2013年12月28日

雪時雨(今年は古い縁を切り新しい人との出会いがあり終わる)

 

雪時雨(今年は古い縁を切り新しい人との出会いがあり終わる)


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市営住宅-部屋が三つある、下一部屋あり二回に二部屋ある



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寒椿日のさし映えぬ朝の内

路次の道午後の日さして寒椿
風吹きて体にしみぬ寒椿
この町に目立つものなし雪時雨
寒雲や労務者働く外部の人
老いあわれ狭きも我が家寒雀
陽の没りて茜の雲や枯芒

年の瀬や路次を巡りて町暮れぬ

我が家に亡くせし妻の茶箪笥の一時ありて冬のくれかな


今年も終わりになる。今日は雪時雨だった。雪時雨というのに遭遇したのは初めてである。俳句にしたのも初めてである。小さい固い粒であり最初は雹かと思った。
でも明らかに雪時雨である。なぜならあとは晴れて行くからてある。
体に寒風がしみて椿が一際赤く映える。

写真の住宅は外から見るといかにも狭い寒じがする。でも下に六畳くらいの一部屋があり廊下があり台所があり二階にも二部屋ある。意外と広いなと思った。家は外から見ていただけではわからない、狭いと思っても広いこともある。これは奥行きが意外とある。
実際に中に入ってみたからわかった。

離婚して家がなくなっていた人を世話して引っ越ししたので中を見せてもらったからだ。なんか自分の家に来る人は離婚した人が多い、四人は離婚している。それも60代でありその人は二回結婚して離婚している。前の人は子供がいる時離婚している。
なかなか子供がいると離婚できないと思うが離婚している人も今は多い、離婚して生活がとをなるかというと母子家庭は生活保護を受けやすいとういこともあり離婚しやすいのが現代である。それて父子家庭か増えているのもわかる。それで子供虐待したとか事件が起きた。

人間は要するに男女でもうまくいかない、離婚するのも結構楽じゃない、その人はやっと住宅を借りることができた。田舎では家がなくても市営住宅でも安いし部屋が三つもあるのだから恵まれている。東京辺りだと二部屋で七万とか軽くとられるから住宅に関しては田舎は恵まれている。一軒家に住んでいる人も多いからだ。それで4千円とかの家賃なのてある。

その女性をつきあっていたら本当に寒雀だった。なぜそんなに貧乏なのだかとも思った。でも性格はいいしめずらしい昔風の女性だったのである。貧乏で質素だから本当に寒雀にぴったりである。無駄をしないしもったいないとものを浪費しない、というよりはできない貧乏なのである。60代でも格差がひとぐなっているのだ。
それで一人は信じられない泥棒、犯罪者になったが今でも近くに住んでいる。


最近思うことは60代からは熟年離婚も増えてくるのかもしれない、それから単身者も増えてくる。現実に一人暮らしの老人が多いのである。そういう一人暮らしは別に結婚していても夫か妻が死ぬと一人になる。それで大変な苦労したと泣いたということを聞いた。
妻が早く死ぬと男は家事で苦しむのだ。
現代の家族関係でも高齢化の人間関係はこれから新しいものに変える必要が出てくる。
これまでのおじいちゃんおばあちゃんとして大家族でいられないからだ。
実際に嫁に姑が追い出されるということも起きている。
おじいちゃんおばあちゃんが家で一緒に暮らすという人は相当に恵まれた時代なのである。

だから60代以降の一人暮らしの人が増えてくる。そういう人たちは今までの大家族でおじいちゃんおばあちゃんとして存在感がもてない、もちろん子供もそういうふうに待遇しない時代である。高齢化社会ではそうした一人暮らしが膨大に増える。

だから一人暮らし同士か何らか助け合うような仕組みが必要になってくる。
そこて今までの家族感とか老人はこうあるべきだとかの古い考えをするとうまくいかない。自分も一人暮らしになり助けがなくなりひどいめにあった。
自分のような深刻な状態になる人がこれから膨大に増えてくる。

高齢化社会は今までにありえないことが起きる。それには今までのような古い考え方では対処できないのである。大家族ではない老人同士の新しい友達関係のうよなものを作らねばならなくなる。それは親戚関係とも違うのである。
ただ人間はみんなそれぞれであり何でも共同することはむずかしい。

でも60代以降は今までの家族関係や親戚関係やそういうものが崩れている時、新たな関係を作ることが必要になっているのだ。
その女性は性格がいいから自分も世話になることがあると思い助けた。
自分はとにかくこの六年間辛酸をなめて誰にも助けられなかったということで恐怖を感じている。だからこちらから積極的に何であれ助けていれば助けられると思って助けたのである。その女性は近くの一人暮らしの男性か津波の被害を受けた時助けたのでその男性と親しくなっていたのである。


その75になる男性の亡くした妻の茶箪笥が三カ月くから我が家にあったというのも不思議であった。それは苦労して働いて妻に買ってやったものだったという。
何かモノにはその人を思い出すものが残っている。モノだけは人が死んでも残るから意外と手放せないのだ。それてゴミ屋敷になっていることもわかる。
妻の思い出がその茶箪笥とともにあるような気がしたからである。


寒雲が寒そうだがこの辺で働いているのは外部の人が多い。仮設の人は補償金でパチンコなどしているというのも変である。
働いている人も寒いところで働くの大変だろうなとなる。
でも自分はこの寒さに弱いのだが寒さが気持ちいいということもある。
自分はどんな天候でも買い物で外にでる。外の空気にあたらないと気分が悪くなるからだ。
今日は確かに特に寒いから雪時雨になったのだ。

ともかく今年は一回だけ仙台に行っただけであり近くを行ったり来たりしているだけだった。それでも忙しく今年も追われて一年か終わりになる。

今年の自分の十大ニュース (人間は弱者化したとき虐待したものを絶対に忘れない)

 

今年の自分の十大ニュース

(人間は弱者化したとき虐待したものを絶対に忘れない)

●身体障害者,病気から解放ささた
●近くの親戚の縁を切った
●遠くの親戚の縁を切った
●相馬市の花屋でフォトブックを作った
●新しい人と知り合った
●一回だけしか仙台に行かなかった
●ヤマハの電動自転車を買った
●ウィンドウ8を買った
●株があがり少し利益が出た
●庭の小松を一本切った


今年は去年までと比べるとかなり余裕があった。去年までは苦しみの連続だった。去年は手術もしたし苦しかった。でも身体障害者から解放されたことが最も楽にしたことだった。あのままだったら自分は悲惨な境涯から抜け出れなかった。
何であれ人間最大の不孝が病気であることを知った。
病気になれば金があってもどうにもならない、不孝のどん底になるのだ。
金で直るかといえは直らない、いくら金を積んでも直らないものは直らないのである
だから単身者とか身寄りがないとか頼るものがない人は病気ほど怖いものはない
介護もされないし同情もされない
医者や看護師でも家族をみていないとぞんざいにされるし虐待さえされる
それは老人ホームでも起きている。
病人が虐待されるほど怖いことはないし辛いことはないのだ。

そういう仕打ちを受けたものは絶対忘れない
一方で親切にされたとか恩を受けたとかそういうことは忘れやすいのである
弱者を虐待したものは絶対に忘れない

だから韓国でも中国でも日本人に虐待されたとうらみ続けている
それは過度なものであっても虐待された恨みは人間は忘れない
そう思い込んでいる人たちは必ず復讐してくる
その復讐は実際は怖いものなのである
つまり弱者はいつまでも弱者ではない
逆転して強者になるとき怖いのである。
親でも最初は子供でも絶対服従だけど必ず年取ったりする弱者になる
その時子供だからと親か同情したり介護するとは限らない
その時しかえしをされる恐怖がある。
それは虐待された妻なども夫が弱った時、虐待されるのである

つまり看護師とか介護士でも医者でも弱者ばかり相手にしているひ職業は意外と危険である それは弱者を相手にしているからいつでも強者としてふるまう
だから弱者の気持が意外とわからない人も多い
特に看護師などは若いからそうした弱者の痛みを知らないことが多い
それて平気で弱者をいためつける無神経さがあるのだ
それは無神経でもあるといえるがやはり弱者のことを知らないからそうなる
かえって強者には気をつかう、社会的地位のあるものには気をつかう
でもなにもないものは平気でふみにじるということもある
福祉関係の仕事は相手が弱者だということで何か歪んだ性格の人が多いという
それは弱者を知らず虐待していることもある
だから看護師は天使にも悪魔にもなるという
弱者を扱う職業だからそうなりやすいのである

今年は親戚の縁を二つ切った、こさも結構苦しかった。
なぜ一方的に自分に対して要求することが多いのか
借金をかかえているから入院している時も脅迫まがいのことを言ってくる
全く同情がないのである。
借金に追い込まれているから普通の感覚でなくなっている
借金から犯罪に走る人が実に多いのだ
社内で情報がもれたとき、まず借金している社員を探せとドラマであった
借金している人はともかく追い詰められているから一番犯罪者になりやすいのだ

そして自分が苦しい目にあったことを話したら遠い親戚の人は笑っていたから信じられない、その人は全く相手のことなど考慮しない、何か病気でないかとさえ思う
ただ金をもらう権利だけを主張してくるのだ。
確かにわずかでも権利あったけどその権利すら実際はなくなっていた
そんなことてどかまわない金をもらう権利があるから裁判まで訴えるという
金に困っている人間は追い詰められているから脅迫まがいのことをしてくるのである

いづれにしろ縁を切るということは結構楽じゃない、離婚した女性を世話したけど離婚もなかなかめんどうなものである。若かったらあいてかストカーとかになり殺人までなっている。いかに深い縁を結んだら簡単に切れないかがこのことでわかる。
一方で「捨てる神があれば拾う神あり」というのも本当である。
世の中必ずそうなっていることが不思議なのである。
諺は人間が生きてきたことで繰り返し起こっていることだから諺になっていたのだ。
縁をきってもまた新しい縁はできる。人間はそういう繰り返しなのである。

今年の自分のニュースの最大のものはこのことであり他はたいしたことがなかった。
仙台に一回しか行かないということも今までなかったからニュースである。
何か小さな町を巡り歩いているだけだったともいえる。

後半になって新しいバソコンを買ったこと12月になってヤマハのマウンテンバイクの電動自転車を買ったことなどがありこれは良かった。
買い物はすでにアマゾンで百万以上しているかもしれない
計算はしていないけど家事の電化製品などを買っているからだ
家事をいかにうまくやるかかずっと課題だった
料理のコツを多少わかるようになった。
でも実際はほとんど料理はせずいかに買ったものですませるかが料理である。

今年は11月になり株があがってもとをとってわずかだが利益をあげた。
半分になったものをそのままにしていた。
でも株は下がるものということをあまりにも長い間に習慣化してしまった。
だから来年は株が下がる前に売ることが大事である。
「株は下がる」何かそういうふうにすりこまれてしまっている。
それだけ不況が長くつづきすぎたきである。

まあ、今年は自分にとって余裕がでた年だった、それでも日々追われていた。
来年はもっと余裕がでてほしい、でも介護などで追われ苦しいことが起きてくる予感はある。

6年間は苦しみの連続だったか今年は余裕が出たし来年はもっと余裕がでてほしい。
それが自分の願いである。

牛年(うまどし)だからやはり躍動的に走るということがあるのか?
新しい自転車でまだ走りたいということが自分にはある。
ただ筋肉の疲れがひどくなったので近間になってしまう
介護で行けないとういこともある
ただ自分にとって自転車にのることは最大の喜びなのだ
それを最近年取ってからも自覚するようになった
自転車に乗れなくなったら死にたいとさえ思うようになった
人間は年取ったからといって今までやってきたことをやめるわけにはいかないのだ
それはあらゆることに通じているのだ。
車に乗ってきた人はやはり死ぬまで乗りたいと思っている人もいるだろう。
旅してきた人はどこまでも旅したいと思う
ただついに体力が衰えできなくる。
そうなったら死にたいと思うのが人間なのである。

2013年12月30日

年の暮の短歌十首(南相馬市-金沢から北泉の道)

 
年の暮の短歌十首(南相馬市-金沢から北泉の道)


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一艘の貨物船行く冬の海

名もしれぬ神社一つや冬の暮
眩しくも放つ光や冬日没る
凍みし土マウンテンバイク踏み走る


二本の樹のまたここに冬日さし時を惜しみつ今日も立ちにき

越中の移民の墓や落葉踏みここにもありし金沢古りぬ
松の間に春の満月ゆくりかに昇るや金沢家々ひそけし
ここにしも家のありしと凄まじき津波の跡に残る二本の樹
貨物船今い出行くや金沢の津波の後の年の暮かな
正月と刻める碑二つ北泉津波の後の年の暮かな
泉の井戸案内板の字も薄れ冬の陽没りぬたずぬ人なし
一葉松くねりて枝の伸びにしや幹も太しく冬野に根づきぬ
陽の没りて幹の太しく一葉松津波の跡の冬野に立ちぬ
故郷の冬の大地に一葉松幹の太しも年を重ねぬ

ここにしも津波来たりぬ一葉松萱浜見つつ年も暮れにき

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金沢は鹿島からは近い、六号線で原町まで行く時、はずれても途中の道である。でも金沢について良く知らない、金沢は意外と地形が複雑である。田んぼになる前は浦になっていたとしても入り組んでいる。台地も多く家の配置も複雑である。だから北泉に家がある程度集中していたのはなぜか?それが今でもわかりにくい。
ただ延命地蔵神社というところにまるで古い地層を示すように江戸時代の年号を刻んだ碑が並んでいた。あそこも隠されるようにあったから注目していなかった。

「正月」と刻んだ碑が二つあった。明らかに正月に建てて祭ったのだろう。
正月だからこそ碑を建てた。昔は正月は大事であるからこそそうなった。
あそこは村の中心としてあった。ただ個数がそんなに多いと見えなかったからあそこにはあまり注目していなかった。


でも火力発電所が建つ前から自転車で自分は行き来していた。火力発電所がない前の海岸を知っている。崖があり砂浜がつづいていた。それは自然のままの光景だった。
そして金沢の砂浜に接して家が何軒かあった。そこは松原になっていた。規模は小さいがその松の間から春の満月が夕べ昇るのを何回か見た。それはすてに35年前となっている。火力発電所ができた風景は一変した。

金沢に越中からなどの移民の墓がまたあった。必ず移民の墓があるのが相馬である。
金沢はすでに元禄時代から開拓がはじまっていた。だから意外と古い。
八沢浦は明治になってからであり小高の井田川は大正になってから開拓された。
元禄というと古い、萱浜(かいはま)はその後開拓されたのだろう。
そこにも移民が入って開拓した。あの辺は移民が多いのかもしれない。


火力発電所もすでに30年とか建てられてから過ぎている。あそこには千人働いていたというからこの辺では雇用の場所となっていた。津波で被害を受けたとき復旧のために5000人働いていたというのには驚いた。それだけ大きいものだったのである。
貨物船が今でてゆくところだった。オーストラリア辺りから石炭を積んできた船なのだろう。ここの火力発電所は石炭を使っている。
津波からも復旧して営みがつづけられている。今は金沢というと火力発電所であり船が出入りして生活が感じられると変わってしまった。
それでもこうして営みがあるとき何か活きているものを感じる。
津波の跡の荒寥として景色の中を火力発電所は復旧のシンボルともなるのがこの辺である。
だから新しい火力発電所をまた小高の方に建てるというのもわかる。


ただ前から自分は八沢浦でも浦になっていたら美しい景色だったろうなとイメージして書いていた。それが一時八沢浦が本当に津波で入江に浦になった時ほど驚いたことはない、きらきらと波が春の光に寄せていたのである。それで八沢浦が元の美しい入江にもどったと写真をプログに出した。それは今でもかなり読まれているし一番読まれているものかもしれない。ただここで子供まで泥の中から死体で発見されたことをお前はどう思うのだというコメントがあった。これも確かにそこで死んだ人にしてみれば何が美しいだと怒りにもなるのがわかる。ただ津波というのは瓦礫の山だけをもたらしたのではない、わずかにしても美しいものを一時的見せたのである。それは信じられない光景だった。
奇跡とさえ思った。

今ダークツーリズムとか原発や津波の被害地を観光地として人を呼ぼうという計画が外部で成されている。これには自分が批判されたように地元の人はまだ受け入れられないだろう。そこは供養の地であって観光の地ではない。
30年くらいたったらそういうことも受け入れられるだろう。
ただ観光地として末の松山とかみちのくの歌枕が津波で見直されたことは確かである。
八沢浦にも古歌が残っていてそこにも入江だったときの都の人の歌が残されていたのである。八沢浦は都の人にとっても美しい場として知られていたのである。


一葉松まで津波が来たけどなんとか残るみたいだ。葉は枯れてはいない、海岸線でも小高の方で夫婦松とか名付けられた松が生きていた。葉は枯れていないのも不思議である。
海岸に接して良く生き残ったものである。それも奇跡的だった。
一葉松はやはり圧巻である。
ただ自然の事物は広い大地があって根付くものでありあそこから山の端に陽が没るときこの松も映える。


今度買ったマウンテンバイクはヤマハのであり坂に強いし悪路に強いから舗装されない脇道をかなり奥まで入っていける。そこに意外な景色が開けていることがある。景色はみる場所によって狭い場所でも違っているのだ。ただなんか自転車に乗ると筋肉が痛み疲れる。だからこれは年のせいである。あとどのくらいのれるかわからない。


六号線の塩崎へ行く川子の農家に二本の樹がある。あそこに冬の日が今日もさして生きているなと感じる。何か二本の樹が津波の跡にも離れがたく残っている。それは年輪を重ねた老夫婦のようにも見えるのだ。自然でも必ず人間を見ている場合があるのだ。
川子から海を望み森の道を行き金沢をめぐるコースは結構変化にとんでいる。

冬がしんみりとしてまたいいのである。津波の後に延命地蔵を注目するようになったのも変化だった。神社なども注目されなかったが注目されるようになった。

 
 

2013年12月31日

年の暮(我が常なる道)


年の暮(我が常なる道)

我が家に他人の家具や年の暮
年の暮他人の重荷我も背負う

幸うすき母にし尽くす我なりき食事与えれば笑い喜ぶ

よしこなる墓のあわれや人知らず埋もれけるかな今年も暮れむ
我が墓の前を通りて葉牡丹の四五輪咲きし常の道かな
何語る天保の碑忘れたる日々通る墓地年も暮れなむ
小さなる畑耕す女のあり我は知るかな冬の日暮れぬ
我が庭の風雨に耐えし松一本切りて残る根冬のくれかな
我が兄の別れて墓や原町に思う人なき年の暮かな
五年を我が家にありし兄なれど兄にしありと今年も暮れぬ
苦労して買いにしものと我が家にありし茶箪笥亡き妻語りぬ
人はみな他人の重荷背負うもの背負わされるもの年も暮れなむ


母は百才まで生きるのかもしれない、食事は朝は餅一つくらいで昼はおにぎり一つとあとは間食で菓子類を少々食べている。夜は卵をゆでて梅干し一つで食べるくらいである。
そんなで生きられるものかと不思議である。もともと梅干し一つくらいの食事だったのだから貧しかったから今もそれほど変わりないといえば変わりない、それにしてもこんなに小食人間は生きられるものだろうか?

母がやせていて体力はなかった。でもこつこつと働く律義な性格である。働くというより働かせられたというのが現実である。母を見ていると生きるのもこつこつと勤勉に生きている感じなのだ。食べるにしても真面目にこつこつと食べる。勤めのように食べているのだ。そういう性格だから長生きしているのかもしれない、長生きする人とはあういうタイプなおだろうか?決して無理はしない、こつこつと仕事をしてこつこつと食べて勤めのように生きている。学校で休まないで賞をもらったというのが自慢である。
本当に休まず80頃まで働いていたしその後をも家事をこつこつとしていたのである。
でもこういう人と一緒にいるのは嫌になるだろう。何の趣味もない、ただ蟻のように働くだけか趣味である。あとは一切関心しない、花にも何にも関心がない、守銭奴のようにもなっていた。そういう生を強いられたともいえる。

まあ、寝ているから一緒にいても別に気にかからない、でも一緒にいることは嫌になるだろう。

ただ自分は言わば複雑でも二人の母がいて一人は豪放磊落(ごうほうらいらく)な太った女性だった。その女性は死んでしまった。
死に方も急な死に方だった。認知症にもなったら無残な死だった。人の死に方は明らかに性格によって違ってくる。
豪放磊落(ごうほうらいらく)な人は死に方も何か極端なもの激しいものになり突然死んだりするのかもしれない、
一方やせた方はチビチビ細く長く生きる。
太った人は概して大胆であり太く短くになるかもしれない、自分の性格は母に酷似している。
ただ逆に自分の場合はこつこつ勤めるようなことは全くしなかった。
一生遊びだったともいえるからあまりにも違っていた。

自分には兄がいたとしても小さい時、五年間我が家に一緒にいただけである。
でも兄として覚えている。原町の母の実家の墓に埋まり交通事故で四〇歳で死んでいる。これも不思議な因縁だった。人間の運命は家系をたどったりすると本当に不思議になる。複雑な家庭の人は特にそうである。


ともかく今年は一回だけ仙台に行っただけであり毎日近くの道を行くだけだった。
よしこの墓というのは姉が認知症になったとき世話になったので自分の墓の隣に石に名前を刻んだものである。墓があってもその息子が名前を刻んでいないから名前を記して自分の墓のとなりにおいた。ただこれも誰もわからない墓である。
結局土盛るだけの墓とか墓も無縁化しているのが相当数ある。
でもあそこに天保の小さい記念碑がある。それは明らかに寺子屋があり手習いをした場所の記念だった。それは各地にありまちがいないだろう。


小さな畑を耕している女性を知っている。ネズミにジャガイモが食われたとかネズミの被害が多いのはこの辺が荒地になってしまったから広大の荒地がネズミの棲家に適するようになったらしい。それでノスリもすみついた。餌がノネズミなのだろう。
自然化するとノネズミなどがたちたち増える。するとそれを餌にするノスリなども増えてくる。他にもノネズミが増えれば餌になるから他の動物も増えるとなる。


今年はなぜか自分の家に他人の荷物が置かれた。茶箪笥も置かれた。そしてその茶箪笥に最近死んだ妻がついてきたような気がした。ものには思い出がありそこに愛着があり死んでも何かがついているのかもしれない、人間は死んでもモノはいつまでも残る。
だからゴミ屋敷があるけどなかなか思い出のものが捨てられないのである。

とにかく今年も終わった。今年もそれなりに違った年だった。ふりかえると姉が認知症になったのは二〇〇六年でありそれから二〇一三年になるから七年も過ぎたのだろうか?

その間は自分も病気になり苦しみの連続だった。
今年は身体障害者から元の健全な状態にもどったから楽な一年だった。
かなり元気も回復した。なんかまだまだやれるなという気分である。
ただ自転車に長く乗ると筋肉の痛みが激しいからなかなか長距離は辛い。
でもまた春になったら苦しくても遠くに行きたくなるのだ。

今年は縁を二つ切った。一つは簡単にきれたけどもう一つは今でも何か完全にきれたとはいえない。
でも人間はただ金だけを要求してくる吸血鬼のようになっている人がいる。
そういう人から逃れることは容易ではない、そんなことを漱石の小説にも書いていたらしい。何らか親戚に金のことで親戚に苦しめられていたのである。
金にまつわることは死ぬまで消えないだろう。地獄まで金に追われ金をめぐって人間はある。そうして死んだ親のことなどは忘れてしまっているのだ。

それでも不思議なのは還暦過ぎた辺りから親のことを思い出すふりかえるというのも不思議である。
自分の父親は丁稚奉公であり苦労した人である。
だから最後に病気になり「サシミ食えるようになっても食いたくない」と言って死んだ。サシミなどめったに食わなかった。生涯でどれだけ食ったのか?
それは数えるほどだったかもしれない、今の人は母でも食べることは食べた、だから食べることに関しては満足だろう。
父はまだ貧乏な時代に死んだのでうまいものが食べれなかったのである。
ただ鰻とか鮎は自分でとって食べていたからそとれがごちそうだったのである。


ともかく今年は終わりである。今年は七年間の苦労の連続から回復の一年だった。
来年はさらなる回復の年となってもらいたい。
病気から回復したことで気力もでてきた。
だから来年も自分自身に対して期待がもてるようになった。

路地裏の道


路次を曲がり
街中の墓所
よしこなる名の墓
埋もれて知らじ
天保の寺子屋跡の碑
忘れられしもの
枯菊あまた
葉牡丹の道
路地裏にさす日ざし
目立たざる日々の営み
復興住宅を建てる労務者
それのみは変わる
小さき畑を耕す土地の女性
今年もなにげなく暮れてゆく
その常なる路地裏の道

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では来年もプログをつづけますのでよろしくお願いします