2014年03月06日

津波原発の緊急事態に即断できなかった (大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)


津波原発の緊急事態に即断できなかった

(大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)



「この山に子供を上がらせても大丈夫ですか?」、住民は「ここまで津波は来ない」と言っていたのを聞いていました。教師は、「学校の方が安全だから残った方がいい」と、小学校6年男子は「山さ逃げだ方がいい」とそれぞれ訴えていました。その後の惨事だった。

大川小のワケワカ行動は偶然校長が不在だったことがすべてだと思う。

個人の中で、危機的自覚、状況の把握、最悪の状況の想定、自分の存在と責任をかけた行動の選択
このプロセスが行われていれば、結果はもっとメリハリのあるものになっていたような気がする。
結局、いきなりの集団稟議体制で情報の錯綜、留保、遠慮、妥協が続いてズブになった感がある。
普段から校長がいなければ話は違ったろうし、いたとしてもどこまで役に立ったかは判らんがw



緊急時代になるとそれぞれがどうして判断していいかわからなくなる
大川小学校の悲劇もそうだった。急に強烈な地震が来ても津波が来るといってもどう対処していいかそれぞれがまちまちになる。
そんな議論をしている暇に時間がたち津波に襲われる。議論しているその危険が何なのか調べたり判断する時間がないのである。
即断しないと助からなかったのである。
でも誰が即断するのか?校長なのか教師なのか、普通だったら校長であり校長の命令にしたがって避難すればいい、
でも校庭に生徒を並べて集団で避難しようともしていた。
でもどこに避難するかとまどっていた。それがこの議論になっていたのである。

こういうことは銀行でもあった。上司の命令にしたがって死んで訴えられた。
他にも山元町では自動車教習所の車で集団で逃げる時津波にのまれて若い人が死んで
裁判になっている。

緊急の時は人間は即断できない、津波が来るといっても6メートルの津波が来ると言ってもたいしたことがないと思っている人もいた。
自分も6メートルなんか聞いたことないと思った。そのあとすぐに10メートル来るというときは驚いた。
まず地震でものが落ちてそのことで頭が一杯で津波のことなど考えもしなかった。
だから自分も津波が来る地域にいたら逃げなかったろう。
ただここは津波が来る地域ではないからそのことは安心していた

ただ今度は原発が爆発したときも何が起こったのかのみこめなかった。
ただ爆発したのだから何か大きなことが起きたのかとは思った。
そしたら町の体育館に集められて何か市の職員がぼそぼそ言っていた。
それも聞き取れなかった。市ではバスを用意するから避難する人は避難してくださいということだった
ただそれも良くのみこめなかった。
バスは全員に用意できないということは聞き取れた。
じゃ、すぐに乗らないと避難できないのかと思った。

自分は介護している家族がいるしそのことを言ったら何かわからず体がふるえていた。
年も年であり無理して避難したら死んでいた。
そうして死んだ人もかなりいるみたいだから介護されているような人は避難するべきではなかった
双葉町の原発の近くの人も介護していて逃げなかったことがわかる
ここではしきりに家から出ないでくださいとは町でスピーカーでアナウンスしていた。
でも自分は一番線量が高い時、外を出て歩いていた。
他の人はどうしたのだろうと思い見て歩いた。
ただ他の人が避難したのか避難しないのかわからなかった


南相馬市の市立病院では相当に危機感があった。院長が死ぬのではないかとテレビで言っていた。
そうした危機感をもった人もいた。そもそも放射能についは皆目わからないから危機感を持つ人はもった。
医者は知っているからそういう危機感を感じたのかもしれない
その時病院の看護師は半分は避難した。そのことで今は非難されている。
患者を見捨てたとか非難されている。現実に双葉病院では置き去りにされて患者が死んだとかあった。
それも誤解だったらしい。

結局津波でも原発事故でも緊急で経験がないから
どうしていいかわからず判断できなかった

石巻大川小学校でも300年も津波が来なかったという、もう津波を伝えるものがこの辺と同じく何もなかったのである。
そういう未経験のことは判断しにくい。

大川小学校は地形的に津波に襲われやすい場所だった。
なぜならまず川を津波は上ってくる、その前に小高い山でもあると被害は少なくなる。
大川小学校の前にはそうした小高い山もなく大きな川を津波が上ってきたから被害が大きかった。

津波デンデコ・・とはそれぞれとにかく早く逃げろが津波の教訓だった。
集団でまとまって逃げるとなると時間的遅くなる。整列するだけで時間がかかる。
でも日頃は集団で行動しているの学校であり会社である
だから教師の命令や上司の許可を得ないと行動しないという習慣がある。

でも子供自体が危機感を感じて山に逃げた方がいいと思っていたのは正しかったのである。
釜石では子供はそうして全員助かった。

危機の時、集団が一致して行動することはそれだけ時間がかかる。
時間がないのだから集団で行動すること自体も危険になる。
集団をまとめるだけで時間がかかるのである。
しかし学校は一般的には常に集団で整列して教師の命令に従うように訓練されている
会社でもそうである。それで助かればいいが今回はそうはいかなかったので批判される。

自分でも原発事故で屋内退避の地域でも30キロ圏外でも半分は避難した。
その時、近所の人に聞いても正しい判断はできなかったろう。
そもそも何が起きたのか理解できなかったからである。
放射能自体何なのかもわからない、だから飯館村ではかなり被爆しても避難しなかったのである。
放射能自体を市町村の役所でも知らない
だから浪江町では一番線量の高い津島に避難していたのである。
それは町長の指導でそうしていたのである。


結局こういう危機の時、誰も正確な判断はできなかったろう
政府すら正確に判断しないで住民を被爆させたのである。

ただ常に学校でも会社でもどこでも集団的に行動することが習慣化していると危険になる場合かある。
集団が一致して行動することは正しいようで危機の時は正しくない。
だから現代社会はすべて権力集団化して行動している。
労働組合でもカルト宗教団体でも会社自体でもそうである。
学校はそもそも集団行動のためのしつけをする所であり各自が独自の判断をするようには教えられていない、
そういう強制的集団行動の組織である。


ただ南相馬市立病院などは別に院長とか上司のことなど関係なく危険を感じて半分は避難したのである。
これは賛否両論があるがそもそも放射能で死ぬという判断を院長までしていたらそれもやむをえないとなるだろう
。危機感を感じた人はそうなった。
後の人は何が起こったのかわからず右往左往して介護しているからとやむなく残ったりした。
まあ、患者は家族とは違うから置き去りにするのもわかる。家族だったらそんなことはしないだろう。
看護師だって自分の命を二の次には考えないのが普通である。
患者を嫌悪している看護師も結構多いから患者を置き去りにしても不思議ではない。
看護師は天使でもなんでもない、普通の人間であり人の痛みすら感じない人も結構いる。
いちいち一人一人あわれんでいたら体がもたないごたろう。
だからかえって看護師が残酷になる悪魔に変身するというのもある。
300人殺した医者が外国にいた。もう病人が嫌になって一挙に始末したい、病院の財政事情でもそうなった。
それもまた病院の真実なのである。

ただ自分の場合は

30キロ圏外は屋内退避で避難指示は出なかった
その30キロ圏外だということが多少の安心感になっていたかもしれない
ただ正直何が起こったか津波でも原発事故でもわからなかった。

結局教訓としては緊急の時は集団で行動すること、上の命令に従うことも危険である。
政府や東電もその時何ら助けにならなかった。
「ただちに影響しません・・」そういうだけだったのである。
その時、政府の人でも東電も避難してあるものは外国まで逃げた人もいたとか、
現実に東京から九州に避難した人もいた。危機感を感じる人はそれだけ感じたのである。


いづれにしろ集団行動は地獄への道づれになるということもある。
カルト宗教団体などでも巨大な集団だから救われるなど全くない
それは地獄への集団行動なのである。
それは戦争の時だって日本全員が一致して地獄への行進だったともなる
みなんで赤信号わたれば怖くないというのは集団心理なのである。

みんなで地獄に行くなら怖くない・・

こういうことだって現実今の社会ではそうなっている。何百万人が団体化していれば救われるとなる。
これは身近なことで実験した人がいた。
みんな行くので同じ方向にいった。その方向は危険な場所だった。
それが人間の集団心理なのである。
根拠もなにもないのにみんなが行く方にしたがって行くことは常にあることなのだ
大勢が正しいとは限らないし集団行動が危機を救うということもない

それは日頃の行動でも同じなのである。
集団で成仏することもないし集団で天国に行くこともない
むしろ集団は地獄への道になる。宗教の場合はそうである。
ただ今回は個人でも危険を判断しにくかった。

では誰かに聞いたり上司に聞いたり集団で行動に従ったりしても助からなかった。
かといって各自で判断しても助かるものと助からないものがいた。
津波なんか今まで来たことかないからと逃げない老人が死んだ。

それでも双葉町民はすぐ全員避難した。
それはあれだけ近いから危機感が違っていたしそれなりの情報も全員共有していた。
それでも混乱した。

津波だって海岸沿いに住んでいる人は何か危機感をもつべきだった。
それは海側は怖いと海は怖いと常に言っている人もいた。
そういう何か本能的に察知する危機感が消失していた。
なぜなら相馬藩でも200年前にも津波が来て8人死んでいたのである。
そしたらそれなり警戒してもいいはずだった。
だか全く警戒もしなかったのである。

結局津波でもどこまで裁判でも責任が問われるのか判断はむずかしい
自分でも判断できない状態に陥っていたからだ。

posted by 老鶯 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

方角地名が地名の基 (南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)


方角地名が地名の基

(南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)

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地名の基本は方角地名である。方角によってその土地の色合いが様子が大枠で形成される。
だから方角地名が一番多い。そもそも東西というときそれを如実に示している。
東西の分かれ目が関が原であり明らかに関が原を境にして西と東に分かれる。

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて
壬申の乱で東(あづま)とさしたのは古代にすでに東西の戦いごここで行われたのである。
ヤマトタテルが東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。


ここでは関東まですでに東の領域に入っていた。
ただ旅して不思議だったのは必ず方向音痴になることであった。方向が必ずわからなくなる。
京都辺りに旅するなら西に向かっている。西に向かってふりかえれば東の方向から来たことになる。
でも東は福島県の浜通りだと海の方角になる。
だから東風(こち)は春になると吹くのだが南の方から吹く風に感じていた。
だから何か九州のかなたから吹いてくる感じになっていた。でも実際は太平洋の陽の昇る方向であった。
だから風の方向を知ることは意外とむずかしい。

ただその場所を知るには方角がポイントになる。だから地名では方角地名が一番多い。
それがその土地を知る案内になりやすいからである。
東と言うと何か陽が昇る方向だから明るい感じがする。西だと陽が沈む方向だから暗い感じがする。
北だとこれも寒い暗い感じがする。南だと明るい暑い感じがする。
方角地名がその土地の特色を基本的に特徴づける。

例えば琵琶湖の湖西線となると比良の山の下であり陽が沈むので暗い感じになる。
湖東は陽が昇る方向になるから明るい感じになる。ただ山から陽が昇り山に沈む感覚は
浜通りでは感じられないからその感覚がわかりにくい。
北の方角は暗いからそれを嫌って隠した地名のものもある。
喜多方は会津の北に発展した商人の街だから北方だったが喜多方にした。
北を嫌ったから喜多方の当て字にしたのである。西会津となると何か奥まった淋しい感じになる。


それから上下とつく地名も多い、上とつくとそこは早くから開けた土地なのだろう。
下町というと何か庶民の住む場所であり上町というとその土地では場所的にはいい場所だとなる。
事実は鹿島区では前は下町は本当に土地が低く水害で被害があった。
自分の家は二回も水害で被害にあった。それは一番低い場所だったからである。
土地として悪い場所だったのである。ただ今西町となっているがそこは一番
鹿島区ではいい場所になって住宅地になっている。

上がりもの下がりものがあり大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るものは下がりものである。
上りは早く開けた大阪にあり下りは江戸へ行くことである。古くは東下りである。京都へは上るになる。
だから下がつくと何か文化的にも下に見られ。
これも方角地名でまず印象づけられているからだ。

永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

ただ上と下は上があって下がある。だからまず上を知らなければならない。
それがその土地を読むことである。

これは前置きとして南屋形がまずありその後ろの山に入った場所が北屋形になっている。
そこは一段と暗く感じるのである。南屋形というと前は平地であり陽もさすから明るい感じになる。
南海老もそうである。北海老となると山の中になり暗い感じになる。
南とつくと明るい感じになるのが不思議である。実際はそうでない場所だってあるからだ。
南相馬市と小高と原町と鹿島が合併したときそうであった。相馬市から南だから南相馬市となった。
でも考えてみると相馬市は北相馬市になるべきだったともなる。
その方が南相馬市という名前がついたときそれに準じるにはそうした方がわかりやくなっていたのである。
ただすると何か北とついただけで暗くなる。
でも相馬市だと南相馬市が生まれて特徴がうすれたのである。

相馬市はもともと南相馬市と北相馬市であり一つにした方が良かった。
北郷とういのは鹿島区だったがそれは小高に城があるときそこから見て北だからそうなった。
小高が中心地だったからである。

合併するとき名前をつけるのに悩んだ。結局方角地名にするのは無難だったからである。
でも南相馬市となると何か南というだけで明るい感じがするのも不思議である。
相馬市はかえって目立たなくなっているのも名前からすると奇妙である
つまり南相馬市が先進地域であり単に相馬市となっていると特徴がなくなったのである。
だから地名というのはその土地だけでなく隣の市町村にも影響しているのだ。

飯館村は合併しなかったから飯館村として原発事故で世界に知られるようになった。
南相馬市もそうである。合併したら南相馬市の一部となっていたからそうはならなかった。
だから変なんだが飯館村の尊重は村長として威張っていられる。
南相馬市に合併していたら小さな村だから威張ってはいられない。
そして原発の被害でも飯館村は被害が大きかったからそこで飯館村としての損害賠償を請求しやすかったのである。
南相馬市は小高区が一番被害が大きかったが独自に損害賠償の交渉をしにくかった。
なぜなら南相馬市であり南相馬市として主張せざるをえないしろその賠償金をめぐって
小高ー原町ー鹿島はみんなもらう金額がちがっていて分断されたのである。
他の警戒区域はほとんど一眼になって賠償金を請求できたのである。


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「南相馬市は小高町と原町市と鹿島町が合併してできた名なんだよ」
南とつくだけで相馬市とは感じが違っていたのも不思議だな」
「確かに南とつくだけで明るい感じがするな」
「それで何か相馬市が目立たないんだよ、相馬市の南だから
相馬市が中心のように見えても南とついただけでこっちの方が目立つんだよ」
「相馬市も北相馬市とならないと釣り合いがとれなかったのかもしれない」
「北となるとやはり暗くなるから嫌だろう」
「相馬はもともと相馬藩だったのだから一つなんだよ」
「南相馬市と北相馬市で一つだったんだよ」
「相馬市が中心のように見えても南相馬市の方が目立つようになっていないか」
「うーん もともと明治は原町機関区ができて原町が発展して中心になっていた
だから南相馬市の方が明治以降は中心地だったんだよ」
「南相馬市の市長はタイムにのったように原発事故で世界的に有名になったよな」
「まあ、飯館村は合併しなくてよかったよ、原発事故では被害が大きかったから
独自の賠償交渉ができる、それに村長も飯館村として威張っていられるからいいよ
南相馬市になったら市長は一人だから威張れないからな・・・・」
「人間は地名でも名に影響されるんだよ、まず名前からイメージするからな」


樹にしみとおる寒さ(言葉は文化の基)


樹にしみとおる寒さ(言葉は文化の基)

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しみとおる樹に寒さやしまるかな
しみとおる樹に寒さや飾らざり
しみとおる風の冷たさ木肌かな
しみとおる寒さや木の根深く張る
しみとおる寒さに枝々張りにけり
しみとおる樹に寒さや銀河かな


しみとおるというとき凍みるでもある、しまるにも通じている日本語である
こういう表現は日本語的なのだろう。
何かがしみてゆく、凍み豆腐、凍み餅とかもそうである
その風土にあった言葉は必ずある

英語とか表音語は音を重んじる。つまり英語でもフランス語でもドイツ語でも
音を通じて伝える、フランス語とドイツ語はなぜあんなに違った発音なのだろうと思う
フランス語は軽いラテン系でありドイツ語は重々しいもの感じる
だからフランスの文化とドイツの文化はライン川を境にまるで違ったものとなる
ドイツの音楽も重々しいのはドイツが森の国だからであった。
延々とつづく黒い森があった。ドイツはまただから重厚な哲学の国となった

いづれにしろ音楽がなぜヨーロッパで発達したのかはまさに言葉にあったのだ
言葉が文化の基だったのである。
日本語からも日本の文化が生れてきた。
だから英語にすれば日本の文化は消失するのである
日本人から日本語をとると日本人でなくなる
そのことは「心の星雲」でも言っていた。
つまり言葉はネティブでしか身につかないのである
それは幼児からしか習得できないからである
漢字もあるが漢字は象形文字であり視覚的であり絵画的である
だから音楽は発達しなかったのである
英語を覚えるには英語の音になれる聞き取る力をつけろというとき
まさにそれは音楽を聞くことと同じなのである
言葉の感覚はネティブでないと実感しえないものがある
言葉も数字でないから神秘的なものであるから詩を訳すと
詩でなくなるというのもそのためである


powerful mountain

mighty mountain
strongthend mountain


この感覚も日本人だとわかりにくい、力強いという表現だけではないものが表現されている。

mightyというの内面的に強化された力の感覚かもしれない、
powerfulは外面的な力の感覚だろう。それは説明しにくいのである


芸術はそもそも日々の生活から生れた。人間の生活そのものが芸術だった。
ただ文明的便利な生活は自然から遊離するから自然から分離すると本来の芸術は失われる。
なぜなら自然が基として芸術があり生活でも自然を基にしている生活は真の芸術を産む。
だから薪を積み薪を燃やし鶏を放し飼いにして山の清水を飲み川で洗い物をするという
生活はより自然なのだから不便でも芸術になる。
より自然が身近になるからだ。つまり冷たい水を感じることは自然を感じることなのだ。
だから「風流は寒きものなり」とはそのことを語っている。

まず車は冬でも中はあたたかい、また車だと風も感じない、だから自然を感じない
自転車は常に風を感じるから風流なのである。
だから田舎でも今や山の中でもみんなエアコンをしている。
一部薪を積んでいる家はみかける。
薪は乾燥するために積んでいる。
薪割りは実際は相当に力が必要で楽ではない
ボタン一つで電気を使ってやるのとはあまりにも違う。
でもそういう生活を戦後十年はどこでもしていたのである。
だから同世代の女性の人と話したらそのことで話しがあった。


いづれにしろ本当の芸術は田舎でしか生れない
まず樹について肌身で実感してわかるのにも時間がかかる
つまり樹でも石でも一体化する、アイディンティティ化することが必要になる
それには相当な時間がかかるのである
だから芸術はその土地土地から生まれというのも本当である
cultureは耕すからきているから土地土地を耕して文化は生れる
相馬郷土史研究というのもそうだった
それは土地に根ざしたものである


本当の芸術は日々の生活を基本としているとき、体力がないと本当の芸術は生まれない
例えは山を詩にするにしてもそれは雄大であり力強いから病弱たったらとても山を詩にできない、
山と同化するとしたらそれだけの体力が必要になってくるのだ。
健康な体でなければ詩にはとてもできない、ニーチェのような超越的な力すら必要になる。
高村光太郎の牛の詩にしても彼自身が牛のような体をしていたことなのだ。
前の師の上野霄里氏もそのことを言っていた。

ただ人間はあまり過酷だと芸術はなくなる。
その例が北海道開拓に入った猪狩満直
とかである。もう過酷な生活で疲れ果てて何もできない、
せいぜい日々食べるだけでありあとは寝るだけになってしまう。
その辺のかねあいがむずかしい。
自分も体力がなくても楽したから60以上生きている。
こんなに人は長生きするのだろうと思うと介護してわかった。
エアコンの部屋にいて食べ物で食べないにしても栄養あるものを食べさせる
弱ったら入院して点滴しているとまた99才でも回復したことでもわかる
これは弱い人でもそういう介護をすればさらに生きるのである。
だから昔は介護すらなかった。点滴もできないからちょっとしたことで死にいたる


この辺の原発事故でわかったように田舎でも実際は文明の真っ只中にあった。
田舎の方が文明的生活を享受していたのである
文明から離脱して生活するといっても簡単にはできないようになっていた。
確かに上野霄里氏が文明の離脱というときそれは精神的側面を強調したものである
具体的にそれを実行するときほとんど不可能になっているのだ。
山尾三省のような生活は何か反文明なのだけど
そんな生活をして何か魂胆があるのかとされるのが現代である


とにかく今年は寒かった。またこの辺は北風が吹き唸っている。
風花も舞っている、だからしみとおる寒さの樹というものを感じた
猫の毛が春の日がさしてよりあたたかく感じたように
やはり衣服を着ない自然のものはより自然を光でも感じるのである
それは樹でも同じだったのである