2014年03月01日

津波から三年たつ海老村の状況の写真 (旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)


津波から三年たつ海老村の状況の写真

(旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)

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この字がよめなくなっている

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この旅館の庭は石の庭である
まだ完成していないのだろう



何もなき海老の村かな庭の石点々と残り春の日曇る

碑の一つ字もわからずに津波跡残りてあわれ春の夕暮

春の海曇りて一艘貨物船沖ゆく見ゆる海老の浜かな

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宮城県の人などもきていた

テレビの宣伝でくるものなのだろうか

鹿島区の仮設食堂の双葉はテレビで宣伝したから入るのだという

テレビの宣伝がそんなに効果あるものなのかわからない




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納屋を改造したものだがしゃれた作りになっている

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ニコニコ堂への道はわかりにくい
案内もない
阿弥陀寺と八沢小学校の中間の道である
その道をまっすぐ言くと
マッサージ浅野という看板がありそこを曲がるとある



海老村に南海老と北海老があったが北海老村はほとんど墓地を残して壊滅した。
そこに「富士旅館」というのが建った
あれは津波からも残ったのかと思っていた。
残った家を改造して旅館にしたのだろう。
それはその家の人ではなく外部の人が買い取り旅館にした。
今営業しているかどうかわからない
その前はほとんど全部の家が津波で流された
だから海まで見える見晴らしのいい場所になった

あそこに残った庭の石が散らばり積み重ねられている
あの石にも所有者がいて勝手にはできないという
ただあの場所にはもう住む人がいないのだから
まだ早いかもしれないが公園のような場所にするほかないだろう
だからそこに残った石を活かすかとも考えねばならない
新しく家を建てた人は自分の石をまた庭にもってゆく
残った石は使用しない石は津波の跡のモニュメントのようにする
石を買い取るほかないとなるとまた問題だかこれはあくまでも一つの構想である

いづれれにしろ景観まるで変わったから
あそこの富士旅館は見晴らしは抜群である
そういうことで泊まる人がでてくるかもしれない
津波のことはそこで必ず語られる


石碑が倒れてあった。あれは金砂神社のものなのか?
字すら津波の力でそがれてわからなくなっているようだ
津波で流された石碑はどうなったのだろうか?
それも文化財の消失だった
村ごと消えるなど想像もできなかった


そこからテレビで写された海老の新しい喫茶店を探したがわかりにくかった。
あの辺は屋形村であり海老村とは思えない
まるで隠されるようにあった
入り口に看板もないのでわかりにくかった
六号線のダイユーエイトを海の方に行きそこで曲がり
阿弥陀寺の方に行きそこから八沢小学校の手前の道を入りマーサージ浅野という
看板の所を入って行った場所で本当にわかりにくい
もともと納屋だったのを改造した
中は結構しゃれた造りになっている
人数にしても15人くらい入れるから狭いとも言えない


ただここの弱点は海老村とあっても海は全く見えない
山陰になっていて見晴らしが悪い
見えるのは前の畑と庭である
ここで花などは見れるようになる
喫茶店とかレストランでも立地が作用する
見晴らしがいいと食べるのも休むのもいい
津波の跡でまだ観光気分にはなれないが
海が見えたらやはり気持がいいだろう
海を船がゆっくりと行き来して
カモメが飛んでいるのを見ていると海らしいとなる
あそこはそうした海が全く見えないから喫茶店としては
かなり立地条件では落ちる


海老や屋形村の方から右田の方を見ると低くなっている。
海老村に向かって田んぼは低いにしても段々畑のように高くなっている。
右田村や烏崎は高低ではかなり低い場所であり
それが津波で判明した
この辺で海側で一つ所はみんな湿地帯か海の延長部分だったのである
八沢浦はまさに奥まで入江になっていたことでわかる


ともかく津波から三年たつがその間にまた変化があった
海老村は二軒新しい商売の店や旅館ができた
観光気分ではないにしろ津波の跡地利用どうするかが今後問題になる
津波の跡で観光気分かここで人が死んだんだぞ
そこで笑って観光かともまた遺族からしかられるかもしれない
でもいづれは何らか記念的なものモニュメント化するだろう

三年目はそうした津波の悲しい記憶ばかりを語ることはできなくなるだろう
その跡地をどうするかということが実際問題として考えねばならなくなる

だから庭の石を活かすモニュメント公園もいいじゃしいかという一つの提案である
その庭の石に腰をおろして海を見るということはやはり津波をふりかえることでもある
その石は津波に流されたり残ったりしたものだからである。


海老村に自転車で街に来るニートをよくみかけた。
その人が住んでいる家がわかった。
あそこから見るとスーパーのある街はかなたに見えた。
かなり遠く見えた
だから買い物するだけでかなりの労力である
その人は車がないからそうなる
近くに店屋もない
前は万屋(よろずや)などがあったがそんな店も今はない

だから田舎だと街から離れていかに不便になるかである
タクシーにしても1500円とかかかることになる
だから田舎は広いから車がないと住めない
でも街内だとなんとか住める

つまり田舎は街もあり街から少し離れても農家になり
さらに離れて村があり漁村がありと複雑なのである。
生活も土地土地で多様なものとなっていた
だから田舎のことは都会の人にはわかりにくい
まず誰か詳しい案内人がいないと知っていないと住めないだろう
人間関係も狭いから都会とはあまりにも違いすぎるのだ


こうした土地の距離感とか土地の高低はまず地図など見てもわからない
実感としてわかるためにはその土地を現実に踏まない限りわからない
そこに何か田舎に対しての誤ったイメージを描くのである
ともかく津波原発事故から三年は大きな区切りの年だろう
いつまでもかわいそうな人たちだとかそんなことばかりで
外部の人にあまえてはいられなくなるだろう。
だからいつまでも津波の跡を放置してゆくことはよくない
津波のことは忘れないにしても何らかの対策することが必要である

 
 
posted by 老鶯 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

不便な所から離れてゆく現代の生活 (田舎でも都会と小さな町と村ではまるで違ったものとなるー医療が一番の問題)

 

不便な所から離れてゆく現代の生活

(田舎でも都会と小さな町と村ではまるで違ったものとなるー医療が一番の問題)

●田舎の田舎で困るのは病気の時


現代社会の生活そのものが原発事故などで問われた。
過疎化とか限界集落とかがいつも問題になっていた
それは現代生活が便利になっているから
便利な都会から離れた所は不便であり住みたくないとなった
それで大内村の人が補償金がもらえると郡山市に移り住むと
大内村には帰りたくないとなってしまった

この気持は自分でもわかる。

例えば南相馬市といっても最近小高町と原町市と鹿島区が合併してできた
原町市は5万くらいあって都会だったのである。
5万が都会なのと10万とか30万とか50万とか百万都市に住んでいる人からみたら
そこも田舎だよとなるが住んでみれば全然違う。
原町区と鹿島区がどれだけ違っているのか?
それは病気のときわかる。

また母が小便が出ないと夜に厚生病院に行った
そこは近くタクシーだと600円である。

でも前は歩けないから介護タクシーで行くほかないとなっていた
でもこの介護タクシーは鹿島区にはない
だから原町区とか相馬市から呼ぶことになる
すると一万くらいかかるというからがっかりした
それも理由ははっきりしている
普通のタクシーでも原町に行くと4000円くらい片道でとられるのだから
呼べば当然それだけの金がかかることは普通なのである
タクシーはそもそも長距離になると馬鹿高くなるのだ


そしてここで泌尿器科がないので原町の専門の開業医でみてくださいと言われた
その医者は原発事故以後支援のために入った医者だった
その他に何人か入っているが看護師の支援はないてので看護師不足である
ここでは開業医でも二軒しかないからたりない
原町と相馬市は開業医が多いから病気の時は恵まれている
車があれば楽なのだが車がないとまた通うことも大変になる
田舎では車がないと暮らせないというのは
病気になったらこういうふうに遠くに行かざるをえなくなるからだ


●田舎は広く車がないと不便で危険にもなる


例えば買い物でも海老村から街の方を見たらかなたに見えた。
そこから自転車で行くとしたらかなりの距離になると思った。
街から少し離れているからさらに遠いのである
その離れた距離感が街内に住んでいるとわからないのである
田舎に住んでこの病院や医者の問題が一番困る
健康であればいいが病気になったらへたするとみてもらえず死ぬ
そういう恐怖を何回か自分自身が味わったのである


だからなぜ大内村の人が帰りたくないとなるかというと
まさに高齢者が多いから病気のことで通うに楽だし
先進的な医療も受けられるから郡山市の方がいいとなった
つまり大内村と郡山市の差はあまりにも現代では大いすぎたのである
高齢社会になるとどうしても医療や介護の充実した所に住みたいとなるのがわかる

それがやはり5万の都市や10万の都市や20万の都市では格差が生れる
何かむずかしい病気になったらもお手上げになるのが過疎地域である

その過疎地域というとき南相馬市は市だから都会だと思っているが
その範囲は広いのである。

鹿島区は原町とか相馬市とすると急に田舎の村とすら感じる
その一番の要因が開業医や病院の差だったのである
もちろんその他レストランでもいろいろあり便利なものがある
それらはいいとしても病気だけはどうにもならないから困るのである


●田舎の人間関係は狭く陰湿でも抜け出せない


原町が都会だという時やはりおそらく人間も街内に住んでいれば
都会的になりあまり他人を詮索するようなことはないかもしれない
人の出入りが多いとやはり都会化して他人に無関心になる
それはいい面と悪い面がある

隣の人の関係は良くなくても水道管が破裂して水が流れだしていた時
水道の元栓を閉じてくれたのは助かった。
田舎ではいつも見ないようで見ている人がいるからだ
隣にも迷惑かかるときがあるからそういう面ではいい


でも街内といっても一万くらいの街内とまた少し離れたところは農家が多く
その人はそういう中で暮らしているので親戚も多く見張られていて
年取った女性でも中には入れないという
その人も75才だから相当な年である
それでも見張られていることでだめだとなっている
それだけ回りがうるさすぎるのである
監視カメラが田舎では人間になっているのだ
逐一人間が監視していて報告されるのである


田舎は物凄く陰湿です。

住民間の陰口は頻繁にありますし、親戚が何らかの問題を起こそうものなら、白い目で見られた上に徹底的に誹謗中傷されます。ですので、足を引っ張られないように、身内の恥をとかく隠そうとし、それが田舎の隠蔽体質へと繋がっていくのです。
更に。金持ちなどは、事件の揉み消しや隠蔽を平気でやります。最悪の場合、被害者が悪かったかのような中傷まで流れ、被害者側が住んでいられなくなって土地を出て行くなどという信じられない蛮行が起きたりもします。
こういう田舎では殺人事件だって起きますよ。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q111198476


くだらない噂好きな老人も多いです。毎日暇なのでしょう。私の母親が親戚のおじちゃんと一緒に車に乗ってるだけで不倫の噂が。親戚ですよ?親戚。呆れて怒る気にもなりませんでした。
http://loco.yahoo.co.jp/qa/11110744421/


山口県周南市金峰地区郷集落で起きた連続放火・殺人事件があったがこれは地理的には相当に辺鄙な所だった。
まるで閉塞された山間の少人数の高齢者が多い村だったのである。
こういう場所は地理的にもそうだが狭い人間関係から逃れられない
すると出れないとなると相手を殺すまでなる
そういう怖さを田舎は秘めているのだ。


最近つきあった人はまるで絶えず周りの人に追い回されて窮地にたたされている。
なにかやと噂をたてられ逃げ場がない状態になっていた。
でもここから出て行くことができないから狭い場所で耐えているかほないあわれさである
自分の場合は田舎でも田舎の人間とかかわっていない
ただ家族が一人死に一人は介護になり全部家のことを一人でとりしきるようになって
外部と接触せざるをえなくなり犯罪にもあうしまたそうした田舎の人間関係の窮屈さを知ったのである。


ただこの辺は津波原発事故であらゆるものが急変してしまった。
だから外部からも人が相当数入り田舎の閉塞的な人間関係でないものも生れた
村自体がなくなるような激しい変化で今までの村だけの人間関係も破壊されたのである
そういう大きな変化の中で人間関係も変わった
村のコミニュティすら破壊されてしまったのである
だからこういうときは新しいものが生れやすい
古いものが全部失ってしまったらなくなってしまったら
そこには新しいもの作るほかないからである
ただその変化があまりにも大きすぎて以前としてとまどっているだけなのである

 
 
posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2014年03月02日

広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの (愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

 

 広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの

(愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

小さな畑で野菜を作っている人が雪で野菜がだめになったというとき
農業は天候の影響を受けやすい、だから農業が中心だった時、
農家でなくても天候に敏感になる。
日本では特に四季の移り変わりが激しいから季語が生まれ俳句文学が生れた。
体力では天候が毎日からりと晴れるような所では天候のことをいちいち言わないだろう。
ともかく雪で野菜がだめになったと野菜を作っている人が言う時、
直接田舎に住んでいる人にはひびく、それは他人事ではないからだ。


それが広域化グローバル化したときどうなったか?
確かに大雪で野菜がが一時的に高騰はした
でもある県でとれなくても別な県ではとれる
北海道でとれないなら九州でとれるし入ってくる
そうなると自然災害でもあまり影響しないともなる
ナーニ日本がだめなら外国から買えばいいともなっている
そういう感覚は戦後20年くらいまでなかっただろう
そんなにまだグローバル化経済になっていなかった

戦後十年は江戸時代の延長の自給自足生活だった
食べるものも燃料も炭でなんでも地元にあるものでまかなっていた
だから農家では納豆まで作っていたのである。

地元で暮らすということは地元の土地の実りと地元の人の労働によっていたのである。
そこに自ずと地元の人の連帯が生れていたのである
まさに協働が共同となっていた。

小さな畑で野菜を作っている女性はいろいろとその苦労を語る
すると野菜一つとるのにも苦労しているなと思う
つまりその野菜ではないモノではない
苦労して作っているその人自身が価値がある重みあるものとなって訴える
その人があって労働があって野菜が作られている
その労働にも価値があると実感として思う
モノより人に注目されるのである。


ところが現代ではモノは商品としてあふれているがモノに注目して
それを作り出している人には注目されないのである
小さな畑でも苦労して野菜を作っているものをもってくれば
それはどういうふうに作られているから実感としてわかる
するとその野菜も大事だがその人が大事であり注目されるのである
でもモノが全国から世界中から入ってくるときは
人より金が大事になる

金があれば別に大雪になっても外国から飛行機で買えるということもある
ただ今回の大雪は交通にも影響したから別だった

普通はモノはいくらでも入ってくるから金さえあれば買えるとなる
第一そのモノがどうして作られたかなど想像すらできないのだ
モノはその土地からも人からも分離してしまっているのが現代である。
だから意外と愛郷心などなくなっているともいえる
別に金さえあればどこでも暮らせるではないかとなるからだ
それでこの辺で原発事故で故郷に住めないとなったとき
若い人は簡単に多額の補償金をもらって別な所に住んだ方がいいとなり
家も建てたり帰らないとなる

つまり愛郷心というのはその土地と人と密接に結びついて育まれるものである

現代はそれは分離してしまった、田舎でもほとんど会社員だかから愛社精神はあっても
愛郷心はうすれているのだろう
原発事故では避難区域になったところは実際に東電の廃炉事業の拠点の街として残そうとすることでもわかる
市町村が実は東電の社員になっていたのである
トヨタの社員になっている市長村もある

愛郷心は人と人のつながりのなかで愛郷心が育つ
人と人との結びつきが広域化グローバル化経済で破壊されると愛郷心もなくなる
だから愛郷心が希薄化するのはそうしたグローバル化経済が関係してたのである

田舎は本来は協働共同社会であった
田舎は陰湿だというのもそこにはマイナス点としてあった
ただ田舎では土地と人と人のつながりが強かったから助けあう社会でもあった
助け合うという意識をもたなくてもそうした自然環境の中で自ずとそうなっていた
「たすけあいましょう」「親切にしましょう」「・・しましょう」というとき
それがなくなったから声高に叫ばれるのである
連帯がないと「連帯、連帯」と前の全学連のうよにスクラムを組んでデモになる
そういうところは連帯がないからこそそれを声高に叫んでんいるのである


現代はグローバル化経済はモノだけどこからでも流通して暴力的にすらなっていると思う
そこで肝心の人に注目されないし無視されている
すると金だけが唯一の価値として物神崇拝になるというマルクスの理論が受けたこともわかる
いくらモノが流通しても金で買えても人間の心はばらばらになっている
自給自足経済では人が大事であり人と人が結び合いその地域を支えあって暮らしていた
だからこそ愛郷心が育まれた

「この野菜は私が耕し苦労して育てたものですよ、買ってください」
「そんなものより、もっといいものがスーパーで安く買えるよ、だから買わない」
こんなふうになるともう地域の連帯もなくなる
人と人のつながりもなくなる
ただグローバル化経済の中で価値あるモノを作らない限り生きていけない

でもいくらいいモノを作って売れても買った人と作った人の連帯は生れない
もっといいモノが売られているよ、じゃ今度はそっちを買おうとなるだげである
そういうところに人と人の持続的連帯など育ちようがないのである

だからインターネットで生産者と直接結びつくような販売で
雹がふってアスバラガスがとれるのが遅くなったが一週間がまんしてくれと連絡があった
契約している消費者はその一週間を耐えた時、生産者との連帯が生れた
でも現実は別に他からいくらでもメキシコ産の太くて安く売っていたよとなれば
そっちを買うのがふつうなのである

だから広域化グローバル化経済はいいようでも人は常に無視されている
作っている人は注目されないのである
だから互いの連帯感も生まれないのである
ただ金だけがあればいい、金さえあればモノは買えるし腹は満たされるという考えになってしまう
それがかえってモラルの荒廃を生み人間同士がバラバラになってしまっているのだ


追記 
労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そして自己の実現の諸条件からの分離を不埒な強制された分離だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「経済学批判要綱」『マルクス資本論草稿集A』S.371)。「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「1861-1863草稿」『マルクス資本論草稿集H』S.2287)。

なんだかこれもむずかしいけど労働が本当は一番人間にとって大事なものだということ
労働が自己実現の道であるということ、それが広域的グローバル化経済では労働の価値とモノの価値が分離させられるということ


「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――
強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること


モノだけが注目されて人が注目されない、人の労働の価値がモノより注目されない
モノと人の労働は分離している
むずかしく言えばそうなるが簡単な例で言えばそういうことは狭い範囲の経済活動でもわかる

この世の中のことは具体的な生活にこそあるのでありマルクスの理論でも
その一面をとりあげたものにしかならない、ただそれがグローバル化経済で顕著になったから
マルクスも見直されるのである


 
 

posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2014年03月03日

海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた (海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)


海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた

(海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)

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ニコニゴ堂の住所
福島県南相馬市鹿島区北海老字藤金沢110


あそこの喫茶店はどうみても屋形村である。海老村とは思えなかった。
そこで前に書いた海老村の発展経路が間違っていたことに気づいた。
なぜなら南屋形村が岩松氏の阿弥陀寺があり鎌倉時代にさかのぼり一番鹿島区では古い。
その南屋形村から海の方に向かって北海老村と南海老村となったと解説した。

しかし北となると方向が違っていた。
南屋形から見て北の方向にはない、北屋形村が八沢浦の方にある。
それは明らかに南屋形から見て北の方向になる。
ただ北海老村が明暦からの記録がある

南海老村は寛永からの記録がある


慶長元年 1596


1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸地震津波で相馬藩で700人溺死


元和元年 1615

寛永元年 1624 寛永中田ほ査丈士位上、村秣千五百三四石五斗六升四合 南深田この時にあり海老一村なり

正保元年 1644
慶安元年 1648
承応元年 1652
明暦元年 1655 検地開始
万治元年 1658
寛文元年 1661
延宝元年 1673
天和元年 1681
貞享元年 1684
元禄元年


南海老村の方が北海老村より記録的には古い、南海老村は新しいものかと思った。
すると南海老が北海老村より古いとなる。
そうなると海側に進出してそれから山側の北海老に住居を広げたのかとなる
山側は津波の後にかなり新しい家が建っているからそれなりの土地があった
そこは津波の来ない高台にあった

では南海老が北海老より古いとするとこれも解せないのである
ただ地形を見ると南海老であれ山側はかなり急な山の斜面になっているから
人は住みにくい、屋形の北海老はまだ住むのにはいい
それでも南海老から北海老村に別れて発展したというのも解せない
北屋形村から北海老村に山側から発展するのはわかる

でも実際は南海老に人家が寛永時代から集中したのである

人口が集中したから下海老村と上海老村は南海老村から分かれたのである。
北海老村ではない南海老村に集中した。
そこは海に面して今回の津波で壊滅した地域だった。

南海老が北海老より早く開け屋形よりも早く田も作られていた謎である。


そして最大の謎は慶長三陸津波の後の寛永元年に鹿島町誌に記録がでている。
慶長三陸津波から一二年しか過ぎていないのにそこに人が多く住み始めて
田まで作られていた。
何らか慶長津波では今回のようにそこはどうなってしまったのか
その時はまだ人がすんでおらず津波で人が死んだりしなかったのか?
津波で死んだとしてそこに一二年後に住み始めたのだろうか?
現代の感覚では住めないというのが普通である
もちろんそこが津波の被害にあったかどうかは皆目不明である。

ただ慶長三陸津波は今回と同じくらいの津波だとすると何らか被害があった
その時どれくらい南海老村に人が住んでいたのかわからない

ただ南海老村が屋形より古い記録があり人が古くから住み始めた。
それはもともとあそこは海側は湊ととなっていて塩などをとっていた。
魚もとっていた。明治時代には帆掛け舟もみかけたと聞く
すると海の幸を求めて早くからそこに人が集まったのか?

でも慶長津波から一二年後にそんなところに人が集中するだろうか?
今回のように北海老村の山側に住居を写して北海老村ができたのか?

何かここにも慶長津波の謎を解く鍵がある
慶長津波は烏崎にもかなりの被害を与えた
ただそこがどういう状態だったのか
人が住んでいたのかどうか
ただ記録的には岩松氏が上陸した地点であり
すでに人が住んでいた。
だから慶長津波の被害があった


つまり一見浜側は新しく住み始めた人たちだったとしているがそうでもないのかもしれない、
田んぼがなくても米がとれなくても魚介類をとっていれば縄文人のように一応飢えずに暮らせるということもある
だから海側でも早い時期に人が住み始めたということがある

慶長津波をもし南海老村で経験した人がいてその一二年後に住みはじめることがあるのか?
その頃は津波に対する考え方も違っている。
三陸ではあれだけの被害があってもやはり海側に何度も住んでいる
それはそこが魚介類がとれて便利だからである
だからここでもそういうことがあったのだろうか?
つまり生活の糧を得ることが先決であり
津波の被害より当時はその方が大事でありまた住み始めたとも考えられる
今の時代との考え方は違っているからである

ただ今回の津波を経験した人は怖くて絶対に住めない
だからその当時だって津波を経験したら住めないと想像する
それでも背に腹は代えられないと住んだのだろうか?


追記

北海老村に古墳群があったから北海老が南海老村よりは古い地になる。
南海老村にはないし貝塚も鹿島区では発見されていない
するとなぜ南海老村が鹿島町誌では寛永からの記録があるのか
それは魚介類をとるためとも思えない
田があったとするとあそこは津波の後も田として開拓した

慶長津波の後に相馬藩の侍が伊達藩の津波の被害のあった地点に開拓のために移住した。
津波の後でも開拓していたのが当時の状況である
すると海老村もそれとにた状況があったのか?
慶長津波から一二年後でも開拓する場所を求めて田を作った
そこは無所有の土地でありそこで早くから開拓に入った
他の土地は岩松氏などの所領であり開拓に入りにくかったのか?
伊達藩でもそこに開拓する人手が必要になり敵方の相馬藩の侍でも受け入れた

いづれにしろこの謎もまた深い
でも一つの発見でありまた研究すれば津波のことがわかる可能性はある
ただその資料は少ないしその謎の解明は容易ではない

posted by 老鶯 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

春北風(原町まで行く)


春北風(原町まで行く)

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街中の樹々をゆらして春の風

春北風に向かいて走るゆるる樹々
やさしくもさざ波よせて春の鴨


松風の鳴りてさわぐや春の雲丘の上に浮き春日輝く


今日は明らかに春北風(はるきた)だった。
北風でも春の光がさしてそれほど寒くないから
北風に向かって自転車で走っても気持良かった。

原町では街中の樹々がこの春北風(はるきた)にゆれていた。
原町は一坂越えれば行けるから便利である。
高見食道のサシミ定食を食べた。
あれはお得である。750円ではもうけがでているように思えない
ランチではもうけぬきで出している所があるからそうなるのだろう


帰りは川子の丘の森を下り帰ってきた。
松風がなり春の雲が浮き気持よかった
あういう近くに森があることがいい
遠くだとなかなか行けないことが問題なのである


真野川には鴨とカモメがいた
鴨もそろそろ渡りであり帰るのだろう
ここには前に白鳥が来ていたが今年は来ない
餌をやらないから来ない
他には来ている
時々白鳥が飛ぶのか見えるからである
その白鳥も帰る


この頃春北風と東風(こち)が交互に吹く
不運だったのは東風が吹いた時、原発が爆発したのである
その時雪もふったからさらに不運だったのである

東風は何かかなり遠くから吹く風と感じる
日本列島の九州のかなたから吹く風のようにも感じる
太平洋側だとそう感じるのだろう
何か北風は山から吹いて遠くから吹く感じはしないのである

事実東風は川俣の山を越えて吹いていた
だから福島市の方に吹いて放射性物質を運んだ

一方で郡山市や白河などが放射能汚染されたのは
一旦北風で運ばれたものが今度は東風が吹いて放射性物質が運ばれた
福島市の方から吹いた北風はなかった
それだけ風は計りえないものがあるのだ

 
 

南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった (津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)


南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった

(津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)

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南海老村の領域には広い田んぼがあった-クリック拡大

そもそもどういうふうにして海老村でも烏崎村でもできたのか?
磯部村でもそうである。
そこは海岸線に密集して家が人が集まってできた村である
だから何か漁業と関係してできたように見る
でも最初は漁業はそれほど盛んではなかった
鹿島区でも小高区でも縄文時代の前期は海側に集落がなかったのだろう
後期になり海側に進出して集落を形成した
だから縄文時代も海の幸の恵みは受けていた

だから鹿島区の桜田山の下に縄文時代の遺跡があり
そこにはいろいろな魚が食べた跡や鹿を食べていたことがわかっている
つまり魚も食べたし鹿も食べた
「狩浜」なとの地名は鹿などを狩りしていたから海側でもついた名だろう
鹿島区では桜田山の下辺りが海からかなり引いた所だから縄文時代は
住むには適地だったのかもしれない

山側の北海老村に古墳があるというとき今の南海老村はその後に住む人が集まった

ではなぜ南海老村がすでに人が住んでいて
慶長三陸津波の12年くらい後にまた住みはじめたのか?
それは日本の土地が山が多く平地は湿地帯が多く米作りする土地がなかった
葦原瑞穂の国というときそうだった
平地があっても湿地帯が多くまた山が多いから米作りする土地が確保しにくかった
中世でもまず鹿島区では江垂の中館とか屋形でも山側に敵から守るための
館(たて)を作った、館とつく地名は中世の城であった
それは多々敵から守るというだけではない、
平地が湿地帯であり住みずらいということがあった

湿地帯には害虫も多いし蛇や蟹や害になるものも多い
それで蛇田とか蟹田とかの地名はそういう所に田を作ったからである
また沼田という地名が非常に多いのもそのためである。
今回の津波では本当にあちらこちら沼が生れて湿地帯化したのである

まず縄文時代のような狩猟と漁労とかの生活では人口は増やせない
一定の人口しか保てないだろう。
弥生時代になり稲作がはしまり飛躍的に人口がふえる
それだけの人口を養えるのが稲作だったのである。

だから北海老村に大きな藤金沢の溜池がある。
それは拡張されて大きくされた
その功績があった人の名も伝えられている
その水は南海老の田んぼに流れていたのである。
南海老村は御刀神社の辺まで広がっていた
つまり南海老村は田んぼの領域が広い
漁村とは違っていて田んぼが干拓されてできて南海老村ができた


だから結局なぜ津波の後に12年くらい後に干拓して住みはじめたのか?
普通ならもうそんな津波の被害のあるところには人は住まない
ところが当時の事情は平地がない、米作りには平地が土地が必要だった
山側では稲作する土地が得られないである
すると現代のように津波の被害のあんたところはこりごりだと街に移り
そこで会社にでも入って新しく生活をやり直そうとかにはならない
そういうことは簡単にできない
生きる糧はその土地にしかないのである
するとどうしても津波の被害にあってもそこで米作りする他ないとなる
それが津波の後の12年後くらいでも住んだ理由なのだろう
それは伊達藩でも同じであった
米はすでに江戸に船で運び商品として売っていたから津波の後でも
米作りをやめるわけにいかなかった


結局日本は土地がない、山国であり土地が極めて制約される
平坦な土地も湿地帯であり条件が悪いからそこで苦闘した
田下駄とか下駄は湿地帯で米を作るためのものだった
下駄の起源がそこにあったことでもわかる
湿地帯との苦闘の歴史が下駄を生み出したのである


磯部村でも南海老村でも烏崎村でも海岸線に家が密集して人口が集中したのは
漁業のために見えるが違っていた
その後背地は広い田んぼであり稲作をしていた
大内村で海老村と同じ地形があった
山側に先に館が作られ海側へはあとに人が住んだ
それが津波で明確にわかった。
海側に住んだ人は津波の被害にあい山側に住んだ人は無事だったからである

その後に南海老村が上海老村とか下海老村とか人口も増えたのは
それは海と関係した仕事が増えたためである
何らか塩を作る技術とか舟を作る技術とかがもたらされ
海の幸を得ることができて南海老村は人口が増えた

ともかく慶長三陸津波では相馬藩で700人溺死している
その数は当時からすれば相当な数であり被害である
そのことはすでに海岸側に人が相当数住んでいたからそうなった
縄文時代あたりだったらそんな被害はない
もともとそこには住んでいなかっただろうからである

結局自然の制約を越えて無理に田んぼでも干拓して造らねば人口はふやせない
稲作文明も人工的文明でありそれは自然に逆らうものがあった
それは文明というものはみんなそうである
ただ稲作は第二の自然であり松原もそう見ていた

ただ原発でもそれは文明の成せる業でありそれが自然の報復を受けた
津波もまた自然に逆らって海側を干拓して田んぼを作り集落を作った
そのことが津波の被害を大きくしたのである
でも稲作文明を維持するためには土地が必要であり
そこにまた住まざるを得ない宿命になっていたのである

だから原発がやめられないというとき文明をやめることになるからできない
原発と心中するほかないと言った時、稲作文明にも言えたのである


日本にはふえる人口を養う土地がない


これが満州まで土地を求めて戦争までになった
日本の悲劇がここから生れていたというのも日本の歴史だったのである


不思議に今もその問題は継続している。
津波や原発事故で全壊した家が南相馬市で4600軒もあった
そして住宅地にする区画が900も必要だという
そんな土地がどこにあるのだろうかとなる
でも実際は広大な田んぼはまだこの辺にはある
そこに建てたらいいじゃないかとなる
でもそこは農地であり簡単に宅地にはできない
その発想は以前として土地が大事であり農本主義的発想である
農か基という発想である
それは自分も田舎は農本主義であるべきだと思う

でも津波や原発事故でそうもいかなくなっている
つまり復興住宅の用地がそれだけ必要なのである
そうなると田んぼでもつぶしてそこに建てる他ないということにもなる
それては農業は破壊されてしまうとなるのもわかる
そのことは津波の被害があった慶長三陸津波の時と同じなのである

いづれにしろ津波原発でこの辺で課せられたものはあまりにも大きすぎたのである
だからどうしたらいいのだろうとなるときただ困惑するだけだと今でもなっている
「もう農業なんかみんなやめたかったのだからこの際やめる」
そんなふうになるのもわかる

では農業やめてこの辺は何を主要産業にするのだろう?
結局浪江町のように廃炉事業の基地の街にしようとなった
そんなものしか思いつかないのである。
後は核の廃棄処理場でありそんな市町村が何なのだろうとなる
殺伐とした風景となった原発事故の廃墟の街なのだろうかとなる
石炭全盛時代に栄えた街が衰退する、夕張などと同じになるのだろうか
津波から原発事故から三年過ぎてもその被害が大きすぎるから未来が見えないのである

それにしても自分はいつも海側の田んぼを見ていた
黄金色に実る稲穂の原をみて松原を見ていたのである
ただそこは右田の松原であり南海老村の領域が先立ったとは思わなかった
これも意外と地元のことですらなかなかわかっていない
農業はやはり実地に農業している人でないとわかりにくい
屋形の農家生まれの人の話を聞いて実感したのである

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2014年03月04日

春の日(猫の俳句)


春の日(猫の俳句)


猫の毛に春の光や餌をやる

我が庭の猫の行き来や福寿草
雪とけて外を歩むや猫の恋
野良猫も冬を越したる庭通る
春の日や空部屋一つ猫の住む
座布団に猫の眠るや春の夜


野良猫に餌をやったらすみついた。一つ部屋があいていたらそこにずうずうしく眠っている、
それはかわいいのだけど猫を飼うこともめんどうである
ただ猫が通っているからネズミが来なくなったというのは本当かもしれない
ウグイスが部屋にまぎれこんで猫がとって得意そうにもってきたのには驚いた。
その時はにくらしかった。


春になって猫にも春の日がさすときその毛にさすからふはりあたたかいと思う
なぜなら今年の冬は寒かったし大雪だった。
その時を一緒に過ごしたから猫も冬が過ぎてあたたかいとなる
その毛もやはりいっそうあたたかく感じるだろう。
野生の動物は衣服を着ない、だから余計に自然をそのまま感じる
人間はそうでないから自然を直接に感じない
車だと風だって感じない、雨も感じない
だから風流かない、自転車は感じるから風流がある
車は外の空気にふれないのである


猫がペットを介護までして墓までたてるのはやはり現代の世相なのだろう
ホームレスがペットの方が大事にされているという時そうである
それだけ人間不信という人間に嫌気がさしている人が多いのである
ただ動物を飼うのはめんどうである
だからどうしても捨て猫がり野良猫がいる
この辺でも気づかなかったが5匹くらいは知っている
野良猫は飼い猫の家に集まってくる
それでコタツに野良猫が入っていたのには驚いた。
野良猫は餌をとるには相当厳しいだろ

だから家にいついた猫は今でもなれない
近づくと歯をむきだしてふれさせない
それだけ野良猫化して厳しい目にあったのだろう
これは人間でも同じだろう
あまり厳しい目にあうと人間不信になる
人間か信じられなくなるのだ
その怒りがこの猫から未だ消えないのである


ともかく今年の冬は大雪もあり寒く厳しかった。
野良猫だって家の猫も寒さでは同じだった
だからこの春は猫と一緒に春の日をあびて安らぐ
ペットを飼うのは現代は家族が少ないし
家族代わりにもなっているのだろう
ただ猫はあんまり増えると困る
だから餌をやるなというのもある
必ず捨て猫か増えて困るのである


相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う (権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

 

南相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う


(権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

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陽山寺はここが起源になっている


相馬郷胤【そうま・さとたね ?〜1601(慶長6)】
義胤の弟。父盛胤の隠居地、田中城(館)で同居し、盛胤が中村城に移った後は田中城代となる。

南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
http://musubu.sblo.jp/article/14899907.html


ここに田中城主の郷胤の墓があったことは気づかなかった。
確かに慶長と記されているから相馬藩内を調べた年号では自分が見つけた限りでは一番古い。
この郷胤が死んだあと慶長16年に慶長三陸津波が起きた。
つまり10年後だったのである。


ではなぜここに屋形村にあったのか?
田中城内にあればわかる
でも離れた屋形村にあった。
なぜ墓をどこに作るかはどうして決めるのか?
これもわかりにくい
単に適当にその墓の場所を決めるのだろうか
この墓はもともと郷胤の墓のみであり
孤立した墓でありあとにつけくわえられた墓もある
ただ別に田中城からそれほと遠いということではない
その距離が問題かもしれない

もう一つの問題はここに城主だけの墓を作ったことである
田中城は滅びたのだから田中城内には作れなかった
それでも田中城近くにはかか作られたのがわかる
自分が城主だからその近くにありたいということは人情である


田中城滅びて近く郷胤の墓のありしや春の日暮れぬ


慶長の年号確か郷胤のここに眠るや春の日さしぬ


いづれにしろこういうふうに相馬藩では権力争いのことは詳しく記されて残されたが
慶長津波のことは700人溺死としか記されていない
だから歴史というのは民衆のことは消されやすいということだろう
歴史を記すものが権力の興亡にかかわって生きているからそうなる
権力闘争の中で歴史を記す人も生きていて何が大事かとなると
自分の身がどうなるのかということがあり権力闘争の結果が自分にもひびくから
ことこまかにそうした跡継ぎ問題とかは記される
その中で民衆のことは忘却される

それは津波の被害でも原発事故でも同じ傾向があった

原発の安全神話は権力をもつものが操作して作られたのである。
現代の権力構造は複雑であるがやはり事故の後に明確になった
政治家官僚(検察)宗教団体、労働組合、漁業組合、マスメデア・・・
現代の権力を作るものが安全神話を作っていたのである。
そこには金が流れていた、マスコミには宣伝費として流れていた。
宗教団体にも雑誌の宣伝費として流れていた
それはあらゆる所に金がばらまかれていたのである。


歴史がはじまって以来、そもそも権力者が民衆のことを考えるだろうか
考えるとしても権力を得たいためであり権力をもちたいためである
議員でも民衆のためとか嫌になるほど訴えるが自分が権力を得たいためであると
議員自身が言っているのだからまちがいない
戦国時代とか江戸時代はそうした嘘はない
ただ力あるものが上にたち治める
民衆のためとかという現代的感覚がないから正直である

現代は大儀名文ばかりで心にもいなことを平気で言う時代である
民衆のことなどどうでもいい、俺は議員になり威張りたい、金も得たい、
そのためなら嫌なことでもするし心にないことも言うし嘘もつく
それは自分の欲望を達するためにそうするのである
だからあらゆる所で正直さをなくした社会ともなる
二枚舌になりやすい社会と言える


こういう激しい権力闘争の興亡の後に慶長津波が起きた
それは何を意味しているのか?
やはり世が乱れる時、自然も乱れる
貞観津波でも蝦夷征伐の時期であり世が乱れていた
慶長津波の時も戦国時代の延長がつづいていた
そして大津波が来たのである

そして今も世は大きく乱れている
そういう時、自然も乱れ大災害が起こる

つまり700人溺死としか記されなかったことが権力者への抗議となっている
その惨状を苦しみをとりあげ記述していない
そのことが実は民衆を無視していた証拠である

歴史として記されないから存在しなかったとなる
蝦夷の征伐についても蝦夷について記されないのは
歴史は勝者の歴史だから記されないのである
大和朝廷に征服された蝦夷についてわからないのはそのためである
それは民衆でもそうであり民衆のことは記されていないのだ


ただ現代の進歩は民衆が伝える力を訴える力をもったことである。
ただそれも巨大な数となり団体となりしないと訴えられないのは同じである
だからまた民衆が今度は権力をもつ時代になった
でも国民戦争になったときもやはり権力者に操作されるということは常にあった
結局民衆も権力を求めている。
つまり人間の欲望は消えないし権力をもって上にたちたいというのが民衆でもありみんな同じなのだ。
虐げられた人間は特にそうなる。そうした状態に満足する人はいないのである


ともかく実際に津波で死んだ人がいてそれをいたむことがあってもいいはずである
相馬藩の侍は教養かあるのだから歌を作っていた
そしたら歌の一つも津波の被害者に対して作っているのが普通なのである
それが一切ないということは謎になる
何か津波の被害を無視したとしか思えないのである
どうを考えてもまた慶長津波の被害にあった

民衆にしても何も伝えなかったというのも謎である
いくら伝える術がないとしてもそれだけの被害かあれば
やはり子孫に伝えようとするだろう
すると何かしら伝説でも伝承でも残っていいはずなのである
そういうものがほとんどないということがやはり謎なのである

現代ではこれまでも個人が何かを残し訴えることはやはりむずかしかった
本など出版できるのも権力をもった団体の後押しがないとできなかった
だからこそ原発の安全神話は作られたのである
インターネットは最近のものだがそうした個人が発言することを可能にした
影響力は弱いにしてもやはり一つの進歩である

これだけ津波のことにくいて写真でも残して本でもインターネットでも語られたら
400年たったら忘れられるとは思えないのである

ただかえって記録過剰で肝心なものが見逃されるということはありうる
地元のことでもこんなに身近にあったものが今頃、もう死も近いというとき発見していることでもわかる。
近くでも人間は知らないことが多すぎるのだ。
かえって地球の果てのようて所に行くことができるから
そっちの方に詳しい人も現代ではいる
しかし肝心な一番身近な所を知らないという皮肉が現代にある。
灯台下暮らしはこれがたけの情報社会でも同じだったのである。
津波のことをもっと関心をもっていいはずだったが全くもたなかった。
原発でも近くでも関心をもたなかった
それが危険につながっていたという皮肉があったのである

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2014年03月05日

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史 (戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)

 

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史

(戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)

 


慶長3年小高城より牛越城に移る慶長6年 田中城郷たね病死 屋形村北原に葬る この菩提の位牌所として鹿島村に陽山寺を建立
慶長11年 参勤交代始まる、江戸屋敷を置く
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加



慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない

中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える


寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、
馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた

それで新田開発を一人十石限りとされた
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも


津波があった前後の日本の政治情勢は戦国時代の延長でしり不安定だった。
そういうときに津波の被害があっても政治の優先課題は別な方にあった
財政的にも苦しく津波の被害者に注意を払う余裕がてかったのである
つまり津波の被害者をあえて無視するというより混乱期でみる余裕がなかったのである。
ただ被害にあった民衆にすればそれだけの被害だから何か伝えるものがあってもよかった
それがないのはなぜなのかということは謎である


給人の知行開発が多いということは開拓が盛んに行われた。
それでもともといた百姓が土地を奪われて困った
前にも述べたように戦後十年までは土地が生活の糧だったからそうなった
明治になって八沢浦の開拓、大正になっても
小高の井田川浦の開拓とつづいていたのである

このことは津波の被害があっても土地を開拓しないと人を養えない
だから津波の被害のあった所でも開拓をすすめた
それは伊達藩の被害も今回の津波のように被害が大きかった
そこで相馬藩の侍が開拓に入ったというのもそのためである
相馬藩には津波があったときでも養える土地が不足していたのである

結局なぜ相馬藩では慶長津波のことが記されていないのか
民衆でも伝承しかったのか?
それは政治的には戦国時代の延長の混乱期であり
津波の被害に目を向ける余裕がなかった
財政的余裕などほとんどなかった
それゆえ津波の被害者は無視された

ただなぜ津波の被害者自身が語り継がなかったのかは謎である
当時の政治事情と関係なくそれだけの被害があれば何かしら語るからである
それとも政治的に上から被害を語るをことを禁止されたのか?

ともかく財政的困窮を言えなかった。

慶長19年に大阪陣に出陣したことでもわかる。
その費用も大きい出費である
でもその費用の方をけずることはできない
それが戦国時代である
まだ津波の被害があり免除してもらいたとはなれないのである

それにしても津神社が津波を記念して建てられたというが
これすら実際はわからない
津神社は各地にあり津波の記念の神社なのかもわからない
これもまたなぜそうなっているのか謎である
ただ海側にあるからその確率は高い
八竜神社は山側にも多く津神社は限定されている
それにしてもその伝承すらないということがな謎なのである


「殿、民が津波で大きな被害がありました」
「なに、今は余はそれどころじゃない、藩の財政は火の車なんじゃよ
中村に移り新しい城の普請の費用、江戸屋敷の普請、
役金を課したが給人は不満で反乱を起こすと言っている」
「そうはいいましても津波の被害も甚大です、何も記さないわけにはいきませんでしょう
「では死んだ数だけ記しておけ、あと一切必要なし」
「それだけではものたりないのでは、その惨状を記しておくべきでは」
「そんなことはどうでもいい、今の藩の財政では何もできんのじゃ
役金を収められないから給人は刀、武具、馬具、家財まで売り払っているのじゃ
それほどにしてもまだまだ役金はたりず集まらないのじゃ、
役金が集まらないと江戸への参勤もままならぬ、それはさけねばならぬのじゃ」
「殿、そのことは重々承知していますが津波の被害も重大です
そのことを記さないと後世のためにもなりません」
「ともかく死んだ人数を調べてそれだけを記しておけ」
「それではたりないと思いますが・・・・・」
「お前は余の家来であり余の言うままに記すのが勤めしゃ、うるさく言うな」
「はあ、ではそういたします」

津波のことはこうして死んだ数は調べられたが700人溺死としか記されなかった。
それで無視された700人き溺死者の怨霊であったのか、
400年後にまた大きな津波に襲われて大惨事となった

「俺たち津波で死んだもののことを忘れたからそうなった、その時代もあったが
俺たちはあの時は無視された、そして忘れられた・・・」
いつかそうした民の苦しみを記されず忘れた時、同じ大きな災いがまたやってくる
それが歴史のカルマとなってゆくのだ」

それにしてもなぜ藩では記さないにしても民の間で津波の被害が語り継がれなかったのか、
字が書けなくても語り継ぐことはできた。
なぜその時700人も死んだ人たちの供養もされなかったのが、その碑すらないのか
今回の津波では嫌というほど語られ映像に残されるから400年たって忘れられることはないだろう。
ただ400年の歳月は何を語るのか予測はつかない、ただ津波はまた必ず襲ってくる
それは海側に住むもの宿命である。
でも今回は海側に住む人がいないから津波の被害はおさえられるだろう。

 

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野馬追いの金札旗ー財政を示す

戦争でも金がないとやれない

金はその時も政治を左右するものだったということ

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2014年03月06日

樹にしみとおる寒さ(言葉は文化の基)


樹にしみとおる寒さ(言葉は文化の基)

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しみとおる樹に寒さやしまるかな
しみとおる樹に寒さや飾らざり
しみとおる風の冷たさ木肌かな
しみとおる寒さや木の根深く張る
しみとおる寒さに枝々張りにけり
しみとおる樹に寒さや銀河かな


しみとおるというとき凍みるでもある、しまるにも通じている日本語である
こういう表現は日本語的なのだろう。
何かがしみてゆく、凍み豆腐、凍み餅とかもそうである
その風土にあった言葉は必ずある

英語とか表音語は音を重んじる。つまり英語でもフランス語でもドイツ語でも
音を通じて伝える、フランス語とドイツ語はなぜあんなに違った発音なのだろうと思う
フランス語は軽いラテン系でありドイツ語は重々しいもの感じる
だからフランスの文化とドイツの文化はライン川を境にまるで違ったものとなる
ドイツの音楽も重々しいのはドイツが森の国だからであった。
延々とつづく黒い森があった。ドイツはまただから重厚な哲学の国となった

いづれにしろ音楽がなぜヨーロッパで発達したのかはまさに言葉にあったのだ
言葉が文化の基だったのである。
日本語からも日本の文化が生れてきた。
だから英語にすれば日本の文化は消失するのである
日本人から日本語をとると日本人でなくなる
そのことは「心の星雲」でも言っていた。
つまり言葉はネティブでしか身につかないのである
それは幼児からしか習得できないからである
漢字もあるが漢字は象形文字であり視覚的であり絵画的である
だから音楽は発達しなかったのである
英語を覚えるには英語の音になれる聞き取る力をつけろというとき
まさにそれは音楽を聞くことと同じなのである
言葉の感覚はネティブでないと実感しえないものがある
言葉も数字でないから神秘的なものであるから詩を訳すと
詩でなくなるというのもそのためである


powerful mountain

mighty mountain
strongthend mountain


この感覚も日本人だとわかりにくい、力強いという表現だけではないものが表現されている。

mightyというの内面的に強化された力の感覚かもしれない、
powerfulは外面的な力の感覚だろう。それは説明しにくいのである


芸術はそもそも日々の生活から生れた。人間の生活そのものが芸術だった。
ただ文明的便利な生活は自然から遊離するから自然から分離すると本来の芸術は失われる。
なぜなら自然が基として芸術があり生活でも自然を基にしている生活は真の芸術を産む。
だから薪を積み薪を燃やし鶏を放し飼いにして山の清水を飲み川で洗い物をするという
生活はより自然なのだから不便でも芸術になる。
より自然が身近になるからだ。つまり冷たい水を感じることは自然を感じることなのだ。
だから「風流は寒きものなり」とはそのことを語っている。

まず車は冬でも中はあたたかい、また車だと風も感じない、だから自然を感じない
自転車は常に風を感じるから風流なのである。
だから田舎でも今や山の中でもみんなエアコンをしている。
一部薪を積んでいる家はみかける。
薪は乾燥するために積んでいる。
薪割りは実際は相当に力が必要で楽ではない
ボタン一つで電気を使ってやるのとはあまりにも違う。
でもそういう生活を戦後十年はどこでもしていたのである。
だから同世代の女性の人と話したらそのことで話しがあった。


いづれにしろ本当の芸術は田舎でしか生れない
まず樹について肌身で実感してわかるのにも時間がかかる
つまり樹でも石でも一体化する、アイディンティティ化することが必要になる
それには相当な時間がかかるのである
だから芸術はその土地土地から生まれというのも本当である
cultureは耕すからきているから土地土地を耕して文化は生れる
相馬郷土史研究というのもそうだった
それは土地に根ざしたものである


本当の芸術は日々の生活を基本としているとき、体力がないと本当の芸術は生まれない
例えは山を詩にするにしてもそれは雄大であり力強いから病弱たったらとても山を詩にできない、
山と同化するとしたらそれだけの体力が必要になってくるのだ。
健康な体でなければ詩にはとてもできない、ニーチェのような超越的な力すら必要になる。
高村光太郎の牛の詩にしても彼自身が牛のような体をしていたことなのだ。
前の師の上野霄里氏もそのことを言っていた。

ただ人間はあまり過酷だと芸術はなくなる。
その例が北海道開拓に入った猪狩満直
とかである。もう過酷な生活で疲れ果てて何もできない、
せいぜい日々食べるだけでありあとは寝るだけになってしまう。
その辺のかねあいがむずかしい。
自分も体力がなくても楽したから60以上生きている。
こんなに人は長生きするのだろうと思うと介護してわかった。
エアコンの部屋にいて食べ物で食べないにしても栄養あるものを食べさせる
弱ったら入院して点滴しているとまた99才でも回復したことでもわかる
これは弱い人でもそういう介護をすればさらに生きるのである。
だから昔は介護すらなかった。点滴もできないからちょっとしたことで死にいたる


この辺の原発事故でわかったように田舎でも実際は文明の真っ只中にあった。
田舎の方が文明的生活を享受していたのである
文明から離脱して生活するといっても簡単にはできないようになっていた。
確かに上野霄里氏が文明の離脱というときそれは精神的側面を強調したものである
具体的にそれを実行するときほとんど不可能になっているのだ。
山尾三省のような生活は何か反文明なのだけど
そんな生活をして何か魂胆があるのかとされるのが現代である


とにかく今年は寒かった。またこの辺は北風が吹き唸っている。
風花も舞っている、だからしみとおる寒さの樹というものを感じた
猫の毛が春の日がさしてよりあたたかく感じたように
やはり衣服を着ない自然のものはより自然を光でも感じるのである
それは樹でも同じだったのである