2014年05月01日

八重桜は母の愛 (故郷とは母の愛・・・)


八重桜は母の愛

(故郷とは母の愛・・・)

yaeend1.jpg


redbigstoneone.jpg

クリック拡大


春日さし赤みを帯びた大き石

雨しとと誰か思ふや余花を見る
一時に六輪開く牡丹かな
誰がとがむ牡丹開きて雷鳴りぬ
故郷の狭きを行き交い夕燕


ふるさとやほのぼのとして母の愛八重桜の下我は歩みぬ

八重桜夕べ散りにき雨のあと湿りし道を我は歩みぬ
ほのぼのと八重桜咲きこの夕べ蛙の鳴くや故郷の道


故郷とは何なのだろうか?これを訳すのに苦労していた通訳の女性がいた。
ふるさとというのは英語でなかなか訳せないだろう。
だから浪江とかで故郷を失ったことで世界の人に訴える時、
どう訳していいのかわからないというのも理解できる。

そもそも故郷といってもみんな違ったものとして故郷がある。
故郷に最も愛着しているのが誰かと問うことにもなった。

近くの人は若い時から苦労して土地を買い家を建てた
だから家に愛着があり離れたくないと言っていた。

これは自分のように何の苦労もしないで家を引き継いだものとは違うなと思った。
なんか自分の場合,家はただ間借りしていたという感じなのである。
そんなふうにして住んでいれば家にそんなに愛着があるとも言えない
故郷に愛着があるのはそうしてこの土地に密着して働いた人だろう
だからそうして共に苦労して働いて家を建てた老夫婦は故郷に愛着をもつ
代々住んでいる農家の人なども愛着をもつ


ところが会社員になるとまた別である。
車の部品を製造している人はどこにいってもやはり同じ仕事で変わりないのである。
その土地に根付いたものではないからだ。
そういう人たちも増えている現代は故郷に愛着をもつ人が減少してしまったのかもしれない
昔の村とは違ってコミニュティが解体しやすくなっている

浪江町として一体感を忘れないで欲しいいうけど
その一体感をもつものは何なのかわかりにくいだろう。
まず故郷は何かなどと問うことなどありえなかったのである。
故郷とは当たり前にいつでもあるものだったからである。


八重桜の季節になったけどこの八重桜には何かいつもほのぼのとしたものを感じる
これは母の愛に通じているかもしれない
自分の家に毎日来る年取った60代の女性は未だに40才とかの障害者と結婚していない
息子がいて絶えず行き来しては弁当とか食事の用意をしているから大変である
だから嫌にもなっている
実際に自分も家事をやっていて嫌になる、めんどうになるのだ。
でもそこには母の愛がまだある

自分にはすでにそんな愛はもつ人はない、死んでしまったからだ。
母が死んだ時、息子は母の愛が何であったか痛切に感じる時来るだろう。

つまり故郷とはその景色もあるが家や土地や生業もあるが
母の愛のあるところかもしれない、故郷は母がいて母の愛があって故郷なのかもしれないだから
自然に恵まれていても一茶のように継母に育てられたら故郷は寄るも触るも茨かなとかなってしまう。
故郷はまた全部いいものではないしそういう人もずいぶんいる
自分も故郷が嫌な面は多々あり旅ばかりしていたのである。
自分の場合は異常でも過剰な愛があったから故郷をすべて拒否するということはなかった

ある家の庭の石に興味をもった。この石には女性を感じたのである。
赤み帯びているからそうなった。石は普通は男性的である。
でもこの石は女性的なのである。
それも土着的な農民的な女性的石なのである。
それは最近つきあった野暮ったい苦労した女性をイメージしたのである。

人間は必ず自然のものでも石でも人間をイメージしているのだ。
人間が投影されて自然が人間化されるのである。
この石は普通の石とは違って女性的なる故にひかれるのである。
男性的なものと女性的なものとして世界を分けて言葉まで作ったこともわかる

人間は男性的ななるものと女性的なるものがあって陰と陽があって豊かな世界観を作れる
だから結婚しない人は人格的に何か欠けているというのは確かである。
女性的なものが投影されないから欠けたものとなっいいるのだ
女性でも結婚したり子供をもたないと女性としての人格の完成はないだろう。

だから母の愛という時、それが故郷の象徴ともなるのである。
つまり故郷には母が欠かせないものとてしあるともなる


牡丹も開いて今日は雷も鳴った。
これは春の雷だけど実際は5月で夏なのかしれない
八重桜はまだ春であること言えるが夏になっている
花が今は一時に咲く季節である

 

同情には優越感と蔑視が同時に生れれる人間の複雑な心理 (絶対的強者はいずみんないづれは弱者化する)


同情には優越感と蔑視が同時に生れれる人間の複雑な心理

(絶対的強者はいずみんないづれは弱者化する)

人が他者を哀れんだり同情したりする時、そこには必ずと言っていいほど優越感や蔑視が介在する。


この言葉はプラトンが言ったのかどうか一般的に言われていることだろう。
まず人間の心理ほど複雑なものはない
同情するとかあわれむとかは別に悪い感情ではない
でもそのあわれなやつだというときそれは自分より力が下になったということである
病気になったときそれが明確に現れる
病気になるということは弱者になることなのである。
だから病気になるとかわいそうだと言ってもあんたは俺より弱い人だとみる
強い人にあわれんだり同情したりはしない
強い人には恐怖感があり低姿勢になる


ではなぜ医者とか看護師や介護士とか弱者を相手にするものが
性格が歪んでいるとされるのか?
それは常に弱者を相手にしているからである。
常に優位に立っているのが医者であり看護師である
病気になっているのだからどうしても医者に頼らざるをえないからそうなる
ところが一般社会では強者がいくらでもいる
だから日常的な仕事でもいつも頭を下げて低姿勢で商売している人が多い
医者とか看護師は患者にありがとうなどと言う必要はない
いつもありがとうと言われる方なのである。
それが当たり前の世界であり低姿勢になることはない
すると謙虚な心は養えない、相手は常に弱者だからである。
医者とか看護師が患者に頭を下げることなどありえない
あなたをお世話させていただきありがとうなどと言う人はいないのである。


つまり同情心があっても必要でもそこには必ず優越感と蔑視があるという
人間の複雑な心理がある。
実際正直に言えば同級生で猫こせがひどくなり奇形のようになった人がいた。
あんな格好では外も出歩けないなと見た時、優越感を覚えた
あいつもあわれだなと思うがやはりそこには優越感とか蔑視の感情が生まれる
もちろんそのことは自分が病気になり弱者になった時はそれどころではなかった
あからさまに弱者をいいことに火事場泥棒にあい大金を失った。
もう一人は借金をしていてその弱みにつけこんで請求してきた
これも苦しいことだった、弱者になると逆らえないから恐怖なのである。
簡単に奴隷にもできるしその人が性格が悪いとあからさまにその悪が横暴にでてくる

ただ一方で自分が弱者になった時、この際と責めてきた人も
実は弱者だったということがあった
それは共に金に追われていた。金がないということで弱者だったのである。
借金もしていきた人があり追い詰められていたのである。
だから金が欲しくて自分が病気になったとき責めてきた。
まさにこの世は人間は弱肉強食の世界だった。

人間は金においつめられると犯罪者になる
それは善人とか悪人とか関係ない
そういう状況になると誰でも犯罪者になる
借金した人は別に悪い人ではない
若い時は頭が良くていい人だったという
それが変わったのは事業に失敗して借金してからだった
だからそうした何か人生での失敗から追い詰められて犯罪者にもなる
その人は別にもともと悪い人ではなかったのである。


このことは老人に対しても一番言えるのだ
老人に若者でも肉体的にも劣ってくるからあわれだなとか同情するが
やはり優越感と蔑視の感情があからさまにでてくる
子供で親が老いているのを見た時、今までは怖かったが今やあわれみの対象となる
その時、必ず優越感と蔑視の感情が生まれる
こんな親はもう怖くない、俺はもう親より強い、親は弱者になった
だから親は自分の言うことを聞くべきだとかなる
現実に親子の関係はみんなそうなってゆくのである。


結局人間は弱者に対して謙虚に接する人はいない
なぜなら必ずそこには優越感と蔑視の感情が同時に起きる
だから同情は偽善だとかなる
それで同情自体を否定するニーチェの超人思想が生まれたのである。
ところがニーチェ自体も狂気なにり弱者化したのである
奇妙なことは自分の姉も看護婦であり何度も言っているけど
肉体的にも心身ともに優秀な人だった
だからいつも自分は優秀だと言っていた。
その優秀だということに最後までこだわっていた
認知症になったら明らかに痴呆症になったのがら馬鹿になったのである。
それでも手術した時も、死にそうになったときもかすかな声で「俺は優秀だった」と
言い続けたことも異常だった。
そんなに優秀なことにこだわるものかと自分にはその心理がわからなかったのである。
自分は心身ともにまず優秀な所がないからそんなこと思ったこともない
体力的にもだめだし頭脳もだめである。
文学的才能にしても本当にわずかな芽があっただけであった。
だから子供のように俳句にしても短歌にしても言葉を並べただけだったのである。
だからそんなに優秀だとこだわることが理解できないことだった


ただこれニーチェも「俺は勝者だ、超人だ」と狂気になっても思っていたということは
姉とにていたのである。すでに狂気になり病気になってもそう思っていたのである。
人間は強いとか優秀だとかとどこまでも主張するときそれも狂気になってゆく
別に弱者がいいというのではない、健康であるべきだし弱者の歪んだ思想もまた異常なのである。
だから現代が弱者であることが障害者とか病人とか老人がその弱さを楯にして
社会に保護しろとか税金をもっと弱者のために使いとか強者になるのもおかしいのてある。
弱者であることが特権化しているのである。
「弱者をいたわらないやつは人間じゃねえ、社会的に糾弾してやる」とか恐喝にまでなるだから
障害者をもった母親が弱者に同情しないというのは障害者をもった母親にしかわからない複雑な心境がある。
生活保護も必要にするにしても当然の権利であるとしている。
権利だから当然であり誰かに感謝することなどないのである。
社会にも感謝などしない、だから一般的に生活保護者は何か心が歪んでいる、
でも全部ではない、生活保護がどういものかを知ってわきまえている人もいる。
ただ現代は何でも権利化して権利として主張しているのである。


いづれにしろ強者と弱者の問題は人間にとって常に変わらぬテーマとなる。
歴史もまた強者とならんがための争いの歴史だったともなる。
強者が弱者を征服してゆく歴史である。そのことが戦争に負ければ奴隷にされたということが一番わかりやすい。
その歴史は今も継続しているのだ。
ただ国単位でもいつまでも強者になる国はない、いづれは弱者化してゆく
アメリカだっていつまでも強者ではありえない
貧富の差が極端化して富裕層の市が独立して貧者を排斥して内部分裂して弱体化する
そういうことも現実に起きているのだ。


強者の問題は必ず体力でも才能でも様々な能力があっても奢りになる。
その奢りが神の怒りをかう、だから高いものが必ず卑(ひ)くされる
卑いものが高くされると神が言うのは人間は全能でもないからそうなる。
ある時は強者でもいづれは弱者になる運命にある。
「奢れるもの久しからず」というのが歴史でも同じであり個人でも同じである。
個人的にでも優秀な人は奢りやすいのである。
だから弱者は弱者でいいというものでもない
聖書のテーマが弱いものが強いものに勝つということでもあった。
ゴリアテのように強いものも弱者と見えたダビデの一撃でもろくも崩れ去る。
それはどんなに強い人でも病気になるともろくも崩れさることをみている。
文明も人間が神のように優秀だと奢るとき今回の原発事故のようにもろくも崩れさる
全能の力をもっているのは神しかないからそうなっているのだ。