2013年12月27日

幻影の時代 (現代は現実を認識しにくく幻影を生きやすいー津波も原発事故も現実に思えないということが未だにある)


幻影の時代

(現代は現実を認識しにくく幻影を生きやすいー津波も原発事故も現実に思えないということが未だにある)


●現実と空想の見分けがつかない時代


アメリカ人が現在住んでいる世界では空想の方が現実そのものより現実的である。
イメージの方がその原物よりも大きな威厳をもっている。
我々はこの困惑に正面から立ち向かう勇気をもちあわせていない、なぜなら我々のあいまいな経験は気持の良い色彩に富んでをり、またこしらえあげられた現実に対するわれわれの信頼は完全に現実的だからである。
我々は自ら進んで現代の大詐欺の共犯者となったのである。
我々は我々自身をあざむいているのである。
(幻影の時代-D.Jアースティン)


俳句で写生が基本といった時、それは現実人生にもあてはまる。人間の生活そのものが現代はイリージョンのようになっている。何か幻想化している。バーチャル化している。
インターネットでも現実ではないと思い事件を起こす人がいる。インターネットも現実の人間がかかわっているのだから現実の反映である。だから悪い人も入ってきて犯罪も行われている。こういう様々なメデアが発達すると現実が空想家幻想化しやすいのである。
現実と空想が一緒になっている。空想が現実で現実が空想家するのは普通になっている。例えば一千万の都市、東京とういうとそれがすでに現実のものと思えなくなる。
東京自体が一つの巨大な幻想都市のように見えてしまう。そもそも一千万の人間が飲み食いして生活していることが可能なのか?確かに江戸も百万都市であったが回りは農業していて糞尿を肥料として回収しにきていたのだから農業的社会だった。

だからそれほど地から離れた空間ではない、農業とと密接に結びついていたから大地から離れた生活でもなかった。東京のようなメガロポリスになるとどうしてそれだけの人間を養えるのだろうか?それだけの食料は膨大なものだからである。だから人間は実際は本当に食料を食べているのかとさえ思う。何か食料を食べなくても別なもので生きているような錯覚になる。まさにイメージの食料でも食べて生きているのかとも思う。
田舎で暮らしていると東京はすでに現実のように思えないのだ。
だからどうして東京のような所でアイディンティティをもてるのだろうかとなる。
自己同一性とはまさに自己と何を一体化するのだろうかとなる。
田舎だったらまだ自然があり山であり樹であれ石であれそうした自然の事物と一体化、自己同一化(アイディンティティ)しようとするだろう。
高層ビルの林立した世界では何とアイディンティティしていいかわからないだろう。
だからそこは狂気的世界になってしまう。そういう所で正常を保つこと自体異常なこととさえ思ってしまう。

現代の人間は現実を直視することができなくなっているのかもしれない、人生でも実際は厳しいものである。でも何かその現実を現実として生きられない、こんなはずがない、こんな現実こそありえない、これは幻想なのだとさえ思う。
あまりにも劇的に変わったことが起こるとそれが最初は信じられない、身内が認知症になったときもこんな病気があること自体信じられなかった。何がなんだかわからなかった。津波起きた時もそれも信じられないことだったしその後放射能騒ぎから街に人がいなくなることも信じられないことだったのである。
これらはあまりにも変わっているから日常的でないから信じられないものだった。
まさに現実が幻想のようにしか思えないという現象が起きている。
それは今も継続しているのだ。

津波にのまれて死んだ家族があり家がなくなり狭い仮設に住んでいる、そういう現実があまりにも変化が大きいから現実として受け入れられない、これは夢じゃないかと以前として思っている人がいるだろう。

第一津波自体が夢のように思えたのである。また原発で避難して仮設に住んでいる人も以前としてこれが現実なのかとその現実が受けいられない人がいるだろう。
その現実が受け入れられないとまず復興というのもありえないだろう。
なぜならこれは夢であり現実ではないとなれば現実を凝視できなければ復興もない。
なぜならその厳しい現実を認めたとき復興も再出発もありうる。
だから警戒区域で住めなくなった人たちはすでに帰るのあきらめて他で住むことを決断した人たちがいる。補償金もその人たち払うことを政府では決定したのである。
その現実を認めざるをえなくなったのである。


こうした大災害なくても人生には常に厳しい側面がいつでもあった。それでもその現実を認めたくない、これは一時期の夢であり何かいいことがある。努力しなくても何かいいことがある。幸運が天からふってくるように思う人も多いのである。だから宝クジが売れているのである。自分が最近つきあった人たちは厳しい現実を見ていない、でもいくら現実を否定しようとしても現実は嫌おうなく迫り現実を知らしめられる。


●シンデレラ幻想に陥りやすい現代


今のこの辛さ、悲しさ、惨めさは本来の姿ではない
今の私は真実の私ではない
これは現実ではない
本当はもっと楽しくて、嬉しくて、幸せなはずだ
そのために今のこの苦しみがあるんだ
耐えれば耐えるほど、後の喜びは倍増する
だから
今がどんなに辛くても、苦しくても、悲しくても我慢する
これは本当の私の姿ではないのだから!!
 
「きっといつか、あのシンデレラのように魔法使いのおばあさんが現れて、魔法をかけ、舞踏会へ行き、
王子様が私を捜し出してくれるに違いない。自分から助けてと叫ばなくても、助け出してくれるに違いない」
 
このように今の辛い、苦しい現実を否認し、ひたすら耐え忍ぶ
これを私は「シンデレラ幻想」と名づけた


白馬の王子様がやってくるとか幻想する。現実を肯定できずその現実から脱出しようともしないし何かしらの努力もしない、ただ来もしない白馬の王子を待っているだけである。
若い時から生活保護でありそれでも金がたりないとせびるだけである。生活保護内で生活することもできない、そして生活保護もやめようともしない、生活保護をもらってさらに金をもらい楽しようとする。そして現実を見ない、楽なことばかり思っている。
借金して借金の形にとられたようにパチンコ屋とかブラックな会社で水商売で働く、それが現実なのである。これは江戸時代でもそうである。遊女は借金の形にとられていた。

江戸時代は江戸で借金の訴訟が今より多いくらいあったということは江戸では特に貨幣経済が支配的になっていたからである。遊女になるということも厳しい現実なのである。

回りを見ればそうした厳しい現実に直面している人はいくらでもいる。田舎の安い市営住宅に入るのにも保証人が要求されいじめのようなことが行われている。弱者は保証人で結構苦労する。弱者というとき金がないだけではない、金があっても身寄りがないとか病人になったとなると途端に弱者になるのだ。常に人間には厳しい現実がありそれが嫌でも知らしめられる。その現実から逃れることができないのである。
誰かが助けてくれるというのもまたシンデレラ幻想になる。

特に借金している人はそういう人が多い。誰かが貸してくれると思い誰かに頼りやすい人が頼る。他人の金は自分の金だと思っている人が実際に結構いるのだ。

借金する人は現実をごまかし直視できない、借金してまでいい格好したい、俺は成功者だということを世間に見せる。でもそんな偽りの生活がつづくわけがない、それが大きなツケとなって現実化する。借金で首が回らなくなりもうごまかすことができない、一家離散にもなり最低の生活になる。それが現実となる。現実は容赦がない過酷さがあるのだ。
甘い夢は打ち砕かれてしまう。
俺は貧乏だ、お前は金持ちだからお前の金を俺に分けるのが当然だ、できなければ盗む、それは悪いことではないと思っている人が結構いる。ただ怖くてできない、度胸のある人はそうして犯罪者になる。それで警察につかまらない人も相当数いるのだ。
まず警察につかまるのはごく一部である。それも軽犯罪はつかまりやすい、大きな犯罪はかえってつかまりにくいのだ。千円二千円盗むとつかまりやすい、でも一千万と一億とかでも経理をごまかしたり盗むとかえって警察は証拠がないとかつかまらないのである。


●昔の自給自足生活は現実認識がしやすい


とにかく現代は複雑であり現実が認識しきしにくいのだ。例えば戦後十年くらいまでは江戸時代の生活のつづきだった書いた。基本的にさほど変わらない生活だったのである。
自給自足ということは生活する糧がほとんど身の回りにあったから現実を認識しやすかった。燃料は近くでとれた薪でありそれは近くの山にありその薪で炭を作っていてご飯を炊くのにも炭を使った釜だった。米だってほとんど地元のものであり野菜もそうであり食料は基本的には自給自足である。特に農家であれば味噌まで作っていたとか家そのもので買わなくてもまにわす生活であった。そういう生活は現実を認識しやすいのである。
その土地に密着して生活するのが現実なのである。
ただそこに厳しい現実があった。医療が発達しないから長生きできないし簡単な病気でも死ぬということがある。戦前は肺病などで死ぬ人が多かったから特にそうである。
江戸時代になると余計にそうである。一割近くが栄養失調で盲人だった厳しさがある。
常にいつの時代でも生きる厳しさが現実があった。

現代の生活はグローバル化したり交通が発達すると情報が膨大に行き交うと本当の現実が認識できなくなる。東京に暮らしていれば田んぼも畑もない、そしたら米がどうしてとれるのだろうということが田舎のように子供の時代から認識できないのである。
米がどうしてとれるのかを認識することは大事である。水の管理が大事であり水は山から流れてくるから山が大事になる。そして山が農民にとって神ともなる信仰が生れる。
米をとるということを通じて自然と結びつくことを具体的に理解するのである。

それが現代では食料でも地球の裏側からも入ってくるとするとどうしてその食料が果物でもとれているのか認識できないのである。スーパーに行けば果物がある。食料がいくらでもある。食料を手に入れるのは金である。だから金さえあれば何でも手に入るという認識しきか生れないのである。食料そのものより金の方が大事になってしまっているのが現実なのである。金がなければ飢え死にするし現実にこの豊かな社会で餓死している人もいる。

でも自給自足の生活だったら金がなくても生きていた。身近にとれるものがあり金がなくても買わなくても生きられる仕組みがあったからである。金の代わりに米を蓄えていた。だから農家にはどこでも蔵がある。蔵が富の象徴となったのはそのためである。
喜多方では競って立派な蔵を建てたのも蔵が豊かなものの象徴としてあったからである。貨幣ではなく蔵の方が富の象徴だったのである。
貨幣が普及しうていないときは村では飢饉の備えのために郷倉を建てて米を蓄えていたのである。それでそういう地名が各地に残っている。

この辺では津波や原発被害があり二週間くらい食料を買うことができなかった。
その時自分はたまたまあった米をたいてノリくらいの食事で過ごした。たまたま米があったから良かった。その米を尽きた。その時町で古米を配給したのである。それでまた助かった。米は農家などに蓄えられていたのである。それは郷倉と同じ役割を果たした。

その時金は何の役にも立たなかった。ガソリンが入って来ず車があっても役に立たなかった。一カ月以上それはつづいた。今は外から入るもので暮らしているのだから交通が断たれると致命的になるのだ。それで牡鹿半島とか三陸とかの津波の被害地域では水は裏山から歩いて運びを薪をとって燃料としたり原始的生活にもどったのである。それはまだそういう資源を活かす所に生きていたからである。
だから東京のような大都会になると大災害が起きたら一時的食料や水や燃料がなくなったら大パニックになる。何とか電気が通じていて米をたけたけど電気が通じなかったら米をたけないしテレビも見ることができないから何が起こったのかも理解もできなかったろう。現代は便利でも災害に脆弱な所がある。便利なものに頼りすぎるから一旦そういうインフラが崩壊すると生きる術もなくなる恐怖があるのだ。


●絵に描いた餅が現実と思っている時代


いづれにしろ原発にしても地元の人でもそれを理解できない、薪をとって燃やして暖をとったり米を炊いたりするわけではない、電気そのものがあまりにも便利であり生活実感として理解しにくい、ただボタンを押せば電気はえられるという感覚しかない、電気がどうして作られるのと問えばボタンを押せば電気が来るよとしか子供なみの答えしかないのである。電気は原発で作られる、どうして電気が作られるのとなると原発だったら説明すらできない、現実感覚がもてないのである。これだけ科学が普及すると科学が万能になり科学で何でもできるという幻想を抱くのも現代である。そして情報だけ膨大なものとなってあふれ情報にもふりまわされる。天文学的な情報を処理できなるものではない、するとそこで専門家のいうことにふりまわされ、マスメデアにふりまわされ、現実を認識できないことが起きてくる。金だって数字だというとき数字は突然ゼロになる恐怖が現実にある。モノは簡単にゼロにはならないが数字ならゼロになりやすい。だから金をいくら蓄えていても安心がないのである。

現代はみんなシンデレラ幻想に陥りやすいのである。こんなに豊かでも貧乏な人が増えている。でも貧乏とういうのも現実的に認識できない、ボロを着て物乞いしている人もいない、だから貧乏な人がいるということ自体現実に認識されにくい、それで隣でオニギリを食いたいと言って餓死した人もいる。昔だったら乞食して何とか食いつないだがそういうこともできない時代だったからである。何かそうした嫌なものが忌避され現実として認識されないのである。
俳句が写生だというとき「我がもとに冬の蠅よる見守りぬ」いうとき蠅というものは嫌だけど冬だと一匹くらいが弱々しくあるから見守れる、嫌なものでもそこにあることを許すとなる。この世には嫌のものでも避けられずある。それが現代では隠蔽されやすいのである。現実が認識できず空想に陥りやすい、

絵に描いた餅(もち)が現実化しているのだ。 
 
《どんなに巧みに描いてあっても食べられないところから》何の役にも立たないもの。また、実物・本物でなければ何の値打ちもないこと。画餅(がべい)。


この絵に描いてた餅が本当に食べられると錯覚されているのが日常的なのである。膨大な情報化社会もそれを促進させる。現実にありえないものがありえるとさせられる。実際に手にふれてじかに確かめることができないことが多すぎるからだ。だから情報は無限に増えても実感としてますます現実感がもてなくなる。テレビで戦争を見てもゲームのように見ている人もいる。それはテレビで見ると自分に害がないのだから面白いとなるのである。テレビでの事件も自分に害なければ興味本位になる。だから同情心も育たないということもある。他人の不孝を楽しむのがテレビや報道にもなる。


ともかく津波であれ今でもこれは夢ではないのか?頬をつねってみる、原発事故でも避難して各地の仮設に住んでいることも何か現実としてまだ認識できないことがあるだろう。なぜこうなっているのだということが現実として認識できない、でも狭い場所にすむことや故郷に住めなくなったことは現実なのである。家族を失ったことも家がなくなったことも故郷に住めなくなったことも現実なのである。その現実の厳しさを生きなければならないということである。そういう自分もここ六年間は厳しい現実をつきつけられ生きねばならなかった。何か詩人というと空想的になりやすい、そういうことも許されていたがここ6年間は厳しい現実をつきつけられて必死だった。人は簡単に助けない非情もしった。
みんな人はいい人だと思っていたが他人は人の弱さにつけこんで平気で人間の心を踏みにじる火事場泥棒でも何でも金のためにするとかその非情さ残酷さを知った。これも厳しい世の中の現実だった。だから宗教で愛を口で言うの簡単である。それを実行しているのはほとんどいないこともわかる。偽善になっているのもわかる。現実社会は弱肉強食の世界であり自然界と同じである。人は簡単に人を見殺しにするの非情社会である。
甘い幻想は打ち砕かれたのである。

 
 
posted by 老鶯 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連