2014年04月02日

人は人を理解できない (相手の身になることができないから)


人は人を理解できない
(相手の身になることができないから)



人は人を理解できない
男は女を理解できない
女は男を理解できない
大人は子供理解できない
子供は大人を理解できない
若い者は老人を理解できない
老人は若い者を理解できない
性格が違うと人は理解できない
理系は文系を理解できない
文系は理系を理解できない
職業が違うと理解できない
無数の職業があり理解できない
医者は看護師の気持が理解できない
看護師は医者の気持を理解できない
親は子の気持を理解できない
子は親の気持を理解できない
与えられているばかりの人は
与える人の気持が理解できない
人に与えてみてその気持が理解できる
野菜を苦労して作る農家の人を消費者は理解できない
立場が違うと理解できない
住む場所が違うと理解できない
千円二千円を大きな金としている
貧乏人を金持ちは理解できない
一万円くらいを借り貸ししている
貧乏人を金持ちは理解できない
毎日その日暮らしの人を理解できない
なぜそんな小さな物に金にこだわるのか?
その人にとってみればその日の金に事欠いているから
一方で十万もはした金になっている人もいる
一万を貸し借りしてもめている貧乏人のことは理解できない
貸している人は借りている人の気持を理解できない
借りている人は貸している人のことを理解できない
人を雇い働かせている事業主は
働いている人のことが理解できない
働いている人は経営者のことが理解できない
外国人になるとさらに理解できない
言葉が理解できない
習慣が理解できない
宗教が理解できない
理解できない、理解できない、
互いにその人の立場になることができない
互いに理解できないことが分裂を産む



なぜ離婚がこんなに多いかのか?それはそもそも男女が根本的に理解しにくいことが根底にある。男性でも女性でも互いにかみ合わないものを根本的にもっているから理解できずに離婚が多くなる。人の性格もまちまちでありそれは男女関係なく大きな障害となっている。人間関係ほどむずかしいものはない、理解できないものの方が無数にあり理解し合うものは少ない、社会がこれだけ複雑化するとさらに理解できない、隣が何をしているのかもわからない、だからまず理解できないものとしてこの世はありいかにして理解するようにするか?それが問題なのである。

人は人を理解できないのは立場が違うと考え方違ってくるからだ。金を貸す者と借りる者は立場が違っていて理解しあわない。貸す方にすればなぜ貸したのに返さないのかと思うのは当然であるが借りた方にすると何かもらったような気分になっているのだ。
だから一旦借りたものは自分のように思っているのだ。だかさ返せと言われると理不尽にさえ思っているのである。だから人は金を貸すことはしたくない、借りた方がそういう気持になっているのが人間の心理だからである。貸した方が馬鹿みたいな感じになるのだ。だから金は貸すな貸すならくれろとなる。


貧乏人の気持も今はわからない、なぜその人千円とか二千円にこだわっているのか?
わずかのモノにこだわっているのか、昔ならもったいないというのは自然でありわかる。
でもその人は貧乏暮らしが長いからそうなっている。
毎日の暮らしに事欠いているからそうなっているのは自然なのである。
普通に今の標準で暮らしていればそういうことはない
それでもそうした貧乏な人はこの豊かな社会にもいる
なんでそんなにせこいのだ、考え方もせこいと嫌悪感を感じるがその人にとっては違う
その人は日銭が欲しいというのもそのためである。
それほど困っているのだが雇う人はそのことを見ていない
そうして働いたのに金をもらえなかったのに憤っているのもわかる
ただ外から見るとなんかせこいというかいつまでもそんなことにこだわっているのかとみるが
その人にとっては日々の生活費がなくなるから深刻なのである。


人間はこうして無数に理解できないものを互いにもっている。
その理解できないものがあるということをまず理解する。
知らないいうことが無数にあることを理解することから理解がはじまる
何でも知っている自分は正しいと思っていると理解できない
相手の言うことが何でそんなに責めるのだともなる
そこには性格の相違も大きく作用してくる。

こんなにしつこいのが女性にもいるのかとなる
女性は従順なのがかわいいとかなる
でもその女性にしたらそれでは生活ができないとなりしつこくなる
一片のパンにさえこだわっているのである。
今の時代にずいぶんせこいなと思うが本人にすればそうは思わない
日々の生活費に事欠いているから小さい金にうるさくなっているだけなのである


人間はまず自分だけを理解されたいと思っている
不遇の人でも貧乏の人でも自分のことを延々と語る
でも理解されたい相手もまた自分のことを理解されたいと思っているのだ。
病気の時、苦しい時、なぜその苦しさを理解するのではない
自分たちの苦しいことを借金を要求してくるのか
または自分が苦しんでいる時、相手はその苦しみをともにしようとはしない
ただその人から利益を楽を得ようとしている

それはいいとして苦しんでいる期間は相手を思う余裕さらないのだ

相手を理解するには本当に余裕がないとできない
余裕があればじっくりと聞くこともできる
ゆったりと反応することもできる
自分が病人でさらに介護までしているとき他人の困った相談にはのれない
しかし切羽詰まっているからそんなことおかまいなしになる
それがエスカレートすると一種の身勝手な強盗や殺人にもなる
実際そういう目にあってきたのが自分だったのである


仙台から松島行きは天候不順で中止 (南相馬市鹿島区厚寿苑はホテルのようー福島県内の介護士などが世話)


仙台から松島行きは天候不順で中止

(南相馬市鹿島区厚寿苑はホテルのようー福島県内の介護士などが世話)

福島県厚生農業協同組合連合会鹿島厚生病院併設介護老人保健施設厚寿苑のサービス概要

hote555555555.jpg

hote44444444.jpg

個室にはトイレがついているから便利

hote333333.jpg

hote222222.jpg

hotellll111.jpg

今日は天候不順になってきたので仙台方面へ行くのを中止した。
母の二日のショートスティであずけた厚寿苑は新しいのでホテルのうよだった。
個室に入りそこにはトイレもついているから楽だ。
介護では家でもトイレが部屋の中にあると便利なのだ。
介護で難儀するのは意外とトイレなのである。
大便はボータブルトイレだと嫌がる
すぐに流せないのも問題である。


ここは老人保健施設となっているからまた特養とかとも違っている。
もちろん病院とも違っている。
病院機能と老人ホーム機能が一緒になっている。
病気の治療よりは介護中心なのでかえって老人にはいい
顔をふいてくれたり風呂に入れてくれたりいろいろ介護中心なのである
病院だと待遇も病人をみるようになりそっけない
ここでは老人に対応するようにできている
病院より居心地がいいようだ
梅干しが好きなのでもってきたいというといいですよと言われた

病院では拒否されたしもの言いが命令調なのである
病院にはやさしさがないのだ

歳が歳だけに個室になったのだろう。
個室は料金も高くなる
本当は行きたくないと言っていたが
今回無理して連れて行ったのである。
99となるとディサービスなんか無理である。
ただあういう所は前も見たが
みんな死人のようにうなだれていているから嫌である
最後の行き着く場所があういう所になると嫌である


ここはただ老人保健施設であり老人ホームとも違う
だからここでリハビリなどして機能回復させて
自宅に帰すこともを目的にしている
だからリハビリ室は大きくて立派である

施設はすでにかなりの人が働いていた。
福島県内の介護士などであり会津の人とか塙の人とか
福島県内の人の応援を頼んでやっている

やはり今回の原発事故などでは福島県内ということで協力しあうようになった
二本松であり会津であれイワキであれそこに原発事故地域の人たちが避難して
仮設などに住んでその場所で生活するようになったからだ
それは福島県として協力しあうということになった
ただそこでも地元の人と避難者は軋轢を生んでいる
南相馬市内で小高の人達が避難者となり補償金問題とかで軋轢を生んだ
ただ福島県内から南相馬市に来て協力してくれているということで
福島県内はやはり一つの自治体なのだと自覚した。
会津でも関係ないようでもやはり原発があって予算が回っていたからである

普通福島県として何か一体感をもつということを具体的に感じない
今回は軋轢があっても感じたということは確かである。

まあ、あそこでは病院じゃないからボランティアなどはやりやすいかもしれない
そういう人も入っていて欲しいということもある
でもなかなか人間関係がどこでもむずかしいからすんなりとはいかないだろう。
事故が起きた場合は保健に入っているから安心にはなる
そういう体制はできているので働くのにも安心なのである

ただボランティアは何か老人の相手をするものがあるだろう。
ただあんまりあういう所では働きたくないということがあるかもしれない
子供が相手の方がいいとかなるだろう
でも顔をふいてくれたり爪を切ってくれり家族のようなことをして
くれる
だから病院とここは違っていて人間的な温かみを感じた


あそこがホテルのようだとするとき、近くで出入りも自由だとなると
一時的にあづかってとめてもらうのにはいい施設である
とにかく高齢者になると近くが大事になる
買い物だって車がなければ近くでないとだめなのである
近くに助ける人がいると楽になる。
だから知り合いの人は娘が相馬市から一週間に一回来るが
それでは何かあった場合まにあわないという
その人は毎日のように電話をかけているからである


つまり原町市でも相馬市でも遠くなるのが介護の問題なのである。
近くだったらすぐに歩いてでも来れるからいいのである
車でいちいち来るだけでもめんどうになるのだ。
だから今になると近くが大事だなとつくづく思った
その近くに協力する人がいると楽なのである。
遠くの親戚など何も役に立たない
もちろん近くの親戚でも役にたたないこともある
何かそうした新しい協力関係を作ることが高齢者に必要になっているのだ。

ともかくなかなか遠くには行けなくなったのが自分である
この次はなんとか遠くに行ってみたい

 

今日の予定 (母のショートスティ、仙台から松島へ、津波の被害を見る)

 

今日の予定

(母のショートスティ、仙台から松島へ、津波の被害を見る)


母のショートスティ 2日間泊まる

自分は仙台から松島に行き一泊の予定
途中野蒜などの被害地を見る
それから石巻から女川の被害地をみる
泊まりは一日だけ


ショートスティがとれたので一泊して野蒜などの被害地を見てくる
どういうわけかあの辺を旅行した写真入の記事が常時アクセスあることが謎である
あの辺は結構家が密集しているから被害が大きかったのだろう

まだどうしても津波の被害か関心になる。この辺では旅行を観光を楽しむということにはなっていない、

だから実際に女川辺りの街全体が被害にあったところはまた違っている。
この津波の被害も実際に見てみないと実感できない、テレビだけではわからないことがある。

すぐ近くの津波の被害にあった人の家に行った。その話を聞くと水害の被害とは津波の被害は違う。
床下から水があがって床上になり家を壊す他ないと言われたという。
海岸から3,4キロ離れていたした被害がないと思っていたがそうではなかった。
その人はそこに住めなくなり避難した。
そししてボランティアなどがきて泥さらいや瓦礫の処理をしてくれて助かったという。
ボランティアは一生懸命やっていたという。
近くの親戚などは見ているだけで手伝ってくれなかったとか言っていた。

津波の被害は実際にあった人でないとわからない
近くでもたいしたことがないと見ていたのである。
まず自分は二週間は自分のことで追われていて津波の被害者のことを見ていない
みんな放射能騒ぎもあり自分のことで精一杯だったと思う。
だからその時、知り合いの人に助けられたことにその人は恩義を感じていた。

いづれにしろ津波原発事故の後遺症は長くつづく、何があったのか近くでもわからないことが多いのである。
今になって冷静に語る人がでてきているのだ。


昨日も今日も忙しい、まだ常に何かちに追われている状態がつづいている。

posted by 老鶯 at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記