2014年05月05日

奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)


奥松島から鳴瀬川、浜市、牛綱村(春から夏の短歌十首)

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この線路はなくなる

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線路があった所から写す

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線路はかなた高くなる


風そよぎ海に面して山桜ゆれつつ散らむ朝に映えにき

夏の日や奥松島の島影の変わらず見ゆやここに住みなむ
奥松島その静けさや島一つ心に残る夏の夕暮
奥松島菜の花映えて島影や津浪の跡をバスに行くかな
夏の日に牡鹿半島望みつつ野蒜の沖に船を行くを見ゆ
鳴瀬川河口に浪の打ち寄せぬ夏の日明るく鴎飛び来ぬ
津浪跡耕す女や牛綱村浜市の名夏の日さしぬ
津浪跡形見と残る社なれ古木の一つに我はよりにき
白萩の通りの消えて松一つ形見と残りあわれなるかな

菜の花や陸前小野駅終点に電車とまり津浪の後かな

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鳴瀬川の河口

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残った社の古木

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一本だけ残った松


松島を旅行する時、松島だけを見ると印象が薄いものになる。
松島という領域は実際は相当に広いのである。
塩釜から松島に行っただけではわからない
これは一般的にどこの観光地でも言えることなのだ
点だけではなく線としての旅こそ旅になる。
今は交通が便利だから途中を飛ばしてしまうから名所がつまらないとなる
芭蕉の旅もみちのくの未知への長い旅の行程の中で生れたのである。
もし今のように新幹線で東京から二時間で来たら「奥の細道」は生れなかったのである。

仙石線で印象に残る場所が東名駅とかある海沿いをすれすれに走る線路であった。
その車窓がいつも見えるのがあの島だったのである。
あの線路はなくなり高い所に線路が作られる。
だからこういう低い所から写真はとることはできなくなる。
それでこの写真も貴重なものとなっているのかもしれない。


とにかくあの島はいつも見えるから印象に残る。
つまり樹でも石でも人間が長く見ているものは人間化するのである
あの島は何か母とか姉とかでも人間的になるのだ。
名前がつけること自体人間化している。
ペットに名前で呼ぶのは人間と同じになっているからだ。


菜の花が咲いていたのも何か奥松島らしい。津浪の跡に菜の花畑にしたのだろう。
桜もまだ咲いていてそれは山桜だった。
海に面して咲く桜だから山桜でも違った感じになる。

そしてし野蒜から鳴瀬川に出る。

あの鳴瀬川はまさに鳴る瀬であ名前がいい、あの河口に注いでゆくときが何とも気持ちがいい

東松島の白萩の通りだったのか、浜市だったのかわかりにくいがあそこに一本の松が残っていた。
あれだけが形見のように残っていたし社にも古木が一本残っていた。
牛綱村とか浜市とかの名前も良かったし白萩文書とか天保時代のものが残っているから
古い場所なのである。野蒜村というのも江戸時代にあった。
一般的に伊達藩は相馬藩より古いものが残っているのだ。


ただ仙石線は仙台からの延長であり通勤圏であり漁業とか農業で暮らしているという感じはないから
何か外から見て新しい町に見えてしまうのである。
ただ今は別に漁業とか農業で暮らしているいるわけでいなから仕事を失っているわけではないないから
津浪の被害から立ち直りやすいということがあるかもしれない。
それは相馬などでもみんな農業でも漁業でも一部が専業なのであり
ほとんどが会社員になっているから昔とは事情が違っているのだ。


松島海岸や高城から陸前小野駅までは代行バスがでている。
ただ陸前小野駅からは電車が通じていたのである。
あれは相馬市から原町駅まで通じている線とにていた。
短い距離になるからにていたのである。

次はあそこから石巻から女川を見てみたい、石巻はすでにみている。
津浪の被害はやはり宮城県が一番大きかった。
だから津浪が何かを知るには宮城県を見ないとわからないのだ。