2014年03月07日

南相馬市の鹿島区の北屋形北海老の風情 (八沢浦に面していて海と森の暮らし)


南相馬市の鹿島区の北屋形北海老の風情

(八沢浦に面していて海と森の暮らし)

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北屋形の古い碑

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北屋形ー滑沼の晩鐘の碑

屋形村は岩松氏の故事で有名である。それは伊達政宗も知り同情の念を深くした。
ただその隣の海老村については地元に住んでいても知ることがなかった。
そもそもなぜ北海老となっていたのか、それを知ったのは最近ニコニコ堂という
喫茶店ができてそこを訪れたことからはじまった。
その場所が北屋形に近いのに北海老になっていたことである。
まずここが海老村なのとかとういことが地理的にもわかりにくかった。
海老村の領域が思った以上広かったのである。
海老村というと何か海をイメージする。でも北海老むらは小高い山の森の中にあった。
そこでは海が全く見えないので海老村という感じがしなかった。
杉木立に隠された身近な隠れ里にも思えた。街の近くにこんな所があるのが意外だった。
ここはそのニコニコ堂という喫茶店ができてはじめて通った道だったのである。

海老村と言えば太平洋が一望できる海に向かって行くのが普通である。
そこには津波で流されたが松原があり風光明媚な場所だった。
でも北海老に注目している人はほとんどいない、ただ喫茶店ができて寄る人がでてくる。
それでも北海老村が海と関係していないということはなくやはり海が北海老に深く関与していた。
八沢浦は海の方には湊もあった。ただ北海老は全く海に面していなかった。
でも八沢浦が干拓される前の江戸時代は浦が北海老村に迫っていたのである。
八沢浦は八つの浦というように浦が山間に伸びて入りこんでいた。
原初の風景が津波で再現されたことには驚いた。それはイメージしていたが本当にこの目で見た時ほど驚いたことはない。
八沢浦の奥まった所まで津波は押し寄せたのである。
津波が寄せたところは海であり江戸時代まではだから海の暮らしが北海老村であった。


北屋形村の地名として釜前、北海老村に釜舟戸などがあるのは塩を釜で焼いていたためだろう。
北海老に塩入りとあるのは塩水が山間に入りこんでいた。だから八沢浦が谷沢浦と呼ばれていたというのも納得がいく。
谷が入り込んで浦になっていたのである。


小魚漁して浦舟二十艘、十三漁船 七荷運船、浦辺に塩焼く釜あり 人塩を焼く・・


これは鹿島町誌に記されている屋形村のことであるが北海老村も浦が入りこんでいたから同じ景色があった。
舟にしても浦舟、漁船、荷運船、とあった。浦舟は沖へはでない舟だろう。
漁船は沖に出た大きな船だろう。七荷運船はわからないが何か大きな船も寄っていたのかもしれない。荷物を運んでいた船だから遠くへ船が出ていた。それなりの湊の機能があったのかもしれい。浦というのは外海と違うから湊に適していたのである。

八沢浦にはこうしして実際の浦を利用した実際の生活もあり風光明媚な場所としても都に知られていたのだ。


八沢浦八景に


立切の夕映 漕ぐ舟の棹のしづくは浪のうえに夕日のわたるたちぎりの浦

滝沢の落雁 もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
長岩の晴嵐 雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風
遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
八沢浦の夜雨 磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩竃の秋月 しおがまの浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら
蛯浦の帰帆 あま人のつりの片帆のしろしろと夕浪いそぐ海老の浦舟
滑沼の晩鐘 滑沼の蘆の間ひとり歩み居ればあわれいづこに入相の鐘


この八景で地名としては立切があり滑沼は行沼として地図にある。
蛯浦は海老であり古くから八沢浦は景勝の地として知られていたのだ。
長岩とはまさしく長い岩が海側に近く残っている。
だからこれはこの八沢浦の実景であり想像ではない、「遠山の暮雪」は蔵王のことである。
蔵王が八沢浦から見えて津波で昔が再現された時写っていたのである。
この情景としてなぜか夕日とか入日とか夜の雨とか夕浪とか晩鐘とか夕暮れの景色がテーマになっている。
それはあの辺の情景が夕暮れが心にしみるものとなっているからだろう

前にも述べたけど南屋形となると南海老でもそうだが南に面して平野が開け明るい感じがするが
その山の中に森の中に入ってゆくと一転して暗くなるのである。
陰々として・・・とかなる。そして八沢浦に出てくる。
だから街から近いのに隠里のような気分になる不思議がある。
街からこんなに近いの隠里というのもやはり田舎ならではであり街といっても海老村からは相当に遠いと感じた。


海老村ゆ街は遠きもあわれかな買い物も不便今年は寒し

あそこから車だったかいいが自転車だったら本当に買い物自体も楽ではなくなる。
街に近くてもそれなりの距離感はあるのだ。
ともかく街の近くに隠里のような気分になるものがあるということはやはり安らぐ場所が田舎にはある。

北屋形の行沼の近くに滑沼の晩鐘の碑があった。他に古い碑が並んでいた。
あの辺は北屋形でも北海老と接していてどこまでが北屋形なのか北海老なのかわかりにくい。


ただ当時をイメージすると

北海老に浦風吹きてもしお焼く煙の見えて春寒しかも
北海老に森影なして浦に舟畑耕すや山鳩飛びぬ


朝なぎに玉藻刈りつつ 夕なぎに藻塩焼きつつ 海をとめありとは聞けど…(万葉集九三五)」


海人の藻塩
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/shio.htm


んな風景が八沢浦の北屋形北海老にあったのである。一方で畑もあった。田んぼはわずかでも塩がとれたことは生活に豊かさをもたらした。南屋形や南海老に開けたのである。だから藤金沢の溜め池は大きく海老の田んぼに水が流れていた。
藤は何かしらないが津波の跡に新しくできた富士旅館はこの藤のことであり他に北屋形に藤迫館があり富士神社がある。

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北海老 藤金沢ークリック拡大

八沢浦八景の葦の間を歩くではないけど何かにた風景である。


次は北海老の残る雪