2013年12月30日

年の暮の短歌十首(南相馬市-金沢から北泉の道)

 
年の暮の短歌十首(南相馬市-金沢から北泉の道)


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一艘の貨物船行く冬の海

名もしれぬ神社一つや冬の暮
眩しくも放つ光や冬日没る
凍みし土マウンテンバイク踏み走る


二本の樹のまたここに冬日さし時を惜しみつ今日も立ちにき

越中の移民の墓や落葉踏みここにもありし金沢古りぬ
松の間に春の満月ゆくりかに昇るや金沢家々ひそけし
ここにしも家のありしと凄まじき津波の跡に残る二本の樹
貨物船今い出行くや金沢の津波の後の年の暮かな
正月と刻める碑二つ北泉津波の後の年の暮かな
泉の井戸案内板の字も薄れ冬の陽没りぬたずぬ人なし
一葉松くねりて枝の伸びにしや幹も太しく冬野に根づきぬ
陽の没りて幹の太しく一葉松津波の跡の冬野に立ちぬ
故郷の冬の大地に一葉松幹の太しも年を重ねぬ

ここにしも津波来たりぬ一葉松萱浜見つつ年も暮れにき

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金沢は鹿島からは近い、六号線で原町まで行く時、はずれても途中の道である。でも金沢について良く知らない、金沢は意外と地形が複雑である。田んぼになる前は浦になっていたとしても入り組んでいる。台地も多く家の配置も複雑である。だから北泉に家がある程度集中していたのはなぜか?それが今でもわかりにくい。
ただ延命地蔵神社というところにまるで古い地層を示すように江戸時代の年号を刻んだ碑が並んでいた。あそこも隠されるようにあったから注目していなかった。

「正月」と刻んだ碑が二つあった。明らかに正月に建てて祭ったのだろう。
正月だからこそ碑を建てた。昔は正月は大事であるからこそそうなった。
あそこは村の中心としてあった。ただ個数がそんなに多いと見えなかったからあそこにはあまり注目していなかった。


でも火力発電所が建つ前から自転車で自分は行き来していた。火力発電所がない前の海岸を知っている。崖があり砂浜がつづいていた。それは自然のままの光景だった。
そして金沢の砂浜に接して家が何軒かあった。そこは松原になっていた。規模は小さいがその松の間から春の満月が夕べ昇るのを何回か見た。それはすてに35年前となっている。火力発電所ができた風景は一変した。

金沢に越中からなどの移民の墓がまたあった。必ず移民の墓があるのが相馬である。
金沢はすでに元禄時代から開拓がはじまっていた。だから意外と古い。
八沢浦は明治になってからであり小高の井田川は大正になってから開拓された。
元禄というと古い、萱浜(かいはま)はその後開拓されたのだろう。
そこにも移民が入って開拓した。あの辺は移民が多いのかもしれない。


火力発電所もすでに30年とか建てられてから過ぎている。あそこには千人働いていたというからこの辺では雇用の場所となっていた。津波で被害を受けたとき復旧のために5000人働いていたというのには驚いた。それだけ大きいものだったのである。
貨物船が今でてゆくところだった。オーストラリア辺りから石炭を積んできた船なのだろう。ここの火力発電所は石炭を使っている。
津波からも復旧して営みがつづけられている。今は金沢というと火力発電所であり船が出入りして生活が感じられると変わってしまった。
それでもこうして営みがあるとき何か活きているものを感じる。
津波の跡の荒寥として景色の中を火力発電所は復旧のシンボルともなるのがこの辺である。
だから新しい火力発電所をまた小高の方に建てるというのもわかる。


ただ前から自分は八沢浦でも浦になっていたら美しい景色だったろうなとイメージして書いていた。それが一時八沢浦が本当に津波で入江に浦になった時ほど驚いたことはない、きらきらと波が春の光に寄せていたのである。それで八沢浦が元の美しい入江にもどったと写真をプログに出した。それは今でもかなり読まれているし一番読まれているものかもしれない。ただここで子供まで泥の中から死体で発見されたことをお前はどう思うのだというコメントがあった。これも確かにそこで死んだ人にしてみれば何が美しいだと怒りにもなるのがわかる。ただ津波というのは瓦礫の山だけをもたらしたのではない、わずかにしても美しいものを一時的見せたのである。それは信じられない光景だった。
奇跡とさえ思った。

今ダークツーリズムとか原発や津波の被害地を観光地として人を呼ぼうという計画が外部で成されている。これには自分が批判されたように地元の人はまだ受け入れられないだろう。そこは供養の地であって観光の地ではない。
30年くらいたったらそういうことも受け入れられるだろう。
ただ観光地として末の松山とかみちのくの歌枕が津波で見直されたことは確かである。
八沢浦にも古歌が残っていてそこにも入江だったときの都の人の歌が残されていたのである。八沢浦は都の人にとっても美しい場として知られていたのである。


一葉松まで津波が来たけどなんとか残るみたいだ。葉は枯れてはいない、海岸線でも小高の方で夫婦松とか名付けられた松が生きていた。葉は枯れていないのも不思議である。
海岸に接して良く生き残ったものである。それも奇跡的だった。
一葉松はやはり圧巻である。
ただ自然の事物は広い大地があって根付くものでありあそこから山の端に陽が没るときこの松も映える。


今度買ったマウンテンバイクはヤマハのであり坂に強いし悪路に強いから舗装されない脇道をかなり奥まで入っていける。そこに意外な景色が開けていることがある。景色はみる場所によって狭い場所でも違っているのだ。ただなんか自転車に乗ると筋肉が痛み疲れる。だからこれは年のせいである。あとどのくらいのれるかわからない。


六号線の塩崎へ行く川子の農家に二本の樹がある。あそこに冬の日が今日もさして生きているなと感じる。何か二本の樹が津波の跡にも離れがたく残っている。それは年輪を重ねた老夫婦のようにも見えるのだ。自然でも必ず人間を見ている場合があるのだ。
川子から海を望み森の道を行き金沢をめぐるコースは結構変化にとんでいる。

冬がしんみりとしてまたいいのである。津波の後に延命地蔵を注目するようになったのも変化だった。神社なども注目されなかったが注目されるようになった。