2014年02月14日

アスパラガスから考えるグローバル化経済 (原発事故も各人の過度な富を求めることにありその根も深い)


アスパラガスから考えるグローバル化経済

(原発事故も各人の過度な富を求めることにありその根も深い)

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産地直送で村おこし町起こしをしている農家がある。アスバラガスが転向の異変でとれなくなる。
そのとき消費者に天候の異変があり雹などふり提供できないとなった。
一週間ほど遅れると直接生産者から消費者にその旨を連絡した。
(一週間遅れますががまんしてください)ということになる。
(グローバル化の終わり、ローカルからのはじまりー吉澤保幸)

このつづきだけど


「アスパラガスなんかスーパーでいつでも売っているよ、最近100円でメキシコ産の太いアスパラガス売っていたよ、それを買えばいいんじゃない」
「そういったって、アスパラガスを作っている人から直接買っていたのだからそんなことができないよ、その人のことを考えてみろ、天候の異変でとれなくなり苦しんでいるんだよ、その人の身になってみろよ、その人のことを考えたら一週間でも待つのが人間としての心をもっていたらそうなる」
「そんなこと言うけどアスパラガスが食べたいなら安くていいのが食べたいなら食べればいいんだよ、どこのものでもいいんだよ、安くてうまければいいんだよ、今はそういう時代だよ」
「でもさ、もしメキシコ産のものでも何かがあり入らないことがあるだろう、そしたらどうするんだよ、外国でも何が起きるかわからない、いつまでも安いとも限らないからな」「なーに、世界は広いからどこからでも入ってくるんだよ、そんな心配はいらないよ
世界が市場になった時代たからな」
「そういったって、自分が買うと決めた農家の人との人間関係を壊すことはできないよ、モノがどこから入ってこようとどこで買おうとそのモノを作る人間のことを考えている人は今はいないからな、そのモノをどうして作られているかもわからないからな」
「そんなことよりさ、今は人間関係などめんどうなものは関係ないんだよ、金さえあれば何でも買える時代だよ、アスパラガスだってなんだって金さえあればいつでもどこでも買える、それが世界市場化したからそうなる、世界市場で競争しなければ何でも売れなくなる、食料だってそうなる、日本の食料も今や和食などと世界に売れているじゃないか
それはアスパラガスと同じなんだよ、日本のリンゴも高級品として高値で売れているだろう」
「でも人間と人間の関係は大事だよ、モノより人間の関係を第一にすべきなんだよ、
地球の裏側からモノが入ってきてもそれを作っている人のことなどわからない、だからいつそのモノが入らなくなってしまうかわからないリスクがあるんだよ」
「そんな人間の関係よりさ、金の方が今は大事なんだよ、金さえあればモノはいつでも手に入る、だから金をかせぐ必要があるんだよ、金の方が人間関係より大事なんだよ」

グローバル化の市場原理が働くと人間関係より金だとなる。そこに人間との関係はなくなり金が神のごとくなるというマルクスの理論もわかる。メキシコ産のアスパラガスを買ってもモノを買っているのでありそれを作っている人間とは何の関係もないのである。

物々交換とか江戸時代の村のような狭い自給自足の体制だったら人間関係の方が重視される。昔の経済はそういうことの方が多かった。

人間の動機を「物質的」なものなのか、またと「観念的」なものとして描きうるという見解、また日常的生活を組織する誘因は必ず物質的動機から発するという見解を受け入れさせたのである。

諸事情の真の状態というのは市場にかてったものから非常にかけはなれているもので簡単な言葉で描写するのは容易ではない、・・・

(人間の経済・・Kーボランニィ
)

食堂に入るにしてもその動機はいろいろある。ただ料理がうまいだけとは限らない、そこのマスターが気に入ったとか食事はイマイチだから雰囲気がいいとかなごみがあるとかいろいろある。すべて料理だけで決められるわけではない、そこにも様々な個人的価値観が入ってくるのである。だから同じ物を売るのでも売る人間によっても売れたりう売れなかったりするのである。
例えば村で草鞋を作っているとき、それが必ずしも必要だから買うのではなくその草鞋を作っている人のために必要でなくても買うということがあった。その草鞋より人が大事だからそうなる。今でも経済合理性よりここの村は貧しいからつまらないものでも買ってやろうとかなることはある。経済合理性だけで市場原理だけで割り切れないのが人間だからである。それが人間の経済であった。そういう世界では人間同士のモラルが養成されたのである。

原発事故をその原因は何なのかといろいろ考えてきたけどモラルが喪失したということが大きな要因だったということが自分の書いたものをふりかえり再認識した。

だから原発事故は単なる技術的な問題として起こったものとは思えない、根深く文明そのものに問題があったともなる。

過度な富を求めて起きたというのも見えてくる。原発は金になるからあらゆる人がそこに群がった。政治家から官僚から検察からマスコミからカルト宗教団体から地元の漁業権者から議員から市町村民から全部その巨大な利権、金を生み出すものに群がったということがある。それが巨大な富を金を生み出すものだったからである。
そこにはかなりの無理をしても原発を作り出すものがありそういう根があって原発は推進されて事故が起きた。
文明自体が過度な富をもたらすものとして限界があり原発事故が起きた。
それは個々人でも過度な富を求めているということもあった。

いかに人間が今は過度な欲望をもつか、それは個々人をみてもわかる。
借金して贅沢していた人もあったしブラックなことをしても贅沢しているし様々な欲望が過度に追求されている。そういう欲望がありそれが根となり原発を生み出す原動力となっていた。

ではお前は江戸時代にもどり電気のない世界で暮らせというのはまた違っている。
電気は必要でありその他のものも必要である。山尾三省のようなパンも食べられないような生活は過度な欲望とは言えないのである。
どのくらいが過度になるかは問題になるが明らかに全体的には過度な富の追求になっていたことは確かである。
田舎の暮らしでも今は都会より贅沢である。車だって一家に4台とかあるのも普通である。一人一台も普通である。そして借金していてもそうしている人もいた。

そういう生活は原発が危険でも金になるからと誰も反対しなかった。
回りが全部そうなら反対してもできないということもあったのだ。

漁業組合であれ農協であれ労働組合であれ宗教団体であれそれらが利権化してもそういう団体にそんな利権だけを求めるななどと言えない、権力化しているからそんなことは言えないし怖いからそうなる。労働組合だって電事連合は原発推進だったし原水協すら原発には賛成していたのである。現代の団体化組織化したものはみんな利権追求団体である。
一見そうでないようでもそうなっている。だからマスコミはそうした組織化した団体化したものの宣伝費で成り立つから利権団体を責めたりはしない、同調して利益を得ればいいとだけなるのだ。それで安全神話は作られたのである。


では以前として過度な欲望の追求をやめておさえる生活をしようとなると誰も賛成しないだろう。それだけ一旦豊かな生活をするとその生活レベルを落とすことがむずかしくなる。電気を減らすということもなかなかできないのである。
だから個々人の意識を変えることだとなるがそういうふうに原発事故をとらえて実行している人もいなしできないのである。つまり原発事故の原因の根はそれだけ深い所にあり単に技術的問題だとか脱原発とかを全部なくせとか簡単に言うまえに個々人の生活に過度な富を求める、欲望の問題がありそれを抑えるということがむずかしいということを自覚すべきなのである。



細川とか小泉とか都知事選で脱原発を訴えたけど
一体彼らはそもそも家でどんな生活をしていているのか?
ふんだんに電気を使い贅沢しているだろう。
そして政治的利権で得して贅沢している
脱原発のデモした人たちも同じじゃないか?
デモして暑くてたまらなかった
どんどんクーラで冷やしてくれとなる
山尾三省のような生活をしろとは言わないけど
各人の生活でも何か「脱原発」ただ唱えるのは楽だよな
では一旦自分の生活で電気を減らすとなると容易でなくなる
「脱原発」と叫ぶことは誰でもできることなんだよ
 
 
posted by 老鶯 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連