2013年12月23日

山眠る(みちのくは癒しの場であり変るべきではない


山眠る(みちのくは癒しの場であり変るべきではない)

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みちのくの山々眠る遠き里

雪の尾根遠くに煙り朝に映ゆ
落葉踏み残月光り朝の墓地

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みちのくとは今でも東北はそういう位置にある。新幹線だって京都から来れば遠い、みちのくはやはり道の奥である。みちのくを生活づけたのは芭蕉という一人の詩人だったことだから詩人の役割も大きかった。
みちのくは大阪や京都や江戸から遠い、今でも東京は確かに近いけど離れていることに意味があった。
東京のような巨大都市になるともう眠らない、眠らないということは休むこともできない、心を休ませることもできないのである。
冬でも休まない、眠る山もない、そこには安らぎはない。
自分の場合は特に大学を東京で過ごしてから性格的なものがあって隠者のようになった。だから東京は自分には向いていない。もうそこは巨大な坩堝(るつぼ)でありその坩堝にのみこまれてしまう。

スカイツリーなど見て何がいいのだろうかと思う。何も美的なものはない、ただ高いというだけなのである。五重の塔には美があっても東京タワーやスカイツリーにはない、
エップェル塔には美があった。美がなければ索漠となる。

田舎にはどんなところでも美がある。
昨日の未明に日下石(にっけし)の小高い丘の墓地に上って見た飯館の方の雪に閉ざされていた。あそこはビューボイントであった。
松川浦の方も見えるからあそこはもともと津波でわかっかたよように海が深く入りこんでいた。だから海と山が見える美しい場所だったのである。
近くでもまだ美を発見されていないのだ。近くはみんな平凡化して美を見いださないのである。

いづれにしろ冬はしんみりとして世の騒擾を忘れて山眠るとなりたいがこの辺はそうもいかない、以前として混乱はつづいている。
今日、桜井市長が一軒一軒一人でビラを配りに来ていた。
そしてはじめて桜井所長のじかに見たのである。
ずいぶん小柄な人だと思った。あれでもマラソンなどしているから体力はあるのだろう。自分はマラソンなどできない、100メートルでも走るとぐったりして走れなくなるから
やはりマラソンを走れるとなると相当に体力がある。
まあ、今回の一月早々に選挙だけど桜井市長が当選することはむずかしいだろう。
何もしていないとさんざん言われているからだ。
マスコミとかそんなところばかりに目を向けて現実の市政能力はないと言われている。

相馬市長は現職が当選したけど南相馬市はどうしても無理である。

相馬市長だって選挙まじかに立候補した人が200票くらいの差しかなかった。
これだけ相馬市でも不満が多い、復興は進んでいないからである。
南相馬市はもっとひどいから桜井市長が当選するのはしりえないだろう。
ただ一軒一軒市長自ら回ると親しみ安くなる。
親しみ安い人なのか好感はもった。
選挙とはなるだけ実際に握手するだとか顔見せろとどぶ板選挙を小沢が言っていたことは本当である。特に市長選挙となると身近になるから余計にそうである。
市民と距離が近く感じるからである。
だから意外とあのように市長自ら回って歩くことは効果があるだろう
でも当選するのは無理である。

ともかく山眠るというとき飯館村は遠くなってしまった。村自体に人が住んでいない。
でもまだ里があるようにも思う。
遠い里というときもともこの辺でなくても交通が不便だったら車もなければ
みんな遠い里になってしまうのである。自給自足で村はそれぞれ閉ざされて暮らしていたのである。
とにかく冬はじっとして回想にふけってものを書いたりするのが向いている。
囲炉裏というのがなんともそういう場に向いていたのである。
折たく柴の記とはそのことだった。そういう悠長な時間が消えてしまった。

みちのくは東京のようになってはまずい、みちのくは癒しの場として今もあるべきなのである。ただ経済的には問題でもそういう場所がなかったら耐えられなくなるだろう。
精神的な安らぎの場所として必要なのである。
そういう精神的価値を東京の人も認めるべきなのである。