2013年12月19日

食べ物を得る過程が見えない時代 (鶏を殺す場面を見たら食べられなくなるー電気も同じだった)


食べ物を得る過程が見えない時代

(鶏を殺す場面を見たら食べられなくなるー電気も同じだった)


●牛を殺すために飼っている矛盾

「牛も私たちの家族のようなものです」とか言って
どうせ死ぬんだし何で今から泣いてんのって思いました


だから余計不思議に思います。
農家だって嫌でも牛を売らないと食べていけないわけですが、
嫌なら最初からそんな仕事しなければいいと思います


外から見るとこういう感情を誰でももつだろうな、飯館村でも飯館牛で売り出していたけど10頭もの牛に名前をつけて家族なんだよ、だから避難しても仮設でその牛の名前を記憶していて呼んでいた、でもそんな家族のようになる牛を結局肉牛にするのだから何か矛盾している。ここでもそんなに牛に愛情をもったりするのなら牛など飼わない方がいいと言っていた。自分もそれを感じていた。

農家の人の暮らしは田舎に住んでいてもわからない、鶏をしめて殺すというけど首を切って血抜きするというものもそれを見ていたというからそういう場面を見たら鶏の肉など食べれなくなるだろう。現代はそうしてどうして豚肉であれ牛の肉であれ鶏の肉であれどうしてもたらされるのか実感できない、肉片としてあり実際は動物が血を流して苦しんでもたらされたものだとは実感できない、そこに現代の消費生活の落とし穴があるのだろう。汚いもの醜いもの残酷なものが隠されていて何でもきれいなものとして提供されている。

農家の暮らしなどに通じていればそういうことはない、農家は昔なら一つの自給自足の家であり何でも自家生産していた。味噌でも作っていた。そういう場所で育つと人間は明らかに生産するものと消費するものが一体化するから理屈ではなく具体的に実感として生きることとは何なのか、何をどうして食べて生きているのか理屈ではなく日々の生活で会得する。その人は農家の出だから農家的なものが身についているのだろう。ただ農家に嫁いだのではなくその後は農業などしていない、ただ鶏を殺し血抜きするのは今でも行われているのだ。


自分は最近はほとんど肉類を食べていない、牛肉はほとんど食べていない、肉類もほとんど食べていない、たまにレストランで食べるものがない時ハンパーグなと食べる、肉類もたまに食べる。何カ月も食べないことが多い、不安として運動すると年のせいもあるが筋肉の疲れがひどくなる。だから最近あまり激しい運動はしていない、筋肉を強化するのにはどうしてもタンパク質であり肉類を食べる必要もある。ただ一般的に年取ると肉類は減る。野菜が不足するのて野菜を食べたいと思う。ただ野菜料理はめんどうなのでこれもへっている。野菜は新鮮なものを食べるのがいい、やはりコンビニの弁当などは新鮮でないから食べない,新鮮であれば確かに体にいいのだ。魚でも野菜でもとれたてのがいいのだ。それで漁師でも農家の人は新鮮なものを食べられるからいいのである。


●仏教は動物を殺すことの禁止から始まった


いづれにしす肉食には動物を残酷に殺すということで抵抗を誰でも感じるものである。だからそこから宗教が生れたのである。インドでは牛を食べない、牛を今でも崇めている。牛が堂々と道を歩いている。猿も神の使いとして大事にされたりする。こういう国だから仏教が生れたのである。仏教はもともと動物でも殺傷を禁じることから生れたのである。草木も成仏するというとき明らかに万物に仏性かあるというとき、殺して食べるということが罪深いものとなってしまう。インドにベジタリアンが生れたのもわかる。
仏教の思想も実際はヒンズー教に由来しているから根は一つである。動物を殺すことに抵抗を感じていて殺すことに罪意識をもったのである。これは人間にとって自然な感情である。

法華経でも飢えた虎が子供の虎を食おうとしたとき自らの身を与えたことから発している。これは普通はそんなことまでするのかとなる。ただそれほどまでに動物を見ていて感じるものがあった。こういう思想が生れ実践されたのもインドだったのである。イントと中国はその国民性が違っている。中国は三国志など権力に執着する権謀術数の社会である。インドの成り立ちはヒンズー教でありこれは仏教の基になったのだからインド人と中国人は違うということでインド人に親近感を覚える日本人も多い。ただ現代は仏教という思想は廃れ現実社会は欲望と利己(エゴ)の追求するグローバル化社会となった。


仏教とは何なのだろうとなるときそれはすでに失われたものなである。檀家宗教で戒名商売しているようなものは仏教ではない、カルト宗教団体も本来の仏教とは何ら関係ない。仏教ももともと崇高なものであり経済的欲望を満たすようなものではなかった。
宗教はただ現世の欲望を満たすためのものだけになっているのはすでに死んでいるということである。現代の宗教はあらゆる人間の欲望を満たす科学なのである。
科学に誰も敬服してやまないのは人間の欲望を否定しないからでてある。あらゆる欲望がかなえられるものとして科学があるからである。現代の宗教は科学と経済しかない、宗教はそれに仕えるものにすぎなくなったのである。それは人間の欲望の無限の拡大でしかないのである。


●電気ももたらされる過程が見えない故に原発事故が起きた


現代が失ったものは農家の暮らしのように何か自然のなかでの実感する生活である。
現代は大量のモノにしてもどうして作られどうしてもたらされるのか実感できない、ただ金を払えば何でも手に入るという感覚になりただ金が欲しい金さえあればすべての欲望をかなえさせてくれるとなる。鶏肉にしてもそれがもたらせされる過程を見ていないのである。あらゆるモノにしてもそうでありただ金を払えば買えるという感覚しかないのである。昔の農家だと実感としてどうして食べ物が得られるのかそれが生産と消費が一体化して理屈ではなく実家として知らず身についていたのである。

電気にしてもどうしてもたらされるのかその過程がまるでわからない、ボタン一つ押せば電気は得られるとなっている。ただ金を払えば得られとなっている。でも原発事故でわかったようにその電気を得ることは住んでいた場所に住めなくなる、そして実際はその電気を起こすことは石油であれ石炭であれ膨大な資源を得る必要がありそれはコストがかり危険なものでもあった。石油を中東から得るために戦争にまきこまれたりすることもそうである。これが昔のように薪だったり炭だったりしたらそれほど危険なものにならなかった。ただその過程が理解されていなかったのである。

それは一見肉を食べるということと関係していないようで関係していた。なぜなら肉を食べるまでの過程が見えないからである。肉になる過程を見ていれば残酷だなと実感する。電気にしても電気をできる過程をよくみていれば原発は危険なものであることを知る。
電気は魔法のように得られるものてはなかったのである。ただそういうふうに錯覚させられていたということである。

車にしても便利なものでも車はガソリンがないと走らない、そのガソリンが原発事故で入ってこなかったときいかに苦労したか?それは車なしで電気なしで生活が成り立たない、
でも車もなくて電気もなくて生活していた時代は50年前とかで普通にあったのである。

実際はここ50年間での凄まじい変化だったのである。歴史が2000年としてもこの50年の変化はあまりにも大きすぎたのである。だからまた石炭であれ石油であれふんだんにあるということはつづかない、それで原発ができたのだけどこれも安全ではないからそこに文明の限界が生れ崩壊に向かってゆく予兆が今回の事故だったともなるのだ。

この凄まじい変化は文明の破滅に向かうことになる。そういう前兆がこの辺で起きた原発事故のようにも思えるのだ。これは単なる事故とは違う、全人類に深刻なダメージを与える事故だったのである。人類の生存が危うくなる事故だったのである。
最近地球に起きてくる自然災害であり何か地球が限界に達して起きているような不安を感じてしまうのである。地震にしても規模が大きすぎるし台風にしてもそうだった。津浪も想定を越えたものであり想定が越えて災害が地球に次々に起きてくる恐怖を感じてしまうのである。


●昔の生活をふりかえり将来を考える


橡媼嘆(橡媼(しょうおうな)の嘆き)  皮日休(ひじつきゅう) 

          

         五言古詩   

    

            橡の実を取る老婆女の嘆き

  

    はや秋も深まり橡(とち)の実は熟し雑木林に散らばり落ちる

  腰折れし白髪(しらが)の老婆がこれ拾ひ朝まだ早く霜踏み歩く
  時間かけ漸く手のひら一杯の実をとり一日(ひとひ)で籠に満つ
  幾度(たび)かさらし幾度かまた蒸して冬三か月の食糧とする

漢詩の原文
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8328/cha/hijitsukyu.htm


栃の実を集めて会津の方で栃餅にするけどこれもまたあく抜きしたり手間がかかる。
どうして食料を得るのか?これだけの労苦を得て食料を得てきた。
わずかなのでも貴重でありその苦労して得たものでなんとか冬を越せる。
そういう生活を延々と人間はしてきた。燃料は近くの森でとれる木であり薪にして冬ごもりして冬を越す、そういう生活はわかりやすい、身近に日々生活することか具体的に見えるからだ。そういう自給自足の生活は外部から入ってくるものに頼らない、ほとんどのものを村内くらいでまかなっていた。
そういう生活が戦後十年の子供時代に経験した。燃料は炭であり炭は山でとれた木を材料にしてるから枯渇するということはない、原発なとの危険なものに頼ることのない生活である。


現代のグローバル経済はもうこうした生活とはかけ離れたものであり地球の裏側から食料が入ってくる。
結局家事をすると何を買うのかという消費生活になる。何かその土地のもので自前でまかなうことが極めて少ないし見えないのである。
もちろん原発などは近くにあってもかかわることができないものでありその土地に住んでいる人でも魔法のように電気が生まれとしかならない。
ただこの漢詩のように人間の労苦は省かれ見えなくなった。
要するにこれまでは人類の歴史はモノを自ら生産して自ら消費する自給自足の正割か戦後10年くらいまでつづいていたのである。それが戦後十年過ぎ急速に高度成長になり変わってしまったのである。


そこに何か原発を生み出した科学が万能となり科学がすべての人間の欲望をかなえられるという信仰のようなものにもなった。
そういうあまりにも便利な豊かな生活には落とし穴があった。
電気は相当贅沢なものでもそれがどうして作られのか意識できない、こんなふうにして老婆が栃の実を拾っていてそれをもらったりしたても一つの実でもおそろかにできないだろう。だからもったないとなり戦前生まれや同年代でもそういう人がいた。普通は確かに団塊の世代は子供時代は江戸時代だった。その江戸時代から急速に豊かな時代を経験する世体になったのである。ただその中でも貧乏な人は同年代でもまれだがいたのである。そんな貧乏なの人がいるということ自体、老人でも格差社会になっていた。

いづれにしろこうした豊かな社会はやはり終わりを告げるのかもしれない、そんて豊かさが維持できるのか疑問なのである。

ただそれが日常になったとき、人はそれが当たり前だと思うようになる。だからもうこのうよな貧乏には耐えられなくなる消費生活には金が第一だとなり人間のモラルは消失して荒廃してしまったのである。どういうわけか希少動物のように貧乏な人がいて紙一枚も無駄をしない、一粒の米をていねいに残さす食べるのは昔の人である。米あまりの時代にはそういう感覚は消えてしまった。それが何らか罰として自然からの災いが起きることがあったのかもしれない、その罰を受けたのが原発事故の被害地域でありそれがここだけではない地球規模でもそういう大きな事故があり被害になる。環境破壊になることが予測される。これ以上の経済成長などは本当はグローバル的に無理だということが見えている。でも実際はあくことなく経済成長を求め止めることができない、欲望は止めることができないのである。
そしてこんなに食料やモノを消費して捨てているというのも何か空恐ろしいということせある。
そのツケがいつか自然から払わされる、そんなに無駄にした人間は許せいないと何か大きな災害が文明の自壊現象が起きてくる不安があるのも当然なのである。モノがありすぎるから人間は自然にたいして感謝しない、ただ足りない足りないと不満だけがある。
そして権利ばかりを主張してくる。そして遺産争いで兄弟も子供も敵対してしまう悲しさがある。
モラルの荒廃はやはりこうした人間の基本的生活の大きな変化が影響していたのである。

 
 
posted by 老鶯 at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連