
福島県だと広すぎるからかえって原発のことに危機感をもつことはできなかった
中通りまで被害があるとは思いもよらなかったのである。



時事問題深層2005


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)


陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)

  3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」

  内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。

 
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この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。

 貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。
 
相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです

津波被害はくりかえす
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)
http://musubu.jp/jijimondai25.htm

これは2005年にスマトラ津波が起きた時自分が書いた
今になるとこれを書いたということは今回の津波のにつながることであった
そういう意識は全くないにしろこうして何かの事件に対して記しておくことは
あとあと見直されることがある
そういうことはマスメデアではしていたが個人ではできなかった
インターネットがはじまって個人でそれぞれの記録を記すことができるうよになった

だから意外とこれを記したことは大事なものになっていた
結局歴史は何が大事になるものかあとになってみないとわからないこともある
その時重要なことでなないと思っても重要なことがある
重要だと思われても重要でいないこともある
だから個々人が記す記録などでもあとで重要になることもある
ただその情報が膨大になると結局個々人の記録は忘れられ消失する


スマトラ津波の時、言われたことは盛んにインドネシアでは日本のように
津波を知らないから逃げられなかったのが被害を大きくしたと言われた。
これも他山の石としないことだったのである。
日本が津波国でも逃げないで死んだ人がスマトラと同じように多かったのである。
そして原発事故でも過去にチェルノブエリ事故があったが
あれは日本とは違いソ連の技術は遅れているからな日本は技術は優れているから
事故にはならないよなとみんな日本人は見ていたのである。
これは戦争の時と変わらない、アメリカなんかたいした国じゃないよ、
日本は神国だから神が守ってくもる国だから勝つに決まっているよ
こういう国の奢りが滅びに通じていたのである。


 相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。


これは本当は相当に注目する必要があったのである。
もしそんな津波が来たら原発が危険だと察したからである
原発だけではない危険な場所に住んでいた人たちも真剣に考えたらこんな被害にはならなかったのだ

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図を拝借したが相馬地域が黄色であり一番大きな津波が来ていた

地震も仙台より揺れが激しかった、地震の波動は相馬市へ一番強く向かっていたのである。

岩本氏が貞観津波の記述は相馬市のことだったというのも科学的にみると根拠のないものでもないのか?

不思議なのは原発は現代の最先端の科学であり津波のこうした最近の調査も最先端の科学なのである。
どちらも伝説とかとは違う、ではなぜ科学者同士がそうしたことに互いに検討しあい
危険を回避する方法をとれなかったのか?
科学者は科学者と話し合えば話しがあう、なぜなら伝説などを根拠にしているのではない

「津波の砂が発見されたんですよ」
「それは本当ですか、科学者だから科学的に発見されたのだから嘘ではないです
あなたたちも科学者だからわかるでしょう」
「・・・・」


なぜこうならなかったのか科学者はどういう人たちなのか自分にはわからない
人間は科学でも総合的見地かはものを見ることがみんな苦手になっている
専門化しずきている。それが盲点となり事故が起きた。
原発は戦艦大和だったというのはわかる
その指揮官は国の運命をになうような重責だった
そういう意識が国にも東電にも欠けていたのである。

posted by 老鶯 at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

夏菊、菖蒲、クローバーの原野などの写真



夏菊、菖蒲、クローバーの原野などの写真

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今日も行く黄菖蒲映えて遠くへと
日立木の細道通り菖蒲かな
道の駅札幌のナンバー夏燕


紫と黄色の菖蒲城跡のお掘りに写り相馬市暮れぬ

松が枝の道を覆いて街道や影なし涼し菖蒲咲くかな

クローバーの匂いの満ちぬ北海道旅せし時を思い出すかな

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全部クリック拡大しないと見栄えしないです
今回は特に大画面にしているのでクリック拡大してください



昨日は原町へ行き今日は用事あって相馬市に行った。
疲れていたが無理して行った。
梅雨になる前に外に出歩いていないと行けなるなるからだ

つくづく旅をすることは贅沢だった
何が贅沢かというと金を使うからではない
時間を自由に使えるということだったのである
旅をするには常にオールフリーという状態に
常時あることが旅をする用意があったことだったのである。
旅に集中するにはオールフリーの状態でないと旅にならない

だから毎日介護で三食の用意しなければならないとか
何か勤めがあり迫られるものがあり負担になるものがあると
もうその時点で旅する状態にはない
6時になるな、また食事の用意だとなるとそれだけで負担になり
自由な心が奪われてしまうのである


だからつくづく勤め人には旅はできない
保養で旅館でうまいものなとを食べることはできる
でも旅はできないし旅人にはなれない
芭蕉などでも人生そのものが旅となってしまったのは
常時旅する状態にあった
たとえ家にいたとしても旅はつづいていてその家自体が旅の宿だったのである。
現代ではまず旅人となることはできない
江戸時代辺りは歩いて旅するから別に風流人でなくても旅をするようになった
現代はただ便利な車とかで移動しているだけなのである


現代は写真の時代であり写真で記録を残す時代になった。
だから芸術でも写真ときりはなせなくなる
写真がないと何か訴える力に欠けてくるのだ
写真は一目見て感じるものがある
だから大衆的にもなる
そして写真をみてまた見直すことができる
今回の写真は大画面で見ないと迫力がでてこない
クリックしないと鮮明に見えない


今は菖蒲の季節である
日立木の松並木は松の枝が道を覆っている
あれは東松島の鳴瀬川の辺りの白萩とか浜市とかの細い道で
松の枝が伸びて道をおおっていたのを思い出した。
あういうところはなんか車もあまり通らない道に見えた
つまりトラックのようにな大型のものが通らないから
そこが人間的になっていたのである

街道は細い道であり日立木は細い道だからその名残りがある
細い道ということは人間的だとなる
「奥の細道」になるのだ
ただ芭蕉が通った中通りは全くそういう面影がなくなっている
白河の関所の所だけに残っている


クローバーというとき北海道の旅を思い出す
この辺が原野化したとき本当に北海道のようになったのだ
北海道には日本の原初の状態が残っていたのである。
北海道の匂いはラベンダーなどもあるが
クローバーの匂いであり牧草地帯だからそうなる
でも季語でウマゴヤシとかなると馬の肥やしになっていて
これは江戸時代に入ってきた帰化植物だったのである。
これは一面に繁殖しやすい植物だったのである。
昔からそういう風景があり原野化したときその風景がもどった

ともかく晴れがつづいて夏らしい夏となってきた。

相馬の道の駅に北海道の札幌のナンバーの車があっても
何か車だと遠く来ていると思わないのだ
なんかすーとここに一気に来ているような感覚になってしまう。
車がそういう距離の感覚をなくしてしまっているのである
もし江戸時代ならともかく遠くから来た人は好奇の目で見られていたろう
遠くのことを知りたいということがあったからだ
それが今は全然ないというのも遠くがあまりにも近くなってしまったからである。