2014年02月01日

新しい万能細胞-STAP細胞の発見 (常に起きている価値の変化)


新しい万能細胞-STAP細胞の発見

(常に起きている価値の変化)


●男女平等の教育か実ってきたのだろうか

女性の社会進出は普通のことになっていた。男女共学であり男女平等は常に言われてきた。フェミニズムも盛んだった。ただフェミニズムは実際の能力は男女平等であるとの主張でありそれが男性側から批判されてきた。女性はあらゆる分野で成果を何も出していないからだ。これは歴史的に残るような成果を出した女性があまりにもまれだからその主張が認められなかったのである。だから以前として女性は生む機械だとか差別され女性側から反発された。今回のように女性が成果を出せばフェミニズムは男性側からも認められる。すでに男女共学であり教育では男子と差別ないからである。
だからその成果がようやく現れてきたのかとも思う。

そして女性に適したものが必ずあり理系は適していないとされたが生物学で成果を示したことはこの分野で意外と適正があったとなる。なぜなら医者の三分の一は女医になっていることも関係している。女性は妊娠とかで生物学に興味をもつことは自然なのかもしれない、新しい生命を誕生させるものを体にもっているからである。再生細胞そのものだということもある。


この発見でつくづく思ったことは人間の価値はある時急激に変動する。何かをきっかけに急激に変動する。価値あるとされものがたちまち色あせ新しいものが新しい人が脚光をあびる。これまではips細胞を発見してノーベル賞をもらった山中博士が主役だった。
それがこの発明で一変したのである。なに、そんな簡単にできるものなのという驚きであり30歳でそんなことできるの、何か驚きだらけだったとなる。
つまり山中博士のips細胞は色あせてしまったのである。価値がなくなったということではないが急激に株が下がったのである。もろちん素人だからわからないにしろ明らかに
山中博士の価値自体も急激に低下したのである。

人間の価値自体もこうして常に変動している。科学の分野でも常に変動している。

原発事故で科学者の権威は失墜した。日本の技術が優秀だということも嘘だったのかとその評価も極端に低下した。これも大きな価値の変動だった。科学者は嘘つきだとまでなってしった。詐欺師だとまでなって科学の信頼が失墜した。原発事故の影響はあまりにも大きかったのである。


●女性の価値も若いときと老いてからでは価値が全く変わる


女性の価値も一生の中で変化している。若い時はかわいいとか美人だとかスタイルがいいとか外見だけが価値になる。それは男性さえそうである。外見にとらわれ外見がすべてになりやすい、特に女性はそうなりやすい、そこに落とし穴があった。
最近30代の女性でスタイルも良く顔もいい性格もいい女性に出会いひかれた。それは若い時の女性の価値判断で見ていた。でもまた新しい60代の女性とつきあってその若い女性に魅力を感じなくなった。その女性は外見はいいし性格も良くても何か話すものがない、話しして面白くないのである。それはただつきあうというのではない表面的な挨拶程度だからそうなっているのかもしれな、ただ農家の出でもほとんど何の生活感覚もないのである。その女性は野菜を花すら作っていないし興味もない、もちろん夫も会社勤めだからサラリーマンの家庭だった。ただ紙漉きをしていたというときそんな生活をしてきた家に嫁いだのだと興味を持っただけである。その他は農家に嫁いだでも農家の生活感がまるでないのである。自分も若かったらその女性にひかれたが年取ってひかれなくなった。


一方の60代の女性は苦労して10年老けて皺が普通の人よりよって何ら若い時のような女性の魅力はゼロである。でも若い時その女性に接していたら近づくのも嫌だったかもしれない、体もごつくて不細工で何ら女性的な美を感じなかったろう。若い時は女性は外見がすべてになりやすいから近づきたいとすら思わなかったろう。
しかしその女性は話ししてみると本当に話しがうまく同世代で話しがあう、相性もいいのかもしれないがその女性が何か農家の出で生活感がありいろいろな体験をしていて苦労も多いが興味尽きない女性だったということが不思議なのである。こういう魅力は若い助成はまるでないのである。ただ自分は人とほとんど接してきていないから視野が狭いから女性については語れない。


しかし60代になっても若造りし外見の良さで魅力をもとうとしていること自体が間違っているのだ。いくら化粧しても外見をつくろっても隠しきれないのである。第一もうそういうことに魅力を感じなくなるのが普通である。それより別な価値が女性でも価値となる。外見ではない、中味であり話しが面白いというのが価値が大きくなっている。

男性だと何かに精進しているから老人になっても一芸に秀でる人は普通にいて魅力となる。女性はそういうことがないから若さの美貌などを失うと何ら価値ないものとなる恐怖がある。婆は誰も相手にしないという恐怖である。でもそれも違っていた。外見はもはや価値ではなくその女性のもっている性格とか経験とか話しが面白いとかが価値となる。
その女性は不細工だけど性格はいいし話しが面白いのである。


●女性の価値も一生の中で時代で常に変動してきている


男女関係なく人間の価値は常に変化してきた。どちからかというと腕力が強いとか体の強いことが男女でも価値あるものであった。それで力石とか男だったら石をもちあげる力がついたら一人前と認められた。なぜなら米俵でも何でも機械が発達していない時代は人力だからそうなった。それは男だけではない、女性でも力持ちの女性の方が好まれたということもある。なぜなら農家で華奢な体では外見が良くてもつとまらない、力持ちの女性でないとと嫁いできても役にたたない女性だとされる。
この辺の伝説で一石坂(いちごくさか)の伝説はそうだろう。力持ちの女性一石の米俵を担いであの急な坂を上っていたからその名がついた。女性でも力持ちでないと生活に支障をきたすことが多くあったからそうなる。


大山祇神(おおやまつみ)の娘で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉。
コノハナノサクヤビメとともに天孫瓊々杵尊(ににぎ)の元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。オオヤマツミはそれを怒り、イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、コノハナノサクヤビメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであることを教え、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。
http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/shinwa/016/


これは若い時の結婚だからイワナガヒメは送りかえされたけど年取ってくればこの価値は逆転してくるのだ。価値は常に一生の間で変転してくる。自分の家族でも女性にしては学校を一番で出て力もありしっかりした性格だった女性が認知症になり百の価値がゼロに変化してしまったことには驚いた。それほどの変化が最後に起きたのである。
だから人間の価値は死ぬまでわからないし死んでからも常に変化しているのだ。

現代では機械の時代でありイワナガヒメはさらに価値がない、男性でも人気がない。
土建業などが嫌われているのはそのためである。女性も若い時極端にやせて外見を良くしようとしているのも時代である。でも外見の価値は若い時だけでありそれを60代以上まで価値あるものとして継続していることがまちがっているのである。


ともかく生物学で女性が新しい価値を作り出したことは確かである。あんなに若くて女性でもノーベル賞がもらえるのかということは女性の評価を高めたのである。それはただ男女同権を言うフェミニズムとはまるで違ったものである。これなら男性も正当に評価するからである。


●疑問は万能細胞という科学信仰

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ただ疑問はこの細胞に万能細胞とつけられた名前てある。万能細胞となれば何でもできるとなり神のこときものとなる。原発を作った科学者などは一時はそういう立場にあったし評価が高かった。医者もあたかも万能を要求される職業である。だから病気が人間の一番弱点だからまた老いもなくならないから万能細胞でもう人間は老いることもない、死ぬこともなくなるという期待を過剰にいだかせる。名前が万能細胞だからである。
それは万能人間でありスーパーマンであり科学者は万能な神になるということに通じている。そんなことはありかないのでありそれが科学に対する盲信とてなり奢りとなり今回のような原発事故にもなる危険性をはらんでいるのである。人間は絶対に万能にはなりえないのだ。それは神だけが万能でありえるのである。科学には必ず限界があるのだ。
でも人間の過剰な期待は限界がないとされるのである。


病気にしてもガンは未だに解明されていない、まだまだわからない病気も多い。でも万能細胞かついに人間の病気もなくなる時代が来たのかとか過剰に期待される。何かそこか報道でもひかえなければならないのだろう。まだまだそれがどこまで人間の体に有効にはたらくかはわからないからだ。つまりそもそもが万能だという言葉を軽薄に出すべきではないのだ。それが素人によからぬ幻想をいだかせることになる。科学というのは素人に放射能げもわからないものだから様々な誤解を生みやすいのである。

万能だ、万能だと言葉が先行してその中味はよくわからないつまに言葉だけが世間をおおってしまう。それは原発の安全神話と同じだったのである。絶対に事故は起きないと科学者であれあらゆる機関が言えば信じることになる。そうして奢りになると危険なものにつっぱしって今回のような事故になった。だから科学でも冷静に見つめる報道も必要なのである。


いづれにしろ今回の発明は女性の価値を高めたことは確かである。新しい女性の価値を作り出したということで快挙だったことである。あんなに若くて女性でもできるんだという価値を新しい作り出した。女性の研究者だけの世界で発見したこともそうである。
その過程でいろいろ応援があったにしても女性が科学で功績を残したということは新しい価値を創造したことになる。IPS細胞の発明者はたちまち色あせた、価値がなくなったということも言える。すべてでとないにしろそういう価値の大きな変化が起きたことは確かである。



iPS細胞の明るくない未来
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/297891048.html

「心の青雲」でどうstap細胞を評価するのか?やはりIPS細胞と同じような評価になるのか?ips細胞だと素人にはそれなになのとなるが、万能細胞となると万能なのと本当に思う人もでてくる。ついに人間は死なない時代か来たのかとか思う人さえでてくる。
科学は今でも万能だと思っている人が信仰にすらなっているからだ。
その危険性をここでは指摘している。専門的に評価している面があるから参考になる。


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2014年02月02日

今年の一月も早くも終わった (新しい老人ホームができても働く人不足で困っている)


今年の一月も早くも終わった

(新しい老人ホームができても働く人不足で困っている)

松と菊長くもあれな一月終ゆ
新暦めくりてはやも二月かな
新年をはやふりかえる月日かな


今年の一月もめまぐるしく終わった。この7年間は常に追われる生活でなにかゆったりとした時間がもてない、まず一人介護していたら時間の三分の一は奪われる。
またポータブルトイレになんとか独りて行けるようになったから病院は出される。
そして前より介護の負担がふえる。
2月4日が誕生日で99歳で市から祝いの一万の商品券がもらえる。
それがもらえるのは病院になった。

歩けなくなったのはつまづいたからではなく全体の体力が弱ったからだった。
やはり起きて立って歩くということをするだけで負担になってくるのだ。
ついに寝たきりになると負担は倍増する。

それでも施設は満員で入れない、みんな入りたくても入れない不満を言っている。

最近できた鹿島区の老人ホームには100人収容できる。
すでに人が入っているという。
ただ介護する看護師不足、介護士不足で入れないのである。

近くの人は義理の親の92歳を介護しているが最近8番目に上がったという。
8番目というとかなり入れることか近くなったのかと思う。
でも8人がへるということは施設の場合は死ぬ以外に減らないだろう。
だから8人でもなかなか入れないということがあるかもしれない、
でも百人収容できる施設ができれば入れる度合いは大きくなる。
それでも300人待ち戸かなるとなかなか入れないのである。

とにかく介護している人も多い、近くだけでもあそもかあそこもかとなる。
介護され老人がふえるばかりなのである。どうしたって90以上になるとほとんど介護状態になってゆくのであく。

この辺は働く人がいない、若い人がいない、人手不足で困っている。
コンビニで募集してもシニアなど来ない、みんな補償金もらっているから仮設に住んでいる人などこない、
みんなパチンコだとか遊んでいるだけである。
そして60代になるとみんな働きたくなくなっているのだ。


補償金が出しすぎるのが問題だったというもそうかもしれない、それて真剣に復興などとりくまなくなった。70歳の老人が東京の方でギャンブルだとか遊びあとは生活保護だというふうになる人もいる。70くらいになったら誰も働きたくないからそうなる。
小高など避難地域に老人だけ帰ってもとうにもならない、すぐに弱り助けを求めるようになる。その時そこに助ける若い人たちがいないのである。そこて死ぬ覚悟ならデンデン野のように老人だけが集まり死ぬ覚悟ならそれはそれでいい、しかし今は病気になったら必ず医者にみてもらいたい、病院に行きたいとなるからだめなのである。
昔はそういう覚悟を強いられたからできたのである。
人間は強いられない限り辛いことはしないのである。

ともかく一月は終わり暦がめくられて二月である。二月尽、三月尽・・・となるが一月はない、
松と菊のように人もともにありたい、でも現代は時間か過ぎるのが早いのである。
今日は夕食は仮設の食堂でしたから楽だった。
用意したりかたづけたり洗ったりすることが結構手間なのである。だから時間に常に追われている。
外食するならほとんどそうした時間に費やされないから時間ができて創作の方もはかどる。
創作でも集中力が必要でありそれか家事に追われるとできない、人間そんなにいろいろなことに頭が回らないのである。

独り暮らしの老人がふえるとき,他しているようだがて老人が集まり食事できる場が必要になる。そうすると自宅で食事の用意をする必要がなくなるから楽になる。
そういう場があれば独りきりになるということもない。

ただこれの最大の問題は必ず嫌な人も来る゛一緒になると無視するわけにはいかないから困るのである。

この辺でもみんなか嫌っている人がいる。そいつをさけているのだが排除するわけにもいかない、
田舎ではそうした人間関係が狭いからかえって気軽に集まるということもてきない。田舎では何か人間関係が窮屈である。
あれがどうだこうだと何かとうるさい、するとそうした集まる場所にも行きたくないとなるのだ。これは施設でも同じである。
だから気ままな人は自分でもなるべく老人ホームには入りたくないのでてある。


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クリック拡大

看護師不足でこんなふうな募集している。
それでも今は資格をとる必要があるしなんでも正式に働くのは面倒なのである。
なにかというと責任問題になるからである。
看護助士でも重労働だからやりたくない、ましてやシニアはやらていのである。

2014年02月03日

南相馬市の桜井市長が原発事故で北海道に逃げたのはデマだったのか? (田舎は毎日噂や人の不孝を楽しむ怖さ)


南相馬市の桜井市長が原発事故で北海道に逃げたというのはデマだった のか?

デマガデマを呼ぶ-火の無い所に煙はたたないもまた真実

(田舎は毎日噂や人の不孝を楽しむ怖さ)


語源は「民衆 (δ?μο? / d?mos) を導く (?γειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は煽動政治家のような悪い意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(独: Demagogie)と呼ばれ、煽動的な嘘や噂を意味する「デマ」の語源となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9E%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B0

ネットでまたしても悪質なデマが広がっている。釣り雑誌に掲載されていた男性が福島県に住む祖父の田舎を釣りで応援すると言い、30キロ圏内で野宿し池や川で釣った魚を食べたことで急性リンパ白血病で亡くなったという話だ。この情報は瞬く間に大手掲示板やTwitterに拡散したが、本日釣り雑誌のライター小塚拓矢さんが『彼は福島原発の30キロ圏内で野宿をしていません』と否定した。
http://www.yukawanet.com/archives/4028726.html




別に田舎でなくてもギリシャの時代からデマはあったからこそデマゴーグという政治手法があり今でも何か全国レベルでデマが広がる。何を根拠としているのかわからないけどデマが広がる。インターネット時代でも発言するのが容易だから全国的にデマが拡散しやすいというのもデマは田舎のような偏狭な人間の集まりでなくても起こることがある。

ただ田舎のデマとか噂はそうしたデマとも違っている。それが狭い人間関係の中で日常的に起きているのである。絶えず隣はどうだ、誰かさんとうだとか中傷が毎日のように口づたいで行われている。面と向かい生活しているからインターネットの空間のデマとは違っている。それが直接的にひびいてくる、だからインターネットの空間より害が大きいし
怖い側面がある。一旦噂になればそれもなかなか同じ場所に住んでいるのだから消えないのである。


だから田舎では犯罪は犯しにくいと思っていたがそれも今は変わってきた。自分が被害者になったからそんなこともなくなったのかと思った。でも実際はそうでもない、一旦悪い噂が立てば田舎では影響が大きい。常に回りから噂だけでも白い目で見られるようになる。別に泥棒でも外から来て逃げてしまいば忘れられる。現実に住み続けていれば白い目で噂だけでも見られつづけるのである。

そして今の住んでいる人でも必ず親のことや祖父母はどうだったとかまで仕事上でもなるからなかなか悪いことはできないということもあった。

だから噂だけでも田舎では怖いとなる。そのこと今回の南相馬市長選挙で起きた。


桜井市長が原発事故で北海道に逃げたというのはデマだった?


市議会長は北海道に逃げたらしいが桜井市長は逃げていないことがわかった。それで今回評価が上がり当選したのだという、とにかく桜井市長の批判は誰でもしていたから当選するとは思っていなかった。これも本当かどうかわからなかった。組の人が回ってきて言っていたので本当だと思った。実際はやはり北海道に桜井市長は娘がてて市議長と一緒に逃げたというのが本当かもしれない。
なぜならそのことが辻褄があうのである。二人一緒に北海道に行く辻褄が合うからだ。
ともかくデマがデマ呼ぶ、自分もデマに踊らされデマをプログでふりまいたとなる。

ともかく田舎ではデマは日常的だからこういうことは起こっても不思議ではない、でも
そのデマに左右されていたら選挙でもまちがった判断になる。今回はかえってデマであることがわかり桜井市長が当選したというのも皮肉である。


放射能でもこれも目に見えるものではないしデマが出やすい、何が本当なのか嘘なのかも判断できない、学者のいうこともまちまちであり科学に弱いものは余計に判断できない。だからデマがとびかう、別に放射能が原因で死んだわけでもないのに死んだとされた。
30キロ圏内で釣りをしていなかったのである。
なぜこんなデマが信じられたのかというと放射能は危険だと特にしたい人がデマをふりまく。何かしら意図があってそうなる。


いづれにしろ田舎ではある人は町内ではなく一キロくらい離れているところに住んでいてそこは回りは親戚が多いので見張られているという。だから女性が入るとうるさいから来るなと言っている。田舎では見ていないようで見ている。穴からでも覗いているのが田舎である。それは特別ではなく何か外を見ているとそうなるのである。
自然と見る範囲がそうなってしまう。都会だったら人が多い建物が多いからそんなことができない、出入りも激しいからだ。田舎では道を通るにしても歩いていると余計に目立つ。誰だろうと特別関心がなくても見ているのである。車だと中の人はわかりにくいのである。自転車でも歩くのと同じく見られやすいのである。


田舎では以前として人間が監視カメラなのである。与那国島に行った時はただ木陰に休んでいるだけで怪しいとされ警察が職務質問に来たのには驚いた。見ていた人が通報したのである。まるで江戸時代だった。与那国島などは本当に狭い島だから一人一人が監視状態になりとじこめられているのだ。今でもそういうことが田舎にはある。
だから都会から田舎で暮らそうとすることは人間関係が嫌になり挫折するのが多い。
田舎の人間は情に深いわけではない、むしろ近くの不孝を楽しむ残酷さがある。
自分もそういう目にあった。助けたりしない、その不孝をじっくりとドラマのように鑑賞して噂にするだげである。それはテレビでも同じだが田舎の方がより直接的なので残酷である。ここが田舎の一番の問題だったのである。

自然は美しくても人間はせこいし狭隘である。農家の人が情があるというものでもない、支援物資でももらうとき汚いとか常に言われている。
田舎でもいろいろな人がいるからいちがいには言えないが総じてそうなるのである。

ともかく田舎では負の力が人間に対して働きやすい、人間をおとしめて喜ぶ傾向が大きい。みんなが低劣化されるのである。誰かをほめるということはない、低劣化されてくる。こういうところでは良いものを作り出しても素直にほめられたり勧められたりはしない、むしろ否定的なものとして何でもいいものに対して働くのである。

常に話題になるのは一番低劣な人でありその低劣なものを中心にして田舎がある。
そんな人に近寄らねばいいのだがそれでもそういう人とかかわっているのである。
だから選挙でも公平な判断はできなくなる。これは田舎だけではないにしろ田舎では極端化するのである。

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桜井市長はやっぱり北海道に逃げたのか? (デマの真偽をどうして知るのかーまずはソースを知るべき)


桜井市長はやっぱり北海道に逃げたのか?

(デマの真偽をどうして知るのかーまずはソースを知るべき)


 災害時は、不確実な話も飛び交う。デマや流言も広がりやすい。名古屋大の唐沢穣教授(社会心理学)は「大惨事が起きて日常が崩れると、普段の生活で持っていた公正さや判断基準が変わります。根拠の無い話を簡単に信じてしまう恐れがある」という。
 1923年の関東大震災では、外国人が暴徒化したとのデマで虐殺が行われたが、東日本大震災でも「外国人窃盗団がいる」といったうわさが流れた
http://wind.ap.teacup.com/stillwaters/1131.html


今回原発事故で桜井市長が北海道に逃げたというのを聞いたソースは二人だった



 (一人目ー組の人)⇒桜井市長が北海道に逃げたというのは嘘だった、それで評価が上がり票が入ったという・・・・


(二人目ー近くの地元の情報通の人)⇒桜井市長は逃げたんだよ、娘が北海道にいる、横山市議会長と一緒に逃げたんだよ・・・・



では組の人はそのことを誰から聞いたのか?
このソースはわからないのである
ただ組の人が直接面と向かって言ったので信じたのである。

二人目の逃げたという説はそれも何がソースかわからない、
火のないところに煙がたたないとなれば娘が北海道にいるということはそうなのかという一つの火種にはなる。
でもこれも確かめる方法がないのだ。

ただ一時市長がいなくなればわかるのだからそういうことが一時あってそのことを言われているのかもしれない、
だからそうした事実を積み上げていけば真偽がわかる。

歴史でも事実も証明するには地道な歴史的事実をつみあげてゆくことである。

例えば相馬藩で津浪で700溺死したという記録はあるから真実である。
ただそれ以上のことは不明である。
だから今の公共事業のようにボランティアのようなことはないのだ

相馬藩の殿様であれ誰も津波の復興のために尽力したなど記していないのである。
跡継ぎの問題などは事細かに記されているが津波のことは記されていないのだ。
だから何の事実もないのに今行われているような復興公共事業が
藩主導で行われたというのはないのである。
そもそもそうした事実が見いだされないからである。

インターネットの掲示板はまさに噂でありすぐには信じない
そういうのが普通はインターネットである。
それでもデマを信じて広がるということは人間の心理的なものなのだろう。
緊急時は何を信じていいかわからなくなるからだ

意外とデモの真偽を知ることはむずかしいのだ。歴史上のことでもむずかしいし今起きていることでもむずかしい。
マスコミですら真実を報道することはむずかしい。
だからヤラセ報道があった。マスコミはともかく大衆の目をひくものを放送して視聴率をとらねばならない、
それが第一だから過激な報道になりやすいのである。

ただ現代というのは報道することは誰でもできる時代になった。インターネットでそうなった。
マスコミのような力はないにしても報道することは明らかに一つの権力をもつことである。
報道できたものは今までは権力あるものだったから
マスコミや官僚やカルト宗教団体でも東電のような大企業でも金によって情報を操作することができたのである。


ただ個人でも報道するにしても限度がある。内部の情報をとることはできない、
それでも病院に行けば医者や看護師の対応などを報道はできる。
しかしこれは個人ではかなり危険にもなってくる。
それでも個々人が報道すできることは何でも告発しやすい社会だということにもなる。
だから大きな権力をもっている所でもそうしてインターネットなどで告発されると怖いとなる。それなりの影響力があるからだ。

だから一時東芝を相手に戦った人がインターネットにいたのである。
病院などもそこは一方的な権力に従わさせられる場所だからそうなる。
病院でも施設でもどうしても弱者として従わざるを得ないからそういう場所には絶えず
虐待とか医療ミスの隠蔽とか起きているのだ。
今回は近くの病院でまたそういう仕打ちをされたからである。

そういうことをプログに書くというだけで病院側も怖がるということで患者に対して注意深くなるという人もあった。
そんなこともあるのかと思うが読む人が多くなればそうなるかもしれない、
あの病院でそんな対応しているのか、傲慢だとなり評判落とすこともありうる。ただここに本当にそうなのかという疑問もでてくる。
それを読者が判断することもむずかしいとなる。
ただ書かないより書いて訴える個々人で告発力をもつことは民主主義の発展にはいいことである。
でなければただだまっていて権力側のいいなりになるだけでありそして
それが原発事故や一党独裁の圧政や様々な弊害も生れてくるからである。

 
 
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近くの病院で入院してすぐに退院を要求された (それには国の診療報酬の仕組みのためだった)

 

近くの病院で入院してすぐに退院を要求された

(それには国の診療報酬の仕組みのためだった)


理由は個人の入院期間が短期なほど「基本入院量」が高いのです
 そして入院患者全体の「平均在院日数」が短い病院ほど
「基本入院量」が高いのです

平均在院日数を10日以内の病院と30〜40日の病院では
1人1日当たりの入院基本料は大変な差が出ます
入院患者は誰でも出来るだけ早く退院させた方が
高額の入院基本料が稼げる仕組みになっています


入院基本料は看護師の配置人数によって異なり、1人の看護師が受け持つ入院患者が7人だと一番高くなります。
そして、患者が10人、13人、15人と増えるごとに、基本料金は安くなっていきます。
看護師の配置が7対1の施設基準を届け出るには、入院患者の平均在院日数が18日以内で、
入院患者のうち重症患者が15%以上という条件もあります

http://yukan-news.ameba.jp/20131112-115/


治療不要な(=入院の必要性が無い)患者を預かっていても、病院側は利益が殆ど無いどころか
その患者が転倒してケガをする、食事を詰まらせる、無断外出する等々のリスクだけは
しっかり背負わされ、病院側は大変な負担です。
更なる退院の引き延ばしには一切応じない姿勢で臨むのは、必然なのです。

病院でのケアは家庭のようにいかないので、痰にしてもすぐ取ってもらえるわけでもなく、
家にいるときより悪化してしまい、あっという間に終末期になってしまう人もたくさんいます。
連れ帰って、元気になってるかたもたくさんいます。


岩手県議・小泉光男氏が、
 病院で名前ではなく番号で呼ばれたことで
「ここは刑務所か?!」と怒りをブログに掲載して話題になってますね



鹿島の厚生病院はは忙しい、看護師もあわただしく動いている。そして患者を良くみていない。
母はポータブルトイルになんとか自力で行けるからオムツが必要でなかった。
でもオムツとか他にも必要ないものを買わされた。それですぐにそれはいりません、
リハビリパパンツ買ってくださいとなった。それでまた出費がふえた。
おむつば6000円くらいかかった。

そして今日はもう先生が退院を決めたので退院する準備をしてくださいといわれた。
三日しかたっていないのにもう退院しなければならないのかとあせった。
一週間くらい伸ばしてくれと言ったがもう先生が決めたのでだめです
ケアマネジャーと相談してください

それでしかたなくケアマネジャーのところで相談したら自分には何の権限もないです
医者と看護師さんが決めることですと言われた

入ったばかりで出されるのは困るのです、まだふらふらしていますし無理です
はい、わかりました、明日先生に診断してもらい決めます
一週間くらいなら延長可能でしょうと言われた


それにしてもその看護師の態度が性急すぎる、
入院したら退院してくださいと頭の中にすりこまれている
数をこなさなければならない、次々に患者がきて入れ換えしなければならない
そういうことに毎日に追われているから
「入院したら退院して下さい」
という感覚が身についてしまっているのである。
もう相手の状態さえゆっくりみていられないのである。

もちろん病院はどこでもそんなところだということもある。
患者が番号で呼ばれて議員が怒ったというのもわかる
それは病院は次々に患者をいれかえないと収入にならないということがあり
もうそういうことが医者でも看護師でも頭にすりこまれているから
そんな言葉がぽんぽんと遠慮なくでてきていたのである。


病院と死んでもとむらうことなど医者も看護師しもない邪魔になるから早くかたづけてくださいづ、次がひかえていますからとなる。
人の死は見慣れているし何の感懐もないのかもしれない、人間はモノ化しているのかもしれない、番号となれば数字にもなる。
それはここの病院とは限らないだろう。
一丁あがりとかの感覚なのかもしれない、そんなふうに病院では死ぬのも当たり前だからである。

ただこの辺は原発事故などで特殊な事情があり他の病院よりそんな性急な態度になっているのかもしれない、だから医者と看護師がいるだけでいいということであまり不満はいえないのである。
ただ今回はあまりにも性急すぎてこっちも大迷惑したので文句を言ったのである。
文句を言っても謝りもしないしかえってめんどうなやつだとかなくだけである。

今や病院でも施設でも建物は新しく建ってもこの辺では中で働く人を看護師でも介護士でもいないから
百人収容する施設が病院に隣り合ってできても一部しか入れないのである。
この辺は特殊な事情があるにしろこれから高齢化社会ますますこういう状態が極端になってくるかもしれない、
国ではもう老人をめんどうみる予算もないから早く死んでください、
治療はそんなにできません、病院は早くでてください、では施設に入れるかというと入れないのである。
百人入れる施設でもこの辺は特に若い人が流出しているから働き手がないから
立派な施設を作っても宝の持ち腐れになるという危機がある。

これからこの辺はどうなるのか?老人は病気になったら治療も満足に受けられず早く死んでくださいとなるかもしれない、
そういう政策を国では現実にとりはじめているから病院でもこんな対応になっているのである。


つまりもう病気になったら早めに死んでください、元気ならいいです、
介護状態なったら手のかからないうちに早めにしんでください、
・・・・そんな対応になってくるのだろう高齢化社会に国でも対応仕切れなくなっているのだ。

そして最後は中世のように鎌倉時代のように野垂れ死にがふえるかもしれない、
うば捨て山がふえるかもしれない、前にも書いたけどそういう覚悟も高齢化社会では必要になる時代の到来なのか、

一方で102歳の自転車乗りがフランスにいたことには驚きである。
自分もあんなふうにして走り続けられれば最高だなと思った。
あういう人なら別に社会の負担とはならないからである。
ともかく超高齢化社会はすでに否応なく突入しているのだ。
それで様々な問題が現象化しているのである。


痰をつまらせて南相馬市立病院ではそれをとるのに悶絶して大声をあげて苦しんでいる90歳くらいの老人がいた。
隣だったから眠れなかった。
家でした方がいいというのは意外だった。それも家族の負担が大きい。
看護師はその痰をとることで苦しんでいる老人をみて笑っていたから悪魔でもあった。
その人は身寄りのない隣の老人ホームにいる人だったのである。
身寄りのないということはこういうことなど悲惨なことになるのだ。
それは自分も経験しているからわかる。
患者でも家族でもみていないとそうなるのである。
実験材料にもされるし看護師にぞんざいにモノのように扱われるのはどこでもある。
病院でも老人ホームでもある。それが高齢化社会の現実なのである。


もう野垂れ死にを覚悟せよ!


病院の方/か残酷だということもあるからだ。
そういう覚悟をしていればその方が楽だともなるそういう死に方さえ要求されている時代になっている。
延命治療とか介護でも今はぜいたくすぎるのだろう。
昔はみんな悲惨に死んだのである。
オムツがなくて藁だったという話しも聞いた。

病院には病気はみても人間はみないところと知るべき
病院には医者でも看護師でも病気はみているが情はない
だから死ぬなら情のある家族にみとられるのが幸福だとなる
延命治療なんかしない方がいい
ただ苦しめられて情のない医者と看護師が冷たくみているたげだからである


それなら野垂れ死にの方がましだとなる


病院はただ死体をかたづけるだけの場所であるとしたら何ら変わりないからである。
そういうことでこれからはなんらか老人は死を迎えるのに覚悟が要求されている。
もちろんみんながそうではない、102歳まで自転車に乗れる人もいるからだ。
ともかく病院がどういうところかは知っておくべきである。

 
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2014年02月04日

母が白寿の祝い金を南相馬市からもらった (この地に生きた一生だったからふさわしい)


母が白寿の祝い金を南相馬市からもらった

(この地に生きた一生だったからふさわしい)

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小林トミ子 99歳、南相馬市から白寿の祝い金をもらう


我が母のこの地に生きて白寿かな椿の赤く朝に雪ふる

この道や椿に雪ふり朝静か葉牡丹いくつか道の辺に咲く

我が母の幸のうすきも白寿かななお生きむと病院にあり

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白寿…「百」の字から「一」を取ると「白」になる事から、あと一歳で百歳になるため。


白寿の意味はこうだったのか?これは何か面白い。
99歳はやはり百歳に勘定されるからだろう。まず白寿まで生きる人はこれまではどれだけいたのか?
でもこの言葉が残っているとしたらやはりいたとなる。
今なら百歳もいる。南相馬市でも十人以上いるだろう。
これから百歳が何十万という規模になってゆくからめずらしくなくなる。
そういう時代は人類でかつてなかった。
102歳で26キロ自転車で走った人がいたのには驚いた。
そこまでやれるんだという驚きである。


母は入院してもまたポータブルトイレに地力て行っているから寝た切りとは違う。
耳はほとんど聞こえないがなんとか何度も言えば通じる。
完全な認知症とは違う。完全な認知症になると意志が通じなくなる。
でも姉も最悪の認知症は死ぬ前に一回正気にもとった。
認知症でもときどき正気にもどることは不思議である。
だからこの正気にもどることで完全な馬鹿とは言えないともなる


母の一生は不孝だった。原町で10年は原町紡績(はらぼう)で糸取りをしていた。
華奢な体でありよくつとまったとも思う。そうして働きづめであり何か楽しいことは遊びなど全然していない、
それでかたよったものになったが本来性格はおとなしく穏やかでひかえめである。
認知症になってもそういう性格は変わらないみたいだ。どうしても激情的て人は認知症になると暴力的になったりするから扱いにくくなる。


老人を考える場合、やはりその一生がどうだったとかどこに生きたとか過去をふりかえることになる。
南相馬市から白寿の誕生日のお祝いをされたのはまさにここに生れたときから生きたからふさわしい。
ただトミという名は富岡で生れたかららしい。生れた場所を名前とすることがあるからだ。
あとはほとんど原町で過ごして鹿島の我が家に嫁いだ。
実家の墓だけが残っている。我が家に嫁いでも不孝だった。ただ働きづめだった。

ただその不孝でも90頃まで家事もやっていたので認知症にならなかったのかもしれない、
働いていれば張りがあるからだ。だから何が幸いするかは人間には本当にわからない。
不孝と思ったものが幸福になり幸福だったものが不孝になる。
金があってそれが原因で事件にまきこまれて不孝になったり金がなくても幸福がありうる。
人間には絶対的幸福などありえないのである。


ともかくこの地に生きたということで市から祝い金をもらうことはふさわしい。
これが他から退職してから移った人とかなるとふさわしくなくなる。
その一生は別な地にあったのだからである。
この地に生きたということはこの地に何かを残したということでもある。
その人の一生の思いがこの地に残っているということである。
それは家にもある。ただ病院にはないか地元の病院だとやはりまた違っている。
他の病院に移るとそういう地元とという土着的感覚はなくなってしまう。

最近でもやはり介護状態になると子供のところにひきとられる。
すると東京とか遠いところに行ってしまった人もいる。
そういうふうになると何か木のようにこの地に地元に根を張ったのがひきぬかれるような気分になることもあるだろう。
ただみんな広域的に生活しているからそうなたやすいのである。


だから原発事故などでそうして一生生きた故郷から引き離されるというのは辛いし自分の生きた場所が失われることの損失は計りしれない、それはもう金では埋め合わせてきないだろう。一代だけではない、何代もつづいた歴史も失われる。
もう一度人生を他の土地で老人はやり直すことができないからである。


今日は白寿にふさわしいのか、雪がふっている。この辺は必ず今頃雪がふるのである。
雪はあまりつもらないが今でも外は結構雪がふっている。


11時30にこの文を書いたアップした。

2014年02月05日

原発事故周辺でも全国で人手不足の時代 (優先順位を決めて人手不足を補うほかない)


原発事故周辺でも全国で人手不足の時代

(優先順位を決めて人手不足を補うほかない)

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●原発事故周辺でも建築ラッシュで人手不足



例えば電気工1人1日2万円と考えていたのが、人手不足で3万5000円にしなきゃならなくなった。
そうしないと、だれも来ない。資材価格の高騰と併せ、工事の見積もりを見直すと、建築費が上がってどうしようもない」

建設業の担い手も少子高齢化で減少し、総務省によると、とび職や鉄筋工、左官などの技能労働者は2012年時点で335万人と、
ピークの97年に比べ25%も減ったという。それも60歳以上が2割近く占めるが、職人さんも60を過ぎたら、もう怖くて電信柱には上らなくなるだろう。

被災地では人件費が大幅に上昇し、資材費の高騰もあって、公共事業の応札者が決まらない「入札不調」が相次いでいるという。
東京五輪に向けた工事が本格化すれば、さらに深刻化するはず。「バブル」ウンヌン以前の話ではないか

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140205/dms1402050722003-n1.htm


これは東北と福島第一の作業コストがまた跳ね上がるな。
東京オリンピックって一体誰トクなんだ?

電気工で、マンション建設の工事は最低のカスの仕事。
今まで、建築監督、鉄筋屋、仮枠屋、造作大工、軽天屋に苛められてるから
相当金額を積まれてもど素人の様なニワカ職人しか行かないだろな。


建築業界の怖いとこ、景気のいいときほど手抜きが凄い

しかも、高度経済成長期にいっきに作ったもんだから、
当時、砂が足りなくなって、海から持ってきた砂をそのまま使ってるんだよ・・・

塩分を含んだままコンクリートにまぜて使ってるから鉄筋が腐食してかなり危険な状況になってるんだよ・・・
日本中のトンネルや高速道路でいつまた崩落事故が起きてもおかしくない

電気工にかぎらず、不足しているのは熟練工。見習いレベルは言うほど不足していない。でも、いまからこの業界に入らない方が良い。どうせ、熟練工になった頃には仕事減って二束三文で働かされるのがオチだから。



建築現場でも電工は地位が低いのか?鳶は一番危険だし頭も使うし建築現場では重宝であり地位も高い。近くに電工していた人がいた。高い道具を使っていた。
今は何でも道具が先行するし道具を使いこなすことが仕事の条件になる。
機械でやるのが多くなったからだ。
パソコンだって機械だしこの機械を使いこなせないと事務系とか設計とか他でも現代では仕事ができなくなっている。芸術系だってパソコンが必要になっている。

原発事故周辺でも建築ラッシュであり人手不足であり資材不足でありなかなか復興住宅が早く必要で数が多いからすすまない、津波の被害地域もそうである。人手が集められないのだ。近くに家が建ったが一応できあがったみたいだけどまだ住んでいない、半年とかたっているのか?細部ができていないので入れこないのか、電設関係とかが人手不足で入れないのかわからない、前に電気工事頼んだら若い人が流出して行けないと言われた。
家は今や様々な業種でできあがる。だから電工がいないとなるとそこで工事もストップする。そういうことでなかなか外観は完成しても入れないのかもしれない。


人手不足というとき前から原発事故周辺や津波被害地ではそうだった。それは建築関係だけではないあらゆる分野で人手不足なりレストランのチェーン店では自給200円でも来ないとかテレビでも移されていた。シニアにも働いてもらいたいとか宣伝のビラを出していた。看護師助士になりたい人を募集していた。
でもこの辺は補償金をもらっているのだから誰も働かない、毎日酒飲んでパチンコだ競馬だと遊んでいるだけである。第一建築現場などで前から誰も働きたくないところだったのである。


●現代は責任問題が厳しいから簡単に人は雇えない


ただ現代が高度成長期と同じくオリッピックなども重なり人手不足の時代になっている。でも人手が簡単にえられるかというとできない。肉体労働など簡単だ誰でもできるというものでもない、そこでそれなりに経験を積んだ人でないとアルバイト感覚ではできない。仕事はみんなそれなりに専門性があり簡単にアルバイト感覚ではできない。

この前知り合った人からテレビのアンテナをはずすことを頼まれて屋根に上って線を切った時、危なかった。アンテナが倒れたのが反対側だったから良かったが自分のところに倒れたら大怪我するところだった。つまり建築現場には思いがけないことが起こり事故が起きやすいのである。経験あればいいがアルバイト感覚でやると大怪我をする。

実際にアンテナ工事したアルバイトの60歳くらいの人が屋根から落ちたというニュースがあった。自分が見たアンテナ工事の若い人はすいすい屋根をわたっていたからなれていた。アンテナでも誰か支えて線を切れば安全だけど素人がやると怖いことになるのだ。

安全策がとれていないいからそうなる。だからどこの現場でも簡単に働くことはできない。そして今は責任問題が何かとうるさいから余計にそうなる。クレームがうるさいしまたちょっとしたことで責任問題になるから人を雇うにしても雇われるにしてもめんどうな社会なのである。前の中国人のようには使えない、中国人の命の値段は本当に安かったのである。竹の足場で建築していて崩れたというニュースもあった。そういう無理なことでも中国人はしていた、今はまた変わっているし世界で人権問題がうるさくなりそんな簡単に奴隷のように人は使えなくなっているのだ。
そうすると働かない人が多くてもそれだけ人を雇うにはむずかしい時代だかさ余計に人手不足になる。


介護関係でも簡単にやれると思ってもそこには必ず責任問題がありちょっとでも失敗したら家族から責任を追及されて賠償金を払わされる恐怖があるから介護関係だって誰でもいいとかならないのだ。そして人を雇うことは信用問題がありどんな人か知るのも大事になる。そういう手続きをするだけで人を雇うことが大変である。

だから保証人なくて就職すらできないというのが激増している。
何でも保証人が必要であり就職でもそうであり病院に入るのにも施設に入るのにもあらゆるところで保証人が必要になる。それで困らせるのはいいが社会全体が人手不足になる。それでサービスを受ける側がサービスを受けられないともなる。
だからあまりにも人手不足なになると極端な責任を課すともう誰も働かなくなる。
働きたくても働けなくなる。それも人手不足の原因なのである。


●優先順位を決めて重要な場に人を使いあとは切り捨てるほかない


南相馬市の鹿島区に100人収容の老人ホームできた。でもその百人を世話する人が介護関係の人が確保できないから建物を建てても機能しない、他でも石神の方にもあるけど人手不足だとかなっている。もちろん病院も医師看護師がたりないのだから困っている。
だからやたら忙しくて余裕のある仕事もできなくなっているしあまり文句も言えないのがこの辺なのである。看護師の仕事をへらすのに看護師助士を募集しているけどこれだって資格とるのもんどうである。特にシニアはなんでもちょっとしたことでもめんどうになるからやらない。補償金や生活保護の方がいいとなってしまうのである。


だから人手不足なのだからもう何を優先順位にするか決めねばならないだろう。これは自由社会では何が価値あるかなど決められないのだからむずかしいけど迫られているのだ。別にレストランに行かなくてもいい、もちろんハチンコ屋などなくなってもいい、労働力は貴重なのだからそんなことに費やされている余裕などないのである。
昔の自給自足社会のように生活の基本となるものさえあればいいともなる。


現代の生活の基本は電気、ガス,水道、通信・・とかでありそれがなければまず現代の生活は成り立たない。電気がなくなれば煮炊きもできないから食事もできなくなるからだ。通信だって現代では途絶えれば何が起きているかも皺からなくなるし伝えることもできなくなるから必要である。その他、病院とかも維持されねばならない、ただ介護となると賛否両論がでてくるだろう。本当にこんなに老人が増えてそこに人員を費やしていいのかというのは常に言われている。ただ命にかかわっていることは病気と同じであり簡単に死なすことはできないのも事実である。だからそれなりに優先順位はあがる。

もちろんスーパーは必要である。買い物できなくなったら食事もできない、ではコンビニが必要かというとコンビニはあった方がよくてもなくてもなんとかやれる。つまりなくてもなんとかやれるのは優先順位が低くなるのである。また車がなければ現代の生活はできない、車がぜいたくというより今も車なしで日々の生活は成り立たない、だからガソリンも必需品である。

そういうことは原発事故で外から物資が入らなくなり車があってもガソリンがなくて車が使い物にならなくなっていたのである。
だから毎日一カ月以上ガソリンを得るために長蛇の列ができたのである。車とガソリンは一体のものであった。
だから車社会になるとガソリガンがなくなると社会が機能しなくなるのである。
民主党で「コンクリートから人へ」という政策で無駄な公共事業を減らそうとした。
その政策は実際は時代にあっていた。今建築ブームになっているからというがむしろ立派な建物を建ててもその中で働く人手が得られないから同じなのである。

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鹿島厚生病院に連結してできた老人ホーム

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同厚生連によると原発事故後、仮設住宅が設けられた同市鹿島区では人口が高齢者を中心に約2000人増加。一方、市内では介護施設が8施設から一時半減し、厚寿苑の入所希望者数も震災前の80人から震災後は200人以上に増加した。


福島民友新聞

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飯館村には人の記憶は残りつづける (牛がいなくなっても臥牛石が残る)


飯館村には人の記憶は残りつづける

(牛がいなくなっても臥牛石が残る)



冬日さし飯館にあれ臥牛石牛も鳴かずにここに残りぬ
十頭の牛の名覚え仮設にそ暮らして長く雪の積もりぬ
石ふたつ動かざるかなともにあり寒さに耐えし高原の村
北風の唸り吹きつつ石五つ離れざるかも山の村に住む
鹿島より佐須は遠しも久しくも我は行かじも春また行かむ


人が消えた飯館村の夏
http://musubu2.sblo.jp/pages/user/search/?keyword=%90%CE%8C%DC%82%C2

ここに牛が臥したような大きな石があった。臥牛石となる。あいのさわであったがこれは良くとれていない。とり方がまずかった。本当に大きな牛の背のようだったのである。
また行ってとってみよう。



飯館村はどうなってしまったのか?すでに一年以上は行っていない、人が住まなくなった家はなおも点在している。だけど冬の灯はともらない、冬の灯というと街に住んでいるものとは違う、何か飯館村となると人も一体感がでてくるだろう。
もちろん現代は山の村でも昔とは違う。でも飯館村として南相馬市に合併しなかったのが今になると良かった。つまり飯館村としての個性を作れて村づくりができたのである。
地理的にも南相馬市とは離れていることもあった。小高と鹿島はもともと地理的には一つだったから南相馬市になってもそれほど違和感がなかった。ただ原発事故では小高は小高の事情ができたし原町は原町、鹿島は鹿島の事情ができて分断されたから小高は小高町のままの方が良かったといっている。原発の賠償金を浪江のように一致して請求できるからである。

飯館村は標高がかなた高く高原の村であり南相馬市の平地よりずっと寒い。だから飢饉の被害も大きかった。でも耕地面積はかなり広い、米作りが盛んだったとも言える。
平地が思った以上多いのである。それから木材資源が江戸時代から豊富でありそれで入会権で飯樋で争いがあったことでもわかる。

飯館村は今までは牛の村でもあった。飯館牛が売りだった。だから牛を飼っている家が多かった。だから避難した人が仮設で十頭もの牛の名を覚えていたのである。

牛でも名前が呼ばれれば人間化している。一方病院では番号で呼ばれたとかなり牛より人間扱いされないということもある。ペットの方が人間より大切にされているとかホームレスが不満を言うのもわかる。ただ十頭の牛の名前を覚えるということは結構むずかしいと思う。牛はだいたい似ているからどこかで牛の個性を区別して覚えないとできないことだろう。みんな同じだったらなかなか区別ができない、ただ牛の個性がどこにあるかはわからない。ただ犬でも猫でもみんな何かしら違いがある。もちろん黒い猫はクロだとかなり区別しやすい、牛はみんな同じに見えるのである。

犬でも猫でもそうだがこれは自分で飼ってみないとわからない。
野良猫に餌をやって猫を観察していると猫のことが具体的感覚としてわかってくる。
猫は相手をみて探っている。ただ自分をどんなものと近くしているのかはわからない。
餌をくれるから近づいて来るが絶対に触らせないし餌をとるにも一定の距離を保っている。いじめられてなつかなくなったのである。
動物を知ることは通じ合うことはなかなか簡単にはできない、猫と犬は対象的である。
犬にはあまり神秘性を感じないが猫には感じる。猫は結局謎めいているのからである。

エジプトではあらゆる動物が神となった。それは動物を非常に身近に生活と一体となって見ていたからである。だから牛のミイラまであったのである。エジプト人にとって動物は神秘的な神でありそれが人間の日々の生活に組み入れられていたのである。

動物が身近だった時は人間と動物の交流は深く動物と結婚する話しはいくらでもある。
先祖も動物だったというのが一般的でありそれぞれの部族がトーテムをもっていた。
猿のトーテムだとすると猿を日々の生活で深く観察していたのである。鷲でもそうであり今の人より動物は人間に近かった。最近この辺は荒地になりカヤネズミとかが増えてノスリがふえたのである。七羽集まっているのもみた。するとノスリを深く観察することになる。

いづれにしろ人間と動物は戦前でも宮沢賢治の小説のように深い関係があった。そうでなければあのような童話は書けない、江戸時代から残っている民話でもそうである。

そういう動物との交流が現代では欠落した。そこで動物というものがわからなくなってしまった。機械との交流の方が主になってしまったためでてある。昔は車の代わりが馬だとすると馬には詳しかった。この辺では相馬野馬追いかあるから馬を飼っているところがあるから馬を見る機会が多い。でも馬も飼ってみないと馬のことはかわらないのである。
人間はやはり野菜でも自分で栽培してみると実地に経験していると何かわかる。

だから街中に住んでいる人は回りが田んぼでも農家のことがわからないということがあったのだ。

自分は牛とか馬がみじかにいても触るのも怖いのである。だから動物と通じ合わない、ただ詩を書いたりするときはただイメージ化して創造で書いている。
牛でもやはり高村光太郎のような「牛」の詩はなかなか書けない、その時代でないと書けないものがある。何かそうしたものを書く基盤が失われて動物のこともわからなくなった。狼のことなどもう想像の世界でしかわかり得ようがなくなっている。

ともかく飯館村は人が去ったとしてもそのあとあとまでそこに人が住んでいるという記憶はなかなか消えないだろう。それは原発の避難地域ではみんなそうである。そこに江戸時代から人が住んでいたからである。

だから例え牛の鳴く声が聞こえなくなっても臥牛石が残りなおそこにまだ人が住んでいた記憶が残り続ける。つまりそれだけも原自然に還えるとか言ってもそこに住んだ人間の記憶は残りつづけるしもう元の原自然に還るということはありえないと思う。
石一つが残っていても過去の人間の住んだ記録となる。もともと人が住まないところにあった石とは違うものとなっているのである。

posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

原発は東京に作るべきだったのであり今もそうである (都知事選の脱原発は通用しない)

 

原発は東京に作るべきだったのであり今もそうである

(都知事選の脱原発は通用しない)

東京湾に原発を作るべき10の理由
http://ameblo.jp/ap-o-mp/entry-11443168955.html


東京都知事選挙で原発を全部なくすということで細川や小泉があおっているがこれはナンセンスである。

原発は東京に作るべきなんだ

東京に作ることが一番合理的でありコストカットだったのである。コストカッターとしてのしあがった
東電の清水社長の意向にもそっていた。つまり福島でコストカットしようとして安全策を怠ったから失敗したのである。
津波だって東京湾は深いからあんな高い津波は押し寄せない、
いろいろ考えると東京が一番ふさわしい場所だったのである。それは専門家でも議論してみればわかる。
だから脱原発が選挙の争点ではない、それは国策の問題である。


それより東京に作ることが一番ふさわしいんだよ


なぜっって、考えてみろ、一千万の大都会をどうして動かせるんだ、
それは電気があってだし原発も欠かせないんだよ、他の自然エネルギーでは補ないない、
そんな巨大な都市をどうして動かせるのか?
だから原発が東京に必要なんだよ
原発があって東京が栄えるんだよ

原発事故になったら東京も終わり日本も終わりだ

それも文明の運命だし覚悟してやるほかない、つまり原発と心中することもやむえないんだよ、

だから原発は信仰対象にもなる。安全神話にもなった。
原発は安上がりなんだよ、東京が栄えるには原発が必須なんだよ
東京が一番電気を使うだからしょうがないだろう
事故になれば東京が終わり日本も終わる

それもいいじゃないか、そもそももう東京自体が電気をまかなうには原発が不可欠なんだよ
事故があったら原発と心中する覚悟が必要なんだよ
東京人だけが助かり福島に作ったということ自体まちがっていた
コストの点でも東京が一番あっていたんだよ
脱原発などきれいごといったってみんなクーラを使っているな
原発があるにしろないにしろ電気など減らせないんだよ
電気をへらしたら文明そのものが終わるんだよ


それじゃフクシマのよう田舎はどうするばいいのか?
それは昔の自給自足の生活を見直すことだよ
電気は必要にしても最小限にとどめ
炭とか薪とか何かそうした自給体制を作っておくことだ
だから原発にたかる金権体質を見直すことなんだよ

借金してぜいたくしているとかいろいろ欲望が深く贅沢していたんだよ

そんなにしてまでぜいたくしたいのか
田舎の人もまた見直すべきなんだよ
東京には東京の栄がある
原発とともに栄があるんだよ
危険にしても覚悟ししてやればいいことなんだ
生半可な気持でどっちもいいように考えるなよ


東京には東京の栄がある
福島にはウツクシマ福島の栄えがあった
これから福島は田舎は田舎の栄えを目指すべきだ
今までのように両方を目指すことはできないだよ
だから田舎も東京と同じく覚悟も必要なんだよ
一挙両得を目指すから変なことになったのだ


東京が終わったら日本も終わる
でも人間は終わらないだろう
自給自足の生活にもどり生きているだろ
東京はなくなっても田舎は残るだろう


政府と東電の最大の間違いはフクシマに原発を作ったことだったんだよ


首都が滅びるなら原発とともに滅びる覚悟が必要だった
東京だけが生き残り田舎は放射能汚染で住めなくなるなどずるすぎる
東京が首都だからすべてが許されれるのか
天皇様が住んでいるから首都を守らねばならない
では美しい田舎が滅んでもいいのか
土や水が汚染されて米もとれなくなっていいのか

そしたら東京も食べていけなくなる
外国があるっていってもそうしたら奴隷になるぞ


原発はフクシマに作ったことが最大の過ちだった


東京には作れないというならどこにでも作るべきではないんだよ
それはわかりきったことじゃないか
東京に作ることは政府も責任をもつということだったんだよ
そしたら命懸けで原発を見張っていればよかったんだよ

政府もそしたらさ本気になって安全をみているから良かったんだ
フクシマにあるから離れているから安全だ
東京は守らねばならないというのがまちがっていた
たから安全も怠っていたんだよ
離れているから事故になっても東京は安全だとな
被害はフクシマだけがかぶればいいとな・・・

 
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2014年02月06日

南相馬市の桜井市長は北海道に本当に逃げたのか? (様々な混乱状態と補償金問題で分断された南相馬市)

 

南相馬市の桜井市長は北海道に本当に逃げたのか?

(様々な混乱状態と補償金問題で分断された南相馬市)

今日は病院で原町の人にいろいろ聞いた。その人は何か詳しい、
直接役所に聞いたりいろいろ積極的に問題を追求して具体的に行動している。
だから一番信憑性があった。説得力があった。
三人に聞いて二人が逃げないということは逃げなかった。
そして桜井市長は独身であり北海道に娘がいないという。


では何がデマの原因になったのか?
それは横山市議会議長が北海道に逃げたのは確からしい
それが混同して桜井市長も逃げたというのが真相なのだろう

桜井市長が北海道に娘も縁故もないとしたら逃げるはずがないのである。
その人は桜井市長は嫌いだけどまともなことを言っているのは彼しかいないという。
桜井市長については悪い評判しか聞けなかった

でもこういう混乱状態だとやはり批判が大きくなるからやむをえないという。

やはりデマというのは数を当たればおのずと見えてくるものがある
10人聞いて7人くらいが桜井市長は逃げなかったとなれば信憑性が強くなる
もちろん誰がしゃべり何を根拠に言っているのかも問題になる

その人は何でも直接役所に聞きにいっている。
文句ばかり言っていてはだめなんだと直接役所に行って交渉もしている

この辺の人はプライドが高くて馬鹿にされるんじゃないかと訴えないという
内輪でなーなーで解決して議論もしないし訴えもしない

しかし今は緊急事態であり平和な状態ではないからそんな今までの態度は通用しない
役所にも聞いて訴えて解決を計らねばならない
この辺は平和がつづいて守りの姿勢が身についてしまっている
積極的に県なり国なりに抗議して具体的に補償金でも獲得しなければならない


国は30キロで賠償など線引きしていない、鹿島区は原町と同等の権利がある


30キロ圏内圏外という線引きは南相馬市ではされていない
イワキでされたのであり南相馬市ではされていないという
ええ、そうだったのか?

最初から30キロ圏内とかうるさく言っていたから国で線引きしたものとばかり思っていた

だからその人は桜井市長が鹿島区を原町区と同じく差別しないで賠償金も支払うべきだと盛んに言っていた。
原町区なので原町区は鹿島区に賠償金を桜井市長が市の財政から
一時的に払ったのは良かったと言っていたのも原町区の人が言うのでそんな人もいるのかと思った。
中にプログでも執拗に鹿島区に払うべきではなかったと主張している人がいる。
これも南相馬市が分断される大きな要因だった。


つまり鹿島区が南相馬市であり原町区と被害も同じなのである。
避難するにしても半分はしているし屋内退避でいいとされても被害は今でも変わらない
田畑は耕されていないしいろいろな面で変わりないのである。

その後の賠償で東電かは鹿島区は一人一カ月10万であり7か月分しかもらえない、
原町区は2年分くらいもらっているのである。その差別がどうして生れたのか?
それは原町区の人が理不尽だといっている

確かに原町区と鹿島区は放射能汚染でも避難にしても田畑が耕されないことなど被害は同じなのである。
どうして30キロで線引きされて原町区と鹿島区が差別されたのか?

だから桜井市長の判断は正しかったとなる。なぜなら緊急事態であり現金などもっていない
貧乏な人にとっては当面の生活費が必要になっていたからである。

ただ二週間から一カ月は金があっても物資は入って来なかったから金がその時は役に立たなかった。
そのあとの生活費では必要だった。

南相馬市がこうしして補償金で分断されるたとが復興ができない大きな理由になっている。
みんなあれはいくらもらったとかが問題になる。
だから小高の人はもらいすぎだと常に批判があり仮設に入っていても実は歓迎されていないのである。

相馬市でも原発避難民は補償金もらっていると歓迎されていない、
だから飯館村の人を地元の農家の人が雇わないで津波の被害の人を雇うことにした。
それで不満を言っていたけどそれも当然だともなる。


相馬市の原釜の人が仮設の食堂で妻をなくしたとか酒を一人飲んでいた。
その人が言うには船主は例えば一カ月200万補償金をもらうが
船主でないものは船をもたずに雇われるものはその200万から船主が配るという。
だからそれは船主にまかせられている。
つまり船主には大きな金がまかされるし入ってくる。
だから漁業関係者でもそこに差別がある。
それで船主だったりすると億の金とかをもっていることがありうる
それで立派な家を建てたということもある


その人は別に漁業関係者でもないから津波の被害にあっても何ももらっていないのである。
だから松川浦だと人口も多いからみんな漁業関係者で補償金をもらえない、そこでまた同じ地域でも不満がでてくる。
この辺ではこうして補償金問題で分断されている。
それが何か一つになれずギスギスしたものとなり反目しあっているのだから
こういうところでは一致して復興に地元の人が努力しようとならないのである。

 

 
posted by 老鶯 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連