2014年04月07日

南相馬市に増えたものホテルと簡易宿泊所 (鹿島区内にレオパレスとプレハブ簡易宿泊所が建った)


南相馬市に増えたものホテルと簡易宿泊所

(鹿島区内にレオパレスとプレハブ簡易宿泊所が建った)

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南相馬市で増えたのは宿泊所である。
小池にも最新式の設備があるホテルができた。
レオバレスはこれから建つ、でも工事関係者か来なくなったら
利用する人もいなくなるように思う。


それでも建てているのはやはり除染とか原発関係の仕事が長くつづくからだろう、
廃炉に三十年とかなればその先は普通の建築の仕事とは違う。
ここからも原発に通っている人はいる
浪江ではその工事関係者の宿泊する場として街を残そうとしている
それだけの需要が先が長くみこめるのだろう
確かに津浪関係の仕事などは終わるが原発は終わらない
いつ終わることのない作業がつづけられる
それは何か徒労にさえ思われる
延々と非生産的な作業をつづけねばならない
それは一つの罰ゲームのようにも思える


フレハブは建築会社で一時的に建てたものだから取り壊される。
それにしても南海老から北右田辺りに新しく建っていた
プレハブの簡易宿泊所の駐車場には
全国の車のナンバーがあったのに驚く。北海道から京都まである。
全国から労務者を集めているのだろう
あそこはもとは電子部品を作っていた工場跡地だったみたいだ
その工場もやめてその敷地を貸した

これだけ外部の人かまだ来ているのだから原町の湯は外部の人の専用の湯にもなる
そこにどういう人が入ろうと疲れをいやす場も必要だから断るわけにはいかない
「入れ墨お断り」と書いてあるのはそういう人達か入ってきている場なのである


人集めにはぼ関係の人が集めているのもあるだろう
そういうことはうるさいといっても人手かたりないとなるとそうはいかない
そういうふうにして集められて廃炉作業で死んだ人たちがいるだろう
そういう人は身寄りがないとかかもしれない
身寄りがないということは厳しいことになる
死んでも訴える人がいないから闇にほうむることができる
病院だと実験台にされかとは解剖用として使われる
身寄りがないということは無宿者扱いにされる
それは現代でも同じだったから恐怖なのだ

原町でも相馬でもレオパレスはあった。
でも鹿島にできると何か都会化したのかとも思う
田んぼの中にできるから奇妙な感じになる
あれはアパートとも違った感じになるからだ

posted by 老鶯 at 18:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

海老村に残った二本の松の根 (津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)


海老村に残った二本の松の根

(津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)

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家消えて津浪の跡に土筆かな

津浪跡根のみそ残り松二本海老村消ゆも土筆生えにき
凄まじき津浪を語る松二本根のみ残りて春北風(はるきた)唸る

場所替えて海老村の人のこの町になお根づきつつ生きるものかな

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山の激流を感じる庭である
この庭は見物である
ここからは海も一望できる


壊滅した海老村は三年過ぎても何も変わらない、その時のままである。
ただ春になり土筆が生えていた。
なんか今回の津浪や原発事故周辺の不思議はかえって
自然の方が復興していることなのだ。
津浪の跡にも土筆が生えタンポポも咲いていた。
土筆が生えたということは自然は復興しても人間の方は復興したとはならない

原発事故で人が住まなくなった飯館村行く山の道には羚羊がでてきた
人間世界の不思議はもし人が住まなくなったらどうなるのか?
それは元の自然が回復してゆく不思議である。

人の世界は消えても自然は元あった自然に回復する
それは東京のような大都会でも未曾有の災害が起こり巨大な街が消失しても
その跡にはやはり自然が回復してゆく
野が森が海が回復してゆくことは美しい自然がまたもどってくるということなのだ
この辺は別に美しい自然はあった。ただそこにさらに元の自然にもどってゆく


いづれにしろ海老村の跡は津浪の起きた時と同じであり何も変わっていない
だからよそからきた人はこれを見れば津浪のすさまじさを一目見てわかる。
この二本の松の根は残された。
海老村は墓地を残して消えた。でもその住民はこの土地にまだ住んでいる
三陸の方では住まない人も多くなっている。
こうしていつまでも荒れ果てた状態になっているのか?

復興とは何なのかこの辺では三年過ぎても同じである

変わったのは富士旅館である。
その庭か芸術品なのである。
激流か流れてその上に石の橋がかかっている
石がごつごつした山の磐の道が作られている
ここは旅館なのだろうか
まだ人は泊まったり使ったりしてはいない
ただ前に家がなくなり海が一望できるしこの石の庭は圧巻である
春北風(はるきた)がまだ唸っていた

 
posted by 老鶯 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月08日

八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか (津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)


八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか

(津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)

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高台にある鹿島区川子の八龍神社


八龍社
大同元年(806)上栃窪村 八龍明神 天津彦火々出神 近代冠嶺神社
永長元年(1096) 江井村(館内) 八龍社 大綿津見神 江井氏の守護神
永亭(1437) 馬場村 八龍大権現 大綿津見神
文安2年(1446) 萱浜村 八龍大権現
天文十三年(1545) 小島田村 八龍大権現
元亀元年(1570) 萩迫村 八龍大権現 綿津見神
天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現
烏崎村 八龍社?

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川子の森山の八龍社ができて何十年後に烏崎村の八龍社ができたのか?
順序としてはそうなる可能性が強い
ただ百年後とかではないからその時間差が何を意味しているのか
30年後とかに作るのか
神社がなぜ作られたのか不明なのが多いのである。



津神社

大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

慶長年中 烏崎村 (牛島) 津大明神
享保年間 北原村(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


烏崎村の八龍神社は津浪が来た水位ですれすれで残った。
これは何かと不思議に思うのは当然である。
慶長津浪の後に作られたから津浪を知っていて祭ったからあの高さに作った。
急な石段を上るからそういうふうに見える。
しかし神社の謂われは意外と古く、東北でも古い。
古代にもさかのほり大同村とかあるように蝦夷の大和王権の征服と関係して建てられた神社が多い。
鹿島神社もそうである。
これは国津神系統である。征服神である。

その他の無数の神社は何を祭っているのか、何に由来しているのかわかりにくい。
しかし調べてみると古い時代のものであることがわかる。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に起きた津浪の前にできたものが多いのである。
八龍社にしてもそうである。烏崎村には慶長津浪の起こる前に南北朝時代に霊山から逃れた桑折氏などが住み、
その系統の遠藤氏がすでに住んでいた。
だからいつ建てられたのかというと慶長津浪より前だと推測する。

その重要な手がかりが川子村の高台の森山にあった。
そこの八竜社は目立たないので新しいと思ったが古かったのである。神社は新しいようで古いのである。


天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現


これは慶長津浪の前にできたものである。
その後、20年後に慶長津浪が来ているからこの時間差が何を意味しているのか?
一つの予測としては川子の八竜社ができて次に順序としては烏崎村に作ったと推測される。
ただこの逆もありうるが順序としてはそうなる。

八竜社に共通しているのは綿津見神である。
海の神であるから海と関係していたとしてもあとはまた違ったものとなっている。
自分の予測ては慶長津浪の前に建てられたのであり偶然に津浪のすれすれで残った。
もし本当に慶長津浪を知っていて建てたならもっと津浪を怖がるから高く建てるということも考えられる、
すれすれでは危険だからである。
慶長津浪の高さがその時烏崎でどのくらいの高さまで来たかはわからない。
だからなんともいえないことはある。

一方津神社を見ると


大宝二年(702) 棚塩村(浪江町) 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)


貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神


この津神社は何なのか?これも貞観津浪とかは関係ないだろう。
津神社というのは岐阜県にもあるからこれも津浪とは関係ない
津とついているからと津浪とは関係ない


確かなのは烏崎村の牛島の津神社は明らかに津波を記念した神社だった。
なぜなら慶長年間に祭られたとすると時代的にあっているからだ。
海岸沿いにあるのはおかしいとなるがそこが鯨を祭っていたというのは
津波で鯨が打ち上げられたからかもしれない、そういう例は他にもある。
それで鯨を祭るようになったのかもしれない。
だから海岸に接してあってもとかしくないのである。


享保年間 北原村(原町区)(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


この神社は慶長津波から百年後に建てられている。
これは高い所にあり今回の津波でもあの高さまでは来ない高い所である。
それはなぜなのか?なぜ百年後にあそこに建てたのか
慶長津波と関係していたのだろうか?
もし慶長津波を知って建てていたらあの高さに建てれば津波は来ない
だからこそ建てたとなる。
でも百年後になるとする津波の記憶もうすれているはずである。
なぜそのころ建てたのかという疑問になる。
伝承として伝えられたからあらためて建てたのだろうか?

相馬市の津神社(つのみや)は津波が来たとき逃げれば助かるという言い伝えがあったという。
あの高さでも危険ではあったがまねがれる位置にあった。
だから津波と関係して建てられたのだろうとなる

結局相馬郡では慶長津波でもその伝承は二三残っていたとしても希薄だった。
だから津神社にしても津波の伝承は明確に残されていない
神社が津波から残ったのはただ偶然だったともなる。
平地で津波か来た地点にあった浪分神社などは明らかに津波の来た地点を示していた。
その他はどこまで証明できるのかかてたむずかしい作業である。

posted by 老鶯 at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

ソフトの加工で変化する抽象画 (フォトショップで変化させた-蝶の抽象画)


ソフトの加工で変化する抽象画

(フォトショップで変化させた-蝶の抽象画)


神秘の森の蝶のまぐわい

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コーラルエッセンシャルズ4がビスタのパソコンが壊れ使えなくなった。
WINDOWS8にそもそも対応していない
エッセンシャル4で面白かったのは画像を絵画風に変化させることだった
あの機能はエッセンシャル4にしかない
印象画風にするなどは他にはない
ソフトを選び使うことがむずかしい
その窓口がない、仙台のヨドバシカメラの人はソフトに詳しい人がいた
ソフト専門の売り場である。
どういう系統のソフトかを知っていた

フォトショプが画像の加工にはいいとしって体験版もあると聞いて試した
確かにこれは意外と使いやすくなっていると感じた
ただ印象画風とかイラスト風とかの変化はないよたいだ

ソフトが変わると別な変化ができる
つまりソフトによってみんな違った加工になるのだ
それがパソコンの面白さである。
一回使っただけだからわからない、絵画風に変えるのにはものたりないようだ

元の絵を変化させて三つ作った、何か違ったなるのがパソコンソフトの面白さである。
無限の変化をバリエーションを楽しむことがてきるのだ

これもなかなか暇がないとできない
自分は介護から家事全般からしていると忙しい
今日も事務手続きを二つしてきたりと何かと忙しいのである
なんかこうした趣味的なものでも時間をかけないとできない
才能ではなく開発能力なのである
それがパソコンのソフトなどでは特に必要である。
自分が全く絵が描けないのに絵を楽しむことができる
バソコンは能力開発させるものがあるのだ。


ただすべて買い物でもパソコンだけでできるかと言ったらできない
店が不用になるかといえば店に店の役割がある
なかなか体面的にどんな分野でもガイドしてくれるものがないとわからないのだ
そういうガイドするプロがこれからは必要になる

例えば観光だってそうである。
ガイドされないとはじめての土地でもわからないのである
外国では特にそうだった、何になのか全くわからずじまいのが多かった
それが今になると行けないからもったいなかったのである

2014年04月09日

新地の鹿狼山(かろうさん)の花木山で海を見て話す (相馬市のK院長は双葉出身だって・・・)


新地の鹿狼山(かろうさん)の花木山で海を見て話す


(相馬市のK院長は双葉出身だって・・・)

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鹿狼山の花木山でそこの庭を管理する人と話しした。
その人も新地の海沿いで一メートルの津波の被害にあっていた。
でも家は流されず住んでいる。

面白かったのはあそこは広く太平洋が見える。牡鹿半島も金華山も見える。
あいにく今日は晴れて天気がいいのだが見えなかった。

「ここは海が近いから海の景色がいい」
「あの船があの辺にくると何時になり船がすれ違う時、2時半なんですよ」
「ええ、そうですか、確かに船はゆっくり進んでいるからまるで時計の針みたいだな」
「あそこの火力発電所の所ですれちがうんですよ」
「なるほど、自分も太平洋フェリーには良くのりましたよ、あそこですれちがって
汽笛をどっちも合図のために鳴らすんですよ、ずいぶん接近してすれちがですよ」
「私は乗ったことがありませんから・・・」

自分は太平洋フェリーには北海道の苫小牧に行くのに10回は乗っている、
たいがい梅雨の時期が嫌なので船に乗って北海道を旅していた。だから北海道には一番行っている。
名古屋にも何回かわからないが3回くらい行っているかもかもしれない、
一回は自転車で行って奈良まで行ったから遠かった。だから太平洋フェリーはなじみなのである。
船旅はのんびりしているからいい、疲れないのもいい、ゆっくり眠れるからいいのである。高齢者でも船の旅は楽である。


その人の話で興味深かったのは病院の話である。

「あそこに渡辺病院が建ったんですよ、あそこはみんなが欲しがる一等地だったんですよ」
「あれがそうですか、自分も南相馬市立病院に一カ月入院していました、あそこの病院もながめがいいですよ、
海が見えて船が通るのが見えるんですよ、あそこは一番高い建物だから見えるんですよ、
大原の方も見えましたから、大原の人と一緒だったんで話しして暇つぶししていたんですよ、
建物が立派だ気持いいのは確かですよ、でも看護師や医者が集まるのか、それが問題ですよ」
「相馬市立病院ではもう限界でしたよ」
「あそこは迷路で建物継ぎ足し継ぎ足ししていましたから、あそこは入院しても眺めが良くなかった、気晴らしになりませんでした」
「あそこは眺めはいいですよ、新地の一等地ですから」
「この辺では病院が大事ですよ、双葉や浪江から来ていましたから、・・・科はないから南市立病院に来るほかなかったんですよ」
「相馬市立の院長は双葉出身ですよ、双葉高校ですよ」
「えっ本当ですか、それは知りませんでした、双葉高校は一回甲子園にも出ました
あそこになぜ高校があるのか、6000人くらいしかいないから、そんなところから優秀なお医者さんが生まれたのは驚きです、
何かと双葉の人達は評判が良くないですから
すると原発事故の双葉と関係していた、実家は双葉にあったんですか」
「福島医大で腕はいいですよ」
「確かに相馬市立病院で・・科は三人もいましたから、南相馬市病院では一人若い人にまかされていました、
その人は原発事故騒ぎでやめたようです K先生には実際にみてもらったしお世話になりましたけど・・・」


この辺ではまず東大に入ったなどという人は何年に一人もいない地域である。東北大に4,5人入ればいいとかなっていた。
そもそも地元から医者になれる人は相当に優秀な人である。歯医者はほかにいるが他の医者は少ない、
たいがいよそから来た医者である。
だからよそから来た人だと思っていた。それも双葉の人と聞いて驚いたのである。
まず医者の価値は高い腕がいいければまたさらに高くなる。地元から腕のいい医者が出れば
そして勤めればかなり助かるし地元に貢献することになる。

それで地元で奨学金のようなものを出すからその条件として地元に勤めるようにしてもらいたいと医者の養成に必死なのである。
もちろん看護師もたりないからなんとかしてくれとなっている。
それで南相馬市の最近できた老人健康施設が新しくできたが百人収容できるが
働く人は会津だとか福島県内からの応援ではじめた。十人の介護士を募集しても人が集まらないのである。
だから渡辺病院で集まるのかという疑問がある。
建物は立派でもそこで働く人材を確保できるのかどうかが問題になる。


「双葉というと自分の父親は酒屋に丁稚奉公していた、葛尾村(かつろう)村の出身で双葉の新山の酒屋で働いた。
その隣が原発事故以後有名になった大きな酒屋で話題になった
今でも街の中で大きな煉瓦の煙突があるから街の中心みたいになっているんですよ」
「そうですか、K院長は双葉出身ですよ」
「それは知らなかった、てっきりよそから来た人だと思っていた」
「ああ、そろそろ船がすれちがうころです」
「本当にすれちがっています」
「今日はちょっと遅れたな」
「あの船を見て時間がわかるのは本当に面白い」
「今日は牡鹿半島も金華山も見えない、晴れても見えない」
「まあ、なかなか見える日は少ないです」

「高速道路がこの前にできていたんだ」
「今年木の11月には全線開通です」
「それは復興にとっては大きい、すぐ前にあるからここにもよりやすい
東京当たりからもここは眺めがいいから来るんじゃないですか」
「まあ、三年目ですけどなんとかやっています」


あそこの花木山で一番面白いのは確かにあの船を見て時間がわかることだった。
何も見えないが船の進み具合で時間がわかる。毎日見ているからそのことに気づいた。
本当にまるで船は時計の針のうよになっていたのである。
高速道路もじき前にできていた。いつのまにできたのかと思う。
急ピッチで工事をしていたのだろう。
この常磐高速道路がつながると鉄道代わりになるしそれ以上のものになるから復興には大きい

いづれにしろk院長が双葉出身だったということで何かこれも原発事故と関係していたのかと思う。
もちろん新地にも双葉の人が土地を買って家を建てたということも言っていた。
縁故が相馬藩内に多い、結婚しているのも相馬藩内が多い。ただ今はとんでもない遠い所に嫁に行っているから変わっている。
それでも縁故をたどってゆくと田舎ではまるで織りなされた糸のように人が関係しあっているのだ。

新地も自分の父親の前の妻は新地出身だった。現在でも新地の人を知っている。それは悪い面で知ってしまった。
田舎はだからあいつは誰々の子供でその親はどうだったとかたどる。するとなかなか悪いことが本当はできにくくなっている。
信用は一代だけではなく二代三代とつづいて築かれているからだ。

農家などはその土地に根付いているから余計にそうなのである。
農家では三代つづかないと農家として認められないというのはそのためである。
一代だげではその土地のものとして認められないのである。
だから本当は田舎では悪いことはできないのである。その話しが一代だけで終わらない、
恨みで次の代でも受け継がれたりするからそうなる。

ともかくK院長が双葉出身だということはかなり重要なことかもしれない。
それは今回の原発事故の当事者にもなっている。よそごとではないものとなっている。
ただ双葉出身者でもそういう腕のいい医者が輩出したということは誇りだろう。
田舎の高校はレベルが低いからである。だから医者になれるような人はなかなか出ないのである。
歯医者は多いから別である。

いづれにしろ双葉となると全国で知れ渡ってしまった。町長も有名になり参議院選に出たが落選した。
双葉は何かと悪い印象をもった人が全国で多かったろう。
まず双葉高校となるとそんなところからも医者になれる人が出れるのかという疑問をもつだろう。
でも一回はこの辺では出たことがない甲子園に出場した高校だからこれも不思議である。
医者でも看護師でも地元で確保できるのにはこしたことがないし力強いものとなる。
相馬看護学校を作ったのはそのためである。

そういう地元に貢献してくれる人材養成がこの津波や原発事故で特にみんな感じたのである。
若い人が流出して老人ばかりとりのこされるような恐怖を感じたからである。
ここで育ててもみんなよそに行ってしまっては何になるのだとなる。
それは地元でそれだけ困っているからそうなったのである。
職業でも仕事でも土着的であるべきだというとき、医者でもそうなのである。

東京のようなところだったら郷土意識地元意識もない、ただ機能的に腕がよければいいとなる。
土着的というとき医者という職業でも地元全体にかかわるものとして仕事する必要がある。
要するに原発で働く東電の人たちにはそういう意識はまるでなかった。
ただ東京に電気を送るために土地を借りているという意識しかなかった
だから事故になっても無責任だし作る前も無責任だった。
どうけ東京には被害が及ばないとか安心していた。
だから原発は東京に作るのが一番良かったし理にあっていたのである。
それは東京でも地元であり巨大にしても運命共同体になる。

福島なんか離れているからどうなってもいいとかの意識では責任もって原発を稼働はできない
故郷とは運命共同体のことかもしれない、戦国時代だったらそうである。
勝つにしろ負けるにしろ運命共同にするほかないからである。
日本も戦争で負けたにしろ間違った戦争にしろ運命共同体だからやむをえないとなる。
それで外国人を労働者にいれても運命共同体としての責任がないから便宜的なものだから
あとあとやっかいなことになるというのも現実にヨーロッパでは起きているのである。


原発を作るにしろ作らないにしろそれは地元では運命共同体という意識をもつ必要があったのかもしれない、
戦国時代なら生死をともにしたから運命共同体だったけど今は故郷といっても都会化しているから
そういう意識も薄れていた。だから危険な原発のことを真剣に考えることも地元でもなかったのである。
そして運命共同体としての基礎となる故郷すらなくなったのである。
そしたら何がその町の絆となるのか?そんなことまで問われることになった不思議がある。
原発を作ることはどういうことなのかこの辺では問われたし他でもそういうことが問われているのである。



この双葉高校の同窓会長でもあった田中清太郎元町長が、町への原発誘致を推進した

双葉高校はイワキに継ぐ進学校だった。創立も古い。だからやはりそれなりのこの辺では高校だったとなる
http://getnews.jp/archives/239731

posted by 老鶯 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年04月10日

八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)


八沢浦と磯部の地形と神社

(津波との関係は・・・)




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蒲庭に行くところ

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この熊野神社江戸時代に祭られたのか


磯部村

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寄木神社


 窪地が選ばれた理由には、都市域の拡大とともに、寺院が時の権力者によって強制的に郊外へと移転させられたことが関係している。寺院の移転先は、当時はまだ、利用されていなかった土地が多かったのだ。利用されていなかった場所とは、谷戸や窪地、湿地などのことである
http://matogrosso.jp/suribachi/suribachi-12.html

仙台藩では大規模干拓が行われ、60万石から220万石まで増産した。その過程であらたな干拓地への移住が行われ、元の集落の本社から新集落への分社もあったはず。

まず移住、条件のよい場所へ分社の設置が行われ、その後干拓の進展によって海岸線が後退、集落は前進していく。そして現在、当初の集落の位置と等高線を反映した場所に神社が残っており、相対的に標高が高く、海から距離があったことで、結果的に津波を免れやすかったのではないか。
http://shinonome-do.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-7a92.html


権力者によって作られ街はかえって整然としている。権力者が真っ直ぐな道路を作る時必ずそこに住んでいれば障害が生まれる。
でもまっすぐな道路を作ることは便利になる。
だからローマ帝国ではまっすぐな道を作った。
日本でも大阪には緑地が少ないという、江戸にはそれなりに緑地があるのは
幕府の権力が強く緑地を残したということもインターネットで読んだ。
寺は武士に所属する官僚のような役目をになっていた。下部権力構造として幕府を支えていた。
でも権力者の都合で不便な土地に移転させられた。

不便な所に住むのは草分けとかではない、あとから入ってきた人や草分けから分かれて土地を求めた人は当然悪い土地、
不便な土地に住み着くことになる。
いい場所はすでに開墾されて人が古くから住んでいる土地だからである。

縄文時代は人は自然にさからなわないで逆らえず住んでいた。
まず稲作のために海を埋め立てたりできない、そんな技術力がないから自然条件に適合して生きる他なかった。
だから湿地帯とか海の平坦な地には住まない、だから津波が来るような場所には住まない
高台に人が最初に住んだという時、平地はヨーロッパでも湿地帯であり
害虫やその他のバイ菌などが発生するので高台に住んだのは同じである。


八沢浦では明治になって開拓された。江戸時代までは入江であり浦であり海が奥まで入り込んでいた。
それは今回の津波で一時その江戸時代の風景が再現されて驚いた。
それで妙見神社が海近くに祭られていて流されたのである。
神社の関係では熊野神社がこの丘の反対側の小高い丘にあり祭られていた。
八沢浦は明治時代以降住み始めた人が多い。
でもここは江戸時代から住んでいたかもしれない、熊野神社は古いからである。
ただ前は入江の海になっていた。でも小高い丘だからそこには住めた。

今回の津波でこの丘が防波堤になりその反対側の家は流されたりしなかった。
浸水しても家は残り今も住んでいる。

津波が来た時も津波がきた瞬間でも裏山に逃げれば助かった。
実際逃げて助かった人もいる。逃げ場家の後ろだから逃げやすい。
神社まで逃げなくてもちょっと上れば助かった。ここでは人は死んでいないだろう。
津波は地形によってその影響がかなり違っていたのだ。
新地相馬の火力発電所が海岸にあって被害が少なかったのはちょっとした地形の差にあった。
原町火力発電所はもろに津波をかぶってしまったのである。


蒲庭から古磯部の入江に牛頭天王神社が高台にありこれ津波からまねがれた。
古磯部となると磯部より古いから古がついた。
もともとはここが磯部の地名の発祥地である。
松川浦の方には後から人が住んだとなる。
ここも開拓された浦沿いに人が住んでいて津波で流された。
ただここは丘があり丘にもともと人が住んでいたところである。
だから磯辺小学校のある丘に住んでいる人には被害はなかった。

稲荷神社と寄木神社もこの丘の所にあり津波の被害からまねがれた。

神社は一般的に高い所にある。それは八沢浦にしても前が海であり低地には建てられない、
牛頭神社もそうである。あそこも入江だったからである。
磯部は砂州のような低地でありそんな危険な所に神社は建てられない。
だからこれらの神社は津波が来るすれすれではない、余裕ある高さに位置していた。

ただインターネットではしきりに学者でも津波の被害を経験していたから
その津波の被害の経験から津波の来ない高さに神社を祭ったというのは違っている。
もともと神社は津波を警戒して建てられた形跡あるものはわずかである。
津波は今回でも400年に一回くらいしか来ないとすると川の洪水のうよには警戒しない
もともと古ければ古いほど高い所に建てられる傾向かあるのが神社である。
高いところはそもそも理屈なしで神様がいるにはいい場所だからである。


津波は地形の影響が大きいという時、日本ではそうした警戒感がなく津波に流されるように街を作っていた。
磯部でも砂州のようになっている所に家を密集して作ったので壊滅した。陸前高田市でも三陸でも津波をもろに受ける場所に作っていた。
それは百年前とかにも大被害があってもそうしていたのである。
そこは仕事するのに便利だから同じように人が海近くの低地に生活するようになった。

そして今回の津波の被害を大きくしたのは稲作とも関係あるのかもしれない
海老村でも漁業するより稲作をする場所として最初に南海老村があり北海老むらになり
上海老村とか下海老村とかに分かれた。
海老村というと漁業の村のように思えるが実際はその前は稲作をしていた田んぼだった。

それは烏崎村でも一見漁業の村のように見えても袋村が消えたように開拓して田を作り広げていたのである。
漁業だけで村が生まれ発展するということはなかなかない

海はそもそも危険であり船を作る技術なとが進まないと住めない地域である。
それを象徴していたのか鳴瀬町の牛綱村だった。
漁業で使う網のつなを作り浜町に運んでいたからである。
浜市とあっても背後に農家がないと成りたたないのだ
漁業だけで生活するのは初めは無理だった。


そして浜側に家が密集したのはその後ろが広い田んぼになっている。
その田んぼでは米をとるので家を建てにくい、すると海側の狭い地域に家を密集して建てたということもある。
日本では土地がすくない、田んぼにする土地が少ないから苦労してきたのである。
家として確保する土地より田んぼとして土地を確保して家を建てるというのが順序だったかもしれない。
それで海岸の砂州のような危険な場所に家か密集したということもありうる。

 
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津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ


津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ

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台畑

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寄木神社

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その畑は隠されていた。家の前の一区画の小さな畑である。ここは小高い丘であり崖のようになっていてそこを上らないと見えない、たまたま残雪の蔵王が見えて桜の木があっておりしも咲いたのでその桜を視界に入れた写真をとろうとその崖を木の根につかまって上った。そこに思わず畑があった。そこには梅林があり梅がまたおりしも紛々と匂っていた。確かに家は下から見えたのだがここに畑のあることは梅が咲いていることは見えなかった。


ここに上ってみたらここは複雑な地形であり丘陵でありそこに家があり畑があった。地名は台畑だからあっていた。
そもそもこういう丘に住むということは不便だと思う。上ったり下りたりするのも不便である。ここに人はいつから住み始めたのだろうか。人と土地の関係で大事なのは一体いつからそこに人が住みはじめたかである。江戸時代から住みはじめたらそこは古い場所である。でもここは住みにくい場所である。だから意外と新しい場所なのかもしれない。

その小高い丘の上から下る畑の中に道があった。そこの畑には人がいた。こういうところに家があり人がいることか意外だった。その畑の下りる道に薪を積む家があった。薪の風呂に入っているのだろう。結構薪を積んだ家を街中でもみかける。薪の風呂はあったかさが違うという。だから薪の風呂は今は贅沢である。確かに家が見えても隠されるような場所にあった。なぜか地名に一畑とかある。それは一つの畑である。小さな畑かもしれない。
一反田という地名もありこれも人が住み着いて名付けられた地名である。
日本では土地が狭く耕地が山が多く得難い、だから畑にするにしろ田にするにしろ平坦な地は少ない、だからこそ海側に平坦な地を求めて開墾して広い田を作ったのである。

そこが今回の津波で被害にあった。
狭い土地でも畑にするといろいろなものか収穫できることがわかった。小さな一つの畑でもそれなりに野菜がとれて収穫がある。だから自給自足するくらいのものはとれたといえる。だから小さな一つの畑でも田でも日本では貴重なものとなっていた。

この隠されたような場所の不思議はすぐ下まで津波が推しよせていた。磯部村は人家も多くそこは壊滅した。その人家が密集していたところは原始の状態では砂州のようになっていた所である。なぜそんなところに家が密集していたのか?
その後背地は広い干拓された田であり津波で一時広い湖のようになったことには驚いた。この小高い丘から高い丘の方の家は津波の被害をまねがれた。

磯部では500人が死んだとか被害が大きかった。だからこの小高い丘に住んでいた人は助かったのだからほっとしているだろう。

磯部村はもともと古磯部という地名があるようにそこも入江になっていてそっちに先に人が住んでいた。その入江は狭く干拓しやすかったのかもしれない、その低い場所に住んでいた家は流された。その家の数は少なかった。今回壊滅した磯部の海岸沿いは悲惨すぎた。今や何もない、そこは松川浦とつながっている。
そして寄木神社というのがありこれも津波からまねがれた神社である。石段も残っていてそれからまた上だからかなり余裕があった。この神社の謂われは何なのか?
石巻の方から移住してきたとか碑に記されてあった。姓は君島である。

磯部村は江戸時代からありここの津波をまねがれた隠された土地はむしろ新しく人が住んだ所かもしれない、不便なところだからあとから開墾して住み着いた。その丘の平坦な地に畑を作り家を作った。斜面も畑になっていた。

ここで感じたことは人間の住む場所は特に日本のような狭い土地の少ない場所ではこうした丘のような所でも人はすむ。むしろ壊滅した海岸沿いの村はもともと人が住むには不自然だったのである。こうした小高い丘にこそ人は先に住んだのである。
ただここが住んだのが江戸時代からであり古いのかはわからない。古い碑などがあれは目安となる。墓地もそうだが墓地はもっと高い場所にある。

しかしそれにしても今回の津波だけは恐ろしいことはなかった。津波の被害にあった人が家が上に吹き上げられたのをこの丘から見たという。その人も被害者だった。その光景を見たら信じられないもであり恐怖におののいたろう。
津波から三年目にしても磯部でも何ら変わっていない。荒寥とした風景があるのみである。ただ新しく道路が松川浦の方に向かってできたのは変わっていた。

磯部からも残雪の蔵王が大きく見えていた。前に家がなくなると視界が開け蔵王が見えやすくなったのだろうか、こんなに蔵王を見えたことはなかった。蔵王がかなり迫ってきて見えるのである。ここから蔵王までの距離は相当にある。それでも見えるのだからやはり蔵王はかなた標高が高いことがこれでもわかる。山は美しく見える場所がある。
富士山でもそうである。山は見る場所や視点によって見え方がみんな違っているのである。だから山を知るにはそうしたきれいに見える場所から見ることである。
山形県側から見ると蔵王は美しくに見えないのである。


こうして小高い丘の上にその隠された家があり一つの畑がありそこに紛々と梅がにおい桜が咲いてかなたに残雪の蔵王が見える風景は美しい。原初の状態にもどれば今田んぼになった所も一時海のようになったから入江の浦のかなたに残雪の蔵王が見えた。
この丘の方に新しく家を建てた人もいる。もう海岸沿いには家は建たないだろう。
一つの畑が丘の上に隠されるようにあり家もあり何かここに春の平和を感じた。

やはり寄木神社などはその土地の一つの拠り所であり最初に住んだ人が祭ったのだから
その土地の先祖を祭ったともなる。だから津波で壊滅した磯部の海岸沿いをその神社から見る時何か不思議である。

要するにその神社を要として村が開かれその子孫が代を重ねてすんだ。その碑にあった君島とかはその土地に最初に住み着いた人なのだろ。その神社はその土地の根っこのような存在だったのだろう。今、その神社に立ってみると全く津波の前とは違った感懐を抱くのである。これだけの人家が消えてしまうと磯部村そのものが成り立たなくなるだろう。
三分の二以上消失したら村が成り立たない、未だに磯部の人は仮設に住んでいる。
ここでも復興するとはどういうことなのだうと思う。ここには人が住まないとなると復興は別な土地ではじまるとなる。
ただ村の根っことしての神社は残っているという不思議があるのだ。


隠されて一畑に人梅匂ふ

 
 
posted by 老鶯 at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年04月12日

桜や梅を見てめぐる相馬の春 桜や梅を見てめぐる相馬の春


桜や梅を見てめぐる相馬の春

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fotoskecherで変える

同じ写真でも加工するとかなり違ってくる。
これは明るい日ざしを感じる。
色も鮮やかにできるからこのソフトは無料なので得である


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残雪の蔵王を望み朝桜

燕来て喜び飛び交う街の空
隠されて一畑に人梅匂ふ
大石に梅ふんぷんと匂い散る
ゆくりかに進みし船や春の海
家々を桜で飾りひなの村
一村は花に染まりて夕暮れぬ
城下町路地裏細く夕桜
春の灯や復興住宅に住みはじむ
春の星きらめきあいつなごむかな
大石のここに動かず春の星


海よりの朝風吹きて雲雀鳴き野は広々と沖に船見ゆ

津波にもめげず立ちにき神社の樹なお海のぞみ春の日さしぬ
神社にはなお樹の根を張り残るかな磯部の村は大方消えぬ
残雪の蔵王かなたに明けく見えてこそあれ朝桜咲く
ここにしも長くもあれな大石に梅の匂いて散りにけるかな
朝日さし木蓮の白さまぶしかも桜も映えてときめきにけり
桜咲く家の栄やめぐる村跡継ぐ人の守るべしかな
夕日さし枝垂桜の長々となお優艷に色を見せしも
みちのくに桜は咲けど北風の今年はなおも吹きつつやまじ

三年を鹿島に過ごす小高の人桜の下をともに歩みぬ

とことわの磐にこそあれ紛々と梅のにおいて散りにけるかな

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この石はなめからで丸みを帯びていて大きくどっしりとしている。
何か入り口にあっている。
ただ石でもそうだが写真だけでは感じられないものがある
実物をゆっくりとながめないとそこから発している気は感じられない
大きさもわからないから写真で感じるには限界がある

下の石の庭を加工したものは写真よりいい
ということは絵の元も写生であり写真だから絵になりやすいのである
写真はもともと絵なのである。



磯部から新地の方に回った。新地も気持いい場所である。田舎だと家々に桜が咲いているのが結構みかける。
桜の木があるということはそこは古い家である。なぜなら桜の木が育つまでには時間がかかるからだ。
だからそれなりに家がつづいて栄えたということがある。

自分が注目するのはあとは庭の石である。石にはよくみると個性がある。
今回見た石はどっしりとして落ち着いていた。それが農家の入り口にあり
梅の花が匂っていた。そしてその梅の匂いはその石にゆっくりと流れて散ってゆく
十分に匂いに満たされて散ってゆく、そういう時間があって心豊かなものとなる。
石は定着して心を養う象徴なのである。だから忍耐の石となる。
今は春であり石にも春風がそよぎ春の日がさし梅の匂いに十分にひたされている。
梅はすでに散り始めていた。


日本では桜咲く時が一番いい時である。木蓮の花も満開でありこの花も風にゆれ澄んだ空に今咲き誇る。
木蓮と桜が一緒に咲いている庭が新地にあった。
農家には広い庭があるから気持いい。そこにゆったりと落ち着いた石がある。

とにかくこの辺では津波原発事故で変化が激しすぎたのである。
だから石のように動かないことが幸せになった。
故郷に住めなくなった人が多いのだから動かないでいられることが幸せになった。

そしてすでに鹿島でも仮設に住んでいる小高の人も三年になる。三年はそれなりに長いのである。
どんな心境になってしまうのか不思議である。
川の土手の桜の下を散歩しているが鹿島に三年いたということもなじんだということもある。
ただ仮設には生活感はない、ただ一時的な仮の宿にすぎない
でも復興住宅が一部完成して人が入り灯がともると生活感がでてくる。
そこは仮設とは違ってくる。だから仮設というのは早めに去るべき場所なのである。
何か宙ぶらりんになってしまっているからだ。そこいてはいつまでも復興はないのである。


それにしても今年は今日も北風が吹いてうなっている。昨日もそうだった。
この風は普通は相馬の空っ風というように3月に吹く風である。
今年は4月に吹いている。だから小さい畑を作っている人は自転車でゆくから嫌だと言っていた。
農作業は天候に左右される、農作業するにも天候の影響があり雨風になると
仕事したくなくなる。これは建築関係もにている。屋根を作ってしまいは建築関係は仕事ができる。
農作業はできない。それでも草取りなど雨の時でもしていたのを子供の頃みていた。


いづれにしろ今年のは花見は何かこの北風でいつもとは違う。この北風で穏やかな花見になっていないのだ。

早春の流れ (fotoskecherで写真を絵に変化させる)


早春の流れ

(fotoskecherで写真を絵に変化させる)


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新田川上流

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橲原の滝

これは写真の方が良かったみたい


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大古の森の流れ

写真にとったものをfotoskecherで変化させた。不思議なのは写真より光の具合が春らしくなっている。
そうだとすると写真は忠実に自然を写していないのか?
カメラのせいなのか?人の眼で感じるなら明らかにこうして加工して変化させた方が
春らしい光なのである。


とすると写真をなんらか調整しないと自然をそのまま現さないことになる。
自然をそのまま写真にしても見栄えがないことがある。
この三つは絵画化して成功した方だろう。


パソコンのソフトで変化させるという時、別なソフトだとまた違ったものになるから
不思議である。
コーレルエッセンシャル4は使えなくなりfotoskecherを無料なので試してみた。
これは印象画風とかないが他は同じような効果がある。
たからこれでも絵画風にできる。
使い方も簡単だった。

2014年04月13日

八沢浦の津波の被害にあった人に聞く (海岸沿いには30軒くらいあった)


八沢浦の津波の被害にあった人に聞く

(海岸沿いには30軒くらいあった)

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30軒くらいあった
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旭化成の工場

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流されてきた石

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この崖の上に逃げて助かった

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高い場所でも海に近く前にさえぎるものがなく被害を受けた。

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古歌にある長岩も完全に津波でくぐった
割れたようになっているのは前からそうだったのか
津波の衝撃のためなのか?


八沢浦でもここは前に障害となる山もない、距離的には一キロもないかもしれない、だからもろに津波を受けた。
海岸沿いに30軒くらいあったという、10軒くらいしかないと思っていた。
八沢浦は海老村とか烏崎村とかと違って被害が目に見えて見えない
磯部でもそうだけど村ごと壊滅したところは悲惨そのものである。
何も言わなくてもそこに立てば一目瞭然である。
でも八沢浦はそんなに家が密集していなかったように見えたのである。
ただ港とあるから港の機能があった。


江戸時代は浦になっていたから船が行き来していた。荷物を乗せる大きな船も行き来したから港となっていた。
だからそこには家が昔からあったとなる。
ただ八沢浦は明治に開拓ささたのだから明治以降にできた村だと思っていた。
一部は北海老村になっているから30軒流された家は江戸時代から港があったときから住んでいた人がいるかもしれない、
あそこは北海老村であり八沢村ではない、そこが間違いやすい。

旭化成の工場がある地点も高いようだがぎりぎりだったのかもしれない、あそこに建てたのは土地がなからだろう。それで助かった。
工場は土地がないからあういう土地としては価値がないところに立つことがある。
あの丘があるおかげで津波が防げてその背後の家は被害が少なくて家も残ったのである。

一方で前に何もない、海岸沿いとそこから一キロも離れていない写真にとった場所は家も破壊されてない。
この家は結構高い場所に建っていたのである。
でも前に何もなくもろに津波が押し寄せたからひとたまりもなかった。
浪が一方からではなく横の方からもおしよせたという、浪がこの辺で合流したようになり強さを増しておしよせた。

津波は地形によって変化するし強さの度合いも違っているのだ。
そしてあの崖によじのぼって助かったという、あの崖の下まで津波が来たのである
あそこて津波を見てから逃げたのか?それだけの距離があり時間あって助かったのか?
後ろが山であり津波を瞬間的に見てとっさに逃げたのか、でもほとんど時間はないから
津波警報がでてから逃げたのだろうか?

この辺は詳しくわからないがあの崖の上に立って津波が来るのを見ていたらどんな気持になったのか?
それは経験した人しかわからない、あそこでは海に面した崖の上の家族が子供をふくめて何人か死んで墓があった。
白石から移った人だったという。これも不運としかいいようがない。


その女性が言うにはいくら津波の怖さを言っても理解してもらえない、忘れられると言っていた。
津波の被害を近くであったとしても被害にあわない人はその怖さや苦しみを理解できないのである。
現実に自分も八沢浦が津波の被害にあったとき、それが江戸時代の浦のようになったので
入江になったので美しい八沢浦がもどったと報告した。
そしたらここで子供も死んで泥から取り出されたのだとか批判された。
しかし自分はいつもあそこが入江になっていたらどれだけ美しいかといつもイメージしていた。
正直そのことの方に関心があったから実際にそうなったとき浦になみ春の光に浦浪が光りよせたとき美しいと思った。
浦浪というのはこの辺では見ないのである。]荒々しい浪しか見ないからだ。

そして八沢浦は家がまばらにしかないと見えていた。でもあの海岸沿いでも30軒もあったのである。
だからそれなりに瓦礫も流れてきたのである。
海老とかとは違ってもやはり被害がかなりあった。
その海岸沿い港は土台すらなくなって沼になってしまったのである。
津波が土台まで運んでしまった。それだけ強い浪が襲ったのである。
コンクリートの土台がえぐりとられるほどの津波の猛威だったのである。

その女性が言うには

私らは津波の被害にあってから考え方が変わってしまいましたよ
もう貯金などしない、命があるだけでもうけものです
今を生きることです、明日のため将来のために用意して生きることはしません


津波の被害にあった人は実際に人生観まで変わった。あまりの衝撃に命が助かっただけで良かったとなり
将来のために貯金などしていられない、死んでしまってはなにもならないとなった。
現実に家も何もなくなった人が多数いるからだ。
その人たちにとっては今生きているということが幸福になっているのかもしれない。
明日のことなど考えられないとなった。
これはそういう経験した人としない人の差は大きいのである。

人間はどんな体験でも苦しみでも経験しない人は理解できないのである。
だから津波の被害にあった人は被害の苦しみを言うけど介護の苦しみを言ってもたいしたことないよと言っている。
これもやはり自分としては納得いかないのである。

その人は介護の経験がないからそう言っているのだ。
それはみんな同じなのである。経験してみないとどんなことでも津波すらこれほどまじかにあっても
経験しないと実際に被害にあわないとわからないのである。

だから津波の被害にあった人と同じ町に住んでいても津波の被害にあわない人の差がものすごく大きいのである。
同じ町でもなんら被害がない人は無関心なのである。
でももしなんらかの津波によるダメージを受けたらこんなことにはならない。
自分は地震や原発事故での被害を受けているが津波の被害を受けていないから
津波に関しては何か同じ町に住んでいても他人事なのである。
だから面白がって写真撮って報告しているのかともなる。
津波の被害にあった人にしてみれば腹ただしいともなるのだ。

それは事故や事件でマスコミが取材するのとにている。
マスコミにとってそうした事故や事件は格好の餌であり別に助けるわけでもない
同情するわけでもない、報道して視聴率をとることが第一とされているのと同じである。

自分の場合は地元だから津波のことを関心をもって何が起きたのか追求している。
これも一つの郷土史だということもあるからだ。
郷土史として記録しておくことも必要だからである。

その女性はすでに仮設に一年いて家を建てたから良かったという、仮設にいても将来がない
仮設は早くでるべきだと言っていたのは同感である
復興住宅にしろ小高に帰るべきであり仮設ははやく去るべきところなのである。
近くで烏崎の人が家を建てたがこれもほっとしているだろうなと思う
家もなくなってどうしよかと途方にくれていたのだから家ができたということは安心する
その人も家が建てられたから安心したと言っていた。

ともかく港は前も防波堤が台風で決壊して海の水が流れたこんで被害があった。
干拓した場所だから低い場所だった。
その時、ここは危険だと感じて他に移れば助かった
でも人間はなかなか長く住んでいる場所から離れられない
よほどのことがない限り離れられない
自分もここが不便で嫌なことがあっても土地と家があるから離れられないのである
だから人間と危険なところでも住み続けている傾向があるのだ。

posted by 老鶯 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係