2014年01月09日

生活保護者とにていた原発避難民 (働くとその分ひかれれは働く意欲がなくなる)


生活保護者とにていた原発避難民

(働くとその分ひかれれは働く意欲がなくなる)

うちは自営業で、生活保護世帯の人を雇っています
その場合、ちょうど半分減らされることになります。
働いている人の手元には50パーセントしか残りません。
残りは福祉に取られることになります。

どうしても減らされるのが嫌なのでしたら。
知り合いの人のところに働きに行って、それを黙っていてもらうしかないです。
(つまり福祉事務所に内緒で働く)
ですが、それがばれた場合
質問者様の稼いだお給料の5倍を「罰金」として取り立てられることとなってしまいます


生活保護者とかかわってこれもめんどうなものだと思った。生活保護がいいとか貧乏な格差社会では言われている。でも生活保護者にはいろいろな制限があるのだ。
生活保護以外に収入を得ることがむずかしいから生活保護内の金で生活しなければならない、働いても半分ひかれるとかなると働くのが馬鹿らしいとなる。8割もひかれるとかもありこれも変だなと思った。
その女性は生活保護者にしては性格がいい、話していても面白い。学はないのだけどもう女性としては見れなくても何か話をしていて面白いのだ。
ただなぜあんなに他人に平気でものを頼むのかわからない、頼むことになれているのか、頼み方がうまいのか自分もかなり使われた。自分も困っているから助けたから別に助けたとも思わない。でもあんなに身も知らない人にずけずけものを頼むというのもわからない。
自分はものを頼むということをほとんどしたことがない、する必要がなかったのである。今になり全部自分で家事からなにからするようになって頼む必要が出てきたのである。

あの女性の人生は実際はわからない、二回離婚しているし一時は金はあったというからどういう生活していたかわからない。
離婚している女性はたいがい貧乏になっている。まず女性だけで稼げる職業は看護師とか限られているだろう。
自分の家に来た人はそうした離婚した女性とか生活保護とか借金かかえているとか困った女性しかこなかった。そういう人には頼むより頼まれる方だったのである。


その女性は食堂で働いていて給料がもらえないことに怒りをぶちまけていた。食堂の仕事は惣菜なども作り客が多い時は忙しいからかなりの労働になる。自分も家事をしてみてこれもけ結構な労働だと思った。介護もしているから余計にそうなのだ。何でも労働自体はみんな楽ではない、労働することは実際は高くつくものであり時給などで計れるものではない、人間にとって一番貴重なものは時間だとするとその時間を奪われるからである。

働くということは働かせるとなると受動的であり奴隷的労働になる。ほとんどが今は働かせられている奴隷的労働である。時間給はみんなそうてある。一方で自ら働くという能動的な働くのはそれはその人の人生を作ってゆく。そういう働き方も少ないにしろある。
それぞれの才能を活かす働き方てある。江戸時代の職人のような働き方である。
その人がその個性に基づいて自主的に働いている。だから働くにしてもいろいろあり働くことは多様なのである。


その女性は憤っていたのは食堂の経営者が賃金を払わない、その理由が生活保護者であり払うと法律違反にるからという理由だった。でも労働自体は結構楽ではない、生活もぎりぎりであり困っている。この辺では支給額自体極めてすくないのである。それは本当にぎりぎりである。生活保護費だけではまともな生活は送れないだろう。
だからこれまで働いた分をもらいたいとしきりにいう。でも法律上は確かにもらえないかもしれない、だから半分くらいでももらえればいいとなるがそれでも不満である。
その女性は働くのが馬鹿らしいと言っていた。これは本当だろう。
いくら生活保護者でもそれだたけ働いて成果が金が得られないなら働く気がなくなってしまう。生活保護にそんなにこの辺では余裕がないからだ。
得しているのは生活保護者をただ働きさせている経営者になってしまう。
無料で働かせているのだからこれほとど得なことはない。ただそういうところでは働く人もルーズであり真剣には働かないのである。


このことは原発避難民と同じだった。避難民も働くとその分が補償金をもらえなくなる。失業給付金ももらえない、仮設からでて自宅にもどると補償金が得られないとか働くと損になる仕組みになっているからみんな働かないのである。これも生活保護者と同じ仕組みになっていて働いたり自宅に帰って復興しようとかの意欲をそいでいるのだ。
川内村辺りでも村民が補償金で郡山市のような便利なところで住んでいたら帰りたくなくなった。帰ると補償金がもらえないとなり帰らないのである。人間は一面こうして生活を保証するとかえって不都合が起きてくる。補償しすぎた結果として金の問題でもめていて避難民同士がいがみあっている。だから補償金が必要でもそれがすべていいものとはなっていない。それは生活保護者と同じである。保護されることになれるとそれが当たり前になりそこから脱する気持もなくなる。真剣に生きるということもなくなる。

何かこの辺の状態はだからみんな特に仮設の人はそういう状態になっている。
つまり補償金をいくら出してもそれだけで今の状態を改善することはできない。
未来もありえないということである。ただ安易な道を選び人心も堕落してゆくだけである。
そもそも働くということにはいろいろな要素がありただ金をもらうとういことだけではない、生きがいであり協同であり共同意識を醸成するとかハタを楽にするとか、work(作品)化するとか人間の存在意義は働くことにあるのだ。ただ働くことはすへてが価値あるものとはならない、膨大な無益なことに労働が費やされていることも現実なのである。
エステで生活保護者が東京で働いているとしきりいうがそんな労働に価値があるのか?
金持ちに使われている奴隷労働でないかとも思う。介護などならいい仕事でないにしろ人に尽くす仕事である。エステなどは金持ちのために働かせられているというふうに見える。その女性はただ金を得ればというだけの人だからまたそんなところで働いているのがふさわしいとなる。


ともかく現代は働くことがすべていいものとして肯定できないから働かない人が膨大になったのである。また働くことが強制されないから働かないのである。働かされている人が多く自ら働いている人は少ないからそうなる。いづれにしろ今の世の中格差社会である。その女性はテレビで電車の番組を見るのが楽しみだという。でもその女性は電車に乗って旅したことがあるのだろうかと思う。でも自分の母親よりはずっとましである。いろいろな楽しみをそれなりに追求してきているから同世代なのである。

自分の母親は一切の楽しみを否定している。花も庭も何でもそうだった。金になるものは一切否定している。たた食べる贅沢は否定しないだけである。これは異常であり狂気だった。今は寝ているから何も言わないだけである。その女性は自分の贅沢をみてそのことはいいものだと思っている。自分もそうしたいと思っている。楽しみを肯定しているのである。だからその女性が何も人生で苦労ばかりだったとは思えない。

それが大正生まれと団塊の世代の差かもしれない、団塊の世代は働くことばかりではない、苦労ばかりではない、楽しみを追求してきた世代だった。だから白い髭の老人ライダーも普通にいる。バイクでもそれに乗ってきた人は老人になったからとやめられない、その快感を覚えているからやめられないのである。
人間は年取っても快感は脳に記憶されて消えない、ビールでも一回その味を覚えるとまた飲みたくなる。ノンアルコールは全くビールの味でありそれでサシミで飲むときは本物のビールと同じようにうまかったのである。


いづれにしろ三年目となり原発避難民も津波避難民も補償金でだらだらくらしている時期は終わっていると思う。ただ高齢化社会で老人はまた働くこともできない現実がある。
南相馬市では若い人が流出して30パーセントとか65歳以上の人口が他より多いのである。他より高齢化社会化して負担が増大しているのだ。そして60以上で貧乏老人になっている人は生活保護になりやすい、そういう人が増えている。生活保護者の老人の比率が増えているのだ。犯罪の比率も増えている。南相馬市でシルバータウン構想などがでてきたのもそのためである。

 
 
posted by 老鶯 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

葉牡丹とおなご (田舎の農家育ちの苦労した女(おなご)


葉牡丹とおなご

(田舎の農家育ちの苦労した女(おなご)

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北風唸り
庭の石にそえ
葉牡丹
飾り気なく
たくましく実直に
誠実なる石に添えて咲く
北風唸り
長き冬を耐えて咲く
寒々と冬の雨ふり
我が墓のある墓所を通り
路地裏の道にも咲く
苦労の故に十歳老けた女(おなご)
男に女(おなご)が来る
この土地で生きて育ったおなご
その土地に根付いたおなご
小さな畑を耕すおなご
仮設の食堂で働くおなご
葉牡丹の紫色の深く
その土地に根づいて咲く

1 女たち。おなごしゅ。おなごし。⇔男衆。
2 女中。おなごしゅ。おなごし。⇔男衆。

おみな-ご をみな― 【▽女子】
〔古くは「おみなこ」〕女の子。若い女性。
おんな-ご をんな― 【女子】

何か今の女性は一般的に若い、中学生くらいの母親でも何か若い。母親らしく見えない、だから20代かと思った。でも今はみんな若いから母親という感じがないのが一般的らしい。それは幼いということにも通じているという。母親でも大人になっていない、それは今の人間全般的に言えるのだろう。60代でも普通は若い、60代では老人らしくないのが現代である。老人というと成熟して落ち着いて枯れたという感じだったが今は違っている。
みなん若いのであり若いということは一面いいことなのだがその年相応のものか身についていないから幼い、幼稚だとなってしまう。外見は若くても精神的にはただ幼稚だとなってしまう。

だから10歳老けた女性は他の人とは違っていた。そうなったののは特別苦労したこともある。外見は若くなく10歳老けてみえる。そしていつも苦労を語っている。

この女性がおなごというこ言葉を使った時、これは方言なのかと思ったら全国で使われていた言葉である。おなごしというときはおなごで女性で働いている人をさしていた。
女中もさしていたからおなごは良く使われた言葉なのである。
男に女子(おなご)が来るというときおなごは若いとなるが実際は老人でも言っている。
そもそもおなごという言葉を地方でも聞かない、今はみんなきれいな標準語をしゃべるからだ。方言は土着的なものだが一般的に土着的なものがなくなったのが現代である。
土着的人間という時、もともと農民にその典型があった。でも今は農家に嫁いだ女性も農民的な所か全くなかった。サラーリマンの妻であった。実際農作業もしていない、田んぼは委託しているからしていない、何も農家的な所がなかったのである。


田舎ではこの女性は10歳も老けていてしわが多いから女性として見れない、それても75歳の人と助け合って夫婦のように行き来している。でもその男性の家はすぐ近くでも一人では行けないし来るなと言われている。というのは回りで親戚がいて誰か来るのを見ていてうるさいからだという、そのことを異常なほど気にしている。これは他でもそうである。街内からちょっとはずれただけでも村になりうるさい。田舎は常時監視状態にある。
誰と誰が会っているとか見ていて監視しているのだ。
そういう窮屈な所が田舎でもある。ただ田舎といっても農村部と街とは違っているし原町や相馬市の街内になるとまた違っている。
ただこうした人間が監視状態で暮らすとなると嫌になる。
そしてまだお悔やみとかで2万払っているから金かかかるとか嘆いていた。もう町内ではそういうことはもうしている人は少ない、冠婚葬祭自体消滅さえしているからだ。


今の時期だとこういうおなごは葉牡丹とにあっている。これは花なのか野菜なのかわからないからだ。土着的ということは花だけをみていてはわからない、その土に根ざした野菜をじかに栽培してとって食べていれば土着的になるのだ。それがこの辺は放射能騒ぎでなくなっているから異常なのである。土着的とは土に着くだから土から離れてありえないのだ。だかちらこれまで農民が田舎では8割とかいたらみんな意識しなくても土着的人間になっていた。今は田舎ですら農家ですらサラーリマンになっているのである。会社員なのである。だから未だに冠婚葬祭にこだわっているのが何かそぐわないと思った。