2013年12月26日

葉牡丹(写生が芸術の基本)

 

葉牡丹(写生が芸術の基本)

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我がもとに冬の蠅よる見守りぬ
路地裏の道に葉牡丹雀来る
十数輪塊りとなり冬の菊

葉牡丹にニチニチ草や駅舎かな

山茶花の白と椿の赤映えぬ日のさし今日もこの道を行く

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毎日同じ道を行っている。仮設の食堂は何か街になじんできた。あそこは大原の人がやっている。だから大原の人が集まっている。でも客はめっきり少なくなった。
最初は小高の人がやっていると思っていた。大原も地域的に放射線量が高いから130戸の内どれくらい避難生活しているのか?
原町区でも避難生活している人はいる。

俳句は写生だという時、意外と簡単にできるとも思える。葉牡丹に確かに雀が一匹きていた。それは見たままなのだ。そしたら写真を撮るように誰でも作れるのではないかとなる。ただその写生の句に意味を見いだすのは各自がすることになる。

抽象画でも意味を見いだせないものは何も価値あるものと見ない
芸術そのものが一般人は高等な芸術を鑑賞できないと同じである。
芸術は鑑賞力がないと創作しなくても鑑賞もできない。

クラシック音楽などは特にそうだろう。クラシックでも自分は音楽を聴いて自然をイメージして聞いている。多様な自然も音楽化できるものがある。ただ音楽もだから抽象画とにていないこともないのだ。
ピアノは何か自然をイメージしやすいということもある。インターネットでいつでも放送しているから聞いている。現代音楽は特に古典とは違い何かをイメージする音楽となっていないか?

芸術には絵画的なもの音楽的なもの詩的表現と建築でも一体になると荘厳なものとなり総合的なルネサンスが生れる。
現代は芸術でもパ-ツ化しているから全体として感動するものがない、そこに何かいつも不満が残る。

芸術というといろいろあるし庶民に近づきにくいものもあるが基本的には写生である。
写生すればありふれたものでもそこに価値を見いだす、だから写真でもただ撮っているのではなく何らかのその人の見方価値観が反映しているのだ。
ロボットではないのだからそこに人間の感性をよみとることになる。


ともかく今年の秋から年の暮までは相馬市にも行かなかった。近くで買い物とかしていて家事に追われる生活であった。
だから毎日決まった道を行くだけである。
ただそうした平凡な道でも美はあり詩はある。


写生という時、冬の蠅がよってくる。それを見守っている自分がいる。蠅は嫌なものだけど見守っている。ただ冬だと蠅もそれほど避けるというものでもない、卵も生んだりしないし繁殖もしないだろう。ただ蠅もまだ生きていたのかと思う。
結構寒いからそう思う。つまりこれも写生なのである。あるがままをじっと見ていることが写生なのである。ただ意味を価値を見いだすのは各自の感性だとなる。