2014年03月06日

方角地名が地名の基 (南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)


方角地名が地名の基

(南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)

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地名の基本は方角地名である。方角によってその土地の色合いが様子が大枠で形成される。
だから方角地名が一番多い。そもそも東西というときそれを如実に示している。
東西の分かれ目が関が原であり明らかに関が原を境にして西と東に分かれる。

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて
壬申の乱で東(あづま)とさしたのは古代にすでに東西の戦いごここで行われたのである。
ヤマトタテルが東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。


ここでは関東まですでに東の領域に入っていた。
ただ旅して不思議だったのは必ず方向音痴になることであった。方向が必ずわからなくなる。
京都辺りに旅するなら西に向かっている。西に向かってふりかえれば東の方向から来たことになる。
でも東は福島県の浜通りだと海の方角になる。
だから東風(こち)は春になると吹くのだが南の方から吹く風に感じていた。
だから何か九州のかなたから吹いてくる感じになっていた。でも実際は太平洋の陽の昇る方向であった。
だから風の方向を知ることは意外とむずかしい。

ただその場所を知るには方角がポイントになる。だから地名では方角地名が一番多い。
それがその土地を知る案内になりやすいからである。
東と言うと何か陽が昇る方向だから明るい感じがする。西だと陽が沈む方向だから暗い感じがする。
北だとこれも寒い暗い感じがする。南だと明るい暑い感じがする。
方角地名がその土地の特色を基本的に特徴づける。

例えば琵琶湖の湖西線となると比良の山の下であり陽が沈むので暗い感じになる。
湖東は陽が昇る方向になるから明るい感じになる。ただ山から陽が昇り山に沈む感覚は
浜通りでは感じられないからその感覚がわかりにくい。
北の方角は暗いからそれを嫌って隠した地名のものもある。
喜多方は会津の北に発展した商人の街だから北方だったが喜多方にした。
北を嫌ったから喜多方の当て字にしたのである。西会津となると何か奥まった淋しい感じになる。


それから上下とつく地名も多い、上とつくとそこは早くから開けた土地なのだろう。
下町というと何か庶民の住む場所であり上町というとその土地では場所的にはいい場所だとなる。
事実は鹿島区では前は下町は本当に土地が低く水害で被害があった。
自分の家は二回も水害で被害にあった。それは一番低い場所だったからである。
土地として悪い場所だったのである。ただ今西町となっているがそこは一番
鹿島区ではいい場所になって住宅地になっている。

上がりもの下がりものがあり大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るものは下がりものである。
上りは早く開けた大阪にあり下りは江戸へ行くことである。古くは東下りである。京都へは上るになる。
だから下がつくと何か文化的にも下に見られ。
これも方角地名でまず印象づけられているからだ。

永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

ただ上と下は上があって下がある。だからまず上を知らなければならない。
それがその土地を読むことである。

これは前置きとして南屋形がまずありその後ろの山に入った場所が北屋形になっている。
そこは一段と暗く感じるのである。南屋形というと前は平地であり陽もさすから明るい感じになる。
南海老もそうである。北海老となると山の中になり暗い感じになる。
南とつくと明るい感じになるのが不思議である。実際はそうでない場所だってあるからだ。
南相馬市と小高と原町と鹿島が合併したときそうであった。相馬市から南だから南相馬市となった。
でも考えてみると相馬市は北相馬市になるべきだったともなる。
その方が南相馬市という名前がついたときそれに準じるにはそうした方がわかりやくなっていたのである。
ただすると何か北とついただけで暗くなる。
でも相馬市だと南相馬市が生まれて特徴がうすれたのである。

相馬市はもともと南相馬市と北相馬市であり一つにした方が良かった。
北郷とういのは鹿島区だったがそれは小高に城があるときそこから見て北だからそうなった。
小高が中心地だったからである。

合併するとき名前をつけるのに悩んだ。結局方角地名にするのは無難だったからである。
でも南相馬市となると何か南というだけで明るい感じがするのも不思議である。
相馬市はかえって目立たなくなっているのも名前からすると奇妙である
つまり南相馬市が先進地域であり単に相馬市となっていると特徴がなくなったのである。
だから地名というのはその土地だけでなく隣の市町村にも影響しているのだ。

飯館村は合併しなかったから飯館村として原発事故で世界に知られるようになった。
南相馬市もそうである。合併したら南相馬市の一部となっていたからそうはならなかった。
だから変なんだが飯館村の尊重は村長として威張っていられる。
南相馬市に合併していたら小さな村だから威張ってはいられない。
そして原発の被害でも飯館村は被害が大きかったからそこで飯館村としての損害賠償を請求しやすかったのである。
南相馬市は小高区が一番被害が大きかったが独自に損害賠償の交渉をしにくかった。
なぜなら南相馬市であり南相馬市として主張せざるをえないしろその賠償金をめぐって
小高ー原町ー鹿島はみんなもらう金額がちがっていて分断されたのである。
他の警戒区域はほとんど一眼になって賠償金を請求できたのである。


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「南相馬市は小高町と原町市と鹿島町が合併してできた名なんだよ」
南とつくだけで相馬市とは感じが違っていたのも不思議だな」
「確かに南とつくだけで明るい感じがするな」
「それで何か相馬市が目立たないんだよ、相馬市の南だから
相馬市が中心のように見えても南とついただけでこっちの方が目立つんだよ」
「相馬市も北相馬市とならないと釣り合いがとれなかったのかもしれない」
「北となるとやはり暗くなるから嫌だろう」
「相馬はもともと相馬藩だったのだから一つなんだよ」
「南相馬市と北相馬市で一つだったんだよ」
「相馬市が中心のように見えても南相馬市の方が目立つようになっていないか」
「うーん もともと明治は原町機関区ができて原町が発展して中心になっていた
だから南相馬市の方が明治以降は中心地だったんだよ」
「南相馬市の市長はタイムにのったように原発事故で世界的に有名になったよな」
「まあ、飯館村は合併しなくてよかったよ、原発事故では被害が大きかったから
独自の賠償交渉ができる、それに村長も飯館村として威張っていられるからいいよ
南相馬市になったら市長は一人だから威張れないからな・・・・」
「人間は地名でも名に影響されるんだよ、まず名前からイメージするからな」


津波原発の緊急事態に即断できなかった (大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)


津波原発の緊急事態に即断できなかった

(大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)



「この山に子供を上がらせても大丈夫ですか?」、住民は「ここまで津波は来ない」と言っていたのを聞いていました。教師は、「学校の方が安全だから残った方がいい」と、小学校6年男子は「山さ逃げだ方がいい」とそれぞれ訴えていました。その後の惨事だった。

大川小のワケワカ行動は偶然校長が不在だったことがすべてだと思う。

個人の中で、危機的自覚、状況の把握、最悪の状況の想定、自分の存在と責任をかけた行動の選択
このプロセスが行われていれば、結果はもっとメリハリのあるものになっていたような気がする。
結局、いきなりの集団稟議体制で情報の錯綜、留保、遠慮、妥協が続いてズブになった感がある。
普段から校長がいなければ話は違ったろうし、いたとしてもどこまで役に立ったかは判らんがw



緊急時代になるとそれぞれがどうして判断していいかわからなくなる
大川小学校の悲劇もそうだった。急に強烈な地震が来ても津波が来るといってもどう対処していいかそれぞれがまちまちになる。
そんな議論をしている暇に時間がたち津波に襲われる。議論しているその危険が何なのか調べたり判断する時間がないのである。
即断しないと助からなかったのである。
でも誰が即断するのか?校長なのか教師なのか、普通だったら校長であり校長の命令にしたがって避難すればいい、
でも校庭に生徒を並べて集団で避難しようともしていた。
でもどこに避難するかとまどっていた。それがこの議論になっていたのである。

こういうことは銀行でもあった。上司の命令にしたがって死んで訴えられた。
他にも山元町では自動車教習所の車で集団で逃げる時津波にのまれて若い人が死んで
裁判になっている。

緊急の時は人間は即断できない、津波が来るといっても6メートルの津波が来ると言ってもたいしたことがないと思っている人もいた。
自分も6メートルなんか聞いたことないと思った。そのあとすぐに10メートル来るというときは驚いた。
まず地震でものが落ちてそのことで頭が一杯で津波のことなど考えもしなかった。
だから自分も津波が来る地域にいたら逃げなかったろう。
ただここは津波が来る地域ではないからそのことは安心していた

ただ今度は原発が爆発したときも何が起こったのかのみこめなかった。
ただ爆発したのだから何か大きなことが起きたのかとは思った。
そしたら町の体育館に集められて何か市の職員がぼそぼそ言っていた。
それも聞き取れなかった。市ではバスを用意するから避難する人は避難してくださいということだった
ただそれも良くのみこめなかった。
バスは全員に用意できないということは聞き取れた。
じゃ、すぐに乗らないと避難できないのかと思った。

自分は介護している家族がいるしそのことを言ったら何かわからず体がふるえていた。
年も年であり無理して避難したら死んでいた。
そうして死んだ人もかなりいるみたいだから介護されているような人は避難するべきではなかった
双葉町の原発の近くの人も介護していて逃げなかったことがわかる
ここではしきりに家から出ないでくださいとは町でスピーカーでアナウンスしていた。
でも自分は一番線量が高い時、外を出て歩いていた。
他の人はどうしたのだろうと思い見て歩いた。
ただ他の人が避難したのか避難しないのかわからなかった


南相馬市の市立病院では相当に危機感があった。院長が死ぬのではないかとテレビで言っていた。
そうした危機感をもった人もいた。そもそも放射能についは皆目わからないから危機感を持つ人はもった。
医者は知っているからそういう危機感を感じたのかもしれない
その時病院の看護師は半分は避難した。そのことで今は非難されている。
患者を見捨てたとか非難されている。現実に双葉病院では置き去りにされて患者が死んだとかあった。
それも誤解だったらしい。

結局津波でも原発事故でも緊急で経験がないから
どうしていいかわからず判断できなかった

石巻大川小学校でも300年も津波が来なかったという、もう津波を伝えるものがこの辺と同じく何もなかったのである。
そういう未経験のことは判断しにくい。

大川小学校は地形的に津波に襲われやすい場所だった。
なぜならまず川を津波は上ってくる、その前に小高い山でもあると被害は少なくなる。
大川小学校の前にはそうした小高い山もなく大きな川を津波が上ってきたから被害が大きかった。

津波デンデコ・・とはそれぞれとにかく早く逃げろが津波の教訓だった。
集団でまとまって逃げるとなると時間的遅くなる。整列するだけで時間がかかる。
でも日頃は集団で行動しているの学校であり会社である
だから教師の命令や上司の許可を得ないと行動しないという習慣がある。

でも子供自体が危機感を感じて山に逃げた方がいいと思っていたのは正しかったのである。
釜石では子供はそうして全員助かった。

危機の時、集団が一致して行動することはそれだけ時間がかかる。
時間がないのだから集団で行動すること自体も危険になる。
集団をまとめるだけで時間がかかるのである。
しかし学校は一般的には常に集団で整列して教師の命令に従うように訓練されている
会社でもそうである。それで助かればいいが今回はそうはいかなかったので批判される。

自分でも原発事故で屋内退避の地域でも30キロ圏外でも半分は避難した。
その時、近所の人に聞いても正しい判断はできなかったろう。
そもそも何が起きたのか理解できなかったからである。
放射能自体何なのかもわからない、だから飯館村ではかなり被爆しても避難しなかったのである。
放射能自体を市町村の役所でも知らない
だから浪江町では一番線量の高い津島に避難していたのである。
それは町長の指導でそうしていたのである。


結局こういう危機の時、誰も正確な判断はできなかったろう
政府すら正確に判断しないで住民を被爆させたのである。

ただ常に学校でも会社でもどこでも集団的に行動することが習慣化していると危険になる場合かある。
集団が一致して行動することは正しいようで危機の時は正しくない。
だから現代社会はすべて権力集団化して行動している。
労働組合でもカルト宗教団体でも会社自体でもそうである。
学校はそもそも集団行動のためのしつけをする所であり各自が独自の判断をするようには教えられていない、
そういう強制的集団行動の組織である。


ただ南相馬市立病院などは別に院長とか上司のことなど関係なく危険を感じて半分は避難したのである。
これは賛否両論があるがそもそも放射能で死ぬという判断を院長までしていたらそれもやむをえないとなるだろう
。危機感を感じた人はそうなった。
後の人は何が起こったのかわからず右往左往して介護しているからとやむなく残ったりした。
まあ、患者は家族とは違うから置き去りにするのもわかる。家族だったらそんなことはしないだろう。
看護師だって自分の命を二の次には考えないのが普通である。
患者を嫌悪している看護師も結構多いから患者を置き去りにしても不思議ではない。
看護師は天使でもなんでもない、普通の人間であり人の痛みすら感じない人も結構いる。
いちいち一人一人あわれんでいたら体がもたないごたろう。
だからかえって看護師が残酷になる悪魔に変身するというのもある。
300人殺した医者が外国にいた。もう病人が嫌になって一挙に始末したい、病院の財政事情でもそうなった。
それもまた病院の真実なのである。

ただ自分の場合は

30キロ圏外は屋内退避で避難指示は出なかった
その30キロ圏外だということが多少の安心感になっていたかもしれない
ただ正直何が起こったか津波でも原発事故でもわからなかった。

結局教訓としては緊急の時は集団で行動すること、上の命令に従うことも危険である。
政府や東電もその時何ら助けにならなかった。
「ただちに影響しません・・」そういうだけだったのである。
その時、政府の人でも東電も避難してあるものは外国まで逃げた人もいたとか、
現実に東京から九州に避難した人もいた。危機感を感じる人はそれだけ感じたのである。


いづれにしろ集団行動は地獄への道づれになるということもある。
カルト宗教団体などでも巨大な集団だから救われるなど全くない
それは地獄への集団行動なのである。
それは戦争の時だって日本全員が一致して地獄への行進だったともなる
みなんで赤信号わたれば怖くないというのは集団心理なのである。

みんなで地獄に行くなら怖くない・・

こういうことだって現実今の社会ではそうなっている。何百万人が団体化していれば救われるとなる。
これは身近なことで実験した人がいた。
みんな行くので同じ方向にいった。その方向は危険な場所だった。
それが人間の集団心理なのである。
根拠もなにもないのにみんなが行く方にしたがって行くことは常にあることなのだ
大勢が正しいとは限らないし集団行動が危機を救うということもない

それは日頃の行動でも同じなのである。
集団で成仏することもないし集団で天国に行くこともない
むしろ集団は地獄への道になる。宗教の場合はそうである。
ただ今回は個人でも危険を判断しにくかった。

では誰かに聞いたり上司に聞いたり集団で行動に従ったりしても助からなかった。
かといって各自で判断しても助かるものと助からないものがいた。
津波なんか今まで来たことかないからと逃げない老人が死んだ。

それでも双葉町民はすぐ全員避難した。
それはあれだけ近いから危機感が違っていたしそれなりの情報も全員共有していた。
それでも混乱した。

津波だって海岸沿いに住んでいる人は何か危機感をもつべきだった。
それは海側は怖いと海は怖いと常に言っている人もいた。
そういう何か本能的に察知する危機感が消失していた。
なぜなら相馬藩でも200年前にも津波が来て8人死んでいたのである。
そしたらそれなり警戒してもいいはずだった。
だか全く警戒もしなかったのである。

結局津波でもどこまで裁判でも責任が問われるのか判断はむずかしい
自分でも判断できない状態に陥っていたからだ。

posted by 老鶯 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年03月07日

南相馬市の鹿島区の北屋形北海老の風情 (八沢浦に面していて海と森の暮らし)


南相馬市の鹿島区の北屋形北海老の風情

(八沢浦に面していて海と森の暮らし)

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北屋形の古い碑

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北屋形ー滑沼の晩鐘の碑

屋形村は岩松氏の故事で有名である。それは伊達政宗も知り同情の念を深くした。
ただその隣の海老村については地元に住んでいても知ることがなかった。
そもそもなぜ北海老となっていたのか、それを知ったのは最近ニコニコ堂という
喫茶店ができてそこを訪れたことからはじまった。
その場所が北屋形に近いのに北海老になっていたことである。
まずここが海老村なのとかとういことが地理的にもわかりにくかった。
海老村の領域が思った以上広かったのである。
海老村というと何か海をイメージする。でも北海老むらは小高い山の森の中にあった。
そこでは海が全く見えないので海老村という感じがしなかった。
杉木立に隠された身近な隠れ里にも思えた。街の近くにこんな所があるのが意外だった。
ここはそのニコニコ堂という喫茶店ができてはじめて通った道だったのである。

海老村と言えば太平洋が一望できる海に向かって行くのが普通である。
そこには津波で流されたが松原があり風光明媚な場所だった。
でも北海老に注目している人はほとんどいない、ただ喫茶店ができて寄る人がでてくる。
それでも北海老村が海と関係していないということはなくやはり海が北海老に深く関与していた。
八沢浦は海の方には湊もあった。ただ北海老は全く海に面していなかった。
でも八沢浦が干拓される前の江戸時代は浦が北海老村に迫っていたのである。
八沢浦は八つの浦というように浦が山間に伸びて入りこんでいた。
原初の風景が津波で再現されたことには驚いた。それはイメージしていたが本当にこの目で見た時ほど驚いたことはない。
八沢浦の奥まった所まで津波は押し寄せたのである。
津波が寄せたところは海であり江戸時代まではだから海の暮らしが北海老村であった。


北屋形村の地名として釜前、北海老村に釜舟戸などがあるのは塩を釜で焼いていたためだろう。
北海老に塩入りとあるのは塩水が山間に入りこんでいた。だから八沢浦が谷沢浦と呼ばれていたというのも納得がいく。
谷が入り込んで浦になっていたのである。


小魚漁して浦舟二十艘、十三漁船 七荷運船、浦辺に塩焼く釜あり 人塩を焼く・・


これは鹿島町誌に記されている屋形村のことであるが北海老村も浦が入りこんでいたから同じ景色があった。
舟にしても浦舟、漁船、荷運船、とあった。浦舟は沖へはでない舟だろう。
漁船は沖に出た大きな船だろう。七荷運船はわからないが何か大きな船も寄っていたのかもしれない。荷物を運んでいた船だから遠くへ船が出ていた。それなりの湊の機能があったのかもしれい。浦というのは外海と違うから湊に適していたのである。

八沢浦にはこうしして実際の浦を利用した実際の生活もあり風光明媚な場所としても都に知られていたのだ。


八沢浦八景に


立切の夕映 漕ぐ舟の棹のしづくは浪のうえに夕日のわたるたちぎりの浦

滝沢の落雁 もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
長岩の晴嵐 雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風
遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
八沢浦の夜雨 磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩竃の秋月 しおがまの浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら
蛯浦の帰帆 あま人のつりの片帆のしろしろと夕浪いそぐ海老の浦舟
滑沼の晩鐘 滑沼の蘆の間ひとり歩み居ればあわれいづこに入相の鐘


この八景で地名としては立切があり滑沼は行沼として地図にある。
蛯浦は海老であり古くから八沢浦は景勝の地として知られていたのだ。
長岩とはまさしく長い岩が海側に近く残っている。
だからこれはこの八沢浦の実景であり想像ではない、「遠山の暮雪」は蔵王のことである。
蔵王が八沢浦から見えて津波で昔が再現された時写っていたのである。
この情景としてなぜか夕日とか入日とか夜の雨とか夕浪とか晩鐘とか夕暮れの景色がテーマになっている。
それはあの辺の情景が夕暮れが心にしみるものとなっているからだろう

前にも述べたけど南屋形となると南海老でもそうだが南に面して平野が開け明るい感じがするが
その山の中に森の中に入ってゆくと一転して暗くなるのである。
陰々として・・・とかなる。そして八沢浦に出てくる。
だから街から近いのに隠里のような気分になる不思議がある。
街からこんなに近いの隠里というのもやはり田舎ならではであり街といっても海老村からは相当に遠いと感じた。


海老村ゆ街は遠きもあわれかな買い物も不便今年は寒し

あそこから車だったかいいが自転車だったら本当に買い物自体も楽ではなくなる。
街に近くてもそれなりの距離感はあるのだ。
ともかく街の近くに隠里のような気分になるものがあるということはやはり安らぐ場所が田舎にはある。

北屋形の行沼の近くに滑沼の晩鐘の碑があった。他に古い碑が並んでいた。
あの辺は北屋形でも北海老と接していてどこまでが北屋形なのか北海老なのかわかりにくい。


ただ当時をイメージすると

北海老に浦風吹きてもしお焼く煙の見えて春寒しかも
北海老に森影なして浦に舟畑耕すや山鳩飛びぬ


朝なぎに玉藻刈りつつ 夕なぎに藻塩焼きつつ 海をとめありとは聞けど…(万葉集九三五)」


海人の藻塩
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/shio.htm


んな風景が八沢浦の北屋形北海老にあったのである。一方で畑もあった。田んぼはわずかでも塩がとれたことは生活に豊かさをもたらした。南屋形や南海老に開けたのである。だから藤金沢の溜め池は大きく海老の田んぼに水が流れていた。
藤は何かしらないが津波の跡に新しくできた富士旅館はこの藤のことであり他に北屋形に藤迫館があり富士神社がある。

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北海老 藤金沢ークリック拡大

八沢浦八景の葦の間を歩くではないけど何かにた風景である。


次は北海老の残る雪

 
 

2014年03月08日

北海老の残る雪の情緒 (人間は一番身近なものの良さを知らない)


北海老の残る雪の情緒

(人間は一番身近なものの良さを知らない)


北海老の溜池広く冬芒

北海老の畑に小屋や残る雪


北海老の残れる雪の清らかに杉木立の陰畑ありしも

山陰の北海老村に誰がよるや喫茶店あり春寒しかな
山陰の北海老村の喫茶店前は納屋なり残る雪かな


人間は近くを見ていない、隣の芝生はいいとか常に外がいいと見ている。そして観光地はつまらないという感想をいだく、
京都に行ってもつまらないとかなる。それはなぜか?
結局見る目がないからである。その一言につきる。
南相馬市だって鹿島区だって何が見る所あるんだ、こんな所に住んで何がいいんだとなる。
もう原発事故とかでさらに住む価値がなかった。もともとここには何もなかったからこの際都会に移った方がいいとかなる。
自分も若い時はそうだった。故郷を出たい一心で東京の大学に入った。
勉強したいとかではない、故郷を出たかったのである。故郷に何ら魅力を感じなかった。
それは後年もずっとつづいていて旅行ばかりしていたとなる。

しかし人間は本当に「灯台下暗し」だということがわかる。一番身近な所がわかっていないのだ。
一番近くの魅力がわからずに遠くへ遠くへ行く、でもそこもつまらないとなる。
そもそも近くの魅力がわからなければ遠くの魅力もわからないのである。
それで意外と自分の住んで場所の良さがわからず良さを知るのは外部の人だとなる。
日本の料理の良さを一番知ったのは外国だというのもそうである。
そんなもの日頃食べているから日本では特別いいとは思わないのである。
でもたいがい外国の料理は肉食であり牛肉とか豚肉とかチキンが主である。
日本は魚や野菜が多いし何か健康食なのである。だから長寿の国にもなっているのだろう。

最近外国をまねて食生活を変えたら欧米人がなる病気も日本人に増えたことでもわかる
日本の風土はもともと『魏志倭人伝』に「この国に牛馬、虎豹、羊鵲なし」であり魚介類中心の食生活だったのである。
そういう風土によって日本人は歴史的に作られてきたのである。
日本では水はそのまま山の清水でものめる。外国で自然のままの水を飲める国はほとんどないことも恵まれていたのである。
だから外国から日本に来ていいなと思う人はかなりいる。
水道の水を飲めて水を買わなくていいというのも大きな利点なのである
水代だけでも馬鹿にならないからである。

ともかくすぐ近くの北海老と北屋形のことを見逃していたことでもわかる。
そこはすぐ街の近くであった。海老だったら海や松原はいつも行っていた。
八沢浦でもいつもあそこは浦だったんだなと意識していた。
だからあそこが浦になっていたらどれだけ美しいだったろうといつも自分はイメージしていたのである。
それが津波で現実化したときほど驚いたことはない。
そこで泥に埋もれて子供が死んだのを発見したとか言うのに
お前は何が美しい八沢浦がもどったなどと言っているのだと批判された。
それもそうであった。でも人間は近くでも津波の被害にあい家を失い家族を失った人がいても
自分が被害がなければその苦しみはわからない。
津波の被害地域が全部家をなくしたわけでも家族をなくしたわけでもなない。

だから本当の苦しみはそういう被害にあった人たちでありその苦しみはその人たちが負っているのである。
それを外からいろいろ同情の言葉をかけても言葉だけじゃないかとなる
何か偽善的になってしまうのである。
「俺たちの本当の苦しみがわかるのか、言葉だけの同情はいらない」とかなるだろう。

しかし自分はここ7年間の家族の病気介護、自分の病気の苦しみを書いてきた。
その時誰もにも同情されていない、むしろ自分が差別とか自分が病気の時すら借金とかを要求され脅迫された。
何の同情もない、かえって弱みにつけこまれ犯罪にあった。
それが弱肉強食の世の中をまざまざと見たし身にその苦しみを負った。
だから今回の津波や原発事故ではみんな同情され現実に過剰な支援すらされているから
悲惨であってもいい面はあった。
もちろん被害にあった人は原発の避難者でも故郷を失う家を失う悲しみは苦しみは金では代えられないというのも本当である。
ただ回りから同情されて支援されていることは確かなのである。

自分の場合は全く支援もなにもない、病院でも脅迫されたり看護師にはいじめられたりとさんざんな目にあっただけである。
結局他の人でも人の苦しみは実際はその人だけが負っているのであり他人にはわからないのである。
だからその人が自分の苦しみを訴えればそれは訴えるものがある。
他から同情するときどうしても偽善的になるのである。


とにかく北海老についても南海老はいつも行っていたけど北海老は注目していなかった。
北屋形もそうだった。そして南屋形と北海老は表と裏のように違っていたのである。
それを意識されたのはニコニコ堂という喫茶店が北海老にできて訪れたことにあった。
まず場所がわかりにくかった。他の人も案内もないのでわかりにくかったと言っていた。
あそこは立地的に海も見えないからいいとは思わなかった。
でもあそこにあそこの場所の良さがあることに気づいた。
それは今まで解説したように裏に八沢浦があったことである。
八沢浦は江戸時代まで海の暮らしが現実にあった。海老村にもあった。
それが津波で海になり現実的になったのである。

 

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こんなふうに雪が残っているのは今回の雪は大雪であり雪の性質も違っていた。
この辺ではすぐ消えているからだ。

 

原発避難者は3年目でどうするのか (仮設はすべて仮にすぎないから終わるべき)


原発避難者は3年目でどうするのか

(仮設はすべて仮にすぎないから終わるべき)


NHKで原発事故で13万人が避難しているという,その中に自主避難も5万人いるという。
でもなんかNHKでは本音のところは放送しない、
都路村の孫も何人かいる大家族がいたけどそういうふうに家族が多いと子供でも一人
10万の補償がでる。だから家族が多いと一カ月百万とかりてってしまう。
小高区の家族にはそういう人がいた。毎日マグロのサシミだよ言っていた。
田舎では都路村でも飯館村でもまだまだ大家族がいる。
農家にはまだ多いのである。

まず都路村でシイタケなど栽培してもそれほど金にはならない。
そして放射能汚染の風評被害でそもそも売れなくなっている。
そうしたら帰ってどうして生活するのだとなる。
補償金の額が大きいから帰りたくなくなった人がかなりいるのだ。
こんなにもらえるなら川内村でも郡山市の方がいいとなって帰らないのである。

もしそんなに補償金もらえないならもう放射能など気にしないで生活した方がいいとなるだから
何かタマネギを無料で配布したとき、我先に困窮しているようにもらってゆく
着るものまだ支援されている。
そんなのはたりている。何か私たちはんなに困窮していますよというのを社会に見せつけるためにNHKが放送しているのだ。
もちろんそうるなと住民もどういう放送するのか気になるから取材を許すことになる

デアはだから真実は伝えない、NHKは特にこの人たちはかわいそうな人たちですよということが
テーマになり視聴率をかせぐのが手法である。
それで耳が聞こえない佐村河内守氏にだまされたのかなんなのかわからないが
NHKにとっては格好の視聴率をとれるものだったのである。

なぜこういうことを言うかというとそんなことをあえてそんなこきとを言う必要がないというかもしれないが
何か誤解されて全国民に知らされることが危険なのである。

こんなことを報道していたらいつまでも補償が必要であり国はそうするべきだということを暗黙の内に奨励することになる。
確かに補償金を打ち切られたらこれからの生活は厳しくなる。
でも一方でだらだらと補償金頼りの仮設の生活も許されるものではない

仮設の奇妙なのはすべてが仮りなのである。仮の宿であり仮の生活でありすべてに
仮りがつき人間そのものが仮りの人じゃないかとさえ思った。
なぜなら東京の方で競馬だ風俗だと遊んでいる人がいてその人の仮設の生活は
まさに仮設で暮らすような生活が良かったのである。
不思議なのはその人生が仮りの人生だったのかともなる

そういうすべてが仮りになってしまうとき地元の人と何か復興に向けて働くということもない、
地元の人と交流できない、なぜならすべてが仮になっていて仮では根を下ろすことはできない。
それは強いられたから仕方がないという面があっても3年たっていつまでも仮では回りも困ってしまうだろう。

別にイワキであれ他に移って看護師であれ介護士であれスーパーのレジであれ何であれ
その地元で働いて貢献していれば地元の人たちに批判はされない
あの人たちは働いてくれるのだなとなる。実際に一部の人は働いている。
でも大方は補償金で働いていないから批判されるのである。

そして補償金でも手厚い、新しく土地の購入にかかる金を補償金として支払うとかもあった。
イワキなどの地価は三倍くらいするからそれだけ費用がかさむ。
でもその地元の人たちにとってはそういう土地を買えない家も建てられない人も相当いる。
それなのに原発避難者は家まで建てられるとうらやましがられる。

要するに人間は別に金持ちでもいい、それは回りが容認する金持ちだったら誰も批判はしない。
その土地に貢献した人であり社会に貢献しているから言わないのである。
おそらく江戸時代の庄屋などは役所みたいなもので豊かでも飢饉のときは食料をめぐんでくれるとかのために
金持ちであることを回りで守ってくれたというのもあるとか
すべての金持ちが昔から否定はされていないのである。

原発成り金はそういうものと違うからいろいろと批判される。
なんであの人たちがあんなに何でも地元の人より優遇されるのだろうとなる。

現実に事業するにも南相馬市の鹿島区だけは支援がないのである。
30キロの外ということで除外されているのも南相馬市なのに解せない人はかなりいる。
そうなると小高区の人とまた軋轢をうむ。

いづれにしろ仮設にいる限り復興はない、それはいつまでたっても仮りのものでしかないからである。
だから人まであなたは仮りの人間ですかとまでなる。
根を下ろした実体ある人ではないとまでなる。
そういう人が社会のアウトサイダーとして少数者としてわずかにいるのは
別にかまわないただこんなに大勢の人が仮りの人になっていることは社会的に異常になってしまう。
だから仮設から早くでて仮の生活ではない本当の生活に移る時期なのである。
仮設からみんなが出たとき復興への次の大きな段階に入ってゆくことは確かである。
そういう時期になっているということである。

結局明治時代でも亘理の伊達氏の氏族が新天地の北海道に移住したのは苦しかったが成功だった。
そこは伊達市になっている。それから奈良の十津川部落も水害で一村がみんなで北海道に移住した。
そこではそこに住んでいる人たちとそれほど軋轢がなくてすんだ
もちろんアイヌが先住民としていたが同調していった。
今回はそういうわけにはいかない、補償金をもらったとしても地元の人から受け入れられない事情が生まれた
だから金だけもらっても何でも解決するというものでもない
それは今の社会は金で何でも解決するようでもやはりしない
飯館村の農家の人が食料は自給していた。
それで補償金生活になったら買いだめするとか金だけの生活に不安になっているという。
飯館辺りでも食料はなんとか自給するということがあったかもしれない
でも補償金は金だけの生活となると考え方まで変わってしまう。

ともかくイワキでも双葉や大熊の町を作ろうとしてもそこに地元の人と軋轢が生まれる。
二本松でも浪江町を作ろうとしてもそうである。
そこは北海道とは違う、すでにその土地の作られた生活がありそこに金だけをもってきて入ってくるのは暴力的にもなる。
だから金だけでは人間の生活はすべてを解決できないことを知ったのである。

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2014年03月09日

当たり前の幸せが失われた原発事故周辺 (春の日の石(詩)で過去を回想する)


当たり前の幸せが失われた原発事故周辺

(春の日の石(詩)で過去を回想する)

春の日の石


わずらいなく
いくつかの石
そこにありにし
争うこともなく
信頼しつつ
長き日を
千歳の日も
そこにありにし
何事のなけれど
そこにありにし
春の日のさしして
ぽかかと
石はゆったりとありぬ
今は村人は離ればなれ
散り散りとなりぬ
何事のなけれど
そこにありにし時の
その幸いの日々よ
春の日のさして
ぽかぽかと
自ずと満ち足りた石よ
幸いはそこにありしを
村人の畑を耕して
ぽっかりと春の雲浮きぬ
鶯はのどかにその美声を放ち
梅の香り流れ石はなごみぬ
旅人のその石に腰をおろし
また去りゆく山の道よ
蝶はここに生まれて舞いぬれ
嬉々としてまた花を求めて
いづこかへと舞い去りぬ

津波原発事故で変わったことは当たり前のことが幸せだったことである。
そういう当たり前のことは意識しにくい、それがあまりにも当たり前だったから
それが幸せだなとと意識した人はいない

でも実際にそれが津波や原発事故で破壊された時、それを意識するようになった。
家はなくなり家族はばらばらになり故郷すら失った。
こんなことがありうるのかという連続だった

だから自分も詩を作っていたけどその詩を作るイメージするのは実際にあった
ふれたものからイメージして作っている。
それは故郷の自然であり生活があって作られていたのである。

だから平和な時はそれはただ当たり前のものとしてあり意識していない

今になるとあそこはもうなかなか行けないとかなっているのが理不尽なのである
この石があったのは原町からトンネル、原浪トンネルという新しくできた
トンネルを通って出たところに家がありその前に川がありそこにいくつかの石があり
そこでいつでも休んでいたのである。
そこに前には茶屋があってモチなどを売っていた。
それはなくなった。
あそこは浪江の領域でありそれで原町浪江で原浪トンネルとなっていた。
浪江だと警戒区域になっているから入れないのも理不尽なのである
春になるとまた自転車で行きたくなるのである


ともかく津波原発事故から3年目でもこの辺で経験していることは常にありえないことだったのである。
もちろん津波で家を失い家族を失った人は自分以上にありえないことを経験している。
仮設に住んでいる人もそうである。
そういう人の心境はなかなか計りにくいのである。
だから外からあれこれ言われると反発することもあるだろう。

ともかく本当に当たり前のことが幸せだったとは思いもよらなかったのがこの辺でみんなが意識されたことである。

もちろん事故前でも人間はいろいろもめているし事件もあったし酷いことも常に起きている
それは事故前に自分がどれほど酷い目にあったかを書いた
たたその前の30年間は自分にとっても回りも何の問題もなかったのである
自分の場合は姉が認知症になってからすべてが崩れてしまった。
その間の30年間は何ら問題なく楽な平和な日々だった
その30年間は近くでも遠くでも自由に旅していた幸せかあった
それが全くなくなった。

ここ7年間は介護であり自由に出歩けないからなんか今は温泉てにでも入って
食事の用意をされて楽したいなと思う
毎日食事の用意しているとその事から一時でも解放されたいと思う
それが7年間できなかったのである。


ともかく自分の詩のテーマは石があった。だから石に対する思いがあり
原浪トンネルを通ったところに石がいくつかあり休んでいたなと思い出したのである。
そういうことは故郷から離れた人も別に詩にしなくても思い出しているだろう
あそこでどうしたとか畑を耕していた田植えをしていたとか何をしていたとか
農家の人でも他の人でも思い出しているだろう。
実はそういう思い出も貴重なものとなっているのだ。

思い出は明らかにその生活した場と密接に結びついている
その場から思い出しているのだ。
だからその生活した場から切り離されると思い出せなくなる
歴史でも近くの古い碑などを紹介したか
密接にその場と一体となり記憶される
だから場から離れると思い出せなくなる

確かに世は変わっても自然そのものは変わらない
たた津波では松原は消失したのだから変わった
それは元の自然にもどったということでもあった

ともかく浪江の高瀬川渓谷などは景勝の地でありその麓の大堀は相馬焼の窯場だった
あそこは場所がいい、窯元は何か場所がいいところにあると窯元らしくなる
高瀬川の清流の岸辺であり気持いい場所だった
そういう所から離れて住めないということか大堀の人も残念に思っているだろう。
あの辺は線量が高いだろう。


ただ放射能汚染でも自然そのものが失ったわけではない、自然の美しさは今でも変わりないのである。
高瀬川でもそうである。それが放射能の不思議だったのである。
水は澄んでいるし緑も同じだしどこが変わったのかという不思議がある
それでも放射性物質は雪ふってわかったように空気中にただよっている
それを毎日吸っているから何らか影響がある
たたそれを直接的には感じないのである

昨日は寒かったが今日は春らしい日である
それでこんな詩が生まれたのである

posted by 老鶯 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

春の日(原町ー萱浜に行く)


春の日(原町ー萱浜に行く)

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ここまで津波が来たらしい、でもこのからまる藤の蔓は異様である
大蛇が絡まりついているようである
女性にはそういうものがある


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また一軒食堂に入る春の街


新田川水面の光り春の日や我がわたりて原町に来ぬ

春の日に萱浜の沖船のゆく津波の跡や年はめぐりぬ
林の陰池なお凍り高台に今年の寒さここに残りぬ


必ず新田川を渡ると原町である。だから自転車だと新田川を意識する。
川は一つの境として意識する。だから川はやはり徒歩だった昔は必ず意識する
車だと川も意識しないのである。
水面が春の光に反射する光景などでも見れない
そんなの見ていたらよそ見していたら事故になってしまう。
だから車の移動は距離の移動になってしまう
ただ運転しないで乗っていて外をみていると違う。
見ることに集中できるからである。

萱浜も見晴らしがよくなって沖に船の行くのが見えた。
景観的には前と違って海が広く意識するようになった
もともとあの萱浜には松があったが
あそこは何か陰気で嫌だったのである。
松原というものもなく何か陰気だった
あそこて首吊りがあり女高生が殺された。
そのすく一週間後に津波がきた、そして女高生の死体があがったのである

正直、原町の海岸の印象はいいものでなかった
海岸では右田の松原が一番良かったのである。

自然でも何か暗いものが感じるといやになるかもしれない
あそこは女高生の殺人があるまえからなんともいい感じのしないところだった
自然でもそういう場所があのかもしれない
人工化した自然の方が親しみやすいというところもある。
右田の松原はそういう場所だった

なぜか津波の前にあったことが気になるようになったのだ。

自分の一身上でもそうである
犯罪にあい半年以上呪いつづけたのである。
そしてあの津波が半年後に襲ってきたのである。
自分の家も一人が認知症になってからばらばらに暮らすようになった
そして火事場泥棒にもあった
何かそれが回りの状況ともにている不思議があるのだ。
自分の一身上の混乱が回りに波及したように感じたのである。
自分の一身上も地獄であり回りも地獄になってしまったのである。


それから津波の起こる前の夏は異常に暑かった。
あの暑さも何か津波と関係していたかもしれない
あんな暑さを経験したことがなかった
異様な暑さであり空も普通の空でなかった
異常な明るさがつづき曇ることもなかった
何かそうした天気とも津波は関係していたかもしれない
おそらく津波は天体とも関係して起こる
大地震も地球の変動も天体と関係している
ということは気象とも関係しているとなる


そして世の中の人間の社会の腐敗などとも関係していた
現代というのはただ欲望の無限大の拡大であり
ただ金、金、金に追われる生活がつづいてきた
それはどこの家族でも個人でも同じだったのである。
原発とはそうした人間の限りない欲望が作り出したものなのである。
そういうものに対して神が自然が怒ったとういこともありうるのだ

何か人間の社会もすでに腐敗して極限状態にあったということもある
腐敗はもう極限に達して是正できないところまできていた

だからこの巨大な災害は人間への文明への奢りに対する戒め、警告でもあった。
ただ科学的なものだけでは答えが出ない畏怖すべき災害だったのである。


原町てラーメンが300円で食べられ所があった。餃子も200円で食べられる
あれはやすいと思った。あそこははじめて入った。
そういうのがあるから原町は便利なのである。

帰りに川子の高台の池はまだ凍っていた。
今日は寒くはなかったが今年は寒かったからだ凍っていたのである

2014年03月10日

津波原発事故から3年過ぎて (なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている)


津波原発事故から3年過ぎて

(なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている?)



東北の被災地は被災前から高齢者が多く過疎化していた。神戸の復興は震災後2年すると仮設住宅からでて、自力で再建の道を進む人が多かった。都市部で人口も多く、若いひとたちは立ち直って新たな生活を築く力があった。
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-0e49.html

地方都市に行くと、農地の中に住宅がばらばらに点在して、これではインフラの整備が大変だろうと思う。日
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/90e61af78b413efff3f2ebf6c9ed7122


 被災者の人々は、被災前の元の街に戻してほしいという希望が
あると思うのですが、全てが流されてしまった被災地を元通りに戻すのは
現実的には不可能なんおではないでしょうか。
http://ainodennsyobato.at.webry.info/201303/article_7.html


被災地で緊急を要する事案であるのに、
 通常ルールで申請をして、
 許可を得なければならない。
また、復興交付金制度を使い山を削ろうとしたら、
 今度は都市計画設計をしなければならないという
 ルールもある。




今回の災害はあまりにも大きかった。どこがどうなっているのかも近くでもわからない。だから一体どう復興を進めていいのかもわからない、原発事故周辺は津波の被害もあってかさなり何らすすんでいない、今回の復興がすすまないのは社会自体の文明自体の崩壊現象のようなものが起きたからではないかとも書いてきた。
それほど被害が大きくどう理解していいのか何が起きたのか今でもわからないものがある。放射能汚染だってこれも今でもどこまで有害なのかもわからない、その原因をあげたらきりがないだろう。それはすでに現代社会自体の様々な矛盾や問題が災害とともに一気にふきだした感じなのである。


この災害によって今の社会の文明社会の隠された問題も表面にでてきてむきだしになった。だから文明の崩壊現象のようなことが起きた時、それを簡単に復興することはむずかしい。もう前のようには元どおりにはならないというあきらめ感もでてくる。
大きく言えば新しい文明の再構築すらせまられているのかもしれない、そうでなくても今までの規制の社会に基づいた考えでは復興はない、それほどまでに破壊された恐怖だった。だからもううちのめされてあきらめるになる人も高齢化社会ではでてくる。
高齢者は老後は楽に暮らしたいという人が多いからそうなる。
そして肝心の若い人は流出してゆくときさらに街の再建や復興は絶望的になる。


ともかくどれだけの問題がここに生まれたかとても手に負えないものとなっている。
縦割り行政の問題もある。国と地方が対立していることもある。地方自治力の衰えがあり国指導になってうまくいかなこともある。そのことは別に災害前にもあったことが震災後に露骨に現れたにすぎない、すべての問題が震災のためではない、すでにそういう問題が噴出する根は震災前にあったのである。
だからインカ帝国などが滅びたのは簡単に何百人かの侵略者によって滅びたのはその社会がそのシステムが機能しなくなっていて外部からの侵略者によって簡単に滅びたとも言われる。

何かそうした文明のシステムの弱体化とか機能不全状態に陥っている。問題が災害とともに噴出した結果、いろいろ問題が山山積みであり解決しない、人手不足でも深刻であり福祉の建物ができてもそこで働く人がいなとかなり建物より人の確保が大事だともなる。

だから再建しようとするとき今までの社会のモデルを参考にはできない、全く新しい発想が必要だというのもそのためである。
一面これだけ破壊されたらそこには全く新しい構想の街も作りやすいということはある。規制の概念にとらえられない街作りも可能になる。
ただそれもまた少子高齢化で担い手がいないとかなんとか問題が山積みなのである。


歴史をふりかえると農業や漁業や山林業など一次産業主体の社会だったら比較的復興はしやすかったのかもしれない、別に道路だ、水道だ、建物だ・・・と言ったインフラは必要ない、もともとその土地での自給自足を基本にしていたのだから例え津波で水田がだめになってもやはりそれがまたチャンスとなって相馬藩からもわざわざ伊達藩に開拓に入っている。今は農業でも第一次産業主体でないからこの際跡継ぎもないから高齢者ばかりでやる気もないからやめるというふうになってしまった。
高度成長期のような社会ではなく衰退する成熟する社会で起きた大災害でありそれで復興もできない、それはもう個々ではいくら努力しても無理でありもう社会自体が沈滞化して衰退してゆく、街の復興などももうできないというあきらめになってしまう。


まず復興住宅にしても数パーセントしか達成していない、その数が膨大なことと土地も膨大であり進まない、その後の生活設計も見えてこない、だからすでに津波でも原発被害でも被害がひどい街は放棄されつつある。新たな場所に移って再建をはじめている。
飯館村でも長泥地区では建築業の人が福島市に移り再開したからもうもどらない。
農業中心だったら土地が必要でありそんなことはできないが今は飯館村でも農業だけでは成り立っていない、それなりに会社があって工場があって成り立っている。
それはどこでもそうでありだから土地に制約されないとすると他に移っても抵抗感がないのである。


国主導の復興に問題があるとしても予算は国からでくから金をにぎっているのが国だから地方自治体は従わざるをえない、現代とは地方の地方の自治力が弱体化していたから災害でもそうなる。つまりすべての問題は災害によって起こったわけではない、その前からそうした問題は指摘されていた。それが震災であらわになっただけなのである。
だから個々の努力が必要にしてもそこには限界がある。
今までにない新しい社会の構想が必要になる。でもそんてものが簡単に見えないし作れないのである。ただ文明の崩壊現象が起きているからそれほど何か新しいものを作り出すものが必要になっている。


そういうことは明治維新の時にも起きた。社会を根本から作り直す必要にせまられたのである。戦争に負けた跡もその焼け野原は今の壊滅した市町村の状態ともにていた。
ただそうした歴史をふりかえっても今回の方が再建は復興はむずかしいようにも見える。インカ帝国のように社会自体が文明自体が衰退してゆくときに起きたことだからである。つまり大きな文明的問題に直面しているから復興がなかなかすすまないとも言える。
個々の問題は山積みでもそうした大きな社会文明の転換さえ要求されいるうような巨大災害だったのである。




文明が崩壊するのは、「脳が文明を手に負えなくなる」からだ。本書はそう主張する。マヤ、ローマ、クメール、どの文明も、始めは不利な環境や障害を克服して立ち上がった。その後も予想を上回る困難に遭遇するが、創意工夫や多様性で乗り切っていく。しかし、やがて、潜在的な問題が複雑さを増してきて、正しい解決方法を考えることが難しくなる。そして遂に、文明がもつ知識で解決可能な「認知閾」を越えてしまい、問題を次世代に先送りするしかない状況に陥る。これが、文明の滅亡のプロセスだという。

http://honz.jp/9606



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2014年03月11日

原発作業関係ですでに8人が死んでいる (人柱伝説は事実から生まれた)


 原発作業関係ですでに8人が死んでいる

(人柱伝説は事実から生まれた)


●ニュースにならない原発作業員の死


2012/1/17 福島県広野町周辺で日本原子力研究開発機構が実施している除染モデル事業で働いていた男性(59)が作業中に死亡。

2012/1/9、福島第一原発の放射性廃棄物を貯蔵する施設で生コンクリートの流し込み作業をしていた60代の男性作業員が、急に体調不良を訴え、午後5時過ぎに亡くなった。死因は急性心筋梗塞。
2011/12/12 伊達市で日本原子力研究開発機構が実施中の除染モデル事業に従事していた建設会社の男性作業員(60)が 死亡。
2011/10/6 福島第一原発で働いていた50代の男性作業員が死亡。

2011/8/10 原発近接エリアから車の運び出し業務に従事していた本宮市内の1名が死亡。
2011/8/9 原発近接エリアから車の運び出し業務に従事していた田村市内の2名が死亡。
2011/8上旬 福島第一原発で復旧作業にあたっていた40代男性が8月上旬に急性白血病で死亡。

2011/5/4 福島第一原発の現場で復旧作業に当たっていた60歳の男性が死亡。死因は心筋梗塞。


こうした死はニュースにもならならずに忘れられる。そしてメデアで報道されないそれなりに報道されるべき死は無数にある。ではなぜマスメデアではとりあげないのか?
それはこうした死は社会的にとりあげるべきものでも視聴者にとっては興味をひかないからである。

マスメデアは劇場社会では事件を本当のドラマとして報道したて視聴率を稼ぐのである。
]マスとは大勢の人の意味だから大勢の人が興味をひくのはドラマ性があるものと変わったものである。
だから犯罪は一番興味をひく、推理小説のようにいつも興味をひくから
必ず報道する。そしていろいろな死があってもそれは報道しても注目されない。
こうして原発作業で死んだ人も重要なものとして報道されない。
ただマスメデアに対して少人数を相手とする無数のミクロメデアがインターネットに生まれたので
その人たちか取り上げるニュースが生まれた。
それは地方からでも発信できるから様々なニュースがとりあげられるようになったのである。
これらの死の死因が心筋梗塞とか白血病なのか気にかかる。
これはセシウムとか放射能汚染と関係していると言われるからである。
そうしたことがあっても隠されるだろう。
報道することができるものは時の権力者である。
だから相馬藩でも400年前に津波で700溺死とは記録されたが他の記録は一切ない
権力者の都合でそれしか記録されなかったのだろう。


●人柱伝説は事実を基にして現在もある



僕の近所の溜池には人柱の伝説があって、
犠牲になった乙女をマツっている神社まであります。
これってほんとなんでしょうか?
人柱なんてほんとにあったのか疑問です。
溜池にはそういったなんらかの伝説がくっついてる場合が
よくあると聞いたこともありますが。


古天皇の時代(飛鳥時代)、古代の長柄橋の架橋は難工事で、人柱を捧げなければならないという状況になった

人柱の伝説、習俗は世界中にあるそうです。ボルネオのミラナウ族は柱穴を
堀り奴隷娘を落として殺しました。

常紋トンネルは、囚人労働が廃止された大正元年から三年がかりで建設
されたトンネルだから「人柱」の噂になっているのは、タコと呼ばれる
労務者のことだよ。
常紋トンネル付近には、苛酷な労働によって死亡したタコの死体が埋められている
らしく、その数は百数十人と言われている。
「常紋トンネル」という本の中に、トンネルの補修中、壁面から人骨が発見され

「日本の諸侯が城壁を築くとき、多少の臣民が礎として
壁下に敷かれんと願い出ることがある。
自ら志願して敷き殺された人の上に建てた壁は
壊れないと信じられているからである。
http://matome.naver.jp/odai/2135088492256507001

塩田平では、農業用水を確保するために中世から数多くのため池が作られてきた。

手塚地区にある舌食い池には
「堤を何度築いても崩れてしまうために人柱をたてるということになり、村はずれに住む一人住まいの娘に白羽の矢が立ったが、その娘は人柱になる前夜に舌を噛んで自死した。」という伝説が残っている。

すなわち「稲作は、はげしく自然と対立するものであったがために、自然(神)をどのように和め、どのようにして自然の力を人間の側に引き入れるかということが問題となり、神のもっとも喜ぶ捧げ物としてイケニエは準備されたのである。」@といわれている。
http://www3.karuizawa.ne.jp/~nishiiri/hitobasira.htm



伝説が起きるのは何もないところには起こらない、噂だって全くなにもないなら起こらない、火のないところに煙はたたない、
伝説はそれにまつわる何かがあって起きて伝えられる。その意味してるものが何なのか探る必要がある。
人柱伝説は現代にも実際に通じいるからわかりやすい、今でも大工事では事故は起こりやすいし人も事故で死ぬ。
何でも工事とか建築関係は危険な仕事だから3kの仕事、汚い、危険、きつい・・から誰もやりたくない、
でも誰かがやらざるをえない仕事がある。
工事とか建築関係では事故で死ぬ人が結構ある。それは現代でも同じである。

自分もアルバイトで建築関係の仕事をして死ぬところだった。
ビルの高いところで足場を組む仕事をさせられた。
それで落ちる寸前になったことがあった。
あそこでは確実に死ぬところだった。人間はやはり今は交通事故でも人は死ぬ危険性が高い。
別に運転しなくても突然暴走する車にもはねられる。
ただ建築関係は仕事自体が危険である。
そういうことをふりかえるとこんな平和な時代でも良く生き残ったなとかなる。
それは結局運が良かったともなる。

●人間が生きることも文明も犠牲によってあがなわれてきた


ここで指摘していると稲作が自然と対立するものだったということは普通は考えない、稲作は自然と調和するものだと思っている。
でも稲作は相当な人工的な一大文明だった。
巨大な土木事業だった。溜め池を造るにしてもそれも人力が主なときは容易ではない、
それで人柱伝説が生まれる。人柱伝説はそうした文明を作るための犠牲だったのである。
その後も建築家関係や道路でもトンネルでも橋でも作るのには必ず事故で死ぬ人がいる。
つまりいくら機械が発達しても人柱が必要になり死ぬ人がでてくる。


どのようにして自然の力を人間の側に引き入れるかということが問題となり、神のもっとも喜ぶ捧げ物としてイケニエは準備された


この考え方も人間が発祥してからあった古いものである。常に神へ対して犠牲がささげられてきた。
人間が犠牲にされてきたがあとは羊とか牛とかか実際に殺されて犠牲としてささげられた。
犠牲というときこの漢字自体が牛であり牛を犠牲にしたからこの漢字が生まれた。
そもそもこの世を生きることは常に犠牲が要求される。動物の命を奪うことは動物を犠牲にして人間が生きているということである。
たから今でもそのことは同じである。

そういうことから動物を殺して犠牲にしていることからそういうことをしなければならない
人間の業がありそのことを追求して生まれたのがヒンズー教であり仏教であったのだ。
だから今でもインドでは牛や猿を大事にする。牛を殺さないし街中も歩いている。
人間の命も他の生物の命によってありうる。牛でも豚でも殺される時は苦しいしそうして食べるものはありがたいともなる。
一方でそんなことが残酷だから動物は食べないという宗教が生まれたのである。

稲作文明にしても一見自然と調和しているようにみえても自然を壊すということもあったし
溜め池を作るにも大事業だから犠牲がでてくる。そういうことが伝説として残されたのである。

そういうことはマヤ文明でも絶えず残酷に人の命が犠牲にされた。
なぜそんな残酷なことをする必要があったのかというと現代ではわかりにくい。
太陽が衰えて死んでゆく、そしたら生きていけないと人間の命が犠牲にささげられた。
心臓までささげられたから異常なほど太陽が衰えることを恐れていたのだ。
太陽がエネルギーの基となっていたからだ。


このことが原発とも関係していた。
原子力のことは放射線でも実際は科学者でもわかっていなかった。
それは稲作文明も自然を変えることであり原子力も同じだったのである。
つまり原発でも生贄が必要になっていたのだ。
そんなことが非科学的だとなるが原子力にしても人間が全部わかっていないからそうなる。
自然を変えることは自然の力を人間の側に引き入れるということは危険なものがあったからである
。つまり科学であり技術というものは人間にとってすべていいものではなく常に危険があった。
だからこそ業、技(わざ)は災いに通じていたのである。

原発も同じでありそれは恐るべき災いをもたらすものだった。
その犠牲となる人が故郷まで奪われる多数の人が生まれたのも犠牲である。
原発の故に犠牲にされる。これは石油のためにも犠牲にされるということもある。
犠牲という時、戦争だって膨大な人間の血が国家のために犠牲にされたともなる。
だから靖国問題がある。

歴史も犠牲の上に築かれるているし文明もそうである。

人間の命が犠牲にされるからこそ文明はみんないいものではなく呪いが隠されている。
神に呪われてるのだ。だからその神をなだめるために人間の命の犠牲が必要だったのである。それは原発でも同じだった。
そういうことを科学者でも原発にかかわった人達は考えない、科学技術が信仰のようになっている時代である。
科学技術にも神の呪いがふりかかることをわきまえることがない。科学技術も偶像化して万能化して神をないがしろにして
神のごとく人間がなれると奢りになる。その一つがSTAPー万能細胞騒ぎだったのである。
科学技術が万能だというのはまさに信仰に近いものとなっているからそういうものを期待する。
万能に人間はなりえない、そして遺伝子操作した猿が逃げていたとか
そんなことから生態系が破壊されて人間に及び大きな災いをもたらす、
だから科学技術は万能ではなく常に危険をともなっていてそれが人類滅亡にもつながるものだということを知るべきなのである。

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寒戻る(3・11震災の日)


寒戻る(3・11震災の日)


イヌフグリ可憐につぼむ寒もどる

夕光に白鳥美し飛翔かな

震災の日悲しみもどり寒戻る

遅々として復興住宅すすまずに建築現場や寒もどるかな



震災から3年過ぎた。これも一区切りだろう。
もうかわいそだ、かわいそうた、悲しい悲しいの時期は終わりになるだろう。
もちろん家族をなくした人に見ればそれは終わらないかもしれない
でもそうでな人たちにとっては3年目からは関心がうすれてゆく
ボランティアも半分以下にへったことでもわかる
そもそも人間は忘れやすいのである。
だから自分の身にふりかからないことは余計に忘れるのである


ただ今日は震災の日だからこれは記念日としていつまでも残り思い出す日になる。
ただこれからはますます外でも関心がなくなる
そしていつまでもかわいそうだ、悲しい、悲しいという時期は終わる
それよりそれぞれの生活を将来どうするかが関心の的になる
生活再建の方が当事者でも大事になる。

その再建がいかに困難なのか一向に復興がすすまないことでもわかる。
様々な問題が山積みにされていて未来が見えない
ただそれらの問題に一つ一つ取り組んでゆくほかない

近くの復興住宅の団地にしてもなかなか完成しないと毎日見ている
毎日そこを通るから実感するのである。

ただあそこが街の中心であり自分の墓の前に建つから違和感がある。
墓地は何か淋しいところがあっているからだ。
復興団地にしてもあそこは場所が悪いが土地がないので市の土地を利用するようになったのだ。
5つつくらい団地がたって人が入ればそこはかなりの人の出入りが生まれる。
だから何か墓地の前だったということか立地が悪かったのである。
それもこういう状態でどうにもならなかった。


今日も北風が吹いて寒かった。
だからイヌフグリが咲いていたけどつぼんでいた。
それから白鳥が四五羽は夕日がさして飛んでいった。
白鳥は何か夕べによく編隊で飛ぶのが見える。
白鳥の飛ぶ姿は本当に美しい


結局いろいろ失ったけど何か自然の美というのは失っていない
放射能汚染では水が汚くなるとか木や草が枯れるということもない
むしろスモッグとかの方が空気も汚れているように見えるから嫌である
放射能汚染されても空気も水も澄んでいて変わらないから不思議なのである
都会には白鳥でも飛ぶのが見えないだろう。
自然の美は大都会には消えている
だからもともとないのだから失うこともない
故郷と言ってももともと自然はないのだから東京が故郷とはならないだろう。


ただこの辺では実際はいろいろなものを失った。
それは避難者が痛切に感じていることである。
それは金ではあがなえないものでもあった。
だからそうした失ったものを金ではもはや買えない
それは老人とにている。
老人は金があっても時間は買えない
過ぎ去った時間は買えない、もとせない
百億積んでももどせないし買えない
そういう老人の感覚は老人になってみないとわからない
だから老人は故郷に帰りたいとなるのだ