2014年04月01日

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)


南相馬市の大原から八木沢峠へ

(バラ坂の地名由来の考察)


茨城の語源についてもやはり「常陸風土記」に見ることができます。「香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた

友部町小原の名前の由来は茨(うばら)が小原に変化したものと地元では伝えられています
 
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(万葉集)

枳の茨の原を刈り除いて倉を建てるから尿は遠くでしてくれ櫛を造るおかみさん方よ


「茨(うばら)」=まんだ【茨田】大阪府(河内国)の旧郡名



地名は明らかに原初の状態をさして名付けられた。田んぼでもそこが田にする前の原初の状態で名付けたものが多い。
菖蒲田とあれば菖蒲が繁っている湿地帯であり日本に湿地帯が多いからその名がつく。
葦田となれば葦が一面に繁っていたとかなる。蟹田や蛇田はそこに蟹が多く蛇も多かったからなづけた。
だから地名を考察する時はそこが原初の状態がどのうよであったかを想像するとわかりやすいのである。
吉原が葦(よし)の繁っている所だったいうとき何か華やかな花街を想像するのとばまるで違ったものとなる。
そして原初の状態からあまりにも変わってしまった時、都会化した場所は東京などになると
原初の自然状態は想像すらできなくなってしまったのである。
だから最近地震などで地盤が悪いところは沼だったとか湿地帯だったとか指摘されて液状化するから危険だとされた。
そういう原初の状態を知るということをが意外と大事だった。
津波でもなぜ海岸に接して人か住んだのかと指摘された。

原初の状態からみると茨は邪魔者でありカラタチも刺があるから同じである。
そういうことを日本全国で最初に住み着く人が難儀したから地名となった。
だから一つの地名には日本全国で普遍性がある。
湿地帯が多いのもそうであり茨が多いのもそうである。
薔薇は原野の茨であり花としてより刺のある邪魔物として認識されていたのである。
人間が住み着く時、自然は美しいというより障害物として認識された。
人間が開墾して住み着く時、道具もないとき、機械もないとき、障害物になる。
一本の木を取り除くとき大変な労力が必要になる。それは北海道開拓でも経験している。
人力だったら根っこを取り除くのもブルドザーでするのとは違っているから大変になる。

だから八木沢峠の麓の大原から坂を上ったバラ坂は茨から来た地名であることはほぼまちがいないだろう。
ただ最初バラ坂というのは普通の薔薇をイメージしていた何なのかわからなかった。
それはどこでも原初の状態から離れて生活しているからそうなった。
あの辺は秘境だと書いたがそこは頻繁に車が通るから繁華な所と勘違いしていたと同じである。
あそこに羚羊が出てきたのには驚いた。もともと羚羊が住み着くような場所だったのである。

地名というのはそれだけその土地に根ざして名付けられているのである。
ただ都会化すると全く原初の状態がイメージできなくなる。

その土地を認識する最初が地形とか地勢とか地名になる。
それが歴史を解く鍵にもなる。日本は山が多いからヤマト(大和)になり湿地帯が多いから葦原瑞穂の国になった。
そして地名もまたそうした原初の状態から名付けられるのが多いのである。

だから地名は郷土史の基本となりやすい、そして地名学はあらゆるものの基本にもなりやすい。
なぜならそれは深く日本の国土とつ結びついて名付けられたものだからである。
そこに日本の原始があり歴史の興亡さえ読み解くことができるからだ。
一つの地名から歴史を掘り起こすことができる。


南相馬市の大原はまさにやはり大きな原であった。平凡な地名でも明らかに地名そのものであった。
そこから坂を上ってバラ坂とか大葦から八木沢峠に行くがその途中に遠田とあるのも
大原を中心として遠くに田を作ったということが地名から納得する。
前田という地名もまさにそこが開拓の拠点になった家があり地点だったのである。

ともかくどうしてあんな不便な地に人は分け入り住むようになったのか?
そのことが今になるとわかりにくい、でも一反の田でも作れば米がとれるし炭焼きでも生計が成り立ったのか、
そういう場所は別にあそこだけではなく日本には多いのである。
どんな奥地にも田があり狭い地域を利用して住んだのが日本だったのである。
五反田とか地名が多いし一反田もありそこでも米がとれれば最低限生活できたとなる。
小さな畑でも結構いろいろなものがとれることを知ってそんなことでも一家が暮らすくらいの食料はまかなえるものかとも思った。
羚羊などは行動範囲が広いと思ったが一キロ四方が縄張りで生活圏だということは
そんな狭い場所に養える食料があるというのも不思議である。
春になれば蕗の薹とか野草とかいろいろ食べれるものが増えるが冬は厳しいと思うからだ。
あの辺はもう人が住まず田んぼだった所に蕗の薹やキクザキイチゲが咲いていた。
それも不思議な光景だったのである。

 
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2014年04月02日

今日の予定 (母のショートスティ、仙台から松島へ、津波の被害を見る)

 

今日の予定

(母のショートスティ、仙台から松島へ、津波の被害を見る)


母のショートスティ 2日間泊まる

自分は仙台から松島に行き一泊の予定
途中野蒜などの被害地を見る
それから石巻から女川の被害地をみる
泊まりは一日だけ


ショートスティがとれたので一泊して野蒜などの被害地を見てくる
どういうわけかあの辺を旅行した写真入の記事が常時アクセスあることが謎である
あの辺は結構家が密集しているから被害が大きかったのだろう

まだどうしても津波の被害か関心になる。この辺では旅行を観光を楽しむということにはなっていない、

だから実際に女川辺りの街全体が被害にあったところはまた違っている。
この津波の被害も実際に見てみないと実感できない、テレビだけではわからないことがある。

すぐ近くの津波の被害にあった人の家に行った。その話を聞くと水害の被害とは津波の被害は違う。
床下から水があがって床上になり家を壊す他ないと言われたという。
海岸から3,4キロ離れていたした被害がないと思っていたがそうではなかった。
その人はそこに住めなくなり避難した。
そししてボランティアなどがきて泥さらいや瓦礫の処理をしてくれて助かったという。
ボランティアは一生懸命やっていたという。
近くの親戚などは見ているだけで手伝ってくれなかったとか言っていた。

津波の被害は実際にあった人でないとわからない
近くでもたいしたことがないと見ていたのである。
まず自分は二週間は自分のことで追われていて津波の被害者のことを見ていない
みんな放射能騒ぎもあり自分のことで精一杯だったと思う。
だからその時、知り合いの人に助けられたことにその人は恩義を感じていた。

いづれにしろ津波原発事故の後遺症は長くつづく、何があったのか近くでもわからないことが多いのである。
今になって冷静に語る人がでてきているのだ。


昨日も今日も忙しい、まだ常に何かちに追われている状態がつづいている。

posted by 老鶯 at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

仙台から松島行きは天候不順で中止 (南相馬市鹿島区厚寿苑はホテルのようー福島県内の介護士などが世話)


仙台から松島行きは天候不順で中止

(南相馬市鹿島区厚寿苑はホテルのようー福島県内の介護士などが世話)

福島県厚生農業協同組合連合会鹿島厚生病院併設介護老人保健施設厚寿苑のサービス概要

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個室にはトイレがついているから便利

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今日は天候不順になってきたので仙台方面へ行くのを中止した。
母の二日のショートスティであずけた厚寿苑は新しいのでホテルのうよだった。
個室に入りそこにはトイレもついているから楽だ。
介護では家でもトイレが部屋の中にあると便利なのだ。
介護で難儀するのは意外とトイレなのである。
大便はボータブルトイレだと嫌がる
すぐに流せないのも問題である。


ここは老人保健施設となっているからまた特養とかとも違っている。
もちろん病院とも違っている。
病院機能と老人ホーム機能が一緒になっている。
病気の治療よりは介護中心なのでかえって老人にはいい
顔をふいてくれたり風呂に入れてくれたりいろいろ介護中心なのである
病院だと待遇も病人をみるようになりそっけない
ここでは老人に対応するようにできている
病院より居心地がいいようだ
梅干しが好きなのでもってきたいというといいですよと言われた

病院では拒否されたしもの言いが命令調なのである
病院にはやさしさがないのだ

歳が歳だけに個室になったのだろう。
個室は料金も高くなる
本当は行きたくないと言っていたが
今回無理して連れて行ったのである。
99となるとディサービスなんか無理である。
ただあういう所は前も見たが
みんな死人のようにうなだれていているから嫌である
最後の行き着く場所があういう所になると嫌である


ここはただ老人保健施設であり老人ホームとも違う
だからここでリハビリなどして機能回復させて
自宅に帰すこともを目的にしている
だからリハビリ室は大きくて立派である

施設はすでにかなりの人が働いていた。
福島県内の介護士などであり会津の人とか塙の人とか
福島県内の人の応援を頼んでやっている

やはり今回の原発事故などでは福島県内ということで協力しあうようになった
二本松であり会津であれイワキであれそこに原発事故地域の人たちが避難して
仮設などに住んでその場所で生活するようになったからだ
それは福島県として協力しあうということになった
ただそこでも地元の人と避難者は軋轢を生んでいる
南相馬市内で小高の人達が避難者となり補償金問題とかで軋轢を生んだ
ただ福島県内から南相馬市に来て協力してくれているということで
福島県内はやはり一つの自治体なのだと自覚した。
会津でも関係ないようでもやはり原発があって予算が回っていたからである

普通福島県として何か一体感をもつということを具体的に感じない
今回は軋轢があっても感じたということは確かである。

まあ、あそこでは病院じゃないからボランティアなどはやりやすいかもしれない
そういう人も入っていて欲しいということもある
でもなかなか人間関係がどこでもむずかしいからすんなりとはいかないだろう。
事故が起きた場合は保健に入っているから安心にはなる
そういう体制はできているので働くのにも安心なのである

ただボランティアは何か老人の相手をするものがあるだろう。
ただあんまりあういう所では働きたくないということがあるかもしれない
子供が相手の方がいいとかなるだろう
でも顔をふいてくれたり爪を切ってくれり家族のようなことをして
くれる
だから病院とここは違っていて人間的な温かみを感じた


あそこがホテルのようだとするとき、近くで出入りも自由だとなると
一時的にあづかってとめてもらうのにはいい施設である
とにかく高齢者になると近くが大事になる
買い物だって車がなければ近くでないとだめなのである
近くに助ける人がいると楽になる。
だから知り合いの人は娘が相馬市から一週間に一回来るが
それでは何かあった場合まにあわないという
その人は毎日のように電話をかけているからである


つまり原町市でも相馬市でも遠くなるのが介護の問題なのである。
近くだったらすぐに歩いてでも来れるからいいのである
車でいちいち来るだけでもめんどうになるのだ。
だから今になると近くが大事だなとつくづく思った
その近くに協力する人がいると楽なのである。
遠くの親戚など何も役に立たない
もちろん近くの親戚でも役にたたないこともある
何かそうした新しい協力関係を作ることが高齢者に必要になっているのだ。

ともかくなかなか遠くには行けなくなったのが自分である
この次はなんとか遠くに行ってみたい

 
posted by 老鶯 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

人は人を理解できない (相手の身になることができないから)


人は人を理解できない
(相手の身になることができないから)



人は人を理解できない
男は女を理解できない
女は男を理解できない
大人は子供理解できない
子供は大人を理解できない
若い者は老人を理解できない
老人は若い者を理解できない
性格が違うと人は理解できない
理系は文系を理解できない
文系は理系を理解できない
職業が違うと理解できない
無数の職業があり理解できない
医者は看護師の気持が理解できない
看護師は医者の気持を理解できない
親は子の気持を理解できない
子は親の気持を理解できない
与えられているばかりの人は
与える人の気持が理解できない
人に与えてみてその気持が理解できる
野菜を苦労して作る農家の人を消費者は理解できない
立場が違うと理解できない
住む場所が違うと理解できない
千円二千円を大きな金としている
貧乏人を金持ちは理解できない
一万円くらいを借り貸ししている
貧乏人を金持ちは理解できない
毎日その日暮らしの人を理解できない
なぜそんな小さな物に金にこだわるのか?
その人にとってみればその日の金に事欠いているから
一方で十万もはした金になっている人もいる
一万を貸し借りしてもめている貧乏人のことは理解できない
貸している人は借りている人の気持を理解できない
借りている人は貸している人のことを理解できない
人を雇い働かせている事業主は
働いている人のことが理解できない
働いている人は経営者のことが理解できない
外国人になるとさらに理解できない
言葉が理解できない
習慣が理解できない
宗教が理解できない
理解できない、理解できない、
互いにその人の立場になることができない
互いに理解できないことが分裂を産む



なぜ離婚がこんなに多いかのか?それはそもそも男女が根本的に理解しにくいことが根底にある。男性でも女性でも互いにかみ合わないものを根本的にもっているから理解できずに離婚が多くなる。人の性格もまちまちでありそれは男女関係なく大きな障害となっている。人間関係ほどむずかしいものはない、理解できないものの方が無数にあり理解し合うものは少ない、社会がこれだけ複雑化するとさらに理解できない、隣が何をしているのかもわからない、だからまず理解できないものとしてこの世はありいかにして理解するようにするか?それが問題なのである。

人は人を理解できないのは立場が違うと考え方違ってくるからだ。金を貸す者と借りる者は立場が違っていて理解しあわない。貸す方にすればなぜ貸したのに返さないのかと思うのは当然であるが借りた方にすると何かもらったような気分になっているのだ。
だから一旦借りたものは自分のように思っているのだ。だかさ返せと言われると理不尽にさえ思っているのである。だから人は金を貸すことはしたくない、借りた方がそういう気持になっているのが人間の心理だからである。貸した方が馬鹿みたいな感じになるのだ。だから金は貸すな貸すならくれろとなる。


貧乏人の気持も今はわからない、なぜその人千円とか二千円にこだわっているのか?
わずかのモノにこだわっているのか、昔ならもったいないというのは自然でありわかる。
でもその人は貧乏暮らしが長いからそうなっている。
毎日の暮らしに事欠いているからそうなっているのは自然なのである。
普通に今の標準で暮らしていればそういうことはない
それでもそうした貧乏な人はこの豊かな社会にもいる
なんでそんなにせこいのだ、考え方もせこいと嫌悪感を感じるがその人にとっては違う
その人は日銭が欲しいというのもそのためである。
それほど困っているのだが雇う人はそのことを見ていない
そうして働いたのに金をもらえなかったのに憤っているのもわかる
ただ外から見るとなんかせこいというかいつまでもそんなことにこだわっているのかとみるが
その人にとっては日々の生活費がなくなるから深刻なのである。


人間はこうして無数に理解できないものを互いにもっている。
その理解できないものがあるということをまず理解する。
知らないいうことが無数にあることを理解することから理解がはじまる
何でも知っている自分は正しいと思っていると理解できない
相手の言うことが何でそんなに責めるのだともなる
そこには性格の相違も大きく作用してくる。

こんなにしつこいのが女性にもいるのかとなる
女性は従順なのがかわいいとかなる
でもその女性にしたらそれでは生活ができないとなりしつこくなる
一片のパンにさえこだわっているのである。
今の時代にずいぶんせこいなと思うが本人にすればそうは思わない
日々の生活費に事欠いているから小さい金にうるさくなっているだけなのである


人間はまず自分だけを理解されたいと思っている
不遇の人でも貧乏の人でも自分のことを延々と語る
でも理解されたい相手もまた自分のことを理解されたいと思っているのだ。
病気の時、苦しい時、なぜその苦しさを理解するのではない
自分たちの苦しいことを借金を要求してくるのか
または自分が苦しんでいる時、相手はその苦しみをともにしようとはしない
ただその人から利益を楽を得ようとしている

それはいいとして苦しんでいる期間は相手を思う余裕さらないのだ

相手を理解するには本当に余裕がないとできない
余裕があればじっくりと聞くこともできる
ゆったりと反応することもできる
自分が病人でさらに介護までしているとき他人の困った相談にはのれない
しかし切羽詰まっているからそんなことおかまいなしになる
それがエスカレートすると一種の身勝手な強盗や殺人にもなる
実際そういう目にあってきたのが自分だったのである


2014年04月03日

山笑ふ俳句十句 (人の苦しみや悲しみは言葉だけでは同情にならない)


山笑ふ俳句十句

(人の苦しみや悲しみは言葉だけでは同情にならない)

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『広辞苑』には、「山笑う」の解説に、
 山笑う  [画品、郭煕四時山「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠
    として滴(した)たるが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山
    惨淡として睡(ねむ)るが如し」] 春の芽吹きはじめた華やかな
    山の形容。冬季の山の淋しさに対していう。笑う山。<季・春>。
とあります。ここでは、出典を『画品』として挙げているわけです。


余裕あり耐えてこそあれ山笑ふ
追われざる心にあれや山笑ふ
病癒えなお生きなむや山笑ふ
健やかな日のもどらむや山笑ふ
大らかな姉の笑いや山笑ふ
悠々とありて動かず山笑ふ
我が里に動かず幸い山笑ふ
所得てここに動かず山笑ふ
立ち直る人の心や山笑ふ

百才もなお健やかに山笑ふ



山笑ふという表現がどうして生まれたか不思議である。この由来は中国である。
まず春の山をみて山笑ふとはならない,あとは漢詩の表現は日本でもなじむし理解できる。
山笑ふいうのは春の山を見て思わない、それは何か人間の内面的な表現である。
厳しい冬をこして人間の心も笑うから山も笑うということになる。
人間の内面的表現が山笑ふになったのである。
だから春の山の実景から作られた漢詩ではない、人間の心の表象として春の山を例えにして山笑ふとなった。
あとの表現は心の表象というよりは写生でありそれぞれその通りだからである。

自分の心の状態も今年は山笑ふという心境になった。
これまでは苦しみの連続でありそういう気分とは遠かった。
震災や原発事故などでもこの辺は山笑ふなどと俳句を出すと不謹慎だとなるかもしれないし
そう津波の被害で家族を失った人達からみればなる。
ただ人間の苦しみは別に津波という災害だけではない、常に個々の人生で家族でも起きてくる。
それはさけられず起きるものでありカルト宗教団体が言うような罰とかとは何の関係もない、
現実にカルト宗教団体の人でも家族でもそういう苦しいことは常に起きている。
みんな知っているように悲惨な死に方をしている人などカルト宗教団体の方が多いのである。


とにかくカルト宗教団体では人が不孝になるとあいつは罰が当たったとか喜ぶ傾向がある。
でもカルト宗教団体の方が調べればわかるが不孝な死に方をしている人も多いのである。
いづれにしろ人間は苦しみとか不孝をまねがれることたができないようになっている。
どんな宗教団体に入ろうがそうである。病気にならない人がいないと同じである。
もし病気にもならない、不孝にもならないとなれば全員入っているからである。

震災や原発事故では全国から同情されたことがあった。

自分は全く誰からも同情されなかった。むしろ病気の時も金のことで脅迫されたし
病気をいいことに火事場泥棒にもあっ大金を失った。
そういう人間の無慈悲を味わったのが自分だった。
震災では家を失い家族も失ったが全国からは同情されたから自分から見ればそのことは良かったと思う。
これも一方的な見方で勝手だともなるが結局人間は相手のことを理解できない
相手の身になれないことを書いたが震災でも津波の被害でも近くで被害があっても苦しんでいた人のことを知らなかった。
最近あんな近くに津波の被害の人がいて苦しんでいたことを知ったのである。

津波の被害にあった人はその人しかしりえないのである。
「家をなくして悲しいですね、最愛の家族をなくして悲しいですね、同情します」とか言われても何も反応しないかもしれない
「俺たちの悲しみをどうしてわかるのだ、苦しみをどうしてわかるのだ、それならお前の財産の半分をくれ、
家をもっているなら家をくれ・・・そうしたら多少同情していることを認めるよ・・・」
とかなるだろう。だから人間は言葉で同情してもそのまま認められないのである。

言葉などいくらでも言うことができるからである。
「お前のこと同情しているんだよ」と口ではいくらでも言うことができるからである。

結局その人の苦しみや悲しみはその人がになっていて肩代わりできない、津波震災でも同じである。
個々に苦しみや悲しみは違っている場合があるからだ。
だから人の苦しみとか悲しみはなかなか慰められないところがあるのだ。
金を与えても家を与えてもそれはとりもどせる。
しかし家族を失ったらもうその命はとりもどせないからである。
そこが一番深刻なのである。

ともかく山笑うは写生にはならない、心境的なものが反映されているからだ。
ここでも移動させられ人が多いから動かないということが幸いとなり山笑ふとなってしまった。
また自分の姉は太った人で笑い方も豪快だった。人の笑いもまた性格などで違っている。
あまりにも苦しんだ人は何か心から笑いなくなっているのかもしれない
捨てられた猫もそうだった。何か未だに人になれない、人に不信感をもっている。
犬が吠えるように攻撃的になり人を警戒しているのである。
人間はあまりにも虐げられたり苦労するとそうなってしまうのである。
去年まではこんな心境の俳句を作ることができなかった。
今年はできたからかなり心に余裕をもてるようになったのである。

 

所を得ることが高齢者の価値観になる (高齢者の価値観は変わる)


所を得ることが高齢者の価値観になる

(高齢者の価値観は変わる)



彼はここに来てから所を得たように元気になった
Since he came here he has come to life, like a man who has 「found his niche [come into his element].

家具はどれもこれも所を得ていなかった
None of the furniture was suitable for the room.




ところを得るというときその人にあった場所なのである。
だからそれが一見不自由に思えてもその人にとってところを得れば幸福だとなる
幸福だってその人によって違ってくる
別に食べ物に贅沢しなくてもそれなりでも田舎の静かな所に住みたいという人もいる


found his niche [come into his element


つまりこれからはniche(ニッチ)なものが好まれる。人に好き好きがありその人のもっている性格も感覚も違っている。
だから最近良くニッチなものが売れるというのはそのことである。
みんなが同じようなももの好んだり買ったりすることは物が豊富だとなくなる
ニッチなものを探すことになる。

自分の住んでいる所は一万の町だけど別にここが悪いともならない
病気になったときは困るけどその他は別になくてもいい
老人になると何かあまりいろいろなものがない方がいいということもある

人間の価値観はともかく常に変わっているのだ
物が売れないというとき、価値観が変わってしまったからである。

ラオスではテレビが欲しくて自分の年若い娘を売春させるために都会に出していた
これほどテレビが価値があった時代がある
テレビがでたとき、この辺でもそうだったのだ。
テレビの前に山のように人が群がったのである。
その時のテレビの価値はそれほど高かった
今はテレビなんか見ないよ,新聞も見ない、インターネットでまにあうよとかなる
テレビの価値はそれだけ低くなったのである。

現代は老人が金をもっているというとき老人が何が欲しいかというとこれも物ではない
例えば介護時代になったとき、老人が欲しているのはいい介護環境であり
特に人がやさしくしてくれるもの人の心使いがうれしいとなる
物を与えても老人は何もいらないとなっているからだ。
老人になると食欲もなくなり食べたくなるからである。
すると何がほしいかとなるとやさしく接してくれる人がいいとなる
自分の母親は老人保健施設の個室にショートスティしたらここはいいからもっといたと言っていた。
ここの人はやさしいと言っていた。
病院と老人保健施設でも老人ホームでも対応するのは看護師ではない
介護士でありその人たちは病気をみているのではない
老人の介護をしているのであり世話をするからそうなる
病院とは態度が全然違っていたのである。

個室であるということは物理的な物質的なものがあった
でもやはり老人に接することがなれていてやさしいから全く違っていたのである。

要するにそうしたものは物ではない、目に見えないものでありそういう物にならない、
目に見えないようなものが価値が出でてくる。
高齢化社会の価値観はかなり違ってくるのだ。

どんなに金があっても住んでみてもそこが自分にとって所を得なければ幸福感にはつながらない、
それはおそらく何億とか金を払って老人ホームに入ってもそうである
そして老人になるとそんなにいろんなものがいらなくなる
かえって物が邪魔になってくるのだ
欲望はあるにしてもそれも若いときとは違う。

別に一万の町でも物がなくても満足できる人はできるのである
だからこれからの高齢化の価値観は所を得るということである。
そこがどこかはその人によって違っているのだ。

その所を得る場所はその土地もあり人も大きな要素になり便利なものがあることも要素になるのが
それでも物がなくてもここにはいい人達がいるからと満足する人もいるだろう
何でもあれもこれもと若いときのように欲しないのである。

「50万の地方都市」が老後を過ごすのには適地だというのもわかる。
それにしてもそんな都市は東北にはない、仙台だけである。
それもまた所を得るとはならないこともある。
なぜなら一万とか4万くらいの市でも住んでいる人は大きすぎるともなるからだ
それより不便でもいいから自分の価値観で満足するところに住みたいという人もいる
不便に耐えることにも面白さを感じる人もいるかもしれない
貧乏暮らしもいいとかそんな人もいる

今は高度成長の時代のように一つの価値観に生きる必要はないのである
だからみんな何がなんでも強制的に働かねばならないという時代でもない
これはこの辺では問題にしても全体的にはそうである

会社というのは必要でないものを大量に作って売ろうとしていることもある
過剰な宣伝で買わせるということも豊かな時代には普通にある
資本主義の問題はそこにあった。

その実際は必要でないものを作るために過剰に労働力が浪費されていることもあるのだ
異論があるにしろこんなにいろんなものを人間が食べる時代はない
そんなに何でも食べていいのかという疑問がある
でも何でも食べてください食べて下さいと強制さえされている感じになる

牛肉でもそんなに食べる必要があるのだろうかと思う
でも牛肉が売れないと困る農家は日本でも外国でもあるから言えないのである

ただこの辺は飯館牛などは有名だった。
それも放射能汚染で飼うことができなくなった。
それはマイナスでもまたプラスに転じるものがあるかもしれない

つまり価値観を変えるのである
牛の村ではない、何か別な村とする
花は放射能汚染と関係ないから花の村とかするのもいい
大内村ではそういうことを計画していた
他でも何か価値観を変えることがプラスなものに転化できる
津波の被害でも今は無理にしても将来的にはプラスになるものが生まれている

高齢化社会になると欲しいものが極めて少なくなるし
一番大事なことは所を得る場の確保なのである
だからなれ親しんだ故郷に住めなくなった人達は相当な痛手である
若い人はまた別な土地で住むことができるから別なのである。

いづれにしろ何でも食べることがいいというのではなく
何か無駄な消費をおさえる、何かないことで欲しいということで騒ぐのではなく
そのくらいなくても別にそれほど苦しいこともないとか
あまりにも欲しいものを追求しない社会もいいものかもしれないのだ。
ここでは物はないが金もとれないが人はいいし不足はあってもがまんできる
そんなふうになればそれはそれで所を得る生活になるのである。

posted by 老鶯 at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2014年04月04日

人間の最大の危険は奢りにあった (優秀な人でも奢りで失敗するー人間は結末まで見ないとわからない)


人間の最大の危険は奢りにあった

(優秀な人でも奢りで失敗するー人間は結末まで見ないとわからない)

●技術者として優秀だった人が事業主になり経営に失敗


その人については誰もとれない建築関係の免許をとっていた。
だからそういう免許をとっているから教えてもらいたいということで訪ねる人もあった。
その人は頭が本当に良かった。まずそうしたむずかしい第一級の免許をとることは普通できない
だから建築の設計でもその人にみてもらっていた人がいた。
そううい技術的な面で一番上に立つ人だったのである。
だからこそ独立して事業をはじめた。

そういう技術をもっているから独立しても事業をはじめ成功すると思っていたのである。
でも実際は事業に失敗したいた。
借金していことが最近わかったからである。
でもまだそのことは回りでは知らないし家族でも知らなかったのである。
そうした最高のむずかしい免許を取得していても独立して事業をはじめて一人でも
事業をはじめて経営するとなるとその経営能力は別物なのである。
それは別に理系だから文系だからできないものでもない
経営能力とは戦国時代なら信長とか秀吉とか家康のような能力が必要になる
それは鉄砲を作る技術者とも違うのである。


おそらく東電では優秀な人達の集まりでも経営に失敗したのである。
原子力という高度な技術を操作する集団でも経営能力が欠如していた
経営能力はトータルな能力であり相当にむずかしいものになる
技術的には優れていてそこに奢りがあって失敗した。
それは個々人でも俺は優秀なんだというとき奢りが生まれ失敗に通じる。
東電がいかに奢っていたか、何度もプルサーマルで危険を前の知事が
警告しても聞く耳をもたなかったし津波の研究がすすんで
貞観津波のことで警告しても聞くこともなかった
それだけ独善的になりうる権力があったからである。
権力をもつと人でも集団でも独善的になり暴走する
東電はあらゆる権力を操作する力をもっていた。
政治家から官僚(検察)からマスメディアから権力を有して操作できた。
それだけの金を産む産業だったのである。

●高い地位の人が事業して失敗


奢りが失敗に通じるという時、自分の母方の実家がその例だったのである。
自分の祖父にあたる人はあってもいないし全く人となりも知らない
でも警察署長だったのである。
そして絹織物の工場をはじめた。
その工場が倒産して一家離散の悲惨な状態になった。
それで自分の母親そこら苦労の連続となってしまった。
子供の時は裕福な暮らしをしていたのだが苦労の連続しかなくなった
その当時はみんながそういう苦労を背負わされたから特別ではなかったにしても
やはりそうした苦労を背負わせたのは父親だったのである。
その父親は工場の経営など何も知らなかったのだろう

ただ警察所長として偉い立場にありいつも威張っていたから
工場経営もできると思っていたのである。
だから母は父は威張り屋だったと言っている
威張るだけの人だったのである。
警察所長になっていもそれが特別能力があるからなっていたわけではなかった
ただそういう地位にあった結果、自分は特別な能力があると思ったに違いない
そういう地位についていて奢りが生まれた。
だから会社を経営しても成功すると思ったのだろう。
ただその経緯はよくわからないから詳しくは言えない
会社経営で失敗している人などありふれていることなのだ
経営に成功するのは20人に一人だということでもわかる
だからそううい事例はこの世にいくらでもあるのだ
そのために実家はなく墓だけが残っている

人間が優秀なこと頭がいいことが成功に通じていないことである。
普通はそんなことがないと思うだろう。
頭がいいことに越したことはない、みんなそのことで一番悩んでいるのである。
体力だってあった方がいいし頭も良くなりたいとみんな思っている
そうして優秀な人の頭がいいという人の一番の問題は奢ることなのである。
謙虚さが失われることである。それが落とし穴になる
技術的に優秀でも経営は別なものでありその能力は技術の能力とは違っている
でも一つのことに優秀なら他のこともできると奢りが生まれていた。
その奢りが失敗に通じていたのである。

●優秀な人が認知症になり痴呆になった驚愕


自分の姉も特別に頭もよく体力もあり人間的にも優秀だった
学校も一番であり太っていても体が機敏なのである。
だから看護婦になりシンガポールで4年間も戦争で辛酸をなめた
その苦労は並大抵なものではないし普通の人には耐えられない苦難だった
だから死ぬ直前までその戦争のことを語りつづけていたのである。
ちょうど青春時代をそこで過ごしたからそれが忘れられなかったのである。
その後保健婦とか役場になり公務員になった
そして自分はいつも優秀だと言って自慢していた
手術して生死の境にあったときも「俺は優秀だ」と言ったのをなんとか自分は聞き取った
そんなに優秀なことにこだわるというのも自分のようなあらゆることに不出来な人間には理解できなかったのである
これだけ心身ともに優秀な人も最後は認知症になり馬鹿に痴呆になってしまったということが未だに信じられないのである

人間の結末は本当に意外でありわからない
そんなに優秀な人はが本当の馬鹿にな痴呆になり死んでゆくことがあるのだろうかと思った
現実はしかし否定できないのである。
家族ではあるが客観的に見ればそうなる

一方で姉が優秀であり他者を馬鹿にしていることがあった。
それは身内でもありまた近くの親しい人でもあった。
近くの人は何か馬鹿のように見えた女性である。
でもその女性は実際は情に厚い親切な人であった
それで馬鹿になった姉のことを嫌わずにみてくれていたのである。
それもなんとも不思議な光景だった

あれだけ優秀な人が本当に馬鹿になり馬鹿のように見えた人に世話になっている
それも実に不思議な人間模様だった
人間は最後の結末を見ない限り人間のことはわからない
どんなに優秀な人でも最後に認知症になったら悲惨である。
これまでの優秀さはなきものになってしまう恐怖だった

一方で母は体も細く頭も悪いとされていたから自分と同じである
しかし不思議なことに認知症でも軽く金のことなどまるでわからないことは共通しているが
その他のことはわかっている
反応がまだあり病院にいること、老人保健病院でもそこがいいと言う時、正常な反応をしている
これも99になっているのだからまだそうして正常な反応していること自体凄いことだと思うようになった。

母には何か優秀なものはなかった。控えめなおとなしい女性だったからである
だから奢りをもつようなものは何もない、そもそも何かに奢るということがありえないのである
それは近所の情の厚い女性もそうだったのである。

でも今になるとこの愚かなものと見えて優秀なものがない女性の方が
人生の結末から見たら優秀だったとも見える
そうは言っても優秀な人がいないなら高度な文明など築きようがない
優秀な人は何をできて成すことができる
そういう人達がいなければ社会はそもそも成り立たないのである

ただ人間の落とし穴は奢ることにありそこから墓穴をほる
それが失敗につながり終わっているのだ
原発事故も人間の奢りから起きたことはまちがいないのである
人間はあることについては優秀でも他のことについては優秀だとはならない
一つのことが優秀でもすべてのことに通じることはできないのである
技術が優秀でも経営はまた別なものでありその能力をかねそなえることはむずかしい
いづれにしろ人間の危険は奢りにありそして人間のことはその結末までみないとわからないということであった

歴史でも奢れるもの久しからずでありそれは人間個々人にもあてはまるのである。

2014年04月05日

みちのくに桜が咲く


みちのくに桜が咲く

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羚羊の歩む足元蕗の薹

新築の家のあまたや燕来る

みちのくの桜咲きそめ北風の唸り吹きつつ寒さかえれど

美しき日本に生まる命かな今いくたびの桜見るかも


花は今日咲いた,しかし北風が吹いて寒かった。
寒もどるとまではならない
それでも炬燵に入り外にでるとさらに寒かった
今年は冬は寒かった

ここ一週間ほどは春らしかった

さくら前線もようやくみちのくに到達した
でもなんか今年はそうした徐々に北上して咲く桜の感覚がない
やはり家事や介護に追われるからそうなる

さくら前線についての短歌を連作したけど
このさくら前線の桜を見るには相当暇でないとできない
稚内までさくら前線はつづいていた
それは六月まで咲いていたのである。

結局旅は金より時間がないとできないものだった
現実に今は金があっても時間がないから
近くにさえ自由に行けないのである
だから金がなくて何もできないのではなく
たいがい旅でも何でも時間がなくて何もできなくなるのだ
時間ほど貴重なものはなかったのである

才能などなくても努力する時間がもし人の倍あったら
人よりぬきんでることができる
語学だって才能がなくても上達することはありうるのだ
ただ何するのでも時間が限られているからできないのである


ともかくこの辺の変化は激しい
新築の家は次々に建っている
八木沢の麓の家はもう人が住まなくなり
羚羊が住むようになった
元の自然に還った所がこの辺ではかなりある
浪江とか警戒区域には入れないがそこも元の自然に還り
野生の動物が増えている


桜というとき、東北でも福島県が最初に咲く
次に宮城県であり岩手県と遅くなる
東北でも咲く時期が違ってくる
距離に比例して咲く時間が遅くなるのが桜である
だから桜はとても一部の桜しかみれないのである。
そして桜はどこにでも咲いているから
名所でなくてもいくらでもみれるのである

美しき日本に生まる命かな今いくたびの桜見るかも

日本は桜であり富士山である。これなくして日本はない
ただその桜でも富士山でもいつかはみれなくなる
その日がついにくることを知らねばならない
美しいものでもいつまでもみれるものではない
人間はだから美しいものを見るように心がけなければならない
汚いものばかり見ていたらこの世はただ汚いものばかりになる
花でも山でも美しいものを注意して見る必要があるのだ

でも実際は頭の中は金と欲望に追われて見ないのである
そういうふうに仕事でも追われているうちに人生の時間は消失してしまう
だから長い時間生きたから人生をよりよく生きたとは言えない
自分の母は何にも花にも何にも興味ない
ただ長生きすることが目的のように生きて百才になる
それは強制された奴隷のような人生だったともなる

 

2014年04月06日

南相馬市の・・湯は外部の人の利用者が多い (・・・関係のものも入ってきていて治安が心配なのもわかるが・・)


南相馬市の・・湯は外部の人の利用者が多い

(・・・関係のものも入ってきていて治安が心配なのもわかるが・・)

どこの湯とは言わないが最近温水器が壊れ入れなくなり外の湯を利用している
今日も入ったがちょっとした失敗で中に入っていた人にどつかれた。
こっちに非があったのだからやむえないがそういう関係の人も工事で入ってきている。
入れ墨した人も実際この前は入ってきたのである。
お断りの張り紙があっても入ってきている。

地元の人も入っていたが何か入りづらくなったかもしれない
その人は一見みてそういう人だとわかる。
顔つき自体が何か映画にでてくる悪役なのである。
そういう関係の人でも顔だけ見てもわからない人がいる
今回ははっきりとわかる顔つきだったのである
だから現実にどなられた時は殺気も感じた。

あういう人は建築現場には必ずいるしあっち関係の人も入ってきている。
13時間働かされて労働基準局なんだとか言っていた。
そういう人を見て嫌だとしても地元の人は働かずそういう人でも働くのだから
嫌な思いしても風呂にでもゆっくり入って休むをとがめることはできないだろう。
あういう人達の居場所も必要なのである。

殺人犯がまぎれこんでいてもわからないということがあった。
それはそれなたりに社会にとって役立っている
だからとやかく言うものではないともいえる。
あの人達は別に遊んでいるわけではないからである

ただ治安の悪化とか風紀が乱れるとか平和な田舎の感じか乱されるということは多少しるかもしれない、
普通地元でもかかわらなければわからないのである。
たまたま自分の失敗からそういう人なのか知ったのである。
自分としてはいい感じはしなかった
別にその人に非があるわけでもなんでもなかった

ともかく人は簡単に判断できない

それでも原発事故周辺とかはいろいろなことが前と違って起きている
まず荒地化してネズミが増えたことなのだ
カヤネズミという小さなネズミが増えた
それをとって食べるノスリも増えた
建築ラッシュは以前としてつづいている
治安が悪化するというとき、外部のものは悪化させやすい
それで南相馬市 レイプとかキーワードで探している
これは本当はどうかわからないし調べようがないだろう
ただ建築関係の外部の労務者には必ずそういう人がいるのは否定できない
だからといってそういう人達が犯罪を犯すとは限らない


考えてみるとすでに


死亡の作業員、偽装請負か 福島第一の4次下請け所属(8月25日 朝日新聞デジタル)
作業員の死亡や事故が続く福島第一原発の実情
http://newslogjp.tumblr.com/post/30527550273


東京電力福島第一原発で二十八日、掘削作業をしていた福島県広野町、下請け会社の安藤堅(かたし)さん(55)が土砂の下敷きになり、病院に運ばれたが間もなく死亡した。事故収束作業中の死亡事故は初めて。放射能汚染のため近隣には消防署も病院もないのに、東電が双葉消防本部に救急車を要請したのは事故発生から約五十分後だった。
http://blogos.com/article/83343/


実際は原発工事関係で8人はすでに死んでいる。そさも犠牲者なのである。
その犠牲者になった人がどういう人かはわからない。
そういう人にかかわり知ることはむずかしいからである。
何か事情がある人なのかどうかもわからない、そういう人はそういう場所で働かされる傾向がある
借金している人などもそういうことがあるかもしれない
そこが金になるというとそれぞれに仕事がうまくいかない人達なども入ってくる。
もともと原発はこの辺でも金になるからと働きに出ていた人かかなりいたのである。
危険だけど金になるから働き場所として行っていたのがこの辺なのである。


今日はただ正直、原町の桜を見に行ったこともあり興ざめした。
自分としてはあまりそういう人達とかかわりたくない、君子危うきに近寄らずである
ただ女性なのにそういう人に抗議しつづけているから驚く
その人はそういう人を怖がらないとか刑務所に入っていた人とつきあっていたとか
なんか普通のかよわい女性とは違う。
女性でも鉄火場で入れ墨見せてチョウだハンだなどと映画に出てくるが
そいなものが架空のことだと思っていたが今もそういう女性も現実にいる


普通に暮らしている人は底辺でギリギリで生活している人のことか実際に触れないのでわからないのである。
一時ホームレスのようになっていたことが若い時あった。
それで日払いで金がもらえないことがあった
その時は苦しくてもせっかく働いたのに金がもらえなかったので自分も憤った
賃金未払いは底辺層にはかなりあるのだ
もちろんブラック企業もこれとにているのである


いづれにしろあういう人達が湯でも入ってくると地元の人は入りにくいかもしれない
ただ今回は別に自分の失敗からそうなったのであり普通はそんなことはない
別にかかわることはないからである。自分としては一回そういうことを経験すると嫌だとなる。
入れ墨お断りというのはやはり地元の人にとってはそうしてもらいたいとなるのが普通だろう。
ただこの辺はそういう人でも仕事しているのだから風呂くらいは入って
ゆっくりして疲れをとって下さいとなるからきやかくは言えないだろう。
他にも湯はあるからそっちを探して入るほかないだろう。

こうした混乱状態は後何年つづくのだろうか?
やはり田舎の平穏な生活にもどりたいということはある
でも今度は外部から人か入らないと今度は衰退した市となってゆく
それを言う人は建築関係でいる
それもまた困ったものなのである。



刺青=その筋の人で、その筋の人が良く出入りしていると評判が立てば
銭湯に来るお客さんが減ってしまうからでしょう


これも問題になっているがこの原発事故周辺は事情が違っている
地元の人達が働かないでパチンコで遊んでいるだけだとか
東京まで行ってギャンブルざんまいとか・・・に行ったとか堂々と言っていた
その人こそヤクザじゃないかとも思った。


つまりその人は13時間働かされて労働基準局どうのこうのと言っているとき,
やはりブラックな人がブラックな所で働かせられているともなる
でもその人たちが働いているのだから復興のために努力しているとなる
地元の人達は補償金で遊んでいるとなるからこれまたどっちが責められるのかわからない
結局、外部の利用者が多いのだからそれは拒否できない
そこではゆっくり休んで疲れを癒して下さいともなる


地元の人は別に家にも風呂はありまた他にあるからそこで満足しろとなる
そこは外部の人の専用のような湯になってしまうかもしれないが
それもこの辺の特殊な事情でしょうがないとなる
ただ何か嫌な雰囲気だなとなるから自然とさせるようにはなるかもしれない・・・


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2014年04月07日

人間は実際に現実に直面しない限り実感しない (廃炉作業や外部から働く人達と地元の人の問題)

 

人間は実際に現実に直面しない限り実感しない

(廃炉作業や外部から働く人達と地元の人の問題)

前に書いたことあった。仮設の食堂でボランティアが地元の人がなぜ働かないんだと
喧嘩になったとそのことが現場にいないからよくわからなかった
前よりは外部の工事関係者は減っている、でも実際はその仕事にかかわらないとわからない、
そこで外部から来て働いている人はどう思っているのかわからない

湯であった人は別に入れ墨もしていないけどちょっとした失敗でその人が大きな声でどやすのでわかった。
親分肌の人だったみたいだ。
ただその人のことはほとんどわからない、年は結構とっている、50はすぎているだろう。
歳の人も結構きている。あの人は現場で肉体労働だろう。
13時間働いているいうことは底辺の労働者であり断れないのだろう

この辺は何かあっち系統の人たちが目立つということがあるかもしれない
地元でもそういう人がいたけどその人にはそういうものは感じなかった
あの人とは一瞬目があって殺気を感じた
そこにいた時間はこくわずかだったがその人が13時間働いているということは何だったのか、
それ以上のことは全くわからない。
話しもほとんど聞いていないからだ


ただ南相馬市でも現場ではそうして誰であれ過酷に働いている人たちがいる。
それが自分でもそうだが補償金で働かない人はわからない
ただボランティアの人達と地元の人達が喧嘩になったのはそういう背景があったのだろう
それはずっと自分も書いてきたけどそれも自分の身にふりからないから自分も同じであった。
お前も廃炉作業で働けよと言われたらできない

でも実際に廃炉作業で死んでいる人は9人とかすでにいる
そのことはかなり重い事実なのである。
もっと死んでいるかもしれない
その死に対して地元の人達も無関心だろう
現実に毎日パチンコとかで遊んでいることも確かにある
別に補償金でそんな危険な作業をしてくてもいいからだ

ただ考えてみると今回の原発事故の原因は地元の人達にもあった。
だから責任の一端はある
もちろん故郷に住めないとか責任をとらされたから被害者だという意識が強い
でも加害者だったという面も原発周辺にはあった

だから聞いた話では建築関係の仕事をしている人は
車に仙台のナンバーをつけているという
南相馬市に住んでそんなことできるのかと思ったができるらしい
というのは税金は福島県に払うからである

つまり外部の人はあんなに補償金をもらっている人達に反感を抱いているからそうなる
だから南相馬市で原町に住んでいるということがわかり
福島市で車を傷つけられたというのは本当のことかもしれない
福島市は放射線量が南相馬市などより高いのにもらえないからうらやましがっている
相馬市も同じであり補償金で贅沢して働かない人達を非難していた

この辺は何かそうした内部の人たちと外部の人たちとの軋轢がある
イワキではそれでいだずらされたり被害もでていた

南相馬市内部でも複雑に補償金が配布されていて対立しあう。
鹿島区でももらっている人はもらっているという
18カ月分もらっている人はいるらしい
寺内では一軒はもらっているとかまた塩崎とか烏崎でももらっている人と
もらっていない人がいるとか本当のことは誰も言わないのでわからない

原町でも全部がもらっているわけではなく六号線沿いなどはそんなにもらっていないらしい
石神辺りでも隣がもらっているのにもらえないともめたりしている
都路では人家が多い方がもらって人家が少ない方がもらっていない
これは放射線量と何の関係もない
東電では人が多く住んでいるとその人たちに抗議されると困るから補償金をはらった


補償金で福島県内でももめているし南相馬市とかの内部でも分断されてもめている。
外部から働きくる人たちはまた内部の人に不満があるのかもしれない
俺たちは誰のために働いているんだとかあるかもしれない
もちろんそういう底辺層で働く人たちはただ金になればどこでも働く他ないという事情がある
そういう事情をなぜかかえたかはわからない

ただ自分でも8人が廃炉作業で死んだとプログに書いたとしても何か深刻さが全然ないのである。
ちょうと自分とは無関係のニュースの事件やドラマを見ているのと同じである
何か当事者という感覚がないなのである。
補償金で暮らしている人も仮設は窮屈でも廃炉作業して死んでいる人かそれだけいるということを深刻に思わないだろう。

もちろん自分は津波で家族を失っていないからそういう人たちのことも深刻に考えない
ただ近くで知り合った人があの辺は被害もないと思っていたが意外と深刻な被害があったんだと知った

近くでも災害でも当事者にならないと実感しないのが人間である
八沢浦が美しく蘇ったとというとき、ここて子供まで死んで泥から探し出したのに
何なのだというと言われたときもそうだった
その当事者にすれば生きるか死ぬかの経験だったのである。

人の出会いでもインターネットだけではわからないだろう
湯であった人から何か殺気のようなものを感じた
人間は何かの気を発している、それか文字だけだとわからないのだ
人間の出会いはちょっとしたことだけでも火花を散らすことがある
だから道ですれちがって当たっただけで因縁つけられて殺人事件まで起きる
だからちょっとした人の出会いでも危険が人間にはつきまとっているのだ


なぜ当事者としての感覚をもてないかというとやはり現場にいないということがある
もし一緒に働いていて死んだ現場に立ちあいば衝撃を受ける
でもその現場にいなければそういう衝撃はないのである。
だから気楽にニュースでも娯楽のように見ているのだ
津波のあれだけ悲惨なニュースでもそうなる場合がある

自分も近くでもそうだった
家族が死んだ人がいるのに感じなかったのである
自分が感じたのは津波とか原発のことより自分自身の一身上のことだった
だから人間はそうした現場で苦労していないと危険を感じないと実感しない

ただあういう人と一緒にいるのは正直嫌である
建築現場は別に原発の廃炉作業でなくても過酷である
歳とったらそんな肉体労働はしたくないだろう
だから怖いと見えたその人も死にたいという言っているのは嫌になっているのだろう
その人のことは実際は二三言話したの聞いただけであり全くわからない


いづれにしろ原発事故周辺でも廃炉作業とかしているのはほとんど外部の人たちである
内部の人たちはそれなりに責任あったのに働かないことに対して
外部の人たちはどう思うのか
そういうことは何かかかわらないからわからないのだ

ただ正直今の時期は桜が咲くから桜を見ていたいとなる
そんな過酷な現場では強制されない限り働きたくないとなる

でもこの辺では復興というとき、やはり地元の人たちが働かないで外部まかせではまずい
「なんか、外部の人たちが入ってきて治安が悪くなって困るな」
「なにを、お前たちかそんなことが言えるのか遊んでいるくせに」
「俺は毎日13時間働かせられいるんだよ、その苦労がわかるか」
そんなふうに大声でどつかれたら多少はこの辺どういう状態にあるのか実感するだろう
わずかの時間でありほとんど話を聞かなかったけど自分のちょっとしたミスから感じた

貧乏でギリギリの生活をしている女性もそうだがまた過酷な労働を強いられている人も現実にいる。

外部から来た人たちのなかには強制されたように奴隷のうよに働かせられている人たちもいるかもしれない、その事情はわからない。
建築工事関係の人たちが除染もそうなのか何か雰囲気が荒っぽくなってしまうだろう
ただかかわらなければ別に感じないのである

除染というと相馬市の今田でもしているという、相馬市でもしているのかと意外だった。
山の方だから放射線量が高くしているのだろう。
この辺はこうしてまだまだいろいろな問題の地域でありいつまでつづくのかと思う
だから避難区域の人たちは何かいろいろ問題がありすぎて帰りたくないという気持もわかるのでてある。
でも実際小高の人たちも原町でも鹿島でも留まるということはまたむずかしいのである


ともかく今は桜の時期だから桜を楽しみたいというのが偽らぬ自分なのである

 
 
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南相馬市に増えたものホテルと簡易宿泊所 (鹿島区内にレオパレスとプレハブ簡易宿泊所が建った)


南相馬市に増えたものホテルと簡易宿泊所

(鹿島区内にレオパレスとプレハブ簡易宿泊所が建った)

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南相馬市で増えたのは宿泊所である。
小池にも最新式の設備があるホテルができた。
レオバレスはこれから建つ、でも工事関係者か来なくなったら
利用する人もいなくなるように思う。


それでも建てているのはやはり除染とか原発関係の仕事が長くつづくからだろう、
廃炉に三十年とかなればその先は普通の建築の仕事とは違う。
ここからも原発に通っている人はいる
浪江ではその工事関係者の宿泊する場として街を残そうとしている
それだけの需要が先が長くみこめるのだろう
確かに津浪関係の仕事などは終わるが原発は終わらない
いつ終わることのない作業がつづけられる
それは何か徒労にさえ思われる
延々と非生産的な作業をつづけねばならない
それは一つの罰ゲームのようにも思える


フレハブは建築会社で一時的に建てたものだから取り壊される。
それにしても南海老から北右田辺りに新しく建っていた
プレハブの簡易宿泊所の駐車場には
全国の車のナンバーがあったのに驚く。北海道から京都まである。
全国から労務者を集めているのだろう
あそこはもとは電子部品を作っていた工場跡地だったみたいだ
その工場もやめてその敷地を貸した

これだけ外部の人かまだ来ているのだから原町の湯は外部の人の専用の湯にもなる
そこにどういう人が入ろうと疲れをいやす場も必要だから断るわけにはいかない
「入れ墨お断り」と書いてあるのはそういう人達か入ってきている場なのである


人集めにはぼ関係の人が集めているのもあるだろう
そういうことはうるさいといっても人手かたりないとなるとそうはいかない
そういうふうにして集められて廃炉作業で死んだ人たちがいるだろう
そういう人は身寄りがないとかかもしれない
身寄りがないということは厳しいことになる
死んでも訴える人がいないから闇にほうむることができる
病院だと実験台にされかとは解剖用として使われる
身寄りがないということは無宿者扱いにされる
それは現代でも同じだったから恐怖なのだ

原町でも相馬でもレオパレスはあった。
でも鹿島にできると何か都会化したのかとも思う
田んぼの中にできるから奇妙な感じになる
あれはアパートとも違った感じになるからだ

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海老村に残った二本の松の根 (津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)


海老村に残った二本の松の根

(津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)

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家消えて津浪の跡に土筆かな

津浪跡根のみそ残り松二本海老村消ゆも土筆生えにき
凄まじき津浪を語る松二本根のみ残りて春北風(はるきた)唸る

場所替えて海老村の人のこの町になお根づきつつ生きるものかな

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山の激流を感じる庭である
この庭は見物である
ここからは海も一望できる


壊滅した海老村は三年過ぎても何も変わらない、その時のままである。
ただ春になり土筆が生えていた。
なんか今回の津浪や原発事故周辺の不思議はかえって
自然の方が復興していることなのだ。
津浪の跡にも土筆が生えタンポポも咲いていた。
土筆が生えたということは自然は復興しても人間の方は復興したとはならない

原発事故で人が住まなくなった飯館村行く山の道には羚羊がでてきた
人間世界の不思議はもし人が住まなくなったらどうなるのか?
それは元の自然が回復してゆく不思議である。

人の世界は消えても自然は元あった自然に回復する
それは東京のような大都会でも未曾有の災害が起こり巨大な街が消失しても
その跡にはやはり自然が回復してゆく
野が森が海が回復してゆくことは美しい自然がまたもどってくるということなのだ
この辺は別に美しい自然はあった。ただそこにさらに元の自然にもどってゆく


いづれにしろ海老村の跡は津浪の起きた時と同じであり何も変わっていない
だからよそからきた人はこれを見れば津浪のすさまじさを一目見てわかる。
この二本の松の根は残された。
海老村は墓地を残して消えた。でもその住民はこの土地にまだ住んでいる
三陸の方では住まない人も多くなっている。
こうしていつまでも荒れ果てた状態になっているのか?

復興とは何なのかこの辺では三年過ぎても同じである

変わったのは富士旅館である。
その庭か芸術品なのである。
激流か流れてその上に石の橋がかかっている
石がごつごつした山の磐の道が作られている
ここは旅館なのだろうか
まだ人は泊まったり使ったりしてはいない
ただ前に家がなくなり海が一望できるしこの石の庭は圧巻である
春北風(はるきた)がまだ唸っていた

 
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2014年04月08日

八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか (津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)


八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか

(津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)

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高台にある鹿島区川子の八龍神社


八龍社
大同元年(806)上栃窪村 八龍明神 天津彦火々出神 近代冠嶺神社
永長元年(1096) 江井村(館内) 八龍社 大綿津見神 江井氏の守護神
永亭(1437) 馬場村 八龍大権現 大綿津見神
文安2年(1446) 萱浜村 八龍大権現
天文十三年(1545) 小島田村 八龍大権現
元亀元年(1570) 萩迫村 八龍大権現 綿津見神
天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現
烏崎村 八龍社?

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川子の森山の八龍社ができて何十年後に烏崎村の八龍社ができたのか?
順序としてはそうなる可能性が強い
ただ百年後とかではないからその時間差が何を意味しているのか
30年後とかに作るのか
神社がなぜ作られたのか不明なのが多いのである。



津神社

大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

慶長年中 烏崎村 (牛島) 津大明神
享保年間 北原村(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


烏崎村の八龍神社は津浪が来た水位ですれすれで残った。
これは何かと不思議に思うのは当然である。
慶長津浪の後に作られたから津浪を知っていて祭ったからあの高さに作った。
急な石段を上るからそういうふうに見える。
しかし神社の謂われは意外と古く、東北でも古い。
古代にもさかのほり大同村とかあるように蝦夷の大和王権の征服と関係して建てられた神社が多い。
鹿島神社もそうである。
これは国津神系統である。征服神である。

その他の無数の神社は何を祭っているのか、何に由来しているのかわかりにくい。
しかし調べてみると古い時代のものであることがわかる。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に起きた津浪の前にできたものが多いのである。
八龍社にしてもそうである。烏崎村には慶長津浪の起こる前に南北朝時代に霊山から逃れた桑折氏などが住み、
その系統の遠藤氏がすでに住んでいた。
だからいつ建てられたのかというと慶長津浪より前だと推測する。

その重要な手がかりが川子村の高台の森山にあった。
そこの八竜社は目立たないので新しいと思ったが古かったのである。神社は新しいようで古いのである。


天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現


これは慶長津浪の前にできたものである。
その後、20年後に慶長津浪が来ているからこの時間差が何を意味しているのか?
一つの予測としては川子の八竜社ができて次に順序としては烏崎村に作ったと推測される。
ただこの逆もありうるが順序としてはそうなる。

八竜社に共通しているのは綿津見神である。
海の神であるから海と関係していたとしてもあとはまた違ったものとなっている。
自分の予測ては慶長津浪の前に建てられたのであり偶然に津浪のすれすれで残った。
もし本当に慶長津浪を知っていて建てたならもっと津浪を怖がるから高く建てるということも考えられる、
すれすれでは危険だからである。
慶長津浪の高さがその時烏崎でどのくらいの高さまで来たかはわからない。
だからなんともいえないことはある。

一方津神社を見ると


大宝二年(702) 棚塩村(浪江町) 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)


貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神


この津神社は何なのか?これも貞観津浪とかは関係ないだろう。
津神社というのは岐阜県にもあるからこれも津浪とは関係ない
津とついているからと津浪とは関係ない


確かなのは烏崎村の牛島の津神社は明らかに津波を記念した神社だった。
なぜなら慶長年間に祭られたとすると時代的にあっているからだ。
海岸沿いにあるのはおかしいとなるがそこが鯨を祭っていたというのは
津波で鯨が打ち上げられたからかもしれない、そういう例は他にもある。
それで鯨を祭るようになったのかもしれない。
だから海岸に接してあってもとかしくないのである。


享保年間 北原村(原町区)(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


この神社は慶長津波から百年後に建てられている。
これは高い所にあり今回の津波でもあの高さまでは来ない高い所である。
それはなぜなのか?なぜ百年後にあそこに建てたのか
慶長津波と関係していたのだろうか?
もし慶長津波を知って建てていたらあの高さに建てれば津波は来ない
だからこそ建てたとなる。
でも百年後になるとする津波の記憶もうすれているはずである。
なぜそのころ建てたのかという疑問になる。
伝承として伝えられたからあらためて建てたのだろうか?

相馬市の津神社(つのみや)は津波が来たとき逃げれば助かるという言い伝えがあったという。
あの高さでも危険ではあったがまねがれる位置にあった。
だから津波と関係して建てられたのだろうとなる

結局相馬郡では慶長津波でもその伝承は二三残っていたとしても希薄だった。
だから津神社にしても津波の伝承は明確に残されていない
神社が津波から残ったのはただ偶然だったともなる。
平地で津波か来た地点にあった浪分神社などは明らかに津波の来た地点を示していた。
その他はどこまで証明できるのかかてたむずかしい作業である。

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ソフトの加工で変化する抽象画 (フォトショップで変化させた-蝶の抽象画)


ソフトの加工で変化する抽象画

(フォトショップで変化させた-蝶の抽象画)


神秘の森の蝶のまぐわい

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コーラルエッセンシャルズ4がビスタのパソコンが壊れ使えなくなった。
WINDOWS8にそもそも対応していない
エッセンシャル4で面白かったのは画像を絵画風に変化させることだった
あの機能はエッセンシャル4にしかない
印象画風にするなどは他にはない
ソフトを選び使うことがむずかしい
その窓口がない、仙台のヨドバシカメラの人はソフトに詳しい人がいた
ソフト専門の売り場である。
どういう系統のソフトかを知っていた

フォトショプが画像の加工にはいいとしって体験版もあると聞いて試した
確かにこれは意外と使いやすくなっていると感じた
ただ印象画風とかイラスト風とかの変化はないよたいだ

ソフトが変わると別な変化ができる
つまりソフトによってみんな違った加工になるのだ
それがパソコンの面白さである。
一回使っただけだからわからない、絵画風に変えるのにはものたりないようだ

元の絵を変化させて三つ作った、何か違ったなるのがパソコンソフトの面白さである。
無限の変化をバリエーションを楽しむことがてきるのだ

これもなかなか暇がないとできない
自分は介護から家事全般からしていると忙しい
今日も事務手続きを二つしてきたりと何かと忙しいのである
なんかこうした趣味的なものでも時間をかけないとできない
才能ではなく開発能力なのである
それがパソコンのソフトなどでは特に必要である。
自分が全く絵が描けないのに絵を楽しむことができる
バソコンは能力開発させるものがあるのだ。


ただすべて買い物でもパソコンだけでできるかと言ったらできない
店が不用になるかといえば店に店の役割がある
なかなか体面的にどんな分野でもガイドしてくれるものがないとわからないのだ
そういうガイドするプロがこれからは必要になる

例えば観光だってそうである。
ガイドされないとはじめての土地でもわからないのである
外国では特にそうだった、何になのか全くわからずじまいのが多かった
それが今になると行けないからもったいなかったのである

2014年04月09日

新地の鹿狼山(かろうさん)の花木山で海を見て話す (相馬市のK院長は双葉出身だって・・・)


新地の鹿狼山(かろうさん)の花木山で海を見て話す


(相馬市のK院長は双葉出身だって・・・)

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鹿狼山の花木山でそこの庭を管理する人と話しした。
その人も新地の海沿いで一メートルの津波の被害にあっていた。
でも家は流されず住んでいる。

面白かったのはあそこは広く太平洋が見える。牡鹿半島も金華山も見える。
あいにく今日は晴れて天気がいいのだが見えなかった。

「ここは海が近いから海の景色がいい」
「あの船があの辺にくると何時になり船がすれ違う時、2時半なんですよ」
「ええ、そうですか、確かに船はゆっくり進んでいるからまるで時計の針みたいだな」
「あそこの火力発電所の所ですれちがうんですよ」
「なるほど、自分も太平洋フェリーには良くのりましたよ、あそこですれちがって
汽笛をどっちも合図のために鳴らすんですよ、ずいぶん接近してすれちがですよ」
「私は乗ったことがありませんから・・・」

自分は太平洋フェリーには北海道の苫小牧に行くのに10回は乗っている、
たいがい梅雨の時期が嫌なので船に乗って北海道を旅していた。だから北海道には一番行っている。
名古屋にも何回かわからないが3回くらい行っているかもかもしれない、
一回は自転車で行って奈良まで行ったから遠かった。だから太平洋フェリーはなじみなのである。
船旅はのんびりしているからいい、疲れないのもいい、ゆっくり眠れるからいいのである。高齢者でも船の旅は楽である。


その人の話で興味深かったのは病院の話である。

「あそこに渡辺病院が建ったんですよ、あそこはみんなが欲しがる一等地だったんですよ」
「あれがそうですか、自分も南相馬市立病院に一カ月入院していました、あそこの病院もながめがいいですよ、
海が見えて船が通るのが見えるんですよ、あそこは一番高い建物だから見えるんですよ、
大原の方も見えましたから、大原の人と一緒だったんで話しして暇つぶししていたんですよ、
建物が立派だ気持いいのは確かですよ、でも看護師や医者が集まるのか、それが問題ですよ」
「相馬市立病院ではもう限界でしたよ」
「あそこは迷路で建物継ぎ足し継ぎ足ししていましたから、あそこは入院しても眺めが良くなかった、気晴らしになりませんでした」
「あそこは眺めはいいですよ、新地の一等地ですから」
「この辺では病院が大事ですよ、双葉や浪江から来ていましたから、・・・科はないから南市立病院に来るほかなかったんですよ」
「相馬市立の院長は双葉出身ですよ、双葉高校ですよ」
「えっ本当ですか、それは知りませんでした、双葉高校は一回甲子園にも出ました
あそこになぜ高校があるのか、6000人くらいしかいないから、そんなところから優秀なお医者さんが生まれたのは驚きです、
何かと双葉の人達は評判が良くないですから
すると原発事故の双葉と関係していた、実家は双葉にあったんですか」
「福島医大で腕はいいですよ」
「確かに相馬市立病院で・・科は三人もいましたから、南相馬市病院では一人若い人にまかされていました、
その人は原発事故騒ぎでやめたようです K先生には実際にみてもらったしお世話になりましたけど・・・」


この辺ではまず東大に入ったなどという人は何年に一人もいない地域である。東北大に4,5人入ればいいとかなっていた。
そもそも地元から医者になれる人は相当に優秀な人である。歯医者はほかにいるが他の医者は少ない、
たいがいよそから来た医者である。
だからよそから来た人だと思っていた。それも双葉の人と聞いて驚いたのである。
まず医者の価値は高い腕がいいければまたさらに高くなる。地元から腕のいい医者が出れば
そして勤めればかなり助かるし地元に貢献することになる。

それで地元で奨学金のようなものを出すからその条件として地元に勤めるようにしてもらいたいと医者の養成に必死なのである。
もちろん看護師もたりないからなんとかしてくれとなっている。
それで南相馬市の最近できた老人健康施設が新しくできたが百人収容できるが
働く人は会津だとか福島県内からの応援ではじめた。十人の介護士を募集しても人が集まらないのである。
だから渡辺病院で集まるのかという疑問がある。
建物は立派でもそこで働く人材を確保できるのかどうかが問題になる。


「双葉というと自分の父親は酒屋に丁稚奉公していた、葛尾村(かつろう)村の出身で双葉の新山の酒屋で働いた。
その隣が原発事故以後有名になった大きな酒屋で話題になった
今でも街の中で大きな煉瓦の煙突があるから街の中心みたいになっているんですよ」
「そうですか、K院長は双葉出身ですよ」
「それは知らなかった、てっきりよそから来た人だと思っていた」
「ああ、そろそろ船がすれちがうころです」
「本当にすれちがっています」
「今日はちょっと遅れたな」
「あの船を見て時間がわかるのは本当に面白い」
「今日は牡鹿半島も金華山も見えない、晴れても見えない」
「まあ、なかなか見える日は少ないです」

「高速道路がこの前にできていたんだ」
「今年木の11月には全線開通です」
「それは復興にとっては大きい、すぐ前にあるからここにもよりやすい
東京当たりからもここは眺めがいいから来るんじゃないですか」
「まあ、三年目ですけどなんとかやっています」


あそこの花木山で一番面白いのは確かにあの船を見て時間がわかることだった。
何も見えないが船の進み具合で時間がわかる。毎日見ているからそのことに気づいた。
本当にまるで船は時計の針のうよになっていたのである。
高速道路もじき前にできていた。いつのまにできたのかと思う。
急ピッチで工事をしていたのだろう。
この常磐高速道路がつながると鉄道代わりになるしそれ以上のものになるから復興には大きい

いづれにしろk院長が双葉出身だったということで何かこれも原発事故と関係していたのかと思う。
もちろん新地にも双葉の人が土地を買って家を建てたということも言っていた。
縁故が相馬藩内に多い、結婚しているのも相馬藩内が多い。ただ今はとんでもない遠い所に嫁に行っているから変わっている。
それでも縁故をたどってゆくと田舎ではまるで織りなされた糸のように人が関係しあっているのだ。

新地も自分の父親の前の妻は新地出身だった。現在でも新地の人を知っている。それは悪い面で知ってしまった。
田舎はだからあいつは誰々の子供でその親はどうだったとかたどる。するとなかなか悪いことが本当はできにくくなっている。
信用は一代だけではなく二代三代とつづいて築かれているからだ。

農家などはその土地に根付いているから余計にそうなのである。
農家では三代つづかないと農家として認められないというのはそのためである。
一代だげではその土地のものとして認められないのである。
だから本当は田舎では悪いことはできないのである。その話しが一代だけで終わらない、
恨みで次の代でも受け継がれたりするからそうなる。

ともかくK院長が双葉出身だということはかなり重要なことかもしれない。
それは今回の原発事故の当事者にもなっている。よそごとではないものとなっている。
ただ双葉出身者でもそういう腕のいい医者が輩出したということは誇りだろう。
田舎の高校はレベルが低いからである。だから医者になれるような人はなかなか出ないのである。
歯医者は多いから別である。

いづれにしろ双葉となると全国で知れ渡ってしまった。町長も有名になり参議院選に出たが落選した。
双葉は何かと悪い印象をもった人が全国で多かったろう。
まず双葉高校となるとそんなところからも医者になれる人が出れるのかという疑問をもつだろう。
でも一回はこの辺では出たことがない甲子園に出場した高校だからこれも不思議である。
医者でも看護師でも地元で確保できるのにはこしたことがないし力強いものとなる。
相馬看護学校を作ったのはそのためである。

そういう地元に貢献してくれる人材養成がこの津波や原発事故で特にみんな感じたのである。
若い人が流出して老人ばかりとりのこされるような恐怖を感じたからである。
ここで育ててもみんなよそに行ってしまっては何になるのだとなる。
それは地元でそれだけ困っているからそうなったのである。
職業でも仕事でも土着的であるべきだというとき、医者でもそうなのである。

東京のようなところだったら郷土意識地元意識もない、ただ機能的に腕がよければいいとなる。
土着的というとき医者という職業でも地元全体にかかわるものとして仕事する必要がある。
要するに原発で働く東電の人たちにはそういう意識はまるでなかった。
ただ東京に電気を送るために土地を借りているという意識しかなかった
だから事故になっても無責任だし作る前も無責任だった。
どうけ東京には被害が及ばないとか安心していた。
だから原発は東京に作るのが一番良かったし理にあっていたのである。
それは東京でも地元であり巨大にしても運命共同体になる。

福島なんか離れているからどうなってもいいとかの意識では責任もって原発を稼働はできない
故郷とは運命共同体のことかもしれない、戦国時代だったらそうである。
勝つにしろ負けるにしろ運命共同にするほかないからである。
日本も戦争で負けたにしろ間違った戦争にしろ運命共同体だからやむをえないとなる。
それで外国人を労働者にいれても運命共同体としての責任がないから便宜的なものだから
あとあとやっかいなことになるというのも現実にヨーロッパでは起きているのである。


原発を作るにしろ作らないにしろそれは地元では運命共同体という意識をもつ必要があったのかもしれない、
戦国時代なら生死をともにしたから運命共同体だったけど今は故郷といっても都会化しているから
そういう意識も薄れていた。だから危険な原発のことを真剣に考えることも地元でもなかったのである。
そして運命共同体としての基礎となる故郷すらなくなったのである。
そしたら何がその町の絆となるのか?そんなことまで問われることになった不思議がある。
原発を作ることはどういうことなのかこの辺では問われたし他でもそういうことが問われているのである。



この双葉高校の同窓会長でもあった田中清太郎元町長が、町への原発誘致を推進した

双葉高校はイワキに継ぐ進学校だった。創立も古い。だからやはりそれなりのこの辺では高校だったとなる
http://getnews.jp/archives/239731

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2014年04月10日

八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)


八沢浦と磯部の地形と神社

(津波との関係は・・・)




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蒲庭に行くところ

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この熊野神社江戸時代に祭られたのか


磯部村

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寄木神社


 窪地が選ばれた理由には、都市域の拡大とともに、寺院が時の権力者によって強制的に郊外へと移転させられたことが関係している。寺院の移転先は、当時はまだ、利用されていなかった土地が多かったのだ。利用されていなかった場所とは、谷戸や窪地、湿地などのことである
http://matogrosso.jp/suribachi/suribachi-12.html

仙台藩では大規模干拓が行われ、60万石から220万石まで増産した。その過程であらたな干拓地への移住が行われ、元の集落の本社から新集落への分社もあったはず。

まず移住、条件のよい場所へ分社の設置が行われ、その後干拓の進展によって海岸線が後退、集落は前進していく。そして現在、当初の集落の位置と等高線を反映した場所に神社が残っており、相対的に標高が高く、海から距離があったことで、結果的に津波を免れやすかったのではないか。
http://shinonome-do.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-7a92.html


権力者によって作られ街はかえって整然としている。権力者が真っ直ぐな道路を作る時必ずそこに住んでいれば障害が生まれる。
でもまっすぐな道路を作ることは便利になる。
だからローマ帝国ではまっすぐな道を作った。
日本でも大阪には緑地が少ないという、江戸にはそれなりに緑地があるのは
幕府の権力が強く緑地を残したということもインターネットで読んだ。
寺は武士に所属する官僚のような役目をになっていた。下部権力構造として幕府を支えていた。
でも権力者の都合で不便な土地に移転させられた。

不便な所に住むのは草分けとかではない、あとから入ってきた人や草分けから分かれて土地を求めた人は当然悪い土地、
不便な土地に住み着くことになる。
いい場所はすでに開墾されて人が古くから住んでいる土地だからである。

縄文時代は人は自然にさからなわないで逆らえず住んでいた。
まず稲作のために海を埋め立てたりできない、そんな技術力がないから自然条件に適合して生きる他なかった。
だから湿地帯とか海の平坦な地には住まない、だから津波が来るような場所には住まない
高台に人が最初に住んだという時、平地はヨーロッパでも湿地帯であり
害虫やその他のバイ菌などが発生するので高台に住んだのは同じである。


八沢浦では明治になって開拓された。江戸時代までは入江であり浦であり海が奥まで入り込んでいた。
それは今回の津波で一時その江戸時代の風景が再現されて驚いた。
それで妙見神社が海近くに祭られていて流されたのである。
神社の関係では熊野神社がこの丘の反対側の小高い丘にあり祭られていた。
八沢浦は明治時代以降住み始めた人が多い。
でもここは江戸時代から住んでいたかもしれない、熊野神社は古いからである。
ただ前は入江の海になっていた。でも小高い丘だからそこには住めた。

今回の津波でこの丘が防波堤になりその反対側の家は流されたりしなかった。
浸水しても家は残り今も住んでいる。

津波が来た時も津波がきた瞬間でも裏山に逃げれば助かった。
実際逃げて助かった人もいる。逃げ場家の後ろだから逃げやすい。
神社まで逃げなくてもちょっと上れば助かった。ここでは人は死んでいないだろう。
津波は地形によってその影響がかなり違っていたのだ。
新地相馬の火力発電所が海岸にあって被害が少なかったのはちょっとした地形の差にあった。
原町火力発電所はもろに津波をかぶってしまったのである。


蒲庭から古磯部の入江に牛頭天王神社が高台にありこれ津波からまねがれた。
古磯部となると磯部より古いから古がついた。
もともとはここが磯部の地名の発祥地である。
松川浦の方には後から人が住んだとなる。
ここも開拓された浦沿いに人が住んでいて津波で流された。
ただここは丘があり丘にもともと人が住んでいたところである。
だから磯辺小学校のある丘に住んでいる人には被害はなかった。

稲荷神社と寄木神社もこの丘の所にあり津波の被害からまねがれた。

神社は一般的に高い所にある。それは八沢浦にしても前が海であり低地には建てられない、
牛頭神社もそうである。あそこも入江だったからである。
磯部は砂州のような低地でありそんな危険な所に神社は建てられない。
だからこれらの神社は津波が来るすれすれではない、余裕ある高さに位置していた。

ただインターネットではしきりに学者でも津波の被害を経験していたから
その津波の被害の経験から津波の来ない高さに神社を祭ったというのは違っている。
もともと神社は津波を警戒して建てられた形跡あるものはわずかである。
津波は今回でも400年に一回くらいしか来ないとすると川の洪水のうよには警戒しない
もともと古ければ古いほど高い所に建てられる傾向かあるのが神社である。
高いところはそもそも理屈なしで神様がいるにはいい場所だからである。


津波は地形の影響が大きいという時、日本ではそうした警戒感がなく津波に流されるように街を作っていた。
磯部でも砂州のようになっている所に家を密集して作ったので壊滅した。陸前高田市でも三陸でも津波をもろに受ける場所に作っていた。
それは百年前とかにも大被害があってもそうしていたのである。
そこは仕事するのに便利だから同じように人が海近くの低地に生活するようになった。

そして今回の津波の被害を大きくしたのは稲作とも関係あるのかもしれない
海老村でも漁業するより稲作をする場所として最初に南海老村があり北海老むらになり
上海老村とか下海老村とかに分かれた。
海老村というと漁業の村のように思えるが実際はその前は稲作をしていた田んぼだった。

それは烏崎村でも一見漁業の村のように見えても袋村が消えたように開拓して田を作り広げていたのである。
漁業だけで村が生まれ発展するということはなかなかない

海はそもそも危険であり船を作る技術なとが進まないと住めない地域である。
それを象徴していたのか鳴瀬町の牛綱村だった。
漁業で使う網のつなを作り浜町に運んでいたからである。
浜市とあっても背後に農家がないと成りたたないのだ
漁業だけで生活するのは初めは無理だった。


そして浜側に家が密集したのはその後ろが広い田んぼになっている。
その田んぼでは米をとるので家を建てにくい、すると海側の狭い地域に家を密集して建てたということもある。
日本では土地がすくない、田んぼにする土地が少ないから苦労してきたのである。
家として確保する土地より田んぼとして土地を確保して家を建てるというのが順序だったかもしれない。
それで海岸の砂州のような危険な場所に家か密集したということもありうる。

 
posted by 老鶯 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ


津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ

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台畑

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寄木神社

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その畑は隠されていた。家の前の一区画の小さな畑である。ここは小高い丘であり崖のようになっていてそこを上らないと見えない、たまたま残雪の蔵王が見えて桜の木があっておりしも咲いたのでその桜を視界に入れた写真をとろうとその崖を木の根につかまって上った。そこに思わず畑があった。そこには梅林があり梅がまたおりしも紛々と匂っていた。確かに家は下から見えたのだがここに畑のあることは梅が咲いていることは見えなかった。


ここに上ってみたらここは複雑な地形であり丘陵でありそこに家があり畑があった。地名は台畑だからあっていた。
そもそもこういう丘に住むということは不便だと思う。上ったり下りたりするのも不便である。ここに人はいつから住み始めたのだろうか。人と土地の関係で大事なのは一体いつからそこに人が住みはじめたかである。江戸時代から住みはじめたらそこは古い場所である。でもここは住みにくい場所である。だから意外と新しい場所なのかもしれない。

その小高い丘の上から下る畑の中に道があった。そこの畑には人がいた。こういうところに家があり人がいることか意外だった。その畑の下りる道に薪を積む家があった。薪の風呂に入っているのだろう。結構薪を積んだ家を街中でもみかける。薪の風呂はあったかさが違うという。だから薪の風呂は今は贅沢である。確かに家が見えても隠されるような場所にあった。なぜか地名に一畑とかある。それは一つの畑である。小さな畑かもしれない。
一反田という地名もありこれも人が住み着いて名付けられた地名である。
日本では土地が狭く耕地が山が多く得難い、だから畑にするにしろ田にするにしろ平坦な地は少ない、だからこそ海側に平坦な地を求めて開墾して広い田を作ったのである。

そこが今回の津波で被害にあった。
狭い土地でも畑にするといろいろなものか収穫できることがわかった。小さな一つの畑でもそれなりに野菜がとれて収穫がある。だから自給自足するくらいのものはとれたといえる。だから小さな一つの畑でも田でも日本では貴重なものとなっていた。

この隠されたような場所の不思議はすぐ下まで津波が推しよせていた。磯部村は人家も多くそこは壊滅した。その人家が密集していたところは原始の状態では砂州のようになっていた所である。なぜそんなところに家が密集していたのか?
その後背地は広い干拓された田であり津波で一時広い湖のようになったことには驚いた。この小高い丘から高い丘の方の家は津波の被害をまねがれた。

磯部では500人が死んだとか被害が大きかった。だからこの小高い丘に住んでいた人は助かったのだからほっとしているだろう。

磯部村はもともと古磯部という地名があるようにそこも入江になっていてそっちに先に人が住んでいた。その入江は狭く干拓しやすかったのかもしれない、その低い場所に住んでいた家は流された。その家の数は少なかった。今回壊滅した磯部の海岸沿いは悲惨すぎた。今や何もない、そこは松川浦とつながっている。
そして寄木神社というのがありこれも津波からまねがれた神社である。石段も残っていてそれからまた上だからかなり余裕があった。この神社の謂われは何なのか?
石巻の方から移住してきたとか碑に記されてあった。姓は君島である。

磯部村は江戸時代からありここの津波をまねがれた隠された土地はむしろ新しく人が住んだ所かもしれない、不便なところだからあとから開墾して住み着いた。その丘の平坦な地に畑を作り家を作った。斜面も畑になっていた。

ここで感じたことは人間の住む場所は特に日本のような狭い土地の少ない場所ではこうした丘のような所でも人はすむ。むしろ壊滅した海岸沿いの村はもともと人が住むには不自然だったのである。こうした小高い丘にこそ人は先に住んだのである。
ただここが住んだのが江戸時代からであり古いのかはわからない。古い碑などがあれは目安となる。墓地もそうだが墓地はもっと高い場所にある。

しかしそれにしても今回の津波だけは恐ろしいことはなかった。津波の被害にあった人が家が上に吹き上げられたのをこの丘から見たという。その人も被害者だった。その光景を見たら信じられないもであり恐怖におののいたろう。
津波から三年目にしても磯部でも何ら変わっていない。荒寥とした風景があるのみである。ただ新しく道路が松川浦の方に向かってできたのは変わっていた。

磯部からも残雪の蔵王が大きく見えていた。前に家がなくなると視界が開け蔵王が見えやすくなったのだろうか、こんなに蔵王を見えたことはなかった。蔵王がかなり迫ってきて見えるのである。ここから蔵王までの距離は相当にある。それでも見えるのだからやはり蔵王はかなた標高が高いことがこれでもわかる。山は美しく見える場所がある。
富士山でもそうである。山は見る場所や視点によって見え方がみんな違っているのである。だから山を知るにはそうしたきれいに見える場所から見ることである。
山形県側から見ると蔵王は美しくに見えないのである。


こうして小高い丘の上にその隠された家があり一つの畑がありそこに紛々と梅がにおい桜が咲いてかなたに残雪の蔵王が見える風景は美しい。原初の状態にもどれば今田んぼになった所も一時海のようになったから入江の浦のかなたに残雪の蔵王が見えた。
この丘の方に新しく家を建てた人もいる。もう海岸沿いには家は建たないだろう。
一つの畑が丘の上に隠されるようにあり家もあり何かここに春の平和を感じた。

やはり寄木神社などはその土地の一つの拠り所であり最初に住んだ人が祭ったのだから
その土地の先祖を祭ったともなる。だから津波で壊滅した磯部の海岸沿いをその神社から見る時何か不思議である。

要するにその神社を要として村が開かれその子孫が代を重ねてすんだ。その碑にあった君島とかはその土地に最初に住み着いた人なのだろ。その神社はその土地の根っこのような存在だったのだろう。今、その神社に立ってみると全く津波の前とは違った感懐を抱くのである。これだけの人家が消えてしまうと磯部村そのものが成り立たなくなるだろう。
三分の二以上消失したら村が成り立たない、未だに磯部の人は仮設に住んでいる。
ここでも復興するとはどういうことなのだうと思う。ここには人が住まないとなると復興は別な土地ではじまるとなる。
ただ村の根っことしての神社は残っているという不思議があるのだ。


隠されて一畑に人梅匂ふ

 
 
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2014年04月12日

桜や梅を見てめぐる相馬の春 桜や梅を見てめぐる相馬の春


桜や梅を見てめぐる相馬の春

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umekakurega_FotoSketcher1.jpg
fotoskecherで変える

同じ写真でも加工するとかなり違ってくる。
これは明るい日ざしを感じる。
色も鮮やかにできるからこのソフトは無料なので得である


115.JPG
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残雪の蔵王を望み朝桜

燕来て喜び飛び交う街の空
隠されて一畑に人梅匂ふ
大石に梅ふんぷんと匂い散る
ゆくりかに進みし船や春の海
家々を桜で飾りひなの村
一村は花に染まりて夕暮れぬ
城下町路地裏細く夕桜
春の灯や復興住宅に住みはじむ
春の星きらめきあいつなごむかな
大石のここに動かず春の星


海よりの朝風吹きて雲雀鳴き野は広々と沖に船見ゆ

津波にもめげず立ちにき神社の樹なお海のぞみ春の日さしぬ
神社にはなお樹の根を張り残るかな磯部の村は大方消えぬ
残雪の蔵王かなたに明けく見えてこそあれ朝桜咲く
ここにしも長くもあれな大石に梅の匂いて散りにけるかな
朝日さし木蓮の白さまぶしかも桜も映えてときめきにけり
桜咲く家の栄やめぐる村跡継ぐ人の守るべしかな
夕日さし枝垂桜の長々となお優艷に色を見せしも
みちのくに桜は咲けど北風の今年はなおも吹きつつやまじ

三年を鹿島に過ごす小高の人桜の下をともに歩みぬ

とことわの磐にこそあれ紛々と梅のにおいて散りにけるかな

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この石はなめからで丸みを帯びていて大きくどっしりとしている。
何か入り口にあっている。
ただ石でもそうだが写真だけでは感じられないものがある
実物をゆっくりとながめないとそこから発している気は感じられない
大きさもわからないから写真で感じるには限界がある

下の石の庭を加工したものは写真よりいい
ということは絵の元も写生であり写真だから絵になりやすいのである
写真はもともと絵なのである。



磯部から新地の方に回った。新地も気持いい場所である。田舎だと家々に桜が咲いているのが結構みかける。
桜の木があるということはそこは古い家である。なぜなら桜の木が育つまでには時間がかかるからだ。
だからそれなりに家がつづいて栄えたということがある。

自分が注目するのはあとは庭の石である。石にはよくみると個性がある。
今回見た石はどっしりとして落ち着いていた。それが農家の入り口にあり
梅の花が匂っていた。そしてその梅の匂いはその石にゆっくりと流れて散ってゆく
十分に匂いに満たされて散ってゆく、そういう時間があって心豊かなものとなる。
石は定着して心を養う象徴なのである。だから忍耐の石となる。
今は春であり石にも春風がそよぎ春の日がさし梅の匂いに十分にひたされている。
梅はすでに散り始めていた。


日本では桜咲く時が一番いい時である。木蓮の花も満開でありこの花も風にゆれ澄んだ空に今咲き誇る。
木蓮と桜が一緒に咲いている庭が新地にあった。
農家には広い庭があるから気持いい。そこにゆったりと落ち着いた石がある。

とにかくこの辺では津波原発事故で変化が激しすぎたのである。
だから石のように動かないことが幸せになった。
故郷に住めなくなった人が多いのだから動かないでいられることが幸せになった。

そしてすでに鹿島でも仮設に住んでいる小高の人も三年になる。三年はそれなりに長いのである。
どんな心境になってしまうのか不思議である。
川の土手の桜の下を散歩しているが鹿島に三年いたということもなじんだということもある。
ただ仮設には生活感はない、ただ一時的な仮の宿にすぎない
でも復興住宅が一部完成して人が入り灯がともると生活感がでてくる。
そこは仮設とは違ってくる。だから仮設というのは早めに去るべき場所なのである。
何か宙ぶらりんになってしまっているからだ。そこいてはいつまでも復興はないのである。


それにしても今年は今日も北風が吹いてうなっている。昨日もそうだった。
この風は普通は相馬の空っ風というように3月に吹く風である。
今年は4月に吹いている。だから小さい畑を作っている人は自転車でゆくから嫌だと言っていた。
農作業は天候に左右される、農作業するにも天候の影響があり雨風になると
仕事したくなくなる。これは建築関係もにている。屋根を作ってしまいは建築関係は仕事ができる。
農作業はできない。それでも草取りなど雨の時でもしていたのを子供の頃みていた。


いづれにしろ今年のは花見は何かこの北風でいつもとは違う。この北風で穏やかな花見になっていないのだ。

早春の流れ (fotoskecherで写真を絵に変化させる)


早春の流れ

(fotoskecherで写真を絵に変化させる)


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新田川上流

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橲原の滝

これは写真の方が良かったみたい


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大古の森の流れ

写真にとったものをfotoskecherで変化させた。不思議なのは写真より光の具合が春らしくなっている。
そうだとすると写真は忠実に自然を写していないのか?
カメラのせいなのか?人の眼で感じるなら明らかにこうして加工して変化させた方が
春らしい光なのである。


とすると写真をなんらか調整しないと自然をそのまま現さないことになる。
自然をそのまま写真にしても見栄えがないことがある。
この三つは絵画化して成功した方だろう。


パソコンのソフトで変化させるという時、別なソフトだとまた違ったものになるから
不思議である。
コーレルエッセンシャル4は使えなくなりfotoskecherを無料なので試してみた。
これは印象画風とかないが他は同じような効果がある。
たからこれでも絵画風にできる。
使い方も簡単だった。

2014年04月13日

八沢浦の津波の被害にあった人に聞く (海岸沿いには30軒くらいあった)


八沢浦の津波の被害にあった人に聞く

(海岸沿いには30軒くらいあった)

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30軒くらいあった
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旭化成の工場

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流されてきた石

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この崖の上に逃げて助かった

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高い場所でも海に近く前にさえぎるものがなく被害を受けた。

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古歌にある長岩も完全に津波でくぐった
割れたようになっているのは前からそうだったのか
津波の衝撃のためなのか?


八沢浦でもここは前に障害となる山もない、距離的には一キロもないかもしれない、だからもろに津波を受けた。
海岸沿いに30軒くらいあったという、10軒くらいしかないと思っていた。
八沢浦は海老村とか烏崎村とかと違って被害が目に見えて見えない
磯部でもそうだけど村ごと壊滅したところは悲惨そのものである。
何も言わなくてもそこに立てば一目瞭然である。
でも八沢浦はそんなに家が密集していなかったように見えたのである。
ただ港とあるから港の機能があった。


江戸時代は浦になっていたから船が行き来していた。荷物を乗せる大きな船も行き来したから港となっていた。
だからそこには家が昔からあったとなる。
ただ八沢浦は明治に開拓ささたのだから明治以降にできた村だと思っていた。
一部は北海老村になっているから30軒流された家は江戸時代から港があったときから住んでいた人がいるかもしれない、
あそこは北海老村であり八沢村ではない、そこが間違いやすい。

旭化成の工場がある地点も高いようだがぎりぎりだったのかもしれない、あそこに建てたのは土地がなからだろう。それで助かった。
工場は土地がないからあういう土地としては価値がないところに立つことがある。
あの丘があるおかげで津波が防げてその背後の家は被害が少なくて家も残ったのである。

一方で前に何もない、海岸沿いとそこから一キロも離れていない写真にとった場所は家も破壊されてない。
この家は結構高い場所に建っていたのである。
でも前に何もなくもろに津波が押し寄せたからひとたまりもなかった。
浪が一方からではなく横の方からもおしよせたという、浪がこの辺で合流したようになり強さを増しておしよせた。

津波は地形によって変化するし強さの度合いも違っているのだ。
そしてあの崖によじのぼって助かったという、あの崖の下まで津波が来たのである
あそこて津波を見てから逃げたのか?それだけの距離があり時間あって助かったのか?
後ろが山であり津波を瞬間的に見てとっさに逃げたのか、でもほとんど時間はないから
津波警報がでてから逃げたのだろうか?

この辺は詳しくわからないがあの崖の上に立って津波が来るのを見ていたらどんな気持になったのか?
それは経験した人しかわからない、あそこでは海に面した崖の上の家族が子供をふくめて何人か死んで墓があった。
白石から移った人だったという。これも不運としかいいようがない。


その女性が言うにはいくら津波の怖さを言っても理解してもらえない、忘れられると言っていた。
津波の被害を近くであったとしても被害にあわない人はその怖さや苦しみを理解できないのである。
現実に自分も八沢浦が津波の被害にあったとき、それが江戸時代の浦のようになったので
入江になったので美しい八沢浦がもどったと報告した。
そしたらここで子供も死んで泥から取り出されたのだとか批判された。
しかし自分はいつもあそこが入江になっていたらどれだけ美しいかといつもイメージしていた。
正直そのことの方に関心があったから実際にそうなったとき浦になみ春の光に浦浪が光りよせたとき美しいと思った。
浦浪というのはこの辺では見ないのである。]荒々しい浪しか見ないからだ。

そして八沢浦は家がまばらにしかないと見えていた。でもあの海岸沿いでも30軒もあったのである。
だからそれなりに瓦礫も流れてきたのである。
海老とかとは違ってもやはり被害がかなりあった。
その海岸沿い港は土台すらなくなって沼になってしまったのである。
津波が土台まで運んでしまった。それだけ強い浪が襲ったのである。
コンクリートの土台がえぐりとられるほどの津波の猛威だったのである。

その女性が言うには

私らは津波の被害にあってから考え方が変わってしまいましたよ
もう貯金などしない、命があるだけでもうけものです
今を生きることです、明日のため将来のために用意して生きることはしません


津波の被害にあった人は実際に人生観まで変わった。あまりの衝撃に命が助かっただけで良かったとなり
将来のために貯金などしていられない、死んでしまってはなにもならないとなった。
現実に家も何もなくなった人が多数いるからだ。
その人たちにとっては今生きているということが幸福になっているのかもしれない。
明日のことなど考えられないとなった。
これはそういう経験した人としない人の差は大きいのである。

人間はどんな体験でも苦しみでも経験しない人は理解できないのである。
だから津波の被害にあった人は被害の苦しみを言うけど介護の苦しみを言ってもたいしたことないよと言っている。
これもやはり自分としては納得いかないのである。

その人は介護の経験がないからそう言っているのだ。
それはみんな同じなのである。経験してみないとどんなことでも津波すらこれほどまじかにあっても
経験しないと実際に被害にあわないとわからないのである。

だから津波の被害にあった人と同じ町に住んでいても津波の被害にあわない人の差がものすごく大きいのである。
同じ町でもなんら被害がない人は無関心なのである。
でももしなんらかの津波によるダメージを受けたらこんなことにはならない。
自分は地震や原発事故での被害を受けているが津波の被害を受けていないから
津波に関しては何か同じ町に住んでいても他人事なのである。
だから面白がって写真撮って報告しているのかともなる。
津波の被害にあった人にしてみれば腹ただしいともなるのだ。

それは事故や事件でマスコミが取材するのとにている。
マスコミにとってそうした事故や事件は格好の餌であり別に助けるわけでもない
同情するわけでもない、報道して視聴率をとることが第一とされているのと同じである。

自分の場合は地元だから津波のことを関心をもって何が起きたのか追求している。
これも一つの郷土史だということもあるからだ。
郷土史として記録しておくことも必要だからである。

その女性はすでに仮設に一年いて家を建てたから良かったという、仮設にいても将来がない
仮設は早くでるべきだと言っていたのは同感である
復興住宅にしろ小高に帰るべきであり仮設ははやく去るべきところなのである。
近くで烏崎の人が家を建てたがこれもほっとしているだろうなと思う
家もなくなってどうしよかと途方にくれていたのだから家ができたということは安心する
その人も家が建てられたから安心したと言っていた。

ともかく港は前も防波堤が台風で決壊して海の水が流れたこんで被害があった。
干拓した場所だから低い場所だった。
その時、ここは危険だと感じて他に移れば助かった
でも人間はなかなか長く住んでいる場所から離れられない
よほどのことがない限り離れられない
自分もここが不便で嫌なことがあっても土地と家があるから離れられないのである
だから人間と危険なところでも住み続けている傾向があるのだ。

posted by 老鶯 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係