2014年04月14日

相馬藩六万石の夕暮れの桜 (写真は加工した方が美を示す不思議)


相馬藩六万石の夕暮れの桜


(写真は加工した方が美を示す不思議)


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浜街道日立木までや夕桜
月満ちて六万石も花盛り

夕鶯の余韻残りて闇深む

城跡のお堀に写る桜かな夕暮れあわれそぞろ歩みぬ
城下町桜に夕陽歩む人細道入りて生業のあり
春の陽の没りて余光の長きかな紫に染む雲の棚引く

山の端に陽の没りてのち長きかな紫染まる春の夕雲

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元の写真

下は変化加工したもの


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元の写真より変化させた方が雰囲気がでている
春らしい感じが空や雲にでている



相馬市の不思議は何かいつも沈んだような静かな気持になることである。
原町ではそういうことはない、何かにぎやかな感じになる。
街自体があまり拡大しないでこじんまりしているからかもしれない。
高いビルもない、城下町だったので原町のように駅前通りが発展したのではない
もとのままの城下町の町並みのままなのである。

ただ城跡といってもなにか城があったという感じもない
確かに石垣など多少残っているがあれで城だったという感じもない
大手門にしても馬一頭が通れる狭さなのである。
何か城という感じがしない、六万石だったらそんなものかとなる


だからなんか相馬市はいつもしんみりとする場所なのである。
だから夕暮れの淋しい感覚があっている。
街にはそれぞれなんらかの雰囲気をかもしだしている。
仙台でもそうだが盛岡などは街としては何か古風な所があって違っている。

いづれにしろ外から相馬の城跡を訪ねる人はまれだろう。
それだけの目立ったものがない魅力がない

ただ本当に会津でも城を新しく建てたけどそういうものがいいかどうかはわからない
そういう新しい城を訪ねると一時明治維新で荒廃した城の感じはなくなる
新しく建てたからまた昔の栄えている頃の時代にもどったのかとも思う
城が博物館になるときそうである
そこに歴史の無常観はなくなってしまう。
平泉ではただ一つ金色堂が往時の栄として残っていたから場所の「五月雨のふりのこしてや光堂」だできた。
そこに歴史と人間の無常があったからその句ができた逆説かある。


写真がそのままで自然を現しているとは限らないことが今回の写真加工でわかった。
紫色に染まった雲が写真では何かぱっとしない、こんなんじゃなかったのにとも思った。
それで加工してみたら紫色に美しく変化した。
ただ実際に見た空もこんなに紫色にはなっていなかった。
ただ紫色がテーマとなり春らしい雲なのだろうと加工した。

写真でもその時雰囲気を景色を全部現すとは限らないことなのだ。
人間の眼で見た感じを全部を写真でとらえることはできないのである。
だから人間が描く絵はその人の眼でとらえた心眼でとらえて描くから絵になっている
ただ写真にしてもそれが自然を写すとは限らないのだ


人間はだから常にメイクすることが必要なのである。
才能があるなしに関係ない、常に何でもメイクしていくのが宿命なのである。
ただ何も人間側で努力しなければ美を発見されないのである。
才能がなければ努力しても無駄だというのもある。
でもこうして写真を加工してみるとやはりそれは新しい美の発見であることはまちがいない。
それはパソコンの技術によって新しい美が発見されたということにもなる。
だからartは技術なのである。

こうして毎日メイクしてプログに出すことは才能の開発なのである。
そしてSTAP細胞が話題になっているが真偽はわからないにしても
科学でも何かこうして実験を重ねていって新しくメイクしてプロデュースするのは
美の世界とも共通しているものでもある。
人間は絶えずどんな分野でもそうしてメイクしてプロデュースしてゆくのが宿命なのである。
それを怠ればたちまち停滞して旧弊ななかに留まるのである。
才能うんぬんよりこうして絶えず才能を開発することが大事になるのだ。


ともかく六万石でも今花盛りであり栄はあるとなる。

 
 

北海老のニコニコ堂喫茶店の春 (山陰の隠された喫茶店)



北海老のニコニコ堂喫茶店の春

(山陰の隠された喫茶店)

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菜の花や元は納屋なり喫茶店

広き庭蝶のめぐりてなお去らじ
春日さし坂を上るや押し車
春日さし山陰の道猫歩む
春の雲喫茶店の窓人集ふ
若き人喫茶店に入りチューリップ


菜の花の窓辺に写り喫茶店元は納屋なりなごみけるかな

山陰の畑の道や知られざるショジョウバカマに馬酔木の咲きぬ

山陰の喫茶店に入り春の日の過ぎゆく時の遅くあるべし

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住所が海老となっていれば普通は海と関係していると思う。
実際に津波の被害で壊滅した海老村は海辺の村であった。
だからあの山陰が海老だとは思っていなかった。
あそこは街から近くても隠されたような場所だった。
あの喫茶店ができてあの道をはじめて通った。
大きな溜池もあり八沢浦に出る。

辺りも特別目立つものもないがもともと古歌にも読まれたいい場所だった
それは今回の津波でその浦が再現されたから驚いた。
海老村の北海老でも八沢浦の浦が入り込んでいたのである。
でもあそこは全く海が見えないから山陰の隠された秘密の場所のように思えるのだ。


そして春になって広い庭に花が咲いていた。蝶も一羽飛んでいた。
チューリップも咲いていた。何か菜の花がにあっていたのはあそこはもともと納屋を改造したものだからである。
農家の雰囲気がその建物にも回りにもある。
近くにも畑があり道を歩むとショウジョウバカマと馬酔木が咲いていて春だった。
畑もまるで隠されたようにあったのである。

だからあういう所に喫茶店があるのはめずらしいと思う。
なぜなら喫茶店でもたいがい六号線とか車が頻繁に行き来する所にある。
そういう所が入りやすいからある。
でもあそこのような雰囲気を味わうことはできない。

あそこは車はほとんど通らない、騒音がないのだ。
だから車の時代では何か隠されたような場所になる。

今は車が山の奥まで通っているから意外と騒々しい場所になっているのだ。
八木沢峠の麓の大葦とかバラ坂とかは秘境だとして書いた。
それが全くあそこがそんなふうに全く見えないのは頻繁に車が通るからである。
車が通ればそこはにぎやかに思えるのが現代なのである。


あそこは街から近いのに隠された場所となっていたことの不思議である。
時間もゆっくり流れている感じになる。
坂を押し車を押して上る老人が見える。畑にも老人がいる。
それも何かこの辺の生活感がでている。

なぜ時間が早く感じるのかというと車が時間をせきたてて早く感じさせているのだ。
もしゆっくりと人間が歩いていれば歩くことが時間の単位となり遅くなるのである。
何が現代は常に時間に追われるのは車とか電車でも時計でもテレビ番組の情報などでも
伝える速度が早すぎるからである
次から次と画面に現れては消える、それが何か常にせきたてられるような感じになる


だからテレビ番組でも気になる番組を録画して10回くらいみていると
それが不思議に記憶に定着して新しいものをかえって発見する。
次から次とニュースを追っていたら次から次と忘れてしまうだけになる。
そしたら何が大事なのか何を記憶すべきなのかすらわからなくなる。

いづれにしろあそこは街に近くても癒しの空間になっていた。
入るのは若い人が多い、近くの人は入らない、でも自分は喫茶店が好きだった。
旅をしていると喫茶店に休みたいのだが今はなかなかない
喫茶店は相当に贅沢なのになった。だから料金が高いのはやむをえない。
あそこでも高いにしても庭を楽しんだり風景や雰囲気にいやされる空間なのである。
だからあそこでぼんやりする時間はかえって貴重だともなる。
その場所が価値を作り出しているごとがある。
あそこの価値は明らかに場所の価値なのである。


ただ名前は平凡なのである。だから「レスト ハイド」とした。
イギリスにロンドンにハイドパークがあるからそれとにている。
隠された場所なのである。