2014年05月25日

抽象画(BLUE WATER) (抽象画は単純でも芸術性がありそれを見抜くのはそれぞれの感性である)

 

抽象画(BLUE WATER)

(抽象画は単純でも芸術性がありそれを見抜くのはそれぞれの感性である)


blueeecool.jpg

blueeecool2.jpg

blueeecool23.jpg

水の勢い

抽象画の原画になるのはインターネットの中にいくらでもある。
ソフトで変化させればその原画はわからなくなるから著作権違反にならない
それは新たな創造になっているからだ
人間の創作には常に他人の応用がありそれがすべて悪いとはならない
明らかに著作権違反となるものがあるが微妙なものもある
だからあまりに著作権を言うと創作の発展にはならない

ただ本当に著作権違反だなというのはなんか自分でわかるんだよな
特に具象画はすぐにわかる
最近料金をとる画像販売が増えている
そこから借用したのであったが注意もされないので出しているのだ
インターネットは他人がどこで使っているかわかりにくいのだ
応用されていてもわかりにくいのがインターネットなのだ


この抽象画の原画になったのは外国だった
一瞬ただの目立たない興味をひきつけないいものに見えた
ただこれはやはり青の一つの抽象画になっていると見た
そういうふうに見るのは自分の芸術的感性である
パソコンはただ機械的に変化させているけどこれが芸術だとは見ない
人間だけがこれは抽象画でも何かを現していると直感することがある
これは一瞬青できれいだなと思ったのだ
このモザイク画のようなものはたいがいこれがいいと思ったものでできない
今回は瞬間的に感じたのだ

抽象画は感じない人には感じないだろう
やはり色にまず感じる、色の感覚が抽象画になる

でもこれは相当単純だから感じない人は感じないだろう
抽象画はこれが芸術なのというのが多い

でもやはり芸術は感性なのである
ある人が感じれば美として意味あるものとして感じれば芸術になる
芸術性は低いにしても芸術の創造を楽しむことができる
芸術は他に二つとないことを作っていることに意味があるのだ

パソコンで作ったにしてもその価値づけをできるのは人間なのである

とにかく自分にとって抽象画は暇つぶしにいいなと思っている
だかち暇な時、パソコンを操作している
やはり何であれ自分だけのものを創造していることは楽しいのである。

津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑 (鹿島区小島田の真野小学校の近く)


津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑


(鹿島区小島田の真野小学校の近く)


故郷に北陸よりの移民の碑残る思いや津波の跡に


iminnnhiend.jpg
クリック拡大

字がよみづらいです、要点だけを書き出しました

北陸之地仏法・・真宗・・・祖名久治朗・・明和8年(1771)・・

越中 中田郷・・・妻 曽与 文政10年(1827)久治朗没 亭年57
奥相馬藩 八右衛門 文政12年(1829)  山中郷母子 夫妻別浪江 八右衛門斡旋
名改万蔵 安政3年(1856) 清吉


大正13年の碑
iminhiii12.jpg

2011031307[1].jpg

ここはこんな状態だった

ただこの辺には家はわずかしかなかった



この碑は真野小学校の近くにあった。大正13年に建てられた。越中からの移民を記念した碑であることにはまちがいない。
はっきりしているのは最初に来た人が明和8年(1771)であり久治朗が生まれた。
その後10年後に天明大飢饉が起きて相馬に移民した。
何歳に来たかはわからないが明かに天明飢饉以後に来たのである。

nenngouuu123.jpg
年齢的には天明飢饉以後に移民した。
20歳以上であった

この人の出身は越中中田郷である。この辺で中田という姓の人は近くにもいるが明らかにその子孫になる。
中田の姓ば越中の移民から来ている。

それからよくわからなのが八右衛門と名がでてきて山中郷とでてきて浪江と出てきているのも不思議である。
これらの関係は何らか結婚などで縁戚関係になったのだろう。
山中郷は今の飯館村や葛尾村(かつろう)である。

万蔵とか清吉という名もでてくる。この辺では相馬藩内で縁戚関係になっている人は多い。
だから今でもそうであるが江戸時代だったら相馬藩内で縁戚関係になる人はずっと多いからそうなる。


自分の縁戚関係でも浪江があり双葉で父は働いていたし出身は葛尾村だった。
相馬藩では越中などからの移民が三分の一もいるから実に多いしその子孫も多いということになる。

この碑は大正13年に建てられた。ここに住んでいる人はが記念して建てた。
ここはちょうど津波が来た。驚いたのは船がここまで流れてきたことだった。
この辺はまだ津波の高さは低いにしろ流れたきたものが船であり
他にも瓦礫が流れてきて山のようになっていたのである。
幸いこの碑は流されなかったのは海から3キロ以上離れているからであった。
海老と右田とか烏崎にあったがこうした記念の碑や神社は流されてなくなった。
真野小学校も被害を受けて廃校になった。


 
posted by 老鶯 at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)