2014年04月01日

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)


南相馬市の大原から八木沢峠へ

(バラ坂の地名由来の考察)


茨城の語源についてもやはり「常陸風土記」に見ることができます。「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた

友部町小原の名前の由来は茨(うばら)が小原に変化したものと地元では伝えられています
 
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(万葉集)

枳の茨の原を刈り除いて倉を建てるから尿は遠くでしてくれ櫛を造るおかみさん方よ


「茨(うばら)」=まんだ【茨田】大阪府(河内国)の旧郡名



地名は明らかに原初の状態をさして名付けられた。田んぼでもそこが田にする前の原初の状態で名付けたものが多い。
菖蒲田とあれば菖蒲が繁っている湿地帯であり日本に湿地帯が多いからその名がつく。
葦田となれば葦が一面に繁っていたとかなる。蟹田や蛇田はそこに蟹が多く蛇も多かったからなづけた。
だから地名を考察する時はそこが原初の状態がどのうよであったかを想像するとわかりやすいのである。
吉原が葦(よし)の繁っている所だったいうとき何か華やかな花街を想像するのとばまるで違ったものとなる。
そして原初の状態からあまりにも変わってしまった時、都会化した場所は東京などになると
原初の自然状態は想像すらできなくなってしまったのである。
だから最近地震などで地盤が悪いところは沼だったとか湿地帯だったとか指摘されて液状化するから危険だとされた。
そういう原初の状態を知るということをが意外と大事だった。
津波でもなぜ海岸に接して人か住んだのかと指摘された。

原初の状態からみると茨は邪魔者でありカラタチも刺があるから同じである。
そういうことを日本全国で最初に住み着く人が難儀したから地名となった。
だから一つの地名には日本全国で普遍性がある。
湿地帯が多いのもそうであり茨が多いのもそうである。
薔薇は原野の茨であり花としてより刺のある邪魔物として認識されていたのである。
人間が住み着く時、自然は美しいというより障害物として認識された。
人間が開墾して住み着く時、道具もないとき、機械もないとき、障害物になる。
一本の木を取り除くとき大変な労力が必要になる。それは北海道開拓でも経験している。
人力だったら根っこを取り除くのもブルドザーでするのとは違っているから大変になる。

だから八木沢峠の麓の大原から坂を上ったバラ坂は茨から来た地名であることはほぼまちがいないだろう。
ただ最初バラ坂というのは普通の薔薇をイメージしていた何なのかわからなかった。
それはどこでも原初の状態から離れて生活しているからそうなった。
あの辺は秘境だと書いたがそこは頻繁に車が通るから繁華な所と勘違いしていたと同じである。
あそこに羚羊が出てきたのには驚いた。もともと羚羊が住み着くような場所だったのである。

地名というのはそれだけその土地に根ざして名付けられているのである。
ただ都会化すると全く原初の状態がイメージできなくなる。

その土地を認識する最初が地形とか地勢とか地名になる。
それが歴史を解く鍵にもなる。日本は山が多いからヤマト(大和)になり湿地帯が多いから葦原瑞穂の国になった。
そして地名もまたそうした原初の状態から名付けられるのが多いのである。

だから地名は郷土史の基本となりやすい、そして地名学はあらゆるものの基本にもなりやすい。
なぜならそれは深く日本の国土とつ結びついて名付けられたものだからである。
そこに日本の原始があり歴史の興亡さえ読み解くことができるからだ。
一つの地名から歴史を掘り起こすことができる。


南相馬市の大原はまさにやはり大きな原であった。平凡な地名でも明らかに地名そのものであった。
そこから坂を上ってバラ坂とか大葦から八木沢峠に行くがその途中に遠田とあるのも
大原を中心として遠くに田を作ったということが地名から納得する。
前田という地名もまさにそこが開拓の拠点になった家があり地点だったのである。

ともかくどうしてあんな不便な地に人は分け入り住むようになったのか?
そのことが今になるとわかりにくい、でも一反の田でも作れば米がとれるし炭焼きでも生計が成り立ったのか、
そういう場所は別にあそこだけではなく日本には多いのである。
どんな奥地にも田があり狭い地域を利用して住んだのが日本だったのである。
五反田とか地名が多いし一反田もありそこでも米がとれれば最低限生活できたとなる。
小さな畑でも結構いろいろなものがとれることを知ってそんなことでも一家が暮らすくらいの食料はまかなえるものかとも思った。
羚羊などは行動範囲が広いと思ったが一キロ四方が縄張りで生活圏だということは
そんな狭い場所に養える食料があるというのも不思議である。
春になれば蕗の薹とか野草とかいろいろ食べれるものが増えるが冬は厳しいと思うからだ。
あの辺はもう人が住まず田んぼだった所に蕗の薹やキクザキイチゲが咲いていた。
それも不思議な光景だったのである。

 
posted by 老鶯 at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)