2014年02月21日

津波原発事故での混乱状態は三年目でも変わっていない (それは現代社会を問うもので機能不全化している)

 

津波原発事故での混乱状態は三年目でも変わっていない


(それは現代社会を問うもので機能不全化している)


●まるで映画のような混乱状態が未だにつづいている

津波原発事故から三年目になってもこの辺の混乱状態は何も変わっていない、小高区の仮設なども以前として変化はない、復興住宅がその土地だけでも900区画必要でありそんな土地があるのかとなるから六号線の金沢の坂を上る狭い土地が住宅地にもなる。
津波で失われた土地の面積も広い、そこが使えないということも痛い
もちろん小高区全体が未だに人が住むように回復していないことは一番痛い。
なぜなら復興住宅を建てるとしたら小高区に土地があるのだからそこにも建てれば
土地を利用すればかなりの土地不足が回復する。
一部建てるにしても小高には住みたくないという人が多いからその土地は有効利用されない。

有効利用されないという時、何かこの辺ではあらゆるものが有効利用されない混乱状態が以前として継続されている。
未だに未来の姿など見えないし何をどうするのかも見えていない,それほど被害が大きすぎたから有効な手を打てない
この状態は何なのだろうというとき、まるで以前として映画のようにも思うだろう。
映画のセットのようになっている。
実際あの住宅地になる六号線の金沢の辺りにイノシシが二匹夕方に出てきたのをみた。
あそこは工事しているからあんなところに出てくるとは思わなかった。
ただ前には野うさぎが出てきたのは見ている。
野うさぎでもイノシシでも行動範囲は広いから街近くまででてくる。
ただイノシシをあんなところに見かけたのははじめてである。
イノシシは街内に住んでいるとなかなか見れないだろう。


この辺の状態は何か猿の惑星の映画のようだというとき現実がそれとにかよっているからそうなる。
浪江から南は警戒区域で人は住んでいない、住民がいなくなったこと自体
まるで映画のうよであり現実とも思えない、飯館村でもそうである。
そして避難した人は各地で仮設に住んでいる。そのことも変わっていない
それでどこでも避難した人たち地元の人たちに批判されている。
働かないで昼間から酒を飲みパチンコ屋などに行き遊んでいるだけだ。

それがイワキでは具体的に嫌がらせがあったのは現実にイワキに住んでいた人たちが
アパートでも病院でも何でも原発避難者が優先にされたことでから起きた。
病院も混んで避難者は無料であり地元に住んでいる人はあとまわしにされる。
何かそうした具体的に原発避難者のたに損したとかがありそれで避難者を攻撃するようになった。
あまりにも原発避難者は国からでもいろいろと優遇されたからそうなった。
鹿島でも小高区の人たちは仮設に住んで補償金もらって遊んでいるだけだとかなる。
イワキと似たような状態が作り出された。


●原発避難者だけが優遇される不満がここでも起きている


南相馬市でも原発避難者津波被害者は仮設に住んでいるから介護できないとなり
病院でも施設でも優先的に入れてその他の人たちはもともと少ないから入れないとなり
具体的にそうしたことでも不満がでてくる。自分も何か理由はわかるにしても迷惑だと思った。
ただもし小高区の人たちもただ毎日酒飲んでパチンコして遊んでいることで批判される。
何か懸命に南相馬市のために働こうとか何かそうした意識でもあればそうはならない、
ナーニ、補償金で暮らせばいいしあとは生活保護で暮らせばいい、
こんなことにされた俺たちは被害者でありかわいそうな人たちでありそれを主張できる。

でもそうした意識でいると回りからの目がこれからはさらに厳しくなってくる。

どこも人手がたりないのに病院でも老人ホームでもスーパーでもレストランでも建築現場でもどこも人手がたりない、
そんなことかまわないで金があるから誰も働こうとしない、働いているのは主に外部の人でありまだボランティアも来ている。
おそらく原発避難者でも地元の人のために何かなろうとか意識でもあればそうはなっていない。
俺たちは金があるのだからそんなことする必要はない、毎日マグロのサシミで晩酌だとなる。
そういう人たちを見ていて回りの人のこれからは厳しくなる。


なぜ原発避難者だけが優遇されるのだ・・・


これがイワキの人たちの怒りになったことは自分もわかった。
それはもともと住んでいた人たちが被害にあったからそうなったのである。
それはイワキだけではないどこでも原発避難者を受け入れているところでは起きている。
なぜ避難者は毎日遊んで暮らしているのか

なぜ自分たちはあの人たちのために働かねばならないのか尽くさねばならないのかということがある。
ただ南相馬市の場合はさにに複雑であり小高、原町、鹿島で補償金で内部対立がある。

それで一眼となって復興する意欲がそがれている。心がばらばらにされているからである。
実際考えてみると小高区の人たちが鹿島区に仮設を建てた時、一時的に市の調整金から支出して一所帯百万もらった。
それを原町の人でかなり批判した人がいた。
でも原町の人たちは二年分くらい一人一カ月七万の補償金をもらっているとかなっていた。
その差も大きいから鹿島区の人たちは不満が未だに大きい。
だから小高区の人たちが補償金の一部を鹿島区の人たちに分けるべきだったという人もいる。
こういうことは自分だけが特別思っていることではない、鹿島区の人たちの世論なのである。
表立って口に出さなくてもそういう気持が共通しているのである。


●金だけでは解決しない問題


いづれにしろこの辺の状態を住んでいても理解することが未だにむずかしい。
これは一体なんなのだろう?これからどうすればいいのだろう。
意外と補償金で金には恵まれている。ただ変なのは銀行には金がたまっても借りる人がいなくて困っているという、
銀行は借りてくれる人がいないと成り立たないのである。
金があってもうまくいかない、金だけでは解決しない問題が生れている。
自給1200円でも人手は集まらない、この人手集まらないということが実際はこの辺では致命的になりうる。
新しい百人収容の施設も建てたが10人募集しても介護士など来ない、他にも施設は建てたが介護士などこない、
下の世話をする介護士など誰もやりたくないしみんなやめてゆくと行っていた。
看護師不足も深刻である。それは金では解決しない。

何かこの辺では金だけでは解決しえない問題がかなり生れている。

みんな土地をほしがっているが土地を買うことができず家を建てられない人たちも多い。金でなんても買えてまかなえるということができなくなっている。
それは何なのか、社会を見直すきっかけにもなる。
金をもっていたからとすべていいとはならない社会である。
金が今までのように機能しなくなっている社会である。


それから人手不足というのはなぜそうなるのかというと看護師でも介護士でも
あらゆるものが専門化していて資格が必要だとか簡単になれないからである。
また相手を信用できないから保証人が必ず必要でありそれでみんな困っている。
つまり人手を補うにしても働くが端を楽にするという狭い範囲での労働とは違っているから人を使えないし補えない、
それも現代社会の仕組みそのものが機能不全に陥っているためかもしれない、
村のような大家族のような狭い社会だったら人手は金ではなくても補えたろう。

介護などはみんな在宅でしているのだから施設を作って専門家の介護士だけしかできないというこはできない、
手の余っているの者がきてやればいいとなる。
でもそんなことはいろいろな条件が国から課せられていて金も国から出るとなるとできない、
そこで専門家でなければ資格がなければやれない、
また保証人がなければ信用できないとかいろいろな障壁がない社会だったろう。
その見方がいろいろあるにしても何かこの辺の状態はそうした社会の機能不全状態に陥っている。
だからこそ何でも有効な手段がとれない、ただ映画のような混乱状態がつづいているのだ。

金によって人の心も分断されているのも現代を象徴している。あいつは多くもらっている。
格差社会ではそうなる。
なんか未だにこの辺は何なのか?
要するに現代社会の矛盾が極端化して現れている場所なのである。
現代社会が機能不全に陥るとこんな状態になり解決の道が見いだせなくなる
だから簡単に復興な外からでも叫んでもできない
それは何か現代社会の崩壊現象がこの辺で起きているからきようにも見えるのである。

 
posted by 老鶯 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

根を強く張る冬芒 (土着的なものはその土地に根をはる農家の人にあった)


根を強く張る冬芒

(土着的なものはその土地に根をはる農家の人にあった)


しぶとくも根を張り強き冬芒

萱(かや)は根が強く、簡単には取り除くことができません。
除草剤を使用すると作物に悪い影響を与えます。
このため、畑の中の萱(かや)は、周囲の土を掘り起こし萱の根を見落とさないように全て取り除くのがベストでしょう。
http://sendai-rtoj.seesaa.net/article/220989180.html


新さんさ時雨 宮城県民謡

萱の根方に そと降る雨は
萩の根方に 鈴振る虫は
白河市萱根地区


風流という時、俳句だと萱になれば秋は芒であり枯芒となる。枯芒から今度は一月になると冬芒になる。
でもそもそも萱がどういうものなのか実生活からわかるのは実際に畑を耕して野菜などを作っている人である。
この歌で萱の根方にとか萩の根方にというのに注目する。普通そういう発想はない。
農民が作った民謡にはそういう発想があったとなる。

畑で野菜を作る時、萱があると困る。根が強く張るからやっかいであり土ごと全部とらないととれない、
こうした作業を通じて萱の性質を具体的に農家の人はしる。
風流的になるとただその表面を見ているだけなのである。
農作業でまさに農民は自然と日々接して格闘しているところがある。
それは風流としてながめるのとは違っている。
だからこそ萱は根が強くやっかいなものだとして萱根という地名が生れたのである。


農家出身の女性と接してわかったことは土着的女性だということをつくづく感じた。
その女性は見た感じでは体も頑丈であり農業できる体をもっていると見える。
ただ実際は頑丈そうに見えても弱い部分がかなりある。
でも農業というとき体が丈夫でないとできないと外からは見る。
外で働くから寒さ暑さをじかに感じるし体が強くないとできないと思う。
だから華奢なきれいな女性では勤まらないから嫁として受け入れられない時代があったかもしれない、
米俵を担ぐ力持ちの女性がかえって注目されたり価値があったのは
機械もない時代は力あるものが価値があった。それは男女でも同じだったのである。
ただ遊女になるにはそれなりの美人が要求されたが農家ではそうではなかった。


そもそも農家に嫁ぐの嫌う女性がいた。それは農作業が辛いからである。
今はそういうことが軽減されたから別にそんなに体が丈夫でなくても勤まるようになったのだろう。
それより専業農家は田舎でも一割とか極めて少ないのでありあとは
兼業農家であり兼業農家はサラリーマンになっていて田んぼもまかせているから
全く農業しない人も多いからそこが農家と言えるのかとなる。
実際農家でも昔の農家とは違い農家的なものは失われているし農村的なものも田舎から失われている。
根を張るというとき農家はまさにその土地に根を張る存在であり樹や萱などの植物と同じだったのである。
そういう自給自足の生活は江戸時代から戦後十年まではつづいた。
それが高度成長時代となり急速に変貌してしまった。


現代はその土地に根付いて生活する土着的な志向は消えて会社に就職することが人生を決める。
社会は会社社会になったのでありその土地に根付く根を張る社を中心とした村社会は消えた。
でも人間は根源的には生物だから土地との一体感を求めることは変わりない。
それがむしろ自然であり自然から遊離しすぎた文明の中で自然のことがわからなくなった。
原発は全く自然から遊離したものであり土地とは何の関係もない、
「原発は何か」と問うてみても知識的にもわからないし具体的日々の生活でも理解できないものだった。
炭を燃料にしていればそれは山の木から作るから説明するまでもなく生活の中でその意味を自ずと知る。
原発はわからないからそれを制御したりすることもできない、ただ暴発して事故になりあとで苦しむだけだった。

サラリーマン的な人生には人間には生の重みが伝わってこない、退職すると同時に用なきものとなる悲哀がある。
農家の人にはそもそも退職がない、生涯体が動く限り現役になる。80才でも畑を耕している人は普通にいるからである。
不思議なのは東京辺りではもうそうした農家の人を知ることができない、
どうして米が野菜ができるのかもわからない、回りが全部サラリーマンであるとすると農家の人とじかに接することはないからだ。
そういう世界はやはり自然と遊離した異常な空間でありそれがいつか災害やら電気がとまったとかで突然崩壊するという恐怖を覚える。
そのよってたつ基盤が自然ではなく人工的なものだからである。
人工的なもの原発でもそういうものは今回のようにいつ事故が起きる破壊されるからわからないからである。