2013年12月01日

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む (慶長、元和の大津波-近衛龍春の疑問)

 

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む

(慶長、元和の大津波-近衛龍春の小説の疑問)

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なぜこの小説で相馬藩の津浪のことが書かれている。それは何を根拠にしているのか?
その根拠となるものがない、相馬藩政記には「700人溺死としか書いていない」
ただ700人と書いてあるのだからその被害を記したことは確かである。700人という数を調べて記録した。だから全く藩でかかわらないということではなかった。
ただ津浪のことはこの記録意外何もわからないことなのだ。
だから確かに小説のようだったと勝手に想像して面白く書くことは非難できない。
つまり小説はあくまでもフィクションでもいいし面白く書いてもかまわない。
ところが現代はNHKの大河ドラマのようにあくまでフィクション化したものを
歴史の真実と見ている人が多いのである。


現代は様々なメデアの時代であり小説であれドラマであれ映像であれフィクションが
現実のように思わせることが多い時代である。それでやらせの問題がでてきた。
動画さえ架空のものを真実と思わさせられるのである。
そういう技術が発達した時代である。写真さえそれが本物なのかわからない、
合成して作り出せるからである。

司馬遼太郎は小説家であり歴史家なのだけどそこにフィクションが確実に作り出されている。「竜馬が行く」で竜馬のことが小説化してことさら英雄化された。
そこにフィクションが事実のように思い込まされたことがあるのだ。
竜馬についての歴史的真実は何だったのかとなるかそれを考証することは普通の人には容易でないから大衆はフィクションを本当のことだ信じてしまうのである。
だから坂本竜馬は司馬遼太郎によって誇大に小説化されて英雄化されたという批判があるのだ。つまり歴史的真実は今やわからないからそう批判されるのである。

この小説にしてもなぜこの時期に出たかというと津浪があったからであり話題になるからである。でもどうして津浪のことをまるで真実のように書いてあるのか?

小説だからフィクションだから何を書いてもいいとなるのが相馬藩では当時の主君の義胤でも何も記していない、ことこまかに記されているのは戦争のことであり跡継ぎ問題などである。飯館村の飯樋の木材資源をめぐる争いなどはことこまかに記されている。
津浪はそれより重大な問題であり被害があった。それが全く700人死んだとしか記されていないしまた伝説にも残ってない、それは何なのだろうと他の人たち、研究者も疑問に思って調べていた若い研究者の人がいた。その人は相馬藩内にも津浪の伝説はあった。
柚木に「急ぎ坂」という言い伝えがあった。津浪で急いで逃げたからなのかこれもどこまで慶長の津浪に由来するかは不明である。相馬藩ではほとんど津浪の言い伝えを聞かないからである。だから庶民の側でもなぜ記録を伝承でも口伝えでも残せなかったのか不思議だとなる。そこに何らか事情があったのか?その辺は謎である。


ただ城を中村に今の相馬市に津浪の復興事業のために移したと岩本氏も言っているがこれもどうしてそう言ったかのかその根拠は何なのか記されていないのだ。何かその根拠となるものを示せば納得するだろう。そういうものが一切ないのである。では学者なのになぜそういうことを言ったのだろうか?小説ならわかるがそれも解せないのである。
むしろこの記録されないということが何か大きな問題をふくんでいる。
歴史の大きな記憶の空白を生んだことが実はそこに歴史の真実があるとなる。
例えば蝦夷というものが大和朝廷に滅ぼされたけどこれも歴史として残されないから謎となっている。歴史は勝者の記録だとするとき敗者は無視される。だから敗者の歴史は埋もれてしまった。それも歴史の大きな空白なのである。


結局700人溺死という津浪の被害は当時の行政だったもの君主だった義胤にも無視されたともなる。その頃まだ相馬藩の政治は戦国時代であり安定していない、だから戦争のことや跡継ぎのこと飯館の飯樋の森林資源の争いで財政を確保することなどが重要であり津浪の被害まで頭が回らなかった。だから例え津浪の被害を訴えてきてもとたあわない、とりあう余裕もなかった。徳川の城普請も要求されたり財政的に余裕もない、だから津浪の被害者のことは無視された。復興のために中村に城を移したとか復興事業に尽力したことなどなかったのである。なぜならそうしたことを何もしりえようがない、資料もないのである。


歴史はフィクションではない、でも容易にもう遠い過去のことだからフィクション化されやすい、聖書は事実を記したものである。でもフィクションだという人がいるがそれはすでに信仰の問題でありその事実を否定するものは信仰も成り立たなくなる。
でも一般的には歴史の事実を知ることは庶民にとってはめんどうだから小説の方を事実のように見てしまう。これは原発事故でもそうだった。安全神話が政府指導で作られて誰も本当のことを知らせないようにした。また調べることもできないようにした。
戦争中も皇国であり日本は絶対に負けないと負けた事実を信じないで嘘を信じていたのである。要するに人間は嘘でもそれが大きな嘘は信じやすいということである。

それは人間はあらゆることを知りえない、特に科学はむずかしいから知りえようがない、そして原子力は科学のなかでもさらに一番むずかしいから何が真実かを知り得ようがないからだまされたとなる。

マスメデアが批判されるのはメデアが権力化して伝えるべきものを伝えない相馬藩の津浪のように重大なことが知らされない、原発でもそうだった。そこに大きな空白が生まれ
事故につながった。相馬藩の津浪でももしことこまかに記されていればここにそんな津浪があったのだと日頃から意識されていたはずなのである。ただこれはここだけの問題ではないからいちがいには言えない、でもここでは全く津浪が意識されることがなかったのである。だから津浪の危険を警告もできなかった。


他でも人間がだまされやすいのは大きな事業をしている人なのである。事業のことはわかりにくい、異種業者になるとわからない、でも何か大きな事業をしているとなると素人にわかりにくいからだまされるのである。電気関係の事業をしている人が一億円の資産があるといったとき信じてしまった。それは電気のことなどわからないからである。
そういう技術的なものはもうけが違っているのかと思ってしまうのである。
その事業者は借金で首が回らなくなっていた。事業の危険は20人に一人しか成功していないという厳しさだったのである。
つまり歴史でも嘘を真実だとフィクションを真実だと信じていることが相当数ある。
なぜなら遠い過去になるとますます事実が何かわからないからそうなっているのだ。

posted by 老鶯 at 14:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年12月02日

冬の金閣-俳句十句 (金閣は自然に映える美の極致)


冬の金閣-俳句十句

(金閣は自然に映える美の極致)

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冬の金閣十句

金閣に寒椿の赤さかな
金閣に誰が入るや松に雪
金閣を写して時すぐ冬の池
金閣の鳳凰に朝日凍る池
金閣や口を閉ざさせ冬に映ゆ
金閣に仕ふや冬の松と松
松風や金閣暮れて冬の星
金閣や夕日に光り京の冬
将軍に鳳凰の夢冬の京

金閣を残し急逝す冬の京

庭石も黄金(キン)に輝く冬の京

黄金の時を刻める金閣の刻々変わる姿かな

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金閣の魅力はまさにゴールデンタイムを演出する。刻々自然の中で変容して限りない美を現している。つまり自然の中に黄金が映えているからその自然の中で変化するから魅力を作り出している。背景の常磐木の松の緑にも常に映えているし凍った池にも映えているし写真はいろいろある。常に違ったように見えるのである。その美は女性だったら衰えるがこの金閣は衰えることがないのである。だから金閣に魅せられるということがある。
京都だからその背景には複雑な歴史が人間模様も織りなされている。
千年の都は未だにこうして美を残して色あせないのである。

平泉の金閣寺はこうして自然に映えないから何かものたりないものとして不満が残る。
それはまた違った美にしてもやはり美を作り出しているのが自然だということがわかる。冬の京都なども趣深いだろう。ただ最近京都は外人でも観光客が増えすぎると情緒がなくなる。修学旅行生もうるさいか京都の情緒を乱しているのだ。
そもそも京都はちょっと行ったくらいではわからないところだった。
歴史もわからないし何かわからない、金閣にしても実際は自分にしても一回くらいしか訪ねていない、それで屋根も金箔が張られていたと錯覚していたのである。


金閣寺のこけら葺き屋根
こけら葺きとは、屋根の原料となる材木を薄くそいではがしたものを
板屋根に葺いてあるものをいいます。


でもこれが金色に光っていると写真で出している人がいた。屋根は金箔にはできない、雨風ですぐ朽ちてしまうだろう。だから自分はそういうところも見ていなかった。

今まで俳句にしたりするのは想像の句だから果たして現実にそうなっているのかわからない、写生ではないから俳句ではないかもしれない、京都ではなかなか一日金閣を見わわけにもいかない、住んでいれば四季にも見れるが離れていれば金閣も見れない、でも金閣の特徴は何かイメージ化されやすい、見ていなくてもありありと浮かんでくるシンプルなのがある。だから想像でも詩を作りやすいともなる。

ただ現実に夕日に映えるのかとかここにだした俳句とは一致しないかもしれない、でも紅葉でも雪でも何か金閣に鮮やかに映える。春に行ったとき確かに赤い椿が散っていた。
その赤さも一際赤かったことを記憶している。ただそれも遠くなり明瞭に浮かんでこない。それでも金閣はイメージしやすいものだったからあとでふりかえり何か詩的なものとして創作できる。
金閣炎上とか燃やした人が実際にいたから何かその心理はわからないにしてもそれだけ金閣は美の極致のようなところがあるのは確かである。
隙のないゴールデンタイムを日々自然の中に反映しているのだ。

石まで黄金に輝くの京都だった。それがやはり千年の都の所以である。フィレンツと同じである。
とてもそれは百年とかでは作り得ないものであった。

 

2013年12月03日

相馬市の成田周辺の地名考察 (焼畑地名は多いけど忘れられた)


相馬市の成田周辺の地名考察

(焼畑地名は多いけど忘れられた)

●焼畑に関する引用



田畑輪換は、近世から近畿の棉作や藍・煙草作の一部で行われ、あらし・あげ田・一作田などと呼ばれた。肥後藩白川流域でも、近世から明治にかけて用水の多寡に対応した田畑輪換があった。


それは、「畑成田」「田成畑」「ゆうれい畝」など「水入り畑」と呼ばれ、圃場に湛水後直播(バラ播き・条播)するもので、高谷好一は畑作型稲作と位置付けている(『コメをどう捉えるか』
http://www.geocities.jp/kirino3330_ns/ry2-yamatokawa.htm


姶良カルデラが吹き上げたAT層は酸性で赤いから焼畑くらいしかできないが、阿蘇や日本アルプスや阿武隈山地の火山灰土は真っ黒で「黒ボク土」といわれている。
滋味豊かで畑作にも使うことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54501093.html


そこで奈良田の人々は畑作を中心に自給自足の生活を営んできました。畑作にはカイト(普通
畑)とアラク(焼畑)がありましたが開墾する土地が少ないので、主に山々を切り開き焼畑農業
で生計を立てていました。奈良田の焼畑農業では主にアワ、ソバ、アズキが作られました
http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/komoku/manabu_asobu/kanko/pdf/83687900561.pdf


青森や秋田・岩手の地方ではアラキ、東日本ではノバ、アラク、カノ、カノウ、サス、ソウリ、ナギハタ、ムツジ・・・  西日本ではキリハタ、ニシメ・・ 九州に多く見られるのはコバ、アラマキ、カンノ、キーノ・・などじつに様々である。
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/yakibata.html


ソバ・アワ・ヒエ   豆類:大豆・小豆    トウキビ
 里芋・カライモ      コンニャク
 大根・カブ         ミツマタ(和紙の原料)

一年目は大豆二年目は粟、三年目は大豆四年目が粟、五年目が稗、六年目になると地力が劣ってくるのでソバをまき、それ以後は畑として使うことを放棄してしまうことがある。それは遠隔地のために肥料の運搬が困難なためである。放棄してしまうことを「ソウリしてしまう」という、そうした畑を「ソウリ」と呼ぶソウリには萱や柳が自然に生える、しかしいい木は生えない、ソウリが立派な山林になったことはない。


北上山地の焼畑、畑作習俗-金野静一(ここは一番詳しい)
http://iwate-minzoku.jp/info/pdf/minzoku8_9.pdf


毛野王国の支配下にあった阿武隈や相馬は焼畑と深い関係があった。入野というのが毛野の名前の起こりであるからだ。相馬という名自体、相馬氏の移住地名でもソウリであり焼畑地名だった。焼畑の民が先住民であり阿部がアブであり阿武隈になったという説があるごとく阿武隈高原には焼畑をしていた先住民がいてそこに物部氏などの水稲技術をもった人が入植してきた。鹿島町の真野の真野明神の萱野姫を祀った所も焼畑の神であろう。そして水稲の神の飯豊神などを祀った


東和町などの地名(焼畑から田の地名)
http://www.musubu.jp/chimeitouwa1.htm


ここは前に焼畑について書いた自分の文章だったけど忘れていた。結構詳しく調べていたと感心しているのも不思議である。



●水田の前は焼畑が日本を覆っていた


焼畑は今は何なのかリアルにイメージできないけど水田の前は焼畑が日本中を覆っていた。だから焼畑の地名は日本の基盤の地名として形成されている。意外なものが焼畑由来なのである。飯館村の佐須でも比曽もそうだった。そもそも田になる前の県(あがた)は焼畑が行われたところであった。そこに県主(あがたぬめし)がすみ最初の王が生れた。天皇もここに由来している。


今は水田ばかり注目しているけど焼畑が日本中をおおっていた時代があったのだ。田とつく地名の前には焼畑地名であった。焼畑はなぜ行われたのか、それは肥料を作り安いからであった。焼くだけ肥料が生産されたから楽であった。今でも農業は肥料に苦労している。農薬が大量に使われている。その前は人糞も利用されていた。一方水田は肥料があまり必要がない、水の管理で米がとれる。つまり焼畑と水田では相当な差があり文化の差も作り出していた。十五夜の風習は焼畑からきている。それでサツマイモなどがささげられる。それは万葉集にも残っているように野の芋である。これはイノシシでも掘り出して食べている。縄文時代から焼畑は行われていた。


すめるき(皇祖神)の神の宮人ところづら(冬薯蕷葛)
   いやとこ(常)しくにわれ(吾)かへり見む


こんなところにすでに天皇が関係していたのである。
この焼畑も相当な自然破壊だった。だから放置されたところは荒地となりソウリとはその意味だった。反町とか反田はそうした放置された荒地の場所だった。もう木も育たないというから元の自然が回復しなかったのである。それから森林を破壊するから土砂崩れなどが起きた。その焼畑農耕から水田にして行ったのが日本の農業の歴史である。
日本の食の歴史では五穀が先にあった。米ではない粟であり稗でありソバなどであった。それが山の生活を支えていた。だから檜枝岐などは秘境でありソバしか食べていないという地域があり米を食べるには何日かかけて遠くに買いに行かねばならなかった。
米は贅沢品だったということが日本では長くつづいたのである。


●相馬市成田周辺の地名の解読


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成田というのはどこにでもある地名である。でもただ成る田なのか?なぜ成田なのか明確ではない、田は湿地帯から水田になったものもあるがその過程はまた複雑である。

「畑成田」「田成畑」「ゆうれい畝」など「水入り畑」と呼ばれ、圃場に湛水後直播(バラ播き・条播)するもので


成田には畑から田になったものや田から畑になったものもあある。田を畑にすることもある。「水入り田」というのは水田の最初の名付け方である。水を入れる畑の意味だったのである。その畑とは焼畑された場所だったのである。
だからここの成田がどういう場所だったか、中世になると確かに田んぼが広がってきたがその前には縄文時代とか古代は田んぼはない、焼畑地帯だった。なぜなら宇多川の川岸に北反田と残っている。それはまさに

放棄してしまうことを「ソウリしてしまう」という、そうした畑を「ソウリ」と呼ぶソウリには萱や柳が自然に生える、しかしいい木は生えない、ソウリが立派な山林になったことはない。

一旦焼畑にされた地帯はもともと森林であっても元の森林にはもどらない、あの辺が森林だったとはとても思えないがそうだった。竹内という地名で考察したが竹は今でもイメージできる。川岸には竹とつく地名が非常に多い。ここでも竹の内とか大竹とかある。
今でも川には岸には竹が多い、その竹は大原に住んでいた人に聞いたけど竹は根を強く張るから洪水などを防ぐにいいという、そのことで津浪でも同じだった。前に竹藪があり津浪の勢いがそがれたり流木をとめたりして新田辺りでは被害を大きくしなかった。
大原にも新田川が流れていてその土手に竹藪が多いのである。これはどこの河原でもそうである。だから成田辺りは黒木田という地名もあるように黒木の森が広がっていた。
赤木ともあるし森林地帯だったことをイメージする必要がある。

その森林が焼畑にされてその後に水田に成田になっていった。そのために川岸の北反町というのは焼畑の名残として一画が残っていた地域である。この反町というのは街に近いところにあるのが多いのだ。なぜそんなところにと思うが森林地帯が水田になる前は広がっていたのである。日本では草原には成らず森林になる。この辺が津浪や原発事故で水田が放置されたとき草原になったがそこから木が生えると一部森林のようになった。つまり草原は森林化してゆくのである。


こういうことは想像しにくいのだけど相馬市は城ができる前は周辺は田んぼになっていた。大町とか田町はそうである。その前は成田辺りは森林地帯であり焼畑地帯になっていた。山の方に作田とあるのは作る人が出向いた田なのだろう。また畑ともとれる。
山田はまさに山の中にあり山田でありたかまつはそこは高い丘であり松があり墓地がある。地名どおりの景観が保たれている。
相馬藩で中村に城を移した時、成田は田んぼでなかったかもしれない、焼畑だったとことも考えられる。焼畑は明治以降もつづけられていた。粟や稗は実際に食べられていた。
米は以前として贅沢だったということが農村ですらあった。
いづれにしろ成田辺りが原初には鬱蒼とした森だったり今回の津浪で磯部辺りが奥まで入江になったことをイメージできた。そこにも自然の荘厳な美があったとなる。
焼畑も水田も自然破壊だった。人間の歴史は文明化は自然破壊の歴史だった。そして現代はその自然破壊も頂点に達した。この辺で起きた原発事故はそうだった。最大の自然破壊が起きて住むことさえできなくなったのである。

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2013年12月04日

神秘の沼(抽象画)

 
神秘の沼(抽象画)
 

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最初の一枚が一番上のをエッセンシャル4で写真を絵画にアレンジした。それは金閣寺の氷が張った写真であり一部が氷が解けて青い空がぽっかりと写っていた。
写真も実際は絵に近いものがある。写真をアレンジすると絵になりやすい。

でもあとのものはその写真をもとにしたのとはからなくなる。
主に万華鏡で必ずアレンジする。

絵が描けなくてもパソコンのフソトだんで楽しめるようになった。
なんか色の無限の変化があることがわかった。
これは音楽だったら音の変化なのだろう。

ただちけ抽象画でも現実の具象からイメージしているから現実とまるで離れたものとはならない

神秘の沼を北海道の宗谷へ行く時見た。それは本当にこの沼のよう手つかず自然そのままの沼だった。北海道にはまだきそういう所が残っている。
いかに自然のままの沼であれ何であれそれは神秘的でありカムイというもの神的なものを感じる。おそらく古代の人々もそういう手つかずの自然の中で生きていた。

沼の回りにオオバナエンレイソウが咲いていたのも神秘的だった。
あの沼は本当に神秘的であった。何か本当に上か住んでいるというふうにさえ思えた。
沼に沼の神が沈んでいる隠れている感じだった。

そういう神秘的な純粋な自然は失われた。今目にするのは何か人工的なものが必ず加えられているのだ。

冬椿(震災から1000日すぎた)


冬椿(震災から1000日すぎた)

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冬椿午後の日さして隣かな

農家あり垣根の囲む冬椿
冬の菊午後の日さして竹に風


手にとれば一枚一枚落葉にも異なるものや人も様々

日々通るこの道静か冬の薔薇三輪咲きてなお朽ちぬかも

声でずにしゃべれる人のしゃべれるを今は亡きかな大原の人

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冬椿はまだあたたかい12月ころなのだろう。今年はあたたかいのか?今頃雪ふったりするからそんなに寒い感じはない、なんか冬椿があたたかく見える。不思議なのは隣は今の時代かかわらないから無縁社会だとか言われる。でもだんだん年をとってくると身近な所が大事になってくる。それを今までは感じなかった。ここ6年間苦労の連続でそれを感じた。誰も新配してくれるものものいない、田舎ではただ近くで何かそうした災いの人を見ているのは楽しみだということかある。都会では隣が誰かわからない、田舎では一応知っていても無関心ではなく相手が困るのを楽しんでいるという残酷さがあるのだ。
特に最近はそうかもしれない、これはただ田舎では町内と農家では違ってくる。
農家はもともとまだ共同性があるだろう。

ただどうしても共同性のコミニュティか失われているのが現代である。

原発事故で避難して帰らないという人が50パーセントもいるとなるともう警戒区域の地域は復興はないのだろうか?
村がなくなるのが淋しいとか言っていた老人もいたのがわかる。
老人になるとどうしても先祖代々住んでいたところにこだわるのである。
執着するのか人情である。
だから自分も隣に椿が咲いている。それがなんなんだとなるが隣の椿に注目することがなかったのである。隣にも近くにも椿は咲いていたのである。

写真に撮ったのは農家である。あそこはコメリがあるから目立つ、あそこも農家だったのだろう。庭は広いし蔵もあるからた。

震災から1000日がすぎても岩手県でも宮城県でもなかなか復興しない、壊滅的打撃を受けたところはもう復興するのがどうかもわからない、でもいつまでも仮設にいるわけにもいかないだろう。この辺では復興住宅ができつつある。でも何か小さいから老夫婦にはいいか若い子供のいる家族には向いていない、今の時代はどうししても個室をもつからである。勉強だって子供部屋がないとできないだろう。


聞いた話では原町の火力発電所でもともと1000人は働いていた。でも津浪の被害でその工事関係者5000人来ていたという、中は見ていないがそれだけの人を必要としたのである。今は工事が終わったからその5000人がいなくなっただけでも外部からの人は相当数減っている。だから仮設の食堂では人が来ないと嘆いている。前はやはりそれだけの人が外部から人がきていたのだからどこの食堂でも一杯になったろう。
今でもホテルなどは盛況であり満室だとも言われる。
この辺では新地に火力発電所があるからそこは雇用の面でも大きい。もちろんそこから税収も入ってくる。以前として電力関係はこの辺では大きな産業なのである。

でもすでに外部の人が大分へって食堂に人が来ないというときこれからさらに人が減少してゆく、ボランティアもそうである。ただ今は復興住宅の建設が盛んであり建設関係の人が外部から結構きているからまだそんなふうに感じない、でも外部から入ってくる人は減ってゆく、そしたらこの地域はどうしてやってゆくのか?そういうことか深刻になる。
いつまでも補償金はつづかない、そしたら外部の人も去り残った人たちはどうして復興してゆくのか?そういうことが深刻になってゆく。


1000日もそうだが三年目辺りからはもう帰るのか帰らないのかと決める必要が出てくる。いつまでも仮設で宙ぶらりんでは困るたろう。仮設は何かやはり存在感がない、それもそうである。仮の宿にすぎないのだ。これも一人とか二人の風流人だったら別にいいけどみんながそうなったら異常である。仮設で根を下ろして生活するということはありえないからだ。仮にいるだけなのだから地元の人とも南相馬市内だって特に二本松とか他に出て行った人はそうなる。だから仮の街の構想も生れた。仮設は中途半端なのである。
だから3年目から仮設を出る決意をせねばならなくなるだろう。


人間も年取るといろいろである。その色もみんな違う。たどった道も違う。最近しりあった人は苦労が重なって63才くらいだけど75歳くらいにしか見えない、今の60代は本当に若い人がいる。だから余計に皺が多く老けてしまったなとみる。ただ同年代といろいろ話があう。その女性は話が面白いのである。そういう話好きの性格なのだろう。
他の男性ともつきあっている。それは男女の仲というものでもない、茶飲み友達のようになっている。茶飲み友だちならいいか色恋ざたが普通にあるから今の時代は怖い。男女ともに怖いのである。
落葉も写真がいろいろでているが色がみんな違っているのだ。60代になるとみんなやはり違っている。ただあんまりこの年になると容貌が第一の価値とならない、話して面白いとか何か別なものが価値になるのだ。料理がうまいとかなるとやはり得である。今は一人暮らしの老人も多くなるから教えると感謝されるだろう。友達にもなりやすい。


南相馬市立病院で知り合った大原の人は死んだけどふりかえって見ると喉を切開していてしゃべることができなかった
んでしまった。何か自分に大原のことをしゃべるためにしゃべれるようになり死んだのかとまで今になると思った。今度は本当にしゃべれなくなった、永遠に本当にしゃべれなくなったからだ。
人間は最後にしゃべることがある。姉は延々と戦争のことをしゃべりつづけた。それだけは忘れられなかったからだ。それもついに死んでしゃべることはなくなった。
人間はみんないつか語らぬ人となってしまう。
どんな人でもそうして最後に最後まで語ることがありそれが死んでから心に残るということがある。
なぜなら今になるともうその話も聞けなくなったからだ。

その最後はかなきものや蝉の声

盛んに鳴いた蝉の声のように終わってみればはかないものだったとなる。こうしてみんな人生をくりかえしてきたのである。
そういう自分もそういう最後は近づきつつあるのだ。

2013年12月05日

人間の運命はやはり運が作用しているのか? (病院で赤ん坊かとり違いられて貧乏の一生)


人間の運命はやはり運が作用しているのか?


(病院で赤ん坊がとり違いられて貧乏の一生)


60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡しました。


これも不運といえば不運であり病院の責任はまねがれられない。でももう金で過ぎた人生を返してくれと言って無理だろう。そもそも人間の時間は老人になると誰でも否応なく知らしめられる。時間は金で買えないしどんなことしても帰ってこない厳粛さがある。
そして人生は一度切りなのである。

もはやともかく病院で取り違いられても病院に責任があってもあとの祭りである。いくら金をもらっても時間はもどってこないし、時間だけは金で買えない、血のつながりがあった兄弟だと言っても実際は普通は兄弟として費やした時間の方が兄弟を決める。
一緒に過ごさなかったら家族という感覚が起きない、生みの親より育ての親の方が親なのが普通である。子供にしろ育てられなかったら親とは思えないし逆に親にしても子供として育てなければまた子供とも思えないのが普通である。

確かに血縁になると親と子になるといろんな面で性格でも似ている。でも愛情は別である。性格でもにていなくても愛情があって育てられ愛情を注いだから子供になる。
だから全然知らない人をこの人が親だと言っても兄弟だと言ってもそうはならないのが普通である。

この問題は財産がからんでいて複雑になっている。
財産かからむと真実が見えなくなるだ。
自分も身内の介護とか自分自身も病気になり辛酸をなめた。
その時何か口だけで愛情を盛んに言う遠い親戚がいたか全くの金目当てだった。
宝くじであたったりすると遠い知らない親戚すら寄ってくるというのは本当である。
いくら口で言ってもただ金が欲しいだけであり金もらえば関係ないとなる。
それが金がからんでいると見えなくなるのだ。
この問題にも確かに金がからんで複雑になっているのだ。


人間は結局は運の作用が大きい、病院で取り違いられたのは病院のミスでもただ運が悪かったとしか言いようがない、ある人は子供の時に捨てられたけど金持ちの人に拾われて恵まれて育ったとか昔も今もある話である。それはただ運が作用していたのである。
人権の運命はまさに運の作用が大きいのである。いくら努力しても運作用がなければ金持ちになれないということもある。そもそも金持ちは一代でなるのはむずかしい。
親の代で土地かあり家がありとなれば金もたまりやすいけど一から始めればたまりにくいのである。だから財産は豊かになるには三代くらい必要になるのだ。


大きく歴史をみてもモーゼが拾われたのはエジプトの貴族の女性だった。それは神が関与したということになっている。人間の運命は何か謎であり不可解である。だから神が関与したとか思うようになる。家系などもまたそういういい運を引き継ぐものがあり悪い運をカルマを引き継ぐ家系がある。時代的にも戦争の時生れた人は時代的最大の不運だった。才能ある人も発揮できず若くして死んだし肺病などでも死んだ。それは時代がそうだったからである。自分にしても体が弱くてもこれまで生きてこられたのは運であり時代が良かったからだとなる。時代のいい面の恩恵を受けたためなのである。


歴史的瞬間とういか時代を分けるもの運が作用している。信長だっていちかばちかの桶狭間の勝負に出て勝った。ただ何かの調子で天候の作用などでも負けることがあった。
天候も味方すれば運であり悪く作用すれば運が悪かったとなる。津浪でも生きた人と死んだ人がいてそれも運がいい人と悪かった人がいて生死を分けた。偶然に津浪の時家にいなかった人は助かったし偶然に遠くから海岸に来てそこに住んでいなくても津浪にあって死んだ人もいる。これは明らかに運が悪かったとなる。
ただ津浪の場合は警戒しないということが被害を大きくしたのだからすべてが運ではかたづけられない。ただそこでも運不運はあった。


ともかく貧乏で男の親が二歳で死んで生活保護になって育てられたというのは不運であった。でもその頃まだそうした貧乏の人は多かった。でもずいぶん不遇だったことは言える。自分の血縁にもそういうことがあった。一人は事故で死んだ。でもその不運はすべてが運ではなく借金したりと自分で招いた不運でもあった。自分だって恵まれてもある時、死ぬことが確実にありえた。アルバイトしたとき、工事現場で高い足場で仕事していて下に落ちるところだっ。ビルだから落ちたら確実に死んでいた。そのことをふりかえると今でも恐怖である。だからアルバイトでアンテナを建てる仕事していた人が死んだとかあった。屋根から落ちて死ぬ人は結構ある。だからアルバイトなどでそんな危険なことはやるべきではない、慣れた人はそうはならないのが普通だからである。
だから自分もいくら恵まれていてもやはり運があって生き残ったということはあるのだ。

いづれにしろその貧乏くじを引いてしまった人はもうその一生は過ごした時間にあり兄弟でも家族でも一緒に過ごした時間の中で育まれたのが家族でありまたその人の過ごした時間によってその人の一生も決まる。何に費やしたか誰と費やしたかその過ごした時間が人生なのである。故郷だったらそこに長く生活したから故郷でありその費やした時間が故郷となっている。いくら生れた場所でも他に移って過ごす時間が長くなればそこが故郷になる。だから時間ほど人生で大事なものはない、そして時間は誰でもある人が特別長く与えられたりしない、平等にしか与えられない、長生きしたものは確かに時間を長くもちえたのだからそれだけ生きたともなる。でも時間を特別長くをすることはできない、誰も200歳までは生きられないからだ。いくら金があっても何かに誰かと費やす時間は限られているのだ。だからいくら貧乏でもその一生はその貧乏で暮らした人生がそれなりの人生だったとなってしまう。それをとりかえそうとしてもできない、時間はとりもどせないからである。


ただ人間はすべてが生まれとか育った環境とかで決められるということもない、信長だって圧倒的な多数の敵を前にしていちかばちかの賭をしなかったらあそこまで成らなかった。それは普通の平凡な人でもそういうことが必ずある。何か人生の岐路にたたされる。
その時いちかはちかの決断をしてそれが成功につながったという経験をもっている人はかなりいる。経営者などには多いだろう。そこにも運が作用しているのである。

posted by 老鶯 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

震災死者数の関連死の数字 (原発事故避難地域はやはり多かった)

 

震災死者数の関連死の数字

(原発事故避難地域はやはり多かった)

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現代は数字社会である。あらゆるものが数字で現され数字で物事も決められる。数字で統計でも株価が予測されたりする。現代は常に数字に追われる時代なのである。
民主主義でも選挙で左右されるから一票としての数が問題になる。
あらゆるものが数字として判断される。
アメリカの失業率とかもそうであり実際は表に現れない数字があるから本当に失業率が判定できないと言う人もいる。
統計には必ず表に現れないものがありそこに数字の詐欺が起きてくる。

放射能なんか数字でしかわからないからこれも数字に追われている。
放射能は本当に数字でしかわからないから数字で感じるほかないのだから嫌になる。
極端な数学の世界なのである。数字とか数学が苦手だから何かなじめない、
でも毎日数字を見比べているのがこの辺の現実なのである。


今日の福島民報にでていたのが震災関連のことでありこれも数字だった。最近は新聞をとるのをやめたので見ていなかったが特集していたので買った。
この表で注目したのが震災の関連死だった。



南相馬市で525人が津浪で死に437人が関連死している。111人が死亡届けだしているがこれは行方不明なのだろう。
名前が届けていても死体がでてこない、南相馬市か一番多いのはどうしてなのかとも思う。
こんなに関連死が多く行方不明者がいたのか?
地域的には鹿島区の海老村とか烏崎村とか原町区の萱浜でも死者が多かった。
しかし不思議なのは相馬市は関連死が25人で死亡届が19人で少ない。
これはやはり原発事故の避難に際して死んだものなのだろうか?
相馬市と新地とかは避難命令は出ていないからだ。

知人に聞いた話では親戚で関連死した人があった。
関連死は病人や介護されている高齢者などが多かった。
自分も母親を介護しているから避難したら確実に死んでいた。
もう動けないし気力もなくなっていた。
家にいたことで死なずにすんだのである。
介護している人は大熊辺りでも最後まで残っていたことでもわかる。
ここで死にたいんだといっていたのである。



このことは数字を見れば歴然としている。楢葉町で震災で津浪で死んだ人は11人でも90人が関連死であり
富岡町でも11人しか津浪の被害はなく203人が関連死だった。
浪江でも149人死んでも306人が関連死だった。
いわき市はなぜ関連死が多いのかわからない、ここは避難区域ではなかったからだ。

ただ仮設などに入って高齢者が弱り死んだことも考えられる。
この数字ではっきりしていることは原発避難区域は関連死が多いのである。




双葉町か大熊では病院に置き去りにされたとか問題になった。実際はそうではなかった。東京電力福島第1原発事故からの避難中に双葉病院(福島県大熊町)の患者ら50人が死亡した問題で、同病院の入所者ら4人の遺族が10日、東京電力を相手取り、計約1億3千万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。


 東京電力福島第一原発事故に伴う避難で体調を崩して亡くなったとして、大熊町の双葉病院の男性患者=当時(62)=の遺族が東電を相手取り損害賠償を求めた訴訟の弁論準備手続きは22日、東京地裁で行われた。原告側は、男性患者が避難後に入院した病院の診断書などを提出した。

 次回は1月24日午前11時45分から開かれる。
 訴状によると、男性患者は平成23年3月16日に自衛隊に救助された。その後、避難先を転々として、翌月18日に福島市内の病院で死亡したとしている。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/11/post_8655.html
(2013/11/23 11:26カテゴリー:原発事故関連死)


原発事故関連死 いわきの震災関連死 認定訴訟 市側、争う姿勢 「避難と自殺 関連性ない」 福島地裁

女性と夫は震災後の一昨年3月15日、いわき市から郡山市に避難した。しかし、夫は断水や余震などで精神的に不安定になり、うつ病が悪化し、昨年5月に自殺した。女性はいわき市に震災関連死の認定申請をしたが、同年9月に不認定とされた。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2013/09/post_8175.html




関連死はいろいろあり原発事故のための避難でストレスで病気を進行させたということはある。そういう話を二人ほど避難者から聞いたから結構この数字はオーバーではないだろう。死期を早めたことは確かである。ただ双葉病院の場合、問題は複雑であり病院にすべて落ち度があるとはならない。


避難指示がだされた地域は関連死が多かった。それは南相馬市でも30キロ内の原町区、小高区がそうだった。小高区は避難命令でありいち早く避難して鹿島の体育館にも避難した人がいた。浪江から相馬市にも避難する人もいた。まず近くに避難したのである。
だから線量の高い津島や飯館村に避難してかかって被爆したのである。

この時国からの指示は東電からの指示は何もなく浪江では町で独自に判断して津島の線量の高いところに避難したのである。
一応スピーディで放射線の分布は計られていたしそれは正確だった。でもそれが知らされることもなかった。
政府と東電は全く事故が起きない「安全神話」を作っていたのだから事故対策はしていなかったのである。


おそらく政府も東電も戦争の時と同じように皇国神話、日本は神の国だから負けないという宗教のような信念におちいっていた。それはオームであれ創価であれカルト宗教が拝んでいればすべてがかなうという神話になっていた。オームを批判するが国も東電もオームになっていたことの驚きである。宗教なら科学的でないと批判されたりするが科学者も何か安全神話を作る大きな力となっていた。御用学者がそうである。
安全だ安全だと外に向かって宗教のように唱えている時安全になると思っていたのかもしれない、それは題目を毎日必死に唱えていると同じだった。
それは戦争に勝つ勝つ絶対に負けないと叫んでいたのと同じだった。
そこに疑問をさしはさむことはマスコミも誰も許されなかった。
だから原発に疑問を安全でないと言うことはタブー化していたのである。
そのタブー化が大きな事故に災厄につながった。


地元の人もまた安全神話の先兵と化していた。なぜならその利益によって町の財政が成り立つとなると反対派は口を封じられる。今でこそ反対しているが本当に地元ではこの辺では原発に反対すると危険な状態に陥っていたかもしれない、みんな金になる、利益になるというとき、それに反対すれば村八分にされて住んでいられなくなったろう。
それほどの圧力がこの辺にはあったのである。
今でもなぜ東電や政府にもっと抗議しないのかというとき東電には世話になったとかそういう人が多いからそうなる。現実にそうだったのである。
人間なんであれ飯を食わせてもらうところが一番大事でありそこに命さえかけるだろう。だから今は会社がそういう場所だから会社のために命もささげる。企業戦士という言葉が生れたのもそのためである。


ともかく避難の過程でどういうふうに死んで行ったかは個々に違っているからわからない、ただ数字が如実に語るということはある。
この辺の火力発電所で事故後に5000人働いていたということには驚いた。
5000人かとなるとその数は凄いものだと思った。
その五〇〇〇人かがいなくなったらやはり影響が大きいから仮設の食堂にも人が来なくなったというのもわかる。瓦礫の処理でもその数は膨大なものだったことがわかる。


いつれにしろ人間個々人が接する数は少ないからこうして大きな数が出てくると驚く、でも実際に関連死でもその場にたちあった人は少ない、だからただ数だけから判断する。
そこにリアル性が現実感が欠けてくるのである。
戦争で三百万人死んだと言ってもそれが何なのだとなる。実際にそれをリアルに感じるには写真ででていたニューギアで掘り出された日本人兵士の骸骨の山でもふれれば怖いように感じるだろう。数字だけからは怖さを感じない、無機的なものとなる。
文明は数字によって何か人間的なものか剥奪されている。それがナチスのガス室の大量殺戮だったと言われる。誇張にしても数字だけからは何か人間の真実は把握できないのである。だから現代は常に数字に追われ数字にだまされるということが日常的に起きているのだ。人間社会は数字ですべて把握できないものがある。血の通った人間は数字では現せないのである。数字化すると人間は無機質になり非人間化する。


そして数字は今や必ず権力と数字の圧力で社会が動く、創価が八〇〇万票だとか幸福の科学がいくらの会員だとかすべ数字で判断される。実際活動している人はもしかしたら一〇万人にもみたない、でも数で判断されるのである。
ただ関連死はこの地に大きな怨念として残る。故郷を失ったものたちの嘆きが残る。
その中には人間だけでない無残な動物の家畜の餓死死とか豚の共食いとか地獄が本当にあったのだ。それもまた政府や東電の罪だったから罪深いとなるが幹部も一向に責任をとらない、誰一人として責任をとるものはいない、ただ怨念かがこの地に残ってしまったのである。

posted by 老鶯 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年12月06日

時雨(鹿島区の横手の道は細いから街道だった)


時雨(鹿島区の横手の道は細いから街道だった)

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二三滴顔に時雨や旧街道

一区画菜っ葉をぬらす時雨かな
葉ボタンにニチニチ草や駅舎かな
冬日さし古木の影や旧街道
栃窪へ道標一つ年暮れむ
 

今日は写真とらなかった。明日とってみよう。横手辺りの道は細い、六号線から入ったところで浜街道である。六号線は三〇年以上になっていても新しい、浜街道は江戸時代からつづいているし実際その道筋は変わっていないのだ。
ただそのことをあまり意識する人はいない、でも六号線から横手に入る踏み切りがあり横手古墳がある道はいつも細い、自転車で通れない、浜街道は全般的に細い、あそこは自転車で通る道がないのだ。日立木辺りもそうである。その狭さが道が変わらないことを示しているのだ。

今日は確かに時雨が二三滴ぼつりと顔をぬらした。ただそれきりで終わった。

時雨とかなると六号線は向いていない、昔の街道は向いている。もし歩いていた人がいたら何ともいえぬ情緒を感じたろう。六号線は歩いていても歩くことが何かあっていないのだ。六号線は歩く道ではない、人間が歩くというときやはり浮世絵のような姿なのである。まさに江戸時代は歩くことが風景とマッチしていたのである。


横手から栃窪への道標があくけどあれに注目する人はまれだろう。昔だったら栃窪でも大原でも相当に遠い距離であり今の距離感覚とは違っていた。村々で自給自足でありなかなか同じ町でも町内にでてくることが難儀だったろう。車社会になるとそういう感覚はない、でも自転車しかないものにはやはりそれなりに遠いとなる。


最近相馬市にすら何カ月か行っていない、なんか知り合った人が小さな畑を作っている。その畑は小さな畑でありそこをいつも見て通っている。その女性はもともと農家の出だから農業に詳しい。町のことにもくわしい。
農業というのは実際自分で野菜一つでも土をいじり作ってみないとわからないだろう。
実感がでてこないのである。だから農家の人とじかに接すると身近になる。

今日時雨たなと思ったらあそこの知っている畑の菜っ葉にも時雨がふったとなる。
その女性は特別苦労していて皺より一〇歳はふけている。
こうした生活感覚がでるのはそういう人とつきあうことでもでてくる。

時雨を風流にしたが農業は天候と切り離せずあり農業から実際は季語も生れて文化となっていた。芸術の基盤は農業にあったのである。

ただ農家に嫁いだ女性は全く農家の人ととは見えない。野菜一つも作っているようにも見えない、田んぼも人にまかせているとなると農家に嫁いでも会社員なのである。
そういう人はきれいな身なりをしてもなにか生活感がないのである。
一番生活感があるのはやはり農家の人であり漁師だったのである。


やはり浜街道をたどると昔を理屈なしで感じる。だからその道がとぎれたことが残念なのである。六号線は旅の道ではない、移動の道である。浜街道は歴史の道であり旅の道である。だから何度行っても感じるものが違うのである。それが歴史ということかもしれない、その道は歩くのにふさわしかったのである。

2013年12月07日

信長の桶狭間の勝利の原因は-戦争の勝利には共通のものがある (地の利、天の時、人の和が作用した-原発事故にも作用した)


信長の桶狭間の勝利の原因は-戦争の勝利には共通のものがある


(地の利、天の時、人の和が作用した-原発事故にも作用した)

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●勝利の主な要因(地の利が働いた)


信長は隅々まで知り得ている地の利を生かして合理的に決戦場を選択し、
機動力を生かして攪乱戦闘に持ちもむという
これまた合理的な戦いを推し進めたが故の勝利だったようです。

事前の情報収集には万全を期していた。「武功夜話」によれば、信長は細作飛人、すなわちスパイというか情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていたということだ。蜂須賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちがこれである
http://homepage1.nifty.com/rekisi-iv/nobunaga/okahazamasuiri.htm

川並衆が歴史の表舞台に登場してくるのは、木下藤吉郎が信長の命で、東美濃調略に着手した頃からである 。永禄七年(1564)藤吉郎は川並衆に対して信長に従属することを説き、東美濃調略に協力してくれることを依頼した。こうして、蜂須賀小六は秀吉の手に属し、かれは美濃の郷士に知り合いも多く、藤吉郎の活動を大いに援けた
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tubouti.html

豪雨が織田方から今川方に向かって吹きつけたことは、「信長公記」の記載のとおりである。織田の兵士たちは、皆、”熱田神宮の神戦(かみいくさ)か”と言って非常に勇気付けられたという。
、急な集中暴風雨さえなければ、駿河勢は信長の突撃などは軽く一蹴することができたとも思われます。

ここが詳しい
http://kagiya.rakurakuhp.net/i_206033.htm

『孫子・地形篇』には「隘なる形には、我まずこれに居らば必ずこれを盈(み)たしてもって敵を待つ。もし敵まずこれに居り、盈つればすなわち従うことなかれ、盈たざればすなわちこれに従え」


信長が桶狭間で勝利したのはいろいろ分析されている。自分は詳しく調べていない、でも歴史は地理だということを書いてきた。地理がわかれば日本史でも世界史でもわかると書いてきた。だから勝利の一つの大きな要因が地の利だった。
ただ桶狭間ではその地の利を利用したのが敵側だったとも言われる。それは単純な構図ではなかった。今川軍は見晴らしのいい山の上に布陣していた。だから信長が地の利を知って奇襲して勝ったというものでもない。ただ明かに戦いの帰趨は地の利が優位に働いた方に味方した。それから雨がふったというのも事実でもあり雷雨でありこれまでの常識ではそうした雷雨には戦いをしないとなっていた。だから今川軍は油断していた。

地の利と天の時、天候が左右して信長軍に有利に働いたことは確かである。
それと人の和もそうである。信長軍はすでに兵農分離して専門の軍隊を編成した小部隊でも機動力があった。国人組織の今までの戦国大名とは違っていた。つまり人の和の新しい軍隊組織になっていた。
この軍隊組織は明治維新の時にもあった。近代的軍隊組織がこれまでの徳川政権の旧態なものと違って機動力があり徳川軍にはなかった。戦国時代も明治維新という大変革時代とにていた。侍組織か西南戦争で国民軍に負けたことでもわかる。
明治維新はそもそも藩主体の人の和から国民の和に変換したのだから大変換だったのである。
人の和というのは人がどういうふうに結合するかということにもあった。
たから常に地の利、天の時、人の和は変わらない原理なのである。

●技術もその国の地の利が関係していた


技術というのも国の地理とか風土とかか関係ないもの、科学技術はそう見える。例えば数学などは科学でも1+1=2であり世界中どこでもその原理は変わらない、化学式でもそうである。だから科学は普遍的なものになりやすい、それでも科学技術はその国の地理と風土に関係していた。風車が発明されたのは中東である。それは砂漠のようなところでは風が吹きやすいからそうなる。山などにさえきられないからそうなる。
日本ではトンネルの技術が発達したのもわかる。いたるところ山だからである。その必要性から発明が必要の母だから技術も生れる。
前にも買ったヤマハの電動自転車は急な坂でも上ることに驚いた。これは世界ではなかなかないものかもしれない、それも日本では坂が多いから坂に強いものが望まれるからその技術も発達する。自転車は平坦な土地が多いヨーロパで発達したというのもわかる。
オランダなどは坂がないのである。

その国と風土が作られるのはその地勢とか地理とか風土が密接に関係している。だからその国にあったその国でとれるものを食べていた方が体にはいいわけである。
日本は魚介類中心だからその方がなるべく良かった。欧米人の不思議は肉を消化する酵素が特別に出るということ自体不思議である。日本人は腸が長いという時、穀物類の消化には牛のようにはいいとなっている。体もその土地と密接に関係して作られてきたのである。だからその土地や風土と地理と離れて人もありえないのである。
だから歴史をみるとモンゴルが船で攻めてきて勝ったのも海が防衛線となり台風が来てモンゴルの船が沈んだとかが原因で勝った。それは日本が神の国だからではない、そういう地理的条件と天候に左右されるものだったのである。

東北が辺境として長くありつづけたのも地の利である。伊達政宗が活躍したのは地の利にあったし宮城県の仙台が東北の中心になっているのもそうである。会津が中心になりえないのはそれは戦国時代からそうでありどうしても地の利が悪いからである。常に地の利に影響されるのが人間社会なのである。

●原発事故も地の利、天の時、人の和が影響した
http://musubu2.sblo.jp/article/54567694.html

ここに書いたけど信長の勝利も地の利が天の時も働いた。なぜなら雨がふり天候が信長に味方したからだ。ただ周到に計画して合理的計算で勝ったと言ってももやはり地の利とか天候はどう左右するか決戦の場でしかわからない、ただそこには勝利の方程式のようなものがあった。


●地の利
●油断
●指導者の優劣


これらが影響するのは戦争ではどこでも同じようになる。地の利がないと勝算がなかなかたてられない゛今川軍はいくら大軍でも後方支援として食料とか運ぶために多大の労力が必要となる。今川軍が大軍になったのはそのためである。戦争にはいろいろな要素が働いている。だからどうして勝ち負けたのかということはなかなか簡単には判別しにくい。
だから運であり神が味方したとかまでなる。

今川義元は別に愚将でもなかった。ただ旧弊な時代の子であり信長軍は明治維新のように近代化した軍隊組織だったとか進んでいた。それはただ運というだけではない、運があったにしても運を呼び込むものがないと勝てない、だから雨が降ったから勝った、すべてが偶然だったとはならない、奇跡でも何もしないと起こらない、棚からぼた餅みたいには起こらない、信長軍は周到に準備して備えていたからこそ地の利と天候も味方して勝ったとなる。何か奇跡のうよなことが起こるのは日頃血のにじみでるような努力を重ねていれば起こる。何もしないでいたら何も起こらない、最初から何もしなければ何も起こらないのである。

指導者の優劣でも評定をと桶狭間の前で家来が騒いでも評定をいくらしても勝てない、なぜならそんな危急の場合、多数決で大事を決められるのか?つまり誰かに決断をゆだねる方が勝つことがある。もちろん負けることがある。でも評定を議論をいくらしたって埒があかないのである。そういうことが津浪や原発事故の処理で市長町に起きた。

いろいろなことを議論しても何もできない、南相馬市町は義援金など金があってもいまだに分配もされないし使っていないとか批判される。無能な市長だから代えるべきだと騒いでいる。それは相馬市町でもそうである。誰かが決断してやらない限り何もできない、進まないのである。でもその決断して実行するのを決めるのも選挙だからまた同じ結果になるかせしれない、選挙とは桶狭間の評定であり誰を大将にするかともめていたらいつまでたっても決断できず滅亡してしまうのである。

東北電視力は地の利があった。津浪の恐ろしさを考慮していた。それも指揮官の副社長が10メートルではたりないと15メートルにして辛うじて助かったのである。
原発は戦争と同じだと言っていた人がいた。確かに地の利を理解して天の時もしる。
天の時とは天候や自然現象であり津浪もその中に入っていた。人の和とはやはり一致結束される力が必要だった。ただ原発を戦争に値するなどと考えた人はいないだろう。
原発の技術をになう人は細分化されているからそんなことを考えない、ここのボルトをしめればいい、ここの部品を作ればいいという考えしかない、地の利とか総合的戦略的に考える人はいなかった。

アメリカはやはり戦争を常時している国だからこうした巨大技術の管理には向いていた。なぜならアメリカの方が地震とかを警戒していた。だからほとんどの原発は地震の少ない東側に作っていたのである。それから原発内の安全管理も日本より厳重だった。
原発事故は日本の第二の敗戦だというときまさに一部分のことではなく原発が総合的様々な要因で事故が起きたからである。
アメリカの戦争に負けたのもアメリカをあまく見たとか油断があり指揮系統の乱れがあり人の和が乱れ地の利も不利に働いた。海を制せられて逆に窮地に陥った。それは信長の桶狭間と同じである。かえってアメリカの方が海を味方にしたのである。
指揮も実際はアメリカの方が高く日本は上官と下士官が分裂していたとか実際は人の和も強くなかったのである。だから戦争とかそれに類する総合的な戦いでは技術だけでは勝てない、総合的戦略が必要になる。それが日本では苦手だったのである。

 
 
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2013年12月08日

人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する (福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)


人間は自分の住んでいる場所を基点に思考する

(福島県は地理的一体感がもてない広さがある-相馬より見た視点)

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地理的感覚というのは一番わかりにくものだろう。地図見ても立体地図を見てもわからない、高低差とかいろいろな面で地理はわからない、やはり一番わかるのは徒歩感覚だろう。車感覚でもわからないだろう。ただ現代の地理感覚は交通に左右されている。
東京から飛行機で何時間と計れば中国が三時間となると中国が国内より近くなる。
日本より外国を身近に感じる人も多いのが現代である。
中国人の距離感覚は日本人の十倍くらいの感覚になるとか遠い所に行くのが抵抗がない、大陸の距離感覚は日本の島国の距離感覚とは違っている。
日本は中国と戦争になった時その広大な大陸感覚に適合できなかったろう。
もう戦略もたてられないほど途方もない広さだった。
広大な大陸にのみこまれるような感覚になっただろう。
まず世界は一二回旅行したくらいで地理はわからない、それだけ地球は広い。


結局人間の地理感覚は自分の住んでいる場所か基点となり思考しているのだ。
これたけは変えることはできない、地理の制約を越えることはできない、
そこに人間が理解しえない壁が生れる。
そして地球だけではない、自分の住んでいる狭い場所でもまた地理感覚が違っている。
南相馬市でもここは地理感覚では国見山からみると確かに鹿島区原町区小高区が視界に入り原町句か中心になる。もともと原町市が中心だった。
相馬市ははずれている。飯館村が南相馬市に合併しなかったの地理的要因が大きかった。飯館村は山国であり南相馬市と通じていても別個の地域だった。


そして福島県となると大きな県であり地理的感覚として一体感をもつことがむずかしいと書いてきた。江戸時代から相馬藩は伊達と争ってきたけどまた伊達藩と接しているから伊達藩と交流が深かった。今でも福島市より仙台に通勤している人さえいたから仙台が身近である。常磐線が通じているから交通的にも身近である。
交通に左右されるという時、山形県は仙台の延長として仙山線で通じるという距離感覚になるから意外と会津より近いともなる。また蔵王が見えるから山形県の方が近く感じる。交通の影響でそうなる。会津は交通でも岩沼でのりかえ郡山でのりかえと遠いのである。ただもし新幹線が会津まで通ったりすると近いとなる。

いわき方面は前の平駅から仙台の方を望むと結構遠いと感じる。いわきからは茨城県や
東京が近くなる。現実にいわきとまで常磐線の東京までの通勤電車が八両編成ででる。
その電車に乗って東京まで行ったことがある。
この感覚は勿来の関が東北のもう一つの入り口だったから古代から変わっていないのかもしれない、


吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな 源義家


この歌は何か白河関とは趣が違っている。海に面しているからなのか?
桜前線ではいわきが一番早く咲くだろう。中通りや会津は山が関係して遅くなるだろう。いわきが咲けばすぐに相馬でも咲く、白河関は
「卯の花を かざしに関の 晴着かな (曽良)」とは対象的である。海の感覚ではない山の感覚である。
実際に白河関は山道であった。心細い山の細道だった。今の感覚とはあまりにも違っていた。

相馬では磐城太田(いわきおおた)駅とか磐城落合とか葛尾(かつろう)村のバス停にあった。古代では磐城の国だったことも地理的にわかる。福島県が磐城県があり二本松県があり会津県があった。これが福島県のハマ、ナカ、アイヅの区分けであり地理的要件と一致していたのである。福島県になったとき大きくなりすぎたのである。
だから会津となると今でも遠くわかりにくいし文化的一体感がもてない、相馬藩が水戸の天狗党に入ったりした藩士がいていち早く尊皇になったのは地理的に水戸が近いからである。会津とは阿武隈高原など山に阻まれて交流しにくい場所だった。

郡山で相馬藩士と会津藩士が争ったというのも郡山がそうした人が合流する場所だったことは江戸時代からそうたったからである。

人間の世界観には地理か影響している。人間は自分の住んでいる場所が基点となりいつも思考しているのだ。相馬藩内でもさらにその住んだ場所によって地理的感覚は違ってくる。鹿島区だと原町区に一番近いか相馬市にも近いからその中間点にあり経済的にも左右される。大原とか栃窪とか大原などは山側であり僻地になる。
原発のあった地域はちょうど磐城藩と相馬藩が争った地域だった。夜の森とは余の森と相馬の殿様が言って領有権を主張した地域だったのである。
はま側通ると浪江に入る所に「境の松」があったのも浪江は標葉郷で相馬氏と争い相馬藩に編入された地域であった。野馬追いに標葉郷の子孫のものが出ている。


人間の感覚は思想でも地理的感覚に制約を受ける。地政学的な視点から離れられないだろう。会津には会津の中心感覚が生れる。特に山国の文化はわかりにくい、京都のように山に囲まれた感覚は日本ではどこでもあま。海側に住んでいると海から太陽でも月でも昇ってくる。しかし山国では山から昇り山に沈んでゆく、この感覚がわかりにくいのだ。
日本海側では山から太陽が昇り日本海に沈んでゆく感覚はまたさらに違っているのだ。
夕日のなかに海岸線がある情景は太平洋側とまるで違った感覚になる。