2013年12月25日

冬の暮(路地裏の道)


冬の暮(路地裏の道)

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冬晴れや新築の家木の香り

枯菊のなお陽にあたたか路地の裏
枯菊のここに塊り数十輪
路地曲がり仮設の飲み屋や冬の暮

群れなして帰る烏や冬夕焼

道の駅老人たむろし一日の長くもあれな冬のくれかな
故郷の冬の山脈陰影を深くし静か老人の住む
欠ける月冬の夜半過ぎ光るかな弱りゆく母我の看(み)るかも

近くに家が建つのを見ていると違う。露になった新鮮な木を感じる。


木は生き物である。木はだから呼吸しているし若く老いもするのである。
なぜ伊勢新宮で20年ごとに遷宮して新築の社を建てるのか?
やはり木は生きものであり常若(とこわか)ということを好むからである。
日本は木の文化だというときそこに何か日本人がもっている本質的なものがある


枯菊というとき老人をイメージする。陽にあたたかというとき老人にやさしかれということだが今は老人が多いからそうはならない、老人といっても今は70以上だろう。
それだけ若くなっているのだ。知り合った人は皺が多いから75歳くらいにしか見えない
あの人は例外である。


毎日同じ路地裏の道を行く、路地裏には路地裏の情緒がある。人間は何か道に影響される不思議がある。六号線と旧街道を行くのとはまるで違ったもの感じるから不思議である。だから相馬市の城下町は路地が多く曲がっているから違ったものを感じる。
ただ路次はどこにでもある。


ともかく毎日買い物やら料理やら介護やら忙しい。今年はついに仙台に行ったのは一回だけだった。こんなことが今までなかった。6時ころまで家にいるとなると遠くに出れなくなる。毎日が家事でありこの家事をうまくやることはかなりの年月がかかる。
ても結局今は何を買うかが意外と問題だった。家事の道具でも料理をするではなく料理されたものを買うのが一仕事なのである。
料理自体ほとんどししていないからだ。だからなんとか時間を作りほかのこともできる。時間の節約になるのだ。


今の時代は老人で暇をもてあましている人が多い。相馬市の道の駅では毎日部落の暇な老人が集まっている。あそこて暇つぶししているのだか一日が長く感じるだろう。
外に出ないと旅もしないと一日は長く感じる。
でも自分の場合、一日が長いと感じた時は余裕がててきたときである。
やることがつぎつぎにあるのだ。ハソコンやインターネットでも手間をくうから時間がかかる。だから何かめんどうな設定などするのも嫌になる。
年取ると何かめんどうなことがしたくなくなる。
パソコンはなれているからできるが新しい技術を取り入れるのはめんどうになるのだ。


まあ、若いと田舎は刺激がないと感じるだろう。繁華街もないし退屈に感じる。
でも田舎は芸術の創作には向いている。学問するのにも実は文科系なら向いている。
宗教でもほとんど山にこもるとか普通の田舎より山奥にあるのだからそこを修行の場としていたのだ。だからカルト宗教団体などが都会を中心に会員を広げているのはもうそれは宗教ではない、政治になっている。

老人になって避難して都会の方に行った人は帰りたいだろう。東京の方に避難した人もいる。若い人ならいいかもしれないがやはり田舎に住んでいた人は嫌だろう。
まず人ごみとか騒音とかか嫌だから住みたくない、まあ、老後が長くなるとたしかに時間をもてあます人が相当でてくる。特に旅もしない外に出るのも6時ころ帰るとなると余計にそうなる。