2013年12月01日

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む (慶長、元和の大津波-近衛龍春の疑問)

 

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む

(慶長、元和の大津波-近衛龍春の小説の疑問)

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なぜこの小説で相馬藩の津浪のことが書かれている。それは何を根拠にしているのか?
その根拠となるものがない、相馬藩政記には「700人溺死としか書いていない」
ただ700人と書いてあるのだからその被害を記したことは確かである。700人という数を調べて記録した。だから全く藩でかかわらないということではなかった。
ただ津浪のことはこの記録意外何もわからないことなのだ。
だから確かに小説のようだったと勝手に想像して面白く書くことは非難できない。
つまり小説はあくまでもフィクションでもいいし面白く書いてもかまわない。
ところが現代はNHKの大河ドラマのようにあくまでフィクション化したものを
歴史の真実と見ている人が多いのである。


現代は様々なメデアの時代であり小説であれドラマであれ映像であれフィクションが
現実のように思わせることが多い時代である。それでやらせの問題がでてきた。
動画さえ架空のものを真実と思わさせられるのである。
そういう技術が発達した時代である。写真さえそれが本物なのかわからない、
合成して作り出せるからである。

司馬遼太郎は小説家であり歴史家なのだけどそこにフィクションが確実に作り出されている。「竜馬が行く」で竜馬のことが小説化してことさら英雄化された。
そこにフィクションが事実のように思い込まされたことがあるのだ。
竜馬についての歴史的真実は何だったのかとなるかそれを考証することは普通の人には容易でないから大衆はフィクションを本当のことだ信じてしまうのである。
だから坂本竜馬は司馬遼太郎によって誇大に小説化されて英雄化されたという批判があるのだ。つまり歴史的真実は今やわからないからそう批判されるのである。

この小説にしてもなぜこの時期に出たかというと津浪があったからであり話題になるからである。でもどうして津浪のことをまるで真実のように書いてあるのか?

小説だからフィクションだから何を書いてもいいとなるのが相馬藩では当時の主君の義胤でも何も記していない、ことこまかに記されているのは戦争のことであり跡継ぎ問題などである。飯館村の飯樋の木材資源をめぐる争いなどはことこまかに記されている。
津浪はそれより重大な問題であり被害があった。それが全く700人死んだとしか記されていないしまた伝説にも残ってない、それは何なのだろうと他の人たち、研究者も疑問に思って調べていた若い研究者の人がいた。その人は相馬藩内にも津浪の伝説はあった。
柚木に「急ぎ坂」という言い伝えがあった。津浪で急いで逃げたからなのかこれもどこまで慶長の津浪に由来するかは不明である。相馬藩ではほとんど津浪の言い伝えを聞かないからである。だから庶民の側でもなぜ記録を伝承でも口伝えでも残せなかったのか不思議だとなる。そこに何らか事情があったのか?その辺は謎である。


ただ城を中村に今の相馬市に津浪の復興事業のために移したと岩本氏も言っているがこれもどうしてそう言ったかのかその根拠は何なのか記されていないのだ。何かその根拠となるものを示せば納得するだろう。そういうものが一切ないのである。では学者なのになぜそういうことを言ったのだろうか?小説ならわかるがそれも解せないのである。
むしろこの記録されないということが何か大きな問題をふくんでいる。
歴史の大きな記憶の空白を生んだことが実はそこに歴史の真実があるとなる。
例えば蝦夷というものが大和朝廷に滅ぼされたけどこれも歴史として残されないから謎となっている。歴史は勝者の記録だとするとき敗者は無視される。だから敗者の歴史は埋もれてしまった。それも歴史の大きな空白なのである。


結局700人溺死という津浪の被害は当時の行政だったもの君主だった義胤にも無視されたともなる。その頃まだ相馬藩の政治は戦国時代であり安定していない、だから戦争のことや跡継ぎのこと飯館の飯樋の森林資源の争いで財政を確保することなどが重要であり津浪の被害まで頭が回らなかった。だから例え津浪の被害を訴えてきてもとたあわない、とりあう余裕もなかった。徳川の城普請も要求されたり財政的に余裕もない、だから津浪の被害者のことは無視された。復興のために中村に城を移したとか復興事業に尽力したことなどなかったのである。なぜならそうしたことを何もしりえようがない、資料もないのである。


歴史はフィクションではない、でも容易にもう遠い過去のことだからフィクション化されやすい、聖書は事実を記したものである。でもフィクションだという人がいるがそれはすでに信仰の問題でありその事実を否定するものは信仰も成り立たなくなる。
でも一般的には歴史の事実を知ることは庶民にとってはめんどうだから小説の方を事実のように見てしまう。これは原発事故でもそうだった。安全神話が政府指導で作られて誰も本当のことを知らせないようにした。また調べることもできないようにした。
戦争中も皇国であり日本は絶対に負けないと負けた事実を信じないで嘘を信じていたのである。要するに人間は嘘でもそれが大きな嘘は信じやすいということである。

それは人間はあらゆることを知りえない、特に科学はむずかしいから知りえようがない、そして原子力は科学のなかでもさらに一番むずかしいから何が真実かを知り得ようがないからだまされたとなる。

マスメデアが批判されるのはメデアが権力化して伝えるべきものを伝えない相馬藩の津浪のように重大なことが知らされない、原発でもそうだった。そこに大きな空白が生まれ
事故につながった。相馬藩の津浪でももしことこまかに記されていればここにそんな津浪があったのだと日頃から意識されていたはずなのである。ただこれはここだけの問題ではないからいちがいには言えない、でもここでは全く津浪が意識されることがなかったのである。だから津浪の危険を警告もできなかった。


他でも人間がだまされやすいのは大きな事業をしている人なのである。事業のことはわかりにくい、異種業者になるとわからない、でも何か大きな事業をしているとなると素人にわかりにくいからだまされるのである。電気関係の事業をしている人が一億円の資産があるといったとき信じてしまった。それは電気のことなどわからないからである。
そういう技術的なものはもうけが違っているのかと思ってしまうのである。
その事業者は借金で首が回らなくなっていた。事業の危険は20人に一人しか成功していないという厳しさだったのである。
つまり歴史でも嘘を真実だとフィクションを真実だと信じていることが相当数ある。
なぜなら遠い過去になるとますます事実が何かわからないからそうなっているのだ。

posted by 老鶯 at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年12月02日

冬の金閣-俳句十句 (金閣は自然に映える美の極致)


冬の金閣-俳句十句

(金閣は自然に映える美の極致)

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冬の金閣十句

金閣に寒椿の赤さかな
金閣に誰が入るや松に雪
金閣を写して時すぐ冬の池
金閣の鳳凰に朝日凍る池
金閣や口を閉ざさせ冬に映ゆ
金閣に仕ふや冬の松と松
松風や金閣暮れて冬の星
金閣や夕日に光り京の冬
将軍に鳳凰の夢冬の京

金閣を残し急逝す冬の京

庭石も黄金(キン)に輝く冬の京

黄金の時を刻める金閣の刻々変わる姿かな

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金閣の魅力はまさにゴールデンタイムを演出する。刻々自然の中で変容して限りない美を現している。つまり自然の中に黄金が映えているからその自然の中で変化するから魅力を作り出している。背景の常磐木の松の緑にも常に映えているし凍った池にも映えているし写真はいろいろある。常に違ったように見えるのである。その美は女性だったら衰えるがこの金閣は衰えることがないのである。だから金閣に魅せられるということがある。
京都だからその背景には複雑な歴史が人間模様も織りなされている。
千年の都は未だにこうして美を残して色あせないのである。

平泉の金閣寺はこうして自然に映えないから何かものたりないものとして不満が残る。
それはまた違った美にしてもやはり美を作り出しているのが自然だということがわかる。冬の京都なども趣深いだろう。ただ最近京都は外人でも観光客が増えすぎると情緒がなくなる。修学旅行生もうるさいか京都の情緒を乱しているのだ。
そもそも京都はちょっと行ったくらいではわからないところだった。
歴史もわからないし何かわからない、金閣にしても実際は自分にしても一回くらいしか訪ねていない、それで屋根も金箔が張られていたと錯覚していたのである。


金閣寺のこけら葺き屋根
こけら葺きとは、屋根の原料となる材木を薄くそいではがしたものを
板屋根に葺いてあるものをいいます。


でもこれが金色に光っていると写真で出している人がいた。屋根は金箔にはできない、雨風ですぐ朽ちてしまうだろう。だから自分はそういうところも見ていなかった。

今まで俳句にしたりするのは想像の句だから果たして現実にそうなっているのかわからない、写生ではないから俳句ではないかもしれない、京都ではなかなか一日金閣を見わわけにもいかない、住んでいれば四季にも見れるが離れていれば金閣も見れない、でも金閣の特徴は何かイメージ化されやすい、見ていなくてもありありと浮かんでくるシンプルなのがある。だから想像でも詩を作りやすいともなる。

ただ現実に夕日に映えるのかとかここにだした俳句とは一致しないかもしれない、でも紅葉でも雪でも何か金閣に鮮やかに映える。春に行ったとき確かに赤い椿が散っていた。
その赤さも一際赤かったことを記憶している。ただそれも遠くなり明瞭に浮かんでこない。それでも金閣はイメージしやすいものだったからあとでふりかえり何か詩的なものとして創作できる。
金閣炎上とか燃やした人が実際にいたから何かその心理はわからないにしてもそれだけ金閣は美の極致のようなところがあるのは確かである。
隙のないゴールデンタイムを日々自然の中に反映しているのだ。

石まで黄金に輝くの京都だった。それがやはり千年の都の所以である。フィレンツと同じである。
とてもそれは百年とかでは作り得ないものであった。

 

2013年12月03日

相馬市の成田周辺の地名考察 (焼畑地名は多いけど忘れられた)


相馬市の成田周辺の地名考察

(焼畑地名は多いけど忘れられた)

●焼畑に関する引用



田畑輪換は、近世から近畿の棉作や藍・煙草作の一部で行われ、あらし・あげ田・一作田などと呼ばれた。肥後藩白川流域でも、近世から明治にかけて用水の多寡に対応した田畑輪換があった。


それは、「畑成田」「田成畑」「ゆうれい畝」など「水入り畑」と呼ばれ、圃場に湛水後直播(バラ播き・条播)するもので、高谷好一は畑作型稲作と位置付けている(『コメをどう捉えるか』
http://www.geocities.jp/kirino3330_ns/ry2-yamatokawa.htm


姶良カルデラが吹き上げたAT層は酸性で赤いから焼畑くらいしかできないが、阿蘇や日本アルプスや阿武隈山地の火山灰土は真っ黒で「黒ボク土」といわれている。
滋味豊かで畑作にも使うことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54501093.html


そこで奈良田の人々は畑作を中心に自給自足の生活を営んできました。畑作にはカイト(普通
畑)とアラク(焼畑)がありましたが開墾する土地が少ないので、主に山々を切り開き焼畑農業
で生計を立てていました。奈良田の焼畑農業では主にアワ、ソバ、アズキが作られました
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/komoku/manabu_asobu/kanko/pdf/83687900561.pdf


青森や秋田・岩手の地方ではアラキ、東日本ではノバ、アラク、カノ、カノウ、サス、ソウリ、ナギハタ、ムツジ・・・  西日本ではキリハタ、ニシメ・・ 九州に多く見られるのはコバ、アラマキ、カンノ、キーノ・・などじつに様々である。
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/yakibata.html


ソバ・アワ・ヒエ   豆類:大豆・小豆    トウキビ
 里芋・カライモ      コンニャク
 大根・カブ         ミツマタ(和紙の原料)

一年目は大豆二年目は粟、三年目は大豆四年目が粟、五年目が稗、六年目になると地力が劣ってくるのでソバをまき、それ以後は畑として使うことを放棄してしまうことがある。それは遠隔地のために肥料の運搬が困難なためである。放棄してしまうことを「ソウリしてしまう」という、そうした畑を「ソウリ」と呼ぶソウリには萱や柳が自然に生える、しかしいい木は生えない、ソウリが立派な山林になったことはない。


北上山地の焼畑、畑作習俗-金野静一(ここは一番詳しい)
http://iwate-minzoku.jp/info/pdf/minzoku8_9.pdf


毛野王国の支配下にあった阿武隈や相馬は焼畑と深い関係があった。入野というのが毛野の名前の起こりであるからだ。相馬という名自体、相馬氏の移住地名でもソウリであり焼畑地名だった。焼畑の民が先住民であり阿部がアブであり阿武隈になったという説があるごとく阿武隈高原には焼畑をしていた先住民がいてそこに物部氏などの水稲技術をもった人が入植してきた。鹿島町の真野の真野明神の萱野姫を祀った所も焼畑の神であろう。そして水稲の神の飯豊神などを祀った


東和町などの地名(焼畑から田の地名)
http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


ここは前に焼畑について書いた自分の文章だったけど忘れていた。結構詳しく調べていたと感心しているのも不思議である。



●水田の前は焼畑が日本を覆っていた


焼畑は今は何なのかリアルにイメージできないけど水田の前は焼畑が日本中を覆っていた。だから焼畑の地名は日本の基盤の地名として形成されている。意外なものが焼畑由来なのである。飯館村の佐須でも比曽もそうだった。そもそも田になる前の県(あがた)は焼畑が行われたところであった。そこに県主(あがたぬめし)がすみ最初の王が生れた。天皇もここに由来している。


今は水田ばかり注目しているけど焼畑が日本中をおおっていた時代があったのだ。田とつく地名の前には焼畑地名であった。焼畑はなぜ行われたのか、それは肥料を作り安いからであった。焼くだけ肥料が生産されたから楽であった。今でも農業は肥料に苦労している。農薬が大量に使われている。その前は人糞も利用されていた。一方水田は肥料があまり必要がない、水の管理で米がとれる。つまり焼畑と水田では相当な差があり文化の差も作り出していた。十五夜の風習は焼畑からきている。それでサツマイモなどがささげられる。それは万葉集にも残っているように野の芋である。これはイノシシでも掘り出して食べている。縄文時代から焼畑は行われていた。


すめるき(皇祖神)の神の宮人ところづら(冬薯蕷葛)
   いやとこ(常)しくにわれ(吾)かへり見む


こんなところにすでに天皇が関係していたのである。
この焼畑も相当な自然破壊だった。だから放置されたところは荒地となりソウリとはその意味だった。反町とか反田はそうした放置された荒地の場所だった。もう木も育たないというから元の自然が回復しなかったのである。それから森林を破壊するから土砂崩れなどが起きた。その焼畑農耕から水田にして行ったのが日本の農業の歴史である。
日本の食の歴史では五穀が先にあった。米ではない粟であり稗でありソバなどであった。それが山の生活を支えていた。だから檜枝岐などは秘境でありソバしか食べていないという地域があり米を食べるには何日かかけて遠くに買いに行かねばならなかった。
米は贅沢品だったということが日本では長くつづいたのである。


●相馬市成田周辺の地名の解読


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成田というのはどこにでもある地名である。でもただ成る田なのか?なぜ成田なのか明確ではない、田は湿地帯から水田になったものもあるがその過程はまた複雑である。

「畑成田」「田成畑」「ゆうれい畝」など「水入り畑」と呼ばれ、圃場に湛水後直播(バラ播き・条播)するもので


成田には畑から田になったものや田から畑になったものもあある。田を畑にすることもある。「水入り田」というのは水田の最初の名付け方である。水を入れる畑の意味だったのである。その畑とは焼畑された場所だったのである。
だからここの成田がどういう場所だったか、中世になると確かに田んぼが広がってきたがその前には縄文時代とか古代は田んぼはない、焼畑地帯だった。なぜなら宇多川の川岸に北反田と残っている。それはまさに

放棄してしまうことを「ソウリしてしまう」という、そうした畑を「ソウリ」と呼ぶソウリには萱や柳が自然に生える、しかしいい木は生えない、ソウリが立派な山林になったことはない。

一旦焼畑にされた地帯はもともと森林であっても元の森林にはもどらない、あの辺が森林だったとはとても思えないがそうだった。竹内という地名で考察したが竹は今でもイメージできる。川岸には竹とつく地名が非常に多い。ここでも竹の内とか大竹とかある。
今でも川には岸には竹が多い、その竹は大原に住んでいた人に聞いたけど竹は根を強く張るから洪水などを防ぐにいいという、そのことで津浪でも同じだった。前に竹藪があり津浪の勢いがそがれたり流木をとめたりして新田辺りでは被害を大きくしなかった。
大原にも新田川が流れていてその土手に竹藪が多いのである。これはどこの河原でもそうである。だから成田辺りは黒木田という地名もあるように黒木の森が広がっていた。
赤木ともあるし森林地帯だったことをイメージする必要がある。

その森林が焼畑にされてその後に水田に成田になっていった。そのために川岸の北反町というのは焼畑の名残として一画が残っていた地域である。この反町というのは街に近いところにあるのが多いのだ。なぜそんなところにと思うが森林地帯が水田になる前は広がっていたのである。日本では草原には成らず森林になる。この辺が津浪や原発事故で水田が放置されたとき草原になったがそこから木が生えると一部森林のようになった。つまり草原は森林化してゆくのである。


こういうことは想像しにくいのだけど相馬市は城ができる前は周辺は田んぼになっていた。大町とか田町はそうである。その前は成田辺りは森林地帯であり焼畑地帯になっていた。山の方に作田とあるのは作る人が出向いた田なのだろう。また畑ともとれる。
山田はまさに山の中にあり山田でありたかまつはそこは高い丘であり松があり墓地がある。地名どおりの景観が保たれている。
相馬藩で中村に城を移した時、成田は田んぼでなかったかもしれない、焼畑だったとことも考えられる。焼畑は明治以降もつづけられていた。粟や稗は実際に食べられていた。
米は以前として贅沢だったということが農村ですらあった。
いづれにしろ成田辺りが原初には鬱蒼とした森だったり今回の津浪で磯部辺りが奥まで入江になったことをイメージできた。そこにも自然の荘厳な美があったとなる。
焼畑も水田も自然破壊だった。人間の歴史は文明化は自然破壊の歴史だった。そして現代はその自然破壊も頂点に達した。この辺で起きた原発事故はそうだった。最大の自然破壊が起きて住むことさえできなくなったのである。

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2013年12月04日

神秘の沼(抽象画)

 
神秘の沼(抽象画)
 

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最初の一枚が一番上のをエッセンシャル4で写真を絵画にアレンジした。それは金閣寺の氷が張った写真であり一部が氷が解けて青い空がぽっかりと写っていた。
写真も実際は絵に近いものがある。写真をアレンジすると絵になりやすい。

でもあとのものはその写真をもとにしたのとはからなくなる。
主に万華鏡で必ずアレンジする。

絵が描けなくてもパソコンのフソトだんで楽しめるようになった。
なんか色の無限の変化があることがわかった。
これは音楽だったら音の変化なのだろう。

ただちけ抽象画でも現実の具象からイメージしているから現実とまるで離れたものとはならない

神秘の沼を北海道の宗谷へ行く時見た。それは本当にこの沼のよう手つかず自然そのままの沼だった。北海道にはまだきそういう所が残っている。
いかに自然のままの沼であれ何であれそれは神秘的でありカムイというもの神的なものを感じる。おそらく古代の人々もそういう手つかずの自然の中で生きていた。

沼の回りにオオバナエンレイソウが咲いていたのも神秘的だった。
あの沼は本当に神秘的であった。何か本当に上か住んでいるというふうにさえ思えた。
沼に沼の神が沈んでいる隠れている感じだった。

そういう神秘的な純粋な自然は失われた。今目にするのは何か人工的なものが必ず加えられているのだ。

冬椿(震災から1000日すぎた)


冬椿(震災から1000日すぎた)

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冬椿午後の日さして隣かな

農家あり垣根の囲む冬椿
冬の菊午後の日さして竹に風


手にとれば一枚一枚落葉にも異なるものや人も様々

日々通るこの道静か冬の薔薇三輪咲きてなお朽ちぬかも

声でずにしゃべれる人のしゃべれるを今は亡きかな大原の人

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冬椿はまだあたたかい12月ころなのだろう。今年はあたたかいのか?今頃雪ふったりするからそんなに寒い感じはない、なんか冬椿があたたかく見える。不思議なのは隣は今の時代かかわらないから無縁社会だとか言われる。でもだんだん年をとってくると身近な所が大事になってくる。それを今までは感じなかった。ここ6年間苦労の連続でそれを感じた。誰も新配してくれるものものいない、田舎ではただ近くで何かそうした災いの人を見ているのは楽しみだということかある。都会では隣が誰かわからない、田舎では一応知っていても無関心ではなく相手が困るのを楽しんでいるという残酷さがあるのだ。
特に最近はそうかもしれない、これはただ田舎では町内と農家では違ってくる。
農家はもともとまだ共同性があるだろう。

ただどうしても共同性のコミニュティか失われているのが現代である。

原発事故で避難して帰らないという人が50パーセントもいるとなるともう警戒区域の地域は復興はないのだろうか?
村がなくなるのが淋しいとか言っていた老人もいたのがわかる。
老人になるとどうしても先祖代々住んでいたところにこだわるのである。
執着するのか人情である。
だから自分も隣に椿が咲いている。それがなんなんだとなるが隣の椿に注目することがなかったのである。隣にも近くにも椿は咲いていたのである。

写真に撮ったのは農家である。あそこはコメリがあるから目立つ、あそこも農家だったのだろう。庭は広いし蔵もあるからた。

震災から1000日がすぎても岩手県でも宮城県でもなかなか復興しない、壊滅的打撃を受けたところはもう復興するのがどうかもわからない、でもいつまでも仮設にいるわけにもいかないだろう。この辺では復興住宅ができつつある。でも何か小さいから老夫婦にはいいか若い子供のいる家族には向いていない、今の時代はどうししても個室をもつからである。勉強だって子供部屋がないとできないだろう。


聞いた話では原町の火力発電所でもともと1000人は働いていた。でも津浪の被害でその工事関係者5000人来ていたという、中は見ていないがそれだけの人を必要としたのである。今は工事が終わったからその5000人がいなくなっただけでも外部からの人は相当数減っている。だから仮設の食堂では人が来ないと嘆いている。前はやはりそれだけの人が外部から人がきていたのだからどこの食堂でも一杯になったろう。
今でもホテルなどは盛況であり満室だとも言われる。
この辺では新地に火力発電所があるからそこは雇用の面でも大きい。もちろんそこから税収も入ってくる。以前として電力関係はこの辺では大きな産業なのである。

でもすでに外部の人が大分へって食堂に人が来ないというときこれからさらに人が減少してゆく、ボランティアもそうである。ただ今は復興住宅の建設が盛んであり建設関係の人が外部から結構きているからまだそんなふうに感じない、でも外部から入ってくる人は減ってゆく、そしたらこの地域はどうしてやってゆくのか?そういうことか深刻になる。
いつまでも補償金はつづかない、そしたら外部の人も去り残った人たちはどうして復興してゆくのか?そういうことが深刻になってゆく。


1000日もそうだが三年目辺りからはもう帰るのか帰らないのかと決める必要が出てくる。いつまでも仮設で宙ぶらりんでは困るたろう。仮設は何かやはり存在感がない、それもそうである。仮の宿にすぎないのだ。これも一人とか二人の風流人だったら別にいいけどみんながそうなったら異常である。仮設で根を下ろして生活するということはありえないからだ。仮にいるだけなのだから地元の人とも南相馬市内だって特に二本松とか他に出て行った人はそうなる。だから仮の街の構想も生れた。仮設は中途半端なのである。
だから3年目から仮設を出る決意をせねばならなくなるだろう。


人間も年取るといろいろである。その色もみんな違う。たどった道も違う。最近しりあった人は苦労が重なって63才くらいだけど75歳くらいにしか見えない、今の60代は本当に若い人がいる。だから余計に皺が多く老けてしまったなとみる。ただ同年代といろいろ話があう。その女性は話が面白いのである。そういう話好きの性格なのだろう。
他の男性ともつきあっている。それは男女の仲というものでもない、茶飲み友達のようになっている。茶飲み友だちならいいか色恋ざたが普通にあるから今の時代は怖い。男女ともに怖いのである。
落葉も写真がいろいろでているが色がみんな違っているのだ。60代になるとみんなやはり違っている。ただあんまりこの年になると容貌が第一の価値とならない、話して面白いとか何か別なものが価値になるのだ。料理がうまいとかなるとやはり得である。今は一人暮らしの老人も多くなるから教えると感謝されるだろう。友達にもなりやすい。


南相馬市立病院で知り合った大原の人は死んだけどふりかえって見ると喉を切開していてしゃべることができなかった
んでしまった。何か自分に大原のことをしゃべるためにしゃべれるようになり死んだのかとまで今になると思った。今度は本当にしゃべれなくなった、永遠に本当にしゃべれなくなったからだ。
人間は最後にしゃべることがある。姉は延々と戦争のことをしゃべりつづけた。それだけは忘れられなかったからだ。それもついに死んでしゃべることはなくなった。
人間はみんないつか語らぬ人となってしまう。
どんな人でもそうして最後に最後まで語ることがありそれが死んでから心に残るということがある。
なぜなら今になるともうその話も聞けなくなったからだ。

その最後はかなきものや蝉の声

盛んに鳴いた蝉の声のように終わってみればはかないものだったとなる。こうしてみんな人生をくりかえしてきたのである。
そういう自分もそういう最後は近づきつつあるのだ。

2013年12月05日

人間の運命はやはり運が作用しているのか? (病院で赤ん坊かとり違いられて貧乏の一生)


人間の運命はやはり運が作用しているのか?


(病院で赤ん坊がとり違いられて貧乏の一生)


60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡しました。


これも不運といえば不運であり病院の責任はまねがれられない。でももう金で過ぎた人生を返してくれと言って無理だろう。そもそも人間の時間は老人になると誰でも否応なく知らしめられる。時間は金で買えないしどんなことしても帰ってこない厳粛さがある。
そして人生は一度切りなのである。

もはやともかく病院で取り違いられても病院に責任があってもあとの祭りである。いくら金をもらっても時間はもどってこないし、時間だけは金で買えない、血のつながりがあった兄弟だと言っても実際は普通は兄弟として費やした時間の方が兄弟を決める。
一緒に過ごさなかったら家族という感覚が起きない、生みの親より育ての親の方が親なのが普通である。子供にしろ育てられなかったら親とは思えないし逆に親にしても子供として育てなければまた子供とも思えないのが普通である。

確かに血縁になると親と子になるといろんな面で性格でも似ている。でも愛情は別である。性格でもにていなくても愛情があって育てられ愛情を注いだから子供になる。
だから全然知らない人をこの人が親だと言っても兄弟だと言ってもそうはならないのが普通である。

この問題は財産がからんでいて複雑になっている。
財産かからむと真実が見えなくなるだ。
自分も身内の介護とか自分自身も病気になり辛酸をなめた。
その時何か口だけで愛情を盛んに言う遠い親戚がいたか全くの金目当てだった。
宝くじであたったりすると遠い知らない親戚すら寄ってくるというのは本当である。
いくら口で言ってもただ金が欲しいだけであり金もらえば関係ないとなる。
それが金がからんでいると見えなくなるのだ。
この問題にも確かに金がからんで複雑になっているのだ。


人間は結局は運の作用が大きい、病院で取り違いられたのは病院のミスでもただ運が悪かったとしか言いようがない、ある人は子供の時に捨てられたけど金持ちの人に拾われて恵まれて育ったとか昔も今もある話である。それはただ運が作用していたのである。
人権の運命はまさに運の作用が大きいのである。いくら努力しても運作用がなければ金持ちになれないということもある。そもそも金持ちは一代でなるのはむずかしい。
親の代で土地かあり家がありとなれば金もたまりやすいけど一から始めればたまりにくいのである。だから財産は豊かになるには三代くらい必要になるのだ。


大きく歴史をみてもモーゼが拾われたのはエジプトの貴族の女性だった。それは神が関与したということになっている。人間の運命は何か謎であり不可解である。だから神が関与したとか思うようになる。家系などもまたそういういい運を引き継ぐものがあり悪い運をカルマを引き継ぐ家系がある。時代的にも戦争の時生れた人は時代的最大の不運だった。才能ある人も発揮できず若くして死んだし肺病などでも死んだ。それは時代がそうだったからである。自分にしても体が弱くてもこれまで生きてこられたのは運であり時代が良かったからだとなる。時代のいい面の恩恵を受けたためなのである。


歴史的瞬間とういか時代を分けるもの運が作用している。信長だっていちかばちかの桶狭間の勝負に出て勝った。ただ何かの調子で天候の作用などでも負けることがあった。
天候も味方すれば運であり悪く作用すれば運が悪かったとなる。津浪でも生きた人と死んだ人がいてそれも運がいい人と悪かった人がいて生死を分けた。偶然に津浪の時家にいなかった人は助かったし偶然に遠くから海岸に来てそこに住んでいなくても津浪にあって死んだ人もいる。これは明らかに運が悪かったとなる。
ただ津浪の場合は警戒しないということが被害を大きくしたのだからすべてが運ではかたづけられない。ただそこでも運不運はあった。


ともかく貧乏で男の親が二歳で死んで生活保護になって育てられたというのは不運であった。でもその頃まだそうした貧乏の人は多かった。でもずいぶん不遇だったことは言える。自分の血縁にもそういうことがあった。一人は事故で死んだ。でもその不運はすべてが運ではなく借金したりと自分で招いた不運でもあった。自分だって恵まれてもある時、死ぬことが確実にありえた。アルバイトしたとき、工事現場で高い足場で仕事していて下に落ちるところだっ。ビルだから落ちたら確実に死んでいた。そのことをふりかえると今でも恐怖である。だからアルバイトでアンテナを建てる仕事していた人が死んだとかあった。屋根から落ちて死ぬ人は結構ある。だからアルバイトなどでそんな危険なことはやるべきではない、慣れた人はそうはならないのが普通だからである。
だから自分もいくら恵まれていてもやはり運があって生き残ったということはあるのだ。

いづれにしろその貧乏くじを引いてしまった人はもうその一生は過ごした時間にあり兄弟でも家族でも一緒に過ごした時間の中で育まれたのが家族でありまたその人の過ごした時間によってその人の一生も決まる。何に費やしたか誰と費やしたかその過ごした時間が人生なのである。故郷だったらそこに長く生活したから故郷でありその費やした時間が故郷となっている。いくら生れた場所でも他に移って過ごす時間が長くなればそこが故郷になる。だから時間ほど人生で大事なものはない、そして時間は誰でもある人が特別長く与えられたりしない、平等にしか与えられない、長生きしたものは確かに時間を長くもちえたのだからそれだけ生きたともなる。でも時間を特別長くをすることはできない、誰も200歳までは生きられないからだ。いくら金があっても何かに誰かと費やす時間は限られているのだ。だからいくら貧乏でもその一生はその貧乏で暮らした人生がそれなりの人生だったとなってしまう。それをとりかえそうとしてもできない、時間はとりもどせないからである。


ただ人間はすべてが生まれとか育った環境とかで決められるということもない、信長だって圧倒的な多数の敵を前にしていちかばちかの賭をしなかったらあそこまで成らなかった。それは普通の平凡な人でもそういうことが必ずある。何か人生の岐路にたたされる。
その時いちかはちかの決断をしてそれが成功につながったという経験をもっている人はかなりいる。経営者などには多いだろう。そこにも運が作用しているのである。

posted by 老鶯 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

震災死者数の関連死の数字 (原発事故避難地域はやはり多かった)

 

震災死者数の関連死の数字

(原発事故避難地域はやはり多かった)

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現代は数字社会である。あらゆるものが数字で現され数字で物事も決められる。数字で統計でも株価が予測されたりする。現代は常に数字に追われる時代なのである。
民主主義でも選挙で左右されるから一票としての数が問題になる。
あらゆるものが数字として判断される。
アメリカの失業率とかもそうであり実際は表に現れない数字があるから本当に失業率が判定できないと言う人もいる。
統計には必ず表に現れないものがありそこに数字の詐欺が起きてくる。

放射能なんか数字でしかわからないからこれも数字に追われている。
放射能は本当に数字でしかわからないから数字で感じるほかないのだから嫌になる。
極端な数学の世界なのである。数字とか数学が苦手だから何かなじめない、
でも毎日数字を見比べているのがこの辺の現実なのである。


今日の福島民報にでていたのが震災関連のことでありこれも数字だった。最近は新聞をとるのをやめたので見ていなかったが特集していたので買った。
この表で注目したのが震災の関連死だった。



南相馬市で525人が津浪で死に437人が関連死している。111人が死亡届けだしているがこれは行方不明なのだろう。
名前が届けていても死体がでてこない、南相馬市か一番多いのはどうしてなのかとも思う。
こんなに関連死が多く行方不明者がいたのか?
地域的には鹿島区の海老村とか烏崎村とか原町区の萱浜でも死者が多かった。
しかし不思議なのは相馬市は関連死が25人で死亡届が19人で少ない。
これはやはり原発事故の避難に際して死んだものなのだろうか?
相馬市と新地とかは避難命令は出ていないからだ。

知人に聞いた話では親戚で関連死した人があった。
関連死は病人や介護されている高齢者などが多かった。
自分も母親を介護しているから避難したら確実に死んでいた。
もう動けないし気力もなくなっていた。
家にいたことで死なずにすんだのである。
介護している人は大熊辺りでも最後まで残っていたことでもわかる。
ここで死にたいんだといっていたのである。



このことは数字を見れば歴然としている。楢葉町で震災で津浪で死んだ人は11人でも90人が関連死であり
富岡町でも11人しか津浪の被害はなく203人が関連死だった。
浪江でも149人死んでも306人が関連死だった。
いわき市はなぜ関連死が多いのかわからない、ここは避難区域ではなかったからだ。

ただ仮設などに入って高齢者が弱り死んだことも考えられる。
この数字ではっきりしていることは原発避難区域は関連死が多いのである。




双葉町か大熊では病院に置き去りにされたとか問題になった。実際はそうではなかった。東京電力福島第1原発事故からの避難中に双葉病院(福島県大熊町)の患者ら50人が死亡した問題で、同病院の入所者ら4人の遺族が10日、東京電力を相手取り、計約1億3千万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。


 東京電力福島第一原発事故に伴う避難で体調を崩して亡くなったとして、大熊町の双葉病院の男性患者=当時(62)=の遺族が東電を相手取り損害賠償を求めた訴訟の弁論準備手続きは22日、東京地裁で行われた。原告側は、男性患者が避難後に入院した病院の診断書などを提出した。

 次回は1月24日午前11時45分から開かれる。
 訴状によると、男性患者は平成23年3月16日に自衛隊に救助された。その後、避難先を転々として、翌月18日に福島市内の病院で死亡したとしている。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/11/post_8655.html
(2013/11/23 11:26カテゴリー:原発事故関連死)


原発事故関連死 いわきの震災関連死 認定訴訟 市側、争う姿勢 「避難と自殺 関連性ない」 福島地裁

女性と夫は震災後の一昨年3月15日、いわき市から郡山市に避難した。しかし、夫は断水や余震などで精神的に不安定になり、うつ病が悪化し、昨年5月に自殺した。女性はいわき市に震災関連死の認定申請をしたが、同年9月に不認定とされた。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/09/post_8175.html




関連死はいろいろあり原発事故のための避難でストレスで病気を進行させたということはある。そういう話を二人ほど避難者から聞いたから結構この数字はオーバーではないだろう。死期を早めたことは確かである。ただ双葉病院の場合、問題は複雑であり病院にすべて落ち度があるとはならない。


避難指示がだされた地域は関連死が多かった。それは南相馬市でも30キロ内の原町区、小高区がそうだった。小高区は避難命令でありいち早く避難して鹿島の体育館にも避難した人がいた。浪江から相馬市にも避難する人もいた。まず近くに避難したのである。
だから線量の高い津島や飯館村に避難してかかって被爆したのである。

この時国からの指示は東電からの指示は何もなく浪江では町で独自に判断して津島の線量の高いところに避難したのである。
一応スピーディで放射線の分布は計られていたしそれは正確だった。でもそれが知らされることもなかった。
政府と東電は全く事故が起きない「安全神話」を作っていたのだから事故対策はしていなかったのである。


おそらく政府も東電も戦争の時と同じように皇国神話、日本は神の国だから負けないという宗教のような信念におちいっていた。それはオームであれ創価であれカルト宗教が拝んでいればすべてがかなうという神話になっていた。オームを批判するが国も東電もオームになっていたことの驚きである。宗教なら科学的でないと批判されたりするが科学者も何か安全神話を作る大きな力となっていた。御用学者がそうである。
安全だ安全だと外に向かって宗教のように唱えている時安全になると思っていたのかもしれない、それは題目を毎日必死に唱えていると同じだった。
それは戦争に勝つ勝つ絶対に負けないと叫んでいたのと同じだった。
そこに疑問をさしはさむことはマスコミも誰も許されなかった。
だから原発に疑問を安全でないと言うことはタブー化していたのである。
そのタブー化が大きな事故に災厄につながった。


地元の人もまた安全神話の先兵と化していた。なぜならその利益によって町の財政が成り立つとなると反対派は口を封じられる。今でこそ反対しているが本当に地元ではこの辺では原発に反対すると危険な状態に陥っていたかもしれない、みんな金になる、利益になるというとき、それに反対すれば村八分にされて住んでいられなくなったろう。
それほどの圧力がこの辺にはあったのである。
今でもなぜ東電や政府にもっと抗議しないのかというとき東電には世話になったとかそういう人が多いからそうなる。現実にそうだったのである。
人間なんであれ飯を食わせてもらうところが一番大事でありそこに命さえかけるだろう。だから今は会社がそういう場所だから会社のために命もささげる。企業戦士という言葉が生れたのもそのためである。


ともかく避難の過程でどういうふうに死んで行ったかは個々に違っているからわからない、ただ数字が如実に語るということはある。
この辺の火力発電所で事故後に5000人働いていたということには驚いた。
5000人かとなるとその数は凄いものだと思った。
その五〇〇〇人かがいなくなったらやはり影響が大きいから仮設の食堂にも人が来なくなったというのもわかる。瓦礫の処理でもその数は膨大なものだったことがわかる。


いつれにしろ人間個々人が接する数は少ないからこうして大きな数が出てくると驚く、でも実際に関連死でもその場にたちあった人は少ない、だからただ数だけから判断する。
そこにリアル性が現実感が欠けてくるのである。
戦争で三百万人死んだと言ってもそれが何なのだとなる。実際にそれをリアルに感じるには写真ででていたニューギアで掘り出された日本人兵士の骸骨の山でもふれれば怖いように感じるだろう。数字だけからは怖さを感じない、無機的なものとなる。
文明は数字によって何か人間的なものか剥奪されている。それがナチスのガス室の大量殺戮だったと言われる。誇張にしても数字だけからは何か人間の真実は把握できないのである。だから現代は常に数字に追われ数字にだまされるということが日常的に起きているのだ。人間社会は数字ですべて把握できないものがある。血の通った人間は数字では現せないのである。数字化すると人間は無機質になり非人間化する。


そして数字は今や必ず権力と数字の圧力で社会が動く、創価が八〇〇万票だとか幸福の科学がいくらの会員だとかすべ数字で判断される。実際活動している人はもしかしたら一〇万人にもみたない、でも数で判断されるのである。
ただ関連死はこの地に大きな怨念として残る。故郷を失ったものたちの嘆きが残る。
その中には人間だけでない無残な動物の家畜の餓死死とか豚の共食いとか地獄が本当にあったのだ。それもまた政府や東電の罪だったから罪深いとなるが幹部も一向に責任をとらない、誰一人として責任をとるものはいない、ただ怨念かがこの地に残ってしまったのである。

posted by 老鶯 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年12月06日

時雨(鹿島区の横手の道は細いから街道だった)


時雨(鹿島区の横手の道は細いから街道だった)

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二三滴顔に時雨や旧街道

一区画菜っ葉をぬらす時雨かな
葉ボタンにニチニチ草や駅舎かな
冬日さし古木の影や旧街道
栃窪へ道標一つ年暮れむ
 

今日は写真とらなかった。明日とってみよう。横手辺りの道は細い、六号線から入ったところで浜街道である。六号線は三〇年以上になっていても新しい、浜街道は江戸時代からつづいているし実際その道筋は変わっていないのだ。
ただそのことをあまり意識する人はいない、でも六号線から横手に入る踏み切りがあり横手古墳がある道はいつも細い、自転車で通れない、浜街道は全般的に細い、あそこは自転車で通る道がないのだ。日立木辺りもそうである。その狭さが道が変わらないことを示しているのだ。

今日は確かに時雨が二三滴ぼつりと顔をぬらした。ただそれきりで終わった。

時雨とかなると六号線は向いていない、昔の街道は向いている。もし歩いていた人がいたら何ともいえぬ情緒を感じたろう。六号線は歩いていても歩くことが何かあっていないのだ。六号線は歩く道ではない、人間が歩くというときやはり浮世絵のような姿なのである。まさに江戸時代は歩くことが風景とマッチしていたのである。


横手から栃窪への道標があくけどあれに注目する人はまれだろう。昔だったら栃窪でも大原でも相当に遠い距離であり今の距離感覚とは違っていた。村々で自給自足でありなかなか同じ町でも町内にでてくることが難儀だったろう。車社会になるとそういう感覚はない、でも自転車しかないものにはやはりそれなりに遠いとなる。


最近相馬市にすら何カ月か行っていない、なんか知り合った人が小さな畑を作っている。その畑は小さな畑でありそこをいつも見て通っている。その女性はもともと農家の出だから農業に詳しい。町のことにもくわしい。
農業というのは実際自分で野菜一つでも土をいじり作ってみないとわからないだろう。
実感がでてこないのである。だから農家の人とじかに接すると身近になる。

今日時雨たなと思ったらあそこの知っている畑の菜っ葉にも時雨がふったとなる。
その女性は特別苦労していて皺より一〇歳はふけている。
こうした生活感覚がでるのはそういう人とつきあうことでもでてくる。

時雨を風流にしたが農業は天候と切り離せずあり農業から実際は季語も生れて文化となっていた。芸術の基盤は農業にあったのである。

ただ農家に嫁いだ女性は全く農家の人ととは見えない。野菜一つも作っているようにも見えない、田んぼも人にまかせているとなると農家に嫁いでも会社員なのである。
そういう人はきれいな身なりをしてもなにか生活感がないのである。
一番生活感があるのはやはり農家の人であり漁師だったのである。


やはり浜街道をたどると昔を理屈なしで感じる。だからその道がとぎれたことが残念なのである。六号線は旅の道ではない、移動の道である。浜街道は歴史の道であり旅の道である。だから何度行っても感じるものが違うのである。それが歴史ということかもしれない、その道は歩くのにふさわしかったのである。

2013年12月07日

信長の桶狭間の勝利の原因は-戦争の勝利には共通のものがある (地の利、天の時、人の和が作用した-原発事故にも作用した)


信長の桶狭間の勝利の原因は-戦争の勝利には共通のものがある


(地の利、天の時、人の和が作用した-原発事故にも作用した)

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●勝利の主な要因(地の利が働いた)


信長は隅々まで知り得ている地の利を生かして合理的に決戦場を選択し、
機動力を生かして攪乱戦闘に持ちもむという
これまた合理的な戦いを推し進めたが故の勝利だったようです。

事前の情報収集には万全を期していた。「武功夜話」によれば、信長は細作飛人、すなわちスパイというか情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていたということだ。蜂須賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちがこれである
http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/nobunaga/okahazamasuiri.htm

川並衆が歴史の表舞台に登場してくるのは、木下藤吉郎が信長の命で、東美濃調略に着手した頃からである 。永禄七年(1564)藤吉郎は川並衆に対して信長に従属することを説き、東美濃調略に協力してくれることを依頼した。こうして、蜂須賀小六は秀吉の手に属し、かれは美濃の郷士に知り合いも多く、藤吉郎の活動を大いに援けた
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tubouti.html

豪雨が織田方から今川方に向かって吹きつけたことは、「信長公記」の記載のとおりである。織田の兵士たちは、皆、”熱田神宮の神戦(かみいくさ)か”と言って非常に勇気付けられたという。
、急な集中暴風雨さえなければ、駿河勢は信長の突撃などは軽く一蹴することができたとも思われます。

ここが詳しい
http://kagiya.rakurakuhp.net/i_206033.htm

『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈(み)たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」


信長が桶狭間で勝利したのはいろいろ分析されている。自分は詳しく調べていない、でも歴史は地理だということを書いてきた。地理がわかれば日本史でも世界史でもわかると書いてきた。だから勝利の一つの大きな要因が地の利だった。
ただ桶狭間ではその地の利を利用したのが敵側だったとも言われる。それは単純な構図ではなかった。今川軍は見晴らしのいい山の上に布陣していた。だから信長が地の利を知って奇襲して勝ったというものでもない。ただ明かに戦いの帰趨は地の利が優位に働いた方に味方した。それから雨がふったというのも事実でもあり雷雨でありこれまでの常識ではそうした雷雨には戦いをしないとなっていた。だから今川軍は油断していた。

地の利と天の時、天候が左右して信長軍に有利に働いたことは確かである。
それと人の和もそうである。信長軍はすでに兵農分離して専門の軍隊を編成した小部隊でも機動力があった。国人組織の今までの戦国大名とは違っていた。つまり人の和の新しい軍隊組織になっていた。
この軍隊組織は明治維新の時にもあった。近代的軍隊組織がこれまでの徳川政権の旧態なものと違って機動力があり徳川軍にはなかった。戦国時代も明治維新という大変革時代とにていた。侍組織か西南戦争で国民軍に負けたことでもわかる。
明治維新はそもそも藩主体の人の和から国民の和に変換したのだから大変換だったのである。
人の和というのは人がどういうふうに結合するかということにもあった。
たから常に地の利、天の時、人の和は変わらない原理なのである。

●技術もその国の地の利が関係していた


技術というのも国の地理とか風土とかか関係ないもの、科学技術はそう見える。例えば数学などは科学でも1+1=2であり世界中どこでもその原理は変わらない、化学式でもそうである。だから科学は普遍的なものになりやすい、それでも科学技術はその国の地理と風土に関係していた。風車が発明されたのは中東である。それは砂漠のようなところでは風が吹きやすいからそうなる。山などにさえきられないからそうなる。
日本ではトンネルの技術が発達したのもわかる。いたるところ山だからである。その必要性から発明が必要の母だから技術も生れる。
前にも買ったヤマハの電動自転車は急な坂でも上ることに驚いた。これは世界ではなかなかないものかもしれない、それも日本では坂が多いから坂に強いものが望まれるからその技術も発達する。自転車は平坦な土地が多いヨーロパで発達したというのもわかる。
オランダなどは坂がないのである。

その国と風土が作られるのはその地勢とか地理とか風土が密接に関係している。だからその国にあったその国でとれるものを食べていた方が体にはいいわけである。
日本は魚介類中心だからその方がなるべく良かった。欧米人の不思議は肉を消化する酵素が特別に出るということ自体不思議である。日本人は腸が長いという時、穀物類の消化には牛のようにはいいとなっている。体もその土地と密接に関係して作られてきたのである。だからその土地や風土と地理と離れて人もありえないのである。
だから歴史をみるとモンゴルが船で攻めてきて勝ったのも海が防衛線となり台風が来てモンゴルの船が沈んだとかが原因で勝った。それは日本が神の国だからではない、そういう地理的条件と天候に左右されるものだったのである。

東北が辺境として長くありつづけたのも地の利である。伊達政宗が活躍したのは地の利にあったし宮城県の仙台が東北の中心になっているのもそうである。会津が中心になりえないのはそれは戦国時代からそうでありどうしても地の利が悪いからである。常に地の利に影響されるのが人間社会なのである。

●原発事故も地の利、天の時、人の和が影響した
http://musubu2.sblo.jp/article/54567694.html

ここに書いたけど信長の勝利も地の利が天の時も働いた。なぜなら雨がふり天候が信長に味方したからだ。ただ周到に計画して合理的計算で勝ったと言ってももやはり地の利とか天候はどう左右するか決戦の場でしかわからない、ただそこには勝利の方程式のようなものがあった。


●地の利
●油断
●指導者の優劣


これらが影響するのは戦争ではどこでも同じようになる。地の利がないと勝算がなかなかたてられない゛今川軍はいくら大軍でも後方支援として食料とか運ぶために多大の労力が必要となる。今川軍が大軍になったのはそのためである。戦争にはいろいろな要素が働いている。だからどうして勝ち負けたのかということはなかなか簡単には判別しにくい。
だから運であり神が味方したとかまでなる。

今川義元は別に愚将でもなかった。ただ旧弊な時代の子であり信長軍は明治維新のように近代化した軍隊組織だったとか進んでいた。それはただ運というだけではない、運があったにしても運を呼び込むものがないと勝てない、だから雨が降ったから勝った、すべてが偶然だったとはならない、奇跡でも何もしないと起こらない、棚からぼた餅みたいには起こらない、信長軍は周到に準備して備えていたからこそ地の利と天候も味方して勝ったとなる。何か奇跡のうよなことが起こるのは日頃血のにじみでるような努力を重ねていれば起こる。何もしないでいたら何も起こらない、最初から何もしなければ何も起こらないのである。

指導者の優劣でも評定をと桶狭間の前で家来が騒いでも評定をいくらしても勝てない、なぜならそんな危急の場合、多数決で大事を決められるのか?つまり誰かに決断をゆだねる方が勝つことがある。もちろん負けることがある。でも評定を議論をいくらしたって埒があかないのである。そういうことが津浪や原発事故の処理で市長町に起きた。

いろいろなことを議論しても何もできない、南相馬市町は義援金など金があってもいまだに分配もされないし使っていないとか批判される。無能な市長だから代えるべきだと騒いでいる。それは相馬市町でもそうである。誰かが決断してやらない限り何もできない、進まないのである。でもその決断して実行するのを決めるのも選挙だからまた同じ結果になるかせしれない、選挙とは桶狭間の評定であり誰を大将にするかともめていたらいつまでたっても決断できず滅亡してしまうのである。

東北電視力は地の利があった。津浪の恐ろしさを考慮していた。それも指揮官の副社長が10メートルではたりないと15メートルにして辛うじて助かったのである。
原発は戦争と同じだと言っていた人がいた。確かに地の利を理解して天の時もしる。
天の時とは天候や自然現象であり津浪もその中に入っていた。人の和とはやはり一致結束される力が必要だった。ただ原発を戦争に値するなどと考えた人はいないだろう。
原発の技術をになう人は細分化されているからそんなことを考えない、ここのボルトをしめればいい、ここの部品を作ればいいという考えしかない、地の利とか総合的戦略的に考える人はいなかった。

アメリカはやはり戦争を常時している国だからこうした巨大技術の管理には向いていた。なぜならアメリカの方が地震とかを警戒していた。だからほとんどの原発は地震の少ない東側に作っていたのである。それから原発内の安全管理も日本より厳重だった。
原発事故は日本の第二の敗戦だというときまさに一部分のことではなく原発が総合的様々な要因で事故が起きたからである。
アメリカの戦争に負けたのもアメリカをあまく見たとか油断があり指揮系統の乱れがあり人の和が乱れ地の利も不利に働いた。海を制せられて逆に窮地に陥った。それは信長の桶狭間と同じである。かえってアメリカの方が海を味方にしたのである。
指揮も実際はアメリカの方が高く日本は上官と下士官が分裂していたとか実際は人の和も強くなかったのである。だから戦争とかそれに類する総合的な戦いでは技術だけでは勝てない、総合的戦略が必要になる。それが日本では苦手だったのである。

 
 
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2013年12月08日

人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する (福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)


人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する

(福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)

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地理的感覚というのは一番わかりにくものだろう。地図見ても立体地図を見てもわからない、高低差とかいろいろな面で地理はわからない、やはり一番わかるのは徒歩感覚だろう。車感覚でもわからないだろう。ただ現代の地理感覚は交通に左右されている。
東京から飛行機で何時間と計れば中国が三時間となると中国が国内より近くなる。
日本より外国を身近に感じる人も多いのが現代である。
中国人の距離感覚は日本人の十倍くらいの感覚になるとか遠い所に行くのが抵抗がない、大陸の距離感覚は日本の島国の距離感覚とは違っている。
日本は中国と戦争になった時その広大な大陸感覚に適合できなかったろう。
もう戦略もたてられないほど途方もない広さだった。
広大な大陸にのみこまれるような感覚になっただろう。
まず世界は一二回旅行したくらいで地理はわからない、それだけ地球は広い。


結局人間の地理感覚は自分の住んでいる場所か基点となり思考しているのだ。
これたけは変えることはできない、地理の制約を越えることはできない、
そこに人間が理解しえない壁が生れる。
そして地球だけではない、自分の住んでいる狭い場所でもまた地理感覚が違っている。
南相馬市でもここは地理感覚では国見山からみると確かに鹿島区原町区小高区が視界に入り原町句か中心になる。もともと原町市が中心だった。
相馬市ははずれている。飯館村が南相馬市に合併しなかったの地理的要因が大きかった。飯館村は山国であり南相馬市と通じていても別個の地域だった。


そして福島県となると大きな県であり地理的感覚として一体感をもつことがむずかしいと書いてきた。江戸時代から相馬藩は伊達と争ってきたけどまた伊達藩と接しているから伊達藩と交流が深かった。今でも福島市より仙台に通勤している人さえいたから仙台が身近である。常磐線が通じているから交通的にも身近である。
交通に左右されるという時、山形県は仙台の延長として仙山線で通じるという距離感覚になるから意外と会津より近いともなる。また蔵王が見えるから山形県の方が近く感じる。交通の影響でそうなる。会津は交通でも岩沼でのりかえ郡山でのりかえと遠いのである。ただもし新幹線が会津まで通ったりすると近いとなる。

いわき方面は前の平駅から仙台の方を望むと結構遠いと感じる。いわきからは茨城県や
東京が近くなる。現実にいわきとまで常磐線の東京までの通勤電車が八両編成ででる。
その電車に乗って東京まで行ったことがある。
この感覚は勿来の関が東北のもう一つの入り口だったから古代から変わっていないのかもしれない、


吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな 源義家


この歌は何か白河関とは趣が違っている。海に面しているからなのか?
桜前線ではいわきが一番早く咲くだろう。中通りや会津は山が関係して遅くなるだろう。いわきが咲けばすぐに相馬でも咲く、白河関は
「卯の花を かざしに関の 晴着かな (曽良)」とは対象的である。海の感覚ではない山の感覚である。
実際に白河関は山道であった。心細い山の細道だった。今の感覚とはあまりにも違っていた。

相馬では磐城太田(いわきおおた)駅とか磐城落合とか葛尾(かつろう)村のバス停にあった。古代では磐城の国だったことも地理的にわかる。福島県が磐城県があり二本松県があり会津県があった。これが福島県のハマ、ナカ、アイヅの区分けであり地理的要件と一致していたのである。福島県になったとき大きくなりすぎたのである。
だから会津となると今でも遠くわかりにくいし文化的一体感がもてない、相馬藩が水戸の天狗党に入ったりした藩士がいていち早く尊皇になったのは地理的に水戸が近いからである。会津とは阿武隈高原など山に阻まれて交流しにくい場所だった。

郡山で相馬藩士と会津藩士が争ったというのも郡山がそうした人が合流する場所だったことは江戸時代からそうたったからである。

人間の世界観には地理か影響している。人間は自分の住んでいる場所が基点となりいつも思考しているのだ。相馬藩内でもさらにその住んだ場所によって地理的感覚は違ってくる。鹿島区だと原町区に一番近いか相馬市にも近いからその中間点にあり経済的にも左右される。大原とか栃窪とか大原などは山側であり僻地になる。
原発のあった地域はちょうど磐城藩と相馬藩が争った地域だった。夜の森とは余の森と相馬の殿様が言って領有権を主張した地域だったのである。
はま側通ると浪江に入る所に「境の松」があったのも浪江は標葉郷で相馬氏と争い相馬藩に編入された地域であった。野馬追いに標葉郷の子孫のものが出ている。


人間の感覚は思想でも地理的感覚に制約を受ける。地政学的な視点から離れられないだろう。会津には会津の中心感覚が生れる。特に山国の文化はわかりにくい、京都のように山に囲まれた感覚は日本ではどこでもあま。海側に住んでいると海から太陽でも月でも昇ってくる。しかし山国では山から昇り山に沈んでゆく、この感覚がわかりにくいのだ。
日本海側では山から太陽が昇り日本海に沈んでゆく感覚はまたさらに違っているのだ。
夕日のなかに海岸線がある情景は太平洋側とまるで違った感覚になる。

2013年12月09日

(昔を語るには同年代がいい-田舎的な素朴な人は今ではめずらしい?)


冬紅葉

(昔を語るには同年代がいい-田舎的な素朴な人は今ではめずらしい?)

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玄関に蛹や隠れ家籠もる

二本(ふたもと)の古木に夕日冬の暮


陽のさして冬の紅葉の映えにけり今一時の美しさかな

二本の枯れにし樹かな夕日さし変わらぬものと我は見にけり
ふるさとに枯れにし菊のあわれかな苦労を語り老いし女(ひと)かな
故郷に小さき畑耕せる人を知るかな冬の日さして今日も暮れにき
故郷の訛りに通じ冬の日や昔を語り今日も過ぎにき

白鳥の四五羽群れつつ浮かび映ゆ月の光に冷えにけるかな

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今年は今が紅葉なのか?冬紅葉とは写真は違うように見える。この紅葉がきれいにとれたのは日がさして裏側からとったからだった。写真は撮り方で違ってくる。
冬紅葉となると何かもっと地味である。

二本(ふたもと)の樹の家となるのだろうか?あの家は二本の樹が目立つ、これは津浪で家が流されて残った樹も二本のがありそれが離れがたくあると写真などで解説した。詩にもした。つまり津浪で流される前はこんな感じだったのである。
変わらないものとしてある。その変わらないものが今やいいとなる。何か毎日見ていても飽きないものがある。この辺は変わりすぎたから余計そうなる。変わることがみんないいことではない、ただ年になるとどうしても保守的になるのだ。
俳句と短歌では感じが違ってくる。俳句の方が簡潔で力強いということがある。

今日も来たのは六三歳くらいだけどふけてみえる女性だった。なんかかかわるようになった。一方的に今は世話するだけだけど家族もいないから今や何かあったとき恐怖になった。それで一方的でも世話していれば助けてもらえるとか思うようになった。
ただその女性は今ではめずらしいかもしれない、質素であり素朴である。
農家の出だから畑を作っていてくわしい。
やはりあの年だとなまりがあるし何か田舎的なのである。

今田舎でも若い人、五〇代くらいでもきれいな標準語をしゃべる。
どうも六〇代くらいまでがなんとか古いものがそなわっている世代になる。

団塊の世代になるがやはりまだまだそういう古いタイプの人間がまだいる。
一般的にいなくなっているから稀少なのかもしれない。
ただ話が合うという時、戦後すぐに生れた人は前にも書いたけど江戸時代の生活のつづきだったのである。
今のような豊かな生活はなにもない、水道もなかった。水は近くから井戸水をもらっていた。それでその水を子供の頃バケツで運んだ。そのことを小学生の文集に書いた。

その女性は農家の出だからまた話は違っているが貧乏なこと何もないとういことなど
共通していたのである。だから話があうということがある。
何か田舎的なものを色濃く残しているから今や田舎でもめずらしいとなる。
なまりが今は六〇代でも消えている。標準語を話す人が多いのである。

玄関の樹に蛹を見つけた。なんかこの頃忙しくて相馬市にも何カ月も行っていない。
生け花の方もやれない、昨夜は家事の残業だった。家事をしていると時間を使う。
料理していたらまず一時間以上軽くかかる。だから買ったものですましている。
時間がたちまちすぎてしまう。すると書くこと
ができなくなる。
買い物だけでも時間がかかるのである。

でも震災のとき、方言でなまりでしゃべりあったとき励まされたとかの放送があった。
訛りにはなにかその土地の素朴なものを土の匂いのようなものを感じる。
そもそもその女性は農家の出であり土の匂いがする。
前の女性はハデすぎたのである。とても六〇代には見えない女性だった。
だからむしろ田舎的な素朴な男性でも女性でも少なくなっているのが現代なのである。


白鳥も来て川に浮かんでいるから冬らしい冬になっている。

 

2013年12月10日

権利ばかり主張して感謝しない時代 (民主主義の弊害-津浪は神からの罰だった?)

 

権利ばかり主張して感謝しない時代

(民主主義の弊害-津浪は神からの罰だった?)

●人間はそんなに権利がそもそもあるものなの


現代は民主主義社会では常に権利が主張される。どんな人にも権利がある。人権も人としての権利がある。だから障害者だろうが生活保護者だろうが最低限の生活はする権利があると主張する。そして権利は平等だとなる。だから親の財産でも平等に分けるべきだとなり絶対にゆずらない、権利はrightのことである。何か正しいという根拠に基づいて権利がある。だから権利は最初は権理と名付けられていた。なにかしらreasonがあって権利がある。ただいくら権利があるといっても後進国ではでは生活保護の権利があるとデモになるかといえばならない、生活保護は豊かな国で保証される権利である。

つまり豊かでなければそんな権利はありえないのだ。乞食が恵みが足りないと怒り相手を恐喝するのともにている。ただ生活保護は今は高齢化社会での老人は別扱いだと思う。
いくら一生働いても公務員のように高い年金をもらえるとは限らないからその不平等を補うために生活保護もある。ただ若い内はやはり安易に生活保護になるのは問題だろう。


民主主義で権利だけ主張するようになったのは人間の欲望は全面的に認めるべきであり満たされるべきでありその権利があるということにもなっている。欲望を抑えるべきではない、それが欲望資本主義なのである。禁欲から修道院からはじまった資本主義が歯止めのない欲望資本主義になった。だから権利と欲望は必ず一体化しているのだ。
遺産を兄弟で分けるのが問題ある時がある。土地をもっていて兄弟で分ければ農業ができなくなることもある。でも権利を主張するから認められるからそこでかえって兄弟の和は破壊される。つまり人間の欲望は限りないから止めることができないから権利を認めればそうならざるをえない。


自分の場合でも遺産の問題でもめた。でもそれは二〇年以上前のことであり相手は時効になっていることも気付いていないのだ。殺人でも時効になっている。裁判に訴えるというとき、それは何の法律的権利もなくなっていた。でも相手はどうしても金が欲しいから権利を主張する。
こちらではそういうことではなく何かしてやろうとしても相手はそのことが当たり前であり何の感謝もしない、要するに当然もらえるものを権利を主張しているだけだとなる。
権利はあったにしても権利ばかり主張してお前は金だけをよこせとなるともう交際はできない。これは今の親子関係でも起きている。金だけをよこせばいい、感謝などはしない、なせならそれが子供の権利だからとなってしまう。
だからもう金をやらないことにした。またそうできない事情もあった。
福祉関係だからめんどうになるからだ。


何かこういうことは現代ではどこでも起きている。常に人は権利だけを主張する。
その権利はあらゆる欲望は満たされるべきだという権利なのである。
そんなこと果たして神が自然が許すものだろうか?
この地球の富は資源は人間のために利用するの権利がある。
人間が地球の主人だからともなる。
それが古代では最初は人間は自然の実りに対して感謝していた。食料でも何でもとれることに神に自然に感謝していた。それが一つの祭りになっていた。
するとこうした祭りは近代的ではない科学的ではないと否定されてきた。
神であれ自然であれ感謝することが意外と大事なことだった。


●相手に尽くしても感謝しない人が増えた


なぜなら魚一匹でもとれることに感謝する。それは神から与えられた贈り物のように感謝する。現代は例えば漁師でも農家の人でも神に自然に食料がとれたからと感謝しない。
魚でももっと多く多くとり売りたいとなる。食料でも野菜でも米でもみんな商品化している。売れれば得したとなり自然そのものに感謝することはない。買うものが無限にふえたということもある。だから自然にとれるものは自然の神に感謝するよりもっと多く取り多くのものを買いたいという欲望に変化したのである。


そういうことは一体神から見たらどうなるのか?
なぜ神はこれほどのものを与えているのになぜ人間は感謝しないのか?
ただ足りないもっと欲しい、もっと売って得をしたいとしか思わないのか?
漁業権者は漁業権ばかり主張して莫大な富を原発で電力会社から得た。
彼らが一匹の魚を得たことでどれだけ感謝したか?
彼らは電力会社に感謝していたのである。
自分たちにそういう権利があると心底思っていたからである。

人間-神-自然という関係ではなく、人間-人間の関係だとわかりやすい。


「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」 しゃべれない患者6人の骨を折った看護師女(26)供述 兵庫 (227)
http://r-2ch.com/t/newsplus/1268381885/


看護師が感謝しないと殺す事件もあった。これも一見異常に見えるが看護師という仕事がそれだけハードだから起きてくる。看護師とか介護士とかは直接人間と接するから余計感じるのだ。なぜこれだけ世話している尽くしているのに感謝がないのかとなる。
そういうことを自分も介護とかして感じた。
これは子供でも育てるのが大変だから親が思うこともあるだろう。
昔だったら子供は何であれ親に感謝して親にその恩を報いるべきだとなっていた。

これは神-自然と人間にあてはめると

「なぜこれだけ私(神)は人間に与えているのに人間は感謝しないのか
もう人間に与えるのは嫌だ、災いを与えてやろう」


何かそういう心境になるのがわかるのだ。ただいくら尽くそうと感謝を感じない人は感じないから強制などできない、でもそれを感じないことが神ー人間でも人間ー人間でもありうる。その時相手にこれだけ世話して尽くしているのに感謝もされないなら馬鹿らしいからやる気がないとか極端になると殺してやるまでなる。神にしても人間はただ自分たちの権利だとして欲望をみたすことだけを要求する。そんな人間の権利をすべてかなえられるか?となり神は怒り災いももたらすとも考えられる。


●津浪はやはり感謝もしない神の怒りだったのか?


つまり津浪というのがあまりにも大きな災害だからこれは何なのだと思い考えつづけてきた。小さな災害なら台風とかなら考えない、通常のことである。今回の津浪はあまりにも大きな災害でありそれが大きすぎるからこれは何なのだという疑問が消えないのである。
ただ人間社会でも尽くしても感謝されない、やる気がなくなるなど日常的に起きている。家族のなかでも妻が夫に尽くしても感謝しないとかこの逆も起きている。

自分はいろいろ矛盾もあったが家族には感謝している。やりたいことをやらしてくれたことなどで感謝している。だから介護も供養もしている。
親でもいろいろありただ毒だけの親も普通にいるから自分は矛盾した普通の家族でも自分にとっては良かったと今では思う。

ともかく現代は民主主義であれ資本主義であれ欲望の無限の権利を主張する。
あらゆることが「権利だ、権利だ、権利を勝ち取れ」となる時代である。

カルト宗教団体でも宗教も同じである。ただ自分たちの権利だけを欲望を得るために団体化する。そして欲望を権利を主張するたげである。それは様々な利権となっている。
それは仏教から神道から新興宗教はほとんどそうである。檀家なども戒名利権だとか京都なら観光利権だとか利権団体なのである。こうした利権団体は巨大化して誰も批判できない。この辺では漁業者には漁業権があり原発から多額の補償金をもらっていたなと批判していない、今でもできないだろう。それはここだけではない社会すべてに通じているのだ。個人もそうであり団体もそうであり利権を主張するために団体化する。
利権というとき権利というとき何か正当な正義の実現だと思われる。実際は個々の欲望を実現するためのものでありその欲望がすべて正しいとはならないのだ。


その反面感謝することがない、そういう社会に人間に神が怒ったのが津浪だったとか思うようにもなる。
原発事故にしても人間の欲望から生れた。その欲望を神はかなえさてくれなかったのである。それは何かタブーを無視したのでありそれに神が怒ったのである。
だから今回の津浪はノアの方舟とか火を盗んだプロテウスの罰とかとにていると書いた。神の罰のような恐ろしいものが津浪であり原発事故だった。
プロトニウムの毒が二万年消えないとかもそれだけの恐ろしいものが消えずこの辺に残ってしまうものとなってしまったのである。

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2013年12月11日

冬紅葉(仮設の食堂に客が減った)


冬紅葉(仮設の食堂に客が減った)

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糧あれや鴨の百羽の養えり

冬紅葉散りて雀の寄り来る
玄関に雀の二羽や冬紅葉
客減りて仮設の食堂年の暮


冬の雁一羽離れて淋しかも夕暮れ友を求め飛び立つ

落葉踏み一輪かそか残り咲く野菊のあわれ夕ぐるるかも

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仮設の食堂も客がかなり減っているかもしれない、一時ちょっと過ぎに惣菜買いに行ったら誰もいなかった。客はめっきり来なくなったと言っていた。それは向かいのラーメン屋とかの食堂もそうかもしれない、前のような車の置き所がないように混んでいない。
それは原町の火力発電所に一時五〇〇〇人が工事のたにきていたということが驚きだった。それだけの人数が減れば相当な打撃であり客が減るのも当然である。
瓦礫のかたづけはこの辺では一部をのぞいて終わっているしすると食堂にこない。
ただ復興住宅の建設をあちらこちらしているから結構外部からきているように思えるがそうでもない。

まだ外部から人がきていても外部から人が来なくなる。その兆候が現れてきたのである。ただレストランなどではこの辺では時給一二〇〇円でも働く人がいない、それは原町と相馬市でチェーン店でそうなっている。この辺はこれからもだんだん外部からの人がへってくる。内部では補償金で暮らしていけるとか思っているがいづれもらえない。
するとどうなるのか、夕張のような衰退した都市になってゆく恐怖である。
または限界集落のようになってゆく恐怖がある。
ただ火力発言所は原町にもあり相馬新地にもある。
だからこれは大きな雇用の場だった。


自然を見ていて不思議なのは鴨が渡って来たからあんなに増えた。しかし餌はどうしているのだろうかと思う。それだけを養う餌があるのかとなる。それはいつも自然を見て思うことである。この辺は荒地になっているがそれなりに鳥はいる。
最近は畑をはじめる人が多くなった。だからその畑の野菜とか芽を食べているという。
他に虫なども食べているのだろう。

ともかくあれだけの鴨を養うものがある。それが自然の不思議である。
人間はそんなに養えるものなのか?
ただ人間でも不思議なのは姪島では三〇〇〇万人しかいない、それが大正時代に6千万くらいになった。それでも今の半分なのである。
どれだけ人口が増えたか驚くばかりである。
日本の歴史上でもこんなに人口が急速に増えたことはない
だから少子高齢化高齢化というけどこれもやはり異常なことだから人口が減るのは
自然の摂理なのかもしれない、そんなに人間を日本のような狭い国では養えないとなる。将来的には本当に今の半分くらい多くても八〇〇〇万くらいで適正規模に落ち着くらしい。


今年は紅葉と冬紅葉が一緒になったみたいだ。紅葉が一カ月以上遅くなったのである。
それは秋が短くすぐ冬になってしまったためである。
なんか仮設も鹿島区でだしたものはみんなやめた。
食堂だけが残っているがこれも客が減った。
別に仮設の人が減っていないからどうしてこないのか、何か工夫がたりないのか?
原町や相馬市にどうしても鹿島から出てしまうことはある。

工事関係者がきている時は良かったがやはり減ったということがひびいた。

もうつづけられるのかどうかという問題もある。ただ飲み屋をやるとか言っているからやめる気はないのかもしれない、ともかく一時のにぎわいは去ったことは確かだしこれからも外部の人は減ってきて何か衰退してゆく都市となることが恐怖になる。
まあ、夕張のようにはならないとしてもかなり衰退してしまうことは確かである。

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2013年12月13日

南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)



南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査

(十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)


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この図では富士山火山活動と貞観地震は5年後に起きている。すると貞観地震と関連している。それから46年後に十和田湖火山爆発が起きている。これが関係しているのかどうかはわかりにくい、そして慶長地震津波はずっとあとである。
だからポーリングで砂が発見にしにくいのか?時代が特定しにくいのかわかりにくい。



■■■貞観11年5月26日  三陸沖〜九州・貞観大地震(東北大震災と同等クラスあるいはそれ以上?)

陸奥国に大地震 津波

陸奥国、地大いに震動りて、流光昼の如く陰映す。しばらくのあいだに人民叫び、伏して起つ能はず、或は屋倒れておされ死に、或は地裂けて埋れ死にき。馬牛は驚き奔りて或は相昇り踏む。城郭倉庫、門櫓牆壁のくづれくつがえるものは其の数を知らず。海口(みなと)は哮吼えて、声いかづちに似、なみ(驚濤)湧き上がり、くるめ(泝)き、みなぎりて忽ちに城下に至り、海を去ること数十百里、浩々としてそのはてをわきまえず、原野も道路もすべてうみ(滄溟)となり、船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、たから(資産)も苗もほとほと残るもの無かりき。

 京都延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.

 京都は十和田湖から800km離れている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流(西風)で時速100km程度,北風の場合はもっと遅いから,京都から見える水平線の位置で朝日の見え方に影響を与えるためには,噴火はその前日に起こっていなければならない.したがって,毛馬内火砕流の噴火は915年8月17日に起こったと考えられる.
この噴火では50億トンのマグマが噴出した.浅間山の1783年噴火(7億トン),雲仙岳の1991年噴火(4億トン)より桁違いに大きい.十和田湖のこの噴火は,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である.
この地震の5年前の貞観6年(864年)には富士山の青木ヶ原樹海における溶岩流を噴出した貞観大噴火が起きている

陸奥国地大震動を十和田カルデラの噴火に関連するものと考えた研究も存在するが[6]、古くから吉田東伍は「流光如昼隱映」は噴火によるものとは限らず、この発光現象は他に原因があるものと考えていた。十和田カルデラの噴火は『扶桑略記』にある915年(延喜15年)に発生したと推定されており、このテフラの堆積物(火山灰)は貞観津波堆積物層(砂)の直上に位置し、貞観津波堆積物と明確に区別可能であり、またこの堆積物が貞観津波によるものであることを容易に識別させる時代考証の指標にもなっている[22]。

小高の福岡でボーリング調査で十和田湖カルデラ噴火の火山灰が掘り出された。その下に砂も掘り出されたからその砂は津浪によってもたらされた砂だという、つまり貞観津浪の砂だったのか?十和田湖火山の火山灰から年代を推測すればそうなる。
でも福岡という地域は海に結構近い。今回は完全に津浪に没した地域である。
小高は駅を越えて津波が街内まで入ってきたことに本当に驚いた。
だから福岡の地点では驚かない、ただ年代的には貞観津波の砂としか考えられないのだ。それよりあの辺は縄文時代海だとすると平安時代も深く海が入り込んでいた。
だから砂が掘り出されても不思議がないともなる。
もっと奥だったら貞観津波の大きさを実感できただろう。
ただ十和田湖火山の火山灰が積もっていたということの驚きである。


十和田火山灰より上位に津波堆積物と考えられる砂層が検
出された.歴史記録から判断すると,この砂層は西暦
1611年慶長津波によるものと推定される.


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火山灰より上位に津波堆積物と考えられる砂層が検
出された.歴史記録から判断すると,この砂層は西暦
1611年慶長津波によるものと推定される.

http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/06_08_03.pdf

この火山灰により年代特定ができる。火山というのも未知であり鹿児島のような桜島げは日常的にか火山灰の被害にあっている。それだけ火山灰はやっかいなものだけど過去には火山灰は肥料のような役目を果たしていた。焼畑農業はまさに人為的に森を焼いて灰を作っていたのだ。


姶良カルデラが吹き上げたAT層は酸性で赤いから焼畑くらいしかできないが、阿蘇や日本アルプスや阿武隈山地の火山灰土は真っ黒で「黒ボク土」といわれている。
滋味豊かで畑作にも使うことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54501093.html


相馬市のボーリング調査でも松川浦からずっと奥で砂が発見された。それは貞観津波のものだろうと言われる。
それにしても不思議なのは慶長津波の砂が相馬市でも小高の福岡でも発見されていないのか?この辺の科学的研究も実際はまだまだなのだろう。砂が発見されなくても砂はありうるからだ。だからすべて科学的研究だけで解明されるというものではない、でも現代は科学的研究が一番信頼される。
ただ慶長津波の砂が相馬地方で発見されない、相馬市の調査でも慶長津波ではなく貞観津波のものだった。


貞観津波の記述で


船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、


船に乗ると助かったが乗れなかった。山に登ろうとして途中で波にのまれて死んだ人もいる。この記述は実際に見た人の証言だった。

津波でもそうだが十和田湖級の火山爆発になるとこれまた想像を絶するものとして日本全体に影響した。とにかく日本は火山が多い、それだけ日本の国土は大陸と違って若いのである。火山があることにより富士山のうよな優美な山ができた。火山国だから日本の自然は作られた。そして地震国であり津波国なのが日本だった。
ただ最近日本の風土的特徴を忘れていたことがある。今回の津波でそのことを思い知らされた。

この調査結果を東電に報告した時は貞観津波の砂ことであり慶長津波のことではなかった。貞観津波の砂は十和田湖火山灰の堆積により特定しやすいということなのか?

貞観時代辺りは地震や津波や火山が続発して起きた活動期である。だから南海東海地震も津波も起きる゛富士山噴火も警告される。自然が何も起きないときは眠っているのではない、巨大なエネルギーを地下であれ海底であれ蓄積しているのだ。だから何も起きていない、地震がないということで安心できないのである。

自然も絶えざる変化なのである。小笠原諸島の西之島kのそばに海底火山が噴火して新島ができたように地球は絶えず海底でも地下でも活動している。宇宙でも活動している。そうした活動を休むことはない、休む時はエネルギーを蓄積しているだけなのだ。土地でも冬には休ませるという、肥料をやって眠らせるという。すると春には土は肥えて実りをもてらす。ふゆはふゆ(ふえる)ことだというとき増える準備をしているのが冬なのである。活動するために眠っているだけなのである。
だから自然が完全に眠る停止するということはないのである。

posted by 老鶯 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

アメリカのGEの設計でフクシマ原発は津波対策をしなかった (土盛りを一旦高くしたのを削り低くしたのはアメリカの指示だった)


アメリカのGEの設計でフクシマ原発は津波対策をしなかった


(土盛りを一旦高くしたのを削り低くしたのはアメリカの指示だった)

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小沢も自民党の原発推進者でありそれが民主党にもちこまれた。
渡辺恒三もそうだった。つまり自民党から原発推進者が民主党に入り
同じ政策になったのである。


当時第五福竜丸の被爆などで高まりつつあった反米、反原子力の世論の懐柔に奔走した。こうして正力は初代の原子力委員会委員長、同じく初代の科学技術庁長官の座を手にし、権力の階段を着実に登り始めたかに見えた。
爆心から160キロメートル付近を航行していたマグロ漁船「第五福竜丸」に、水爆がまき散らした“死の灰”が降り注ぎます。乗組員23人全員が被ばく。無線長の久保山愛吉さんは半年後の9月23日に死亡しました。
初代原子力委員長に就任した正力松太郎氏は56年1月4日、「5年後に原発建設、米国と動力協定の締結」構想を発表しました。14日には米原子力委員会のストローズ委員長が「正力構想」に対する異例の「歓迎」声明を出しました。56年末には原子力協定見直し作業が始まります。
 これに抗議して原子力委員を辞任したのが、日本人初のノーベル賞受賞者の物理学者・湯川秀樹氏でした。湯川氏は辞任直前、こう訴えました。「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」(『原子力委員会月報』57年1月号)
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版=3月15日付)によれば、福島第1原発など日本に9基ある「マーク1」型について、米原子力委員会は72年、原子炉の格納容器が小さいことを問題視。水素がたまって爆発した場合、格納容器が損傷しやすいとして「使用を停止すべきだ」と指摘していたのです。

 この警告どおり、福島第1で1号機の格納容器が損傷しました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/html/senden/2011_genpatsu/index.html



ビキニの核実験は当時ではビッグニュースであり原子力の恐怖を植えつけた事件だった。それで共産党員だった親戚の人がそのことをよく言っていた。自分は共産党ととはかかわらなかった。富岡に住んでそこで死んだから富岡というと原発事故の警戒区域になったからあの世でどう思っているのか?
共産党は別に原発に反対ではなかった。ただ安全を計ることを要求していた。
それに政府と東電は答えなかった。

やはり政治家の発言ではない、湯川秀樹博士の発言は今になると重いものとなっていた。原子力について原子核の研究の専門家なのだから一家言をもつのは当然だった。
政治家は原子力については自分と同じレベルの素人でありその危険性を知らなかったのである。何でもそうだけど人間にとって知らないということがいかに致命的になるか?

それは津波でも思いしらされた。あんな危険な海岸に接して住んでいたのかということが問われた。400年津波が来なかったのだから何の危機感もなくなっていた。
スマトラであれだけの大きな津波が起きた時、日本では津波の被害あった地域でも津波を知らないからだ、避難誘導しなかったからだとか盛んに言われた。
その津波の国、日本でも津波に対する危機感が不足していたのである。

湯川秀樹博士は原子力の核の危険性を知っているからもっと慎重であるべきだというのは科学者の良心がそう言わせたのである。それだけ知っているからこそそう言うことができた。正力であれ中曽根であれ田中であれ小沢であれ政治家は自分もそうだけど原発の危険性を知らないのである。放射能のことだって知らない、人間は何か知っているものと知らないものの差が大きいのである。無知であることが重大な事故にもつながる。
病気でも病気について知らないことが手遅れになったり死につながる。
原発については素人には知り得ないものだからこそ科学者も重要な責任が生れていたのである。湯川秀樹博士はまだまだ原子力については知らないと知っているからこそまたわかっていないもの、危険なものと警告していた。


結局何が過ちの原因かというと政治的圧力で急ぎすぎたということがある。そして一番の自分の疑問は



なぜ一度高くして土盛りして原発を建てたのにわざわざけずりとって低くしたのか?


これはアメリカが設計したからその設計図を基にして低くした方が経費の節約になると
指示されて低くした



ここにアメリカがかかわりその設計して指示していた。するとアメリカの責任も大きいとなる。マーク1というのは危険なものだということもアメリカの技術者によって指摘されていた。それをあえて使用した結果、事故が起きた。
これも日本がアメリカの敗戦国となった結果、アメリカの指導に従うということになり逆らえない国になっていたためである。アメリカの圧力の下に日本の政治も誘導されていた。ただ日本が敗戦国でもすべてがアメリカの言う通りになることが政治とはならない。
それなりに拒否はできたが積極的にアメリカの下に原発推進になった。


アメリカとの因縁は江戸時代の開国の時の黒船に始まっていた。その時クジラの油をとるために港を使わせることを要求していた。


19世紀前半、アメリカは世界最大の捕鯨国でした。当時、灯油として使用するための鯨油の人気が高く、鯨の需要が増加しました。その他にも鯨油は用途が広く、石鹸、ローソク、潤滑油などにも使われるほか、当時流行った女性のフープスカートを膨らます輪(フープ)に鯨のひげが向いているとされ、大量の捕鯨が続いていました。大西洋では乱獲のため鯨の数が激減したため、アメリカは北太平洋に進出してきました。そして、日本近海で操業するアメリカの捕鯨船乗組員の安全確保、食料や燃料の補給地を日本に求めたのです。


これもエネルギー問題でもあった。アメリカの圧力で日本は鎖国から開国に向かって行った。ただこの時やはり無理をした。その弊害は太平洋戦争まで継続していた。富国強兵一辺倒となり日清戦争や日露戦争がありこれは勝ったようでも日本にそんなに利はなかった。日本はロシアとかアメリカとかヨーロパに伍するために相当無理をしたのである。
身の程知らずということがあった。日本というのは今でも中国とかロシアとかアメリカとか大国に囲まれてそういう地政的位置にあるのば変わりないのである。


今回の原発事故もそうしたアメリカの圧力の延長上に起きた事故ともいえる。だから第二の敗戦とも言われる。日本独自の道を進まずアメリカに踊らされているということがある。それが原発の設計図がアメリカが作っていた。その設計図、シナリオはアメリカが描いていた。日本ではその通りに原発を作った。
だからわざわざ土盛りして高くしたのに低くしろと命じたのはアメリカだったともなる。アメリカでは津波のことなど想定していない、コストの面でそう指示したのである。
そしたらアメリカの責任も大きいとなる。ただそうしたアメリカの責任は問われない、
日本は以前として敗戦国でありこれは第二の敗戦というとき、第二のヒロシマ、ナガサキともにている。


それからなぜ地元では原発推進になったのか、なぜ反対されないのかとか聞かれた。
それは非常に狭い範囲で決められていたのが原発だった。
小高に東北電力の原発はすでに建てられることが決まっていて工事も始められるところだった。でも合併前だから原町市はかかわることができない、もし投票で決めるとかなれば原町市は人口が5万だからその影響は大きい。合併していれば南相馬市として決めるからそうなっていたのである。そうなるとなかなか原発に反対する人もでてくるから簡単には決められなかっただろう。

原発は漁業権者とか地権者とかそんな狭い範囲で決められるものではなかった。

ただ狭い範囲だとどうしても利権になるから反対することができなくなる。
この辺では原発で働く人も多かった。親戚の人もそうだった。そして安全だと常に圧力をかけられるから反対はできない、今でこそ反対しているかが狭い町だったら村八分にされるだろう。今でなかなか漁業権のことなどで表立って批判していない、身近に漁師でもいるからである。

でも原発は原発周辺の狭い地域だけではない、福島県全体の問題でもありさらに広域的なグローバルな問題としてもあった。核戦争で人類は滅びるとか言われたが原発でも滅びるという怖いものだったのである。だからグローバルな問題として日本がヒロシマ、ナガサキで平和訴えたようにフクシマは原発事故の被害者だからそういう使命を党派を越えて担ったということはいえる。だから嫌な面もあったが今回のインタビューにそういう義務感から答えた。
自分が思っていた趣旨と通じるものが福島大学の調査にはあったからである。

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2013年12月14日

年の暮(外部からの人が働いてくれた震災の被害地)


年の暮(外部からの人が働いてくれた震災の被害地)


故郷に外より来たり住む人に寒き夜かな月の曇れる

故郷に力をそそぐ外よりの人を思いぬ年のくれかな
震災は絆を作る外よりの人の働き今年も暮れぬ


孤立した生活が長く続くと、精神的にも、そして肉体的にも問題が出ることが多い。基地の医者にかかった患者は、このひと月で、のべ23名にもなった。捻挫や切り傷、腸炎、胃炎が目立つ。日本を出る前は徹底した健康診断でも問題がなかった隊員ばかりだったが、10月の血液検査では、肝機能障害、高脂血症、高尿酸血症といった異常者が半数近くに達した
http://shima3.fc2web.com/gyo9912.htm

ここに南極で働いたあわれな話のことがでている。そもそせ南極のことを関心をもった人はあまりいないだろう。一体そんなところで何をしているんだとなる。また何かそこに住んで研究して得るものがあるのかとなる。
でも世界中の科学者が南極に行っている。
それが何のためなのか?と考える関心をもつの人は実際はまれだろう。
もちろんそこで働く人はでは何のためにそんな苦労しているのかとも自問したとしても
ただ命令だから耐えている。
もちろんこういうことは宇宙に行く人にも言える。
その時問われているのはやはり何のためなのだろうとなる。
今すぐ南極に行って資源を得るわけでもない、宇宙で何か成果をあげられるものでもない、つまり石油をとりにゆくとか、原発でもそれが具体的に電気をエネルギーを生むとなると誰でもむずかしいことはわからなくてもそれが有用なものだと関心をもちその人たちを科学者を称賛して迎える。

人間はミッションをもち使命感をもち働くことはまれだろう。人間は自分が働いていてもそうした使命感などなかなか自覚できないだろう。
会社に勤めているのはそんな使命感ではない、ただ日々食べるためであり家族を養うためであり深いことは普通は考えない。
南相馬市の産科医がガンになってまで最後まで南相馬市で子供をうみ育てるたとが大事なんだととこれはミッションだと言って死んだ。
ただこうした産科医でも医者でもそんな高等なミッションを自覚して働いているわけではない。たまたまこの辺が原発事故で子供まで避難したことによりそういう異常な事態が生れた結果゛そううい意識が生れたのである。
別にこのような異常事態にならなくても医者看護師などは使命感を意識しやすいのである。
それでも仕事はきついから看護師は性格か悪いのが多いといわれる。
それはこの南極へ行った研究者でもそうである。より過酷な仕事は何らかの使命感がないとできないものになる。ただ高額な収入があるだけでは勤まらないたろう。
だから原発事故の時、決死隊が編成された時、大和魂が蘇ったとか称賛されたのである。もしかしたら死ぬかもしれない,しかし今日本国民のために命をかけてもやらねばならという意識をもたささたのである。
実際はそれほどの仕事とも思えなかった。これは外部から見ているから実際に仕事をする人になればまた違っていた。

ともかく死ぬほどの決意をするとなるとそれだけの使命感をもたないとできない。
だから戦争ではあれほど死んだのは何なのだろうとなる。
一人一人がそれたけの使命感をもっていたのかとなるとまた疑問である。

ただこの辺の原発事故やらで科学者とか外部から来て働く人に関心をもたされた。
インターネットの情報は意外なものとつながってしまう。
思いもよらないものとつながってしまう不思議がある。
こんなことはなかなか今までの雑誌であれ新聞であれテレビであれ本であれありえないのである。
新聞が出て、テレビがでて、インターネットが生まれ人間のつながり方も変わるという事かあった。悪い面では全然知らない人がネットでつながり犯罪を犯すようなことがあった。それもまたネットの負の面である。
だからといってインターネットがすべて悪いとは成らない、いい面も多くもたらしたのである。
普通はこの科学者に関心をもたない、科学者は関心をもっても専門外の人はあまり関心をもたない。ただこの辺ではいろいろなことに関心をもつことが強いられたのである。

南相馬市も相当に関心がもたれた。神社まで関心がもたれるということはなかった。他でも津波では関心がもたれた。原発事故周辺はさらに関心がもたれた。
相馬はせいぜい野馬追いくらいしか関心がもたれない。
それが原発事故で世界的関心の的になったのである。
それは悪い面でそうなのだが関心をもたれることはやはり内部の人の意識も変わる。
全国の人が見ている、関心をもっているからボランティアにも来る。
江戸時代だったらまず伊達藩でも隣でも助けようとする意識ももたない。
そういうつながりを感じない社会だった。
今は広域的につながっている時代である。
ただモノだけが来る時は人間はつながりをあまり感じない、人がこの地に直接来ると感じるのである。

今年ももう震災から二年半以上すぎて来年は三年目である。
だからまた状況も心境も変わってくる。
最初は仮設に関心をもったが今ではほとんともたない、今はなぜいつまでいるのだろうかとなる。働かないから余計にそうなる。
仮設暮らしの人とはなかなか交流がもてないのである。
いづれにしろいろいろあったが「絆」ということを自覚させられたことは確かである。

今日は寒く月が曇っていた。外部から来た人が多いからその人たちの犯罪もあった。
これもいい面ばかりではない、外部の人、よそ者は何者かまたわからないということがあるからだ。

月が曇るようにわからないのである。だからよそ者はすぐには信用できないのが普通である。
それでもこの辺でも工事関係者でも調査研究者も住んでいる。それも結構長いのである。
旅行すると旅の宿とは違う、やはり同じ土地に住んでいれば思いが深まるということはある。

2013年12月16日

人生でも必ずツケを払わされる (原発事故も過去のツケを払わされている)

 

人生でも必ずツケを払わされる

(原発事故も過去のツケを払わされている)

つくづく人間はいつかは必ずツケを払わされる。そのツケとは個々に違うがツケとはむずかしく言えば人間の豪(カルマ)とか因果応報のことである。因果はめぐるとかなる。
親の因果が子に報いということもある。
生活保護などは一見楽でいいものだと現代では見られている。生活保護者は恵まれているとか批判される。それだけ現代が新しい貧乏の時代だからそうなった。
でも生活保護は実際はいろんな権利を失う。
例えば何らかで遺産がおりてもそれが一億とかならないとなかなか相続しにくいだろう。なぜなら生活保護は一生受ければ一億くらいになる。
だから一千万でもおりたとしても生活するのには5年くらいでたりなくなる。
だからかえって計算すると損になる。

そしてもしそれをわからないようにもらうとしても見つかったらそれまでもらった分を返還させられるしまた必ずそういうことは届けなければならないし遺産相続の裁判になったらその額がたとえ少なくても百万でも一時的に生活保護は停止になるのである。
だからすでに遺産相続の権利を失うとういこともある。
一億くらいもらえば別だけど計算すると損になる。
まあ、そんな遺産の目当てがないかち生活保護になっているのだけどそういう権利も失っているということに気付かない人もいる。
すでに10年以上も生活保護になっているのだからそういうことを知っていると思ったら知らないのである。だからなんらかあとで必ずツケが払わされる。


見栄から多額の借金した人も今になるとそのツケが払わされる。借金は具体的だからわかりふすい、借金は必ず返すことが要求されるという。例え借りた人に返さなくても他から厳しく取り立てられるというのも現実であった。借金した人はツケがますますふくらむことがある。借金に借金を重ねて首か回らなくなる。そして最後は破綻してしまうことになる。
これは健康でもそうなのだ。必ず酒であれタバコであれ何か健康に悪いことを重ねると60代以降必ず病気になる。60代で病気になるのはたいがい生活習慣病である。すべてではないにしろ確率的にはそうなる人が多い。何か健康に悪い習慣が積もり積もって体に蓄積されて病気になる。酒を多く飲み続ければ必ず肝臓など臓器が弱ってくるのである。
だから60代以降にそのツケが払わされるのである。


そういうツケがカルマが払わされるのが人生である。一見これは楽だなと思って生活しているとそれが後年に辛い人生が回ってくる。今は苦しいと思っていても耐えていると後で楽になったりする。だから今か苦しいからと絶望するのはまた性急なものとなる。
苦しみもそんなに長くはつづかない、ただ5年くらいつづくことはある。
そういう凶運は誰でも経験する。自分もちょうどプログをはじめてから家族が認知症になりその介護で苦しんだ。どうしてそんな病気になったのか?
これもその人の性格もあるがやはり何らかその人の業(カルマ)があってそのツケを払わされたかのかもしれない、公務員だったことと性格的に奢りがあった。ただ功罪がありいちがいにはいえない。公務員は今はうらやましがられているが認知症になる率が高いとするとそれも生活習慣病が原因になっているからである。公務員か恵まれている楽だというときそれがかえって後年悪いものとなっているともなる。


そして原発事故などもそうだった。原発かできるまでの経過をふりかかえればまずよく原子力のことを知らないで調べないで急いで導入したことである。そのことを湯川秀樹博士はその危険性を知っていたからもっと体制を整えて安全を計るようにしてやるべきだと忠告していたのである。でも政治家は急いでマーク1とかの古い原子炉を導入した。
そしてアメリカのいいなりになり一旦高くしていた土盛りを低くして原発を作った。
それは日本主導ではなくアメリカ主導になったのは結果的には急いだためなのである。
その後の原発はフクシマの第二原発は日本の技術も加えられてアメリカ一辺倒ではなかった。東北電力の女川原発も津波に備えて高くして助かった。

一番最初の原発が津波で破壊された。その原因は急ぎすぎたということである。

人間が急ぎすぎる、余裕がないということから常に事故や何か災いをまねくのが多すぎるのだ。待てないということから災いが起きてくるのである。
そしてそのツケが払わされる。必ずツケは払わされるのだ。
初期不良というのが必ずあり半年くちいすぎて新製品を買った方がいいというのは実際に使ってみたら不具合があったとか改良されるからである。
技術が熟成されないままに原発が導入されたことが事故の原因になっていたのである。
ただそうなるのは競争社会では新製品は一カ月手も早く出した方が売れるし他者に勝つということはある。でも原発は安全性が第一でありリスクが大きいのだから同じレベルでは考えるべきものではなかった。国家的事業であり失敗すれば国家がつぶれるというくらいの覚悟が必要だったのである。


「あかわてる乞食はもらいが少ない」とか最近いろいろ諺になるものがいかに人間の真理であるから思い知らされた。この諺というのは庶民が残したにしろ長い人間の歴史のなかで普遍的なものをもっているから現代でも生きているのだ。
「あわてると大損する」というのは真理である。

 急いては事を仕損じる

Haste makes waste.(慌てる無駄ができる)
The more haste the less speed.(急げば急ぐほど速度は落ちる)

英語でも同じだから人間に関してはどこでも共通なものが真理として残されている。それは長年の経験の積み重ねで生まれた言葉だから
重みをもっている。

自分に借金してきた人もそんなにあわてる必要はなかったのだかどうしても金が欲しいということもありこちらが弱っているときそこをついて多額の借金を要求してきた。
それ以来その人を信じられなくなった。なぜこんなに多額の金をやったのかとあとで反省した。そしてその人には何かもう頼めないと思うようになった。
なぜならそんなに多額の金を百万と要求されて断れないとななると何も頼めない、十万くらいならいいが百万を軽く要求されることは怖いことである。
これもあわてる乞食はもらいが少ないとういことなのだ。
もっとあわてないて金も要求しなければもっともらいたいかもしれないからだ。
ただ金に追われている人間はたいがいあわてる。一気に返そうとしたり何か一気に解決したくなるかちらかえってそういう人は借金を返せないというのもわかる。
しかし人間は余裕がないとしわてるし急ぐからかえって失敗する。


確かに技術競争は激しいから一刻一秒を争う社会でもある。でもそこに大きな落とし穴が待っていたのである。江戸時代のような農業中心の社会だと林業でもそうだが木か育つまで50年かかるとするとこれは相当に気が長い生活をしないとやっていけない。
一代てはすてに成り立たない職業になる。今は時間感覚が十倍速くらいになっている。
そういう時間感覚からどうしても大きな事故が起き安くなる。
それが致命的にな事故になったのが原発事故だったのである。
原発にはあまりコスト意識をもつべきではなかった。
ただそれがアメリカの指示だったとするとアメリカの責任も重いが追求されないなのだ。ただツケはカルマはアメリカにもいつか回ってくる。それは百年後か二百年後かはわからない、ヒロシマやナガサキはすでに大きなツケであり今回のフクシマの原発事故もそうだった。アメリカによって蹂躙された二度目の敗戦だったというのもそのためである。

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30キロ圏外の最初の補償金は南相馬市の財政調整基金からだした (三人が立候補する市長選挙で市政が問われる)

 

30キロ圏外の最初の補償金は南相馬市の財政調整基金からだした


(三人が立候補する市長選挙で市政が問われる)

最初は30キロ圏外は義捐金もなかった。財政調整基金の中から8億6千万円を支出した。


南相馬からは新潟方面へ避難した。泉田新潟県知事から、「南相馬市民全員を受け入れる」という電話が入った。そのため急遽、避難計画をつくり、住民を避難させた。

原発事故の時、何が起きたかのみこめなかった。30キロ圏外は鹿島区は屋内退避地域であった。だから避難指示の20キロ圏内とは違っていた。原町区は避難指示だった。
でも介護している人などは避難しなかった。避難できなかったのだ。
小高区は警戒区域になり全員避難命令であり誰も住まなくなった。
原町区には以前として残った人が多かった。

鹿島区では体育館に集められて市の職員か説明したがよく聞き取れなかった。
なにかぼそぼそ言っていて要点がのみこめなかった。
何を言いたいのかもほからなかった。

ただその時、バスを出しますから避難して下さいということだった。
バスは限られていますからみんな避難できないです
だから早く避難する人にはバスで避難させます

そういうことだけが耳に入った。
ええ、これは緊急事態であり危険なのかとも思った。
そんなことを介護している母に言ったらふるえていた。
避難したら確実に死んでいた。
関連死が500人近く原町区では出ている。
原町区辺りはみんな無理して避難する必要がなかった。

でもあの時、爆発したり相当な緊張感があり
避難指示になるのもやむをえなかった。
爆発があれだけで収まるのかまだまだ事故が拡大するのか見えなかった。
原発についてはわからないから恐怖を感じたらきりがなくなる。
それで原発で人類滅亡だ、東北は終わりだとかみんな関西に避難しろとか
その後も一年に年後でも面白がってネットてはやしたてていたのである。


ともかく原発については放射能については皆目わからないから
恐怖を感じる人は今でも恐怖を感じる。
感じない人は感じないから地元でとれた野菜でも食べている。
その差もまた大きいのである。

結局3年目くらいになると冷静に過去を見れるようになる
南相馬市の市長が鹿島区の人に騒がれて一所帯百万の義援金を出した。
それは市の財政調整基金であり東電の金ではなかった。
東電が補償金を調整しはじめたのは二年後からくらいだった。

だから別に鹿島区も今は正式に補償金を見積もりしているようにもらえたのである。
原町区と同じにするなら一人70万を7カ月分もらえると正式に本賠償してきたのだから仮払いなどもらう必要なかった。
それより鹿島区では正式に本賠償で一人70万を原町区と同じように一年と二年とか延期してもちうように交渉した方が得だった。
この時もあわてる乞食はもらいが少ないとなっていたのだ。
ただその時は鹿島区の人は全然もらえないのだと自分でも思っていた。
だからそう感じた人も多かったから騒いだのである。
補償金についても実際はこんなにもらえると思っていなかった人たちも多かった。
国がかかわるとこんなに補償金がもらえるのだと正直みんな思っているだろう。


そして鹿島区からでも新潟に避難した人は待遇が本当に良かったと言っている。
新潟の人は親切だったと言っている。
温泉に行ったような気楽な気分だったのである。
ご馳走もされたし温泉にもひたれるから何の苦労もなかったと言っていた。
健康な人はそうだった。
新潟の人は情が厚いというたとがあったきかもしれない、だからあとでも新潟の人に好感をもって今度は世話になった人を招待している。


いづれにしす桜井市長が財政調整基金の中から8億6千万円を支出したということはやはり最初国や東電ではなく市の財政から出したということで批判されたのだ。
実際は国や東電がらあとでその分は補填された。
それは仮払い補償金だったのである。
そのことが何かまぎらわしく補償金を複雑にしたのである。

今でも桜井市長は義援金を市民に分配していないとか批判されている。
マスメデアとか何か講演とか目立つことばかりして肝心の市政はしていない、
だから批判が多い、来年の選挙では三人が立候補する。
前の渡辺市長も立候補する。もう一人は新人である。
その人は飯館村で議員していた人のなのだろうか?

もう桜井市長は当選するとは思えない、これだけ評判悪くしたのだからできない
ただ渡辺市長も利権だけに精を出したからと批判がある。
もう一人の新人はどうなのかというとわからない。

桜井市長は何か左寄りで理論家で実際の政治向きではなかったのかもしれない
どうしても民主党でも失敗したのは理論家であり理論と政治は違う。
学者肌の人だったのかもしれない、政治の世界はわからないにしろ何か政治にどろどろしたものがありきれいごとではすまない、そういうことを心得てないとのりきれない世界だろう。
学者は政治がどうあるべきかと考える人であり実際に政策を実行する人ではない、
自分も学者肌である。政治かどうあるべきたと考えても実際社会政治は矛盾の塊りなのである。
宗教でも何か愛とか慈悲とか言ってもそんなことは厳しい現実社会では通用しない
現実は弱肉強食の非情な世界たった。
だかちらつくづくわかった。
カルト宗教団体が創価でもそうした現実に根ざしているからそれだけ会員を増やしている。宗教の慈悲とかなんとか何の関係もない
ただ現実社会でいかに得するかそれを具体的に力でもって勝ち取ることなのである。
だから権力も現実に得る必要があるから権力をとるために選挙に精をだす


これは別に創価だけではない、カルト宗教団体はみんなそうである。
ヨーロッバではカトリックかそうして世俗化した。
世俗化の力か強いからどこでもそうなるのだ。
本当の宗教は自分の命すら犠牲にして尽くすことを説いている。
でも現実は他者を犠牲にさせてまでも自分たちの団体が利権を獲得して得することを目指している。
それが現実社会と宗教の理想があまりにもかけ離れていて現実社会に弱肉強食の世界にのみこまれるからそうなる。

共産主義でもソビエトが崩壊したのもそうした人間の醜い面が否定できなかった。
だから権力闘争となりソビエト連邦は崩壊したのである。

いづれにしろこのような困難な状態で市政をやるのは相当な実力がないとできない。
別に普通だったら誰もやっても同じだとなっていた。
今回はそうはいかない,市民が本当に困ってしまうからだ。
それは常に補償金や義援金問題でも直接市民個々人の問題となりひびいてくる。
だから有能な実行力ある市長を望むことなにる。
でも選ぶ人は限られているからこれも実現しないかせしれない

経営でも共同経営になると必ず他者に責任をおしつけるからうまくいかないという
民主主義では強力な指導者はでにくい。
民主主義がそもそも合議制であり共同経営である。
だから何でも国でも東電でも誰か責任をもつことはない、みんなが悪いんだ、最後はそういう空気だったとなって戦争も原因も責任も不明となっているのだ。
空気に責任が転嫁されているのが日本だったのである。

 

南相馬市市長選挙候補-渡辺一成の政策の分析 (シルバータウン特区になることはいいこなのか?)


南相馬市市長選挙候補-渡辺一成の政策の分析

(シルバータウン特区になることはいいことなのか?)


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人口が減っているということか最大の問題だからそれを全面に出した。
7000人減って子供と若い人が主に減っているから痛手である。

その中で注目したものをとりあげた。

特区制度とは土地を自由に利用して制限を解いて新しいものを作り出してゆく、
それ以外にも特区制度は必要である。その特区が何になるのか
この辺はすでに今までの延長としてあるのではなく新たな志向が必要になっている

特区という時、「シルバータウン特区」も一つの現代的特区になる。
高齢化社会のモデルタウンを目指す、介護付き老人ホームの開設で首都圏の高齢者を呼ぶシルバータウン作りを推進する

そして一番自分が注目したのは


独居老人、高齢者所帯が共同で生活する仕組み作り


これだった。なぜなら自分が高齢化に向かっていて家族もなく身寄りもないから一番関心をもったのである。
現実に近くでも妻に死なれたとかいろいろな事情で一人暮らしが増えている。
今は大家族で住めない時代である。
家の中におじいちゃん、おばあちゃんとして住める人は少ない、そういう住環境ももてない人もいる。そして嫁と姑は一緒に暮らさないのが普通の感覚になっている。

この辺で原発事故やら津波で仮設に住んで家族がばらはらになったとき
かえって姑と離れて住めるからいいという人がいたことでもわかる。
すでに家族がばらばらになっているからそうなったのである。

妻をなくした人は大きな家に一人で住んでいる。そこにやはり一人暮らしの女性が出入りして家事など教えている。小さな畑で野菜も作っている。その人たちは夫婦でばないけど共同生活をしている。助け合って生活している。
一人暮らし独居老人が増えてくるとそうした友達的につきあい助け合うということもありうる。それを制度化するというのはいいことである。

ただこの政策を実行するにはいろいろなむずかしい問題が生れる。
施設という箱ものだけを作ってもうまくいかない、すでに老人だからきいってみんなうまく友達で協同するということはない。
あいつとだけは嫌だという人は自分にもある。そういう嫌なやつが老人にも多いとなると人間の問題はそんな簡単なものではない。


すでにそれはいろいろと予測される。決してバラ色ではなく幻滅の都市、高齢者だけの活気なのない都市ともなりうる。ただ高齢化社会のモデルとして特区構想はそれなりに時代にあっている。
ただシルバータウンを嫌う人もいるだろう。街全体が老人ばかりになると老人自体も嫌になるということもあるだろう。実際は子供や若い人が増えた方が社会にとってはいいのである。活気もでてくるし子供自体が未来なのだから未来は自ずとそういう所から生れやすい。高齢化社会の未来というと介護ばかりになったらそれは未来とは言えない。

ただ政策にはシルバータウンの構想を全面に出しているし現実この辺は若い人が流出して高齢化が他の都市より早く進む、だから当然そうした対策が早急に望まれる。
それが日本全体の問題だという時、すでに東京などでは施設がたりなくなり地方に介護してくれる施設を探して地方に金を落とすことをしている。

都会の高齢化はまたその数が多いからまかないきれなくなる。土地を確保するだけでも大変になるからだ。
それでもまた東京から老人ばかり送り込まれくるのはいいかとなると必ずしもならないだろう。他から呼ばなくても地元の老人だけでも増える、さらに老人ばかり増やしてどうなるんだとなる。その世話をする人は誰なんだとなる。
若い人が流出しているのだからここに若い人が介護のために来るのかとなるとそうはならないだろう。果たして老人ばかりの都市に若い人が来るだろうかとなる。


火力発電所を誘致することはいいことだろう。雇用する数が千人単位であり波及効果もある。今でも相馬地方には二つの火力発電所かある。それが雇用を支えている。

ここでもう一つ政策として高齢者を東京から呼ぶとかシルバータウンの構想もいいとして問題が若い人が流出しているのだから若い人は流入するような街作りも必要である。
かつて災害があったとき、必ずしも都市が衰退するとは限らなかったという。
日本も戦争に負けて破壊尽くされてもなぜ戦後急速に復興したのか?
あれだけ破壊されても明治維新以来まだ日本には発展する余力があったからだ。
まだまだ経済成長する力があった。だから高度成長は戦後に本格的に起こりみんな豊かになったのである。

現代は少子高齢化とか産業も衰退しているとかいろいろな下降トレンドでありだからこのうようて大災害でも打撃が大きく立ち直れないということも言われる。
ただ宮城県はもともと経済が上昇していたから回復すると予測されている。
福島県の打撃は原発事故で大きいから困難になる。


こうした変革期にはやはり新しい発想とか新しいものを作り出すにはかえっていいしやりやすいのである。そのためには内部だけではできない、外部からの若い人たちの流入が必要になる。災害のあとはそういう人たちが入り安いといこともある。
それで復興したという例もある。相馬藩の場合は飢饉の時越中などの移民が流入したことで立ち直ったことでもわかる。

とにかく今回のように災害地域は存亡の危機になっている。その時、どうでもいいやとか何もできないと補償金で遊んでいればいいや明日のことはわからないというのでは困る。そういう人こそ街から出て行ってほしいとなってしまうだろう。
何らかに復興であれ再建であれ寄与するよう努力する。
そうしないものはここではもう生きていけない、必要ないとして外に出て行ってくれとなるかもしれない、それから補償金で生きるからそんな努力をする必要もないと衰退した精神的に荒れた地域となってゆくかもしれない、そういう所は大阪などにある。
もうほとんどが生活保護とかなっている。
そういうところでは人心も荒廃してまともな人は住まなくなる。外に出て行ってしまうだろう。


ではお前は何ができるんだとなるとき、自分でもともかく南相馬市であれ相馬藩であれ復興のために参画する、未来のビジョンを描くだけでも参画ししてみる。
市長になったつもりで全体の街の構想をねる。
「相馬郷土史研究」ではそうした下地を基礎となる歴史を研究した。
その上にまた新しい構想もありうる。
ただそれが何なのか?自分としてはこれから参画してそのビジョンを示す、未来はやはり
まだ自然があり自然を活かすことである。それは食料だけではない、自分が詩とかにしたように自然は放射能に汚染されても美的景観は失われていないのだ。
だから以前として俳句とか短歌にしたように詩にしたようにそういう自然はある。
その自然の美とともに生きることに喜びを感じ励まされるのである。
だから八沢浦が美しい入江にもどった書いた時、ひんしゅくをかったがやはり美しいものがこんな悲惨ななかにも生れたとということを否定できなかったのである。


津波の跡地などもどう利用するかも問題になるだろう。ただここでは人が多く死んでいるのだから供養の場になっているから遺族の気持もあり簡単にはできない。
時間がもっとすぎればまた別だがまだまだ遺族の気持は津波の跡にありそこに娯楽施設などは作りにくいのである。

とにかく実行できないにしろ何か新しい街の構想を描くということはできる。それができればやはりそれだけでも参画したことになりそれが現実化してゆくための基盤ともなりうるのである。ただ現実問題として例えは双葉の人などを心地よく受け入れる体制を整えるといっても若い人ならいいか高齢化で老人ばかり働かない人ばかり流入すとただ重荷になるだけだということもある。いわき市ではそういうことで問題が起きた。
政策では要点をまとめたもきでもこれらの実行には相当な困難がある。
具体的にも必ずしも見えていない、一つの案の段階にすぎないのである。

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2013年12月18日

冬の暮(金沢-北泉の延命地蔵)


冬の暮(金沢-北泉の延命地蔵)


北泉に時代を残す碑の残る延命地蔵や冬のくれかな

一本の樅の木ありて北泉に延命地蔵や冬のくれかな
北泉に人の住まじも冬の暮延命地蔵の残り荒れにき
幹太く大地に根づく一葉松津波も来たり年も暮れなむ


延命地蔵があったのは金沢ではない、泉地区でありその中の北泉地区だった。山の向こう側は金沢になるのか、金沢は広い地域である。ただあそこは泉長者などの伝説があるからもともと泉地区の延長上にあった。
ただ金沢地区は元禄頃から開拓が始められていたから八沢浦などより古いのだ。
だからこそ北泉に「延命地蔵」があった。
そこに江戸時代の年号が時代ごとに刻まれているから古い。

津波の後にも残ったから不思議に思う。津波の後に残ったものとして海老村では壊滅したが高台の墓地だけが残った不思議がある。墓地は明治以降で古いとは言えない。

江戸時代からのものがあれば歴史的価値が何でもある。
墓でも江戸時代のものがあるとここは古いなと思い注目する。

津波の前はあそこは知らなかった。津波の後に注目するようになったものがある。
あそこの延命地蔵でも江戸時代からあるものはやはり村の中心的なものとしてあった。
それがまるで木の根っこのように残ったのである。
一つの歴史を伝える重みあるものとして残った。

そういうことは他でも津波の被害にあった所でもいろいろあるだろう。
社は村の中で果たした役割があり人々の願いがこめちられていた。
病気になれば祈っていたし延命したいとなり延命地蔵が残ったのである。

だから代々つづいたそうした歴史が失われることは生の根っこが奪われるということにもなりかねない。

ただそれはあくまでも歴史的遺産であり信仰とはまた違う。
でも古いものには何でもそれだけの価値がある。
そこには代々積み重ねられた人間の生活がありその昔をふりかえることで今日の意味も見えてくる。
そういう生の連続が津波や原発事故で避難して住めなくなると断たれることになる。
それが何を意味しているのか?

歴史的アイディンティティが失われて根っこが生の根っこが失われるということにもなる。
ただあの辺の歴史がどうなっているのかわかりにくい、なぜあそこに住んだのか?
山を越えた所には開拓してそれなりの耕地があるがあそこは狭くてない、港もあった記録もないだろう。だからどういうふうな村の暮らしがあったのかわかりにくい。
ただあそこには家がそれなりに集中していて津波で壊滅してしまったのである。

 

津浪で見直された南相馬市金沢-北泉地区の延命地蔵尊
(延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)

http://musubu2.sblo.jp/article/69055648.html