2014年05月21日

福島第1原発:地下水を海に初放出 汚染前の560トン (東電ー政府ー県漁連は一体である)


福島第1原発:地下水を海に初放出 汚染前の560トン


(東電ー政府ー県漁連は一体である)

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 東京電力福島第一原発で汚染水の増加量を抑えるため地下水をくみ上げ海に流す「地下水バイパス計画」で東電と国は14日、地下水中の放射性物質は第三者機関による詳細な分析でも基準を下回ったと発表した。第三者による分析は実施の条件になっていた。東電は、福島県や地元漁協などに説明し、来週半ば以降に海への放出を始める。
http://www.asahi.com/articles/ASG5G667KG5GULBJ019.html

県は20日、廃炉に関する安全監視協議会を開き、福島第一原発の汚染水を減らす東京電力の「地下水バイパス計画」を承認した。東電は21日午前、地下水の放出を始める。計画に反対する市民団体は、改めて計画を中止するよう訴えた。
http://www.asahi.com/articles/CMTW1405200700001.html

放射性物質の海洋投棄について、県漁連に許認可権限があるのは、被害者を装う県漁連も東電や政府とお仲間と言うことですね。
ちなみに放射性物質の取り扱いについて法律を所管するのは、文科省、厚労省、国交省、そして新たに環境省、投棄は環境省です。
東電の海洋投棄について所管する省庁は許可を出しているのでしょうか。

それとも各省庁は県漁連に全て許認可権限を委託しているのでしょうか。
http://www.asyura2.com/13/genpatu33/msg/211.html





海は誰のものということで漁業権で書いた。
漁業権をもっているものが今回の原発事故で
一番補償金を事故前も事故後ももらっていたのである。
だから原発御殿が建っていたとか磯部の人が批判していた。
それで今回の津波で天罰があたったんだと病院で言っていた。
漁業組合は別に海側に住んでいてもみんなが入れるわけではない
船主が一番権利がある。
一カ月船主は200万東電からもらえるとか言っていた。
その人は松川浦に住んでいても漁業とは関係ないのである
ただ漁業と関係する人が多いかことは確かである。
相馬の病院では浪江の請戸の人が特等室に入っていた。
家を建てるんだとか言っていた。
漁業組合は事故前も補償金が一番多く事故後もそうなのである。


これまで漁業をしてしいる人たちはかえって魚がとれなくて苦しいのかと思っていた。
実際は補償金をもらっていたから違っていた。
つまり原発を建てる時まず漁業権をもっている組合と交渉するのである。
組合で拒否すればまず原発は建てられなかったもしれない
だから漁業組合の責任は重かったとなるが
現実に事故後も手厚い補償がなされてる
汚染水を流す交渉すればまた補償金が増額される
これまで漁業組合にそういうことで批判する人はいなかった
メデアでも批判していないだろう


今回は福島市の市民団体が汚染水を流すなと批判した。
これは左系統なのかもしれないがそのからくりがわかったから批判している


放射性物質の海洋投棄について、県漁連に許認可権限があるのは、被害者を装う県漁連も東電や政府とお仲間と言うことですね。


県魚連と言ってもそれは海に関するすべての権利をもつわけではない、許可する権利ももっていないし権力もない、
それをもっているのは許可できるのは政府なのである。
県魚連ではなく政府がしているともなる。
東電の事故でも政府が最終的に許可するから建てることができる
許認可権は最終的には政府にあった。


ところが海は誰のものかというとき、それは日本国政府でも漁業組合のものでもない、
なぜなら海の領有権は主張しにくい,海に境界はなく世界とつながっているからである。
汚染水は海に流せば世界に影響してくる。
だからその汚染水の被害があれば世界から賠償請求が日本に来るかもしれない
環境問題は一国の勝手は許されないのである。
地球は陸地であれ空であれ海であれつながっているからである。
環境問題こそグローバルな問題であり一国の勝手が許されないのである。
原発だってチェルノブエリ事故でヨーロッパ全土に影響したように
グローバル化するから問題になった。


現代は利権化した団体が力をもち政府と一体化して決める。
県魚連などというと農協からすれば小さいものだと思っていた。
だから原発事故までは関心がなかったのである。
推理小説で犯人は誰かというとき、一番得した人が犯人だというのがよくある。
その得した人を探すとその人が犯人だったとかなる
それを考えると漁業組合が一番得しているから犯人だったともなる
ただ県魚連にしても政府の力が上であり政府が実際は許可しないと
汚染水だって海に流せないのである。
東電と漁業組合だけで決められていたわけではないのである。


どういうわけか東電を批判しないのは右系統になっている。
自分は右でも左でもない
低い放射能は危険ではない、危険だとか言う時科学的にはあいまいであり
右は危険でないといい、左は危険だというからまたわかりにくくなる
政治的に影響させるために誇大化されまた矮小化される
でも左系統が原発事故前は警告していたのは確かである。
「原発を東京に作れ」という本を出していたことでもわかる。
今になるとそれが一番理にかなっていたのである。
でも自分でもそれはSF小説のように見ていたのである。

原発自体に確かに常磐線を通ると煙突が見える時、あそこが原発があるのかと
意識したが30キロ離れていると関心がなかったのである。
ただ親戚とかにやたらこの辺では原発で働く人が多かったのである。
そこで金になるということを常に聞いていたのである。
原発とは地元では金になるということが一番の関心だったのである。
だから原町からも相当数原発で働いていた人がいたのである。
そういう人に個人的にでも10人近くあったかもしれない
ええ、そんなに原発で働いていたのかと意外でもあったのだ


ともかく政府も一体となり「安全神話」が作られていたからマスコミでも東電は批判していない、
東電は金のなる木だからみんな群がってたのである。
要するに原発が何かということを知らされなかったのだ
もちろん専門家は科学者は知っていても素人にはわからないとなり原発は作られた
原発反対の声は極めて小さいものにしかならない
だから日本沈没だとかの小説があったけどそれがSF小説のレベルに見ていたのである。
そのように情報が操作されていたともなる
それは日本の戦争の時と同じだったのである。
負けているの勝っているとか原爆をもっていたアメリカに対して竹槍で戦うという本土決戦をしようとしていた。
それもアメリカについての情報不足だったのである。
情報は常に操作されている。権力をもつものによって操作されるのである。


そして現代では権力化した団体が情報を操作できる。
だからカルト宗教団体でも漁業組合でも農協でも企業でも経団連でも労働者の連合でも
そうした団体組織の意向によって物事は決められてゆく
漁業組合は本当は福島県の漁業は宮城県の十分の一の規模であり小さいのである。
だから東電でも政府でも取り込むのは容易だったとなる
農業でもそうだが今は漁業だけでも成り立たないから東電に負うことになった。
そういう大きな経済の変化のなかで原発も作られていたのである。

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こういうふうに船が出ていたときがあった

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ソフトで変化する抽象画の無限 (葉っぱの四季の変容)


ソフトで変化する抽象画の無限

(葉っぱの四季の変容)


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具象化を模索する抽象

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これはまさに具象化したいがまだなれない抽象である

まだ一つの形にならない状態が抽象画でもあった

これができたのはセロファンというソフトの変化を知らなかった

たまたま見つけたのので試してみた

2000円のpaintgraphicでもソフトは使いこなすのが手間なのである

それはちょうど人間の脳を駆使するのとにているのだ

生涯で人間の脳は二割しか使われないという

それはソフトが使いこなせないと同じなのである

コンピュタターはまさに人間の脳ともなりつつあるからだ

2014年05月22日

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか? (津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

 

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか?

(津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

●慶長時代には海側に住む郷士はいてもわずかだった


青原氏からの質問があって確かに700人溺死の中に郷士もいたの
だから藩で全く津波の被害を無視したという自分の説には疑問だというのもなるほどなと思った。
相馬藩は他より郷士が多い、農民兼侍だったのが郷士である。
だから野馬追いの時は原町とか相馬とかでも街内からでるのはほとんどないのである
農家の在の方から出るのである。
だから海側の村でも必ず郷士の末裔で野馬追いに出ている家がある
ただ慶長津波が起きた時、どれくらいの人が海側に住んでいて郷士だったのか
それはわかりにくい、海側に住んで郷士の人がどれくらい被害にあったのかわからない。

ただ海岸に接した村は比較的後から住んだ人たちが多い。

鹿島区では海老村でももとは海側でなくて後ろの田のある地域に住んでいた。
それが塩をとるとか港ができて海に進出するようになり海老村になった。
右田村も真野川沿いであり湿地帯であり開拓されたのは江戸時代でも遅くなってからである。
大内村は古く山側に住んでいた人たちは今回の津波でも助かった。
そして大内村の出村のような袋村は真野川の河口と海岸に接していたが消失した。
江戸時代に村としてあったが消失したのは真野川の洪水とかで稲作ができなくなったのだろう。

八沢浦も明治になってから開拓されたのでありだから妙見神社が祭ってあった。
小高の井田川は大正になってから開拓されたのである。
だからそういう住むのに適していない場所に郷士が入ったのは慶長時代以前だと
少ないかもしれない、ただ確かに郷士がいないということはありえないだろう。

だから津波の被害にあったら郷士が藩に窮状を訴えたはずである。
でもそうであったら余計に何らかもっと藩で対策を考える、その窮状を記録してもいいはずである。
その辺の事情が記録がないのだからわからないから推測するほかなくなる。
つまり郷士が津波の被害にあったらもっと何か藩でもその窮状に対して
どう対応したかなど記していてもいいということも考えられる。
そのことが700人溺死としか記されていないのだからやはり無視されたともとれる


●伊達藩の政宗の政策に習ったのか?


なぜこういう説が出たのか?それは実際は何ら根拠のないものであった。
ただわかったことはこの説は伊達藩から政宗の政策から出ていたのである。
それをプログに書いていた人がいる。


@領内の金山の管理の徹底、開発の推進→慶長十七年二月より
A徳川家との関係強化→慶長十六年十二月十三日、江戸城は将軍徳川秀忠御前における
   嗣子虎菊丸の元服。秀忠よりの「忠」の一字拝領
B遣欧使節派遣による海外交渉・貿易の実現→財政を豊かに。国を豊かにするため。


遣使船サン・ファン・バウティスタ号の建造。これは、石巻・牡鹿地方という三陸津波の一大被災地で行った一大公共事業です

アマーティの『伊達政宗遣欧使節記』の第十二章には「国王(政宗)は大急ぎで船の建造に取りかかるように命じ、その作業に八〇〇人の大工と七〇〇人の鍛冶、それから三〇〇〇人の人夫を投入した。」(翻訳『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』平成22年刊
http://blogs.dion.ne.jp/honmarukaikan/archives/10071959.html

ここに公共事業と明確に書いてあるのでこの辺を参考にしていたのかもしれない。
津波被害で伊達藩内だけに目を向けていては復興できない、
それよりも対外的にスペインまで目を向けて津波の被害を克服しようとしたという説である。
そのような大災害の時、外国に目を向けて貿易で復興しようとしたというのも当時からすると
スケールが大きいというかその目的が何であったのかは明確にはなっていない。
徳川幕府に家康に対抗するためにだとも言われる。
まだ天下取りをあきらめていないから最後の手段をスペインの協力をえて天下をとろうとしたともなる。


ただその船の建造も大事業であり今なら復興の公共事業になっていたことは言える。
資金は金山から生れたのか?やはりそれだけの財政の裏付けがないとできない。
その時幕府では援助しないからである。むしろ政宗の弱体化を望んだろう。

つまり伊達藩の政宗がそうした津波の被害の復興をどうしたのか?
それを相馬藩では知っていて相馬藩でもこの際、中村に移転しようと決心したのか。
相馬藩では対外的には伊達が最大の敵なのだからその境の中村に城を移転するのが一番ふさわしかった。
その時、移転するとはり城下町の整備が公共事業的なものとなったことはありうる。
ただ伊達藩のようにそうした記録がほとんどないので資料がないので証明するのはむずかしく推測になるだけである。


不思議なのは


相馬市
「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20111202_04_ebina.pdf


ここの相馬市とは東京の方になっているのはなぜなのか、間違いなのか?
相馬藩について『ビスカイノ金銀島探検報告』で百行くらい記されているというがその内容はわからない。
これが相馬市のこと中村城のことだとすると今の城の所まで津波が来たのかとなる。
川をさかのぼってくることがあるからどういうことなのかわからない。
ただ城は破損し再築中とあれば津波の被害があり再築していたとなる。

ということは慶長津波の前にすでに城はあり工事はしていたが藩士や主君が移動したのは
別に津波があったからではなく津波の前に移転することは決まっていて工事していたともなる
そうなれば別に津波が起きたからではなく前からの計画ですでに工事もしていて津波にかかわらず実施したとなる。
ただ津波の被害があったことが移転に何らか影響していたことは推測される。
でもそうした記録が一切ないから推測の域を出ないのである。


●相馬藩士が慶長津波の後に伊達藩に開拓に入った謎


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/


これは結構大規模な移住だった。中野というのは中村のことである。
なぜ相馬藩での被害も大きいのに伊達藩に藩士が開拓に入ったのか?
伊達藩では積極的な津波復興の奨励策をとり人を呼び込んだ。
だから相馬藩でも入る人がいた。それも藩士だということはそれに従うものは
その家来や従者がいるから侍でないものも従ったのである。
これもなぜなのかというと謎である。


つまり相馬藩で被害が大きいのだからまず相馬藩内の復興が優先されるはずである。
それがなぜ相馬藩士が移住したのか?
ここにも一つの相馬藩の慶長津波のことを解く鍵がある。
相馬藩の被害が大きく復興できないような状態に陥っていたのか?
伊達藩でも被害は今回と同じく相馬より被害が大きかった。
ただ伊達藩では相馬藩より復興策が政宗の陣頭指揮でとられていた。
相馬藩は小藩だから対策がとれなかったのか、資料がないのでわからないのである。


相馬藩士が移住したのは郷士であれ被害を受けて相馬藩内で生活できなくなり
奨励策をとっていた伊達藩に移住した。その時伊達藩でも被害が大きいから人材が必要だった。
それにしても相馬藩内はその時どうなっていたのか?
相馬藩士自体が見捨てて他藩にゆくのか?
これはやはり相馬藩内での慶長津波の結果として伊達藩に移住した。
その理由はわからないにしろそういう激動を体験した。
津波であれ原発事故であれそういう激動の時に人は移動しやすいのである。
避難民であふれるようにそんな緊急事態が起きていたのだろう。

ただ津波の被害を受けてまた津波の被害地に移住するというのも何なのだろうとなる

いづれにしろ相馬藩と伊達藩は敵同士でも密接な関係があり
伊達藩から相馬藩のことが解きあかされることがある。
まさに中村への城の移転が津波の復興のためとか公共事業のためとかの説がでてきたのは
伊達藩に政宗の政策にならったものを相馬藩でも実行したのだという説になったのである
ともかく資料がないので推測になる。
慶長津波が政治にどう影響したのかはこれもあまりにも大きなテーマだったのである。
リスボンが地震で衰退してしまったように甚大な災害は歴史を大きく変えてしまうことがあるし
日本は災害の国だから特に天災が国に影響することが大きかったことは確かなのである。

posted by 老鶯 at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年05月24日

老子の思想と石の心 (2千年前に警告されていた文明の災い)


老子の思想と石の心

(2千年前に警告されていた文明の災い)


●科学者(賢なるものが)が災いをもたらした


賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。
是を以って聖人は、其の心を虚しくし、其の実を満たし、其の志(のぞみ)を弱くして、その骨を強くす。常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ。
無為を為せば、即ち治まらず無し。(老子・3章)

現代はこの正反対の世界になっていた。賢を求めても人は賢たりえない、この賢の解釈にもいろいろある。科学も賢であり賢が肥大化したものでもあった。人間は賢たらむとしても賢になりえないのだ。何が賢で何が愚かもわからない。愚なるものが賢であったりする。禅では大愚は智者である。人は大愚になりえない、いつまでも小賢しい知恵でたちまわる。老子の思想は禅に通じていたのである。
得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。


資本主義とはこの正反対の世界をあくなく追求しているのだ。あくことなく欲望をいらぬ欲望まで刺激されて消費させられる。その時消費とはまさに虚しく消えるものに使っているということである。そういう自分も現代社会に生きることはその中でその体制の中で
強いられるのである。様々な欲望をおさえることがいかにむずかしいか、それは身近な買い物でわかった。毎日買うことに追われている。今や料理でも家事でもいかに買うかでありいかに工夫して自給自足するかではない、農家では納豆まで作っていた時代があった。その時はいかに自給自足するかであり買うということは極力なかったのである。

なぜこんなに買うものがあるのだろうとなるとき、そういうふうに社会が仕向けているということもある。それは資本主義でもある。だからこそ金が現代では命より大事だとなる。そして買うために借金してまで買っている。借金して無理してやり繰りしていることが非常に多いのである。

都会にいれば田舎よりもっと欲望が刺激されるから金が必要になる。現代では金が限りなく必要になるようにできているのである。
自分のつきあった人たちも一見裕福だと見えた人たちもみんな無理していた。多額の借金で成功を装っていたものやいい職人の腕があるのにブラックなものに手を出すとかそこには限りない欲があった。原発もまたこうした限りない欲から生れたのである。
原発の危険性より金、金,金となっているからこそ地元に金がおりるとなればそん危険など考慮するものはいない、小高でも原発できれば金になると歓迎していてすでに工事がはじまるところだったのである。

現代の欲望資本主義は老子の時代からすると百倍千倍とかの贅沢をししているだろう。
それでも足りることはない、足りない足りないと金がない金がないと世界中でそうなっているのだ。
だからどうして2000年前にこうした欲望を制止する思想が生れたのか不思議である。
逆にその時代ならもっと欲望を刺激するほかが理にかなっていたのである。
それでもそういう思想が生れたことは人類の普遍的な警鐘となっているから見直されるのである。


常に民を無知無欲ならしめ、夫(そ)の知者をして敢えて為さざらしむ


この知者とは今では科学者にもなるだろう。科学者は実際は恐ろしいものがあったのだ。原発を元となる放射線を生み出すものを作り出したのも科学者である。その知者はまた人類に最大の害を及ぼすものを作ったともなる。なぜなら核が発明されて現実に日本では原爆が落とされたからでる。そして人類は核戦争で滅亡するだろうとまで言われるようになったのである。


●兵は不祥の器にして、君子の器にあらず

老子の思想にはそうした文明そのものを否定するものがあった。ただ哲学としてもあり個々人に適用される。「何も成すなというとき人間にとってそのことが一番むずかしいことなのである。人間は成さなくていいことを成して失敗している。それは個々人でもそうであり社会的にもそうである。原発など作らねば良かった、成さねば良かったと今ではなっていることでもわかる。人間は何であれ成すことをとめられないのだ。それは欲望に発していて欲望がとめられないということもある。資本主義はさらに欲望を刺激して欲望を増大させるからさらにそうなる。なぜこんなに食べるのもが増えてくるのか?
豚から牛から鶏から何でこんなに食べねばならないのか?
日本人はもともと魚介類で満足していたのである。その結果として様々な病気や伝染病も起きてくるのである。

それは動物でも同じだった。ネコに自分が食べている魚の余ったものとかサミシまで一切れなど食わせたらその味を覚えたのでまたねだる。市販の猫の餌だけでは満足できない、いろいろな味を覚えたから欲望を刺激されたからそれを食べたいとなる。
その味を知らなければないなりに満足していたのである。

いづれにしても人間はどんなことをしても成さなくてもいいことを成すように宿命づけられているのだ。それは個々人の人生でもそうである。青春はまさに狂気の時であり若気の至りにならない人はいない、無謀と横暴と狂気になるのが青春である。自分でもカルト宗教団体に青春を浪費したのもそうである。一生を浪費して犯罪者として死刑となりオウムではなったから優秀な人材のなんという浪費だろうと思う。それは過去にも戦争で起きた。優秀な人材は若くして戦場に消えた。その数はまた途方もないのである。
それは成さなくてもいい戦争を成したからである。その善悪は別にして戦争ほど無益なものはないのに人類は戦争をやめられないのである。
兵隊とか警察官などない方が一番いいのである。それこそ無用なものである。自衛隊でも警察でも何も成さない時、一番平和な時だということである。兵隊とか警察官に用がある時は平和ではない、兵隊とか警察官は使われない時平和なのである。

兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用うれば、恬?(てんたん)なるを上なす。勝ちて而(しか)も美ならず、而るにこれを美とする者は、これ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以(も)って志を天下に得べからず

兵隊は警察官などはやむをえずしてあるものでありそれらを積極的に活用するようなことは平和な時代ではない、だから戦争を賛美することなどあってはならないことなのである。兵隊がやむをえずあるとうときやむをえず戦うということはありうるからある程度は肯定している。しかし積極的には肯定はしない、やむをえないというとき兵隊をもち得るのである。人間はやむを得ないという時行動する。あえて善を主張し行動するのはかえって社会を乱すし個人的にもそうなる。行動でもなにか間違った行動が多過ぎるのである。
「なぜそんなことをするのか、しなければいいのに」ということが犯罪でも日々ありすぎるのである。それは欲望をおさえられないとか石のような心をもてないことにあったのだ。だから結局石のような心をももつことが至難なのである。
それはようやく死に近くなって悟り石の心をもつことがきるとなる。
ようやく成さなくてもいいことを成さないという境地にいたる。

いづれにしろ原発問題は個々人の思想の生活の問題でもあった。

欲望資本主義の問題でもあり個々人の欲を制御しないかぎり原発はとめることができないということもあった。
「お前は電気なしで暮らせるのか、山なのかで霞でも食って生きていけ、江戸時代に帰れ」とかなるがそんなことはもう非現実的であり今は時代が違うとなるがではこのまま欲望に歯止めがかからないとどうなるのか?
そんなことどうて もいい、社会なんかどうでもいい、俺は俺の欲望を充たすだけだととなっていいのかとなる。そうしたらいつまでも原発は必要だとなりこの問題も解決しないのである。つまり個々人の生活を見直すことが原発をなくす社会に通じる。
社会的に原発をやめても個々人の心が以前として限りない欲望を求めていたら結果的に同じなになる。根本的解決にはならないのである。


●石の心をもて(詩)


石の心

石とは何なのか?
石とは愚かなことをしないこと
石には正心がある
人の心は乱れている
人は必ず愚かなことを成す
人は罪を犯す定め
人の心は鎮まらぬ
人の心は容易に狂気と化してゆく
人の心は感情的に燃え上がり
正気を失い過ちを犯す
青春の狂気と横暴と爆発よ
誰しも若気ののいたりがある
愚かなことを成さぬものはいない
小人閑居して不善を成す
石のようにその身を正してはいられない
集団に理性はなく感情的に動く
そこに思慮深さはなく
容易に煽動されて地獄へも道連れにする
ああ 愚かなること成さぬ石よ
山の奥処にそは千歳鎮まっている
威厳に満ちて傷なくそこに在る
その傍らに延齢草がそっと咲いている
その岩に寄り添うものは可憐な花
謙虚な花である
愚かなることを成さぬ石よ
そは世を離れて山の奥処に在る
そこに所を得て世を忘れる
そこにこぞ幸いのあるを知るべし
その他は世はただ災いと乱れのみ
それはこの世の終わりまで継続される
汝はそこを動かざれ
神しろしめぬその石よ
狂気の世を離れてそこにあれ
人の世の狂気は決して収まることなし
それは次の代も延々とつづく
人はカルマの繰り返し
人は決して愚かさから脱せられぬ
それ故に諺とて変わらぬ人間の真理
人間とは科学が発達しても変わらぬ
科学は原発のようなものを作るも
それ故に破滅するような愚かさになる
何も成さすにいられのぬが人
何も成さぬが良い
老子はついに函谷関に人知れず消えにしを・・・

菖蒲と石の庭(石になじむにば時間がかかる)


菖蒲と石の庭

(石になじむにば時間がかかる)


石に添い菖蒲おちつく濃紫

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庭はそれぞれ個性があるから面白い。家も今はみんな違っている。
昔の家は座敷があってとか同じような間取りだった。今は三階建てとかみんな個性的で違っている。
ただ家にはなにか興味がもてない、庭にはやはりそれぞれの美があり個性がある。
特に石に興味もっているからしげしげと石を見ている。


この庭の石の庭だった。前にある大きな石、後ろの石とあり石が反映される。
前面の石も一つの全体の構成の中にあるのだろう。
その石の肌までしげしげと見る。
これはソフトで加工しているから実際の石とは違っている。


石と菖蒲はあっている。
石とはやはり堅実だとか精神的にはなる。
この石の組み方は平面的である。
前の知り合いの石は何トンとでかく立体的だった。
この庭は門からのぞいて写真にとった
外から見える庭でもあった。
ここに菖蒲を配置したのが良かった


石は本当は一回くらい見てはわかりにくい
石は長い間見ていると心になじんでくる
石はそういうふうに長く動かないものだからである。
ただここの場所は六号線の脇なので環境的にはマイナスである。
家とか庭は回りの環境も影響しているのである。


自分のテーマにしているのは一つは石である。
石も実際相当に多様なのである。
石にも無限の変化があり個性がある
自然の石もあり庭の石もある。
庭の石は人間によって作られているから何かそこに人間の意志を感じる


この辺では原発事故で避難した人が多いけど例えば小高だって浪江だって
この庭と同じようにいい庭がいくらでもあったろう。
それが喪失することはやはり一つの大きな損失である。
だからなにかにやいわれるけど避難者は喪失するものが多いのである。
ただ庭にしても一億円ももらえればまた作れるだろう。

しかし問題は庭にしてもそこになじむ時間なのである。
老人になるとそうした時間がもうなくなってくる
だから家とかでもこれから住む時間が短いから作りたくないとなるのだ

ある土地になじむのは時間がかかるのである。
農家の場合は何代もつづいたところがあるから一代だけでないから
余計にその土地に愛着をもつようになるのである。


2014年05月25日

津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑 (鹿島区小島田の真野小学校の近く)


津波の跡に残った越中からの移民の由来を記した碑


(鹿島区小島田の真野小学校の近く)


故郷に北陸よりの移民の碑残る思いや津波の跡に


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字がよみづらいです、要点だけを書き出しました

北陸之地仏法・・真宗・・・祖名久治朗・・明和8年(1771)・・

越中 中田郷・・・妻 曽与 文政10年(1827)久治朗没 亭年57
奥相馬藩 八右衛門 文政12年(1829)  山中郷母子 夫妻別浪江 八右衛門斡旋
名改万蔵 安政3年(1856) 清吉


大正13年の碑
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2011031307[1].jpg

ここはこんな状態だった

ただこの辺には家はわずかしかなかった



この碑は真野小学校の近くにあった。大正13年に建てられた。越中からの移民を記念した碑であることにはまちがいない。
はっきりしているのは最初に来た人が明和8年(1771)であり久治朗が生まれた。
その後10年後に天明大飢饉が起きて相馬に移民した。
何歳に来たかはわからないが明かに天明飢饉以後に来たのである。

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年齢的には天明飢饉以後に移民した。
20歳以上であった

この人の出身は越中中田郷である。この辺で中田という姓の人は近くにもいるが明らかにその子孫になる。
中田の姓ば越中の移民から来ている。

それからよくわからなのが八右衛門と名がでてきて山中郷とでてきて浪江と出てきているのも不思議である。
これらの関係は何らか結婚などで縁戚関係になったのだろう。
山中郷は今の飯館村や葛尾村(かつろう)である。

万蔵とか清吉という名もでてくる。この辺では相馬藩内で縁戚関係になっている人は多い。
だから今でもそうであるが江戸時代だったら相馬藩内で縁戚関係になる人はずっと多いからそうなる。


自分の縁戚関係でも浪江があり双葉で父は働いていたし出身は葛尾村だった。
相馬藩では越中などからの移民が三分の一もいるから実に多いしその子孫も多いということになる。

この碑は大正13年に建てられた。ここに住んでいる人はが記念して建てた。
ここはちょうど津波が来た。驚いたのは船がここまで流れてきたことだった。
この辺はまだ津波の高さは低いにしろ流れたきたものが船であり
他にも瓦礫が流れてきて山のようになっていたのである。
幸いこの碑は流されなかったのは海から3キロ以上離れているからであった。
海老と右田とか烏崎にあったがこうした記念の碑や神社は流されてなくなった。
真野小学校も被害を受けて廃校になった。


 
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抽象画(BLUE WATER) (抽象画は単純でも芸術性がありそれを見抜くのはそれぞれの感性である)

 

抽象画(BLUE WATER)

(抽象画は単純でも芸術性がありそれを見抜くのはそれぞれの感性である)


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水の勢い

抽象画の原画になるのはインターネットの中にいくらでもある。
ソフトで変化させればその原画はわからなくなるから著作権違反にならない
それは新たな創造になっているからだ
人間の創作には常に他人の応用がありそれがすべて悪いとはならない
明らかに著作権違反となるものがあるが微妙なものもある
だからあまりに著作権を言うと創作の発展にはならない

ただ本当に著作権違反だなというのはなんか自分でわかるんだよな
特に具象画はすぐにわかる
最近料金をとる画像販売が増えている
そこから借用したのであったが注意もされないので出しているのだ
インターネットは他人がどこで使っているかわかりにくいのだ
応用されていてもわかりにくいのがインターネットなのだ


この抽象画の原画になったのは外国だった
一瞬ただの目立たない興味をひきつけないいものに見えた
ただこれはやはり青の一つの抽象画になっていると見た
そういうふうに見るのは自分の芸術的感性である
パソコンはただ機械的に変化させているけどこれが芸術だとは見ない
人間だけがこれは抽象画でも何かを現していると直感することがある
これは一瞬青できれいだなと思ったのだ
このモザイク画のようなものはたいがいこれがいいと思ったものでできない
今回は瞬間的に感じたのだ

抽象画は感じない人には感じないだろう
やはり色にまず感じる、色の感覚が抽象画になる

でもこれは相当単純だから感じない人は感じないだろう
抽象画はこれが芸術なのというのが多い

でもやはり芸術は感性なのである
ある人が感じれば美として意味あるものとして感じれば芸術になる
芸術性は低いにしても芸術の創造を楽しむことができる
芸術は他に二つとないことを作っていることに意味があるのだ

パソコンで作ったにしてもその価値づけをできるのは人間なのである

とにかく自分にとって抽象画は暇つぶしにいいなと思っている
だかち暇な時、パソコンを操作している
やはり何であれ自分だけのものを創造していることは楽しいのである。

2014年05月26日

津波の被害が記録されない空白が作り出される謎 (相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)


津波の被害が記録されない空白が作り出される謎

(相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)

●津波の伝承や記録が希薄であり忘れられる


1677年延宝房総沖地震津波では下川(小名浜)から四ツ倉にかけて死者84人・流出家屋487軒、なかでも江名・豊間両浦で死者44人・流出家屋218軒という被害は、2011年東北地方太平洋沖地震に類似する。同地震でも豊間・薄磯で多数の死者と家屋流出が発生している。

いわき市薄磯地区には、「大きな地震が発生したら津波が来るので薄井神社が鎮座する丘に避難すること」という伝承が残されているが、これは1677年延宝房房総沖地震津波の体験による可能性が考えられる。

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慶長津波が1611年であり1677年に延宝房総沖地震津波があった。こ66年後にまた大きな津波があった。
この津波についての記録は岩沼まで被害の記録がある。
でも相馬藩から新地から亘理まではないのも不思議である

慶長津波では相馬藩で700人溺死したとある。でも77年後にも大きな津波が来たのである。
その被害もあったはずだが何にもこの時は記されていない、
慶長津波の前でもその後でも江戸への普請のことでは人数とか記されている。
江戸幕府からのそうした圧力が大きなものであり財政が逼迫して給人が税を支払えないと訴えている。
当時の政治は中央が地方に援助するというのではなく中央が幕府が地方から税をとり労役を課すことだった。
だからそうした幕府からの圧力が強いし負担となっているから相馬藩の政治でも
その負担をどうしたらいいのかというのが課題となる。
だからそこは記録されている。


しかし慶長津波でも延宝津波でも特に延宝津波では何の記録もないのも解せないのである
四倉となると浪江とか双葉とか富岡の隣であり近い、双葉は相馬藩の境であり富岡は岩城藩内ではあった。
それにしても明らかに塩釜まで被害があったら相馬藩で被害がなかったとはありえないのである。
要するにこの時も津波のことは空白状態になっていたのである。
それはなぜなのか不明であるがこの記録の空白が後の世に今回の津波のように大被害をもたらす要因になった。

相馬藩内では確かにわずかだが慶長津波のものと思われる伝承はあった。
しかしそれは地元の人でも知らない、取り上げないものであり津波が海岸に接している人たちにも伝えられていない
、海岸に接して津波のことを意識したのはチリ地震津波のことだったのである。
その時のことを経験してチリ地震津波から津波を推測していたのである。


1793年の「寛政津波」については、<1793年〜1796年がまったくの空白>であり、<飢饉災害として処理された>と記述。1995年、飯沼氏は『仙台平野の歴史津波〜巨大津波が仙台平野を襲う〜』


相馬藩内だけではなく津波については記録されない、空白現象が起きている。
「津波を忘れるな」と警告した碑が残されているのも津波は台風などの被害と違い忘れやすいのである。祖父母ですら経験していないのが普通だからである。すると伝説とか
記録が頼りになるがそれも一行くらいしか記されていないからわかりにくくなる。
ただこの津波の伝承や記録の空白現象が今回のような大被害の要因になっていた。


●女川原発が救われたのは危機意識が違っていた


宮城県ではそれなりに大きな津波被害があったから伝説も残りそれで岩沼に1611年(慶長16年)に発生した
大津波は阿武隈川(※1)を遡上して氾濫し、千貫松まで届いたとか残っている。

この伝説を聞かされて東北電力の副社長だった平井弥之助氏人が女川の原発を14メートルの高さにした。貞観津波まで考慮していたという。


三陸地方は過去に何度も津波の被害を受けていたため、津波の怖さを多くの人々が共有していたと思われる。三陸地方の人々にとって津波は常識であろう

「女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策」のスライドである。これを見ると、東北電力の方々が津波に関する考古学的調査や津波の数値シミュレーションなどに真面目に取り組んでいたことを理解することができる。東北に生まれ育った人が、原子力発電所が立地する東北の地域の安全環境を守ることを自分達の問題として捉えていたと想像することができる


東京電力の原子力発電所の計画・建設に参加した人の大部分は東北地方と関係がなく、東北からみればよそ者であった。そのため、津波に関する畏怖がなく、立地する地域に原子力災害が及ぶ可能性を想像することができなかった。 仕事のときだけ福島に赴き、任務が終われば東京に帰り、現地への愛着が薄かったのではないか-Riyuu.html

http://oceangreen.jp/kaisetsu-shuu/Onagawa-Tasukatta


要するに津波に関しては宮城県の方が危機意識をもっていた。
それは三陸などでもそうだが明治にも津波の大被害があったのだから違っていた。
津波に対する恐怖の意識があるところだったのである。
これが致命的な分かれ目になっていたのである。
女川の原発すら実際ぎりぎりで助かったのでありある意味で幸運でもあったのだ。
女川の街は壊滅したのでありもう立ち直れないような状態になっている。
その被害を見たら原発の方が残ったというのも皮肉である。
近くの人も津波の時、原発に逃げたのである。
だから奇妙なのは街が壊滅して原発の方が残ったということも何か示唆している。

原発という危険極まりないものでもそれなりに危機意識をもっていれば事故にならない。
ところが一方で街に住んでいる人達は津波に対して女川原発に対してもっていたように危機意識がなかったのである。
もし東北電力が想定した津波の高さを真剣に考慮すれば街だって壊滅することはわかる
しかし肝心の街に住む人たちはそんな高い津波のことなど想定していない、危機意識がなかったのである。


●津波の記録の空白地帯だった双葉の原発


そもそも双葉は夜ノ森が相馬藩の殿が余の森として相馬藩と岩城藩の境となっていたところであり
森であり原野の地域だったのである。
そこは近くに大きな病院もないもともと不便な場所であった。
だから双葉でも浪江でも南相馬市立病院に入院していた人がいた。
片道30分もかけて往復して看病していた人がいた。
南相馬かイワキの方にむずかしい病気はみてもらえないのである。
原発はそうした遅れた不便な地域に建てられやすい、
今でもそうした地域では経済活性化のために積極的に原発でも誘致しているのだ。

原発はまた大都会近くに建てにくい事情もある。
だからそうした辺境地帯が立地条件がいいとしてねらわれるのである。

結局津波に対する危機意識でも東京に建てれば一千万人が常に危機意識をもつ、
その前に危険だからと東京にはとても建てられないからそうした辺境地帯に建てられた
今回の事故でも危機意識を東京の人たちは離れているからともっていなかった。
東電でも事故があっても離れているからという意識になった。
もし地元に住んでいればまた危機意識をもつから違っていた。
ただ一時的に勤めてまた東京に帰るというふうになるから土着意識がなかった。
東北電力には土着意識がもともと地元だからあったのである。
岩沼の津波伝説を聞いて決めたというよりあの辺はもともとそうした津波の危機意識を共有していた地域だった。

だから原発ともなるとそれだけの危機意識をもっていたからギリギリで助かったのである
それだって幸運だったのであり危ない状態だった。
それはまず女川が壊滅したことでもわかる。女川の被害は最悪だったのである。

危機意識というとき、人間は平和な生活が長くつづくともてなくなる。
平和がいつまでもつづくと思うようになる。
でも人間の歴史をみると絶えず天災でも戦争でも起きていて平和な時代はつづいていない、
だから江戸時代は世界史では例外的な状態だった。
戦後は確かに戦争で300万人が死んだというあとにしては平和で繁栄の時代だった。
団塊の世代はそれで恵まれていたとなるが今やそうした繁栄から衰亡の時代に入った。
そして再び天災でも対外的にも危機の時代に入っている。

でも以前として平和になれているから危機意識がないから日本は他国に簡単に侵略されるかもしれない、
危機をあおるわけではないが平和になれると油断が生れそこをつかれて滅びしまう
そういうことは平家であれローマであれ中華帝国であれ常に起きていることなのだ。
危機の問題は急激にやってくるから対応できないのである。

女川にはおそらく原発ができる前に行っている。鯨の解体しているのをみているのだ。
牡鹿半島では鮎川が鯨の基地だったから女川でも鯨と関係していた。
女川という地名も何か気にかかるようになった。
女川はオナミであり男波でありこれは津波と関係していたとか
他にも福島県浜通りにも浪江とかにもあるので言われようになった。
深い入江になっていて逃げ場がない地形だった。
だから津波を奥まで勢いよく上って行ったのである。
ともかく津波というのは実感するためには現場に立ってみる必要がある
なぜなら地形とかと深く関係しているから現場に立たないとわからないのである。
それで女川に行ってみたいと自分でも思ったのである。

posted by 老鶯 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

抽象画(海の生き物) (これも外国の抽象画の変化だった)


抽象画(海の生き物)


(これも外国の抽象画の変化だった)


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海の生き物

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夜の森

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この二つが何か目があり見ている
抽象画から生まれた妖怪である


これは抽象画らしいものになった。
これもただ変化させていたらなった。
偶然の作用であり意図したものはここにはない
ミロの作品は意図して作っていた
これは全く人間の意図したものではない
ただ化学変化の作用したものを選んでいるだけなのである

2014年05月27日

南相馬市は鹿島区は賠償金の他に不満が大きい (不便な所は現代ではますます住みにくくなる)


南相馬市は鹿島区は賠償金の他に不満が大きい

(不便な所は現代ではますます住みにくくなる)

鹿島区にあるキクチスーパーと原町市にあるキクチスーバーは同じなのに品揃いから値段も相当違う。
アスパラガスは同じものが日本産で鹿島では240円であり原町では180円だった。60円の差は大きい。
今はメキシコ産がでていないから余計に損である。
他でもシジミなどでも値段がかなり違う。カシマのキクチは何でも高いし品揃いが全然違うのである。
同じものでこれだけ差があることは相当に損になる。
原町には大きなイオンもありこれも品揃いがらさらに良くなっていて新鮮なものが多い。
鹿島はだから生活するには不便だけではなくかえって金がかかるのも損なのである。

現代の生活は不便な所に住むと物価が安くなるのではない高くなり住みにくくなる。

不便という時、5万くらいの都市と一万くらいの町の差が大きくなる。
もちろん村になるとまた大きくなる。飯館村には歯医者もなかった
歯医者は今はどこにでもある。コンビニにより本当に多いのである。
でもスーパーの方が毎日利用するから家計にひびくし重要になる。


鹿島区は東電の賠償金でも割りをくったし不満が大きい
原町より半分ももらっていないし原町と被害は同じなのに30キロで区切られて損したのである。
そして鹿島より相馬市も実際に放射能では同じ被害なのに全然もらっていない。
だから避難している人は賠償金でぜいたくしていると高いものを買っていると見ている。
そして飯館村の人がトマトを栽培している農家で働かせてもらいたいと頼んだら断られたとNHKで放送していたことがあった。
でも飯館村でも避難した人たちは補償金の額が大きいのだから別に働かなくてもいいではないと見られる。

避難者にも浪江の工場を経営している人が浪江の人たちは補償金の額が大きいから
仕事しなくてもやっていけるだろうと言われて仕事ができないと言っていた。
これも双方に言い分はある。でも浪江の人たちはさらに補償金が大きい、
一人十万から今度は5万プラスされるというから一人十五万になるのも大きい。
だからもうすでにいろいろな財物補償を加えると一億円になる人も普通にいるだろう。
それだけの補償金があれば誰も働かなくてもいいと遊ぶだけの人もでてくる。
何か新聞などでも海に流す汚染水問題で漁業組合が「苦渋の決断」をしたとか社説で書いているが
その本音はまた違っている、交渉することによってまた漁業組合に補償金が増加される
漁業組合に入っていない人はうらやましいねえともなる、ここでも金をめぐって互いに離反している

人間は仕事がないということは単に金になるというだけではない仕事には仲間意識をもつとか別な要素が必ず付加されてくる。
仕事しないで毎日パチンコだ競馬だとなってしまったらその人はどうなってしまうのか?
別に金がもらえるのだからいいではないかとはならないだろう。
だから浪江でも田植えをした農民の顔がかがやいていたのである。

そして問題は金があるから働かなくてもいいというとき、それが地元の人に反発を受ける。
つまり普通だったら避難民などは世界では最低のテント生活とかなっている。
ところが原発避難民は避難民様になっている。なんでも病院でも無料だし
介護でも小高の人は優先順位が上になる。
ところが鹿島区では追加補償があったが一人7カ月分10万でも前に一所帯百万もらっているからそれがひかれるから
実質は自分は二人で140万だった。これは嘘ではない
、原町の人は二年間の期間て補償金がもらっているから鹿島区では損だったのである。
だから原発避難民はどこでも金をもらっているからそれで威張っていられるということでもない、
地元の人が避難民のために働かせられる、病院は避難民が優先的になり無料になっているとなると
地元の人たちの不満が大きくなりイワキでは落書きとか実際に不満がいやがらせにもなったのである。

今鹿島区では小高の人たちと交流している人はまれだろう。
なんであいつらは補償金もらって遊んでいるんだということの不満が大きくなっている

実際に鹿島区の老人保健施設の厚寿苑では岩手県の方から介護士でも来ているし
会津とか外部から来ていてやっとやっている。だからみんな利用しにくいのである。
人手不足はこの辺で深刻なのである。
そういうとき補償金で遊んでいるとなると反発がある
実際に助けてくれているのは外部の人であり内部の人は遊んでいるという奇妙な現象が生れたのである。
だから金の社会だけどでは金をもっているからいいかというと避難民の場合は全部はそうならないのである。
別に金持ちでも非難されない人たちはいる。あの人はそれだけ実力で稼いだからとなり非難しない、
でも避難民はそうではないから非難されるのである。
何か地元に貢献するものがあれば地元でも非難したりしない
ただ金があり消費するだけでは非難される、別に今までの状態だったらかまわなかったろう。

いづれにしろ南相馬市は金で分断されてしまったのである。心が一つになっていないのである。
人間は何か得したと思ったら実際は損したとか損したと思ったら得していたとか損得も両面があり
幸不孝もそういうことがある。何が損で得なのかもわからないし幸不孝もわからない。
だから今得だと思っていてもあとで損になっていたとかなる。
原発周辺では事故になる前からも金がばらまかれていて得していたのである。
それが結局損になった。それを反省している人もいる。


今日は帰りは末広亭でエビフライとカキフライの料理を食べた。あそこは高いのでめったに入らなかった。
高見食堂は6時からしかやっていないので困る。
カキフライは大きなものだから本当にのカキを食べた感じたった。
松島でもカキフライが小さくなっていておいしくなかった。
あれだけ大きいと満喫できる。だから牡蠣が好きだから牡蠣料理だったら秋から冬はたまにあそこで食べた方がいいと思った。
にんげん
高くてもたまにならいいものを食べた方が結果的には得である。
うまいものを一回食べるとまた食べたくなる
ネコもそうだった。うまいものを食べさせるとその味を覚えてねだりつづけるのである。

自転車だとなかなか原町への買い物はできない、自転車で帰ると遅くなるからだ。
でもやはり鹿島のスーパーだけでは今の標準の生活にはならないから困るのである。
ともかく大内村の人が郡山市に住んで帰りたくなくなったという気持がわかる。
大内村だったら食べ物でもぜいたくでとない、うまいものがあるときそれが食べられないことがかえって辛くなるのだ。
貧乏な時代は貧乏でがまんするほかないがあるのに食べられないとなるとかえって不満が大きくなる。

人間は貧乏なときはかえって協力するけど豊かになるとしない、自分だけでも贅沢したいとなるとき、
他人は貧乏でも自分は金持ちでいたいという気持が強くなるからである。
一回贅沢を覚えるとと質素な生活はしにくくなる。
一番不便だと今感じるのは食料品の買い物なのである。
車もないから特にそうなる。4万くらいの都市でないとなかなか食料品でも標準にならないのである。
さらに10万の都市で生活している人は4万の都市と比べると田舎だなとなってしまうのが現代なのである。

posted by 老鶯 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連