2013年12月19日

食べ物を得る過程が見えない時代 (鶏を殺す場面を見たら食べられなくなるー電気も同じだった)


食べ物を得る過程が見えない時代

(鶏を殺す場面を見たら食べられなくなるー電気も同じだった)


●牛を殺すために飼っている矛盾

「牛も私たちの家族のようなものです」とか言って
どうせ死ぬんだし何で今から泣いてんのって思いました


だから余計不思議に思います。
農家だって嫌でも牛を売らないと食べていけないわけですが、
嫌なら最初からそんな仕事しなければいいと思います


外から見るとこういう感情を誰でももつだろうな、飯館村でも飯館牛で売り出していたけど10頭もの牛に名前をつけて家族なんだよ、だから避難しても仮設でその牛の名前を記憶していて呼んでいた、でもそんな家族のようになる牛を結局肉牛にするのだから何か矛盾している。ここでもそんなに牛に愛情をもったりするのなら牛など飼わない方がいいと言っていた。自分もそれを感じていた。

農家の人の暮らしは田舎に住んでいてもわからない、鶏をしめて殺すというけど首を切って血抜きするというものもそれを見ていたというからそういう場面を見たら鶏の肉など食べれなくなるだろう。現代はそうしてどうして豚肉であれ牛の肉であれ鶏の肉であれどうしてもたらされるのか実感できない、肉片としてあり実際は動物が血を流して苦しんでもたらされたものだとは実感できない、そこに現代の消費生活の落とし穴があるのだろう。汚いもの醜いもの残酷なものが隠されていて何でもきれいなものとして提供されている。

農家の暮らしなどに通じていればそういうことはない、農家は昔なら一つの自給自足の家であり何でも自家生産していた。味噌でも作っていた。そういう場所で育つと人間は明らかに生産するものと消費するものが一体化するから理屈ではなく具体的に実感として生きることとは何なのか、何をどうして食べて生きているのか理屈ではなく日々の生活で会得する。その人は農家の出だから農家的なものが身についているのだろう。ただ農家に嫁いだのではなくその後は農業などしていない、ただ鶏を殺し血抜きするのは今でも行われているのだ。


自分は最近はほとんど肉類を食べていない、牛肉はほとんど食べていない、肉類もほとんど食べていない、たまにレストランで食べるものがない時ハンパーグなと食べる、肉類もたまに食べる。何カ月も食べないことが多い、不安として運動すると年のせいもあるが筋肉の疲れがひどくなる。だから最近あまり激しい運動はしていない、筋肉を強化するのにはどうしてもタンパク質であり肉類を食べる必要もある。ただ一般的に年取ると肉類は減る。野菜が不足するのて野菜を食べたいと思う。ただ野菜料理はめんどうなのでこれもへっている。野菜は新鮮なものを食べるのがいい、やはりコンビニの弁当などは新鮮でないから食べない,新鮮であれば確かに体にいいのだ。魚でも野菜でもとれたてのがいいのだ。それで漁師でも農家の人は新鮮なものを食べられるからいいのである。


●仏教は動物を殺すことの禁止から始まった


いづれにしす肉食には動物を残酷に殺すということで抵抗を誰でも感じるものである。だからそこから宗教が生れたのである。インドでは牛を食べない、牛を今でも崇めている。牛が堂々と道を歩いている。猿も神の使いとして大事にされたりする。こういう国だから仏教が生れたのである。仏教はもともと動物でも殺傷を禁じることから生れたのである。草木も成仏するというとき明らかに万物に仏性かあるというとき、殺して食べるということが罪深いものとなってしまう。インドにベジタリアンが生れたのもわかる。
仏教の思想も実際はヒンズー教に由来しているから根は一つである。動物を殺すことに抵抗を感じていて殺すことに罪意識をもったのである。これは人間にとって自然な感情である。

法華経でも飢えた虎が子供の虎を食おうとしたとき自らの身を与えたことから発している。これは普通はそんなことまでするのかとなる。ただそれほどまでに動物を見ていて感じるものがあった。こういう思想が生れ実践されたのもインドだったのである。イントと中国はその国民性が違っている。中国は三国志など権力に執着する権謀術数の社会である。インドの成り立ちはヒンズー教でありこれは仏教の基になったのだからインド人と中国人は違うということでインド人に親近感を覚える日本人も多い。ただ現代は仏教という思想は廃れ現実社会は欲望と利己(エゴ)の追求するグローバル化社会となった。


仏教とは何なのだろうとなるときそれはすでに失われたものなである。檀家宗教で戒名商売しているようなものは仏教ではない、カルト宗教団体も本来の仏教とは何ら関係ない。仏教ももともと崇高なものであり経済的欲望を満たすようなものではなかった。
宗教はただ現世の欲望を満たすためのものだけになっているのはすでに死んでいるということである。現代の宗教はあらゆる人間の欲望を満たす科学なのである。
科学に誰も敬服してやまないのは人間の欲望を否定しないからでてある。あらゆる欲望がかなえられるものとして科学があるからである。現代の宗教は科学と経済しかない、宗教はそれに仕えるものにすぎなくなったのである。それは人間の欲望の無限の拡大でしかないのである。


●電気ももたらされる過程が見えない故に原発事故が起きた


現代が失ったものは農家の暮らしのように何か自然のなかでの実感する生活である。
現代は大量のモノにしてもどうして作られどうしてもたらされるのか実感できない、ただ金を払えば何でも手に入るという感覚になりただ金が欲しい金さえあればすべての欲望をかなえさせてくれるとなる。鶏肉にしてもそれがもたらせされる過程を見ていないのである。あらゆるモノにしてもそうでありただ金を払えば買えるという感覚しかないのである。昔の農家だと実感としてどうして食べ物が得られるのかそれが生産と消費が一体化して理屈ではなく実家として知らず身についていたのである。

電気にしてもどうしてもたらされるのかその過程がまるでわからない、ボタン一つ押せば電気は得られるとなっている。ただ金を払えば得られとなっている。でも原発事故でわかったようにその電気を得ることは住んでいた場所に住めなくなる、そして実際はその電気を起こすことは石油であれ石炭であれ膨大な資源を得る必要がありそれはコストがかり危険なものでもあった。石油を中東から得るために戦争にまきこまれたりすることもそうである。これが昔のように薪だったり炭だったりしたらそれほど危険なものにならなかった。ただその過程が理解されていなかったのである。

それは一見肉を食べるということと関係していないようで関係していた。なぜなら肉を食べるまでの過程が見えないからである。肉になる過程を見ていれば残酷だなと実感する。電気にしても電気をできる過程をよくみていれば原発は危険なものであることを知る。
電気は魔法のように得られるものてはなかったのである。ただそういうふうに錯覚させられていたということである。

車にしても便利なものでも車はガソリンがないと走らない、そのガソリンが原発事故で入ってこなかったときいかに苦労したか?それは車なしで電気なしで生活が成り立たない、
でも車もなくて電気もなくて生活していた時代は50年前とかで普通にあったのである。

実際はここ50年間での凄まじい変化だったのである。歴史が2000年としてもこの50年の変化はあまりにも大きすぎたのである。だからまた石炭であれ石油であれふんだんにあるということはつづかない、それで原発ができたのだけどこれも安全ではないからそこに文明の限界が生れ崩壊に向かってゆく予兆が今回の事故だったともなるのだ。

この凄まじい変化は文明の破滅に向かうことになる。そういう前兆がこの辺で起きた原発事故のようにも思えるのだ。これは単なる事故とは違う、全人類に深刻なダメージを与える事故だったのである。人類の生存が危うくなる事故だったのである。
最近地球に起きてくる自然災害であり何か地球が限界に達して起きているような不安を感じてしまうのである。地震にしても規模が大きすぎるし台風にしてもそうだった。津浪も想定を越えたものであり想定が越えて災害が地球に次々に起きてくる恐怖を感じてしまうのである。


●昔の生活をふりかえり将来を考える


橡媼嘆(橡媼(しょうおうな)の嘆き)  皮日休(ひじつきゅう) 

          

         五言古詩   

    

            橡の実を取る老婆女の嘆き

  

    はや秋も深まり橡(とち)の実は熟し雑木林に散らばり落ちる

  腰折れし白髪(しらが)の老婆がこれ拾ひ朝まだ早く霜踏み歩く
  時間かけ漸く手のひら一杯の実をとり一日(ひとひ)で籠に満つ
  幾度(たび)かさらし幾度かまた蒸して冬三か月の食糧とする

漢詩の原文
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8328/cha/hijitsukyu.htm


栃の実を集めて会津の方で栃餅にするけどこれもまたあく抜きしたり手間がかかる。
どうして食料を得るのか?これだけの労苦を得て食料を得てきた。
わずかなのでも貴重でありその苦労して得たものでなんとか冬を越せる。
そういう生活を延々と人間はしてきた。燃料は近くの森でとれる木であり薪にして冬ごもりして冬を越す、そういう生活はわかりやすい、身近に日々生活することか具体的に見えるからだ。そういう自給自足の生活は外部から入ってくるものに頼らない、ほとんどのものを村内くらいでまかなっていた。
そういう生活が戦後十年の子供時代に経験した。燃料は炭であり炭は山でとれた木を材料にしてるから枯渇するということはない、原発なとの危険なものに頼ることのない生活である。


現代のグローバル経済はもうこうした生活とはかけ離れたものであり地球の裏側から食料が入ってくる。
結局家事をすると何を買うのかという消費生活になる。何かその土地のもので自前でまかなうことが極めて少ないし見えないのである。
もちろん原発などは近くにあってもかかわることができないものでありその土地に住んでいる人でも魔法のように電気が生まれとしかならない。
ただこの漢詩のように人間の労苦は省かれ見えなくなった。
要するにこれまでは人類の歴史はモノを自ら生産して自ら消費する自給自足の正割か戦後10年くらいまでつづいていたのである。それが戦後十年過ぎ急速に高度成長になり変わってしまったのである。


そこに何か原発を生み出した科学が万能となり科学がすべての人間の欲望をかなえられるという信仰のようなものにもなった。
そういうあまりにも便利な豊かな生活には落とし穴があった。
電気は相当贅沢なものでもそれがどうして作られのか意識できない、こんなふうにして老婆が栃の実を拾っていてそれをもらったりしたても一つの実でもおそろかにできないだろう。だからもったないとなり戦前生まれや同年代でもそういう人がいた。普通は確かに団塊の世代は子供時代は江戸時代だった。その江戸時代から急速に豊かな時代を経験する世体になったのである。ただその中でも貧乏な人は同年代でもまれだがいたのである。そんな貧乏なの人がいるということ自体、老人でも格差社会になっていた。

いづれにしろこうした豊かな社会はやはり終わりを告げるのかもしれない、そんて豊かさが維持できるのか疑問なのである。

ただそれが日常になったとき、人はそれが当たり前だと思うようになる。だからもうこのうよな貧乏には耐えられなくなる消費生活には金が第一だとなり人間のモラルは消失して荒廃してしまったのである。どういうわけか希少動物のように貧乏な人がいて紙一枚も無駄をしない、一粒の米をていねいに残さす食べるのは昔の人である。米あまりの時代にはそういう感覚は消えてしまった。それが何らか罰として自然からの災いが起きることがあったのかもしれない、その罰を受けたのが原発事故の被害地域でありそれがここだけではない地球規模でもそういう大きな事故があり被害になる。環境破壊になることが予測される。これ以上の経済成長などは本当はグローバル的に無理だということが見えている。でも実際はあくことなく経済成長を求め止めることができない、欲望は止めることができないのである。
そしてこんなに食料やモノを消費して捨てているというのも何か空恐ろしいということせある。
そのツケがいつか自然から払わされる、そんなに無駄にした人間は許せいないと何か大きな災害が文明の自壊現象が起きてくる不安があるのも当然なのである。モノがありすぎるから人間は自然にたいして感謝しない、ただ足りない足りないと不満だけがある。
そして権利ばかりを主張してくる。そして遺産争いで兄弟も子供も敵対してしまう悲しさがある。
モラルの荒廃はやはりこうした人間の基本的生活の大きな変化が影響していたのである。

 
 
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2013年12月21日

年の暮(冬の暮)-南相馬市原町区泉への道(短歌十首)


年の暮(冬の暮)-南相馬市原町区泉への道(短歌十首)

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ここになお長くもあれな一葉松明日またあらむ今年も暮れぬ

泉長者謂われも古く久しかも枯れにし井戸や冬のくれかな
津波後延命地蔵残りけり我がたずねて冬のくれかな
甲子塔冬の日さして文久とここに根ずきし家の古しも
泉なる官衙跡の木簡に島□郷とあり冬のくれかな
萱(かい)浜にもとの萱原にもどりけり巣掛場の名冬のくれかな
みちのくの桜井古墳大なりきたずぬもまれや冬のくれかな
凍雲の流れざるかな津波跡枯野に残る樹のあわれかな
苦労のみ重なりしかも皺帯びてはや老いし女(ヒト)年のくれかな
患いのつづき疲れる空曇り雪のふりなむ山眠るべし


一葉松まで津波が来たけど塩分がしみこんでもあの松は枯れないのだろう。葉が緑になっているからだ。塩分でもやはりあそこは波が低いからそんなに塩分がしみこまなかったから枯れない、大きい波が来たら塩分が多くて枯れていた。そしたら大損失だった。

泉の道は辺りは泉官衙跡があるのだから古代からであり古い。そこに島□郷というのと白人という記された木簡が発見された。和名抄には出ていない郷名だったから何なのかその後研究が進んでなにかわかったのか?

津波原発のことでこの辺はいろいろ混乱してその騒擾が納まらない。

萱(かい)浜に巣掛場という地名があるときあそこはもともと萱原だった。その萱原にもどってしまった。だから越中の移民などが開拓する前は巣を掛けて鳥とか動物をとっていたのである。あそこにイタチが出てきたりしたから何か動物もとれたのである。
地名はたいがい田んぼになる前の自然状態を残しているから古いのである。


北泉への坂を上っておりて海の方にでるとそこは津波で壊滅してそこも枯野になってしまった。ただ延命地蔵が小高い所に残ったから貴重になった。あれも隠されるようにあって津波の前は知らなかった。津波の後に注目される神社がそちこち生れた。
神社は何であれ古いから価値がある。江戸時代から年号が重ねられている。
それは村の年輪であり根っこのように思えた。
そして津波で村が壊滅した時、その神社だけが残っていたのである。


ともかく今年もやはりいろいろあって患いがあった。親戚関係の縁を二つ切ったけどこれもなかなか大変なことだった。最近プロバイダーを二回変えた、一回は安くなるとして変えたが解約すること二三カ月かかりめんどうである。
今度は最初NTTの・・・とかという会社ですと言ってきて電話一本で解約できすますと言ってきた。それが実際は二三カ月できないし解約金も払わされるから失敗した。
別に安くもなっていなかった。ただNTTの子会社であり新しいサービスがあるのかと思いまた変えてしまった。前に遠隔操作で簡単にできたからそのことを知っていて変えた。

それが失敗だった。nttというのは嘘だった。電話一本で解約できるのも嘘だった。
だまされたことはだまされたとなる。結局そういう手で会員を増やしているという。
TOPPAとかいう会社だけどはじめて聞く名だった。
プロバイダーはどれでもサービスが変わらないから調べていない、ただつなぐだけなのである。でもあまりにも簡単に変えられることが問題だったのである。
遠隔操作で二三分で変えられることが問題だったのである。
でも解約することはめんどうなのである。


人間でも結婚することは比較的楽かもしれない、でも離婚することは相当にめんどうになるし縁を切ることも命懸けになることがある。結婚も契約の一種であり契約を簡単には破棄できないのである。その苦労ばかりして十年もふけてしまった女性は離婚を二回している。でも性格はいいから助けてやった。
結婚することは明らかにリスクであり責任をもたされる。それは離婚するときわかるのだ。結婚した人は必ず互いに責任を負わされる。でも離婚する時必ず他人をまきこみ他人にめいわくかけるのだ。そういうことを二回経験している。
だから簡単に結婚するなともいいたい。そんなに離婚ばかりしているのなら結婚するなともいいたい。なぜなら必ず他者に迷惑をかけるからだ。そして離婚した人は貧乏な人が多い。夫婦で協力しないから貧乏になる。事業でも夫婦仲が悪いと成功しないというのもわかる。だから貧乏も宿命ではなくその人の責任はそれなりにある。


ともかく今年も患いがありもう山眠るであり患いなく眠りたいとなる。それが幸いである。この世の中から患いを消えることはない,どんなに豊かになろうがそうでありその豊かさ故に患いもふえる。この辺の原発事故周辺は豊かさを原発に求めてこれだけの災難を呼び込んだのである。

そろそろ今年も終わりだ、今年は病気が直ったので楽だった。あのまま身体障害者になっていたら自分はどんなことしたって悲惨だった。今年は余裕があった。
確かに縁切ることで苦しかったが今は楽になった。
自分の所に来たのは助ける人ではない地獄の死者だった。
金もの亡者であり「金くれ、金くれ・・・」これしかない、その女性はそもそも金の管理ができない、いくら金があってもすぐに使ってしまうのである。そんな人にいくら金をやっても無駄である。そんな人とつきあっていたら地獄である。
地獄の使者に責め続けられることになる。
遠い所だから縁をきりやすかったのである。


一葉松のいい写真-近くで下からとっていたから違っていた
http://hitozato-kyoboku.com/izumi-matsu.htm

2013年12月22日

冬の未明-八沢浦から日下石(にっけし)-道の駅まで写真


冬の未明-八沢浦から日下石(にっけし)-道の駅まで写真

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ここまでクリック拡大

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落葉踏み残月光る朝の墓地

農家の庭未明にとまる寒烏
集まりぬ部落の老人寒烏
道の駅老人たむろし朝時雨


八沢浦沼の氷りて未明なり鴨鳴く声の枯野にひびく

星一つ沼に写りて未明なり枯野を照らす冬の月影
昨夜(よべ)の雪山に残りて月光る枯野明けゆき鳥の飛びたつ
昨夜(よべ)の雪山脈に残り月光る朝の日さして雲の赤らむ

朝明けて陽のさしにしも白々と山の奥処(おくが)は雪のおおいぬ

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パノラマ写真


今日は朝5時ころ目を覚めたので起きて自転車で八沢浦を回って日下石に出て相馬市の道の駅にでた。
未明から夜明けの風景が心にしみた。月が光っていてこれも未明だから違っていた。
八沢浦は沼がいくつか生れた。その沼が凍っていた。
そして何か鳥の鳴く声がした。それは鴨だろう。辺り一面は津波の跡の枯野となってしまった。だから何か原始的状態の自然にもどった。


葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音の
寒き夕(ゆうべ)し 汝(な)をば偲はむ

 

 〜作者未詳 万葉集 巻14-3570

鴨の鳴く声だったのだろうか、雁ではないだろう。鴨の方が多い。でもあそこにはそんなに鴨はいなかった。だから何の鳥の声か実際はわからない。

そこから日下石(にっけし)の方にでてきた。高いところに墓地がありそこを今度新しく買ったヤマハのマウテンバイクの電動自転車でのぼった。ヤマハの電動自転車は坂に強いからまた買った。道が悪い坂道でものぼる。あそこの墓地は松川浦の方も見えたからビューボイントだった。このビューボイントは意外とは地元でもわからない。
ここも初めて訪ねた場所だった。日下石は津波で一時海のようになった。
地名の考察でニッケシのニとは太陽の没する方向だったと教えられて書いた。
アイヌ語ではないだろう。ただニッケシという音が何かわかりにくくアイヌ語にしたのである。福島県ではアイヌ語と思われる地名はほとんどない、岩手県辺りまではあるみたいだ。だからアイヌ語ではない。
実際に津波で海のようになったとき、太陽がその海のようになった岸に沈んでゆくのを見たのだ。これも信じられない光景だった。ニッケシは海の岸にあり名付けられたのだ。
海の方から見ればニシでありニッケシだったのである。

あの墓地から山の方を見ると昨夜の雪が残っていてその奥は飯館の方は雪におおわれていて雪がふっているらしい。その光景も心にしみる。月も光っていた。

相馬市の道の駅にはいつも老人がたむろしている。原釜の老人たちだった。なぜあそこに原釜の人がいるのかわからない、ただあそこで暇をもてあました老人がいつもたむろしている。今はあのうよに暇をもてあました老人が各地にいる。
原釜でも別に漁師ではない、漁師は原発で補償金をもらっているからいいとか言っていた。松川浦でもみんなが漁師ではない、あそこは結構家が多いからそうなる。
ただ観光地にもなっているから漁師との関係は深い。
やはり松川浦でとれた魚や貝を料理に出さないと観光地としての価値がなくなる。
船でも100艘あったというと多い。
漁師は漁業組合に入っていれば補償金がもらえるから困らない、そのことを今ではみんな言っている。原発事故の前はそういうことが表にでてこないし地元でもわからなかったのである。

今日は相馬市の市長選挙であり道の駅にも投票所があったから集まっていた。
それで何やかにやと話していた。ともかくあそこに集まるのは暇だからである。
今は暇な人は暇だけど忙しい人はやたら忙しいのだ。
自分は家事をして介護していると暇なく動いている。
もし家事をしてくれる人がいたらやはり前のように暇になるだろう。
でもいろいろ書くものなど創作があるからそんなに暇にはならない。

山の方に雲がかかりそれが時雨になった。朝の時雨は体験していない。
朝にも時雨になる。

はこびあめ(運び雨) - 宮城県仙台市ほか


雲によって運ばれる雨というのも面白い。ちょぴりばらばらとふる。
やはり12月は時雨が多い。雪時雨もあり雨から雪に変わるのを言う。
今日は雪にはなっていなかった。

 

公務員はそんなにいいものなのか? (人生は何に時間を費やしたかで決まる)


公務員はそんなにいいものなのか?

(人生は何に時間を費やしたかで決まる)


●公務員はリスクがないが生きがいもない

特定独立行政法人の役員及び職員には国家公務員の身分が与えられる

公務員は何なのか?それは良く公務員が待遇がいいのは身分だからがという。それは侍とにている。身分として固定しているから一つの階級制となりその身分を否定することはできない、ちょうど明治維新の時、侍を否定するような革命が起こさない限り公務員という身分はなくならないとまでなる。民間人がいろいろ文句を言っても身分制なのだからその身分を剥奪するには革命しかないとなる。
ただ公務員は嘘をつかないというのは本当かもしれない、民間人は成績をあげることを会社から絶えず要求されるしノルマがありそれで嘘もつく、TOPPAというプロバイダーがNTT関係の会社ですとか電話一本で解約できるというのは嘘だった。これはたいした金銭的被害がないにしても嘘だった。これがかいいん増やす手であるというのもわかる。
二三分で遠隔操作で何の支障もなく変えられることにも問題があった。
ただ解約はめんどうだったのである。

公務員が嘘をつかないというと侍もモラルを重んじていたからにている。商人は嘘ついても侍は嘘をつかないということがモラルがありそれが矜持となり「武士は食わねど高楊枝」になった。公務員は腹は一杯なのは違っているが嘘をつかないというときそれだけの身分が与えられているからである。民間人と公務員ではその働き方が相当に違っている。
民間人はもうけるために嘘をつく、必死になりもうけを増やさなければならないからそうなる。公務員は別にもうけを増やすために必死になる必要はないのである。民間人は生きることが厳しい、公務員は楽なのに身分が保証されつぶれることもなく安泰だとなり不景気の時代がつづくと一番の憧れは公務員だとなっている。

公務員の仕事など誰がやっても同じだとというのは本当だろう。いつも簡単な書類の作成しているだけだともなる。売るために頭を下げて必死になっている民間人とは大違いだともなる。

これも確かにそうなんだけど本当に公務員という職業が仕事が人生をふりかえったときいいものだろうか?公務員には仕事の醍醐味がないだろう。何かイチカバチカの大仕事するということがない、失敗は国で背負ってくれる。ただミスを犯さないように失敗しないようにこつこつ目立たず生きる。それで身分は保証され生活は安泰になる。
もちろんそこには冒険はない、金持ちになるには冒険が必要だという、決断力がないものは商売人には向かないという、株でも大きな儲けを得るために大きな金を賭けなければならない、金が大きいほど株が上がればその儲けが大きいのである。でも下がればゼロにもなり自殺する人もでてくる。でも大きく金を元手にして賭けなければ決断しなければ大金は得られないのだ。だからなんであれ大金持ちになるのはリスクが大きい。


●資本主義で成功するのは冒険した人


大金持ちになったのは国単位でみればわかる。コロンブスが太平洋を渡り命懸けの冒険をしたことにより巨額の富がもたらされるものとなった。特にスペインがインカなど南アメリカ大陸に一握りの荒くれ男たちが入ってゆきたちまち黄金など巨額の富を手に入れた。それは略奪であり泥棒だったのである。ヨーロッバが豊かになったのはそうして世界から富を略奪したからである。それは世界大航海時代に冒険したからでありそうでなければなかなか巨額の富は手に入らないのである。ただそれにはリスクも大きかったのである。
そのリスクに投資した結果として富を手に入れた。資本主義もそうした所に投資して富を得るのが手法である。資本主義は社会主義と根本的に違っている。平等とか安全を計るものではない、だから成功した人は巨額の富があり冒険しない人には入らないのである。それは一つのギャンブルにもなる。保証されないからそうなる。

でも実際事業して成功する人が20人に一人というから事業で成功することはよほどの人でないと成功しないのが普通なのである。テレビなどにでてくるのはみんな成功者である。でも失敗者の方がだんとつに多いのだ。そういう人がでてこないから成功者を安易にまねる人もでてくるだろう。そもそも自分の母方の実家は事業の失敗から悲惨な家族離散とか苦労の連続になってしまった。父親が警察所長をしていたときは裕福でお嬢さんだった。でも機織り工場の経営に失敗して一家離散とかなり過酷な運命を背負わされることになった。警察所長をしていたから自分が偉いだという感覚があった。母も威張ってばっかりいたといっている。何も事業を起こし成功するものをもっていなかったのである。
警察所長では上から命令していれば良かっただけだからである。

いろいろ技術をもっていても知識をもっていても事業で成功している人は20人一人となると一割も成功していないのである。それだけ厳しい世界なのである。
ただ成功すれば見返りは大きい、失敗すればゼロになり自分の実家のように悲惨なものとなり子供も辛酸をなめる。そういうリスクが事業にはあるからそれを踏まえてやらないと大損失になるだろう。

経営者になることは技術者とは違う。そこを勘違いして失敗する人もいた。
その人は技術的には優秀でも頭脳が優秀でも失敗している。だから経営とは別に理系とか技術がないとできないというものでもない。
東電の原発事故は技術的な失敗というより経営に失敗したのである。
経営には単に技術的な要素だけでない、さまざまな要素がある。

それは市町村でも国家でも経営するのとにている。

長期的ビジョンをもつとかもそうである。国家百年の計とかがそうである。
目先の利益をあげることではない、株を一時期にあげることではない
経営とは別な資質が必要なのである。国家を経営するとなると余計にそうなる。
国家は会社のように簡単につぶされないものだからである。
東電だって目先の利益を追ってコストカットして失敗したということがある。
安全は長期的な視野が必要であり目先の利益を追っていたらできない。
津波がいつくるかわからない、400年前にあったこたとなど考えられるかなど無視して大事故になったことでもわかる。目先の利益に追われればみんなそうなる。

●人生は費やした時間で決まる


時間は短くても、お金は時給制の仕事以上に稼ぐことができます。
それが本当の自分の魅力なのです。
時間を売って仕事をしているかぎり「自分」ではなく「時間」でお金をもらっているのです

http://happylifestyle.com/4576
時間を切り売りしていることは自分が生きる時間を失っている。自分が自分のように生きる時間を生きることとこそ大損失なのである。最後は金では人生は買えない、なぜなら人生と限られた時間の中で何をなし何を生きるからにあるだ。

公務員だとともかく事業を起こした人のように失敗して悲惨なことにはならない、でも人生の醍醐味みたいなものは味わえないだろう。あまりにも平穏無事だとそうなる。
あまりにも平穏無事だということにもリスクがあるのだ。
自分の家族の一人は公務員であった。ただ公務員でも保健婦とかであり仕事はかなりきついものがあった。一軒一軒自転車で回っていたりして体力が必要だった。
その頃は生きがいがあった。でもあとは事務の方に回り楽をするようになった。
それから早めに退職して家事すらしなくなり認知症になって死んだ。
公務員とか先生とか裁判官とかが認知症になるのは多いのはなぜか?

やはり決まりきった創造性のない職業だからだという。創造性がなくてもこなせる仕事だからという。創造性とか別に才能と関係あるわけではない、つまり創造性を発揮させられる場所にいると才能だけではない、人間は現れていなかった才能が現れることがあるのだ。人間の才能はあらかじめ決められてはいない、才能は何らかの契機で刺激され啓発されて出されることがある。
だから明治維新の時は若者があれだけのことができたのはそういう環境に置かれて強いられたからできたとなる。今の時代はそうした才能を発揮させられる環境がないから若者の才能も現れないだけなのである。

三島由紀夫なども自ら演技して狂気の演技者になり自殺するように死んだ。
いくら英雄になろうとしてもなれない、英雄は時代が作るのである。時代に強いられて作られるのであり自ら作ることができないのである。

結局人生とは何に時間を費やしたかで決まる。人間の時間は限られている。才能を発揮するにしてもどれだけ時間を費やしたかで決まる。なぜならあらゆることに時間は費やされない、限られているのだからあらゆることに詳しくなれることはできない、雑学でもそこに多くの時間を費やせばそれなりの専門家になれる。それは才能というのではなく時間をそれに費やしたということで決まるのである。ただ効率的に時間を費やすことは必要である。時間を無駄にしないようにすることが何事肝心なのである。どれだけ自分でも時間を浪費してしまったか、時間は何をしようがしまいが確実に過ぎてゆく、そして何に時間を費やしたかで人生は決まる。

例えば家族でもそこに費やす時間は限られている。夫婦として子供をもち費やす時間は限られている。もしその時間をのがしてしまいばいくら血のつながりがあっても子供と一緒に過ごす時間がなかったら子供にもならない、それは時間が限られているからそうなる。夫婦になるにしても時間が限られているから夫婦としての時間をもつことは普通は一人である。何人とも夫婦のうよな時間は過ごせない、だから熟年夫婦の離婚は相当な損失だと思う。なぜならもうそうした夫婦としての時間をもつことはできなくなるからだ。
一緒に過ごした時間が長ければそれなりに分かり合い愛し合うということがある。
それも一重に時間があればできなるのだ。老人になるとあらゆる時間が喪失してただかつて過ごした時間を思い出すだけなのである。


だから公務員という役所勤めも果たしてそこで過ごした時間が人生にとっていいものだったのか?俺は生きたな、やったなという満足感があとで得られるかとなると疑問である。
「俺は生きた、やった」というものがないと人生を生きた人とは言えないだろう。
一回だけでもそういうことがあれば生きたとなる。それは天才とか凡人でも関係ない、
凡人だって決断して俺はやったとかいう体験はできるのである。
公務員とか会社員にはそういうことがない、だから老後も保証されても何か不満が残る。でも時間は喪失するからもう何かをすることはできない、過ぎ去った時間を戻すことはできない、何か決断することもできない、その時間が過ぎ去ってしまったからである。
そこでみんな誰でも後悔しているのだ。
人生で一番後悔するのは「やりたいことをやらなかった」このことである。
旅をしたかったがしなかった・・・したかったができなかった、しなかったとかなる。

自分の場合、旅をしている内にいつのまにか人生も終わりに近づいた。でもこれだけ旅をしても旅をまだまだしていなかったともなるのだ。それだけ人間は何をするにも時間切れになる。時間がたりないのである。今や家事だ介護だとか近間しか行けない、ここ六年間はそうである。自由気ままに外にでて旅していたのにできないことが信じられない、何とかしようとしてもできないのである。これまた一つの自分の背負わされたカルマだった。でもこれだけ旅をしているといつも旅をしなくても旅をしている感覚になるのだ。
だから思い出してた詩とか短歌にしている。
旅ばかりしていたら人生そのものが旅になる。西行もそうだし芭蕉もそうだし山頭火もそうなったしそういう人は死んでも旅をしつづけているのだ。

退職してから何か別なものに生きがいを見いだすことはむずかしい。
今までしてきたことの延長しか残されていないのである。

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行

旅したものの最後はこうなる。旅に死ぬのが本望になる。そして死んでも旅をつづけているのだ。


旅人に風雲が起こり
遠くへ連れ去る
そしてまた新しい世界が開け
旅人は永遠に旅をつづける

こんなふうになってしまうのである。

2013年12月23日

山眠る(みちのくは癒しの場であり変るべきではない


山眠る(みちのくは癒しの場であり変るべきではない)

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みちのくの山々眠る遠き里

雪の尾根遠くに煙り朝に映ゆ
落葉踏み残月光り朝の墓地

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みちのくとは今でも東北はそういう位置にある。新幹線だって京都から来れば遠い、みちのくはやはり道の奥である。みちのくを生活づけたのは芭蕉という一人の詩人だったことだから詩人の役割も大きかった。
みちのくは大阪や京都や江戸から遠い、今でも東京は確かに近いけど離れていることに意味があった。
東京のような巨大都市になるともう眠らない、眠らないということは休むこともできない、心を休ませることもできないのである。
冬でも休まない、眠る山もない、そこには安らぎはない。
自分の場合は特に大学を東京で過ごしてから性格的なものがあって隠者のようになった。だから東京は自分には向いていない。もうそこは巨大な坩堝(るつぼ)でありその坩堝にのみこまれてしまう。

スカイツリーなど見て何がいいのだろうかと思う。何も美的なものはない、ただ高いというだけなのである。五重の塔には美があっても東京タワーやスカイツリーにはない、
エップェル塔には美があった。美がなければ索漠となる。

田舎にはどんなところでも美がある。
昨日の未明に日下石(にっけし)の小高い丘の墓地に上って見た飯館の方の雪に閉ざされていた。あそこはビューボイントであった。
松川浦の方も見えるからあそこはもともと津波でわかっかたよように海が深く入りこんでいた。だから海と山が見える美しい場所だったのである。
近くでもまだ美を発見されていないのだ。近くはみんな平凡化して美を見いださないのである。

いづれにしろ冬はしんみりとして世の騒擾を忘れて山眠るとなりたいがこの辺はそうもいかない、以前として混乱はつづいている。
今日、桜井市長が一軒一軒一人でビラを配りに来ていた。
そしてはじめて桜井所長のじかに見たのである。
ずいぶん小柄な人だと思った。あれでもマラソンなどしているから体力はあるのだろう。自分はマラソンなどできない、100メートルでも走るとぐったりして走れなくなるから
やはりマラソンを走れるとなると相当に体力がある。
まあ、今回の一月早々に選挙だけど桜井市長が当選することはむずかしいだろう。
何もしていないとさんざん言われているからだ。
マスコミとかそんなところばかりに目を向けて現実の市政能力はないと言われている。

相馬市長は現職が当選したけど南相馬市はどうしても無理である。

相馬市長だって選挙まじかに立候補した人が200票くらいの差しかなかった。
これだけ相馬市でも不満が多い、復興は進んでいないからである。
南相馬市はもっとひどいから桜井市長が当選するのはしりえないだろう。
ただ一軒一軒市長自ら回ると親しみ安くなる。
親しみ安い人なのか好感はもった。
選挙とはなるだけ実際に握手するだとか顔見せろとどぶ板選挙を小沢が言っていたことは本当である。特に市長選挙となると身近になるから余計にそうである。
市民と距離が近く感じるからである。
だから意外とあのように市長自ら回って歩くことは効果があるだろう
でも当選するのは無理である。

ともかく山眠るというとき飯館村は遠くなってしまった。村自体に人が住んでいない。
でもまだ里があるようにも思う。
遠い里というときもともこの辺でなくても交通が不便だったら車もなければ
みんな遠い里になってしまうのである。自給自足で村はそれぞれ閉ざされて暮らしていたのである。
とにかく冬はじっとして回想にふけってものを書いたりするのが向いている。
囲炉裏というのがなんともそういう場に向いていたのである。
折たく柴の記とはそのことだった。そういう悠長な時間が消えてしまった。

みちのくは東京のようになってはまずい、みちのくは癒しの場として今もあるべきなのである。ただ経済的には問題でもそういう場所がなかったら耐えられなくなるだろう。
精神的な安らぎの場所として必要なのである。
そういう精神的価値を東京の人も認めるべきなのである。

 

2013年12月24日

熱帯の花(2)(抽象画)

 

熱帯の花(2)(抽象画)

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抽象画が種きれになったとき他人の抽象画を万華鏡で加工するといい、何かに変化する。
自分の場合、花をテーマにしているからこれは花だなという時、加工に成功した

作品になったと思う。
ただ加工を禁止しているところもある。でも加工して新たな価値を見つけたのはやはりその人の創作となるだろう。
いくら加工しても何かその人なりの価値を見いださなければそのままだからである。
著作権がどうなるのか?原画にあるとしてもやはりこれも新たに創作したのだから
単なるコピーとは違うだろう。
ともかく抽象画はまた抽象画になりやすいのである。
ただここでは明確に花が具象として現れている
だから抽象画とも言えないのである。

原発事故の原因の探求 (みんな欲に目がくらんだためー原発事故はやはり神の罰だった)


原発事故の原因の探求

(みんな欲に目がくらんだためー原発事故はやはり神の罰だった)


●アメリカに押しつけられた粗悪品のマーク1の原子炉

原発事故の原因をいろいろ究明してゆくと何だったのか?
まず日本では原発についての技術がない、ということはアメリカに技術を委託するほかない、そこにまず大きなリスクがあった。アメリカでは日本は外国でありリスクを負わない原爆まで日本に落としても反省もしていない技術でも外国にゆだねると危険である。
だからマーク1という危険な原子炉を買った。アメリカに粗悪品のようなものが与えられた。後進国にはそうしたことがき良くある
武器でも古いものか売られる。
戦後は日本はアメリカの植民地であり属国である。

アメリカは一旦高くして作った土盛を低くしろと命じた
コストカットのためにわざわざ一旦高くしたのを低くした
この責任がアメリカにあるとしたら大きい
でもほとんどこうしたアメリカの責任は報じられないのか日本である
つまりフクシマ第一原発はアメリカによって設計されて作られた
日本人の技術者はただそれに従うだけだった
技術力がないのだから当然そうならざるをえなかった

機械には必ず初期不良があり問題になる。
技術が成熟していないから改良していないから故障する
だんだん欠点を直して故障もなくなる

ところが原発は一旦事故を起こしたらとりかえしがつかないものだった
だから慎重に慎重を重ねることが必要なものだった
他の機械を作る態度ではできないものだった
湯川秀樹博士が早期の原発建設をためらったのは
まだまだ日本では原発は無理だと思っていたからである。
フクシマの第二原発は今度は日本の技術が導入されていた
だから技術的には進歩していたのである


●欲に目をくらんで原発を早期に建設した


原発は何なのか日本人の技術者も良く知らないのに導入した。それは最初の原子力委員長の読売新聞の正力松太郎の野心と欲からはじまっていたのだ。それは原発より別なもの
メデアを大きくして支配したという野望があった。原発を通じてアメリカのスパイのようなものになりアメリカからメデア支配の技術も手に入れようとしていた。
原発にはそうした大きな欲がからんでいた。
その欲は別に政治家だけではない、現代では科学や技術はすべて人間の欲望がからんで生れている。欲望の科学なのである。サイエンスとテクノロジーは別物であった。

現代は科学は必ず利益をもたらすものとしてある。でなければ科学は発展しない、技術も発展しない、だから科学にあらゆる人間の欲望が集中して科学者には万能であることさえ要求される。神であることが要求されてもいるのだ。

IPS細胞が実用化の段階に入ったなりノーベル賞などをもらえば人間の病気は何でも直せるとか希望を抱くようになる。そこにも人間の限りない欲望が科学者によせられているからそうなる。でもips細胞にしても実用化するには簡単にはできない、そのハードルは以前として高いし臨床実験するにしてもそんなに簡単に実用化できないしその道のりは長く険しい、でも一旦ニュースになると何かすぐに実現するように思わせる。
そういうものをみんな期待するから余計にそうなる。

新薬一つでも作り出すには大変な時間と労力が必要なのである。だからコストを考えると会社ではやっていけないとまでなっている。

医者自体が病気を治すのその人のもっている自然治癒力だと言っている。
手術しても薬を飲んでも結局その人のもっている力があれば直る。
医者は病気を治せないと言っている。
医者自体が無力感をもっている。医学は科学は万能ではないことを医者だからこそ限界を感じている。一方で患者は万能なことを望んでいるから困るのである。

つまりどこかで人間は死ぬしあきらめるほかないということである。

そうした技術のハードルが高いにしてもみんなの欲望がかなえられると熱望するから急がされて失敗することもある。原発には確かに急ぎすぎて失敗したことがあった。
もっとじっくりやれば今回のような大事故にならなかったかもしれない、日本には原発を運営する技術も自然的条件社会的条件もまだよく検討されていなかった。
地震国であり津波もあるということか考慮されていなかったのである。

●欲にくらんだのは地元も同じ


地元でも原発のことはわからなかった。だから安易に信じてしまった。それよりも原発は人間の欲望を刺激するものだった。巨額の金がおりる、そこから人間の感覚が狂ってくる。人間は欲に動かされる。これは昔も今も変わりない、それだけの金がおりるとなると目の色を変える。原発の危険性など二の次になる。
それて漁業組合が原発の利権団体になってたのである。これは川でも漁業権がありダムができると利権団体になる。その金が大きいからそうなる。
今は漁業でも農業でも金にならない、跡継ぎもいないとか衰退産業である
そこに原発マネーか支配することになった。

人間は現代の日常でも欲に動かされている。欲に目がくらむ。欲が抑えられない。
人間の犯罪は欲からほとんど起きてくる。

最近起きた東京都知事の猪瀬知事の5000万を徳州会からもらって追求されて辞任したこともやはり欲があったからである。高い地位につけば必ず利権を得る
それで中国ではワイロが幅をきかすのは今も同じである。
そもそもそういう権力を持つ地位に就けば誰でもその権力による利権に動かされる
人間は欲に目がくらむとき過ちを犯す、失敗するのだ。
それは人間には金に目がくらむのはそこにはいろいろな欲が金に詰まっているからだ。
色欲だって金の中にありあらゆる欲か金にある。金であらゆるものが買えるという幻想をもつ。だから権力をもつ地位を得たいとなる。

議員でも市町村議員ですら戦前などは金持ちがなっていた。ボランティアで金持ちがしていた。これは悪いものではなかった。なぜなら金持ちだから金にそれほどこだわらなくていい、今の議員は議員かみんな生業だからどうしても利権に弱いのである。
生活の糧か議員になるとまず生活する金を確保するために利権に目を奪われる。
金持ちだったら十分に余裕があるのだからそんなに金にこだわらなくてすむ
つまりそうした利権の場所は地位はやはりある程度そうした利権に頓着しない人がいいとなる

例えば公務員は嘘をつかないという、民間は営業でも何でも成績をあげなければならないから嘘でもノルマを果たすことが仕事になる。そうしなければ認められない、それでTOPPAとかのプロバイダーは嘘をついても会員う増やそうとする。
プロバイダーにもランクづけがあった。みんな同じだと思っていたが違っていた。
TOPPAは最低ランクてあり動画などがスムーズに見れないのである。
だからそうしたプロバイダーには入るなと書いてあったが調べないのが失敗だった。
これは民間では常に行われていることてある。
インターネットは10年やっていてもわからないことがある。
新しい技術がててくるとまたわからなくなるのである。

でも大きな会社はあまりそうした強引な勧誘はしない。
それも余裕かあるからだ。

公務員の仕事は楽だとか言われてそのことを書いたが一方で何か民間のように嘘をついてまで会員を増やさねばならないようなものだけでは社会は乱れる。
そういう分野は福祉とか医療とか教育とか他にもある。

結局諺にも
恒産なくして恒心なし


これが社会には必要なのである。恒産がないから欲に目がくらみ正道を逸脱する。
特に社会の指導者になるにはそうした恒心が必要であり欲に絶えず目をくらませるようでは勤まらない,いづれにしろ原発はあらゆるところで欲に目をくらむほど巨利を生むものだったのであくる。何兆円という莫大な補償金が支払われことでもわかった。
その補償金で欲がふくらみ原発事故周辺は分担されているのである。


この犬どもは強欲で、飽くことを知らない。彼らはまた悟ることのできない牧者で、皆おのが道にむかいゆき、おのおのみな、おのれの利を求める。 (イザヤ56)


わたしはわらべを立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる。

わらべは欲がないから欲にまどわされないからかえって治められるとなる。イザヤ書 -  3:4

結局原発事故は神の罰だったから聖書と関係ないとは言えない、科学でもそこには傲慢なものがあり神からの罰を受けたのである。つまり原発事故周辺はまさに受難の地域になり神の審判の場になったのである。
posted by 老鶯 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年12月25日

冬の暮(路地裏の道)


冬の暮(路地裏の道)

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冬晴れや新築の家木の香り

枯菊のなお陽にあたたか路地の裏
枯菊のここに塊り数十輪
路地曲がり仮設の飲み屋や冬の暮

群れなして帰る烏や冬夕焼

道の駅老人たむろし一日の長くもあれな冬のくれかな
故郷の冬の山脈陰影を深くし静か老人の住む
欠ける月冬の夜半過ぎ光るかな弱りゆく母我の看(み)るかも

近くに家が建つのを見ていると違う。露になった新鮮な木を感じる。


木は生き物である。木はだから呼吸しているし若く老いもするのである。
なぜ伊勢新宮で20年ごとに遷宮して新築の社を建てるのか?
やはり木は生きものであり常若(とこわか)ということを好むからである。
日本は木の文化だというときそこに何か日本人がもっている本質的なものがある


枯菊というとき老人をイメージする。陽にあたたかというとき老人にやさしかれということだが今は老人が多いからそうはならない、老人といっても今は70以上だろう。
それだけ若くなっているのだ。知り合った人は皺が多いから75歳くらいにしか見えない
あの人は例外である。


毎日同じ路地裏の道を行く、路地裏には路地裏の情緒がある。人間は何か道に影響される不思議がある。六号線と旧街道を行くのとはまるで違ったもの感じるから不思議である。だから相馬市の城下町は路地が多く曲がっているから違ったものを感じる。
ただ路次はどこにでもある。


ともかく毎日買い物やら料理やら介護やら忙しい。今年はついに仙台に行ったのは一回だけだった。こんなことが今までなかった。6時ころまで家にいるとなると遠くに出れなくなる。毎日が家事でありこの家事をうまくやることはかなりの年月がかかる。
ても結局今は何を買うかが意外と問題だった。家事の道具でも料理をするではなく料理されたものを買うのが一仕事なのである。
料理自体ほとんどししていないからだ。だからなんとか時間を作りほかのこともできる。時間の節約になるのだ。


今の時代は老人で暇をもてあましている人が多い。相馬市の道の駅では毎日部落の暇な老人が集まっている。あそこて暇つぶししているのだか一日が長く感じるだろう。
外に出ないと旅もしないと一日は長く感じる。
でも自分の場合、一日が長いと感じた時は余裕がててきたときである。
やることがつぎつぎにあるのだ。ハソコンやインターネットでも手間をくうから時間がかかる。だから何かめんどうな設定などするのも嫌になる。
年取ると何かめんどうなことがしたくなくなる。
パソコンはなれているからできるが新しい技術を取り入れるのはめんどうになるのだ。


まあ、若いと田舎は刺激がないと感じるだろう。繁華街もないし退屈に感じる。
でも田舎は芸術の創作には向いている。学問するのにも実は文科系なら向いている。
宗教でもほとんど山にこもるとか普通の田舎より山奥にあるのだからそこを修行の場としていたのだ。だからカルト宗教団体などが都会を中心に会員を広げているのはもうそれは宗教ではない、政治になっている。

老人になって避難して都会の方に行った人は帰りたいだろう。東京の方に避難した人もいる。若い人ならいいかもしれないがやはり田舎に住んでいた人は嫌だろう。
まず人ごみとか騒音とかか嫌だから住みたくない、まあ、老後が長くなるとたしかに時間をもてあます人が相当でてくる。特に旅もしない外に出るのも6時ころ帰るとなると余計にそうなる。

 

2013年12月26日

葉牡丹(写生が芸術の基本)

 

葉牡丹(写生が芸術の基本)

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我がもとに冬の蠅よる見守りぬ
路地裏の道に葉牡丹雀来る
十数輪塊りとなり冬の菊

葉牡丹にニチニチ草や駅舎かな

山茶花の白と椿の赤映えぬ日のさし今日もこの道を行く

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毎日同じ道を行っている。仮設の食堂は何か街になじんできた。あそこは大原の人がやっている。だから大原の人が集まっている。でも客はめっきり少なくなった。
最初は小高の人がやっていると思っていた。大原も地域的に放射線量が高いから130戸の内どれくらい避難生活しているのか?
原町区でも避難生活している人はいる。

俳句は写生だという時、意外と簡単にできるとも思える。葉牡丹に確かに雀が一匹きていた。それは見たままなのだ。そしたら写真を撮るように誰でも作れるのではないかとなる。ただその写生の句に意味を見いだすのは各自がすることになる。

抽象画でも意味を見いだせないものは何も価値あるものと見ない
芸術そのものが一般人は高等な芸術を鑑賞できないと同じである。
芸術は鑑賞力がないと創作しなくても鑑賞もできない。

クラシック音楽などは特にそうだろう。クラシックでも自分は音楽を聴いて自然をイメージして聞いている。多様な自然も音楽化できるものがある。ただ音楽もだから抽象画とにていないこともないのだ。
ピアノは何か自然をイメージしやすいということもある。インターネットでいつでも放送しているから聞いている。現代音楽は特に古典とは違い何かをイメージする音楽となっていないか?

芸術には絵画的なもの音楽的なもの詩的表現と建築でも一体になると荘厳なものとなり総合的なルネサンスが生れる。
現代は芸術でもパ-ツ化しているから全体として感動するものがない、そこに何かいつも不満が残る。

芸術というといろいろあるし庶民に近づきにくいものもあるが基本的には写生である。
写生すればありふれたものでもそこに価値を見いだす、だから写真でもただ撮っているのではなく何らかのその人の見方価値観が反映しているのだ。
ロボットではないのだからそこに人間の感性をよみとることになる。


ともかく今年の秋から年の暮までは相馬市にも行かなかった。近くで買い物とかしていて家事に追われる生活であった。
だから毎日決まった道を行くだけである。
ただそうした平凡な道でも美はあり詩はある。


写生という時、冬の蠅がよってくる。それを見守っている自分がいる。蠅は嫌なものだけど見守っている。ただ冬だと蠅もそれほど避けるというものでもない、卵も生んだりしないし繁殖もしないだろう。ただ蠅もまだ生きていたのかと思う。
結構寒いからそう思う。つまりこれも写生なのである。あるがままをじっと見ていることが写生なのである。ただ意味を価値を見いだすのは各自の感性だとなる。

 

2013年12月27日

幻影の時代 (現代は現実を認識しにくく幻影を生きやすいー津波も原発事故も現実に思えないということが未だにある)


幻影の時代

(現代は現実を認識しにくく幻影を生きやすいー津波も原発事故も現実に思えないということが未だにある)


●現実と空想の見分けがつかない時代


アメリカ人が現在住んでいる世界では空想の方が現実そのものより現実的である。
イメージの方がその原物よりも大きな威厳をもっている。
我々はこの困惑に正面から立ち向かう勇気をもちあわせていない、なぜなら我々のあいまいな経験は気持の良い色彩に富んでをり、またこしらえあげられた現実に対するわれわれの信頼は完全に現実的だからである。
我々は自ら進んで現代の大詐欺の共犯者となったのである。
我々は我々自身をあざむいているのである。
(幻影の時代-D.Jアースティン)


俳句で写生が基本といった時、それは現実人生にもあてはまる。人間の生活そのものが現代はイリージョンのようになっている。何か幻想化している。バーチャル化している。
インターネットでも現実ではないと思い事件を起こす人がいる。インターネットも現実の人間がかかわっているのだから現実の反映である。だから悪い人も入ってきて犯罪も行われている。こういう様々なメデアが発達すると現実が空想家幻想化しやすいのである。
現実と空想が一緒になっている。空想が現実で現実が空想家するのは普通になっている。例えば一千万の都市、東京とういうとそれがすでに現実のものと思えなくなる。
東京自体が一つの巨大な幻想都市のように見えてしまう。そもそも一千万の人間が飲み食いして生活していることが可能なのか?確かに江戸も百万都市であったが回りは農業していて糞尿を肥料として回収しにきていたのだから農業的社会だった。

だからそれほど地から離れた空間ではない、農業とと密接に結びついていたから大地から離れた生活でもなかった。東京のようなメガロポリスになるとどうしてそれだけの人間を養えるのだろうか?それだけの食料は膨大なものだからである。だから人間は実際は本当に食料を食べているのかとさえ思う。何か食料を食べなくても別なもので生きているような錯覚になる。まさにイメージの食料でも食べて生きているのかとも思う。
田舎で暮らしていると東京はすでに現実のように思えないのだ。
だからどうして東京のような所でアイディンティティをもてるのだろうかとなる。
自己同一性とはまさに自己と何を一体化するのだろうかとなる。
田舎だったらまだ自然があり山であり樹であれ石であれそうした自然の事物と一体化、自己同一化(アイディンティティ)しようとするだろう。
高層ビルの林立した世界では何とアイディンティティしていいかわからないだろう。
だからそこは狂気的世界になってしまう。そういう所で正常を保つこと自体異常なこととさえ思ってしまう。

現代の人間は現実を直視することができなくなっているのかもしれない、人生でも実際は厳しいものである。でも何かその現実を現実として生きられない、こんなはずがない、こんな現実こそありえない、これは幻想なのだとさえ思う。
あまりにも劇的に変わったことが起こるとそれが最初は信じられない、身内が認知症になったときもこんな病気があること自体信じられなかった。何がなんだかわからなかった。津波起きた時もそれも信じられないことだったしその後放射能騒ぎから街に人がいなくなることも信じられないことだったのである。
これらはあまりにも変わっているから日常的でないから信じられないものだった。
まさに現実が幻想のようにしか思えないという現象が起きている。
それは今も継続しているのだ。

津波にのまれて死んだ家族があり家がなくなり狭い仮設に住んでいる、そういう現実があまりにも変化が大きいから現実として受け入れられない、これは夢じゃないかと以前として思っている人がいるだろう。

第一津波自体が夢のように思えたのである。また原発で避難して仮設に住んでいる人も以前としてこれが現実なのかとその現実が受けいられない人がいるだろう。
その現実が受け入れられないとまず復興というのもありえないだろう。
なぜならこれは夢であり現実ではないとなれば現実を凝視できなければ復興もない。
なぜならその厳しい現実を認めたとき復興も再出発もありうる。
だから警戒区域で住めなくなった人たちはすでに帰るのあきらめて他で住むことを決断した人たちがいる。補償金もその人たち払うことを政府では決定したのである。
その現実を認めざるをえなくなったのである。


こうした大災害なくても人生には常に厳しい側面がいつでもあった。それでもその現実を認めたくない、これは一時期の夢であり何かいいことがある。努力しなくても何かいいことがある。幸運が天からふってくるように思う人も多いのである。だから宝クジが売れているのである。自分が最近つきあった人たちは厳しい現実を見ていない、でもいくら現実を否定しようとしても現実は嫌おうなく迫り現実を知らしめられる。


●シンデレラ幻想に陥りやすい現代


今のこの辛さ、悲しさ、惨めさは本来の姿ではない
今の私は真実の私ではない
これは現実ではない
本当はもっと楽しくて、嬉しくて、幸せなはずだ
そのために今のこの苦しみがあるんだ
耐えれば耐えるほど、後の喜びは倍増する
だから
今がどんなに辛くても、苦しくても、悲しくても我慢する
これは本当の私の姿ではないのだから!!
 
「きっといつか、あのシンデレラのように魔法使いのおばあさんが現れて、魔法をかけ、舞踏会へ行き、
王子様が私を捜し出してくれるに違いない。自分から助けてと叫ばなくても、助け出してくれるに違いない」
 
このように今の辛い、苦しい現実を否認し、ひたすら耐え忍ぶ
これを私は「シンデレラ幻想」と名づけた


白馬の王子様がやってくるとか幻想する。現実を肯定できずその現実から脱出しようともしないし何かしらの努力もしない、ただ来もしない白馬の王子を待っているだけである。
若い時から生活保護でありそれでも金がたりないとせびるだけである。生活保護内で生活することもできない、そして生活保護もやめようともしない、生活保護をもらってさらに金をもらい楽しようとする。そして現実を見ない、楽なことばかり思っている。
借金して借金の形にとられたようにパチンコ屋とかブラックな会社で水商売で働く、それが現実なのである。これは江戸時代でもそうである。遊女は借金の形にとられていた。

江戸時代は江戸で借金の訴訟が今より多いくらいあったということは江戸では特に貨幣経済が支配的になっていたからである。遊女になるということも厳しい現実なのである。

回りを見ればそうした厳しい現実に直面している人はいくらでもいる。田舎の安い市営住宅に入るのにも保証人が要求されいじめのようなことが行われている。弱者は保証人で結構苦労する。弱者というとき金がないだけではない、金があっても身寄りがないとか病人になったとなると途端に弱者になるのだ。常に人間には厳しい現実がありそれが嫌でも知らしめられる。その現実から逃れることができないのである。
誰かが助けてくれるというのもまたシンデレラ幻想になる。

特に借金している人はそういう人が多い。誰かが貸してくれると思い誰かに頼りやすい人が頼る。他人の金は自分の金だと思っている人が実際に結構いるのだ。

借金する人は現実をごまかし直視できない、借金してまでいい格好したい、俺は成功者だということを世間に見せる。でもそんな偽りの生活がつづくわけがない、それが大きなツケとなって現実化する。借金で首が回らなくなりもうごまかすことができない、一家離散にもなり最低の生活になる。それが現実となる。現実は容赦がない過酷さがあるのだ。
甘い夢は打ち砕かれてしまう。
俺は貧乏だ、お前は金持ちだからお前の金を俺に分けるのが当然だ、できなければ盗む、それは悪いことではないと思っている人が結構いる。ただ怖くてできない、度胸のある人はそうして犯罪者になる。それで警察につかまらない人も相当数いるのだ。
まず警察につかまるのはごく一部である。それも軽犯罪はつかまりやすい、大きな犯罪はかえってつかまりにくいのだ。千円二千円盗むとつかまりやすい、でも一千万と一億とかでも経理をごまかしたり盗むとかえって警察は証拠がないとかつかまらないのである。


●昔の自給自足生活は現実認識がしやすい


とにかく現代は複雑であり現実が認識しきしにくいのだ。例えば戦後十年くらいまでは江戸時代の生活のつづきだった書いた。基本的にさほど変わらない生活だったのである。
自給自足ということは生活する糧がほとんど身の回りにあったから現実を認識しやすかった。燃料は近くでとれた薪でありそれは近くの山にありその薪で炭を作っていてご飯を炊くのにも炭を使った釜だった。米だってほとんど地元のものであり野菜もそうであり食料は基本的には自給自足である。特に農家であれば味噌まで作っていたとか家そのもので買わなくてもまにわす生活であった。そういう生活は現実を認識しやすいのである。
その土地に密着して生活するのが現実なのである。
ただそこに厳しい現実があった。医療が発達しないから長生きできないし簡単な病気でも死ぬということがある。戦前は肺病などで死ぬ人が多かったから特にそうである。
江戸時代になると余計にそうである。一割近くが栄養失調で盲人だった厳しさがある。
常にいつの時代でも生きる厳しさが現実があった。

現代の生活はグローバル化したり交通が発達すると情報が膨大に行き交うと本当の現実が認識できなくなる。東京に暮らしていれば田んぼも畑もない、そしたら米がどうしてとれるのだろうということが田舎のように子供の時代から認識できないのである。
米がどうしてとれるのかを認識することは大事である。水の管理が大事であり水は山から流れてくるから山が大事になる。そして山が農民にとって神ともなる信仰が生れる。
米をとるということを通じて自然と結びつくことを具体的に理解するのである。

それが現代では食料でも地球の裏側からも入ってくるとするとどうしてその食料が果物でもとれているのか認識できないのである。スーパーに行けば果物がある。食料がいくらでもある。食料を手に入れるのは金である。だから金さえあれば何でも手に入るという認識しきか生れないのである。食料そのものより金の方が大事になってしまっているのが現実なのである。金がなければ飢え死にするし現実にこの豊かな社会で餓死している人もいる。

でも自給自足の生活だったら金がなくても生きていた。身近にとれるものがあり金がなくても買わなくても生きられる仕組みがあったからである。金の代わりに米を蓄えていた。だから農家にはどこでも蔵がある。蔵が富の象徴となったのはそのためである。
喜多方では競って立派な蔵を建てたのも蔵が豊かなものの象徴としてあったからである。貨幣ではなく蔵の方が富の象徴だったのである。
貨幣が普及しうていないときは村では飢饉の備えのために郷倉を建てて米を蓄えていたのである。それでそういう地名が各地に残っている。

この辺では津波や原発被害があり二週間くらい食料を買うことができなかった。
その時自分はたまたまあった米をたいてノリくらいの食事で過ごした。たまたま米があったから良かった。その米を尽きた。その時町で古米を配給したのである。それでまた助かった。米は農家などに蓄えられていたのである。それは郷倉と同じ役割を果たした。

その時金は何の役にも立たなかった。ガソリンが入って来ず車があっても役に立たなかった。一カ月以上それはつづいた。今は外から入るもので暮らしているのだから交通が断たれると致命的になるのだ。それで牡鹿半島とか三陸とかの津波の被害地域では水は裏山から歩いて運びを薪をとって燃料としたり原始的生活にもどったのである。それはまだそういう資源を活かす所に生きていたからである。
だから東京のような大都会になると大災害が起きたら一時的食料や水や燃料がなくなったら大パニックになる。何とか電気が通じていて米をたけたけど電気が通じなかったら米をたけないしテレビも見ることができないから何が起こったのかも理解もできなかったろう。現代は便利でも災害に脆弱な所がある。便利なものに頼りすぎるから一旦そういうインフラが崩壊すると生きる術もなくなる恐怖があるのだ。


●絵に描いた餅が現実と思っている時代


いづれにしろ原発にしても地元の人でもそれを理解できない、薪をとって燃やして暖をとったり米を炊いたりするわけではない、電気そのものがあまりにも便利であり生活実感として理解しにくい、ただボタンを押せば電気はえられるという感覚しかない、電気がどうして作られるのと問えばボタンを押せば電気が来るよとしか子供なみの答えしかないのである。電気は原発で作られる、どうして電気が作られるのとなると原発だったら説明すらできない、現実感覚がもてないのである。これだけ科学が普及すると科学が万能になり科学で何でもできるという幻想を抱くのも現代である。そして情報だけ膨大なものとなってあふれ情報にもふりまわされる。天文学的な情報を処理できなるものではない、するとそこで専門家のいうことにふりまわされ、マスメデアにふりまわされ、現実を認識できないことが起きてくる。金だって数字だというとき数字は突然ゼロになる恐怖が現実にある。モノは簡単にゼロにはならないが数字ならゼロになりやすい。だから金をいくら蓄えていても安心がないのである。

現代はみんなシンデレラ幻想に陥りやすいのである。こんなに豊かでも貧乏な人が増えている。でも貧乏とういうのも現実的に認識できない、ボロを着て物乞いしている人もいない、だから貧乏な人がいるということ自体現実に認識されにくい、それで隣でオニギリを食いたいと言って餓死した人もいる。昔だったら乞食して何とか食いつないだがそういうこともできない時代だったからである。何かそうした嫌なものが忌避され現実として認識されないのである。
俳句が写生だというとき「我がもとに冬の蠅よる見守りぬ」いうとき蠅というものは嫌だけど冬だと一匹くらいが弱々しくあるから見守れる、嫌なものでもそこにあることを許すとなる。この世には嫌のものでも避けられずある。それが現代では隠蔽されやすいのである。現実が認識できず空想に陥りやすい、

絵に描いた餅(もち)が現実化しているのだ。 
 
《どんなに巧みに描いてあっても食べられないところから》何の役にも立たないもの。また、実物・本物でなければ何の値打ちもないこと。画餅(がべい)。


この絵に描いてた餅が本当に食べられると錯覚されているのが日常的なのである。膨大な情報化社会もそれを促進させる。現実にありえないものがありえるとさせられる。実際に手にふれてじかに確かめることができないことが多すぎるからだ。だから情報は無限に増えても実感としてますます現実感がもてなくなる。テレビで戦争を見てもゲームのように見ている人もいる。それはテレビで見ると自分に害がないのだから面白いとなるのである。テレビでの事件も自分に害なければ興味本位になる。だから同情心も育たないということもある。他人の不孝を楽しむのがテレビや報道にもなる。


ともかく津波であれ今でもこれは夢ではないのか?頬をつねってみる、原発事故でも避難して各地の仮設に住んでいることも何か現実としてまだ認識できないことがあるだろう。なぜこうなっているのだということが現実として認識できない、でも狭い場所にすむことや故郷に住めなくなったことは現実なのである。家族を失ったことも家がなくなったことも故郷に住めなくなったことも現実なのである。その現実の厳しさを生きなければならないということである。そういう自分もここ六年間は厳しい現実をつきつけられ生きねばならなかった。何か詩人というと空想的になりやすい、そういうことも許されていたがここ6年間は厳しい現実をつきつけられて必死だった。人は簡単に助けない非情もしった。
みんな人はいい人だと思っていたが他人は人の弱さにつけこんで平気で人間の心を踏みにじる火事場泥棒でも何でも金のためにするとかその非情さ残酷さを知った。これも厳しい世の中の現実だった。だから宗教で愛を口で言うの簡単である。それを実行しているのはほとんどいないこともわかる。偽善になっているのもわかる。現実社会は弱肉強食の世界であり自然界と同じである。人は簡単に人を見殺しにするの非情社会である。
甘い幻想は打ち砕かれたのである。

 
 
posted by 老鶯 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連