2014年03月25日

猫の問題は人間が起こす問題と同じで複雑 (捨て猫を飼うことで考えた)


猫の問題は人間が起こす問題と同じで複雑

(捨て猫を飼うことで考えた)

不幸な猫増やすな…餌やり・飼い主探し 広がる大学の「地域猫」活動
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140320/trd14032010270012-n2.htm


たまたま猫が甘えるように鳴いてくるので餌をやった。
それがはじまりで猫が家にいつくようになった
でもこの猫は慣れない
捨てられた猫で近づくと襲いかかるように威嚇する
つまり人間にはなれなくなっている
だからいやになれなれしい猫を見てきたから
猫はあういうふうに慣れているのが普通だと思っていた。
自分は猫についてはほとんどわからなかった
猫を飼ってみて猫の問題も複雑であり人間と同じだと思った。

人間と同じだという時、捨てられた猫を人間と思えばいい
赤ん坊が捨てられたら誰でもそのままにしておけないし
かわいそうだと思うしなんとかしようとするだろう
自分の成猫だけどやはり甘えたように鳴くから子供みたいである
ただ捨て猫にしてもではまず「かわいそうだ」ということから
はじまってもそれを飼うとなると人間の子供と同じだと思った。
「かわいいな、かわいそうだな」とかはわかる
でも飼うとなると餌をやり小便とか便をして汚したからしつけねばならないとか
猫一匹飼うにしてもめんどうなのである。

だから実際は自分はルーズであり自分のめんどうみるだげで精一杯なのだ
ところが介護もしているから猫の世話も自分に加わった。
この猫は腹をすかすとすりよってきてしきりに鳴くのである
猫は今や自分の家でのうのうと主顔している
餌が与えられるのを当然と思いあとはのうのうと寝ているだけである。
考えて見れば自分も三食付きで60年間家の主であった
それが家族が一人死んでまた一人倒れて介護になったとき
自分はただ一方的に世話するだけの召使になったのである。
猫は何もしない、自分は猫に仕えている、猫様なのである。
座布団にのうのうと座っている姿はまさにそうである
ただ今や家族がいないと猫も本当に家族の一員になってしまう


これもカルマであり猫を捨てるとは人間の子供捨てると同じである。
捨てられた猫は自分が飼っている猫のように深い恨みをもつようになる
人間にはなれなくなる、根強い不信感をもつにようになるのだ。
猫はだから人間と同じなのである。
だから猫は人間の子供と同じである。
その対処方法がめんどうで複雑になるのもそのためである。

例えば猫が増えるから殺した方がいいというので
実際は30万以上とか猫でも犬でも殺されている。
保健所で引き取りがないものは殺される
それは人間だって産児制限をして間引きしていたのと同じである。
猫でも犬でも増えすぎるのは人間によって餌をやるからである
野生だったら弱いものは淘汰されて一定の数しか生きられない
犬猫が増えるのは人間が過剰に餌をやるから増える
だから餌をやるなというとき人間は非情であり動物愛護法に違反するともなる
だから捨て猫がかわいそうだというだけかたづかない複雑な問題があった
それは人間の問題と同じだった。

つまり人間が餌を過剰にやり捨て猫が増えて増えた猫を人間が殺しているのである。
それは自然がしているのではない人間がしているのである。
人間に責任があり地域猫という発想もそうした結果生まれてきたのである。
一定の猫を地域で見守ろうということである
これもいろいろな意見があるからいいのか悪いのかわからない
かわいそうだというけど野良猫は田舎でもどこでも相当数いる。
捨てられる猫が多いからそうなる。
自分の家でも飼い猫に餌をやったら野良猫が入ってくるようになった
餌を欲しくてドアをあけて入ってくる。
よくドアを引っ張って入るものだと驚く
引く戸だからそういうこともできる
生きる為に必死だということもわかる
それを見れば野良猫にも餌をやりたいとなるだろう。
そうしたらまた猫が増えるだけなのである。
実際に猫を飼ってみてこんなに複雑な問題があるとは思わなかったのである。

精神的な障害児をもった年老いた女性はかわいそうというだけで
障害者でも同情はしないという
障害児で苦労したからそうなるのかもしれない
かわいそうだと同情しても40才にもなった障害児を世話しているから
そんな感傷的なことだけではかたづかないことを重荷を背負ってきたからである

猫を飼っても必ず捨てる人はいる犬でもそうである
なかなか責任をもって飼いなからねうなる
かわいそうだと思ってもそれに責任をもって世話はできない
それは障害児だってそうだろう
人間はただかわいそうだと思ってもじゃ世話しろとなればできない
だから単にかわいそうだというだけでは問題は解決しない
だから捨て猫でも犬でもそれは人間の問題なのである


猫をかわいいというだけでかわいそうだというだけでやたらに餌をやるな
そうするなら責任をもって飼い捨ててはならない
そういうことが守れないから捨て猫の野良猫の問題は解決しない
かわいそうだ、かわいいというのは人間の身勝手であり
そんな感傷的なことでは猫は飼いない
だから人間の子供と同じなのである。

posted by 老鶯 at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

春の溜池 (田んぼがないと溜池も無用になる)


春の溜池

(田んぼがないと溜池も無用になる)

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山陰に喫茶店あり春の雲

我が町に喫茶店一つ春の雲
樹々ゆれて我は走りて芽吹きかな
春風にしなりゆるるや樹々も生く
春の昼猫の眠るや広き家


満々と水を湛えし溜池の水面光りて春の雲浮く

満々と湛えし水も用なきや田んぼに流れず春となりしも

慶長と田中城主の墓のあり散りし椿や我がたずねけり

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屋形の石の宮の溜め池も広い、日本には別にこうした溜め池はいくらでもある。
つまり田んぼには水がかなり必要であり溜め池もそれに比例して必要になる。
だからそもそも稲作は溜め池を作るだけでも土木事業となり文明なのである。
溜め池や水路を作るために相当な苦労をしているからである。

今日は北海老のニコニコ堂の喫茶店は休みだった。
あそこには案内板もないからわかりにくい、
あそこは場所的にはいいと思っていなかったがそうでもなかった。
外から来た人はわかりにくいが鹿島区の一番歴史的な場所だった。
阿弥陀寺の岩松氏の悲劇からはじまり江戸時代は北の方は八沢浦が浦になっていた。
だから風光明媚な所だった。
だからあそこで鹿島区の歴史を思いめぐらし語ることに向いていた。
そういうイメージされる場所なのである。

自分は旅をして休むことを求めるから喫茶店が好きだった。
食堂だとそこで本読んだり瞑想したりとか何か思いめぐらすことには向いていない
喫茶店には喫茶店の役割があった。
ただ全国的に喫茶店だけではやっていけないので喫茶店に入ることはなかなかできない
原町区には喫茶店だけというのがほとんどない
六号線沿いにないのである。相馬市にはあるからいい。
相馬市だとある程度城下町の情緒にひたるということはある。
ただ外から来た人は城も何もないのだから感じないだろう。
それでも歴史的な場所は何かはある。
ただ発見されないだけである。


田中城主の墓は案内板があるがあそこは盲点だった。
あの墓には慶長とあるから本当に古いのである。
今まで見たのではこの辺では一番古かった。
田中城があったところからそう遠くはないから場所的にも昔を偲べる

いづれにしろこの辺では溜池に満々と水を湛えられていても用がない
田んぼが作られないのだから水も必要ない
だから溜め池も無用のものとなっている。
田んぼがあるからこそ水も活かされていた。
水は単なる飲む水だけではない、田んぼに不可欠の水だったのである。