2014年02月05日

原発は東京に作るべきだったのであり今もそうである (都知事選の脱原発は通用しない)

 

原発は東京に作るべきだったのであり今もそうである

(都知事選の脱原発は通用しない)

東京湾に原発を作るべき10の理由
http://ameblo.jp/ap-o-mp/entry-11443168955.html


東京都知事選挙で原発を全部なくすということで細川や小泉があおっているがこれはナンセンスである。

原発は東京に作るべきなんだ

東京に作ることが一番合理的でありコストカットだったのである。コストカッターとしてのしあがった
東電の清水社長の意向にもそっていた。つまり福島でコストカットしようとして安全策を怠ったから失敗したのである。
津波だって東京湾は深いからあんな高い津波は押し寄せない、
いろいろ考えると東京が一番ふさわしい場所だったのである。それは専門家でも議論してみればわかる。
だから脱原発が選挙の争点ではない、それは国策の問題である。


それより東京に作ることが一番ふさわしいんだよ


なぜっって、考えてみろ、一千万の大都会をどうして動かせるんだ、
それは電気があってだし原発も欠かせないんだよ、他の自然エネルギーでは補ないない、
そんな巨大な都市をどうして動かせるのか?
だから原発が東京に必要なんだよ
原発があって東京が栄えるんだよ

原発事故になったら東京も終わり日本も終わりだ

それも文明の運命だし覚悟してやるほかない、つまり原発と心中することもやむえないんだよ、

だから原発は信仰対象にもなる。安全神話にもなった。
原発は安上がりなんだよ、東京が栄えるには原発が必須なんだよ
東京が一番電気を使うだからしょうがないだろう
事故になれば東京が終わり日本も終わる

それもいいじゃないか、そもそももう東京自体が電気をまかなうには原発が不可欠なんだよ
事故があったら原発と心中する覚悟が必要なんだよ
東京人だけが助かり福島に作ったということ自体まちがっていた
コストの点でも東京が一番あっていたんだよ
脱原発などきれいごといったってみんなクーラを使っているな
原発があるにしろないにしろ電気など減らせないんだよ
電気をへらしたら文明そのものが終わるんだよ


それじゃフクシマのよう田舎はどうするばいいのか?
それは昔の自給自足の生活を見直すことだよ
電気は必要にしても最小限にとどめ
炭とか薪とか何かそうした自給体制を作っておくことだ
だから原発にたかる金権体質を見直すことなんだよ

借金してぜいたくしているとかいろいろ欲望が深く贅沢していたんだよ

そんなにしてまでぜいたくしたいのか
田舎の人もまた見直すべきなんだよ
東京には東京の栄がある
原発とともに栄があるんだよ
危険にしても覚悟ししてやればいいことなんだ
生半可な気持でどっちもいいように考えるなよ


東京には東京の栄がある
福島にはウツクシマ福島の栄えがあった
これから福島は田舎は田舎の栄えを目指すべきだ
今までのように両方を目指すことはできないだよ
だから田舎も東京と同じく覚悟も必要なんだよ
一挙両得を目指すから変なことになったのだ


東京が終わったら日本も終わる
でも人間は終わらないだろう
自給自足の生活にもどり生きているだろ
東京はなくなっても田舎は残るだろう


政府と東電の最大の間違いはフクシマに原発を作ったことだったんだよ


首都が滅びるなら原発とともに滅びる覚悟が必要だった
東京だけが生き残り田舎は放射能汚染で住めなくなるなどずるすぎる
東京が首都だからすべてが許されれるのか
天皇様が住んでいるから首都を守らねばならない
では美しい田舎が滅んでもいいのか
土や水が汚染されて米もとれなくなっていいのか

そしたら東京も食べていけなくなる
外国があるっていってもそうしたら奴隷になるぞ


原発はフクシマに作ったことが最大の過ちだった


東京には作れないというならどこにでも作るべきではないんだよ
それはわかりきったことじゃないか
東京に作ることは政府も責任をもつということだったんだよ
そしたら命懸けで原発を見張っていればよかったんだよ

政府もそしたらさ本気になって安全をみているから良かったんだ
フクシマにあるから離れているから安全だ
東京は守らねばならないというのがまちがっていた
たから安全も怠っていたんだよ
離れているから事故になっても東京は安全だとな
被害はフクシマだけがかぶればいいとな・・・

 
posted by 老鶯 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

飯館村には人の記憶は残りつづける (牛がいなくなっても臥牛石が残る)


飯館村には人の記憶は残りつづける

(牛がいなくなっても臥牛石が残る)



冬日さし飯館にあれ臥牛石牛も鳴かずにここに残りぬ
十頭の牛の名覚え仮設にそ暮らして長く雪の積もりぬ
石ふたつ動かざるかなともにあり寒さに耐えし高原の村
北風の唸り吹きつつ石五つ離れざるかも山の村に住む
鹿島より佐須は遠しも久しくも我は行かじも春また行かむ


人が消えた飯館村の夏
http://musubu2.sblo.jp/pages/user/search/?keyword=%90%CE%8C%DC%82%C2

ここに牛が臥したような大きな石があった。臥牛石となる。あいのさわであったがこれは良くとれていない。とり方がまずかった。本当に大きな牛の背のようだったのである。
また行ってとってみよう。



飯館村はどうなってしまったのか?すでに一年以上は行っていない、人が住まなくなった家はなおも点在している。だけど冬の灯はともらない、冬の灯というと街に住んでいるものとは違う、何か飯館村となると人も一体感がでてくるだろう。
もちろん現代は山の村でも昔とは違う。でも飯館村として南相馬市に合併しなかったのが今になると良かった。つまり飯館村としての個性を作れて村づくりができたのである。
地理的にも南相馬市とは離れていることもあった。小高と鹿島はもともと地理的には一つだったから南相馬市になってもそれほど違和感がなかった。ただ原発事故では小高は小高の事情ができたし原町は原町、鹿島は鹿島の事情ができて分断されたから小高は小高町のままの方が良かったといっている。原発の賠償金を浪江のように一致して請求できるからである。

飯館村は標高がかなた高く高原の村であり南相馬市の平地よりずっと寒い。だから飢饉の被害も大きかった。でも耕地面積はかなり広い、米作りが盛んだったとも言える。
平地が思った以上多いのである。それから木材資源が江戸時代から豊富でありそれで入会権で飯樋で争いがあったことでもわかる。

飯館村は今までは牛の村でもあった。飯館牛が売りだった。だから牛を飼っている家が多かった。だから避難した人が仮設で十頭もの牛の名を覚えていたのである。

牛でも名前が呼ばれれば人間化している。一方病院では番号で呼ばれたとかなり牛より人間扱いされないということもある。ペットの方が人間より大切にされているとかホームレスが不満を言うのもわかる。ただ十頭の牛の名前を覚えるということは結構むずかしいと思う。牛はだいたい似ているからどこかで牛の個性を区別して覚えないとできないことだろう。みんな同じだったらなかなか区別ができない、ただ牛の個性がどこにあるかはわからない。ただ犬でも猫でもみんな何かしら違いがある。もちろん黒い猫はクロだとかなり区別しやすい、牛はみんな同じに見えるのである。

犬でも猫でもそうだがこれは自分で飼ってみないとわからない。
野良猫に餌をやって猫を観察していると猫のことが具体的感覚としてわかってくる。
猫は相手をみて探っている。ただ自分をどんなものと近くしているのかはわからない。
餌をくれるから近づいて来るが絶対に触らせないし餌をとるにも一定の距離を保っている。いじめられてなつかなくなったのである。
動物を知ることは通じ合うことはなかなか簡単にはできない、猫と犬は対象的である。
犬にはあまり神秘性を感じないが猫には感じる。猫は結局謎めいているのからである。

エジプトではあらゆる動物が神となった。それは動物を非常に身近に生活と一体となって見ていたからである。だから牛のミイラまであったのである。エジプト人にとって動物は神秘的な神でありそれが人間の日々の生活に組み入れられていたのである。

動物が身近だった時は人間と動物の交流は深く動物と結婚する話しはいくらでもある。
先祖も動物だったというのが一般的でありそれぞれの部族がトーテムをもっていた。
猿のトーテムだとすると猿を日々の生活で深く観察していたのである。鷲でもそうであり今の人より動物は人間に近かった。最近この辺は荒地になりカヤネズミとかが増えてノスリがふえたのである。七羽集まっているのもみた。するとノスリを深く観察することになる。

いづれにしろ人間と動物は戦前でも宮沢賢治の小説のように深い関係があった。そうでなければあのような童話は書けない、江戸時代から残っている民話でもそうである。

そういう動物との交流が現代では欠落した。そこで動物というものがわからなくなってしまった。機械との交流の方が主になってしまったためでてある。昔は車の代わりが馬だとすると馬には詳しかった。この辺では相馬野馬追いかあるから馬を飼っているところがあるから馬を見る機会が多い。でも馬も飼ってみないと馬のことはかわらないのである。
人間はやはり野菜でも自分で栽培してみると実地に経験していると何かわかる。

だから街中に住んでいる人は回りが田んぼでも農家のことがわからないということがあったのだ。

自分は牛とか馬がみじかにいても触るのも怖いのである。だから動物と通じ合わない、ただ詩を書いたりするときはただイメージ化して創造で書いている。
牛でもやはり高村光太郎のような「牛」の詩はなかなか書けない、その時代でないと書けないものがある。何かそうしたものを書く基盤が失われて動物のこともわからなくなった。狼のことなどもう想像の世界でしかわかり得ようがなくなっている。

ともかく飯館村は人が去ったとしてもそのあとあとまでそこに人が住んでいるという記憶はなかなか消えないだろう。それは原発の避難地域ではみんなそうである。そこに江戸時代から人が住んでいたからである。

だから例え牛の鳴く声が聞こえなくなっても臥牛石が残りなおそこにまだ人が住んでいた記憶が残り続ける。つまりそれだけも原自然に還えるとか言ってもそこに住んだ人間の記憶は残りつづけるしもう元の原自然に還るということはありえないと思う。
石一つが残っていても過去の人間の住んだ記録となる。もともと人が住まないところにあった石とは違うものとなっているのである。

posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

原発事故周辺でも全国で人手不足の時代 (優先順位を決めて人手不足を補うほかない)


原発事故周辺でも全国で人手不足の時代

(優先順位を決めて人手不足を補うほかない)

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●原発事故周辺でも建築ラッシュで人手不足



例えば電気工1人1日2万円と考えていたのが、人手不足で3万5000円にしなきゃならなくなった。
そうしないと、だれも来ない。資材価格の高騰と併せ、工事の見積もりを見直すと、建築費が上がってどうしようもない」

建設業の担い手も少子高齢化で減少し、総務省によると、とび職や鉄筋工、左官などの技能労働者は2012年時点で335万人と、
ピークの97年に比べ25%も減ったという。それも60歳以上が2割近く占めるが、職人さんも60を過ぎたら、もう怖くて電信柱には上らなくなるだろう。

被災地では人件費が大幅に上昇し、資材費の高騰もあって、公共事業の応札者が決まらない「入札不調」が相次いでいるという。
東京五輪に向けた工事が本格化すれば、さらに深刻化するはず。「バブル」ウンヌン以前の話ではないか

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140205/dms1402050722003-n1.htm


これは東北と福島第一の作業コストがまた跳ね上がるな。
東京オリンピックって一体誰トクなんだ?

電気工で、マンション建設の工事は最低のカスの仕事。
今まで、建築監督、鉄筋屋、仮枠屋、造作大工、軽天屋に苛められてるから
相当金額を積まれてもど素人の様なニワカ職人しか行かないだろな。


建築業界の怖いとこ、景気のいいときほど手抜きが凄い

しかも、高度経済成長期にいっきに作ったもんだから、
当時、砂が足りなくなって、海から持ってきた砂をそのまま使ってるんだよ・・・

塩分を含んだままコンクリートにまぜて使ってるから鉄筋が腐食してかなり危険な状況になってるんだよ・・・
日本中のトンネルや高速道路でいつまた崩落事故が起きてもおかしくない

電気工にかぎらず、不足しているのは熟練工。見習いレベルは言うほど不足していない。でも、いまからこの業界に入らない方が良い。どうせ、熟練工になった頃には仕事減って二束三文で働かされるのがオチだから。



建築現場でも電工は地位が低いのか?鳶は一番危険だし頭も使うし建築現場では重宝であり地位も高い。近くに電工していた人がいた。高い道具を使っていた。
今は何でも道具が先行するし道具を使いこなすことが仕事の条件になる。
機械でやるのが多くなったからだ。
パソコンだって機械だしこの機械を使いこなせないと事務系とか設計とか他でも現代では仕事ができなくなっている。芸術系だってパソコンが必要になっている。

原発事故周辺でも建築ラッシュであり人手不足であり資材不足でありなかなか復興住宅が早く必要で数が多いからすすまない、津波の被害地域もそうである。人手が集められないのだ。近くに家が建ったが一応できあがったみたいだけどまだ住んでいない、半年とかたっているのか?細部ができていないので入れこないのか、電設関係とかが人手不足で入れないのかわからない、前に電気工事頼んだら若い人が流出して行けないと言われた。
家は今や様々な業種でできあがる。だから電工がいないとなるとそこで工事もストップする。そういうことでなかなか外観は完成しても入れないのかもしれない。


人手不足というとき前から原発事故周辺や津波被害地ではそうだった。それは建築関係だけではないあらゆる分野で人手不足なりレストランのチェーン店では自給200円でも来ないとかテレビでも移されていた。シニアにも働いてもらいたいとか宣伝のビラを出していた。看護師助士になりたい人を募集していた。
でもこの辺は補償金をもらっているのだから誰も働かない、毎日酒飲んでパチンコだ競馬だと遊んでいるだけである。第一建築現場などで前から誰も働きたくないところだったのである。


●現代は責任問題が厳しいから簡単に人は雇えない


ただ現代が高度成長期と同じくオリッピックなども重なり人手不足の時代になっている。でも人手が簡単にえられるかというとできない。肉体労働など簡単だ誰でもできるというものでもない、そこでそれなりに経験を積んだ人でないとアルバイト感覚ではできない。仕事はみんなそれなりに専門性があり簡単にアルバイト感覚ではできない。

この前知り合った人からテレビのアンテナをはずすことを頼まれて屋根に上って線を切った時、危なかった。アンテナが倒れたのが反対側だったから良かったが自分のところに倒れたら大怪我するところだった。つまり建築現場には思いがけないことが起こり事故が起きやすいのである。経験あればいいがアルバイト感覚でやると大怪我をする。

実際にアンテナ工事したアルバイトの60歳くらいの人が屋根から落ちたというニュースがあった。自分が見たアンテナ工事の若い人はすいすい屋根をわたっていたからなれていた。アンテナでも誰か支えて線を切れば安全だけど素人がやると怖いことになるのだ。

安全策がとれていないいからそうなる。だからどこの現場でも簡単に働くことはできない。そして今は責任問題が何かとうるさいから余計にそうなる。クレームがうるさいしまたちょっとしたことで責任問題になるから人を雇うにしても雇われるにしてもめんどうな社会なのである。前の中国人のようには使えない、中国人の命の値段は本当に安かったのである。竹の足場で建築していて崩れたというニュースもあった。そういう無理なことでも中国人はしていた、今はまた変わっているし世界で人権問題がうるさくなりそんな簡単に奴隷のように人は使えなくなっているのだ。
そうすると働かない人が多くてもそれだけ人を雇うにはむずかしい時代だかさ余計に人手不足になる。


介護関係でも簡単にやれると思ってもそこには必ず責任問題がありちょっとでも失敗したら家族から責任を追及されて賠償金を払わされる恐怖があるから介護関係だって誰でもいいとかならないのだ。そして人を雇うことは信用問題がありどんな人か知るのも大事になる。そういう手続きをするだけで人を雇うことが大変である。

だから保証人なくて就職すらできないというのが激増している。
何でも保証人が必要であり就職でもそうであり病院に入るのにも施設に入るのにもあらゆるところで保証人が必要になる。それで困らせるのはいいが社会全体が人手不足になる。それでサービスを受ける側がサービスを受けられないともなる。
だからあまりにも人手不足なになると極端な責任を課すともう誰も働かなくなる。
働きたくても働けなくなる。それも人手不足の原因なのである。


●優先順位を決めて重要な場に人を使いあとは切り捨てるほかない


南相馬市の鹿島区に100人収容の老人ホームできた。でもその百人を世話する人が介護関係の人が確保できないから建物を建てても機能しない、他でも石神の方にもあるけど人手不足だとかなっている。もちろん病院も医師看護師がたりないのだから困っている。
だからやたら忙しくて余裕のある仕事もできなくなっているしあまり文句も言えないのがこの辺なのである。看護師の仕事をへらすのに看護師助士を募集しているけどこれだって資格とるのもんどうである。特にシニアはなんでもちょっとしたことでもめんどうになるからやらない。補償金や生活保護の方がいいとなってしまうのである。


だから人手不足なのだからもう何を優先順位にするか決めねばならないだろう。これは自由社会では何が価値あるかなど決められないのだからむずかしいけど迫られているのだ。別にレストランに行かなくてもいい、もちろんハチンコ屋などなくなってもいい、労働力は貴重なのだからそんなことに費やされている余裕などないのである。
昔の自給自足社会のように生活の基本となるものさえあればいいともなる。


現代の生活の基本は電気、ガス,水道、通信・・とかでありそれがなければまず現代の生活は成り立たない。電気がなくなれば煮炊きもできないから食事もできなくなるからだ。通信だって現代では途絶えれば何が起きているかも皺からなくなるし伝えることもできなくなるから必要である。その他、病院とかも維持されねばならない、ただ介護となると賛否両論がでてくるだろう。本当にこんなに老人が増えてそこに人員を費やしていいのかというのは常に言われている。ただ命にかかわっていることは病気と同じであり簡単に死なすことはできないのも事実である。だからそれなりに優先順位はあがる。

もちろんスーパーは必要である。買い物できなくなったら食事もできない、ではコンビニが必要かというとコンビニはあった方がよくてもなくてもなんとかやれる。つまりなくてもなんとかやれるのは優先順位が低くなるのである。また車がなければ現代の生活はできない、車がぜいたくというより今も車なしで日々の生活は成り立たない、だからガソリンも必需品である。

そういうことは原発事故で外から物資が入らなくなり車があってもガソリンがなくて車が使い物にならなくなっていたのである。
だから毎日一カ月以上ガソリンを得るために長蛇の列ができたのである。車とガソリンは一体のものであった。
だから車社会になるとガソリガンがなくなると社会が機能しなくなるのである。
民主党で「コンクリートから人へ」という政策で無駄な公共事業を減らそうとした。
その政策は実際は時代にあっていた。今建築ブームになっているからというがむしろ立派な建物を建ててもその中で働く人手が得られないから同じなのである。

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鹿島厚生病院に連結してできた老人ホーム

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同厚生連によると原発事故後、仮設住宅が設けられた同市鹿島区では人口が高齢者を中心に約2000人増加。一方、市内では介護施設が8施設から一時半減し、厚寿苑の入所希望者数も震災前の80人から震災後は200人以上に増加した。


福島民友新聞

posted by 老鶯 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連