2014年05月14日

時給化された労働は本来の人間の労働ではない (時給が上がるのは当然だったー時給1500になった原町のすき家)


時給化された労働は本来の人間の労働ではない

(時給が上がるのは当然だったー時給1500になった原町のすき家)

時給が深夜1500円になったのは福島県の「すき家」原町店。原発事故を起こした東京電力福島第一原発からは約25キロメートル。JR常磐線原ノ町駅から約1.5キロメートルの国道沿いにある24時間営業の店だ。

周辺の外食店はどこも深刻な人手不足に悩まされている。放射線の影響を懸念して、主な働き手だった若者や主婦層が市外に流出したうえ、除染作業などの復興事業の本格化が重なったことで、労働力の奪い合いが起こっている。
http://www.j-cast.com/2014/05/12204475.html


あそこは本当に忙しいのがわかる。時々納豆定食を食べていた。
あそだ働いていたら息ぬきもできない、暇なし働かされる。
普通は働きたくないだろう。
この辺では若い人が流出したこともあるし小高などの原発避難者は補償金で遊んでいて働かない
第一そんな忙しい所で働きたくないのが普通である。
この辺の人で不足はそこだけではない、コンビニでもそうだし全般的なのである。
チェーン店はほとんどそうなっている。


ただ時給千円というのは前は地方では結構な値段だった。
でもそもそも人件費が安すぎたのである。
人間を雇うほどめんどうなものはないし金がかかって当然なのである。
あまりにも人間を大事にしなかったのである。

自分は家でちょっと一時間でも家事の手伝いしてもらうのに大変な苦労してわかった。
そもそも一時間など働く人がないから余計そうだった。
それで犯罪の被害者になった。
ただ人間とは機械のように扱いないし奴隷のようにも扱えない
それが時給いくらだとかそんなふうに人間を扱うこと自体、奴隷化されていたのである。
時給いくらだとかいう働かせ方自体間違っていたのである。
働くのには別な価値観が必要である。
時給いくらだとかで計ること自体、人間無視だったのである。


働くことはそんな時給いくらきかで決められないだろう。
なぜなら働くことはその人の人生の問題であり
ただ一時しのぎの稼ぎとは違ったものだろう。


英語で

workは作品である、自分の作品を作るために働くとなるとライフワークになる。


I work for a company
I work at a company


の意味は違っている。

forには全体のためにとか目的のためにとか長い時間の中で働くという意味がある。
電車でも行く先地に行くのはforである。

つまりforは目的地に向かって電車を運転して運んでいるという感覚である。
一方はatは場所とか一部の担当とか部分的なものになる。


I work for the hospital
I work at the hospital


これはforは病院という全体の働いている感覚になる。
atはそうではない、一つの部門とか科で一時的に働いている感覚になる


現代とは働くにも部品化して細分化しているからforの働き方が消失している
for my familyとなれば一人のためではない家族全体のために働いている。
お手伝いさんとかなるとそうではない、ただ賃金をもらって一部の家事をしているのだから
work atになってしまうのである。]それは時給的働き方と同じなのである。

現代は働くこと自体、forという観念はなく時間的にも部分化、部品化されているのだ。

むしろ村だったら村という全体のために働いているという意識が自然と生れていただろう。
自ずと共同意識の中に働いてきた。それは意識しなくても無意識的にそうなっていたのである。
そこではそもそも時給いくらだとかいう感覚はないだろう。
もちろん田植えでも稲刈りでも手間賃をもらうということはあった。
それでも逆にまた自分の家でも田植えや稲刈りで働いてもらうとなると助け合いという意識、
共同性の中で働いていたということもある。

ともかく時給いくらだというのはatの一時的なその場しのぎの働き方なのである。

だから本来は郷土のために働くという時、部品としてではなく郷土全体のために働くということであり土着的な働き方であった。
そういう共同性が喪失した時、時給化された部品化された働き方になったのである。


I work for my homeland

I work at a homeland


この意味は相当に違っている。forは全体であり時間的持続性もあるがatにはないのである。
ともかく現代は全体を共有するとか共同意識が衰退して時間でも空間でも
何でも部分化して細分化して人間自体もそうされているのだ。
アルミニウムの高度な溶接していてもそれが郷土のためだとか意識することはない
でもその人が退職して自転車で郷里を走り回っているとあそこはどうだとか
今なら津浪でどうだとかになり郷里の共有意識で話しているのである。

いづれにしろ現代はwork forという働き方が喪失した時代なのである。

workには機能するとか作用するとかの意味もありそれは自然だったら
自然に機能して作用してゆく働きかただから自然とも深く関係していた働きかたである。
大地に根を張るような働きかたである。
毛細血管のよう細密に土に根を張る植物とにていたのである。

posted by 老鶯 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題