2014年03月01日

津波から三年たつ海老村の状況の写真 (旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)


津波から三年たつ海老村の状況の写真

(旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)

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この字がよめなくなっている

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この旅館の庭は石の庭である
まだ完成していないのだろう



何もなき海老の村かな庭の石点々と残り春の日曇る

碑の一つ字もわからずに津波跡残りてあわれ春の夕暮

春の海曇りて一艘貨物船沖ゆく見ゆる海老の浜かな

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宮城県の人などもきていた

テレビの宣伝でくるものなのだろうか

鹿島区の仮設食堂の双葉はテレビで宣伝したから入るのだという

テレビの宣伝がそんなに効果あるものなのかわからない




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納屋を改造したものだがしゃれた作りになっている

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ニコニコ堂への道はわかりにくい
案内もない
阿弥陀寺と八沢小学校の中間の道である
その道をまっすぐ言くと
マッサージ浅野という看板がありそこを曲がるとある



海老村に南海老と北海老があったが北海老村はほとんど墓地を残して壊滅した。
そこに「富士旅館」というのが建った
あれは津波からも残ったのかと思っていた。
残った家を改造して旅館にしたのだろう。
それはその家の人ではなく外部の人が買い取り旅館にした。
今営業しているかどうかわからない
その前はほとんど全部の家が津波で流された
だから海まで見える見晴らしのいい場所になった

あそこに残った庭の石が散らばり積み重ねられている
あの石にも所有者がいて勝手にはできないという
ただあの場所にはもう住む人がいないのだから
まだ早いかもしれないが公園のような場所にするほかないだろう
だからそこに残った石を活かすかとも考えねばならない
新しく家を建てた人は自分の石をまた庭にもってゆく
残った石は使用しない石は津波の跡のモニュメントのようにする
石を買い取るほかないとなるとまた問題だかこれはあくまでも一つの構想である

いづれれにしろ景観まるで変わったから
あそこの富士旅館は見晴らしは抜群である
そういうことで泊まる人がでてくるかもしれない
津波のことはそこで必ず語られる


石碑が倒れてあった。あれは金砂神社のものなのか?
字すら津波の力でそがれてわからなくなっているようだ
津波で流された石碑はどうなったのだろうか?
それも文化財の消失だった
村ごと消えるなど想像もできなかった


そこからテレビで写された海老の新しい喫茶店を探したがわかりにくかった。
あの辺は屋形村であり海老村とは思えない
まるで隠されるようにあった
入り口に看板もないのでわかりにくかった
六号線のダイユーエイトを海の方に行きそこで曲がり
阿弥陀寺の方に行きそこから八沢小学校の手前の道を入りマーサージ浅野という
看板の所を入って行った場所で本当にわかりにくい
もともと納屋だったのを改造した
中は結構しゃれた造りになっている
人数にしても15人くらい入れるから狭いとも言えない


ただここの弱点は海老村とあっても海は全く見えない
山陰になっていて見晴らしが悪い
見えるのは前の畑と庭である
ここで花などは見れるようになる
喫茶店とかレストランでも立地が作用する
見晴らしがいいと食べるのも休むのもいい
津波の跡でまだ観光気分にはなれないが
海が見えたらやはり気持がいいだろう
海を船がゆっくりと行き来して
カモメが飛んでいるのを見ていると海らしいとなる
あそこはそうした海が全く見えないから喫茶店としては
かなり立地条件では落ちる


海老や屋形村の方から右田の方を見ると低くなっている。
海老村に向かって田んぼは低いにしても段々畑のように高くなっている。
右田村や烏崎は高低ではかなり低い場所であり
それが津波で判明した
この辺で海側で一つ所はみんな湿地帯か海の延長部分だったのである
八沢浦はまさに奥まで入江になっていたことでわかる


ともかく津波から三年たつがその間にまた変化があった
海老村は二軒新しい商売の店や旅館ができた
観光気分ではないにしろ津波の跡地利用どうするかが今後問題になる
津波の跡で観光気分かここで人が死んだんだぞ
そこで笑って観光かともまた遺族からしかられるかもしれない
でもいづれは何らか記念的なものモニュメント化するだろう

三年目はそうした津波の悲しい記憶ばかりを語ることはできなくなるだろう
その跡地をどうするかということが実際問題として考えねばならなくなる

だから庭の石を活かすモニュメント公園もいいじゃしいかという一つの提案である
その庭の石に腰をおろして海を見るということはやはり津波をふりかえることでもある
その石は津波に流されたり残ったりしたものだからである。


海老村に自転車で街に来るニートをよくみかけた。
その人が住んでいる家がわかった。
あそこから見るとスーパーのある街はかなたに見えた。
かなり遠く見えた
だから買い物するだけでかなりの労力である
その人は車がないからそうなる
近くに店屋もない
前は万屋(よろずや)などがあったがそんな店も今はない

だから田舎だと街から離れていかに不便になるかである
タクシーにしても1500円とかかかることになる
だから田舎は広いから車がないと住めない
でも街内だとなんとか住める

つまり田舎は街もあり街から少し離れても農家になり
さらに離れて村があり漁村がありと複雑なのである。
生活も土地土地で多様なものとなっていた
だから田舎のことは都会の人にはわかりにくい
まず誰か詳しい案内人がいないと知っていないと住めないだろう
人間関係も狭いから都会とはあまりにも違いすぎるのだ


こうした土地の距離感とか土地の高低はまず地図など見てもわからない
実感としてわかるためにはその土地を現実に踏まない限りわからない
そこに何か田舎に対しての誤ったイメージを描くのである
ともかく津波原発事故から三年は大きな区切りの年だろう
いつまでもかわいそうな人たちだとかそんなことばかりで
外部の人にあまえてはいられなくなるだろう。
だからいつまでも津波の跡を放置してゆくことはよくない
津波のことは忘れないにしても何らかの対策することが必要である

 
 
posted by 老鶯 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

不便な所から離れてゆく現代の生活 (田舎でも都会と小さな町と村ではまるで違ったものとなるー医療が一番の問題)

 

不便な所から離れてゆく現代の生活

(田舎でも都会と小さな町と村ではまるで違ったものとなるー医療が一番の問題)

●田舎の田舎で困るのは病気の時


現代社会の生活そのものが原発事故などで問われた。
過疎化とか限界集落とかがいつも問題になっていた
それは現代生活が便利になっているから
便利な都会から離れた所は不便であり住みたくないとなった
それで大内村の人が補償金がもらえると郡山市に移り住むと
大内村には帰りたくないとなってしまった

この気持は自分でもわかる。

例えば南相馬市といっても最近小高町と原町市と鹿島区が合併してできた
原町市は5万くらいあって都会だったのである。
5万が都会なのと10万とか30万とか50万とか百万都市に住んでいる人からみたら
そこも田舎だよとなるが住んでみれば全然違う。
原町区と鹿島区がどれだけ違っているのか?
それは病気のときわかる。

また母が小便が出ないと夜に厚生病院に行った
そこは近くタクシーだと600円である。

でも前は歩けないから介護タクシーで行くほかないとなっていた
でもこの介護タクシーは鹿島区にはない
だから原町区とか相馬市から呼ぶことになる
すると一万くらいかかるというからがっかりした
それも理由ははっきりしている
普通のタクシーでも原町に行くと4000円くらい片道でとられるのだから
呼べば当然それだけの金がかかることは普通なのである
タクシーはそもそも長距離になると馬鹿高くなるのだ


そしてここで泌尿器科がないので原町の専門の開業医でみてくださいと言われた
その医者は原発事故以後支援のために入った医者だった
その他に何人か入っているが看護師の支援はないてので看護師不足である
ここでは開業医でも二軒しかないからたりない
原町と相馬市は開業医が多いから病気の時は恵まれている
車があれば楽なのだが車がないとまた通うことも大変になる
田舎では車がないと暮らせないというのは
病気になったらこういうふうに遠くに行かざるをえなくなるからだ


●田舎は広く車がないと不便で危険にもなる


例えば買い物でも海老村から街の方を見たらかなたに見えた。
そこから自転車で行くとしたらかなりの距離になると思った。
街から少し離れているからさらに遠いのである
その離れた距離感が街内に住んでいるとわからないのである
田舎に住んでこの病院や医者の問題が一番困る
健康であればいいが病気になったらへたするとみてもらえず死ぬ
そういう恐怖を何回か自分自身が味わったのである


だからなぜ大内村の人が帰りたくないとなるかというと
まさに高齢者が多いから病気のことで通うに楽だし
先進的な医療も受けられるから郡山市の方がいいとなった
つまり大内村と郡山市の差はあまりにも現代では大いすぎたのである
高齢社会になるとどうしても医療や介護の充実した所に住みたいとなるのがわかる

それがやはり5万の都市や10万の都市や20万の都市では格差が生れる
何かむずかしい病気になったらもお手上げになるのが過疎地域である

その過疎地域というとき南相馬市は市だから都会だと思っているが
その範囲は広いのである。

鹿島区は原町とか相馬市とすると急に田舎の村とすら感じる
その一番の要因が開業医や病院の差だったのである
もちろんその他レストランでもいろいろあり便利なものがある
それらはいいとしても病気だけはどうにもならないから困るのである


●田舎の人間関係は狭く陰湿でも抜け出せない


原町が都会だという時やはりおそらく人間も街内に住んでいれば
都会的になりあまり他人を詮索するようなことはないかもしれない
人の出入りが多いとやはり都会化して他人に無関心になる
それはいい面と悪い面がある

隣の人の関係は良くなくても水道管が破裂して水が流れだしていた時
水道の元栓を閉じてくれたのは助かった。
田舎ではいつも見ないようで見ている人がいるからだ
隣にも迷惑かかるときがあるからそういう面ではいい


でも街内といっても一万くらいの街内とまた少し離れたところは農家が多く
その人はそういう中で暮らしているので親戚も多く見張られていて
年取った女性でも中には入れないという
その人も75才だから相当な年である
それでも見張られていることでだめだとなっている
それだけ回りがうるさすぎるのである
監視カメラが田舎では人間になっているのだ
逐一人間が監視していて報告されるのである


田舎は物凄く陰湿です。

住民間の陰口は頻繁にありますし、親戚が何らかの問題を起こそうものなら、白い目で見られた上に徹底的に誹謗中傷されます。ですので、足を引っ張られないように、身内の恥をとかく隠そうとし、それが田舎の隠蔽体質へと繋がっていくのです。
更に。金持ちなどは、事件の揉み消しや隠蔽を平気でやります。最悪の場合、被害者が悪かったかのような中傷まで流れ、被害者側が住んでいられなくなって土地を出て行くなどという信じられない蛮行が起きたりもします。
こういう田舎では殺人事件だって起きますよ。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q111198476


くだらない噂好きな老人も多いです。毎日暇なのでしょう。私の母親が親戚のおじちゃんと一緒に車に乗ってるだけで不倫の噂が。親戚ですよ?親戚。呆れて怒る気にもなりませんでした。
http://loco.yahoo.co.jp/qa/11110744421/


山口県周南市金峰地区郷集落で起きた連続放火・殺人事件があったがこれは地理的には相当に辺鄙な所だった。
まるで閉塞された山間の少人数の高齢者が多い村だったのである。
こういう場所は地理的にもそうだが狭い人間関係から逃れられない
すると出れないとなると相手を殺すまでなる
そういう怖さを田舎は秘めているのだ。


最近つきあった人はまるで絶えず周りの人に追い回されて窮地にたたされている。
なにかやと噂をたてられ逃げ場がない状態になっていた。
でもここから出て行くことができないから狭い場所で耐えているかほないあわれさである
自分の場合は田舎でも田舎の人間とかかわっていない
ただ家族が一人死に一人は介護になり全部家のことを一人でとりしきるようになって
外部と接触せざるをえなくなり犯罪にもあうしまたそうした田舎の人間関係の窮屈さを知ったのである。


ただこの辺は津波原発事故であらゆるものが急変してしまった。
だから外部からも人が相当数入り田舎の閉塞的な人間関係でないものも生れた
村自体がなくなるような激しい変化で今までの村だけの人間関係も破壊されたのである
そういう大きな変化の中で人間関係も変わった
村のコミニュティすら破壊されてしまったのである
だからこういうときは新しいものが生れやすい
古いものが全部失ってしまったらなくなってしまったら
そこには新しいもの作るほかないからである
ただその変化があまりにも大きすぎて以前としてとまどっているだけなのである

 
 

2014年03月02日

広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの (愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

 

 広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの

(愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

小さな畑で野菜を作っている人が雪で野菜がだめになったというとき
農業は天候の影響を受けやすい、だから農業が中心だった時、
農家でなくても天候に敏感になる。
日本では特に四季の移り変わりが激しいから季語が生まれ俳句文学が生れた。
体力では天候が毎日からりと晴れるような所では天候のことをいちいち言わないだろう。
ともかく雪で野菜がだめになったと野菜を作っている人が言う時、
直接田舎に住んでいる人にはひびく、それは他人事ではないからだ。


それが広域化グローバル化したときどうなったか?
確かに大雪で野菜がが一時的に高騰はした
でもある県でとれなくても別な県ではとれる
北海道でとれないなら九州でとれるし入ってくる
そうなると自然災害でもあまり影響しないともなる
ナーニ日本がだめなら外国から買えばいいともなっている
そういう感覚は戦後20年くらいまでなかっただろう
そんなにまだグローバル化経済になっていなかった

戦後十年は江戸時代の延長の自給自足生活だった
食べるものも燃料も炭でなんでも地元にあるものでまかなっていた
だから農家では納豆まで作っていたのである。

地元で暮らすということは地元の土地の実りと地元の人の労働によっていたのである。
そこに自ずと地元の人の連帯が生れていたのである
まさに協働が共同となっていた。

小さな畑で野菜を作っている女性はいろいろとその苦労を語る
すると野菜一つとるのにも苦労しているなと思う
つまりその野菜ではないモノではない
苦労して作っているその人自身が価値がある重みあるものとなって訴える
その人があって労働があって野菜が作られている
その労働にも価値があると実感として思う
モノより人に注目されるのである。


ところが現代ではモノは商品としてあふれているがモノに注目して
それを作り出している人には注目されないのである
小さな畑でも苦労して野菜を作っているものをもってくれば
それはどういうふうに作られているから実感としてわかる
するとその野菜も大事だがその人が大事であり注目されるのである
でもモノが全国から世界中から入ってくるときは
人より金が大事になる

金があれば別に大雪になっても外国から飛行機で買えるということもある
ただ今回の大雪は交通にも影響したから別だった

普通はモノはいくらでも入ってくるから金さえあれば買えるとなる
第一そのモノがどうして作られたかなど想像すらできないのだ
モノはその土地からも人からも分離してしまっているのが現代である。
だから意外と愛郷心などなくなっているともいえる
別に金さえあればどこでも暮らせるではないかとなるからだ
それでこの辺で原発事故で故郷に住めないとなったとき
若い人は簡単に多額の補償金をもらって別な所に住んだ方がいいとなり
家も建てたり帰らないとなる

つまり愛郷心というのはその土地と人と密接に結びついて育まれるものである

現代はそれは分離してしまった、田舎でもほとんど会社員だかから愛社精神はあっても
愛郷心はうすれているのだろう
原発事故では避難区域になったところは実際に東電の廃炉事業の拠点の街として残そうとすることでもわかる
市町村が実は東電の社員になっていたのである
トヨタの社員になっている市長村もある

愛郷心は人と人のつながりのなかで愛郷心が育つ
人と人との結びつきが広域化グローバル化経済で破壊されると愛郷心もなくなる
だから愛郷心が希薄化するのはそうしたグローバル化経済が関係してたのである

田舎は本来は協働共同社会であった
田舎は陰湿だというのもそこにはマイナス点としてあった
ただ田舎では土地と人と人のつながりが強かったから助けあう社会でもあった
助け合うという意識をもたなくてもそうした自然環境の中で自ずとそうなっていた
「たすけあいましょう」「親切にしましょう」「・・しましょう」というとき
それがなくなったから声高に叫ばれるのである
連帯がないと「連帯、連帯」と前の全学連のうよにスクラムを組んでデモになる
そういうところは連帯がないからこそそれを声高に叫んでんいるのである


現代はグローバル化経済はモノだけどこからでも流通して暴力的にすらなっていると思う
そこで肝心の人に注目されないし無視されている
すると金だけが唯一の価値として物神崇拝になるというマルクスの理論が受けたこともわかる
いくらモノが流通しても金で買えても人間の心はばらばらになっている
自給自足経済では人が大事であり人と人が結び合いその地域を支えあって暮らしていた
だからこそ愛郷心が育まれた

「この野菜は私が耕し苦労して育てたものですよ、買ってください」
「そんなものより、もっといいものがスーパーで安く買えるよ、だから買わない」
こんなふうになるともう地域の連帯もなくなる
人と人のつながりもなくなる
ただグローバル化経済の中で価値あるモノを作らない限り生きていけない

でもいくらいいモノを作って売れても買った人と作った人の連帯は生れない
もっといいモノが売られているよ、じゃ今度はそっちを買おうとなるだげである
そういうところに人と人の持続的連帯など育ちようがないのである

だからインターネットで生産者と直接結びつくような販売で
雹がふってアスバラガスがとれるのが遅くなったが一週間がまんしてくれと連絡があった
契約している消費者はその一週間を耐えた時、生産者との連帯が生れた
でも現実は別に他からいくらでもメキシコ産の太くて安く売っていたよとなれば
そっちを買うのがふつうなのである

だから広域化グローバル化経済はいいようでも人は常に無視されている
作っている人は注目されないのである
だから互いの連帯感も生まれないのである
ただ金だけがあればいい、金さえあればモノは買えるし腹は満たされるという考えになってしまう
それがかえってモラルの荒廃を生み人間同士がバラバラになってしまっているのだ


追記 
労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そして自己の実現の諸条件からの分離を不埒な強制された分離だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「経済学批判要綱」『マルクス資本論草稿集A』S.371)。「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「1861-1863草稿」『マルクス資本論草稿集H』S.2287)。

なんだかこれもむずかしいけど労働が本当は一番人間にとって大事なものだということ
労働が自己実現の道であるということ、それが広域的グローバル化経済では労働の価値とモノの価値が分離させられるということ


「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――
強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること


モノだけが注目されて人が注目されない、人の労働の価値がモノより注目されない
モノと人の労働は分離している
むずかしく言えばそうなるが簡単な例で言えばそういうことは狭い範囲の経済活動でもわかる

この世の中のことは具体的な生活にこそあるのでありマルクスの理論でも
その一面をとりあげたものにしかならない、ただそれがグローバル化経済で顕著になったから
マルクスも見直されるのである


 
 

posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2014年03月03日

海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた (海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)


海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた

(海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)

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ニコニゴ堂の住所
福島県南相馬市鹿島区北海老字藤金沢110


あそこの喫茶店はどうみても屋形村である。海老村とは思えなかった。
そこで前に書いた海老村の発展経路が間違っていたことに気づいた。
なぜなら南屋形村が岩松氏の阿弥陀寺があり鎌倉時代にさかのぼり一番鹿島区では古い。
その南屋形村から海の方に向かって北海老村と南海老村となったと解説した。

しかし北となると方向が違っていた。
南屋形から見て北の方向にはない、北屋形村が八沢浦の方にある。
それは明らかに南屋形から見て北の方向になる。
ただ北海老村が明暦からの記録がある

南海老村は寛永からの記録がある


慶長元年 1596


1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸地震津波で相馬藩で700人溺死


元和元年 1615

寛永元年 1624 寛永中田ほ査丈士位上、村秣千五百三四石五斗六升四合 南深田この時にあり海老一村なり

正保元年 1644
慶安元年 1648
承応元年 1652
明暦元年 1655 検地開始
万治元年 1658
寛文元年 1661
延宝元年 1673
天和元年 1681
貞享元年 1684
元禄元年


南海老村の方が北海老村より記録的には古い、南海老村は新しいものかと思った。
すると南海老が北海老村より古いとなる。
そうなると海側に進出してそれから山側の北海老に住居を広げたのかとなる
山側は津波の後にかなり新しい家が建っているからそれなりの土地があった
そこは津波の来ない高台にあった

では南海老が北海老より古いとするとこれも解せないのである
ただ地形を見ると南海老であれ山側はかなり急な山の斜面になっているから
人は住みにくい、屋形の北海老はまだ住むのにはいい
それでも南海老から北海老村に別れて発展したというのも解せない
北屋形村から北海老村に山側から発展するのはわかる

でも実際は南海老に人家が寛永時代から集中したのである

人口が集中したから下海老村と上海老村は南海老村から分かれたのである。
北海老村ではない南海老村に集中した。
そこは海に面して今回の津波で壊滅した地域だった。

南海老が北海老より早く開け屋形よりも早く田も作られていた謎である。


そして最大の謎は慶長三陸津波の後の寛永元年に鹿島町誌に記録がでている。
慶長三陸津波から一二年しか過ぎていないのにそこに人が多く住み始めて
田まで作られていた。
何らか慶長津波では今回のようにそこはどうなってしまったのか
その時はまだ人がすんでおらず津波で人が死んだりしなかったのか?
津波で死んだとしてそこに一二年後に住み始めたのだろうか?
現代の感覚では住めないというのが普通である
もちろんそこが津波の被害にあったかどうかは皆目不明である。

ただ慶長三陸津波は今回と同じくらいの津波だとすると何らか被害があった
その時どれくらい南海老村に人が住んでいたのかわからない

ただ南海老村が屋形より古い記録があり人が古くから住み始めた。
それはもともとあそこは海側は湊ととなっていて塩などをとっていた。
魚もとっていた。明治時代には帆掛け舟もみかけたと聞く
すると海の幸を求めて早くからそこに人が集まったのか?

でも慶長津波から一二年後にそんなところに人が集中するだろうか?
今回のように北海老村の山側に住居を写して北海老村ができたのか?

何かここにも慶長津波の謎を解く鍵がある
慶長津波は烏崎にもかなりの被害を与えた
ただそこがどういう状態だったのか
人が住んでいたのかどうか
ただ記録的には岩松氏が上陸した地点であり
すでに人が住んでいた。
だから慶長津波の被害があった


つまり一見浜側は新しく住み始めた人たちだったとしているがそうでもないのかもしれない、
田んぼがなくても米がとれなくても魚介類をとっていれば縄文人のように一応飢えずに暮らせるということもある
だから海側でも早い時期に人が住み始めたということがある

慶長津波をもし南海老村で経験した人がいてその一二年後に住みはじめることがあるのか?
その頃は津波に対する考え方も違っている。
三陸ではあれだけの被害があってもやはり海側に何度も住んでいる
それはそこが魚介類がとれて便利だからである
だからここでもそういうことがあったのだろうか?
つまり生活の糧を得ることが先決であり
津波の被害より当時はその方が大事でありまた住み始めたとも考えられる
今の時代との考え方は違っているからである

ただ今回の津波を経験した人は怖くて絶対に住めない
だからその当時だって津波を経験したら住めないと想像する
それでも背に腹は代えられないと住んだのだろうか?


追記

北海老村に古墳群があったから北海老が南海老村よりは古い地になる。
南海老村にはないし貝塚も鹿島区では発見されていない
するとなぜ南海老村が鹿島町誌では寛永からの記録があるのか
それは魚介類をとるためとも思えない
田があったとするとあそこは津波の後も田として開拓した

慶長津波の後に相馬藩の侍が伊達藩の津波の被害のあった地点に開拓のために移住した。
津波の後でも開拓していたのが当時の状況である
すると海老村もそれとにた状況があったのか?
慶長津波から一二年後でも開拓する場所を求めて田を作った
そこは無所有の土地でありそこで早くから開拓に入った
他の土地は岩松氏などの所領であり開拓に入りにくかったのか?
伊達藩でもそこに開拓する人手が必要になり敵方の相馬藩の侍でも受け入れた

いづれにしろこの謎もまた深い
でも一つの発見でありまた研究すれば津波のことがわかる可能性はある
ただその資料は少ないしその謎の解明は容易ではない

posted by 老鶯 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

春北風(原町まで行く)


春北風(原町まで行く)

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街中の樹々をゆらして春の風

春北風に向かいて走るゆるる樹々
やさしくもさざ波よせて春の鴨


松風の鳴りてさわぐや春の雲丘の上に浮き春日輝く


今日は明らかに春北風(はるきた)だった。
北風でも春の光がさしてそれほど寒くないから
北風に向かって自転車で走っても気持良かった。

原町では街中の樹々がこの春北風(はるきた)にゆれていた。
原町は一坂越えれば行けるから便利である。
高見食道のサシミ定食を食べた。
あれはお得である。750円ではもうけがでているように思えない
ランチではもうけぬきで出している所があるからそうなるのだろう


帰りは川子の丘の森を下り帰ってきた。
松風がなり春の雲が浮き気持よかった
あういう近くに森があることがいい
遠くだとなかなか行けないことが問題なのである


真野川には鴨とカモメがいた
鴨もそろそろ渡りであり帰るのだろう
ここには前に白鳥が来ていたが今年は来ない
餌をやらないから来ない
他には来ている
時々白鳥が飛ぶのか見えるからである
その白鳥も帰る


この頃春北風と東風(こち)が交互に吹く
不運だったのは東風が吹いた時、原発が爆発したのである
その時雪もふったからさらに不運だったのである

東風は何かかなり遠くから吹く風と感じる
日本列島の九州のかなたから吹く風のようにも感じる
太平洋側だとそう感じるのだろう
何か北風は山から吹いて遠くから吹く感じはしないのである

事実東風は川俣の山を越えて吹いていた
だから福島市の方に吹いて放射性物質を運んだ

一方で郡山市や白河などが放射能汚染されたのは
一旦北風で運ばれたものが今度は東風が吹いて放射性物質が運ばれた
福島市の方から吹いた北風はなかった
それだけ風は計りえないものがあるのだ

 
 

南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった (津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)


南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった

(津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)

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南海老村の領域には広い田んぼがあった-クリック拡大

そもそもどういうふうにして海老村でも烏崎村でもできたのか?
磯部村でもそうである。
そこは海岸線に密集して家が人が集まってできた村である
だから何か漁業と関係してできたように見る
でも最初は漁業はそれほど盛んではなかった
鹿島区でも小高区でも縄文時代の前期は海側に集落がなかったのだろう
後期になり海側に進出して集落を形成した
だから縄文時代も海の幸の恵みは受けていた

だから鹿島区の桜田山の下に縄文時代の遺跡があり
そこにはいろいろな魚が食べた跡や鹿を食べていたことがわかっている
つまり魚も食べたし鹿も食べた
「狩浜」なとの地名は鹿などを狩りしていたから海側でもついた名だろう
鹿島区では桜田山の下辺りが海からかなり引いた所だから縄文時代は
住むには適地だったのかもしれない

山側の北海老村に古墳があるというとき今の南海老村はその後に住む人が集まった

ではなぜ南海老村がすでに人が住んでいて
慶長三陸津波の12年くらい後にまた住みはじめたのか?
それは日本の土地が山が多く平地は湿地帯が多く米作りする土地がなかった
葦原瑞穂の国というときそうだった
平地があっても湿地帯が多くまた山が多いから米作りする土地が確保しにくかった
中世でもまず鹿島区では江垂の中館とか屋形でも山側に敵から守るための
館(たて)を作った、館とつく地名は中世の城であった
それは多々敵から守るというだけではない、
平地が湿地帯であり住みずらいということがあった

湿地帯には害虫も多いし蛇や蟹や害になるものも多い
それで蛇田とか蟹田とかの地名はそういう所に田を作ったからである
また沼田という地名が非常に多いのもそのためである。
今回の津波では本当にあちらこちら沼が生れて湿地帯化したのである

まず縄文時代のような狩猟と漁労とかの生活では人口は増やせない
一定の人口しか保てないだろう。
弥生時代になり稲作がはしまり飛躍的に人口がふえる
それだけの人口を養えるのが稲作だったのである。

だから北海老村に大きな藤金沢の溜池がある。
それは拡張されて大きくされた
その功績があった人の名も伝えられている
その水は南海老の田んぼに流れていたのである。
南海老村は御刀神社の辺まで広がっていた
つまり南海老村は田んぼの領域が広い
漁村とは違っていて田んぼが干拓されてできて南海老村ができた


だから結局なぜ津波の後に12年くらい後に干拓して住みはじめたのか?
普通ならもうそんな津波の被害のあるところには人は住まない
ところが当時の事情は平地がない、米作りには平地が土地が必要だった
山側では稲作する土地が得られないである
すると現代のように津波の被害のあんたところはこりごりだと街に移り
そこで会社にでも入って新しく生活をやり直そうとかにはならない
そういうことは簡単にできない
生きる糧はその土地にしかないのである
するとどうしても津波の被害にあってもそこで米作りする他ないとなる
それが津波の後の12年後くらいでも住んだ理由なのだろう
それは伊達藩でも同じであった
米はすでに江戸に船で運び商品として売っていたから津波の後でも
米作りをやめるわけにいかなかった


結局日本は土地がない、山国であり土地が極めて制約される
平坦な土地も湿地帯であり条件が悪いからそこで苦闘した
田下駄とか下駄は湿地帯で米を作るためのものだった
下駄の起源がそこにあったことでもわかる
湿地帯との苦闘の歴史が下駄を生み出したのである


磯部村でも南海老村でも烏崎村でも海岸線に家が密集して人口が集中したのは
漁業のために見えるが違っていた
その後背地は広い田んぼであり稲作をしていた
大内村で海老村と同じ地形があった
山側に先に館が作られ海側へはあとに人が住んだ
それが津波で明確にわかった。
海側に住んだ人は津波の被害にあい山側に住んだ人は無事だったからである

その後に南海老村が上海老村とか下海老村とか人口も増えたのは
それは海と関係した仕事が増えたためである
何らか塩を作る技術とか舟を作る技術とかがもたらされ
海の幸を得ることができて南海老村は人口が増えた

ともかく慶長三陸津波では相馬藩で700人溺死している
その数は当時からすれば相当な数であり被害である
そのことはすでに海岸側に人が相当数住んでいたからそうなった
縄文時代あたりだったらそんな被害はない
もともとそこには住んでいなかっただろうからである

結局自然の制約を越えて無理に田んぼでも干拓して造らねば人口はふやせない
稲作文明も人工的文明でありそれは自然に逆らうものがあった
それは文明というものはみんなそうである
ただ稲作は第二の自然であり松原もそう見ていた

ただ原発でもそれは文明の成せる業でありそれが自然の報復を受けた
津波もまた自然に逆らって海側を干拓して田んぼを作り集落を作った
そのことが津波の被害を大きくしたのである
でも稲作文明を維持するためには土地が必要であり
そこにまた住まざるを得ない宿命になっていたのである

だから原発がやめられないというとき文明をやめることになるからできない
原発と心中するほかないと言った時、稲作文明にも言えたのである


日本にはふえる人口を養う土地がない


これが満州まで土地を求めて戦争までになった
日本の悲劇がここから生れていたというのも日本の歴史だったのである


不思議に今もその問題は継続している。
津波や原発事故で全壊した家が南相馬市で4600軒もあった
そして住宅地にする区画が900も必要だという
そんな土地がどこにあるのだろうかとなる
でも実際は広大な田んぼはまだこの辺にはある
そこに建てたらいいじゃないかとなる
でもそこは農地であり簡単に宅地にはできない
その発想は以前として土地が大事であり農本主義的発想である
農か基という発想である
それは自分も田舎は農本主義であるべきだと思う

でも津波や原発事故でそうもいかなくなっている
つまり復興住宅の用地がそれだけ必要なのである
そうなると田んぼでもつぶしてそこに建てる他ないということにもなる
それては農業は破壊されてしまうとなるのもわかる
そのことは津波の被害があった慶長三陸津波の時と同じなのである

いづれにしろ津波原発でこの辺で課せられたものはあまりにも大きすぎたのである
だからどうしたらいいのだろうとなるときただ困惑するだけだと今でもなっている
「もう農業なんかみんなやめたかったのだからこの際やめる」
そんなふうになるのもわかる

では農業やめてこの辺は何を主要産業にするのだろう?
結局浪江町のように廃炉事業の基地の街にしようとなった
そんなものしか思いつかないのである。
後は核の廃棄処理場でありそんな市町村が何なのだろうとなる
殺伐とした風景となった原発事故の廃墟の街なのだろうかとなる
石炭全盛時代に栄えた街が衰退する、夕張などと同じになるのだろうか
津波から原発事故から三年過ぎてもその被害が大きすぎるから未来が見えないのである

それにしても自分はいつも海側の田んぼを見ていた
黄金色に実る稲穂の原をみて松原を見ていたのである
ただそこは右田の松原であり南海老村の領域が先立ったとは思わなかった
これも意外と地元のことですらなかなかわかっていない
農業はやはり実地に農業している人でないとわかりにくい
屋形の農家生まれの人の話を聞いて実感したのである

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2014年03月04日

春の日(猫の俳句)


春の日(猫の俳句)


猫の毛に春の光や餌をやる

我が庭の猫の行き来や福寿草
雪とけて外を歩むや猫の恋
野良猫も冬を越したる庭通る
春の日や空部屋一つ猫の住む
座布団に猫の眠るや春の夜


野良猫に餌をやったらすみついた。一つ部屋があいていたらそこにずうずうしく眠っている、
それはかわいいのだけど猫を飼うこともめんどうである
ただ猫が通っているからネズミが来なくなったというのは本当かもしれない
ウグイスが部屋にまぎれこんで猫がとって得意そうにもってきたのには驚いた。
その時はにくらしかった。


春になって猫にも春の日がさすときその毛にさすからふはりあたたかいと思う
なぜなら今年の冬は寒かったし大雪だった。
その時を一緒に過ごしたから猫も冬が過ぎてあたたかいとなる
その毛もやはりいっそうあたたかく感じるだろう。
野生の動物は衣服を着ない、だから余計に自然をそのまま感じる
人間はそうでないから自然を直接に感じない
車だと風だって感じない、雨も感じない
だから風流かない、自転車は感じるから風流がある
車は外の空気にふれないのである


猫がペットを介護までして墓までたてるのはやはり現代の世相なのだろう
ホームレスがペットの方が大事にされているという時そうである
それだけ人間不信という人間に嫌気がさしている人が多いのである
ただ動物を飼うのはめんどうである
だからどうしても捨て猫がり野良猫がいる
この辺でも気づかなかったが5匹くらいは知っている
野良猫は飼い猫の家に集まってくる
それでコタツに野良猫が入っていたのには驚いた。
野良猫は餌をとるには相当厳しいだろ

だから家にいついた猫は今でもなれない
近づくと歯をむきだしてふれさせない
それだけ野良猫化して厳しい目にあったのだろう
これは人間でも同じだろう
あまり厳しい目にあうと人間不信になる
人間か信じられなくなるのだ
その怒りがこの猫から未だ消えないのである


ともかく今年の冬は大雪もあり寒く厳しかった。
野良猫だって家の猫も寒さでは同じだった
だからこの春は猫と一緒に春の日をあびて安らぐ
ペットを飼うのは現代は家族が少ないし
家族代わりにもなっているのだろう
ただ猫はあんまり増えると困る
だから餌をやるなというのもある
必ず捨て猫か増えて困るのである


相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う (権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

 

南相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う


(権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

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陽山寺はここが起源になっている


相馬郷胤【そうま・さとたね ?〜1601(慶長6)】
義胤の弟。父盛胤の隠居地、田中城(館)で同居し、盛胤が中村城に移った後は田中城代となる。

南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
http://musubu.sblo.jp/article/14899907.html


ここに田中城主の郷胤の墓があったことは気づかなかった。
確かに慶長と記されているから相馬藩内を調べた年号では自分が見つけた限りでは一番古い。
この郷胤が死んだあと慶長16年に慶長三陸津波が起きた。
つまり10年後だったのである。


ではなぜここに屋形村にあったのか?
田中城内にあればわかる
でも離れた屋形村にあった。
なぜ墓をどこに作るかはどうして決めるのか?
これもわかりにくい
単に適当にその墓の場所を決めるのだろうか
この墓はもともと郷胤の墓のみであり
孤立した墓でありあとにつけくわえられた墓もある
ただ別に田中城からそれほと遠いということではない
その距離が問題かもしれない

もう一つの問題はここに城主だけの墓を作ったことである
田中城は滅びたのだから田中城内には作れなかった
それでも田中城近くにはかか作られたのがわかる
自分が城主だからその近くにありたいということは人情である


田中城滅びて近く郷胤の墓のありしや春の日暮れぬ


慶長の年号確か郷胤のここに眠るや春の日さしぬ


いづれにしろこういうふうに相馬藩では権力争いのことは詳しく記されて残されたが
慶長津波のことは700人溺死としか記されていない
だから歴史というのは民衆のことは消されやすいということだろう
歴史を記すものが権力の興亡にかかわって生きているからそうなる
権力闘争の中で歴史を記す人も生きていて何が大事かとなると
自分の身がどうなるのかということがあり権力闘争の結果が自分にもひびくから
ことこまかにそうした跡継ぎ問題とかは記される
その中で民衆のことは忘却される

それは津波の被害でも原発事故でも同じ傾向があった

原発の安全神話は権力をもつものが操作して作られたのである。
現代の権力構造は複雑であるがやはり事故の後に明確になった
政治家官僚(検察)宗教団体、労働組合、漁業組合、マスメデア・・・
現代の権力を作るものが安全神話を作っていたのである。
そこには金が流れていた、マスコミには宣伝費として流れていた。
宗教団体にも雑誌の宣伝費として流れていた
それはあらゆる所に金がばらまかれていたのである。


歴史がはじまって以来、そもそも権力者が民衆のことを考えるだろうか
考えるとしても権力を得たいためであり権力をもちたいためである
議員でも民衆のためとか嫌になるほど訴えるが自分が権力を得たいためであると
議員自身が言っているのだからまちがいない
戦国時代とか江戸時代はそうした嘘はない
ただ力あるものが上にたち治める
民衆のためとかという現代的感覚がないから正直である

現代は大儀名文ばかりで心にもいなことを平気で言う時代である
民衆のことなどどうでもいい、俺は議員になり威張りたい、金も得たい、
そのためなら嫌なことでもするし心にないことも言うし嘘もつく
それは自分の欲望を達するためにそうするのである
だからあらゆる所で正直さをなくした社会ともなる
二枚舌になりやすい社会と言える


こういう激しい権力闘争の興亡の後に慶長津波が起きた
それは何を意味しているのか?
やはり世が乱れる時、自然も乱れる
貞観津波でも蝦夷征伐の時期であり世が乱れていた
慶長津波の時も戦国時代の延長がつづいていた
そして大津波が来たのである

そして今も世は大きく乱れている
そういう時、自然も乱れ大災害が起こる

つまり700人溺死としか記されなかったことが権力者への抗議となっている
その惨状を苦しみをとりあげ記述していない
そのことが実は民衆を無視していた証拠である

歴史として記されないから存在しなかったとなる
蝦夷の征伐についても蝦夷について記されないのは
歴史は勝者の歴史だから記されないのである
大和朝廷に征服された蝦夷についてわからないのはそのためである
それは民衆でもそうであり民衆のことは記されていないのだ


ただ現代の進歩は民衆が伝える力を訴える力をもったことである。
ただそれも巨大な数となり団体となりしないと訴えられないのは同じである
だからまた民衆が今度は権力をもつ時代になった
でも国民戦争になったときもやはり権力者に操作されるということは常にあった
結局民衆も権力を求めている。
つまり人間の欲望は消えないし権力をもって上にたちたいというのが民衆でもありみんな同じなのだ。
虐げられた人間は特にそうなる。そうした状態に満足する人はいないのである


ともかく実際に津波で死んだ人がいてそれをいたむことがあってもいいはずである
相馬藩の侍は教養かあるのだから歌を作っていた
そしたら歌の一つも津波の被害者に対して作っているのが普通なのである
それが一切ないということは謎になる
何か津波の被害を無視したとしか思えないのである
どうを考えてもまた慶長津波の被害にあった

民衆にしても何も伝えなかったというのも謎である
いくら伝える術がないとしてもそれだけの被害かあれば
やはり子孫に伝えようとするだろう
すると何かしら伝説でも伝承でも残っていいはずなのである
そういうものがほとんどないということがやはり謎なのである

現代ではこれまでも個人が何かを残し訴えることはやはりむずかしかった
本など出版できるのも権力をもった団体の後押しがないとできなかった
だからこそ原発の安全神話は作られたのである
インターネットは最近のものだがそうした個人が発言することを可能にした
影響力は弱いにしてもやはり一つの進歩である

これだけ津波のことにくいて写真でも残して本でもインターネットでも語られたら
400年たったら忘れられるとは思えないのである

ただかえって記録過剰で肝心なものが見逃されるということはありうる
地元のことでもこんなに身近にあったものが今頃、もう死も近いというとき発見していることでもわかる。
近くでも人間は知らないことが多すぎるのだ。
かえって地球の果てのようて所に行くことができるから
そっちの方に詳しい人も現代ではいる
しかし肝心な一番身近な所を知らないという皮肉が現代にある。
灯台下暮らしはこれがたけの情報社会でも同じだったのである。
津波のことをもっと関心をもっていいはずだったが全くもたなかった。
原発でも近くでも関心をもたなかった
それが危険につながっていたという皮肉があったのである

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2014年03月05日

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史 (戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)

 

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史

(戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)

 


慶長3年小高城より牛越城に移る慶長6年 田中城郷たね病死 屋形村北原に葬る この菩提の位牌所として鹿島村に陽山寺を建立
慶長11年 参勤交代始まる、江戸屋敷を置く
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加



慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない

中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える


寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、
馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた

それで新田開発を一人十石限りとされた
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも


津波があった前後の日本の政治情勢は戦国時代の延長でしり不安定だった。
そういうときに津波の被害があっても政治の優先課題は別な方にあった
財政的にも苦しく津波の被害者に注意を払う余裕がてかったのである
つまり津波の被害者をあえて無視するというより混乱期でみる余裕がなかったのである。
ただ被害にあった民衆にすればそれだけの被害だから何か伝えるものがあってもよかった
それがないのはなぜなのかということは謎である


給人の知行開発が多いということは開拓が盛んに行われた。
それでもともといた百姓が土地を奪われて困った
前にも述べたように戦後十年までは土地が生活の糧だったからそうなった
明治になって八沢浦の開拓、大正になっても
小高の井田川浦の開拓とつづいていたのである

このことは津波の被害があっても土地を開拓しないと人を養えない
だから津波の被害のあった所でも開拓をすすめた
それは伊達藩の被害も今回の津波のように被害が大きかった
そこで相馬藩の侍が開拓に入ったというのもそのためである
相馬藩には津波があったときでも養える土地が不足していたのである

結局なぜ相馬藩では慶長津波のことが記されていないのか
民衆でも伝承しかったのか?
それは政治的には戦国時代の延長の混乱期であり
津波の被害に目を向ける余裕がなかった
財政的余裕などほとんどなかった
それゆえ津波の被害者は無視された

ただなぜ津波の被害者自身が語り継がなかったのかは謎である
当時の政治事情と関係なくそれだけの被害があれば何かしら語るからである
それとも政治的に上から被害を語るをことを禁止されたのか?

ともかく財政的困窮を言えなかった。

慶長19年に大阪陣に出陣したことでもわかる。
その費用も大きい出費である
でもその費用の方をけずることはできない
それが戦国時代である
まだ津波の被害があり免除してもらいたとはなれないのである

それにしても津神社が津波を記念して建てられたというが
これすら実際はわからない
津神社は各地にあり津波の記念の神社なのかもわからない
これもまたなぜそうなっているのか謎である
ただ海側にあるからその確率は高い
八竜神社は山側にも多く津神社は限定されている
それにしてもその伝承すらないということがな謎なのである


「殿、民が津波で大きな被害がありました」
「なに、今は余はそれどころじゃない、藩の財政は火の車なんじゃよ
中村に移り新しい城の普請の費用、江戸屋敷の普請、
役金を課したが給人は不満で反乱を起こすと言っている」
「そうはいいましても津波の被害も甚大です、何も記さないわけにはいきませんでしょう
「では死んだ数だけ記しておけ、あと一切必要なし」
「それだけではものたりないのでは、その惨状を記しておくべきでは」
「そんなことはどうでもいい、今の藩の財政では何もできんのじゃ
役金を収められないから給人は刀、武具、馬具、家財まで売り払っているのじゃ
それほどにしてもまだまだ役金はたりず集まらないのじゃ、
役金が集まらないと江戸への参勤もままならぬ、それはさけねばならぬのじゃ」
「殿、そのことは重々承知していますが津波の被害も重大です
そのことを記さないと後世のためにもなりません」
「ともかく死んだ人数を調べてそれだけを記しておけ」
「それではたりないと思いますが・・・・・」
「お前は余の家来であり余の言うままに記すのが勤めしゃ、うるさく言うな」
「はあ、ではそういたします」

津波のことはこうして死んだ数は調べられたが700人溺死としか記されなかった。
それで無視された700人き溺死者の怨霊であったのか、
400年後にまた大きな津波に襲われて大惨事となった

「俺たち津波で死んだもののことを忘れたからそうなった、その時代もあったが
俺たちはあの時は無視された、そして忘れられた・・・」
いつかそうした民の苦しみを記されず忘れた時、同じ大きな災いがまたやってくる
それが歴史のカルマとなってゆくのだ」

それにしてもなぜ藩では記さないにしても民の間で津波の被害が語り継がれなかったのか、
字が書けなくても語り継ぐことはできた。
なぜその時700人も死んだ人たちの供養もされなかったのが、その碑すらないのか
今回の津波では嫌というほど語られ映像に残されるから400年たって忘れられることはないだろう。
ただ400年の歳月は何を語るのか予測はつかない、ただ津波はまた必ず襲ってくる
それは海側に住むもの宿命である。
でも今回は海側に住む人がいないから津波の被害はおさえられるだろう。

 

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野馬追いの金札旗ー財政を示す

戦争でも金がないとやれない

金はその時も政治を左右するものだったということ

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2014年03月06日

樹にしみとおる寒さ(言葉は文化の基)


樹にしみとおる寒さ(言葉は文化の基)

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しみとおる樹に寒さやしまるかな
しみとおる樹に寒さや飾らざり
しみとおる風の冷たさ木肌かな
しみとおる寒さや木の根深く張る
しみとおる寒さに枝々張りにけり
しみとおる樹に寒さや銀河かな


しみとおるというとき凍みるでもある、しまるにも通じている日本語である
こういう表現は日本語的なのだろう。
何かがしみてゆく、凍み豆腐、凍み餅とかもそうである
その風土にあった言葉は必ずある

英語とか表音語は音を重んじる。つまり英語でもフランス語でもドイツ語でも
音を通じて伝える、フランス語とドイツ語はなぜあんなに違った発音なのだろうと思う
フランス語は軽いラテン系でありドイツ語は重々しいもの感じる
だからフランスの文化とドイツの文化はライン川を境にまるで違ったものとなる
ドイツの音楽も重々しいのはドイツが森の国だからであった。
延々とつづく黒い森があった。ドイツはまただから重厚な哲学の国となった

いづれにしろ音楽がなぜヨーロッパで発達したのかはまさに言葉にあったのだ
言葉が文化の基だったのである。
日本語からも日本の文化が生れてきた。
だから英語にすれば日本の文化は消失するのである
日本人から日本語をとると日本人でなくなる
そのことは「心の星雲」でも言っていた。
つまり言葉はネティブでしか身につかないのである
それは幼児からしか習得できないからである
漢字もあるが漢字は象形文字であり視覚的であり絵画的である
だから音楽は発達しなかったのである
英語を覚えるには英語の音になれる聞き取る力をつけろというとき
まさにそれは音楽を聞くことと同じなのである
言葉の感覚はネティブでないと実感しえないものがある
言葉も数字でないから神秘的なものであるから詩を訳すと
詩でなくなるというのもそのためである


powerful mountain

mighty mountain
strongthend mountain


この感覚も日本人だとわかりにくい、力強いという表現だけではないものが表現されている。

mightyというの内面的に強化された力の感覚かもしれない、
powerfulは外面的な力の感覚だろう。それは説明しにくいのである


芸術はそもそも日々の生活から生れた。人間の生活そのものが芸術だった。
ただ文明的便利な生活は自然から遊離するから自然から分離すると本来の芸術は失われる。
なぜなら自然が基として芸術があり生活でも自然を基にしている生活は真の芸術を産む。
だから薪を積み薪を燃やし鶏を放し飼いにして山の清水を飲み川で洗い物をするという
生活はより自然なのだから不便でも芸術になる。
より自然が身近になるからだ。つまり冷たい水を感じることは自然を感じることなのだ。
だから「風流は寒きものなり」とはそのことを語っている。

まず車は冬でも中はあたたかい、また車だと風も感じない、だから自然を感じない
自転車は常に風を感じるから風流なのである。
だから田舎でも今や山の中でもみんなエアコンをしている。
一部薪を積んでいる家はみかける。
薪は乾燥するために積んでいる。
薪割りは実際は相当に力が必要で楽ではない
ボタン一つで電気を使ってやるのとはあまりにも違う。
でもそういう生活を戦後十年はどこでもしていたのである。
だから同世代の女性の人と話したらそのことで話しがあった。


いづれにしろ本当の芸術は田舎でしか生れない
まず樹について肌身で実感してわかるのにも時間がかかる
つまり樹でも石でも一体化する、アイディンティティ化することが必要になる
それには相当な時間がかかるのである
だから芸術はその土地土地から生まれというのも本当である
cultureは耕すからきているから土地土地を耕して文化は生れる
相馬郷土史研究というのもそうだった
それは土地に根ざしたものである


本当の芸術は日々の生活を基本としているとき、体力がないと本当の芸術は生まれない
例えは山を詩にするにしてもそれは雄大であり力強いから病弱たったらとても山を詩にできない、
山と同化するとしたらそれだけの体力が必要になってくるのだ。
健康な体でなければ詩にはとてもできない、ニーチェのような超越的な力すら必要になる。
高村光太郎の牛の詩にしても彼自身が牛のような体をしていたことなのだ。
前の師の上野霄里氏もそのことを言っていた。

ただ人間はあまり過酷だと芸術はなくなる。
その例が北海道開拓に入った猪狩満直
とかである。もう過酷な生活で疲れ果てて何もできない、
せいぜい日々食べるだけでありあとは寝るだけになってしまう。
その辺のかねあいがむずかしい。
自分も体力がなくても楽したから60以上生きている。
こんなに人は長生きするのだろうと思うと介護してわかった。
エアコンの部屋にいて食べ物で食べないにしても栄養あるものを食べさせる
弱ったら入院して点滴しているとまた99才でも回復したことでもわかる
これは弱い人でもそういう介護をすればさらに生きるのである。
だから昔は介護すらなかった。点滴もできないからちょっとしたことで死にいたる


この辺の原発事故でわかったように田舎でも実際は文明の真っ只中にあった。
田舎の方が文明的生活を享受していたのである
文明から離脱して生活するといっても簡単にはできないようになっていた。
確かに上野霄里氏が文明の離脱というときそれは精神的側面を強調したものである
具体的にそれを実行するときほとんど不可能になっているのだ。
山尾三省のような生活は何か反文明なのだけど
そんな生活をして何か魂胆があるのかとされるのが現代である


とにかく今年は寒かった。またこの辺は北風が吹き唸っている。
風花も舞っている、だからしみとおる寒さの樹というものを感じた
猫の毛が春の日がさしてよりあたたかく感じたように
やはり衣服を着ない自然のものはより自然を光でも感じるのである
それは樹でも同じだったのである




方角地名が地名の基 (南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)


方角地名が地名の基

(南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)

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地名の基本は方角地名である。方角によってその土地の色合いが様子が大枠で形成される。
だから方角地名が一番多い。そもそも東西というときそれを如実に示している。
東西の分かれ目が関が原であり明らかに関が原を境にして西と東に分かれる。

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて
壬申の乱で東(あづま)とさしたのは古代にすでに東西の戦いごここで行われたのである。
ヤマトタテルが東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。


ここでは関東まですでに東の領域に入っていた。
ただ旅して不思議だったのは必ず方向音痴になることであった。方向が必ずわからなくなる。
京都辺りに旅するなら西に向かっている。西に向かってふりかえれば東の方向から来たことになる。
でも東は福島県の浜通りだと海の方角になる。
だから東風(こち)は春になると吹くのだが南の方から吹く風に感じていた。
だから何か九州のかなたから吹いてくる感じになっていた。でも実際は太平洋の陽の昇る方向であった。
だから風の方向を知ることは意外とむずかしい。

ただその場所を知るには方角がポイントになる。だから地名では方角地名が一番多い。
それがその土地を知る案内になりやすいからである。
東と言うと何か陽が昇る方向だから明るい感じがする。西だと陽が沈む方向だから暗い感じがする。
北だとこれも寒い暗い感じがする。南だと明るい暑い感じがする。
方角地名がその土地の特色を基本的に特徴づける。

例えば琵琶湖の湖西線となると比良の山の下であり陽が沈むので暗い感じになる。
湖東は陽が昇る方向になるから明るい感じになる。ただ山から陽が昇り山に沈む感覚は
浜通りでは感じられないからその感覚がわかりにくい。
北の方角は暗いからそれを嫌って隠した地名のものもある。
喜多方は会津の北に発展した商人の街だから北方だったが喜多方にした。
北を嫌ったから喜多方の当て字にしたのである。西会津となると何か奥まった淋しい感じになる。


それから上下とつく地名も多い、上とつくとそこは早くから開けた土地なのだろう。
下町というと何か庶民の住む場所であり上町というとその土地では場所的にはいい場所だとなる。
事実は鹿島区では前は下町は本当に土地が低く水害で被害があった。
自分の家は二回も水害で被害にあった。それは一番低い場所だったからである。
土地として悪い場所だったのである。ただ今西町となっているがそこは一番
鹿島区ではいい場所になって住宅地になっている。

上がりもの下がりものがあり大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るものは下がりものである。
上りは早く開けた大阪にあり下りは江戸へ行くことである。古くは東下りである。京都へは上るになる。
だから下がつくと何か文化的にも下に見られ。
これも方角地名でまず印象づけられているからだ。

永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

ただ上と下は上があって下がある。だからまず上を知らなければならない。
それがその土地を読むことである。

これは前置きとして南屋形がまずありその後ろの山に入った場所が北屋形になっている。
そこは一段と暗く感じるのである。南屋形というと前は平地であり陽もさすから明るい感じになる。
南海老もそうである。北海老となると山の中になり暗い感じになる。
南とつくと明るい感じになるのが不思議である。実際はそうでない場所だってあるからだ。
南相馬市と小高と原町と鹿島が合併したときそうであった。相馬市から南だから南相馬市となった。
でも考えてみると相馬市は北相馬市になるべきだったともなる。
その方が南相馬市という名前がついたときそれに準じるにはそうした方がわかりやくなっていたのである。
ただすると何か北とついただけで暗くなる。
でも相馬市だと南相馬市が生まれて特徴がうすれたのである。

相馬市はもともと南相馬市と北相馬市であり一つにした方が良かった。
北郷とういのは鹿島区だったがそれは小高に城があるときそこから見て北だからそうなった。
小高が中心地だったからである。

合併するとき名前をつけるのに悩んだ。結局方角地名にするのは無難だったからである。
でも南相馬市となると何か南というだけで明るい感じがするのも不思議である。
相馬市はかえって目立たなくなっているのも名前からすると奇妙である
つまり南相馬市が先進地域であり単に相馬市となっていると特徴がなくなったのである。
だから地名というのはその土地だけでなく隣の市町村にも影響しているのだ。

飯館村は合併しなかったから飯館村として原発事故で世界に知られるようになった。
南相馬市もそうである。合併したら南相馬市の一部となっていたからそうはならなかった。
だから変なんだが飯館村の尊重は村長として威張っていられる。
南相馬市に合併していたら小さな村だから威張ってはいられない。
そして原発の被害でも飯館村は被害が大きかったからそこで飯館村としての損害賠償を請求しやすかったのである。
南相馬市は小高区が一番被害が大きかったが独自に損害賠償の交渉をしにくかった。
なぜなら南相馬市であり南相馬市として主張せざるをえないしろその賠償金をめぐって
小高ー原町ー鹿島はみんなもらう金額がちがっていて分断されたのである。
他の警戒区域はほとんど一眼になって賠償金を請求できたのである。


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「南相馬市は小高町と原町市と鹿島町が合併してできた名なんだよ」
南とつくだけで相馬市とは感じが違っていたのも不思議だな」
「確かに南とつくだけで明るい感じがするな」
「それで何か相馬市が目立たないんだよ、相馬市の南だから
相馬市が中心のように見えても南とついただけでこっちの方が目立つんだよ」
「相馬市も北相馬市とならないと釣り合いがとれなかったのかもしれない」
「北となるとやはり暗くなるから嫌だろう」
「相馬はもともと相馬藩だったのだから一つなんだよ」
「南相馬市と北相馬市で一つだったんだよ」
「相馬市が中心のように見えても南相馬市の方が目立つようになっていないか」
「うーん もともと明治は原町機関区ができて原町が発展して中心になっていた
だから南相馬市の方が明治以降は中心地だったんだよ」
「南相馬市の市長はタイムにのったように原発事故で世界的に有名になったよな」
「まあ、飯館村は合併しなくてよかったよ、原発事故では被害が大きかったから
独自の賠償交渉ができる、それに村長も飯館村として威張っていられるからいいよ
南相馬市になったら市長は一人だから威張れないからな・・・・」
「人間は地名でも名に影響されるんだよ、まず名前からイメージするからな」


津波原発の緊急事態に即断できなかった (大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)


津波原発の緊急事態に即断できなかった

(大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)



「この山に子供を上がらせても大丈夫ですか?」、住民は「ここまで津波は来ない」と言っていたのを聞いていました。教師は、「学校の方が安全だから残った方がいい」と、小学校6年男子は「山さ逃げだ方がいい」とそれぞれ訴えていました。その後の惨事だった。

大川小のワケワカ行動は偶然校長が不在だったことがすべてだと思う。

個人の中で、危機的自覚、状況の把握、最悪の状況の想定、自分の存在と責任をかけた行動の選択
このプロセスが行われていれば、結果はもっとメリハリのあるものになっていたような気がする。
結局、いきなりの集団稟議体制で情報の錯綜、留保、遠慮、妥協が続いてズブになった感がある。
普段から校長がいなければ話は違ったろうし、いたとしてもどこまで役に立ったかは判らんがw



緊急時代になるとそれぞれがどうして判断していいかわからなくなる
大川小学校の悲劇もそうだった。急に強烈な地震が来ても津波が来るといってもどう対処していいかそれぞれがまちまちになる。
そんな議論をしている暇に時間がたち津波に襲われる。議論しているその危険が何なのか調べたり判断する時間がないのである。
即断しないと助からなかったのである。
でも誰が即断するのか?校長なのか教師なのか、普通だったら校長であり校長の命令にしたがって避難すればいい、
でも校庭に生徒を並べて集団で避難しようともしていた。
でもどこに避難するかとまどっていた。それがこの議論になっていたのである。

こういうことは銀行でもあった。上司の命令にしたがって死んで訴えられた。
他にも山元町では自動車教習所の車で集団で逃げる時津波にのまれて若い人が死んで
裁判になっている。

緊急の時は人間は即断できない、津波が来るといっても6メートルの津波が来ると言ってもたいしたことがないと思っている人もいた。
自分も6メートルなんか聞いたことないと思った。そのあとすぐに10メートル来るというときは驚いた。
まず地震でものが落ちてそのことで頭が一杯で津波のことなど考えもしなかった。
だから自分も津波が来る地域にいたら逃げなかったろう。
ただここは津波が来る地域ではないからそのことは安心していた

ただ今度は原発が爆発したときも何が起こったのかのみこめなかった。
ただ爆発したのだから何か大きなことが起きたのかとは思った。
そしたら町の体育館に集められて何か市の職員がぼそぼそ言っていた。
それも聞き取れなかった。市ではバスを用意するから避難する人は避難してくださいということだった
ただそれも良くのみこめなかった。
バスは全員に用意できないということは聞き取れた。
じゃ、すぐに乗らないと避難できないのかと思った。

自分は介護している家族がいるしそのことを言ったら何かわからず体がふるえていた。
年も年であり無理して避難したら死んでいた。
そうして死んだ人もかなりいるみたいだから介護されているような人は避難するべきではなかった
双葉町の原発の近くの人も介護していて逃げなかったことがわかる
ここではしきりに家から出ないでくださいとは町でスピーカーでアナウンスしていた。
でも自分は一番線量が高い時、外を出て歩いていた。
他の人はどうしたのだろうと思い見て歩いた。
ただ他の人が避難したのか避難しないのかわからなかった


南相馬市の市立病院では相当に危機感があった。院長が死ぬのではないかとテレビで言っていた。
そうした危機感をもった人もいた。そもそも放射能についは皆目わからないから危機感を持つ人はもった。
医者は知っているからそういう危機感を感じたのかもしれない
その時病院の看護師は半分は避難した。そのことで今は非難されている。
患者を見捨てたとか非難されている。現実に双葉病院では置き去りにされて患者が死んだとかあった。
それも誤解だったらしい。

結局津波でも原発事故でも緊急で経験がないから
どうしていいかわからず判断できなかった

石巻大川小学校でも300年も津波が来なかったという、もう津波を伝えるものがこの辺と同じく何もなかったのである。
そういう未経験のことは判断しにくい。

大川小学校は地形的に津波に襲われやすい場所だった。
なぜならまず川を津波は上ってくる、その前に小高い山でもあると被害は少なくなる。
大川小学校の前にはそうした小高い山もなく大きな川を津波が上ってきたから被害が大きかった。

津波デンデコ・・とはそれぞれとにかく早く逃げろが津波の教訓だった。
集団でまとまって逃げるとなると時間的遅くなる。整列するだけで時間がかかる。
でも日頃は集団で行動しているの学校であり会社である
だから教師の命令や上司の許可を得ないと行動しないという習慣がある。

でも子供自体が危機感を感じて山に逃げた方がいいと思っていたのは正しかったのである。
釜石では子供はそうして全員助かった。

危機の時、集団が一致して行動することはそれだけ時間がかかる。
時間がないのだから集団で行動すること自体も危険になる。
集団をまとめるだけで時間がかかるのである。
しかし学校は一般的には常に集団で整列して教師の命令に従うように訓練されている
会社でもそうである。それで助かればいいが今回はそうはいかなかったので批判される。

自分でも原発事故で屋内退避の地域でも30キロ圏外でも半分は避難した。
その時、近所の人に聞いても正しい判断はできなかったろう。
そもそも何が起きたのか理解できなかったからである。
放射能自体何なのかもわからない、だから飯館村ではかなり被爆しても避難しなかったのである。
放射能自体を市町村の役所でも知らない
だから浪江町では一番線量の高い津島に避難していたのである。
それは町長の指導でそうしていたのである。


結局こういう危機の時、誰も正確な判断はできなかったろう
政府すら正確に判断しないで住民を被爆させたのである。

ただ常に学校でも会社でもどこでも集団的に行動することが習慣化していると危険になる場合かある。
集団が一致して行動することは正しいようで危機の時は正しくない。
だから現代社会はすべて権力集団化して行動している。
労働組合でもカルト宗教団体でも会社自体でもそうである。
学校はそもそも集団行動のためのしつけをする所であり各自が独自の判断をするようには教えられていない、
そういう強制的集団行動の組織である。


ただ南相馬市立病院などは別に院長とか上司のことなど関係なく危険を感じて半分は避難したのである。
これは賛否両論があるがそもそも放射能で死ぬという判断を院長までしていたらそれもやむをえないとなるだろう
。危機感を感じた人はそうなった。
後の人は何が起こったのかわからず右往左往して介護しているからとやむなく残ったりした。
まあ、患者は家族とは違うから置き去りにするのもわかる。家族だったらそんなことはしないだろう。
看護師だって自分の命を二の次には考えないのが普通である。
患者を嫌悪している看護師も結構多いから患者を置き去りにしても不思議ではない。
看護師は天使でもなんでもない、普通の人間であり人の痛みすら感じない人も結構いる。
いちいち一人一人あわれんでいたら体がもたないごたろう。
だからかえって看護師が残酷になる悪魔に変身するというのもある。
300人殺した医者が外国にいた。もう病人が嫌になって一挙に始末したい、病院の財政事情でもそうなった。
それもまた病院の真実なのである。

ただ自分の場合は

30キロ圏外は屋内退避で避難指示は出なかった
その30キロ圏外だということが多少の安心感になっていたかもしれない
ただ正直何が起こったか津波でも原発事故でもわからなかった。

結局教訓としては緊急の時は集団で行動すること、上の命令に従うことも危険である。
政府や東電もその時何ら助けにならなかった。
「ただちに影響しません・・」そういうだけだったのである。
その時、政府の人でも東電も避難してあるものは外国まで逃げた人もいたとか、
現実に東京から九州に避難した人もいた。危機感を感じる人はそれだけ感じたのである。


いづれにしろ集団行動は地獄への道づれになるということもある。
カルト宗教団体などでも巨大な集団だから救われるなど全くない
それは地獄への集団行動なのである。
それは戦争の時だって日本全員が一致して地獄への行進だったともなる
みなんで赤信号わたれば怖くないというのは集団心理なのである。

みんなで地獄に行くなら怖くない・・

こういうことだって現実今の社会ではそうなっている。何百万人が団体化していれば救われるとなる。
これは身近なことで実験した人がいた。
みんな行くので同じ方向にいった。その方向は危険な場所だった。
それが人間の集団心理なのである。
根拠もなにもないのにみんなが行く方にしたがって行くことは常にあることなのだ
大勢が正しいとは限らないし集団行動が危機を救うということもない

それは日頃の行動でも同じなのである。
集団で成仏することもないし集団で天国に行くこともない
むしろ集団は地獄への道になる。宗教の場合はそうである。
ただ今回は個人でも危険を判断しにくかった。

では誰かに聞いたり上司に聞いたり集団で行動に従ったりしても助からなかった。
かといって各自で判断しても助かるものと助からないものがいた。
津波なんか今まで来たことかないからと逃げない老人が死んだ。

それでも双葉町民はすぐ全員避難した。
それはあれだけ近いから危機感が違っていたしそれなりの情報も全員共有していた。
それでも混乱した。

津波だって海岸沿いに住んでいる人は何か危機感をもつべきだった。
それは海側は怖いと海は怖いと常に言っている人もいた。
そういう何か本能的に察知する危機感が消失していた。
なぜなら相馬藩でも200年前にも津波が来て8人死んでいたのである。
そしたらそれなり警戒してもいいはずだった。
だか全く警戒もしなかったのである。

結局津波でもどこまで裁判でも責任が問われるのか判断はむずかしい
自分でも判断できない状態に陥っていたからだ。

posted by 老鶯 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年03月07日

南相馬市の鹿島区の北屋形北海老の風情 (八沢浦に面していて海と森の暮らし)


南相馬市の鹿島区の北屋形北海老の風情

(八沢浦に面していて海と森の暮らし)

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北屋形の古い碑

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北屋形ー滑沼の晩鐘の碑

屋形村は岩松氏の故事で有名である。それは伊達政宗も知り同情の念を深くした。
ただその隣の海老村については地元に住んでいても知ることがなかった。
そもそもなぜ北海老となっていたのか、それを知ったのは最近ニコニコ堂という
喫茶店ができてそこを訪れたことからはじまった。
その場所が北屋形に近いのに北海老になっていたことである。
まずここが海老村なのとかとういことが地理的にもわかりにくかった。
海老村の領域が思った以上広かったのである。
海老村というと何か海をイメージする。でも北海老むらは小高い山の森の中にあった。
そこでは海が全く見えないので海老村という感じがしなかった。
杉木立に隠された身近な隠れ里にも思えた。街の近くにこんな所があるのが意外だった。
ここはそのニコニコ堂という喫茶店ができてはじめて通った道だったのである。

海老村と言えば太平洋が一望できる海に向かって行くのが普通である。
そこには津波で流されたが松原があり風光明媚な場所だった。
でも北海老に注目している人はほとんどいない、ただ喫茶店ができて寄る人がでてくる。
それでも北海老村が海と関係していないということはなくやはり海が北海老に深く関与していた。
八沢浦は海の方には湊もあった。ただ北海老は全く海に面していなかった。
でも八沢浦が干拓される前の江戸時代は浦が北海老村に迫っていたのである。
八沢浦は八つの浦というように浦が山間に伸びて入りこんでいた。
原初の風景が津波で再現されたことには驚いた。それはイメージしていたが本当にこの目で見た時ほど驚いたことはない。
八沢浦の奥まった所まで津波は押し寄せたのである。
津波が寄せたところは海であり江戸時代まではだから海の暮らしが北海老村であった。


北屋形村の地名として釜前、北海老村に釜舟戸などがあるのは塩を釜で焼いていたためだろう。
北海老に塩入りとあるのは塩水が山間に入りこんでいた。だから八沢浦が谷沢浦と呼ばれていたというのも納得がいく。
谷が入り込んで浦になっていたのである。


小魚漁して浦舟二十艘、十三漁船 七荷運船、浦辺に塩焼く釜あり 人塩を焼く・・


これは鹿島町誌に記されている屋形村のことであるが北海老村も浦が入りこんでいたから同じ景色があった。
舟にしても浦舟、漁船、荷運船、とあった。浦舟は沖へはでない舟だろう。
漁船は沖に出た大きな船だろう。七荷運船はわからないが何か大きな船も寄っていたのかもしれない。荷物を運んでいた船だから遠くへ船が出ていた。それなりの湊の機能があったのかもしれい。浦というのは外海と違うから湊に適していたのである。

八沢浦にはこうしして実際の浦を利用した実際の生活もあり風光明媚な場所としても都に知られていたのだ。


八沢浦八景に


立切の夕映 漕ぐ舟の棹のしづくは浪のうえに夕日のわたるたちぎりの浦

滝沢の落雁 もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
長岩の晴嵐 雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風
遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
八沢浦の夜雨 磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩竃の秋月 しおがまの浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら
蛯浦の帰帆 あま人のつりの片帆のしろしろと夕浪いそぐ海老の浦舟
滑沼の晩鐘 滑沼の蘆の間ひとり歩み居ればあわれいづこに入相の鐘


この八景で地名としては立切があり滑沼は行沼として地図にある。
蛯浦は海老であり古くから八沢浦は景勝の地として知られていたのだ。
長岩とはまさしく長い岩が海側に近く残っている。
だからこれはこの八沢浦の実景であり想像ではない、「遠山の暮雪」は蔵王のことである。
蔵王が八沢浦から見えて津波で昔が再現された時写っていたのである。
この情景としてなぜか夕日とか入日とか夜の雨とか夕浪とか晩鐘とか夕暮れの景色がテーマになっている。
それはあの辺の情景が夕暮れが心にしみるものとなっているからだろう

前にも述べたけど南屋形となると南海老でもそうだが南に面して平野が開け明るい感じがするが
その山の中に森の中に入ってゆくと一転して暗くなるのである。
陰々として・・・とかなる。そして八沢浦に出てくる。
だから街から近いのに隠里のような気分になる不思議がある。
街からこんなに近いの隠里というのもやはり田舎ならではであり街といっても海老村からは相当に遠いと感じた。


海老村ゆ街は遠きもあわれかな買い物も不便今年は寒し

あそこから車だったかいいが自転車だったら本当に買い物自体も楽ではなくなる。
街に近くてもそれなりの距離感はあるのだ。
ともかく街の近くに隠里のような気分になるものがあるということはやはり安らぐ場所が田舎にはある。

北屋形の行沼の近くに滑沼の晩鐘の碑があった。他に古い碑が並んでいた。
あの辺は北屋形でも北海老と接していてどこまでが北屋形なのか北海老なのかわかりにくい。


ただ当時をイメージすると

北海老に浦風吹きてもしお焼く煙の見えて春寒しかも
北海老に森影なして浦に舟畑耕すや山鳩飛びぬ


朝なぎに玉藻刈りつつ 夕なぎに藻塩焼きつつ 海をとめありとは聞けど…(万葉集九三五)」


海人の藻塩
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/shio.htm


んな風景が八沢浦の北屋形北海老にあったのである。一方で畑もあった。田んぼはわずかでも塩がとれたことは生活に豊かさをもたらした。南屋形や南海老に開けたのである。だから藤金沢の溜め池は大きく海老の田んぼに水が流れていた。
藤は何かしらないが津波の跡に新しくできた富士旅館はこの藤のことであり他に北屋形に藤迫館があり富士神社がある。

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北海老 藤金沢ークリック拡大

八沢浦八景の葦の間を歩くではないけど何かにた風景である。


次は北海老の残る雪

 
 

2014年03月08日

北海老の残る雪の情緒 (人間は一番身近なものの良さを知らない)


北海老の残る雪の情緒

(人間は一番身近なものの良さを知らない)


北海老の溜池広く冬芒

北海老の畑に小屋や残る雪


北海老の残れる雪の清らかに杉木立の陰畑ありしも

山陰の北海老村に誰がよるや喫茶店あり春寒しかな
山陰の北海老村の喫茶店前は納屋なり残る雪かな


人間は近くを見ていない、隣の芝生はいいとか常に外がいいと見ている。そして観光地はつまらないという感想をいだく、
京都に行ってもつまらないとかなる。それはなぜか?
結局見る目がないからである。その一言につきる。
南相馬市だって鹿島区だって何が見る所あるんだ、こんな所に住んで何がいいんだとなる。
もう原発事故とかでさらに住む価値がなかった。もともとここには何もなかったからこの際都会に移った方がいいとかなる。
自分も若い時はそうだった。故郷を出たい一心で東京の大学に入った。
勉強したいとかではない、故郷を出たかったのである。故郷に何ら魅力を感じなかった。
それは後年もずっとつづいていて旅行ばかりしていたとなる。

しかし人間は本当に「灯台下暗し」だということがわかる。一番身近な所がわかっていないのだ。
一番近くの魅力がわからずに遠くへ遠くへ行く、でもそこもつまらないとなる。
そもそも近くの魅力がわからなければ遠くの魅力もわからないのである。
それで意外と自分の住んで場所の良さがわからず良さを知るのは外部の人だとなる。
日本の料理の良さを一番知ったのは外国だというのもそうである。
そんなもの日頃食べているから日本では特別いいとは思わないのである。
でもたいがい外国の料理は肉食であり牛肉とか豚肉とかチキンが主である。
日本は魚や野菜が多いし何か健康食なのである。だから長寿の国にもなっているのだろう。

最近外国をまねて食生活を変えたら欧米人がなる病気も日本人に増えたことでもわかる
日本の風土はもともと『魏志倭人伝』に「この国に牛馬、虎豹、羊鵲なし」であり魚介類中心の食生活だったのである。
そういう風土によって日本人は歴史的に作られてきたのである。
日本では水はそのまま山の清水でものめる。外国で自然のままの水を飲める国はほとんどないことも恵まれていたのである。
だから外国から日本に来ていいなと思う人はかなりいる。
水道の水を飲めて水を買わなくていいというのも大きな利点なのである
水代だけでも馬鹿にならないからである。

ともかくすぐ近くの北海老と北屋形のことを見逃していたことでもわかる。
そこはすぐ街の近くであった。海老だったら海や松原はいつも行っていた。
八沢浦でもいつもあそこは浦だったんだなと意識していた。
だからあそこが浦になっていたらどれだけ美しいだったろうといつも自分はイメージしていたのである。
それが津波で現実化したときほど驚いたことはない。
そこで泥に埋もれて子供が死んだのを発見したとか言うのに
お前は何が美しい八沢浦がもどったなどと言っているのだと批判された。
それもそうであった。でも人間は近くでも津波の被害にあい家を失い家族を失った人がいても
自分が被害がなければその苦しみはわからない。
津波の被害地域が全部家をなくしたわけでも家族をなくしたわけでもなない。

だから本当の苦しみはそういう被害にあった人たちでありその苦しみはその人たちが負っているのである。
それを外からいろいろ同情の言葉をかけても言葉だけじゃないかとなる
何か偽善的になってしまうのである。
「俺たちの本当の苦しみがわかるのか、言葉だけの同情はいらない」とかなるだろう。

しかし自分はここ7年間の家族の病気介護、自分の病気の苦しみを書いてきた。
その時誰もにも同情されていない、むしろ自分が差別とか自分が病気の時すら借金とかを要求され脅迫された。
何の同情もない、かえって弱みにつけこまれ犯罪にあった。
それが弱肉強食の世の中をまざまざと見たし身にその苦しみを負った。
だから今回の津波や原発事故ではみんな同情され現実に過剰な支援すらされているから
悲惨であってもいい面はあった。
もちろん被害にあった人は原発の避難者でも故郷を失う家を失う悲しみは苦しみは金では代えられないというのも本当である。
ただ回りから同情されて支援されていることは確かなのである。

自分の場合は全く支援もなにもない、病院でも脅迫されたり看護師にはいじめられたりとさんざんな目にあっただけである。
結局他の人でも人の苦しみは実際はその人だけが負っているのであり他人にはわからないのである。
だからその人が自分の苦しみを訴えればそれは訴えるものがある。
他から同情するときどうしても偽善的になるのである。


とにかく北海老についても南海老はいつも行っていたけど北海老は注目していなかった。
北屋形もそうだった。そして南屋形と北海老は表と裏のように違っていたのである。
それを意識されたのはニコニコ堂という喫茶店が北海老にできて訪れたことにあった。
まず場所がわかりにくかった。他の人も案内もないのでわかりにくかったと言っていた。
あそこは立地的に海も見えないからいいとは思わなかった。
でもあそこにあそこの場所の良さがあることに気づいた。
それは今まで解説したように裏に八沢浦があったことである。
八沢浦は江戸時代まで海の暮らしが現実にあった。海老村にもあった。
それが津波で海になり現実的になったのである。

 

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クリック拡大すると鮮明に見えます

こんなふうに雪が残っているのは今回の雪は大雪であり雪の性質も違っていた。
この辺ではすぐ消えているからだ。

 

原発避難者は3年目でどうするのか (仮設はすべて仮にすぎないから終わるべき)


原発避難者は3年目でどうするのか

(仮設はすべて仮にすぎないから終わるべき)


NHKで原発事故で13万人が避難しているという,その中に自主避難も5万人いるという。
でもなんかNHKでは本音のところは放送しない、
都路村の孫も何人かいる大家族がいたけどそういうふうに家族が多いと子供でも一人
10万の補償がでる。だから家族が多いと一カ月百万とかりてってしまう。
小高区の家族にはそういう人がいた。毎日マグロのサシミだよ言っていた。
田舎では都路村でも飯館村でもまだまだ大家族がいる。
農家にはまだ多いのである。

まず都路村でシイタケなど栽培してもそれほど金にはならない。
そして放射能汚染の風評被害でそもそも売れなくなっている。
そうしたら帰ってどうして生活するのだとなる。
補償金の額が大きいから帰りたくなくなった人がかなりいるのだ。
こんなにもらえるなら川内村でも郡山市の方がいいとなって帰らないのである。

もしそんなに補償金もらえないならもう放射能など気にしないで生活した方がいいとなるだから
何かタマネギを無料で配布したとき、我先に困窮しているようにもらってゆく
着るものまだ支援されている。
そんなのはたりている。何か私たちはんなに困窮していますよというのを社会に見せつけるためにNHKが放送しているのだ。
もちろんそうるなと住民もどういう放送するのか気になるから取材を許すことになる

デアはだから真実は伝えない、NHKは特にこの人たちはかわいそうな人たちですよということが
テーマになり視聴率をかせぐのが手法である。
それで耳が聞こえない佐村河内守氏にだまされたのかなんなのかわからないが
NHKにとっては格好の視聴率をとれるものだったのである。

なぜこういうことを言うかというとそんなことをあえてそんなこきとを言う必要がないというかもしれないが
何か誤解されて全国民に知らされることが危険なのである。

こんなことを報道していたらいつまでも補償が必要であり国はそうするべきだということを暗黙の内に奨励することになる。
確かに補償金を打ち切られたらこれからの生活は厳しくなる。
でも一方でだらだらと補償金頼りの仮設の生活も許されるものではない

仮設の奇妙なのはすべてが仮りなのである。仮の宿であり仮の生活でありすべてに
仮りがつき人間そのものが仮りの人じゃないかとさえ思った。
なぜなら東京の方で競馬だ風俗だと遊んでいる人がいてその人の仮設の生活は
まさに仮設で暮らすような生活が良かったのである。
不思議なのはその人生が仮りの人生だったのかともなる

そういうすべてが仮りになってしまうとき地元の人と何か復興に向けて働くということもない、
地元の人と交流できない、なぜならすべてが仮になっていて仮では根を下ろすことはできない。
それは強いられたから仕方がないという面があっても3年たっていつまでも仮では回りも困ってしまうだろう。

別にイワキであれ他に移って看護師であれ介護士であれスーパーのレジであれ何であれ
その地元で働いて貢献していれば地元の人たちに批判はされない
あの人たちは働いてくれるのだなとなる。実際に一部の人は働いている。
でも大方は補償金で働いていないから批判されるのである。

そして補償金でも手厚い、新しく土地の購入にかかる金を補償金として支払うとかもあった。
イワキなどの地価は三倍くらいするからそれだけ費用がかさむ。
でもその地元の人たちにとってはそういう土地を買えない家も建てられない人も相当いる。
それなのに原発避難者は家まで建てられるとうらやましがられる。

要するに人間は別に金持ちでもいい、それは回りが容認する金持ちだったら誰も批判はしない。
その土地に貢献した人であり社会に貢献しているから言わないのである。
おそらく江戸時代の庄屋などは役所みたいなもので豊かでも飢饉のときは食料をめぐんでくれるとかのために
金持ちであることを回りで守ってくれたというのもあるとか
すべての金持ちが昔から否定はされていないのである。

原発成り金はそういうものと違うからいろいろと批判される。
なんであの人たちがあんなに何でも地元の人より優遇されるのだろうとなる。

現実に事業するにも南相馬市の鹿島区だけは支援がないのである。
30キロの外ということで除外されているのも南相馬市なのに解せない人はかなりいる。
そうなると小高区の人とまた軋轢をうむ。

いづれにしろ仮設にいる限り復興はない、それはいつまでたっても仮りのものでしかないからである。
だから人まであなたは仮りの人間ですかとまでなる。
根を下ろした実体ある人ではないとまでなる。
そういう人が社会のアウトサイダーとして少数者としてわずかにいるのは
別にかまわないただこんなに大勢の人が仮りの人になっていることは社会的に異常になってしまう。
だから仮設から早くでて仮の生活ではない本当の生活に移る時期なのである。
仮設からみんなが出たとき復興への次の大きな段階に入ってゆくことは確かである。
そういう時期になっているということである。

結局明治時代でも亘理の伊達氏の氏族が新天地の北海道に移住したのは苦しかったが成功だった。
そこは伊達市になっている。それから奈良の十津川部落も水害で一村がみんなで北海道に移住した。
そこではそこに住んでいる人たちとそれほど軋轢がなくてすんだ
もちろんアイヌが先住民としていたが同調していった。
今回はそういうわけにはいかない、補償金をもらったとしても地元の人から受け入れられない事情が生まれた
だから金だけもらっても何でも解決するというものでもない
それは今の社会は金で何でも解決するようでもやはりしない
飯館村の農家の人が食料は自給していた。
それで補償金生活になったら買いだめするとか金だけの生活に不安になっているという。
飯館辺りでも食料はなんとか自給するということがあったかもしれない
でも補償金は金だけの生活となると考え方まで変わってしまう。

ともかくイワキでも双葉や大熊の町を作ろうとしてもそこに地元の人と軋轢が生まれる。
二本松でも浪江町を作ろうとしてもそうである。
そこは北海道とは違う、すでにその土地の作られた生活がありそこに金だけをもってきて入ってくるのは暴力的にもなる。
だから金だけでは人間の生活はすべてを解決できないことを知ったのである。

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2014年03月09日

当たり前の幸せが失われた原発事故周辺 (春の日の石(詩)で過去を回想する)


当たり前の幸せが失われた原発事故周辺

(春の日の石(詩)で過去を回想する)

春の日の石


わずらいなく
いくつかの石
そこにありにし
争うこともなく
信頼しつつ
長き日を
千歳の日も
そこにありにし
何事のなけれど
そこにありにし
春の日のさしして
ぽかかと
石はゆったりとありぬ
今は村人は離ればなれ
散り散りとなりぬ
何事のなけれど
そこにありにし時の
その幸いの日々よ
春の日のさして
ぽかぽかと
自ずと満ち足りた石よ
幸いはそこにありしを
村人の畑を耕して
ぽっかりと春の雲浮きぬ
鶯はのどかにその美声を放ち
梅の香り流れ石はなごみぬ
旅人のその石に腰をおろし
また去りゆく山の道よ
蝶はここに生まれて舞いぬれ
嬉々としてまた花を求めて
いづこかへと舞い去りぬ

津波原発事故で変わったことは当たり前のことが幸せだったことである。
そういう当たり前のことは意識しにくい、それがあまりにも当たり前だったから
それが幸せだなとと意識した人はいない

でも実際にそれが津波や原発事故で破壊された時、それを意識するようになった。
家はなくなり家族はばらばらになり故郷すら失った。
こんなことがありうるのかという連続だった

だから自分も詩を作っていたけどその詩を作るイメージするのは実際にあった
ふれたものからイメージして作っている。
それは故郷の自然であり生活があって作られていたのである。

だから平和な時はそれはただ当たり前のものとしてあり意識していない

今になるとあそこはもうなかなか行けないとかなっているのが理不尽なのである
この石があったのは原町からトンネル、原浪トンネルという新しくできた
トンネルを通って出たところに家がありその前に川がありそこにいくつかの石があり
そこでいつでも休んでいたのである。
そこに前には茶屋があってモチなどを売っていた。
それはなくなった。
あそこは浪江の領域でありそれで原町浪江で原浪トンネルとなっていた。
浪江だと警戒区域になっているから入れないのも理不尽なのである
春になるとまた自転車で行きたくなるのである


ともかく津波原発事故から3年目でもこの辺で経験していることは常にありえないことだったのである。
もちろん津波で家を失い家族を失った人は自分以上にありえないことを経験している。
仮設に住んでいる人もそうである。
そういう人の心境はなかなか計りにくいのである。
だから外からあれこれ言われると反発することもあるだろう。

ともかく本当に当たり前のことが幸せだったとは思いもよらなかったのがこの辺でみんなが意識されたことである。

もちろん事故前でも人間はいろいろもめているし事件もあったし酷いことも常に起きている
それは事故前に自分がどれほど酷い目にあったかを書いた
たたその前の30年間は自分にとっても回りも何の問題もなかったのである
自分の場合は姉が認知症になってからすべてが崩れてしまった。
その間の30年間は何ら問題なく楽な平和な日々だった
その30年間は近くでも遠くでも自由に旅していた幸せかあった
それが全くなくなった。

ここ7年間は介護であり自由に出歩けないからなんか今は温泉てにでも入って
食事の用意をされて楽したいなと思う
毎日食事の用意しているとその事から一時でも解放されたいと思う
それが7年間できなかったのである。


ともかく自分の詩のテーマは石があった。だから石に対する思いがあり
原浪トンネルを通ったところに石がいくつかあり休んでいたなと思い出したのである。
そういうことは故郷から離れた人も別に詩にしなくても思い出しているだろう
あそこでどうしたとか畑を耕していた田植えをしていたとか何をしていたとか
農家の人でも他の人でも思い出しているだろう。
実はそういう思い出も貴重なものとなっているのだ。

思い出は明らかにその生活した場と密接に結びついている
その場から思い出しているのだ。
だからその生活した場から切り離されると思い出せなくなる
歴史でも近くの古い碑などを紹介したか
密接にその場と一体となり記憶される
だから場から離れると思い出せなくなる

確かに世は変わっても自然そのものは変わらない
たた津波では松原は消失したのだから変わった
それは元の自然にもどったということでもあった

ともかく浪江の高瀬川渓谷などは景勝の地でありその麓の大堀は相馬焼の窯場だった
あそこは場所がいい、窯元は何か場所がいいところにあると窯元らしくなる
高瀬川の清流の岸辺であり気持いい場所だった
そういう所から離れて住めないということか大堀の人も残念に思っているだろう。
あの辺は線量が高いだろう。


ただ放射能汚染でも自然そのものが失ったわけではない、自然の美しさは今でも変わりないのである。
高瀬川でもそうである。それが放射能の不思議だったのである。
水は澄んでいるし緑も同じだしどこが変わったのかという不思議がある
それでも放射性物質は雪ふってわかったように空気中にただよっている
それを毎日吸っているから何らか影響がある
たたそれを直接的には感じないのである

昨日は寒かったが今日は春らしい日である
それでこんな詩が生まれたのである

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春の日(原町ー萱浜に行く)


春の日(原町ー萱浜に行く)

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ここまで津波が来たらしい、でもこのからまる藤の蔓は異様である
大蛇が絡まりついているようである
女性にはそういうものがある


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また一軒食堂に入る春の街


新田川水面の光り春の日や我がわたりて原町に来ぬ

春の日に萱浜の沖船のゆく津波の跡や年はめぐりぬ
林の陰池なお凍り高台に今年の寒さここに残りぬ


必ず新田川を渡ると原町である。だから自転車だと新田川を意識する。
川は一つの境として意識する。だから川はやはり徒歩だった昔は必ず意識する
車だと川も意識しないのである。
水面が春の光に反射する光景などでも見れない
そんなの見ていたらよそ見していたら事故になってしまう。
だから車の移動は距離の移動になってしまう
ただ運転しないで乗っていて外をみていると違う。
見ることに集中できるからである。

萱浜も見晴らしがよくなって沖に船の行くのが見えた。
景観的には前と違って海が広く意識するようになった
もともとあの萱浜には松があったが
あそこは何か陰気で嫌だったのである。
松原というものもなく何か陰気だった
あそこて首吊りがあり女高生が殺された。
そのすく一週間後に津波がきた、そして女高生の死体があがったのである

正直、原町の海岸の印象はいいものでなかった
海岸では右田の松原が一番良かったのである。

自然でも何か暗いものが感じるといやになるかもしれない
あそこは女高生の殺人があるまえからなんともいい感じのしないところだった
自然でもそういう場所があのかもしれない
人工化した自然の方が親しみやすいというところもある。
右田の松原はそういう場所だった

なぜか津波の前にあったことが気になるようになったのだ。

自分の一身上でもそうである
犯罪にあい半年以上呪いつづけたのである。
そしてあの津波が半年後に襲ってきたのである。
自分の家も一人が認知症になってからばらばらに暮らすようになった
そして火事場泥棒にもあった
何かそれが回りの状況ともにている不思議があるのだ。
自分の一身上の混乱が回りに波及したように感じたのである。
自分の一身上も地獄であり回りも地獄になってしまったのである。


それから津波の起こる前の夏は異常に暑かった。
あの暑さも何か津波と関係していたかもしれない
あんな暑さを経験したことがなかった
異様な暑さであり空も普通の空でなかった
異常な明るさがつづき曇ることもなかった
何かそうした天気とも津波は関係していたかもしれない
おそらく津波は天体とも関係して起こる
大地震も地球の変動も天体と関係している
ということは気象とも関係しているとなる


そして世の中の人間の社会の腐敗などとも関係していた
現代というのはただ欲望の無限大の拡大であり
ただ金、金、金に追われる生活がつづいてきた
それはどこの家族でも個人でも同じだったのである。
原発とはそうした人間の限りない欲望が作り出したものなのである。
そういうものに対して神が自然が怒ったとういこともありうるのだ

何か人間の社会もすでに腐敗して極限状態にあったということもある
腐敗はもう極限に達して是正できないところまできていた

だからこの巨大な災害は人間への文明への奢りに対する戒め、警告でもあった。
ただ科学的なものだけでは答えが出ない畏怖すべき災害だったのである。


原町てラーメンが300円で食べられ所があった。餃子も200円で食べられる
あれはやすいと思った。あそこははじめて入った。
そういうのがあるから原町は便利なのである。

帰りに川子の高台の池はまだ凍っていた。
今日は寒くはなかったが今年は寒かったからだ凍っていたのである

2014年03月10日

津波原発事故から3年過ぎて (なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている)


津波原発事故から3年過ぎて

(なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている?)



東北の被災地は被災前から高齢者が多く過疎化していた。神戸の復興は震災後2年すると仮設住宅からでて、自力で再建の道を進む人が多かった。都市部で人口も多く、若いひとたちは立ち直って新たな生活を築く力があった。
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-0e49.html

地方都市に行くと、農地の中に住宅がばらばらに点在して、これではインフラの整備が大変だろうと思う。日
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/90e61af78b413efff3f2ebf6c9ed7122


 被災者の人々は、被災前の元の街に戻してほしいという希望が
あると思うのですが、全てが流されてしまった被災地を元通りに戻すのは
現実的には不可能なんおではないでしょうか。
http://ainodennsyobato.at.webry.info/201303/article_7.html


被災地で緊急を要する事案であるのに、
 通常ルールで申請をして、
 許可を得なければならない。
また、復興交付金制度を使い山を削ろうとしたら、
 今度は都市計画設計をしなければならないという
 ルールもある。




今回の災害はあまりにも大きかった。どこがどうなっているのかも近くでもわからない。だから一体どう復興を進めていいのかもわからない、原発事故周辺は津波の被害もあってかさなり何らすすんでいない、今回の復興がすすまないのは社会自体の文明自体の崩壊現象のようなものが起きたからではないかとも書いてきた。
それほど被害が大きくどう理解していいのか何が起きたのか今でもわからないものがある。放射能汚染だってこれも今でもどこまで有害なのかもわからない、その原因をあげたらきりがないだろう。それはすでに現代社会自体の様々な矛盾や問題が災害とともに一気にふきだした感じなのである。


この災害によって今の社会の文明社会の隠された問題も表面にでてきてむきだしになった。だから文明の崩壊現象のようなことが起きた時、それを簡単に復興することはむずかしい。もう前のようには元どおりにはならないというあきらめ感もでてくる。
大きく言えば新しい文明の再構築すらせまられているのかもしれない、そうでなくても今までの規制の社会に基づいた考えでは復興はない、それほどまでに破壊された恐怖だった。だからもううちのめされてあきらめるになる人も高齢化社会ではでてくる。
高齢者は老後は楽に暮らしたいという人が多いからそうなる。
そして肝心の若い人は流出してゆくときさらに街の再建や復興は絶望的になる。


ともかくどれだけの問題がここに生まれたかとても手に負えないものとなっている。
縦割り行政の問題もある。国と地方が対立していることもある。地方自治力の衰えがあり国指導になってうまくいかなこともある。そのことは別に災害前にもあったことが震災後に露骨に現れたにすぎない、すべての問題が震災のためではない、すでにそういう問題が噴出する根は震災前にあったのである。
だからインカ帝国などが滅びたのは簡単に何百人かの侵略者によって滅びたのはその社会がそのシステムが機能しなくなっていて外部からの侵略者によって簡単に滅びたとも言われる。

何かそうした文明のシステムの弱体化とか機能不全状態に陥っている。問題が災害とともに噴出した結果、いろいろ問題が山山積みであり解決しない、人手不足でも深刻であり福祉の建物ができてもそこで働く人がいなとかなり建物より人の確保が大事だともなる。

だから再建しようとするとき今までの社会のモデルを参考にはできない、全く新しい発想が必要だというのもそのためである。
一面これだけ破壊されたらそこには全く新しい構想の街も作りやすいということはある。規制の概念にとらえられない街作りも可能になる。
ただそれもまた少子高齢化で担い手がいないとかなんとか問題が山積みなのである。


歴史をふりかえると農業や漁業や山林業など一次産業主体の社会だったら比較的復興はしやすかったのかもしれない、別に道路だ、水道だ、建物だ・・・と言ったインフラは必要ない、もともとその土地での自給自足を基本にしていたのだから例え津波で水田がだめになってもやはりそれがまたチャンスとなって相馬藩からもわざわざ伊達藩に開拓に入っている。今は農業でも第一次産業主体でないからこの際跡継ぎもないから高齢者ばかりでやる気もないからやめるというふうになってしまった。
高度成長期のような社会ではなく衰退する成熟する社会で起きた大災害でありそれで復興もできない、それはもう個々ではいくら努力しても無理でありもう社会自体が沈滞化して衰退してゆく、街の復興などももうできないというあきらめになってしまう。


まず復興住宅にしても数パーセントしか達成していない、その数が膨大なことと土地も膨大であり進まない、その後の生活設計も見えてこない、だからすでに津波でも原発被害でも被害がひどい街は放棄されつつある。新たな場所に移って再建をはじめている。
飯館村でも長泥地区では建築業の人が福島市に移り再開したからもうもどらない。
農業中心だったら土地が必要でありそんなことはできないが今は飯館村でも農業だけでは成り立っていない、それなりに会社があって工場があって成り立っている。
それはどこでもそうでありだから土地に制約されないとすると他に移っても抵抗感がないのである。


国主導の復興に問題があるとしても予算は国からでくから金をにぎっているのが国だから地方自治体は従わざるをえない、現代とは地方の地方の自治力が弱体化していたから災害でもそうなる。つまりすべての問題は災害によって起こったわけではない、その前からそうした問題は指摘されていた。それが震災であらわになっただけなのである。
だから個々の努力が必要にしてもそこには限界がある。
今までにない新しい社会の構想が必要になる。でもそんてものが簡単に見えないし作れないのである。ただ文明の崩壊現象が起きているからそれほど何か新しいものを作り出すものが必要になっている。


そういうことは明治維新の時にも起きた。社会を根本から作り直す必要にせまられたのである。戦争に負けた跡もその焼け野原は今の壊滅した市町村の状態ともにていた。
ただそうした歴史をふりかえっても今回の方が再建は復興はむずかしいようにも見える。インカ帝国のように社会自体が文明自体が衰退してゆくときに起きたことだからである。つまり大きな文明的問題に直面しているから復興がなかなかすすまないとも言える。
個々の問題は山積みでもそうした大きな社会文明の転換さえ要求されいるうような巨大災害だったのである。




文明が崩壊するのは、「脳が文明を手に負えなくなる」からだ。本書はそう主張する。マヤ、ローマ、クメール、どの文明も、始めは不利な環境や障害を克服して立ち上がった。その後も予想を上回る困難に遭遇するが、創意工夫や多様性で乗り切っていく。しかし、やがて、潜在的な問題が複雑さを増してきて、正しい解決方法を考えることが難しくなる。そして遂に、文明がもつ知識で解決可能な「認知閾」を越えてしまい、問題を次世代に先送りするしかない状況に陥る。これが、文明の滅亡のプロセスだという。

http://honz.jp/9606



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2014年03月11日

原発作業関係ですでに8人が死んでいる (人柱伝説は事実から生まれた)


 原発作業関係ですでに8人が死んでいる

(人柱伝説は事実から生まれた)


●ニュースにならない原発作業員の死


2012/1/17 福島県広野町周辺で日本原子力研究開発機構が実施している除染モデル事業で働いていた男性(59)が作業中に死亡。

2012/1/9、福島第一原発の放射性廃棄物を貯蔵する施設で生コンクリートの流し込み作業をしていた60代の男性作業員が、急に体調不良を訴え、午後5時過ぎに亡くなった。死因は急性心筋梗塞。
2011/12/12 伊達市で日本原子力研究開発機構が実施中の除染モデル事業に従事していた建設会社の男性作業員(60)が 死亡。
2011/10/6 福島第一原発で働いていた50代の男性作業員が死亡。

2011/8/10 原発近接エリアから車の運び出し業務に従事していた本宮市内の1名が死亡。
2011/8/9 原発近接エリアから車の運び出し業務に従事していた田村市内の2名が死亡。
2011/8上旬 福島第一原発で復旧作業にあたっていた40代男性が8月上旬に急性白血病で死亡。

2011/5/4 福島第一原発の現場で復旧作業に当たっていた60歳の男性が死亡。死因は心筋梗塞。


こうした死はニュースにもならならずに忘れられる。そしてメデアで報道されないそれなりに報道されるべき死は無数にある。ではなぜマスメデアではとりあげないのか?
それはこうした死は社会的にとりあげるべきものでも視聴者にとっては興味をひかないからである。

マスメデアは劇場社会では事件を本当のドラマとして報道したて視聴率を稼ぐのである。
]マスとは大勢の人の意味だから大勢の人が興味をひくのはドラマ性があるものと変わったものである。
だから犯罪は一番興味をひく、推理小説のようにいつも興味をひくから
必ず報道する。そしていろいろな死があってもそれは報道しても注目されない。
こうして原発作業で死んだ人も重要なものとして報道されない。
ただマスメデアに対して少人数を相手とする無数のミクロメデアがインターネットに生まれたので
その人たちか取り上げるニュースが生まれた。
それは地方からでも発信できるから様々なニュースがとりあげられるようになったのである。
これらの死の死因が心筋梗塞とか白血病なのか気にかかる。
これはセシウムとか放射能汚染と関係していると言われるからである。
そうしたことがあっても隠されるだろう。
報道することができるものは時の権力者である。
だから相馬藩でも400年前に津波で700溺死とは記録されたが他の記録は一切ない
権力者の都合でそれしか記録されなかったのだろう。


●人柱伝説は事実を基にして現在もある



僕の近所の溜池には人柱の伝説があって、
犠牲になった乙女をマツっている神社まであります。
これってほんとなんでしょうか?
人柱なんてほんとにあったのか疑問です。
溜池にはそういったなんらかの伝説がくっついてる場合が
よくあると聞いたこともありますが。


古天皇の時代(飛鳥時代)、古代の長柄橋の架橋は難工事で、人柱を捧げなければならないという状況になった

人柱の伝説、習俗は世界中にあるそうです。ボルネオのミラナウ族は柱穴を
堀り奴隷娘を落として殺しました。

常紋トンネルは、囚人労働が廃止された大正元年から三年がかりで建設
されたトンネルだから「人柱」の噂になっているのは、タコと呼ばれる
労務者のことだよ。
常紋トンネル付近には、苛酷な労働によって死亡したタコの死体が埋められている
らしく、その数は百数十人と言われている。
「常紋トンネル」という本の中に、トンネルの補修中、壁面から人骨が発見され

「日本の諸侯が城壁を築くとき、多少の臣民が礎として
壁下に敷かれんと願い出ることがある。
自ら志願して敷き殺された人の上に建てた壁は
壊れないと信じられているからである。
http://matome.naver.jp/odai/2135088492256507001

塩田平では、農業用水を確保するために中世から数多くのため池が作られてきた。

手塚地区にある舌食い池には
「堤を何度築いても崩れてしまうために人柱をたてるということになり、村はずれに住む一人住まいの娘に白羽の矢が立ったが、その娘は人柱になる前夜に舌を噛んで自死した。」という伝説が残っている。

すなわち「稲作は、はげしく自然と対立するものであったがために、自然(神)をどのように和め、どのようにして自然の力を人間の側に引き入れるかということが問題となり、神のもっとも喜ぶ捧げ物としてイケニエは準備されたのである。」@といわれている。
http://www3.karuizawa.ne.jp/~nishiiri/hitobasira.htm



伝説が起きるのは何もないところには起こらない、噂だって全くなにもないなら起こらない、火のないところに煙はたたない、
伝説はそれにまつわる何かがあって起きて伝えられる。その意味してるものが何なのか探る必要がある。
人柱伝説は現代にも実際に通じいるからわかりやすい、今でも大工事では事故は起こりやすいし人も事故で死ぬ。
何でも工事とか建築関係は危険な仕事だから3kの仕事、汚い、危険、きつい・・から誰もやりたくない、
でも誰かがやらざるをえない仕事がある。
工事とか建築関係では事故で死ぬ人が結構ある。それは現代でも同じである。

自分もアルバイトで建築関係の仕事をして死ぬところだった。
ビルの高いところで足場を組む仕事をさせられた。
それで落ちる寸前になったことがあった。
あそこでは確実に死ぬところだった。人間はやはり今は交通事故でも人は死ぬ危険性が高い。
別に運転しなくても突然暴走する車にもはねられる。
ただ建築関係は仕事自体が危険である。
そういうことをふりかえるとこんな平和な時代でも良く生き残ったなとかなる。
それは結局運が良かったともなる。

●人間が生きることも文明も犠牲によってあがなわれてきた


ここで指摘していると稲作が自然と対立するものだったということは普通は考えない、稲作は自然と調和するものだと思っている。
でも稲作は相当な人工的な一大文明だった。
巨大な土木事業だった。溜め池を造るにしてもそれも人力が主なときは容易ではない、
それで人柱伝説が生まれる。人柱伝説はそうした文明を作るための犠牲だったのである。
その後も建築家関係や道路でもトンネルでも橋でも作るのには必ず事故で死ぬ人がいる。
つまりいくら機械が発達しても人柱が必要になり死ぬ人がでてくる。


どのようにして自然の力を人間の側に引き入れるかということが問題となり、神のもっとも喜ぶ捧げ物としてイケニエは準備された


この考え方も人間が発祥してからあった古いものである。常に神へ対して犠牲がささげられてきた。
人間が犠牲にされてきたがあとは羊とか牛とかか実際に殺されて犠牲としてささげられた。
犠牲というときこの漢字自体が牛であり牛を犠牲にしたからこの漢字が生まれた。
そもそもこの世を生きることは常に犠牲が要求される。動物の命を奪うことは動物を犠牲にして人間が生きているということである。
たから今でもそのことは同じである。

そういうことから動物を殺して犠牲にしていることからそういうことをしなければならない
人間の業がありそのことを追求して生まれたのがヒンズー教であり仏教であったのだ。
だから今でもインドでは牛や猿を大事にする。牛を殺さないし街中も歩いている。
人間の命も他の生物の命によってありうる。牛でも豚でも殺される時は苦しいしそうして食べるものはありがたいともなる。
一方でそんなことが残酷だから動物は食べないという宗教が生まれたのである。

稲作文明にしても一見自然と調和しているようにみえても自然を壊すということもあったし
溜め池を作るにも大事業だから犠牲がでてくる。そういうことが伝説として残されたのである。

そういうことはマヤ文明でも絶えず残酷に人の命が犠牲にされた。
なぜそんな残酷なことをする必要があったのかというと現代ではわかりにくい。
太陽が衰えて死んでゆく、そしたら生きていけないと人間の命が犠牲にささげられた。
心臓までささげられたから異常なほど太陽が衰えることを恐れていたのだ。
太陽がエネルギーの基となっていたからだ。


このことが原発とも関係していた。
原子力のことは放射線でも実際は科学者でもわかっていなかった。
それは稲作文明も自然を変えることであり原子力も同じだったのである。
つまり原発でも生贄が必要になっていたのだ。
そんなことが非科学的だとなるが原子力にしても人間が全部わかっていないからそうなる。
自然を変えることは自然の力を人間の側に引き入れるということは危険なものがあったからである
。つまり科学であり技術というものは人間にとってすべていいものではなく常に危険があった。
だからこそ業、技(わざ)は災いに通じていたのである。

原発も同じでありそれは恐るべき災いをもたらすものだった。
その犠牲となる人が故郷まで奪われる多数の人が生まれたのも犠牲である。
原発の故に犠牲にされる。これは石油のためにも犠牲にされるということもある。
犠牲という時、戦争だって膨大な人間の血が国家のために犠牲にされたともなる。
だから靖国問題がある。

歴史も犠牲の上に築かれるているし文明もそうである。

人間の命が犠牲にされるからこそ文明はみんないいものではなく呪いが隠されている。
神に呪われてるのだ。だからその神をなだめるために人間の命の犠牲が必要だったのである。それは原発でも同じだった。
そういうことを科学者でも原発にかかわった人達は考えない、科学技術が信仰のようになっている時代である。
科学技術にも神の呪いがふりかかることをわきまえることがない。科学技術も偶像化して万能化して神をないがしろにして
神のごとく人間がなれると奢りになる。その一つがSTAPー万能細胞騒ぎだったのである。
科学技術が万能だというのはまさに信仰に近いものとなっているからそういうものを期待する。
万能に人間はなりえない、そして遺伝子操作した猿が逃げていたとか
そんなことから生態系が破壊されて人間に及び大きな災いをもたらす、
だから科学技術は万能ではなく常に危険をともなっていてそれが人類滅亡にもつながるものだということを知るべきなのである。

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寒戻る(3・11震災の日)


寒戻る(3・11震災の日)


イヌフグリ可憐につぼむ寒もどる

夕光に白鳥美し飛翔かな

震災の日悲しみもどり寒戻る

遅々として復興住宅すすまずに建築現場や寒もどるかな



震災から3年過ぎた。これも一区切りだろう。
もうかわいそだ、かわいそうた、悲しい悲しいの時期は終わりになるだろう。
もちろん家族をなくした人に見ればそれは終わらないかもしれない
でもそうでな人たちにとっては3年目からは関心がうすれてゆく
ボランティアも半分以下にへったことでもわかる
そもそも人間は忘れやすいのである。
だから自分の身にふりかからないことは余計に忘れるのである


ただ今日は震災の日だからこれは記念日としていつまでも残り思い出す日になる。
ただこれからはますます外でも関心がなくなる
そしていつまでもかわいそうだ、悲しい、悲しいという時期は終わる
それよりそれぞれの生活を将来どうするかが関心の的になる
生活再建の方が当事者でも大事になる。

その再建がいかに困難なのか一向に復興がすすまないことでもわかる。
様々な問題が山積みにされていて未来が見えない
ただそれらの問題に一つ一つ取り組んでゆくほかない

近くの復興住宅の団地にしてもなかなか完成しないと毎日見ている
毎日そこを通るから実感するのである。

ただあそこが街の中心であり自分の墓の前に建つから違和感がある。
墓地は何か淋しいところがあっているからだ。
復興団地にしてもあそこは場所が悪いが土地がないので市の土地を利用するようになったのだ。
5つつくらい団地がたって人が入ればそこはかなりの人の出入りが生まれる。
だから何か墓地の前だったということか立地が悪かったのである。
それもこういう状態でどうにもならなかった。


今日も北風が吹いて寒かった。
だからイヌフグリが咲いていたけどつぼんでいた。
それから白鳥が四五羽は夕日がさして飛んでいった。
白鳥は何か夕べによく編隊で飛ぶのが見える。
白鳥の飛ぶ姿は本当に美しい


結局いろいろ失ったけど何か自然の美というのは失っていない
放射能汚染では水が汚くなるとか木や草が枯れるということもない
むしろスモッグとかの方が空気も汚れているように見えるから嫌である
放射能汚染されても空気も水も澄んでいて変わらないから不思議なのである
都会には白鳥でも飛ぶのが見えないだろう。
自然の美は大都会には消えている
だからもともとないのだから失うこともない
故郷と言ってももともと自然はないのだから東京が故郷とはならないだろう。


ただこの辺では実際はいろいろなものを失った。
それは避難者が痛切に感じていることである。
それは金ではあがなえないものでもあった。
だからそうした失ったものを金ではもはや買えない
それは老人とにている。
老人は金があっても時間は買えない
過ぎ去った時間は買えない、もとせない
百億積んでももどせないし買えない
そういう老人の感覚は老人になってみないとわからない
だから老人は故郷に帰りたいとなるのだ